(198) “私はいつも、神の前にも人の前にも責められることのない良心を保つように、と最善を尽くしています。”

皆さんは飛行機に乗ったことがありますか?搭乗手続きの最初にはいつも『手荷物検査』という場所を通ることになります。そしてそこには「金属探知機」があって、そこを通るためにポケットなどに入れている金属類やアクセサリーなどをいったん全部外さなければなりません。さもなければ金属探知機が反応して危険を知らせるからです。もしナイフや銃などを隠し持ってでもいたなら、拘置所に連れて行かれることでしょう。 私たちの心の中にもそのような「危険を知らせる探知機」があります。それは『良心』です。そして私たちがイエス・キリストに人生を明け渡して生きるようになると、聖霊なるお方がその良心を清め、より敏感に私たちの人生を破壊しようとする悪に反応し、私たちを「悔い改め」と「聖い歩み」へと導いてくださいます。 残念ながら今の世の中には、この大切なセンサーである『良心』が鈍らされてしまっている人々もいます。何度も警告を受けたにもかかわらず、それらを無視して自分の欲を優先し続けた結果です。 皆さんの多くは「タイタニック号の悲劇」をご存知だと思います。「決して沈むことのない豪華客船」といううたい文句で出港したタイタニック号は、迫りくる危険のために周囲の船から多くの警告を受けながら、それらを無視し続けて、結局大きな氷山に衝突して沈没し、多くの命が失われました。 ニュージーランドの多くの住居では「不法侵入者防止のためのアラームシステム」が用いられています。家が留守になる時に、最後に家を出る人がアラームをセットするのです。帰宅した時には、通常ドアを開けてから30秒以内にアラームを解除しないと、けたたましいベルが鳴り響き、近所中から「何事が起ったのか?」と注目を浴びる羽目になります。 神が私たち1人1人に与えて下さっているアラームシステムである「心の中の良心」も同じように働きます。そして私たちはこの『良心の声』に対して3通りの反応から選ぶことができます。①スイッチを切っておく。②聞こえないふりをする。③その声に素直に従い、正しい対応をする。 さて、あなたはどれを選んで生きて行きますか?

(197) “若者をその行く道にふさわしく教育せよ。そうすれば、年老いても、それから離れない。”

現代ほど子供たちを正しい道に育んで行くのが難しい時代はないかもしれません。テレビ、雑誌、インターネット、ユーチューブ… ありとあらゆるところから強烈で不純な情報が入り込み、子供たちはそれらを適切に取捨選択する術を知りません。「一体どのようにして愛する我が子をこのような『世の悪影響』から守ったら良いのだろうか」と頭を痛めている親御さんもきっと多いことと思います。 でも決して希望を捨てないでください。何故なら様々な調査や研究の結果は「『その子の親』以上に子供たちに影響力を持つ存在はない」ということを証明しているからです。友人や学校、そしてメディアさえも、子供たちの人格形成に対して、決して親たち以上の影響力は持っていないのです。 ちょっとリレー競走のことをイメージしてみてください。リレーの勝敗を決定するのは多くの場合「どれだけ速く走れるか」ではありません。むしろ「どれだけ上手にバトンを渡せるか」にかかっています。ですから、決してバトンを落としてはなりません。すなわち「自分たちの信念(信仰)を次の世代に受け継がせること」を怠ってはならないのです。私たちはあらゆる努力をして、自分が築き上げてきた優れた人生観を自分の子供たちに受け継がせ、子供たちがそのしっかりとした土台の上に更に積み上げていけるようしてあげるべきです。もし親である私たちが本気でこのことに身をささげて生きるなら、神は必ず私たちの『愛ある努力』に報いてくださいます。

(196) “神は正しい方であって、あなたがたの行いを忘れず、あなたがたがこれまで聖徒たちに仕え、また今も仕えて神の御名のために示したあの愛をお忘れにならないのです。”

ジェームズ・シーズーという牧師は次のように書いています。「外見的な魅力が真の偉大さというわけではない。人々からの賞賛が人の真価を決めるわけではない。目立っているからといってそれが特筆すべきものなわけではない。最近はやりの人物が必ずしも何年も注目されるとは限らない。石が太陽を反射して輝いたからといってダイヤモンドになるわけではない。たくさんお金を儲けたからといってそれが人を幸せにするとは限らない。歴史を作ってきた人々はしばしば名前さえ知られていなかった。宇宙体系の中で重要な働きを担っている力はしばしば視覚では捉えられない。夏にしとしと降る小雨は台風がもたらす大雨よりも益をもたらすが誰にも注目されない。多くの場合、本当に価値のあるものは、この世において好評を博したり注目を浴びたりしないものの中にあるのである。」 この世の風習というものは、あっと言わせたり、目を見張らせたりするパフォーマンスこそが価値あるものであるかのように錯覚させます。しかしそのようなことができるのはほんの一握りの人々であり、またそれらの出来事は必ずしも世界に有益で恒久的な変化をもたらすとは限りません。むしろ、誰もができるような些細なことを『大きな心を込めて』行っていくことこそ、神が私たち1人1人に望んでおられることであり、また世界に良い変化をもたらす力を持っているのです。その行いが誰の目にも留まらなくても、誰からの賞賛を受けなくとも、そこでささげられたあなたの愛と思いやりは、それを受けた人の心にいつまでも残り、また天にある神の書物に永遠に刻まれているのです。

(195) “私は、自分はすでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、後ろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み…”

明けましておめでとうございます。皆さんはこの新しい年を迎えて、どのような目標を立てていらっしゃいますか?前進するための目標を持っていないことは、後退への目標を立てているのと同じです。また確固たる目標を持つことが、その人の時間やエネルギーの使い方をはっきりとさせます。ぜひ「成長のための目標を立てること」をおススメします。 良い目標を立てるための1つのコツは、単に「何かを成し遂げること」にこだわらず、むしろ「向かうべき方向」を正しくはっきりと定めることです。私たちの人生の満足度は「どれだけのことを成し遂げたか?」よりもむしろ「自分がどれだけの向上を遂げたか」にかかっています。あまりにも多くの人々が「ただ存在すること」に甘んじ、神が私たち1人1人に立てておられる崇高なご計画をはるかに下回っている場所で落ち着いてしまっています。それはまるで「川の流れがよどんでいる部分に魚が生息しなくなってしまった状態」のようです。過去の栄光にしがみついていても成長はありません。 さあ、今年はまだ始まったばかり。ぜひゆっくりとした時間を取り、「今年の終わりまでにどのような自分になっていたいのか」をいくつかリストアップしてみましょう。そして具体的な方策を立て、実行に移しましょう。多くの場合、「順調に感じる時」もあれば、「2歩進んで3歩下がっているように感じる時」もあります。でも心配要りません。どんな偉業だって、インスタントに出来上がったものはないのですから。何らかの目標のために死ぬほうが、目標なしにただ生きているよりはずっとマシではありませんか!

(194) “イエスは彼に「あなたは何という名か?」とお尋ねになった。”

「自分で自分のことをどんな人間だと思っているか」ということは、私たちの日々の歩みに大きな影響を与えます。たまに「実際以上に自分のことを偉大な人物」と思っている『誇大妄想』的な人もいますが、多くの場合私たちは実際よりも自分のことを低く見積もってしまいがちです。 イエス・キリストの代表的な弟子の1人で『ペテロ』という人物がいますが、彼は初め『シモン』と名乗っていました。それが親の付けた名前なのか、それとも人々から呼ばれていたあだ名なのかは定かではありませんが、はっきりしていることは『シモン』という名は「風に揺れ動く『葦』の葉」のことであり、このシモンに向かってある日イエスは、「あなたの名はもはや『シモン』ではない。今日から私はあなたを『ペテロ(岩)』と呼ぶことにする。」とおっしゃったのです。これはすなわち「あなたは今まで人生の目標の定まらない『葦の葉(シモン)』のように生きてきたかもしれないが、これからは私と共に生きることによって『岩(ペテロ)』のように、多少の試練や逆境には動じない者と変えられていくのだ」という、イエスのペテロに対するメッセージだったのでしょう。 私たちが「自分のことをどんな人間だと思っているか」は、生まれてから思春期に至るまでの成長過程で「周囲の人々からどのような評価を受けてきたか」に大きな影響を受けています。もちろん良い家庭環境に育った方であればそれなりの良い評価を受け、ある程度健康な『セルフイメージ』を抱いておられることでしょうが、私たち1人1人の真に正しい評価を下すことのできるお方は、私たちを絶対的な愛をもって形造ってくださった『創造主なる神』だけです。だからこそ聖書を読むことによって、この神様があなたに対して抱いておられる『正しい自己像』を知り、それをあなたの人生の土台として生きることが重要なのです。

(193) “キリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。”

多くの方々がご存知のように、『クリスマスの由来』は、今から2000年前にイエス・キリストが処女マリアからお生まれになったことから始まりました。でもちょっと考えてみてください。ある日天使が突然マリアの前に現れ、「あなたはまもなく男の子を生む。その名を『イエス』と名付けなさい」と告げたのです。もしあなたがマリアだとしたらどうしますか?全く心当たりがないのに、突然身ごもるのです。いくら天使のお告げだからと言って、簡単に受け入れられるはずがありません。しかしマリアは答えました。「どうぞ神様のみこころの通りにこの身になりますように。」 恐らく私たちはマリアのような経験をすることはないでしょうが、今日でもイエス・キリストは私たちの心の中に生まれ、そして私たちを通してご自身の豊かな命を現すことがおできになります。この記事を読んでくださっている方々の中で、心に苦々しさを抱えている人、悩みを負っている人、悪い習慣から逃れられないでいる人、心の平安を求めている人がおられるなら、イエス・キリストは今日あなたの心のドアをノックしておられます。もしあなたが彼に対して心を開いて、「イエス様、私はあなたの助けを必要としています。どうぞ私の人生に入って来てください。」と迎え入れるなら、その瞬間イエスはあなたの心の中に生まれてくださり、あなたと共に人生を歩み始めてくださるのです。 この2015年のクリスマス・シーズン、あなたが単なる「この世の余興としてのクリスマス」ではなく、「真の意味でのクリスマス」を迎えることができますように。

(192) “信者となったものたちはみないっしょにいて、いっさいのものを共有にしていた。”

『幸福の条件』とは何でしょう?ある人々は「もう少しお金があったらもっと幸せになれるのに…」と言います。本当にそうでしょうか? 『幸福感』に関する研究を重ねたある調査結果によると、より幸福感を経験しているグループと経験していないグループを分ける決定的な要因は「経済力」でもなく「健康」でもなく「安定した生活」でもなく「魅力的な容姿」でもなく「知能指数」や「経歴」でもないそうです。 では一体何なのでしょうか?それは、豊かで親密な『人間関係』です。自分が何らかのコミュニティに属しているという意識、「存在を認められている・必要とされている」と実感できることは何よりも私たちに充足感と幸福感を与えてくれます。 イエス・キリストが天に帰られた後、地上に残された弟子たちによって「キリスト教会の営み」がスタートしました。迫害下にあった彼らが周囲に押しつぶされてしまうことなく、かえって次々と信者を獲得し大きく成長して行った大きな要因として、彼らを通して行われた「奇跡的なみわざ」が挙げられますが、それとともに忘れてはならないのは、彼らの間にあった『親密な交わり』です。それぞれが持てる時間・財産・労力を分かち合い、互いを支え合う中で生まれる一体感、これこそ神によって造られた私たちが真の『幸福感』を味わうための秘訣なのでしょう。 高度経済成長を遂げ「万民中流意識」にすっかり甘んじてしまっている日本人。誰もが自分の必要(以上?)を満たすことに夢中になり、もはや他の人の助けをほとんど必要なく感じている今日。そのようなよどんだ空気の中に一石を投じるのは、きっと「親密な関係の中に幸福感を見出そう」として行動を起こす人々ではないでしょうか?

(191) “隣人をさばくあなたは、いったい何者ですか?”

ある小学校の運動会で、子供たちが元気よく入場行進をしています。ふと1人の母親が自分のカワイイ1人息子の行進する姿を見て、彼だけが他の子たちと手足が逆になっているのを見つけて思わず叫びました。「ちょっと見てください。ウチの子以外は全員、手足を逆に動かしちゃってますよ!」 私たちは自分の事は棚に置いて、ついつい他の人の過ちや失敗を批判してしまいがちです。自分では「相手の間違いを正してあげようという善意のつもり」でも、実は相手のことを深く傷つけてしまっていたり、ひいては周囲の人々を自分から遠ざけてしまうきっかけにもなりかねません。 では、どうしたら良いのでしょうか?まず第1に、他の人を批判しやすいタイプの人は「自分のやり方・考え方が1番正しい」と思い上がっているのだということを自覚しなければなりません。その上で「あなたの立派さの故ではなく、ただご自身の恵み深さの故にあなたを受け入れてくださる神」を知ることです。そしてその神様に次のように祈りましょう。 「神様。私の高慢の罪をお赦し下さい。そして、あなたが私に対して恵み深いように、私も他の人々のことを『さばきの目』ではなく、『恵みの目』によって見つめ、また受け入れることができるように助けてください。」

(190) “すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。”

聖書の巻頭にある『創世記』という書物に、神が6日間で全世界をお造りになったくだりが出ていますが、神はその6日目の最後に人間をお造りになり、そして「7日目に休まれた」と書いてあります。すなわち人間にとっては第1日目は『休日』だったわけです。 日本人は一般的に『勤勉』です。それは良いことですが、しばしばそれが高じて「働きすぎ」になる傾向があります。毎日夜中まで残業したり、土日も休まず働いたり…、あたかも「休むことは無駄である」とか、休息をとることに後ろめたさを感じているかのようにも見えます。こちらニュージーランドに来たワーキングホリデーの若者の中にも、時々「日本の忙しさから逃れて精気を回復するために来た」はずなのに、仕事場の事情で『12連勤(12日間連続して休みなく働くこと)』などを余儀なくされている人がいたりします。本当に残念なことです。 こんな話があります。ある日2人の木こりが「1日のうちにどちらがよりたくさん木を切り倒せるか」を競うことにしました。1人は少し年をとっているが熟練した木こりで、もう1人はまだ若くて未熟ではありましたが体力にはめっぽう自信がありました。若い木こりは夜明けから日が暮れるまで休まずに斧をふるい続け、1日の終わりまでに25本もの木を切り倒しました。「これだけ切り倒せば、アイツに負けるはずがない。きっと今頃スタミナを使い尽くしてぶっ倒れているに違いない。」 一方熟練した木こりは「1時間ごとに10分間の休憩時間」を取りながら働きました。当然斧を使うのに費やした時間は若者よりもずっと少なかったわけですが、何と彼は1日の終わりまでに40本もの木を切り倒していたのです。若者は愕然として言いました。「こんな馬鹿な!アンタは俺よりも力がないばかりか、1時間ごとに10分もの休みを取りながら働いていたのに、俺の倍近くもの木を切り倒してしまうなんて?!」そこで熟練した木こりは答えました。「私は10分間の休憩時間に2つのことをしていたのさ。1つはゆっくり休んで体力を回復させること。もう1つは歯が鈍くなりつつある私の斧を十分に研ぎ直すことだよ。」 神は私たちを「休みなく働くように」とはお造りになりませんでした。私たちが与えられた才能や潜在能力を十分に発揮するためには「心身共に休養が必要」なのです。今日もイエス・キリストは私たち1人1人を招いて言われます。「わたしの許に来て十分に休息を取り、また『真の自分自身』を取り戻して、もう1度出て行きなさい」と。

(189) “すべてのことについて感謝しなさい。”

あなたは素直に物事を喜べる方ですか?それとも疑り深くてすぐに喜べないタイプでしょうか? 『感謝の心』というものは、単に「喜べることが起こった時に用いるもの」というだけではなく、それ以上のものです。すなわち『感謝の心』はあなたの中に「更に優れた喜びをもたらすための門」を開くのです。 『感謝の心』はあなたの心を良いリズムに保ち、あなたの中にあるストレスを軽減し、肉体的な健康を促進し、思考回路をクリアにします。また医学的にも『感謝の心』は脳や体内にエンドルフィンを放出させ、人体に活力を与えると言われています。肉体のどのような働きにおいても同様ですが、この『感謝の心』も使えば使うほど発達します。何も『筋トレ』のような大変さはありません。ただ単純に「思いの焦点」を変えればよいだけです。老人施設で暮らすある老婦人は神にこう感謝したそうです。「ああ神様、私に丈夫な『2本の歯』を与えてくださって本当にありがとう。そのうち1本を上にそしてもう1本を下に与えてくださってとても感謝です。しかも何とその2本はちょうどピッタリ噛み合うのです!」 あなたにもし家族がおられるなら、ぜひ毎日の食卓で1人1つずつ「今日出会った感謝なこと」を分かち合うようにしてみてください。このように『感謝の心』を育てることにより、家族皆が生き生きと人生を送れるようになり、そしてそれは周囲の世界にも影響を与えていくのです。ある作家はこのように書きました。「あなたがもし孤独を感じている人や落胆している人に『ほんの小さな感謝の気持』を伝えることができたら、この世界の幸福度はグンと上がるに違いありません。だってあなたがつい忘れてしまいがちなその『小さな感謝』が、それを受け取った人には『一生の宝物』になるかもしれないのですから。」