2011年7月24日 しるしは、『原因』か?『結果』か?

2011/09/16

(今回はオーディオがありませんのであしからず。)

説教あらすじ 「しるしは、『原因』か?『結果』か?」 (24/07/2011)

◎[ヨハネ4:43-54]

*物事には『原因』がつきもの。その『原因』を無視して『結果』だけを追いかけるのは愚か。

[43-45節]  イエスはサマリヤから、故郷のガリラヤへ行かれた。

   ・44節と45節のつながりがおかしい。これは、故郷の人々がイエスを「歓迎した理由」に原因がある。それは、

「イエスがエルサレムで行っていたしるしを見たい!」という好奇心。イエスはしるしを求めてご自身に近づく

者」を喜ばない。 ➝ [ヨハネ2:23-24]

大切なポイント:イエスの行う『しるし(力あるわざ)は、私たちの信仰にとって『原因』なのか『結果』なのか

   ①もし、しるしが、私たちの信仰を呼び起こす『原因』であるなら、私たちは終始「しるし(わざ)」ばかりを追い求

める者となる。

②しかし、もし、しるしが『結果』としたら、私たちはその『原因』を探る者となり、それが「神が共におられるこ

と」だと見出すことができる。[ヨハネ10:37-38]

・イエスが地上で多くのしるしを行われたのは、それに遭遇した人々に、「わざそのもの」ではなく、

その源である方(父なる神)を求めさせるため。

[46-49節]  この王室の役人は『しるし』に執着していた。

・彼にとっては「イエスがどなたであるか?」はどうでも良かった。言い換えるなら、息子の病気を治してくれる

なら、相手は悪霊でも何でも良かった

・「しるし(現象)」にすっかり心を奪われていたこの役人を、イエスは「目に見えないもの(ことば)」だけを与えて

追い返した。[50節] それはこの役人が「しるし」ではなく、「その源である方」に心を開く者とされるため。

◆ では「みわざを求める故に神に近づくこと」は、悪いことなのか?

    ➝ 理由がどうであれ「神に近づくこと」は良いこと。問題は、その人が「本当に神ご自身を神としている」のか

それとも、「みわざ」が偶像になってしまっているのか。 その判別は神がなさる。

・きっかけがどうであれ、その人が「神に近づいて」いくなら、神はその人の心に働きかけることができる。

◆ 私たちの神は『良い父』。恵みと愛とに満ちておられる。それ故「みわざに固執する者」の祈りにさえも応えてくだ

さる。しかし、イエスが真に求めておられるのは「しるしの有無」に関わらず、イエスのことばに耳を傾け、彼と

共に働いておられる、力と愛に満ちた『まことの父』に、私たちの心がしっかりとつなげられていくこと。そのよう

に歩む者の人生には、「神の力あるわざ」は結果としてついてくる。

考えてみましょう

・「しるし(神の力あるわざ)を『原因』とする信仰」と「『結果』とする信仰」とでは、どのような違いがありますか?

・あなたの、「神の力あるわざ」に対する信仰的姿勢は、どのようなものですか?

{ 0 comments… add one now }

Leave a Comment

Previous post:

Next post: