(218) “悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。”

ある会社員が毎朝駅の売店で新聞を購入していました。売店の販売員はいつもこの会社員に礼儀正しく丁寧に応対するのですが、この会社員はいつもイライラしていて、お金を払うと新聞を奪い取るようにして急ぎ足に去って行くのです。それにも関わらずこの店員は去り行く男の背後から、毎回明るく弾んだ声で「いつもありがとうございます!」と声をかけるのでした。ある朝売店で一緒に働いていた同僚がその様子を見ていて「あのお客はいつもあんな風に無愛想なの?」と尋ねました。「ええ、そうなのよ。」同僚は更に尋ねました。「それなのにあなたはどうしていつもああやって明るく丁寧に応対できるの?」店員は答えました。「だって、私がお客さんにどんな風に応対するかを、お客さんの私に対する態度で左右されたくないもの。」 『移る病気』は「インフルエンザ」とか「エイズ」ばかりではありません。「不機嫌」「怒りっぽさ」「陰口」など、人の気分や悪習慣も大変伝染しやすいものです。ですから「どんなタイプの人といつも一緒にいるか」は選んだ方がいいですね。けれど「1日のうちにどのような人と出会うか」を選ぶことはできません。ですから私たちは朝ごとに自分の心にこう言い聞かせる必要があります。「私の気分は、他人や周囲の状況(お天気?)が決めるのではなく、私自身が決めるのだ!」 神はそのひとり子イエス・キリストをお与えになるほどに、私たち1人1人を愛してくださいました。そしてその同じ愛が今日も私たち1人1人に注がれています。私たちが周りではなく、上を見上げて、今日も変わらない愛を注いでくださっている神と心を通わせて生きる時、あなたから発信される『愛のウイルス』が周りを変えて行くかもしれません。

(217) “主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。”

野生の鹿やシマウマなどの群れは、ライオンや虎などの野獣に襲われた時、生まれたばかりの赤ん坊をその場に置き去りにして逃げるそうです。これは彼らが自分の子供を大切にしないからではなく、次の2つの理由からです。第1に、赤ん坊は足手まといになるので、赤ん坊を連れて逃げると、自分自身も赤ん坊のいのちも危険にさらされるからです。そしてもう1つの理由は、赤ん坊はまだそれらの野獣を恐れることを知らないので、置き去りにしても野獣に見つかる可能性が低いからです。何故なら、野獣は獲物たちの『恐れの波長』を嗅ぎ取って追ってくるからです。 私たち人間の世界も同じです。私たちの人生を脅かす災いは、しばしば私たちの『恐れの波長』に引き寄せられて忍び寄ってきます。「もしかしたら悪い病気にかかっているのではないか?」「事故に遭ってしまうのではないか?」「これだけの貯金では足りないのではないか?」「いつか恋人に裏切られてしまうのではないか?」などなど。これらの恐れは私たちの人生に対する態度を消極的にし、お酒やドラッグへと走らせ、少しずつ私たちの人生を蝕んでいき、やがて破滅へと至らせるのです。 これらの恐れは一体どこからやってくるのでしょう?それは「私たちのいのちの根源である『神』から離れてしまっていること」から来ているのです。ある人々は「自分の人生は自分で切り拓く。『神』なんか要らない!」と言い、また別の人々は「神様は真面目で勤勉な人たちにはご利益をくださるが、自分のように弱く失敗ばかりしている者は見捨てられてしまうに違いない」という『誤った神観』を持っています。 聖書では、しばしば私たち人間と神との関係を「羊と羊飼い」にたとえています。羊は動物の中でも最も弱く依存的であり、羊飼いの優しく力強いケアなしには生きられない存在です。そして神は私たちにも、「自分の弱さや限界を素直に認め、神に信頼して生きるように」と願っておられるのです。生きていく上で試練や挫折が起こるのは、それらの経験を通して私たちが「私たちの人生の羊飼いである神」と出会うことができるためなのです。

(216) “だれも自分の身を憎んだ者はいません。かえって、これを養い育てます。”

幼い子供がお友だちに囲まれて誕生日を祝ってもらっている状況を思い浮かべてみてください(自分がお祝いしてもらった時の思い出でもいいですよ)。きっとその子どもはその日、何だか「物語の主人公になったような気分」を味わっているに違いありません。大人になるにしたがってそのような機会は減っていくかもしれませんが、何歳になっても「自分は価値のある存在である」という気分を味わいたいという欲求は変わらないはずです。 前述の聖書のことばの「養い育てる」という語の原文は「建て上げる,敬う,祝う,宝物のように扱う」というような意味を持っています。このように扱われて悪い気分になる人はいないのではないでしょうか? 私たちは皆上記のように扱ってもらうことを望みますが、と同時に親しい間柄において(夫婦や親子、親しい友人など)互いを「養い育てる」ことができたとしたら、どんなに人生が豊かになって行くことでしょう。誕生日や試験にパスした時などに「おめでとう」のひと言をかけてあげるのはもちろんのこと、ささいなことに関しても「あなたの存在を感謝してるよ」「あなたは私にとってかけがえのない存在だよ」と照れることなく伝えてあげられたら、相手はきっと心強く感じるに違いありません。 また私たちがそのような心遣いを必要としているのは、何も『お祝い事』の時だけではありません。何かに失敗したり、新たなチャレンジに尻込みしたりしているときに、影のようにそっと側にいてあげることは、どんな言葉にもまさって相手の心を力づけることでしょう。 神様は「自分を愛するごとくに、あなたの隣人を愛せよ」とおっしゃいました。神様にとっては、私たち1人1人がかけがえのない存在です。その私たちがそのように互いを喜び合い、祝福し合い、支え合う時に、天では大きな喜びが湧き起こるのです。

(215) “人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である。”

あなたがもし、はしごを登って高いところの壊れた部分を修理しようとして、てっぺんまで登ってから、間違った方向にはしごをかけていたと気づいたらどうしますか?ガッカリしますよねぇ。登ったはしごが長ければ長いほどその落ち込みは激しいのではないでしょうか?それでも単なる『はしご』ならば、またちゃんとしたところにかけ直して登りなおせば済みます。 ところがこれが「人生のはしご」だとしたら、どうでしょう?半ばまで登った時点で「どうやらこのはしごは、間違ったゴールへ向かっている」と気づけば、また登りなおすことも可能でしょうが、終わりまで登りつめてから「しまった!はしごをかける場所を間違った!」では遅すぎます。 私たちはこの『人生のはしご』をそれぞれの「基本的価値観」に基づいて登って行きます。「食べ物の好み」や「学歴」また「職業」などはこれに含まれません。もっと基本的なもの、すなわち「どうしてそういう考え方をするのか」また「何故あえてそちらを選ぶのか」など、私たちの人生の方向性を左右する基準がこれです。 この『基本的価値観』は次のような3つの性質を持っています。 ①生涯共に過ごすパートナー ②状況や気分に左右されることのない『方位磁針』 ③時代の流れや他人の言葉などに振り回されるのを防ぐ『錨』 誤りのない「基本的価値観」に基づいて生きることは、人生において最も重要なことの1つです。そしてその「正しい価値観」を私たちに提供してくれるのが、私たちをお造りになられた『神』であり、またその神が私たちに与えてくださった「人生の取扱説明書」である『聖書』なのです。

(214) “愚かな者は怒りをぶちまける。しかし知恵のある者はそれを内におさめる。”

『怒り』という感情は、私たちに必要なものとして神から与えられているものですが、私たちはこの感情に「振り回される」のではなく、きちんとコントロールできる者でなくてはなりません。何らかのきっかけで怒りが爆発しそうになった時には、ぜひ自分自身に次の2つの問いかけをしてみてください。 ①「この出来事は、本当に自分の怒りをぶつけるにふさわしいことであろうか?」 ・多くの場合、私たちは物事や人々の「一面だけ」しか見ないで判断してしまいます。誰にでも失敗はあります。たまたまその人の悪い面を見てしまったからといって、そのことだけで相手を評価してしまわないように気を付けなければなりません。 ②「ここで自分の怒りを表すのが、最も良い時・場所・方法であろうか?」 ・頭に血が昇ってしまっている時にこのように自問自答するのは難しいことですが、感情のままに行動するのは真の人間らしさではありません。誰かに不当な扱いをされた時や、物事が思った通りに運ばない時、私たちが自問自答すべきことは「自分にはここで『怒りを表す権利』があるだろうか?」ではなく、むしろ「自分にはここで『怒りを表す権利を拒否するだけの度量』があるだろうか?」です。 私たちはしばしば「ここで黙っていては、相手から甘く見られる」と思いがちです。しかし真の強い人とは「落ち着いて判断する心」を持つ人です。そしてそのような強さは私たちを「要らぬ後悔の念」から救い出すことができるのです。

(213) “あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。”

“コンフォート・ゾーン”という言葉があります。日本語に訳すと「居心地の良い場所」となるでしょうか。例えば普通の人にとっては「自分の家」「安心できる職場」「親しい友人たちに囲まれた状態」などがこの“コンフォート・ゾーン”にあたるでしょうし、またそこから1歩踏み出すのには少し勇気が要ります。 “コンフォート・ゾーン”は通常年齢と共に少しずつ拡げられていきます。例えば、生まれてから3~4歳までは母親の許で過ごしていたのが、幼稚園へ行くようになり、また小学校へ上がり、徐々に「学外活動」へも参加するようになり、やがて親元を離れて暮らすようになります。ところがこの“コンフォート・ゾーン”から踏み出すのを恐れ、「自分は学校へ行かず、ずっと家の中で家族と過ごしたい!」となると、その人の成長は止まってしまいます。 神が私たちの人生におけるご自身のご計画を成就なさろうとする時、神はしばしば私たちをこの“コンフォート・ゾーン”の外へと踏み出すように招かれます。何故なら、私たちが『現状維持』に満足しているうちは、神が私たちのために用意しておられる「ダイナミックな人生」を真の意味で体験することができないからです。そして実際、10年後20年後に自分の人生を振り返ってみる時、私たちが感動を持って振り返ることができるのは「コンフォート・ゾーンから踏み出した経験」であり、逆に深い後悔の念を感じるのは「コンフォート・ゾーンから踏み出る機会を拒んだ経験」なのです。 今から20年前、私たち家族は『宣教師』としての人生へと踏み出しました。3人の子供たちはそれぞれ6歳,4歳,1歳半でした。何人かの知り合いは、私たちのむこうみずな決断にあきれていました。しかし私たち家族が今喜びと感動を持って振り返るのは、神の祝福に満ちた『並外れた20年間』なのです。一方ある家族は「神が自分たちを宣教師として働くよう招いておられる」と感じていたにも関わらず、周囲の強い反対に負けてその道を断念し、大きな後悔の念にさいなまれつつ晩年を過ごした、と聞いたことがあります。 初めにも書いたように、「コンフォート・ゾーンから踏み出すこと」は簡単ではありません。しかしそれは決して単なる「危険な賭け」ではなく、「共に歩んでくださる神への信頼を行動に現すこと」なのです。そして私たちの『真実な神』は、ご自身に信頼して敢えて“コンフォート・ゾーン”から踏み出す人々に、特別の祝福を注いでくださるのです。

(212) “熱心だけで知識のないのはよくない。急ぎ足の者はつまずく。”

私たちの人間関係にしばしば混乱をもたらすものに「勝手な思い込み」というものがあります。私たちは元来自己中心的な性質をもっていますから、相手を「思いやろう」としているにも関わらず、自分勝手な考え方で相手の気持を察しようとしてしまい、思いやりが裏目に出て、感謝の代わりに恨みを買ってしまうことがあるのです。結果的に、本当なら関係が更に親密なものになるはずだったのに、お互いの心に深い傷を残すことになります。 しかしこのような悲劇は、ほんのちょっとした機転で回避することができます。それは「自分勝手な推測に頼らず、思い切って本人に尋ねてみる」ということです。あなたが本当に心から相手にとっての益を求めているなら、相手が今本当に必要としているものを教えてもらう時間(手間)をかけてみたらどうでしょう? 物質社会に生きている私たちは、つい『人助け』を「物を与えること」で片付けてしまう傾向があります。でも実際は『物』よりも価値があるのは『時間』です。仮に相手が打ち明けてくれた必要が、あなたが具体的に応えてあげられないものであったとしても、相手はあなたが「聞いてくれた」ことによって励ましを受けるでしょうし、聞いたあなたもその人の必要のために祈ることができるし、またその必要に応えられる人を一緒に探してあげることだってできます。 神は私たちとの親密な関係を築くために『人(イエス・キリスト)』となられました。私たちも「私:助ける人」「あなた:助けてもらう人」ではなく、「相手と共に立つ人」となるために時間を割ける者となりましょう。

(211) “互いに励まし合い、互いに徳を高め合いなさい。”

1980年代に上映された「スタンド・アンド・デリバー」というアメリカ映画があります。主人公はある高校に赴任した数学の教師なのですが、彼のクラスに同じ『ジョニー』という名前の2人の男子学生がいました。名前は同じでしたが、出来は全く異なり、1人は明るい性格で成績も良く、クラスの人気者でした。ところがもう1人のジョニーはというと、いわゆる「クラスの問題児」で、その教師はいつも彼に手を焼くのでした。 ある日のPTAの集まりの日、1人の母親が教師のところにやってきて尋ねました。「ウチの息子のジョニーはちゃんとやっているでしょうか?」教師は「出来の良いジョニー」の方と勘違いして、「いやぁ、彼が私のクラスにいてくれることは大きな喜びですよ。彼の存在をどんなに感謝しているか、表現のしようもありません!」と答えました。翌日当の「問題児ジョニー」が教師のところにやってきて言いました。「昨日お母さんから、先生がボクのことをどんな風に思っていてくれているか聞きました。ボクのことを歓迎してくれた教師は、先生が初めてなんです!」 その後このジョニーはどうなったでしょう。彼は頑張って毎日宿題をこなすようになり、クラスの中でも指折りの熱心な学生となって、そして何よりもこの教師の1番の理解者・友人となったのです。 もしあなたが誰かの隠れた優れた点を見出し、勇気をもってそれを相手に伝えるなら、それは相手にとって「生きる希望を増し加える」ことになるのです。別の言葉で言うなら、「今の自分よりもひと回り優れた者となろう」という『ヤル気』を起こさせるわけです。そんな励ましを与える者となるのに『お金』も『特別な才能』も『立派な外見』も要りません。また、そんな励ましを必要としていない人はいません。さあ、今日から初めましょう!

(210) “争いを避けることは人の誉れ、愚か者はみな争いを引き起こす。”

一般に日本人は「議論するのが苦手」と言われます。実際「議論すること」自体は悪いことではないのですが、しっかりとしたマナーを持って議論しないと、相手との関係がギクシャクしたり、関係そのものを壊してしまうきっかけになるため、敢えて議論することを避けてしまう傾向があるのではないでしょうか?ではどのようにして上手に(建設的に)議論することができるのでしょう? 神は私たち1人1人をユニークな存在としてお造りになりましたから、1人1人が違った意見を持っていて当然です。私たち夫婦は大変仲良しですが、意見の衝突はしょっちゅう起こります。しかしそれをエスカレートさせない方法はそれほど難しいことではありません。 まず第1に、「相手の意見に深く耳を傾ける」ということです。意見の衝突をエスカレートさせる大きな原因の1つは、「自分が最も正しい」と無意識のうちに思い込んでいることにあります。ですから「相手は自分のことが分かっていない!」という不満がお互いに爆発し、もはや議論は収集がつかなくなります。ところが、もしあなたが「相手は私がまだ知らない何かを知っているのかもしれない」というへりくだった姿勢で聞く耳を立て、相手の言い分だけではなく、その背後にある気持をも汲み取ってあげるならば、議論はお互いに対する『深い理解』につながり、建設的な方向へと進みます。 上手な議論のもう1つのコツは、「焦点を『問題そのもの』ではなく、『問題の解決』に合わせる」ということです。聖書によると、人間は『禁断の木の実』を食べて以来、その罪責感の故に「責任転嫁」をするようになってしまったようです。「こんな事件が起こったのは、一体誰が原因なのだ?」と問われるや否や、私たちは自分を守ろうとするがあまり、必死で言い訳したり、他の誰かに責任をなすりつけようとしたりします。それでは何も問題の解決にはならず、人々が傷付くばかりです。神様は私たちの目を前後に付けることなく、前にだけお付けになりました。それは私たちが後ろ向きな姿勢ではなく、常に前を向いて(事態の改善に向けて)歩むためです。問題解決のために原因を探ることは大切ですが、それが「誰の失敗によるものか」は重要ではありません。 『上手な議論』とは、常に「お互いをより深く理解しようとする姿勢」と「共に事態の向上を願う心」から生まれるものなのです。

(209) “あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。”

ある人々は、「クリスチャンの人たちはよく『お祈り』をするけど、一体どんな風にお祈りしたらいいの?」 と尋ねます。実のところ、そのような人々は「どう祈ったら良いのか分からない」のではなく、「どうやったら『あの人々のように』祈れるのか分からない」のです。 イエス・キリストは『祈り』に関して教えるとき、「形式や言葉遣いなどにこだわらなくて良い」とおっしゃいました。何故なら、神は私たちの祈る『ことば』に関心があるのではなく、『心』に関心があるからです。その祈りがどれほど口先で上手に表現されていても、その人の心が深く神様につなげられていないなら、その祈りは神の前に価値のないものなのです。 『祈り』はある面『呼吸』のようなものです。私たちは通常ほとんど意識することなく、本能的に『呼吸』をしています。それは私たちのからだが「酸素」なしには一瞬たりとも生きられないからです。すなわち『呼吸』は、「わたしたちが酸素にどれほど依存しているか」をありのまま表現しているのです。 『祈り』も同様です。私たちは何も格好をつけて「自分を信仰的に見せるため」に祈るわけではありません。それは「私たちが神様にどれほど依存しているか」をありのままに表現した、いのちの営みなのです。『祈り』を通して私たちは、今日も生きて働いておられる神様と、親しい関係を保ちながら歩むことができるのです。