2012年7月22日 「みことばは成就する」

メッセージをダウンロードして聴く  説教あらすじ      「みことばは成就する」   (22/07/2012) [ヨハネ12: 12-19]  ◆「しゅろ」はイスラエルの国家的行事によく用いられる。➝ イエスは『国家的英雄』として華々しく迎えられた。 ◆私たちはもっと華々しくイエスを礼拝すべき。彼はもはや単なる『国家的英雄』ではなく、死を打ち破りよみがえ られた、すべての権威と力とに満ちたお方であり、生きとし生けるものの口によってほめたたえられるべきお方。 *ただ、この場面に1つだけそぐわないものがある。=「ろばの子に乗って」[14-15節](ゼカリヤ書の預言の成就)  ・この「ろばの子」を手に入れる過程でも、イエスが語られたことがそのまま成就した。[ルカ19:29-35] ◎このことは何を意味するのか?➝ 神は、ご自身の栄光を『見栄え(見せかけ)』によって現されるのではなく、 「みことば(約束)を成就する」という形でこそ現される。    *神は私たちの『憧れ』ではなく、『信頼』を勝ち得たい。だから、ご自身に信頼するものを決して裏切らない。 ◆神は語りかける。 ・神は聖書を通して、また聖霊によって私たちに語りかけ、私たちを『信仰による従順』へと招かれる。 それは、その祝福(神の同労者としての特権)にあずからせるため。[マルコ16:20] ◆[Ⅰサムエル15:21-22] - 形だけの礼拝やささげ物は、神を喜ばせることはできない。 ☆神は私たちの「パフォーマンス」を求めているのではなく、私たちの『心』(私たち自身)を求めておられる。   Outline of the sermon    “God fulfills what He said.”   (22/07/2012) [John 12: 12-19]  ◆「Palm tree」 is often used for national events in Israel. ➝ Read more…

2012年7月15日 「神の前によみがえった者」

メッセージをダウンロードして聴く  説教あらすじ      「神の前によみがえった者」   (15/07/2012) [ヨハネ12: 9-11]  *祭司長たちはラザロまでも殺そうと考えた。何故? ➝ 彼の証の故に人々が自分たちから去って行き、イエスを信じるようになったから。 ◆この出来事の「霊的な意味」は? 1 ラザロの証しとは、「死んでいた者がよみがえった!」ということ。   ・私たちも同様に、神の前によみがえらされた。[ルカ15:24]  そして天の御国で喜びが湧き起こった。[ルカ15:10] 2 ラザロの「よみがえりの証」の故に、罪と罪責感に捕らわれていた人々が解放されてイエスの許に来る。   ・同様に、悪魔の許に捕らえられている人々が、私たちの「よみがえりの証」によって解放される。[ローマ10:14]   *悪魔は私たちの『証の力』を恐れている。それ故、策略を巡らして必死に抵抗する。 ①私たちが「神の前によみがえらされた者」であることに気づかないように。 ②私たちが「人々に福音を語ることの重要性」に気づかないように。[Ⅱコリント4:4] 3 私たちは「神の前によみがえらされた者」として生きることを期待されている。[コロサイ3:1-3]   ・『永遠のいのち』 = 「神の前に新しく生まれたいのち」 決して悪魔に奪われたり侵されたりすることはない。 ◆私たちはこの新しいいのちによって、次のように生きることができる。   ①地上では捨て身(チャレンジャー) - もはや失うものはない。守りの態勢の必要はない。      ・私たちが求めているのは、地上での繁栄ではなく、天の栄冠。[ピリピ3:12-14]   ②悪魔に奪われたものを奪い返す      ・イエスの御名によって「神のみこころが天になるごとくに、地(私たちの周辺)にもなるように」命ずる。 ☆あなたは、以前は神の前に死んでいたが、今はキリストによって神の前に「よみがえった者」なのです!     Outline of the sermon    “Live as ‘a risen one before God’.”   (15/07/2012) [John 12: Read more…

2012年7月8日 「様々な礼拝の形」

メッセージをダウンロードして聴く  説教あらすじ          「様々な礼拝の形」       (08/07/2012) [ヨハネ12:1-8]  ◆[1~2節]   ・ラザロの証を聞いていた町の人々は『畏敬の念』と共に『豪華ディナー』でイエスを迎えた。深い喜びと神の臨在に満ちた食卓。 ◆晩餐での人間模様(そこには、様々な『礼拝の形』が見られる)    ①マルタとラザロ [2節]      ・マルタはいつも通り給仕。しかしその心はいつもイエスに向いていた。イエスも微笑みで応えていたはず。        ➝ 日常生活の中で、イエスの臨在を感じ、彼を微笑ませることを意識しながら生きることも、『礼拝』。   ・「神の国の雰囲気」を懐かしがっていたラザロは、できる限りイエスのそばに寄り添っていたであろう。     ➝ イエスと2人きりの時間、また「神の国」を共有できる信仰の友との時間を確保することも、『礼拝』。 ②マリヤ [3節]   ・表現しきれない「イエスに対する感謝と賛美」を、持っている精一杯のものをささげることで表現した。   ・私たちに与えられている「価値あるもの」(お金・地位・才能など)は、イエスを『礼拝』するために用いられるべき。 ③ユダ [4~6節]   ・「自分の落ち度を埋め合わせること」で頭がいっぱい。結局ごまかすのが精一杯。私たちも同様。[ローマ2:15]    ④イエス [7~8節]      ・ユダのごまかしを承知の上で、決して責めることをしない。何故なら、自分はまさにこれからその『責め』を 身代わりに負おうとしているのだから。彼の関心はただ、「わたしに目を向けてごらん」ということ。 ☆与えられているものを、自分の楽しみのためではなく、この方の愛に報いるために用いませんか?     Outline of the sermon    “Different shapes of ‘Worship’.”   (08/07/2012) [John 12:1-8]  ◆[Verses 1-2]    ・People in Bethany truly Read more…

2012年7月1日 「主にあって今を誠実に生きる」

メッセージをダウンロードして聴く  説教あらすじ      「主にあって今を誠実に生きる」   (01/07/2012) [ヨハネ11:46-57]  *神の偉大なみわざに対して逆の極端な反応を見せるユダヤ人リーダーたち。彼らの態度はどんな誤った考え方に根ざしているのか? 1 「本音」と「建前」 [47-48, 53節]   ・パリサイ人の建前:「モーセの律法こそ、神のみこころ!」と認め、これを堅く守り行う。   ・パリサイ人の本音:律法自体を重んじているのではなく、自分たちの主義・主張を最重視。 (自分たちに不都合なイエスのような人物が現れると、「殺してはならない」という律法を無視して殺人を計画する)    ◎神が望んでおられるのは、うわべだけの従順ではなく、「神を畏れ、人々を愛する心」の結果としての従順。 2 「人の計画」と「神の計画」 [49-52節]   ・カヤパは自分たちの益のために策略を練ったが、結果として神の計画を成就することになる。[箴言19:21]   ・人は1秒先のことも分からないので、知恵を絞って計画を立てても、神の計画を越えることは決してない。   *では、何故神は私たちを「将来を見通せるように」は造らなかったのか? ①そのような力は「神に対する不信仰」へと導くから。 ②『今』を感謝し、「今、神にあってできる最善」を見出して、全力を尽くさせるため。[ヤコブ4:13-15] ◆『Integrity』(誠実・高潔) = いわば「神に対する誠実さ」[詩篇16:8] ☆自分の都合や周囲の状況に左右されてしまうような『建前』の人生ではなく、 『Integrity』(神に対する誠実)をもって、一瞬一瞬を全力で生きていこう!     Outline of the sermon    “Live with ‘Integrity’ before God.”   (01/07/2012) [John 11:46-57]  *Why did Jewish leaders respond such a different Read more…

2012年6月24日 イエスの涙

メッセージをダウンロードして聴く  説教あらすじ           「イエスの涙」         (24/06/2012) [ヨハネ11:30-45]  ◎イエスの『憤り』と『涙』を理解する。 ◆[33節] 『霊の憤り』   ・イエスは人々の無知に憤られる方ではない。これは『罪』とその結果である『死』に対する憎しみ。そしてまたそれらの根源であるサタンに対する激しい怒りである。 ◆[35節] 『涙を流された』   ・この節は2つの点で注目に値する。     ①英語の聖書の中で、最も短い節。  ②イエスが見せた唯一の涙。 *イエスが涙したのは、ラザロが神との完全な調和からの分離を体験させられることに対して。     ・これは「地上でモタモタしているより、さっさと天国へ行った方がマシ」という意味ではない!そもそも、この地 上に『死』が入ってきたこと自体が、イエスの悲しみ。(もともと『死』とは「神との断絶」を指している) ・神は、1人の魂さえも、ご自分から離れて滅ぶことを望んではおられない! ◆[37-38節] 『心のうちの憤り』 ・この憤りも「私たちの無知」に対してではなく、「神を侮った態度」に対して。 ・神は「できない」お方ではなく、あくまで「私たちによる同意(信仰)」を尊重される方。    「できない」のは、神の力に限界があるからではなく、私たちが信じないから。➝ [40節] ☆私たちの不信仰によって、神のみわざを制限してしまうことなく、今週も神のご計画に対して ことごとく「アーメン!」と同意しながら、「信仰による歩み」を進めて行こう!     Outline of the sermon         “Jesus Wept.”        (24/06/2012) [John 11:30-45]  ◎Let’s learn about 『Tears』 and 『Resentment』 of Jesus. ◆[Verse 33] 『Deeply Read more…

(52) 正しい者は7たび倒れても、また起き上がるからだ。悪者はつまずいて滅びる。

だれでも失敗するのはイヤなものです。特に「物事を成し遂げるのを生きがいとするタイプの人」にとってはなおさらのことでしょう。では「失敗を克服するためのコツ」のようなものはあるのでしょうか? 昔、イギリスのチャーチル首相は次のように言いました。「『成功』というものは、何度失敗を重ねてもくじけずに、新たに挑戦する情熱を持ち続けた人が手にすることのできるものだ」と。すなわち、失敗は『成功の父』となり得るのです。 「でも、やっぱり失敗するのは怖いなぁ。」と言う人たちもいるでしょう。どうして私たちは、『失敗』を恐れるのでしょうか?主に次の2つの理由が考えられます。 ①『失敗』というものが持つ「真の意味」をよく理解していない。 ②『失敗』が自分の『人格』に影響を与えることを許してしまう。 『失敗』の原因は大きく分けて、「無知」から来るものと、「分かっちゃいるけど、止められない」場合とがあります。聖書には「あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。」と書いてあります。また、イエス・キリストは「分かっちゃいるけど、止められない」という私たちの『罪の性質』を解決されるために、私たちの身代わりに十字架にかかってくださった方なのです。『失敗』は、私たちを神様から引き離すどころか、かえって私たちを神の御許に近づけるきっかけとなり得るのです。 また「失敗した人」を『失敗者』と呼ぶのではありません。「失敗そのもの」は、私たちの人格に対して何の力も持っていないのです。ただ、私たちがその失敗のあまり、再度挑戦することをあきらめてしまった場合のみ、『失敗』は力を発揮します。しかし、もし私たちがその『失敗』が教えてくれる『教訓』を正しく学び、それをキチンと生かしていくならば、私たちは決して『失敗者』になることはなく、かえって『成功』へとやがて導かれていくのです。 あなたがこのような態度で人生に向かっていくならば、あなたの人生が変えられていくだけでなく、周囲の人々の人生にも、きっと良い影響を与えていけるようになることでしょう。

(51) よくやった。良い忠実なしもべだ。… 主人の喜びをともに喜んでくれ。

ある人の日記から。 「買い物から帰ってきて、数時間前にピカピカにきれいにしたばかりのキッチンに入ってみて、ビックリ!そこらじゅうにネバネバになった小麦粉が飛び散って、チーズやチョコレートのかけらが散らばって、おまけに流しは鍋やボールや泡立て器などでいっぱい。どうやら幼い娘が留守中に『クッキー作り』に奮闘した模様。もう疲れと落胆でしゃがみ込みそうになった私の目に留まったのは、つたない文字が書かれた紙の切れはし。『ママのために一生懸命作ったの。きっと美味しいよ!あなたの天使より』 ですって。とたんに私の脳裏には、喜々としてクッキー作りに励んでいる幼い愛娘の様子が思い浮かび、ついさっきまでとはまるで正反対の幸福感に満たされたわけです。」 私たちをお造りになられた神様は、私たちの『出来の悪さ』を嘆くような方ではありません。むしろ、私たちが自分自身を低く見積もりすぎて萎縮してしまい、思い切ったチャレンジの機会にいつも尻込みしてしまうことを嘆かれるのです。 聖書の『タラントのたとえ話』の中で、イエス・キリストは、3人のしもべの中の2人が、主人から預けられたものを一生懸命に生かして倍に増やしたことにより、最高級のほめ言葉(上記)をいただいたことを語り、一方で、残りのもう1人のしもべは、預けられたものを地に埋めてしまい、後に主人から「怠け者のしもべだ!」と叱咤されてしまったことを教えられました。主人は「失敗を恐れないで、チャレンジ」して欲しかったのです。 神様は私たちに、「ちゃんとできないのなら、やらないでいい!」などとは決しておっしゃらない方です。むしろ、私たちがとにかくやってみて、そして失敗してもそこから学び、成長していくことをこの上なく喜ばれるのです。

(50) 神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。

この地上には、人の力では変えようのない法則のようなものがいくつかあります。例えば『万有引力の法則』がその1つですよね。世界のどんな場所へ行っても、モノを高いところから落とせば、必ず下へ落下していきます。 もう1つの代表的な法則は『種蒔きの法則』です。これも世界中のどこででも利用されていて、農民たちはその恩恵を受けて生活しています。でも実はこの『種蒔きの法則』は何も「農業の世界」だけにあてはまるわけではありません。私たちの日常生活の1コマ1コマの中に深く根付いているのです。そしてこの法則は、私たちの人生に良くも悪くも働くのです。 日本語の古いことわざにも、「自分の蒔いた種を刈り取る」という言葉があるように、自分で悪いと分かっているにも関わらず、人からの忠告や自分の良心の呵責に敢えて反抗して、誤った方向へと歩みを続けるならば、その結果を刈り取ることになります。ある時若いカップルが「この先キケン」と書いてある立て看板を軽んじて、猛スピードでカードレールを突き破って車を走らせていたら、橋を修理中の谷底へと車ごと転落して死んでしまったそうです。彼らは悪い種を蒔き、そして悪い実を刈り取ったのです。 しかし、私たちが『良い種』、すなわち人々への親切や愛の行為を蒔いていくならば、私たちはやがて『良い実』を刈り取ります。これは天地をお造りになられた、愛なる神様がお定めになった法則なのです。なぜなら私たちの天の父なる神様は、ご自分の愛する子供たちが他の人々に優しくしているのを見て、ご褒美を与えずにはいられないお方だからです。