(283) “彼らのしていることはみな、人に見せるためです。”

『偽善』という語(普段あまり耳にすることはありませんが…)を好きな人はあまりいないと思いますが、実際にその意味を十分に把握している人も多くはないのではないでしょうか?『偽善』を簡単に説明するならばそれは要するに「自分を人に良く見せようとすること」と言えるでしょう。ということは「誰の心にもありがちな思い」なのではないでしょうか?イエス・キリストは多くの面で「寛容と愛情深さ」を示されましたが、この『偽善』に対しては徹底的に挑戦されました。何故だと思いますか?それは「人に良く思われたい」という心は、しばしば「神を見失わせる」からです。 例えばアナタは、今からしようとしている『良い行い』が決して誰の目にもつかないと初めから分かっていても、相変わらずそれを行うでしょうか?もし「それならやっても仕方がない。や~めた!」となってしまうとしたら、アナタは『偽善者』なのです。イエス・キリストは「あなたがたの右手がなそうとしている良いわざを、左手に気付かれないようにしなさい」とさえおっしゃいました。『良い行い』は本来「こっそりと」行われるべきものなのです。でも安心してください。神は私たちのすべての行い(隠れたものも含めて)をご存知です。私たちがどんなにこっそり『小さな親切』をしたとしても、決してそれを見逃したりはしません。神は憐れみ深く、愛に富んだ方ですから、私たちの『愛と憐れみの心』に敏感に反応され、そのような心から純粋に現された『良いわざ』に報いを与えないではいられないのです。

(282) “愚か者は自分の道を正しいと思う。しかし知恵のある者は忠告を聞き入れる。”

私たちは皆「人は1人では生きていけない」ということを知っています。そしてそれは『物理的』な理由だけではなく『精神的』な理由においても言えます。私たちは「真に正しい生き方」をしていくために、お互いの助けを必要としていますし、神様はしばしば私たちと周囲との人間関係を通して『良きアドバイス』を与えてくださいます。問題は、そのような(時には耳の痛い)忠告に私たちが素直に耳を傾けることができるかどうかです。 私たちは「自分はまだ不十分である」と感じている時には積極的に周囲の忠告に耳を傾けますが、「自分はもう大丈夫」と思い始めたとたんに耳を貸さなくなります。もし神様が私たちに「そこそこの(無難な)人生を歩んで欲しい」と思っておられるならば、それで良いのかもしれません。しかし実際はそうではなく、私たち1人1人を『最高傑作』として創造なさった神様は、それにふさわしく私たちに『最高級の人生』を歩ませようとなさいます。それ故私たちの周囲に様々な人々を送り、その時その時に必要なアドバイスを与えてくださるのです。 では、私たちは「優れたアドバイザー」と「そうでないアドバイザー」とをどのようにして見分けることができるのでしょう。いくつかの要素が考えられますが、まず「客観的に物事を判断してくれる人」「話を最後まで良く聴いてくれる人」「早急に結論を出さない人」などが考えられます。私たちはつい「自分の身になって同情してくれる」「すぐにアドバイスをくれる」などの要素を期待してしまいますが、それに応えてくれる人はやや危険性を持っているのでご用心を。神の知恵に基づいて適切なアドバイスを与えてくれる人は、そのために神に祈りつつ十分な時間を掛けてくれるので、必ずしも「欲しいタイミング」で応えてはくれないかもしれません。でもそのような人はある意味「人並み以上の耳や目」を持っているのです。あなたはそのような人からのアドバイスを望みますか?もしそうなら、神様が送ってくださる『良きアドバイザー』からの忠告に耳を傾ける心をもって日々歩みましょう。

(280) “子どもを苛立たせてはいけません。かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい。”

今日は特に「小さなお子さんを持つ親御さんたち」に読んでいただきたい内容です。 最近世界(特に先進国)では、子供たちによるいたましい事件が相次いでいます。生徒が教師を殺害したり、クラスメートを殺したり、そしてついには自分のいのちを絶ってしまうような…。 12歳と13歳の2人の少年が、コンビニの前で1人の男性を殴り殺しました。動機は「あの男が死んで行く様子を眺めているのが面白かったから」だそうです。また別の少年は、駐車してある車の中に座っていた男性を射殺しました。その理由は「オレのことを見たから」…。 何故このような悲劇が多発しているのでしょう?銃が簡単に手に入るから?暴力的な番組やゲームに多くの時間を費やしているから?確かに同様の多くの要因があることは否めませんが、専門家の綿密な調査結果によると、最も根本的な原因は「幼児期に受けた暴力や放任」にあるようです。赤ん坊が3日間以上汚れたオムツのまま放っておかれたり、幼い子供がひどくぶたれたり、家庭で無視されたりし続けると、いくつかのストレスホルモンが異常なほど多量に分泌されて血液中に混入し、次第に脳の機能を冒して行くそうです。そうして彼らはやがて他の人々に対する『思いやり』の感情が失われ、苦しんでいる人々に対する『同情』というものを感じられなくなるのです。 日本語に「三つ子のたましい百まで」ということわざがありますが、まさに生まれてから3年間の間に親から受けた扱いが、その子の一生の歩みを決定付けてしまうのです。こればかりは後でどんなに後悔しても取り返しがつきません。 お子さんをお持ちの方々、神が皆さんに与えておられる責任は、他のどんな社会的責任よりもはるかに重要であることを、ぜひ深く心に刻んでください。そしてあらゆる努力をして、お子さんたちを愛し、守り、日々励まし、十分に時間を共に費やし、そして神と人とを愛する子としてしっかりと育んであげてください。

(279) “私たちはみな、多くの点で失敗をするものです。”

子供たちが幼い頃から、我が家の合言葉は「ラーニング・エクスペリエンス(失敗から学ぼう)」でした。日本語にも「失敗は成功の元」ということわざがあるように、失敗を恐れていては何も学ぶことはできません。また失敗を恐れていては、神があなたのために立てておられる『偉大な人生の計画』に到達することもできないのです。 人は誰でも失敗するものです。けれどそれらの失敗の数々をじっくり観察するなら、それらはほとんどが「その時だけの恥」であって、多くの場合、その失敗を通して様々な助言をもらえるようになったり、反省してよく準備するようになったり、後輩に良きアドバイスを与えることができるようになったりするのです。 「失敗」が人を『失敗者』にするわけではありません。むしろ「失敗から何も学ばないこと」また「その失敗の故に2度と挑戦しようとしなくなること」が私たちに『失敗者』としての人生を歩ませるようになるのです。 神は決して私たちの失敗を責めたりはなさいません。むしろ私たちが、やること成すことすべてうまく運んで高慢になり、「私には神なんか要らない」などと言い始めることをお責めになるのです。日々私たちに知恵と力とを注いでくださり、私たち1人1人に与えてくださった「ユニークで偉大な人生」を全うさせようとしてくださっているこの神を見上げつつ、失敗を糧としながら前進して行きましょう。

(278) “信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。”

この天地をお造りになり、私たち人間1人1人にいのちをお与えになった『創造主なる神』は、そのすべてをこよなく愛しておられます。それ故神は、それらすべてを祝福し、慈しみ、聖書のことばを借りるなら「良い人にも悪い人にも太陽を昇らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせて下さる」のです。 私たち人間は『自己中心的』な存在なので、自分に意地悪をしたり都合が悪い人などがいるとつい、「神様、あの人に罰を与えてください!」などと祈ったりしますが、とても幸いなことに神は「気分屋」ではないので、私たちのそんな気まぐれな祈りにいちいち答えることはありません。(さもなければ、私たち自身も相当頻繁に『ひどい目』に遭ってしまうことでしょうね!) では神には『感情』のようなものは全くないのでしょうか?ある人々が考えるように、神は何か『法則』のような存在で、ただ機械的に天体を規則正しく運行させたり、悪い習慣に悪い報いが起こるように設定しておられるだけなのでしょうか?いいえ、そうではありません。聖書をよく読むならば、あちこちに神が「怒って」おられる様子や「悲しんで」おられる様子、そして「喜んで」おられる様子が描かれています。 では、神は一体どのようなことを「喜ばれる」のでしょう?それは、私たちの『信仰』です。信仰というのは何も「ありもしないことを、あるように思い込むこと」ではありません。むしろ「何よりも確かな存在である『人格的な神』がおられること」を素直な心で認めることです。そしてこのお方が日々注いでおられる『愛と恵み』に対して目が開かれ、心を通わせながら生きようとする私たちの「信仰の姿勢」を、神は喜んでくださるのです。 『信仰』とは、いわば「心の向き」です。例えば雨の日にコップを持って外に出たとしましょう。コップの口を上に向けておくなら、雨水はやがてコップの口いっぱいにまで溜まります。しかしコップが傾いていれば十分に溜めることはできないし、逆さまに伏せてしまっていたら雨水は一滴もコップに入ってはきません。同じように、神は「神とのふれ合いを求めて、心を真っ直ぐに神に向けて生きる者」を喜ばれ、他の人たち以上にご自身の祝福を与えずにはいられない方なのです。

(277) “まず、杯の内側をきよめなさい。そうすれば、外側もきよくなります。”

4週間ほど日本へ一時帰国していました。その間「聖書のいい話」をお休みしてしまいました。ごめんなさい。 さて、ある夫婦がドライブに行こうとしてガソリンスタンドに寄りました。するとスタンドの青年がフロントグラスを拭いてくれています。料金を払い終わり出発しようとしてふと見ると、何と拭いてもらったばかりのはずのフロントグラスがずい分と汚れています。夫の方が拭いてくれた青年に叫びました。「ずい分と雑な仕事をしてくれたじゃないか。もう1度キチンと拭いてくれたまえ!」青年は怪訝そうな顔をしながら、もう1度丁寧に拭いてくれているのですが、相変わらずフロントグラスは汚れたままです。夫は少々イライラしながら言いました。「その布が汚れているんじゃないか?よく確かめてみたまえ。」するとそれまで黙って見ていた妻がチョッピリあきれた顔で夫のメガネを取ると、自分のハンカチを取り出してきれいにし、再び夫の顔に戻しました。あらためてフロントグラスを見ると、一点の汚れもなくきれいになっていました。 この世のさまざまな『宗教』は、私たちに「道徳的な教え」や「立派な行動の規範」を示してくれます。それらはもちろん大切なことではあるのですが、私たちは決して外面的な努力によっては真の意味で自分自身を向上させることはできません。私たちの行動が洗練されていくためのカギは「私たちの内面の変化」にあるのです。私たちはまず内面的に造り変えられ、その後でその刷新された内面が、目に見える行動となって現れるようになるのです。 キリストは私たちの内面に潜んでいる「創造主なる神からそれている思い」という人類の根本的な問題に光を当てるために来られ、そしてその問題を解決するために私たちの身代わりに十字架の上でその罰をお受けになりました。このキリストを内側にお迎えすることによって初めて、私たちは物事の真実を見つめることができるようになり、少しずつ「人間のあるべき姿」へと回復されて行くことができるのです。

(276) “見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを(神に)願って聞き届けられました。”

 「もし全知全能の神がおられ、私たち人間を愛しておられるなら、どうしてこの世には悪が存在するのか?」そのように考えたことがある方は少なくないと思います。 聖書を気をつけて読むなら、何箇所かに渡って「この世における『悪の力』の存在」について描写してあることが分かります。そしてその首領は『悪魔』とか『サタン』とか呼ばれて、ある箇所では「この世の王」とも呼ばれています。すなわち、本来神様はこの地上を人間のために造られたのに『初めの人アダム』が神のことばよりも悪魔のことばに従って以来、この地上の支配権が悪魔に奪われてしまったのです。では、神様はそんな悪魔をどうして野放しにしておくのでしょう? 聖書の中の悪魔に関する記述を注意深く読むと、悪魔は「神の許容範囲内」でしか活動できないように制限されていることが分かります。悪魔がある個人または地域に災いをもたらそうと考えたとき、いつも神に「お伺いを立てに来る」のです。では、神は何故そのような悪魔の思惑をお許しになることがあるのでしょうか?それにはいくつかの理由がありますが、その主な理由は「私たちの目を『霊的な世界』に向けさせ、ご自身の許に引き寄せ、試練を通してその信仰を成長させるため」であるということができるでしょう。日本語のことわざにも「苦しいときの神頼み」とありますが、私たちはしばしば「痛い目を見るまでは神を求めない」頑なな存在です。しかし私たちが心を神に向け、彼を呼び求めるなら、神は私たちを「暗闇から光へ」移すことのできる方なのです。 悪魔は人間よりも力がありますが、神はその悪魔よりも圧倒的に優れたお方です。神は、彼に信頼し彼と共に歩む者とされた人々と『一緒に』この世界をご自身の許へと取り戻そうとしておられるのです。神は、私たちが苦難の真っ只中にいる時に、それをただ「傍観している方」ではなく、私たちが神に向かって助けを求めて叫ぶのを今日も「心を痛めながらじっと待っておられる方」なのです。

(275) “私たちは、人を喜ばせようとしてではなく、私たちの心をお調べになる神を喜ばせようとして語るのです。”

『自分の存在価値』というものをはっきりと理解していることは非常に重要です。そうでないと私たちは常に「誰かに認められよう」とやっきになり、相手のために貢いだり、自分を偽ったりして、かえって自分をおとしめることになります。『自分の存在価値』を人からの評価に捜そうとするなら、それは中毒のように私たちを滅ぼして行きます。何故なら私たちは決してそのような方法では「満足に至る」ことはないからです。 私たちが聖書のことばを通して『創造主である神』と出会う時、私たちは初めて「自分の真の存在価値」というものを見出すことができます。何故なら『私たちの真価』は、私たちの「能力」「業績」「財産」などによって測られるのではなく、「私たちが誰の作品であるか」によって決まるからです。 私たちが他の人と語る時、もし「この人は私のことをどう思っているのだろう?」ということが気にかかるなら『心の中の真実』を語ることは難しくなり、結果として「耳障りの良いことだけ」を語るようになります。しかし実のところ大抵の人々はいつも『自分のこと』がその思いの中心にあるので、あなたのことにそこまで真剣に気を遣ったりはしていません。だから「人の目」や「人の言葉」を恐れないで下さい。むしろあなたのことをいつも心にかけてくださっている神様の「あなたは私の最高傑作なのだ。今日も自信を持って堂々と自分自身を生きなさい!」という語りかけにいつも心を留めていましょう。こういうわけで、私たちは「私たちの真価をご存知の神」にふさわしく、いつでも誰に対しても「愛をもって心の真実を語る」べきなのです。

(274) “愚か者は自分の道を正しいと思う。しかし知恵のある者は忠告を聞き入れる。”

「聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥」という日本のことわざもあるように、必要な忠告を聞かないことは大きな失敗をもたらすことがあります。どんなにたくさんの知識を持っている人でも、知るべきすべてのことを知っているわけではありません。「自分にはまだ知らないことがある。まだまだ学ぶべきことがある」と分かっている人こそ『賢い人』と言えるでしょう。 プロゴルファーたちは皆『キャディ』たちと共にコースを回っています。そしてこの『キャディ』というのは、単に「ゴルフクラブを運んでくれる人」ではありません。彼らはそれぞれのゴルフコースに関する多くの知識を持ち、ゴルファーたちに必要なアドバイスを与えてくれています。 往年のプロゴルファーに「トミー・ボルト」という選手がいました。彼は大変技術の優れたゴルファーでしたが『癇癪持ち』でもありました。ある時ボルト選手が南カリフォルニアで開かれた大会に参加した時のことです。その日彼は前日に悪いスコアを出してしまったことに相変わらずイラついていました。そこで彼は1日の初めに自分のキャディに向かって「今日はお前は、オレ様に対して『ハイまたはイイエ』以外は言うんじゃない!」と命じました。そういうわけでキャディは、アドバイスをあげたいと思ったときでも忠実にその言葉に従いました。あるホールでボルト選手はティーショットを林の中へ打ち込んでしまいました。彼はイライラしながら林の中へ行き、そこに落ちているボールを見つけるとキャディに尋ねました。「やっぱりここは5番アイアンで行くべきだろうな?」キャディは「イイエ」と答えました。しかしボルト選手は自分の判断の方が正しいと思ったので、ともかく5番アイアンで打つと、打球は見事にグリーンの上の旗のすぐ側に止まったのです!ボルト選手は得意げにキャディに言いました。「どうだ、今度ばかりはオレ様の判断の方が正しかっただろ?何とか言ってみたらどうだ?」するとキャディは答えました。「ハイ、確かに良いショットでしたが、今あなたが打ったのは他の人のボールです。」 聖書は「人の心の高慢は破滅に先立つ」とも書いてあります。取り返しのつかない失敗をするよりは、立ち止まって忠告に耳を傾けた方が良いとは思いませんか?

(273) “わたしの愛の中にとどまりなさい。”

英語で「Make yourself at home」という表現があります。日本語に訳せばさしずめ「自分の家のようにくつろいでくださいね」といったところでしょうか?要するに「何も遠慮せず、ありのまま自由に過ごしてください。あなたは心から歓迎されており、受け入れられているのですよ」というわけです。 イエス・キリストが人々に向かって「わたしの愛の中にとどまりなさい」と言われた時、まさに同じような意味で言われたのです。神は、あなたが今まで誰からもそのように愛され受け入れられたことのないような愛によって、あなたのことを愛しておられるのです。私たちがしばしば『神の愛』というものを正しくイメージできないのは、それと似たようなものがこの世に存在しないからです。恐らく「母の愛」はそれにかなり近いものかもしれませんが、悲しいことに最近は「教育熱心さ」のあまり、自分の子どもに『不必要なハードル』を与えてしまう母親が増えてきています。しかし神の愛は『無条件』であり『永遠』です。あなたの能力や態度が、あなたに対する神の愛を増やしたり減らしたりすることはありません。それは優しく、力強く、完全な愛なのです。 「神の愛を受け取るために必要なもの」は、『努力』でも『我慢』でもありません。『信仰』です。「神はそのひとり子イエス・キリストを私の罪の身代わりに十字架にかけるほどに、私を愛しておられる」と単純に、幼子のように信じる『信仰』のみが、『父なる神』が私たちに望んでおられることなのです。