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世の中には「すぐにはっきりした結果を見たいタイプの人」と「すぐに成果が現れなくても、自分のしていることに確信を持って継続できるタイプの人」とがいます。実際にこの世の出来事には「すぐに結果に現れること」と「なかなか成果が見られなかったり、答えが見つけられなかったりすること」の両方が存在します。そして『重要』と思われることほど、この後者であることが多いのではないでしょうか?

『科学』を崇拝する人々は、「十分な時間とデータさえあれば、この世の事象はすべて科学的に証明できる」と言いますが、本当にそうでしょうか?世の中には、私たちの理性や知性では納得できないことがあまりにも多すぎます。「なぜある家族は不幸な出来事に襲われ、別の家族にはそれが起こらないのか?」「なぜ有り余る食べ物を日々捨てている地域があり、別の地域ではその日食べる物にも事欠いているのか?」「なぜ罪もない前途有望な若者が不治の病や突然の事故などで尊い命を奪われるのか?」などなど。これらの疑問に対して自分の存在があまりにもちっぽけなので、できるだけ考えないようにしようとするのですが、時に応じて再び心に上ってきて私たちを悩ませるのです。「現実主義者」と呼ばれるうちのある人々は、この時とばかりに「ほら見ろ、神も仏もあったもんじゃない!」などと口走ったりします。

それでは、聖書はこれらの問題に関して何と言っているのでしょうか?聖書のある箇所では「隠されていることは神のもの、現されたことは私たちの物」と書いてあります。これはあたかも、神が私たちにこう語りかけておられるようです。「どんなに考えても調べてみても解決されないことは、私に信頼し、私の手にゆだねなさい。そして既に明らかにされていること、また与えられているものに目を向け、それらを喜び、また最大限に活用することによって幸福を得なさい。」と。

Categories: 聖書

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