(240) “人の心は病苦をも忍ぶ。しかし、ひしがれた心にだれが耐えるだろうか。”

うつ病に悩む人、しばしば自殺にまで踏み切ってしまう人が激増しています。何が人をそこまで追い込むのでしょうか?もちろん外から来るプレッシャーも少なくはないでしょうが、多くの場合、その原因はその人自身の内面的な葛藤から来ているようです。 ある人々は、実際の出来事以上に『自分の感情』に重きを置き過ぎて、悪循環に陥ります。ある1つのことに失敗したことが原因で、自分のことを『失敗者・人生の落伍者』のように感じてしまうのです。しかし考えてもみてください。失敗は誰にでもあることです。大切なのは「失敗した過去の自分」に注目するのではなく、「失敗から学び、成長した将来の自分」に希望を置くことです。偉業を成し遂げた人々は皆、私たちよりもずっと多くの『失敗』を経験した人々なのです。 またある人々は「他の人と比べること」によって落ち込みます。そして面白いことにほとんどの場合は「相手の長所と自分の短所」を比べて落ち込むのです。誰にでも「得意・不得意」はあるものです。それは私たちが1人で生きるのではなく、互いに助け合うためです。何でも自分でやってしまおうと思う(実はこれは高慢な態度です!)のではなく、へりくだって相手の助けを歓迎できる者になりましょう。 もう1つの落胆の原因は「自分で負う必要のない責任まで負ってしまっているから」です。神は私たち1人1人に『自由意志』をお与えになりました。相手に助言をすることはできても、「相手のために決断してあげること」はできません。あなたの『失敗』が学習の過程であるのと同様に、周囲の人々の『失敗』もその人に必要な「成長のプロセス」なのです。神様があなたに与えている『責任』を超えてまで、他の人の動向に気を回し過ぎないようにしましょう。

(239) “何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。”

上記に掲げた言葉は、一般に『黄金律』と呼ばれ、イエス・キリストの教えの中でも最も有名であり、また重んじられているものの1つです。非常に分かりやすくて実際的ですよね?ただ唯一の問題は「言うには易し、行うには難し」という点でしょう。でも後述の3つの点に気を付けるようにすれば、誰でもこの優れた『行動の規範』を自分のものとすることができるのです。 ①信頼すること ・『信頼』なしには、決して豊かな人間関係を育むことはできません。長年アメリカ大統領の秘書を務めたある女性が次のように言っています。「私が秘書としての務めの中で学んだ最も重要なレッスンは、人は『信頼されること』によって『信頼できる人』へと成長して行く、ということです。逆にいつも疑われていたら、人はドンドン『信頼を裏切る人』へとしつけられて行くのです。」ある方々は「信頼していた人に裏切られた経験があるから、もう2度と人を信頼しないことに決めた」とおっしゃるかもしれません。でも「人を信頼することによって失うもの」は、「人を信頼しないことによって失うもの」よりもずっと少ないのです。 ②感謝すること ・相手の存在をどれほど感謝しているかをちゃんと相手に伝えることは、とても重要です。私たちの多くは「そのうちに伝えれば良い」と考え、そして結局そのチャンスを一生つかめないで終わるのです。「受けるべき正当な賛辞」を受けられなかったことによって、自信を失ったりあきらめてしまったりする人たちがどれほどいることでしょう?特に日本人の基本的な性質として「改めて言わなくても分かる」ということを美徳とする傾向があります。私たちはそれが必ずしも「相手を生かす」ことにならないことを知る必要があるのではないでしょうか? ③相手の価値を認めること ・ある調査によると、辞職する人の理由の70パーセントは「正しく評価してもらえなかった」ことにあるそうです。誰も「歓迎されていない」と感じる場所にとどまりたいと思うわけがありません。どんな人にも短所はあるでしょうが、どんな人に対しても「その人の短所よりも長所を積極的に見つけようとする人」こそが良いリーダーとして用いられて行くに違いありません。 ぜひこれら3つのことを自分の習慣として身に付けられるよう心がけてみましょう。

(238) “アリは力のない種族だが、夏のうちに食糧を確保する。”

皆さんは「アリとキリギリス」のお話をご存知のことでしょう。暑い夏のさなか、アリたちはせっせと食糧を蓄えますが、それを見ながらキリギリスはあざ笑います。しかし冬が来て何の食糧も得られなくなった時、アリたちの住まいには十分な食べ物があり、キリギリスは寒さと飢えに苦しむはめになるのです。 「苦労のない人生」はありません。私たちは皆人生のどこかで『労苦する』ことになるのです。ただそれが「先取りの労苦」なのか、または「しわ寄せの労苦」なのかの違いです。将来の成功のためにあらかじめ備えに精を出す人もいるし、目先の楽しみのために時間を浪費して後で苦労する人もいます。試験を控えた学生が、「遊びたいのを我慢して必死に勉強し、当日自信を持って試験に臨む」か、「勉強を先延ばしにして、当日慌てて時間ギリギリまで単語帳を握り締めている」のと同じです。それでは、一体どのようにして1日1日を自信をもって生きて行くことができるのでしょう? 多くの人々は日々の出来事の『リーダーシップ』を執るのではなく、それらをただ『受け入れて』生きています。しかし神様は私たちに「ただ待っているだけ」のために『人生』を与えておられるのではありません。ある意味「アリから学べ!」と言っておられるのです。「有意義な人生」は決して『一夜漬け』では形造られません。同様に「後悔に満ちた人生」も突然にはやってこないのです。1日1日が「翌日のための準備期間」なのです。 今日のあなたの歩みは、明日の『成功』のための投資となっているでしょうか?もし「明日の成功」を夢見るばかりで何もしていないなら、それはある意味『失敗』のために投資しているのです。

(237) “わたしの目には、あなたは高価で尊い。”

ある古本屋さんのバーゲン品コーナーに紛れて1冊の古い聖書が置いてありました。これまでに何人かの人々が手にしてはペラペラとページをめくりはしたものの、かなり傷んでいたので購入するには至りませんでした。そのうちにある男性がやってきて、やはりその古びた聖書を手に取りしばらく眺めていましたが、やがて驚いたように息を呑み、その聖書を手に慌ててレジへ行って料金を支払い、急ぎ足に去って行きました。 一体何があったのでしょう?実はその聖書は『活版印刷術』を発明したグーテンベルグによって印刷された貴重な聖書の1冊であり、何億円もの価値があったのです!これまでに「その価値を見い出せない多くの人々」によって見捨てられていたものが、「その真価を知る人」の手に渡った時、その価値は見事に輝いたのです! あなたは自分がどれほど価値のある存在であるか知っていますか?「私は身の程をわきまえている。自分はたいした人物ではない。誰も自分に目を留めてくれる人はいない。」と決めてかかってはいませんか?あなたの真価を正しく評価できるのは1人だけです。それはあなたを形造られた創造主なる神です。彼こそはあなたがどれほど高価であるのかを知っておられ、あなたをご自身の許に買い取られるために、そのひとり子「イエス・キリスト」のいのちを支払われたのです。

(236) “滅びに至らせる友人たちもあれば、兄弟よりも親密な者もいる。”

『友情』と言えば、人生を豊かにしてくれる重要な要素の1つということができると思います。ところで、あなたには『真の友』と呼べる人が何人くらいいますか?毎日多くの時間を費やしている仲間の多くは、『真の友』と呼ぶにふさわしい人々でしょうか?それとも「単なるその場しのぎの相手」でしょうか? そもそも『真の友』とは一体どんな人たちのことをいうのでしょう?「ピンチの時に助けてくれる人」「自分の幸運を一緒になって喜んでくれる人」「大きな悲しみに直面した時に、ただ黙って側にいてくれる人」など、いくつかの要素が考えられますね。 最近ようやく「ロード・オブ・ザ・リング(指輪物語)」の映画三部作をすべて見終えました。この物語に登場する主人公のフロドと危険な旅を共にする『サム』という青年の友情に大変感銘を受けました。サムは何度かフロドに誤解され、罵倒され、見捨てられますが、最後までフロドを支え、見守り、助け続けます。最後にはフロドもサムの真実の友情に気づき、到底達成が無理と思われていた使命を共に果たすことができるのです。 実はこの作品の原作者であるトールキンは敬虔なクリスチャンです。おそらく彼はこの作品を通して「人には誰でも『神から与えられた固有の使命』がある。そしてそれを全うするためには必ず私たちが互いに協力し合わなければならない」ということを伝えたかったのではないかと思います。そしてその「神から与えられた固有の使命」を達成するために相手を信じ、「徹底的に自分を相手にささげていくこと」こそ『真の友情』と呼ぶにふさわしいのではないでしょうか? このような『友情』は一朝一夕で生まれるものではありません。まず自分自身がそのような『友』となれるよう、「自分が望んでいるものをまず相手に与え」「自分が期待している誠実さを相手に表現し」「自分の実現したい目標が相手の人生において達成されるために」与えられている時間や能力をフル活用してみようではありませんか!

(235) “悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。”

その存在を信じているいないに関わらず、誰でも『天国』という言葉を1度は聞いたことがあるでしょう。そしてきっとそれなりのイメージも持っていることと思います。「雲の上にある」とか「三途の川の向こうにある」「死んだ後に行くところ」とか「ピカピカ光っている」などなど。 ある人が面白いことを言いました。「天国でも地獄でも、食事の時に長~いお箸が使われているんだよ。けれども天国の人たちは皆健康に太っているのに対して、地獄の人たちは全員やせ細っているんだ。どうしてかっていうと、地獄の人たちはその長いお箸を使って何とか食べようとしているけど、自分の口が箸の先に届かないので食べられないのに対し、天国の人たちは皆他の人たちとお互いに上手に食べさせ合っているからさ。」 私も個人的にはまだ『天国』というものを自分で見たことはないので確かなことは言えませんが、『天国』のこの世との大きな違いの1つは、きっと「お互いに対する深い思いやりに満ちていて、しかもそれが何も妨げられることなく実践されている」ということではないでしょうか? イエス・キリストは「天国が近づいたから、悔い改めなさい!」とおっしゃいました。『悔い改める』の原語直訳の意味は「向きを換える」です。「この世と調子を合わせる生き方」「自分中心の考え方」から向きを換えて、「神を求める生き方」「他の人を顧みる生き方」へと進んで行くなら、『天国』は単に「死んでから行き着くところ」ではなく、今まさにこの世にいながらにしてその片鱗を体験できるものとなるのではないでしょうか?

(234) “人は自分の行いがことごとく純粋だと思う。しかし、主は人のたましいの値打ちをはかられる。”

最近「高台家の人々」という、漫画を実写版映画化した作品が流行りましたよね?(実は私自身はまだ見ていないんです!)『高台ファミリー』は「人の考えていることが分かってしまう」という特別な能力を持つ家系。その長男と恋に落ちてしまう『夢見る乙女』というのが登場人物の設定なわけですが、恐らく「相手の心の中が読めたらなぁ」というようなことは、誰でも1度は夢見たことがあるのではないでしょうか?まあ「相手の心の中が読める」というのは、必ずしも良いことばかりではないかもしれないし、逆に「相手に自分の考えていることが知られてしまう」なんて、考えただけでもゾッとしてしまいますが・・・ というわけで、私たちが人の考えを理解するためには、その人の『行動(または言動)』から推し測ることが限界なわけです。ですから私たちはある程度「ふりをする」ことによって相手を欺くことができますし、もしかしたらすっかりそのような振る舞いに慣れてしまっているのかもしれません。 聖書は、私たちが「ふりをする」ことによってはだますことのできない存在があることを示唆しています。それは私たちの肉体と共に「心や思い」をも造られた創造主なる神です。たとえ友人や親兄弟をだませたとしても、この方だけは決して欺くことはできません。神は私たちの心(内面)を探られます。それは私たちを糾弾するためではなく、私たちに『誠実さ』を求めるからです。神は私たちに「神の前にも、人の前にも」誠実に生きて欲しいと願っておられるのです。 「自分を偽ること」「相手を欺くこと」に慣れすぎてしまう前に、「真の神を恐れること」そして「神と人との前に誠実に生きること」へと方向転換しませんか?

(233) “わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります。”

世の中には「すぐにはっきりした結果を見たいタイプの人」と「すぐに成果が現れなくても、自分のしていることに確信を持って継続できるタイプの人」とがいます。実際にこの世の出来事には「すぐに結果に現れること」と「なかなか成果が見られなかったり、答えが見つけられなかったりすること」の両方が存在します。そして『重要』と思われることほど、この後者であることが多いのではないでしょうか? 『科学』を崇拝する人々は、「十分な時間とデータさえあれば、この世の事象はすべて科学的に証明できる」と言いますが、本当にそうでしょうか?世の中には、私たちの理性や知性では納得できないことがあまりにも多すぎます。「なぜある家族は不幸な出来事に襲われ、別の家族にはそれが起こらないのか?」「なぜ有り余る食べ物を日々捨てている地域があり、別の地域ではその日食べる物にも事欠いているのか?」「なぜ罪もない前途有望な若者が不治の病や突然の事故などで尊い命を奪われるのか?」などなど。これらの疑問に対して自分の存在があまりにもちっぽけなので、できるだけ考えないようにしようとするのですが、時に応じて再び心に上ってきて私たちを悩ませるのです。「現実主義者」と呼ばれるうちのある人々は、この時とばかりに「ほら見ろ、神も仏もあったもんじゃない!」などと口走ったりします。 それでは、聖書はこれらの問題に関して何と言っているのでしょうか?聖書のある箇所では「隠されていることは神のもの、現されたことは私たちの物」と書いてあります。これはあたかも、神が私たちにこう語りかけておられるようです。「どんなに考えても調べてみても解決されないことは、私に信頼し、私の手にゆだねなさい。そして既に明らかにされていること、また与えられているものに目を向け、それらを喜び、また最大限に活用することによって幸福を得なさい。」と。

(232) “志の堅固な者を、あなた(神)は全き平安のうちに守られます。その人があなたに信頼しているからです。”

いのちあるものは『成長』します。そして『成長』とはワクワクするものです。多くの人は、同じような日々の繰り返しに飽き飽きしたり、生きることをむなしく感じる原因を「人生の倦怠期」と診断したり「きっと転職が必要なんだ!」などと思ったりするようですが、本当の理由は「成長意欲を失っているから」なのです。 私たちに『成長意欲』を与えるのは「職業」や「立場」ではなく、『大志』です。言い換えるなら「何をしているか」が問題なのではなく、「何故それをしているのか」が重要なのです。『大志』のない者はどんなに転職しても虚しさを拭い去ることはできませんが、逆に心に大きな志を抱いている人は、たとえ左遷されても、飛ばされた先で花を咲かせることができるのです。 「ピーナッツの栽培に生涯をささげる」と聞いたら、あまりヤル気が起こる人はいないかもしれませんが、ジョージ・カルバート氏にとってはそうではありませんでした。彼はこのプロジェクトに徹底的に取り組み、何百ものピーナッツの用途を考案し、アメリカ議会に招かれて発表するほどになりました。彼はインタビューに次のように答えています。「この天地を造られた神が『ピーナッツ』をも造られたのです。ですから私は神に『このピーナッツで何をしたら良いのでしょう?』とお尋ねしたのです。そうしたら神が私に様々なアイディアを与えてくださったのです!」 日常のありきたりのことに、日頃注いでいる時間や注意力の数倍を費やしてみたらいかかでしょうか?もしかしたら今まで見えなかった全く新しい何かを発見し、その発見があなたを『新しいレベルへの成長』へと導いてくれるかもしれませんよ。

(231) “主のあわれみは尽きないからだ。それは朝ごとに新しい。”

私たちの人生において「生きる力を失わせるもの」の1つに『後悔の念』というものがあります。「浪費してしまったお金や時間」「逃してしまった絶好の機会」「犯してしまった過ち」そして「壊れてしまった人間関係」などなど。これらの『後悔の念』は、それを「将来のプラス」へと生かしていくのでなければ、人生やエネルギーの無駄遣い以外の何ものでもありません。 私たちが生きている限り、必ず「次の機会」というものがあります。過去の失敗は、将来のための『教訓』として行けば良いのです。そのために次の3つのことを心に留めておくと良いでしょう。 ①過去の失敗を「見て見ぬ振り」をするのではなく、しっかりと認め、その原因をつきとめ、心に刻む。『言い訳』をすることは、その場での責任逃れには役に立つかもしれませんが、決して根本的な解決はもたらしません。 ②もし失敗の原因が「自分の誤った態度・考え」であるなら、「まあ仕方ないさ」というようなあやふやな態度でやり過ごすのではなく、毅然とした態度で悔い改める。「誤った態度」を放っておくことは、神を、自分自身を、そして周囲の人々を傷つける結果を繰り返させるだけです。 ③「人生はやり直しが利く」ということを自分に言い聞かせ、私たちの弱さを憐れんでくださる神に信頼して再スタートする。 この天地を造り、私たち1人1人に命を与えてくださった神様は、私たちの「あら捜し」をされる方ではなく、「不完全さを覆ってくださる」お方です。この方と共に歩む時、私たちは他の人のことだけでなく、自分自身のことをもゆるしながら生きることが出来るのです。