助けを与える

私たちは「なすべきことが分かっているのに、しようとしないこと」は、神の前に正しくないと容易に理解できますが、「なすべきことが分かっていて、いつかしようとはしているけど、もたもたしていること」も神の前に正しくない態度であるとはなかなか気付きません。私たちは恐らくこう言うでしょう。「いや、やろうとは思っているんですよ。ただもうちょっと暇になったら、もうちょっとお金が溜まったら、もうちょっと子供が大きくなったら…」

神の祝福は、ただボ~っと待っているだけの人に注がれるのではなく、既に与えられているものを精一杯用いて人々の必要のために仕えている人に注がれるものです。例えば、今の時点で既に持っているものを用いて人々に施しをしているわけでもないのに「神様、困っている人々を助けてあげたいので、どうぞもっとお金を与えてください」と祈るのは、神の祝福を受けるために正しい順序ではありません。「でもお金が無けりゃ、何も与えてあげられないじゃないですか!」とおっしゃる人もいるでしょう。しかし実際はお金が問題なのではありません。そのような人は今までにそれらの困っている人々に『励ましの言葉』や『あなたの時間』、また「今まで試したことのないような自己犠牲」を与えたことがありますか?

神が私たちに望んでおられる愛し方は、私たちの都合やタイミングに合わせたものではなく、神の憐れみの心に合わせたタイミングや方法なのです。自分の都合や理屈を言い訳にモタモタしてしまう人が得ることのできるものは「せっかくのチャンスを取り逃がしてしまう」という苦い経験なのです。

Categories: 聖書

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