私たちは人生の過程で様々な『変化』を経験します。その中には「自ら買って出る変化」もあれば、「自分では願っていなかったのに、避けることのできなかった変化」もあるでしょう。ところがこの「願ってもいなかった思いがけない変化」が思いもよらない良い結果を生むことがしばしばあるのも事実です。では何故私たちはそのような『変化』を歓迎したがらないのでしょうか?それは元来人間が「習慣的に生きる」ことを楽に感じるからです。

私たちは実に多くのことを『習慣的に』行っています。朝起きて顔を洗う。食事の時にまずお味噌汁を飲む。靴は右足から履く。ランチは近くのコンビニでサンドイッチを買う。お風呂で体を洗う時は首から洗う。などなど。これらをいちいち「えーと、今日はどちらの足から靴を履こうかな?」「体をどこから洗おうかな?」などと考えていたら、時間がいくらあっても足りなくなります。「習慣性」って、実に素晴らしいですよね?これが例えば「朝起きたら断水していた」とか「サンドイッチが売り切れていた」などのハプニングがあると、とたんに生活のリズムが狂うわけです。通勤電車の遅れやインターネットの接続不良などが起こるとすぐ「キレて」しまう人がいるのも現代の特徴の1つでしょう。

ところが、もし人生がすべてこのように『習慣的に』進められてしまったら、進歩がなくなってしまうというのも事実です。「生活の改善」や「私たちの人格的成長」は、ある意味『強制的な変化』に伴ってやってくるものなのです。別に『変化』を大好きになる必要はありませんが、それらを肯定的に受け止め「成長のための栄養」としていくことは大切です。

神様は私たち人間を『現状維持』のためには造りませんでした。「日々成長するように」お造りになったのです。それ故、神様は時々私たちの人生に「避けられない変化」を送られる時があります。それらに対して私たちはつい「神様どうして?!」と呟いたりしてしまいがちですが、そこにも私たちに対する『神様の愛』を見い出すことができたら、人生がより輝いて見えるようになるのではないでしょうか?

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