(208) “人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である。”

今日はまず、ちょっと想像力を働かせていただきましょう。暗くて長~い廊下を想像してみてください。その両脇にはいくつものドアがあるんです。それぞれのドアには、その部屋の中で行われている様々な「ためにならない楽しみ」が書かれています。『アルコール中毒』『ニコチン中毒』『麻薬』『ポルノ』『ギャンブル』などなど。各部屋の中からは楽しそうな笑い声や興奮に満ちた叫び声が洩れ聞こえてきます。 これは私たちの人生を現しています。私たちの人生(特に思春期)の道のりには、様々な「ためにならない活動への誘惑」が満ちています。しかもそれらの力は強大で、そこに加わらないことはあたかも「大事なものを受け損ねている愚かなこと」のように思えるのです。「いま自分が歩いている道はあまりにも不確かで、何の楽しみも感じられない。いっそのことどこかの部屋へ飛び込んでしまった方が・・・」 すべての誘惑は、大抵その『恐ろしい実体』を隠しながら、親しみのあるごくありふれた装いをして近づいてきます。「皆やっていることさ。ちょっと試してみるだけなんだから大丈夫。楽しいこと請け合いだよ!」そんな誘いについ心を許して「じゃあ、ちょっとドアを開けて中を覗いてみるだけ。」そのように始まって、そしてズルズルとアリ地獄へ落ちるように堕ち込んで行くのです。 ではどのようにしてこのような誘惑に打ち勝つことができるのでしょう?2つの方法があります。1つ目は「必要な忍耐力を養うこと」です。面白い実験を聞いたことがあります。3~4歳の子供をある部屋に1人にさせ、テーブルに美味しそうなお菓子を1つ置いておきます。子供にはこう言い聞かせておきます。「ここで15分間待っててね。このお菓子を食べてもいいけど、もし食べないで待っていられたら、戻って来た時にもう1つあげるよ。」ある子供は大人が立ち去った後直ちに食べてしまいますが、いろいろと気を紛らわせながら、最後まで待っている子供もいます。そして待つことができ、ご褒美をもらえた子供たちこそ、様々な誘惑に打ち勝つ人生を歩むことができるようになるのです。現代は「欲しいものを何でもすぐに買い与えてしまう時代」です。『恵まれた時代』ということもできますが、ある意味子供たちにとって大変不幸な時代です。『必要な忍耐力』を養いにくい時代だからです。 もう1つの良い方法は「人生の真の醍醐味を若いうちから体験しておくこと」です。我が家の3人の子供たちは、幼い頃から『宣教師の子ども』として発展途上国で暮らしながら「神を愛し、人々を愛して生きることの醍醐味」を実感しつつ育ち、日本へ帰国してから『思春期』を迎えました。当時日本はいわゆる「ファミコン」の真っ盛りの時代で、大変ご親切な知り合いがウチの子供たちにもこの魅力的な遊具を買い与えてくださり、しばらく彼らも「はまって」いました。ところがしばらくするとすぐに飽きてしまって、もっぱら親しい友人たちと外で遊び始めたのです(まあ長男は音楽にはまり、今では教会や高校などで楽器の指導に当たっていますが…)。すなわち『ファミコンの魅力』も、彼らの心に根差していた「より高次の楽しみ」には勝てなかったのです。 神は私たちを「人生の真の醍醐味を味わいながら生きるように」とお造りになりました。自分自身が、そして次世代の子供たちが『目先のお楽しみ』に振り回されることなく、しっかりと高次元の目標に向かって歩んでいけるように最善を尽くしていきたいですね。

(207) “機会を十分に生かして用いなさい。”

私がまだ20歳の頃好んで人々に尋ねていた質問があります。それは「もしあなたが『余命3ヶ月』と宣告されたらどうしますか?」 というものでした。特に深い意図は無く、単なる好奇心から出た質問でしたが、返って来る答えはいつも「今と違った生き方をする」というものでした。「持っているものをすべて処分して世界旅行をする」とか、「食べたい物を好きなだけ食べる」、また「ずっと好きだった人に告白する」などなど。しかしたった1人だけ、こう答えた方がいました。「何も変わりはしません。私は今でも1日1日を精一杯生きていますから」。 この女性は、私が通っていた教会で託児所を営んでおられる方でした。こよなく神を愛し、また子供たちを愛していた人でした。毎週日曜日には教会学校で子供たちに神様の愛について教え、そしてある祝日にやはり教会の子供たちをピクニックに連れて行く途中脳溢血で倒れ、そのまま息を引き取られました。まさに死の瞬間まで子供たちを愛し、神に仕えていた人でした。 「豊かな人生を生きる」とは、単に長生きするとか、財産を増やすとか、多くの業績を成し遂げるとかいったものではありません。言わば「次の24時間にどれだけのエネルギーを注いで生きるか」ということだと思います。今日を精一杯生きられない人に、いわゆる「豊かな人生」を生きることはできません。ついダラダラとテレビを観てしまったり、意味も無くパソコンの前に延々と座ってみたり、くだらないおしゃべりに時間を費やしたり・・・ 現代の世の流れは私たちの貴重な時間を奪って行きます。私たちは「より確かな目標」に向かって歩みを進めて行かなければなりません。 あなたをお造りになられた神は、あなたの人生に崇高な目的・計画をお持ちです。イエス・キリストを通してこの神との関係の中に生きることは、あなたが『真に豊かな人生』を歩むための必須事項です。あなたに残された貴重な時間を最大限に生きるために、「神があなたのために抱いておられるご計画」にフォーカスをおいてみませんか?

(206) “神はこのイエスをよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。”

日本ではあまり馴染みはありませんが、この週末は「イースター・ウィークエンド」と呼ばれ、世界中で『イースター』すなわち「イエス・キリストの復活」が祝われます。 ここニュージーランドでは、イースターの時期が来るたびに店頭に並ぶ食べ物が2種類あります。1つは『ホット・クロス・バンズ』と呼ばれるもので、小さな柔らかくて四角いパンの表面に十字架の模様をあしらったものです。まあこれは意味が分かりやすいのですが、もう1種類は『イースター・エッグ』と呼ばれ、もともとは本物の卵が使われていたのですが、今では「卵型のチョコレート」がお店の広いスペースを独占して売られており、さながら日本の「バレンタインデー」のようです(ちなみに、バレンタインデーに女の子が男の子にチョコレートをプレゼントするのは日本くらいです)。 では、「キリストの復活」と「卵」とはどのような関係があるのでしょうか?1つにはやはりそこに『新しいいのち』が象徴されていることでしょう。卵は外側から見ると一見いのちを感じられません(単なる食べ物?)が、実はその中にいのちが宿っていて、時が来るとそのいのちが内側から飛び出してきます。そのようにしてイエスも十字架の死から3日目によみがえられたのです。 もう1つのことは、その『3重構造』にあります。卵が「黄身・白身・殻」の3つの部分からできているように、イエスの遺体も真っ白な「亜麻布」に包まれ、そしてその墓の入り口は堅く重たい岩で閉じられていました。しかし『黄身』の部分にいのちがあって、それがやがてヒヨコになり、まとわりつく『白身』を脱ぎ捨て、堅い殻を破って出てくるように、死からよみがえられたイエスは、まとわりつく亜麻布を脱ぎ捨て、堅く閉じられていた墓を打ち破って出てこられたのです! イエス・キリストは今日も生きておられ、ご自身に信頼し従う者たちを『死に打ち勝ついのち』によって生かしてくださるのです。

(205) “イエスは言われた。「わたしはさばきのためにこの世に来ました。それは、目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。」”

1人の男性がローカル列車の中で、外の景色を凝視しながら「素晴らしい!なんて素晴らしいんだ!」を連発していました。これといって目を留めるほどの眺めがないばかりか、むしろゴミゴミした街並みの中、歩道には投げ捨てられた紙屑が散乱しているような光景しか見当たらないのを見て、隣に座っていた婦人が思わず彼に尋ねました。「一体何を見てそんなに感動しているの?」すると男は答えました。「いや、実は私は生まれてから30年間ずっと盲目だったのですが、多くの方々の資金援助と医学の発達によって『角膜移植手術』を受け、ついに見えるようになったんですよ!ですから、見えるものすべてに感動してしまうのです!」 心が不平不満に覆われてしまうと、せっかく神様が用意してくださっている『美しいもの』さえ見落としてしまいがちです。日常のささいなことの中にも『神の恵み』は満ちています。日々「神様、あなたが私の人生に用意されている祝福の一端を見逃すことの無いように、どうぞ今日も私の目を開いてください」と祈りましょう。

(204) “あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。”

『思い煩うこと』ほど「無駄な時間の過ごし方」はありません。イエス・キリストも次のように言われました。「あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか?」全くその通りです! 『思い煩い』は「心の平安」や「親密な人間関係」といった、私たちの人生を豊かにしてくれる要素を奪っていきます。また『思い煩い』はいつも背後から私たちの隙を伺って、私たちの思いの中に忍び込んで来るのです。 『思い煩い』というものは通常「私たちにはどうにもできないこと」に関してわたしたちが「あれやこれや」と思い巡らすことが原因です。1日の営みを終えて床に就いた後で「もっとああすれば良かった…」とか「あのことはどうなってしまうのだろう???」などと考え始めて、良く眠れなくなったりするのです。どちらにしても寝ている間には何もできないのだから、頭を切り替えてサッサと寝てしまえば良いのに、この『思い煩い』のためによく眠れず、結局翌日は寝不足のために、逆に仕事の能率が更に落ちてしまい、更に『思い煩う』ことになるのです。 聖書が私たちに勧めるのは、「思い煩う代わりに、あなたが眠っている間にさえあなたを顧みてくださる『全能の神』にゆだね(祈り)なさい」ということです。あなたの頭を悩ませている数々の『思い煩い』を片っ端から神様にぶちまけて、「もうあなたに打ち明けましたから、あなたに信頼して、もう悩みません!」と言って終わりにするのです。 ある方は「そんな、神様を『悩み相談所』のように使っては申し訳ない」とおっしゃるかもしれません。しかし聖書には「神は、彼に信頼する者を『神の子供』と呼んでくださる」とあります。そして『親』にとって、愛する自分の子供が1人でクヨクヨと悩んでいるのを、ただ黙って見ていることほど辛いことはありません。 『祈り』とは、何も「お願い事」ではありません。むしろ「神に信頼する者が、その真実な思いを神に打ち明ける行為」なのです。

(203) “彼(キリスト)はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない。”

『親しい者の死』を経験することは、私たちの心に「深い悲しみ」、時には「神に対する怒り」を起こさせます。何を隠そうこの私もそのような人間の1人でした。 私は小学2年生の時に、祖父の臨終の場面に遭遇しました。今では「人の死に目に会う」という機会はあまりないように思えますが、私にとってこの経験はいろいろな意味で衝撃的でした。 また私が小学4年生の時には、前の年の担任の先生が自殺をしました。電車への飛び込み自殺でした。「そんなことがあっていいのか?」と、ただただ驚くばかりでした。 極めつけは、忘れもしない、私が小学6年生になる年の4月1日(エイプリルフール)。前日にも遊んだばかりの私の1番の親友が、交通事故で亡くなったのです。それを母から聞かされたとき、まさに「頭の中が真っ白」になりました。葬儀出席のために彼の家を訪れたとき、彼のお母さんが玄関先まで走り出てきて私を強く抱きしめ、「ケンちゃんだけが私のこのどうしようもない悲しみを分かってくれるよね!」と泣き叫んだことを、昨日のことのように思い出します。 神は私の人生にこのようなことが起こることをどうして許されたのでしょうか?そもそも私たちの人生には何故この『死』という乗り越えられない壁があるのでしょう? しかし私は、イエス・キリストと出会ったことを通して答えを見出しました。何故なら彼は「死を味わう必要のない方」だったにも拘わらず、私たちの代わりに十字架で死なれ、そして3日目によみがえられたからです。彼は私たちの弱さや深い心の痛みを理解してくださる優しさと、私たちを死の向こう側の希望へと運んでくださる強さとを兼ね備えておられる方なのです。 あなたもこの「イエス・キリストによる慰め」を経験し、彼に倣って「弱さを理解することのできる真の強さ」を持って生きたいとは思いませんか?

(202) “志の堅固な者を、(神よ)あなたは全き平安のうちに守られます。その人があなたに信頼しているからです。”

海洋学者たちの調査によると、どんなに激しい嵐(例えば、高さ30メートル以上もの津波が起こるような)のときでも、海中に8メートルも潜るならば、そこは何事もないような静けさだそうです。 これは私たちの人生にも同様なことが言えます。すなわち、私たちの人生に大きな嵐が起こることは避けられないけれども、私たちの心の深い部分で『決して揺るがされることのない存在』につなげられているならば、私たちはそれらの『人生の荒波』を乗り越えていくことができるのです。 迫害下にあったクリスチャンたちの遺した次のような詩があります。「激しく打ちたたかれれば打ちたたかれるほど、私たちは釘のようにより深くめり込んでいく。そしてその深みで私たちは『真の神の平安』と出会うことができる」と。 私たちが『平安』を失うのは、自分ではどうしようもない困難に陥った時でしょう。でも神に解決できない問題は1つもありません。私たちが「人生の試練」に直面するのを神が許されるのは、それらの試練を通して私たちが「神のみが与えることのできる『真の平安』」を体験させるためではないでしょうか?

(201) “あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。”

以前クライストチャーチでお会いした方から、最近こんなお手紙をいただきました。 「ニュージーランドで1番利率の高い銀行を紹介していただけませんか?日本にある私たちの貯金の大部分をそちらの銀行に移したいと思うので…」 恐らくほとんどの人々は『お金持ち』になりたいと思っていることでしょう。もしかするとある方々は「もしもっとお金が貯まったなら、きっともっと気前よくなれて、いろいろな場面で施したり寄付したりできるようになるに違いない」と思っておられるかもしれませんが、実際は、『お金持ちであること』と『気前のよさ』とはあまり関係はないようです。数年前のイギリスの調査では、収入の少ない方から20%の方々は、その収入のうちの3.2%を寄付していて、収入の多い方から20%の方々は、収入のうちの0.9%しか寄付していないそうです。 金融関係に関する専門家のダニエル・レビン氏は次のように言っています。「『経済的繁栄』とは、どれだけ稼いだかによって測られるものではなく、むしろどれだけ与えたかによって測られるものである。」つまり、本当に気前の良い人というのは、自分がどれだけ持っているかに拘わらず、いつも『与える機会』を捜している人のことを指します。そしてもし私たちがしっかり目を開けて生きているなら、この『与える機会』というものはそこらじゅうにあるものです。 イエス・キリストは「あなたがたがこれらの小さき者たちにしたのは、わたしにしたのだよ。」とおっしゃいました。神にとっての1番の宝物は『お金』ではなく『人(私たち)』です。神は私たちに「2番目以下の宝を、1番の宝のために用いること」を願っておられるのです。

(200) “わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。”

皆さんは『台風直撃』の経験をしたことがあるでしょうか?私たち家族はバヌアツ共和国にて宣教師として働いていたとき、電気も水道もない小島にある粗末な小屋でそれを経験しました(ですから『停電』や『断水』の被害の恐れはありませんでしたが…)。いやぁ、なかなかの迫力でしたよ。その辺のジェットコースターその他のアトラクションとは格段の差がありますね。 ところで『台風』には面白い構造上の特徴があります。あれほどの破壊力を持つ自然現象であるにも拘らず、その中心部にある『台風の目』と呼ばれる部分は比較的穏やかで、その部分にいるときは一瞬「あれ、もう台風は去ったのかな?」と勘違いしてしまうほどです。ところがその中心から少しでもズレているいわゆる『中心付近』では物凄い暴風と大雨にさらされます。もし私たちが台風の様子を遥か上空から眺めることができたなら、恐らく「荒れ狂う風雨のど真ん中に存在する不思議な静けさ」を見てビックリすることでしょう。 私たちの人生にも「台風の真っ只中」のような時期がありますよね?「泣きっ面に蜂」ではありませんが、ただでさえ苦しい状況にあるのに、更にまた試練が増し加わるようなことがあります。思わずも「神も仏もない!」と叫びたくなるような…。 こんなとき、神様がそれらの試練を直ちに解決してくだされば良いのに、滅多にそういうことはありません。何故なのでしょう?神様は私たちをもてあそんでおられるのでしょうか?そうではありません。神は私たちに「困難なしの人生」を約束してはおられませんが、「どんな困難の中でもわたしは必ずあなたと共にいて、あなたを守る」と約束してくださっています。神は私たちに「何の困難もないお気楽人生」を与えることによってご自身の愛を現されるのではなく、かえって「神様の助けなしには耐えられそうもない試練」の中にあって『不思議な平安(静けさ)』を体験させることを通して、ご自身の私たちに対する深い愛を伝えようとしておられるのです。

(199) “私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。”

何年か前に、カナダのエドモントンで行われた陸上競技大会の4百メートルリレーにジャマイカのチームが出場しました。ちょうどそのリレー競技が始まる頃、そのチームの第3走者の親しい友人が、同じ競技場の別の競技に出場していました。まだ自分の走る順番が回ってこないと油断していたその第3走者は、ついつい友人の活躍ぶりに熱中してしまい、何と第2走者がバトンを持って自分に向かって突進してくるのに気づかず、2人は衝突してしまったそうです。言うまでもなく、ジャマイカチームは大切なレースに惨めな敗北を喫してしまいました。どうしてこんな悲劇(喜劇?)が起こってしまったのでしょう?それはもちろんこの第3走者が『自分のレース』に集中する代わりに「他の人のレース」に注目しすぎてしまったからです。 神様は私たち1人1人に「全力で走るべきレース(人生)」を与えてくださっています。そして見つめるべき場所(人)も。それは「周りにいる目を引く人々」ではなく『イエス・キリスト』です。 『人生』はある意味「リハビリテーション・ルーム」のようなものです。そこに集まる人々のニーズは1人1人違っており、それぞれの現在のレベルも異なっています。お互いを眺めながら一喜一憂していても始まりません。ただしそこに集まっているすべての人に共通する『1つの目標』があります。それは「本来あるべきコンディションに回復する」というものです。そして私たちすべてが目標とすべき『人間として本来あるべき姿』それがイエス・キリストなのです。 オリンピックの「ボート漕ぎレース」をご覧になったことがあるでしょうか?複数の漕ぎ手がペースを合わせてボートを漕ぎながらゴールを目指すのですが、肝心のゴールは自分たちの背後にあるので見えないのです。それでは彼らはどこを見つめて進むのでしょう?それは選手のために号令をかけ、また軌道修正を命じる『キャプテン』です。このキャプテンは自分では少しもボート漕ぎに参加しません。しかし彼はメンバーを力強く励まし、正しい方向へと導き、全員がゴールの栄冠を勝ち取ることができるように最善を尽くします。そして漕ぎ手たちはそれを微塵も疑うことなく、ただキャプテンを見つめながら力を出し切るのです。 私たちもこの『人生最高のキャプテン』であるイエス・キリストを見つめながら、力いっぱいそれぞれの人生を進んで行きましょう!