(127) “キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。”

2014/06/10

汚い足

ある牧師がこんなことを言いました。「地上のあらゆる場所に『万有引力の法則』が働いていて、他の力が働きかけない限り物質は必ず上から下に向かって落ちていくように、すべての人間の心の中には『自己中心性の法則』が働いていて、意識して他の人のために生きようとしない限り、私たちは自分が楽をしたり得をしたりするように行動するものである。」 確かにその通りですよね。私たちは知らず知らずのうちに「何かいいことないかなぁ。誰かうまい話持って来てくれないかなぁ。」と周りが自分のために動いてくれることを期待してしまう傾向があります。

 イエス・キリストの生涯は、これとはまるで違いました。彼は病人や貧しい者をあわれみ、世間からつまはじきされていた人々と多くの時を共に過ごし、そして罪と死に縛られていた私たちを解放するために、身代わりに十字架で死なれました。彼の生涯はまさに「自分自身のため」ではなく、「他の人々に仕えるため」だったのです。そしておっしゃいました。「私があなたがたに仕えたように、互いに仕え合いなさい」。

 多くの人々(クリスチャンの方々でさえ)は、「イエス・キリストは『特別な人(神の子)』だったのだから、そんなことができて当たり前だ!」とおっしゃいます。でもちょっと想像してみてください。イエスが十字架にかかる前の晩、有名な『最後の晩餐』の席で、イエスは弟子たちの足をお洗いになりました。天と地の創造者、私たちの神である方が、私たちの汚くて臭い足(弟子たちの中には漁師たちもいました!)を素手で洗ったのです。何という『謙遜』、何という『無私』なのでしょう!恐らく私たちは、私たちのクラスの先生、また上司などがそんなことをしてくれたとしても驚きあきれ、恐れ入ってしまうのではないでしょうか?(まあ、そんなことをしてくれる『先生』や『上司』など聞いたこともありませんが…)しかし仮にも『神の子』と呼ばれた方が私たちにそのような模範を示されたのだとしたら、私たちは今日から人生に対する態度を改めなければならないのではないでしょうか?

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