2011年4月3日 神の前に出るために

(2月22日のクライストチャーチ地震後、現在臨時礼拝場所で集っているため、メッセージ録音器具がありません。メッセージのあらすじは以下のとおりです。) 説教あらすじ「神の前に出るために」(03/04/2011) ◎[ヨハネ1:43-51] *この箇所から、3つのことを学ぶことができる。 ① 神の見方と人の見方は違う[44節] ◆イエスが選んだ弟子たちは、無学な田舎者が多かった。[使徒4:13] ・神の前に、家柄や学歴などは問題ではない。[Ⅰサムエル16:7] ◆ナタナエルは、イエスがメシアだとは信じられなかった。[46節] ・これは当時の指導者たちの間でも同じ。[ヨハネ7:50-52] ◆イエスの目には、たとえ指導者たちであっても「救いを必要としている罪人」であり、姦淫の女でさ えも「自分の命を引き替えにしても惜しくない存在」。 *私たちもこの方との「個人的な出会い」を通して、彼と同じ目で人々を見られるようになろう。 ② イエスの心は「神を畏れ敬う者」に引き寄せられる[47-48節] *この「いちじくの木の下」で何があったかは分からないが… ◆『ほんとうのイスラエル人』という描写から予測できる「ナタナエルの人物像」[ルカ2:25] ・母国イスラエルの回復を願い、神の名がおとしめられているのを嘆いていた人物。 ◆日本の現状を見て、私たちにできることは「何故このようなことが起こったのか?」を追求すること ではなく、「身を低くして、主のあわれみに訴えかける」こと。[Ⅱ歴代誌7:14] ③ イエスは、ご自身を求める者に報いてくださる[マタイ6:6] ◆イエスは私たちの「隠れた小さな祈り」に応えてくださると共に、私たちには思いもよらないような 大いなるみわざをも備えておられる。[50節] ・神にとっては「応えられない大きすぎる祈り」も「見逃してしまうような小さすぎる祈り」もない。 ★神を欺くことも、神の前で自分を取り繕うこともできない。ありのままで神の前に出、心を注ぎ出して祈ろう。もし心に責められることがあるなら、「イエス・キリストの十字架による和解」を受け入れよう。 考えてみましょう ・あなたが「神と同じ視点」を持つことを妨げているものは何ですか? ・日本のためにとりなすために、私たちはどのような心で神の御前に出るべきでしょうか?

2011年3月20日 神の慰め

(2月22日のクライストチャーチ地震後、現在臨時礼拝場所で集っているため、メッセージ録音器具がありません。メッセージのあらすじは以下のとおりです。) 説教あらすじ「神の慰め」(20/03/2011) [Ⅱコリント1:3-5,8-10] *サタンは休まず働いている。彼はいつもウソつき[ヨハネ8:44]。彼の代表的な2つのウソは… ①「あなたは立派で強い」[箴言16:18]  ②「あなたはダメ人間」[ローマ14:4] ◎神が愛であるなら、何故私たちがこのような試練に会うことを許されるのか? ◆完全な答えはないが、次の2つのことは言える ①自分自身ではなく、神により頼む者とされるため [9節] ・神なしに立ち続けることのできる人は、誰もいない。 ・神が立たせることのできない人は、誰もいない。 *イエスはいつも私たちの脇に立っておられる。そして彼の願いは、私たちも彼と共に立つこと。 (「盲導犬・ハッピー」の話) *イエスにとっては、あなたと共に生きることこそ喜び。あなたの能力や、周囲の人がどう思うか などは問題ではない。ただあなたのことだけを見つめておられる。あなたはそれを『見る』こと はできないが、その現実を『信じる』ことはできる。 ②神からの『真の慰め』を体験し、他の人々を慰める者とされるため [4節] *これは何も「あなた自身が強くて立派な者とされて、周囲の人々を助けることができるようにな る」ということではなく、あなたの内に働く「神との生きた優しい関係」が、あなたと関わる人々 を癒していく、ということ。 (「盲導犬・ハッピー」の話の続き) ◆あなた個人が人々を癒すのでも、神ご自身が勝手になさるのでもない。「あなたとイエスとの 生きた関係」を人々が見るとき、それが人々の癒しのきっかけとなっていく。 ★イエスは今日もあなたと共に立たれる。たとえ私たちが不真実でも、彼はいつも真実を尽くされる。 あなたには見えなくても、イエスの目はいつもあなたを見つめている。 イエスに頼り、彼と共に人々の所へと出て行こう! 考えてみましょう ・神は何故、私たちが試練に会うことを許されるのでしょう? ・私たちはどのようにして、人々の慰めのために用いられていくのですか?

(11) 愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。

中学入学を目前に控えたある少年が自殺しました。彼はちょっぴり『太りすぎ』だったので、学校で他の子たちから嘲笑されるのが恐ろしかったのです。 人前で恥をかかされたり、人格を傷つけられたりする経験ほど、心の痛むことはありません。逆を言えば「ありのままを受け入れ、愛してもらうこと」ほど、力づけられる経験もない、ということです。 私たちはしばしば、よく知りもしない人のことを、『見かけ』だけで判断したり、拒絶したりします。『同性愛者』に対し、「友になろう」ともせず、「あなたは間違っている!」と批判します。『離別された者』の事情を聞く前に、「どうして離婚なんかしたの!」と怒鳴ります。「孤児を助ける」という覚悟もなしに、「堕胎は不法だ!」と決めつけます。 イエスの弟子たちが「生まれつき目の見えない男」と出会ったとき、彼らはイエスにこう尋ねました。「この人が盲人に生まれついたのは、彼自身の罪のせいですか?それとも彼の親の罪のせいですか?」これに対し、イエスは次のように答えます。「そのどちらでもない。神のみわざが彼の上に現されるためだ。」と。 一見「標準から外れてしまっている」ように見える人々や事柄、それは『批判の対象』ではなく「『神の愛のわざ』が行われるための機会」にすぎません。そして神はそのみわざを現すために、その愛を『運ぶための器(私たちの心)』を必要としているのです。あなたはその準備ができていますか?