(120) “わたし(キリスト)は、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。”

ある青年が、人生の師と仰ぐ方のところに行って、こういう相談をしました。「先生、ボクは新しい宗教の教祖になって、その宗教を世界的なものにし、これから何百年の後も自分が教祖としてあがめられるような宗教を造りたいのですが、何か良いアイディアはないでしょうか?」 するとその人生の師は答えました。「ああ、それなら簡単だ。まず今日から清く正しい生活を始めなさい。そしてできるだけ多くの人々に『愛と赦し』について語りなさい。そしてまた『自分はもうまもなく、全世界の人々の罪の身代わりとなって死ぬ』ということも予告しておきなさい。そして数年経ったら、できるだけ悲惨な死に方をしなさい。その時に泣き言を言ってはいけません。その時のセリフは『父よ。彼らを赦したまえ』がいいな。そして死んだ後、ここが1番肝心だけど、3日くらい経ったら復活してきなさい。そうすればお前は間違いなく世界的な宗教の教祖になれる。」 この青年がこれを実行したかどうかは知りませんが、もし実行していたら、間違いなく今も墓の中にいるはずです。しかし、このような人生を文字通り歩んだ方が歴史上ただ1人だけおられます。それがイエス・キリストです。 今度の日曜日は『イースター』というキリスト教のお祭りです。日本人には『クリスマス』ほどは馴染みがありませんが、実際は『イースター』の方がクリスマスよりも重要な記念日であり、まさにこの『イースター』こそが「イエス・キリストが死を打ち破りよみがえられたこと」を記念する日なのです。 私たち人間は『死』を恐れます。何故なら未だかつてこの『死』を免れた人間は1人もいませんし、またこの『死』の向こう側に何があるのかはっきりと知っている人間も1人もいないからです。しかし『イースター』は、この「人類の最後の敵」とも言うべき『死』を、神は打ち破ることができる、ということを証明したのです。 あなたは『死』を恐れていますか?『死』の向こう側にある確かな希望を求めていますか?イエス・キリストはそのあなたが求めているものを与えることができる唯一の方なのです。

(119) “恐れのある日に、私は、あなた(神)に信頼します。”

子どもに人気のある伝統的な遊びの1つに「かくれんぼ」がありますよね。ジャンケンで『鬼』を決め、残りのメンバーは鬼に見つからないところに隠れる。隠れるのが上手な人も苦手な人もいます。隠れている間は「いつ見つかってしまうだろう…」とハラハラ・ドキドキ。そしてとうとう見つかってしまったとき、鬼は大喜びしますが、見つかってしまった自分はガッカリ。(いつまでも見つからないままでいるのも困りものですが…) 私たちの人生の中でも「かくれんぼ」があります。会社で上司から隠れようとしたり、反抗期の息子から隠れようとしたり、意地悪なクラスメートから隠れようとしたり…。物理的に姿を隠すことはできなくても、うわべだけの返事や作り笑いの陰に本心を隠したり、他の人にどう思われるかを恐れてつい自分の信念を隠してしまったりすることはありませんか? 考えてみると、「隠れること」は人間の歴史の当初から始まっていました。神から「決して食べてはならない」と言われていた『禁断の木の実』を食べてしまったアダムとエバは「神を恐れて木の陰に隠れた」と聖書の初めに書いてあります。「木の陰に隠れたところで神から身を隠せるはずがないだろう」と思うかもしれませんが、これは単に『隠れている』ことを意味するだけでなく、「関係が壊れてしまっていること」を表現しているのです。 この原則は現代に至るまで同じです。私たちは皆心の底では『隠れること』が問題の根本解決にはならないことを知っています。それは一時的な回避を可能にするかもしれませんが、多くの場合、解決を遅らせた分、問題はさらに増幅されて私たちに襲いかかってきます。ささいな言い争いを恐れたがために、人間関係に大きな溝を生み出してしまうことも度々です。すなわち『隠れること』は『恐れ』に由来し、そして「大切な関係の破壊」に至らせるのです。 ある聖書の記者は書きました。「恐れのある日に、私はあなた(神)に信頼します」と。私たちが「最も力のある方」そして「私たち1人1人に対する慈愛に満ちておられる方」に全き信頼を寄せるとき、もはや私たちは「隠れる」必要はないのです。

(118) “この方(イエス)はご自分の国に来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。”

『人生あきらめが肝心』とは言いますが、「何でもすぐにあきらめてしまう態度」も問題です。優秀なセールスマンでも、顧客15人中14人には断れてしまうそうです。しかし彼らはそこであきらめません。『15人目』と出会うために、次々と前進していくのです。 『No』という返事はしばしば「今はダメだけど、また来てね」ということを意味します。ですから、たった1度断られたからと言って簡単にあきらめてしまうことは正しいとは言えません。あなたは今日までの人生で恐らく何度も『小さな拒絶』を受けてきたことと思いますが、そこであきらめなかったから今のアナタがあるのではありませんか? 言ってみれば、イエス・キリストほど厳しい拒絶を経験した存在はないかもしれません。彼は神のもとから遣わされた『メシア(救い主)』として、神に選ばれた民である『ユダヤ民族』のもとに遣わされましたが、ユダヤ人たちは彼を拒絶したばかりか、「神を冒涜する者」としてのレッテルを貼り、十字架刑に処しました。しかしこの「ユダヤ民族による拒絶」がかえってその『神の救いの計画』を全人類へと広げる結果となったのです。 イエスが人々に『救いの知らせ』を次げ知らせるためにその弟子たちを遣わされた時、彼らにこう忠告しました。「もしその町で誰もあなたがたのことばに耳を傾けないなら、その町を出て行くときに、あなたがたの足のちりを払い落としなさい。」 もしあなたが誰かから拒絶を経験したとしても、心に浮かんだ苦々しい思いを「払い落として」前進しましょう。あきらめずに前進し続けるなら、必ず理解者と出会うことができます。 また、忘れてはならないことは、仮にあなたがすべての人から拒絶されたとしても、「あなたを決してあきらめず、ありのままを受け入れてくださる方がおられる」ということです。それはイエス・キリストです。彼は人々からの厳しい拒絶を経験されたので、拒絶を受けたあなたの苦しさを深く理解し、また癒すことがおできになるのです。

(117) “もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。”

「罪を憎んで人を憎まず」とは、古くから日本に語り継がれている言い回しですが、実に聖書の教えに通じるところがあります。神は私たち人間を深く愛していらっしゃいますが、私たちの罪とは決して妥協しようとはなさいません。それ故、ご自分のひとり子である『イエス・キリスト』を私たちの代わりに犠牲にしてまで、私たちの「罪の問題」を解決しようとされました。 「そんなに私たちを愛してくださっているなら、『罪あるままで』私たちを受け入れてくれたらいいじゃない。」と思われる方もいるかもしれません。しかし、それは本当の愛ではありません。 「大切なキミ」「そのままのキミが好き」などの絵本の著者としてしられる『マックス・ルケード』は、ある日の愛娘との体験を次のように描写しています。「やっとヨチヨチ歩きが始まったばかりの娘のジェナを連れて近くの公園へ行った。ジェナを砂場で遊ばせていると、アイスクリーム売りが通りかかったので、娘の大好きなアイスクリームを買ってやることにした。ところが、ちょっと眼を離した隙に、ジェナはせっせと口の中に砂を運び入れ始めていた。果たして私は、口の中に砂を一杯にしているような娘でも愛しているだろうか?もちろんだ!口の中に砂をたっぷり含んだこの子は、私の娘としての価値を落としているだろうか?そんなわけはありゃしない!では私は、娘が砂をむしゃむしゃと食べているのをいつまでも放っておくだろうか?そんなバカな!私はすぐさまジェナを抱きかかえて水道のところに連れて行き、抵抗する娘を制しつつ、次のように語りかけながら、口の中と周りとをきれいにしてやった。『私の愛する娘。ホラ、ちゃんと砂を吐き出しなさい。お父さんがもっとずっといいものをあげるからね。』」 私たちの神様も同じです。神が私たちから『罪(よくないもの)』を取り上げるのは、神様が意地悪だからなのではなく、私たちを深く愛しており、私たちに「もっと良いもの」を与えたいからなのです。

(116) “あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。”

聖書は私たちに『個人の尊厳性』を教えると共に、「自己中心性」というものを強く戒めてもいます。イエスは人々から「最も大切な戒めは何ですか?」と問われたとき、迷うことなく「心を尽くしてあなたの神を愛し、またあなたの隣人を愛することだ」とおっしゃいました。私たちが「自分のことで精一杯」になってしまっている時、私たちは人間本来の生きる意味を見失っています。それは「神と人々とを愛し、またそのために生きること」です。 2003年に33種類の様々な調査団が、その調査の共通した結果として「人間はその人生の最大の意義を『関係』の中に見出している」と発表しました。すなわち、人間は1人で生きるようには造られていないのです。 その人生の長い期間を『戦闘部隊』で過ごしたチャック・コルソンは、その晩年に次のように述べています。「80年の人生を振り返って私が確信をもって言うことができるのは、『私の人生の最大の喜びは、自分自身の時間や労力を他の人々のために使って、そして彼らがそれを肥やしとして成長していくのを見ることだった』ということである。私はいつも部隊のリーダーとして45名の部下を引き連れて戦場へ行ったが、そのときに生きて帰ってくるためにどうしても必要だったのは『互いのための献身』であった。自分の隣りにいるメンバーが自分のバックアップとして命懸けで支えてくれないとすれば、それは自分の死を意味するのである。『隣人への献身』これがなければ、1人1人の人生はまさに無に等しい。『他の人のために自分をささげること』この中に私たちは人生の意味と目的を見出すのである。」 もし私たちに「このためになら死ねる!」というものがないなら、「私はこのために生きている!」と言えるものがないのと同じことです。聖書はそれが「神と人とのために生きることである」と教えているのです。

(115) “愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。”

聖書の中で、使徒パウロは次のように言っています。「たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。」 多くの人々(恐らく全ての人)は『愛』を追い求めています。そしてこの『愛』とは決して「1人きり」でいるところでは学んだり用いたりすることはできません。『愛』を知るために、また体験するために、私たちは「人々の間に入って行く」必要があります。「面倒くさい人間関係」「決して思い通りにならない相手」「時には嫌になるほど様々な要求をしてくる人々」の中に入って行かなければならないのです。それ故私たちはしばしばこの『人間関係』というものをできるだけ後回しにしようとしたり、または無意識のうちに自分1人でさっさと作業を終わらせ、その場を後にしたりしてしまいます。「あぁ、あの人と会う時間を作らなきゃ」とか「今度はいつ家族と過ごす時間を取れるだろう?」などと考えることもありますが、実際そのこと自体が『人との関係』というものが生活パターンの中で優先順位の低い場所に位置してしまっていることを現わしているのです。 「『愛すること』『人との関係』というものが大切」ということが分かっているのに、何故こうなってしまうのでしょう?それは、良い関係を築くのには時間と労力が必要だからです。現代の私たちは、経済的な基盤を築いたり、自分の目標を成し遂げたりするのに忙しすぎて「人と過ごす時間を優先する」余裕を失ってしまっているのです。しかし、実はこれらのことは人生における2次的なものであって『最も大切なもの』ではありません! 「人生で最も意義のあること」それは、『人と神とを愛すること』です。神のご性質をひと言で言い表わすならば、それは『愛』です。それ故私たちが「愛する」時、私たちの間に『神の香り』が放たれるのです。マザー・テレサは次のように言いました。「大切なのは『どれだけのことをしたか』ではなく、『どれだけ愛を込めたか』です」。この『愛』こそが私たちが受け取りうる、また与えうる最高の財産です。「『人生』-『愛』=0」なのです!私たちの生涯の終わりに至る時、皆が「人生とは『人との関係』がすべてであった」と気付くのです。『人生の知恵』とは、いかにそのことに早く気付くか、ということです。どうぞあなたがこのことに気付くのが遅すぎることのないように。

(114) “さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。”

ローリィ・シュナイダ―さんは、エベレスト山の登頂に成功した数少ない女性の1人ですが、彼女はその栄光に甘んじることはしませんでした。「多発性硬化症」と診断された彼女は、次の夢をあきらめるどころか、かえって仕事をやめて世界6大陸の最高峰の登頂に挑戦する方を選んだのです。そして10年後にその夢を見事に実現しました。 この偉業を見届けた後、ローリィさんのお父様は次のようにコメントしました。「娘にとって『多発性硬化症』との診断を受けたことは、彼女の『障害』となるよりもむしろ『踏み台』となりました。彼女はそれを『妨害』としてではなく『挑戦』と受け取ったのです。」 ローリィさんの今の夢は、彼女同様「大きな挑戦」に直面している人々に、「慌てずに1歩1歩前進していけば、世界一高い山でさえ、乗り越えることができる」というメッセージを伝えることだそうです。 イエス・キリストに従う人生も同じです。私たちが目指しているのは「完全になること」ではなく、「成長すること」です。「完成まであとどれくらいか」を測るのではなく、むしろ「昨日よりもどれくらい進んだか」を測るべきなのです。それがたとえたった1センチメートルの前進であったとしても、それは大いに喜ぶべきことなのです。

(113) “小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です。”

心理学者たちの調査によると、私たちの行動の90%は『習慣的に』行われているそうです。90%ですよ! しかし考えてみるならば、私たちは皆この『習慣の力』というものの恩恵に多大にあずかっています。私たちは「習慣的に」生きているからこそ、多くのことをより迅速に能率良く行えるわけですし、1つ1つの小さなことにイチイチ煩わされることなく、大切なことに十分な注意と力とを注ぐことができるわけです。 しかし、ということは「良い習慣を育むことは人生の成功につながり、悪い習慣に支配されることは破滅を招く」ということも言えるかもしれません。「ついつい食べ過ぎてしまう」「万年の運動不足」「どうしてもタバコがやめられない」「自分は5時間睡眠で十分やっていける」などなど。日常のつい見逃してしまいがちな些細な『悪習慣』、その時は「まあ、いつか修正すればいいさ」で済ましてしまいがちですが、それらは確実に私たちの人生を蝕んでいるのです。そしてこの『習慣の力』の恐ろしいところは、「その習慣による悪影響がはっきり認識されるようになった頃には、既に手遅れになりかけている」ということです。 ある有名な企業の創始者は次のように言っています。「自分の夢を成し遂げようとする者が最も力を注ぐべきことは、自分を誘惑してくる『悪習慣』を徹底的に破壊し、夢の実現に役立つ『良い習慣』を何度も繰り返すことだ。」 では、そのような『良い習慣』をどのように見出していけば良いのでしょう? 1つの驚くべき事実は、世界人口の1%にも満たない『ユダヤ人』が、ノーベル賞受賞者の50%以上を占めているということです。彼らは幼い頃から聖書を学び、あるいは暗唱し、神を中心とした自意識、世界観、人生観を持って生きています。「自分の心のおもむくまま」ではなく、「神を恐れ、聖さを求め、常に自分自身を神の前に見張る姿勢」こそ、良い習慣を育む原動力なのです。

(112) “私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。”

皆さんは「もっと人のためになりたいと思っているのに、なかなか実践できない」とか、「そんなことを言うつもりはなかったのに、つい相手を傷つけるようなことを言ってしまった」などという経験はありませんか?もちろん私もあります。どうしてそんなことが起こるのでしょう?聖書は「それは私たちの心の中に『悪の原理』が宿っているからだ」と言っています。常に「正直に生きよう」と意識していない限り、私たちはついついこの『悪の原理』に振り回されます。あたかも私たちの心の中にある「自動操縦装置」かのようです。 アメリカ南部に生育するある「つる性の植物」は、いったん庭木や塀にからまり始めると、それをすぐに抹殺してしまわない限り、あっという間に庭全体を覆い尽くしてしまうそうです。 私たちの心の『悪の種』も、小さなうちに摘み取ってしまわないと、雪だるま式に大きくなって、収集がつかなくなってしまいます。軽い気持ちでついた「悪気のない嘘」が、前述のつる性植物のようにあなたの心の中にからまり始め、ついつい「出まかせの言い訳」がクセになり、気がついた時には誰からも信用されない『嘘つき』のレッテルを貼られてしまうのです。 では、私たちは一体どのようにしてこの『悪の原理』に侵されることなく、正しい歩みをすることができるのでしょうか? まず朝ごとに(他の何事も始める前に)、すべてのことをご存知で正しくさばかれる神の前に出て(祈りや聖書のことばを通して)、心の中が暗闇で覆われてしまう前に、神の『真理の光』で照らしていただくのです。そして、心のベルトをしっかりと『真理の霊(神の霊)』につながれて、この神の霊が私たちを導いてくださるのを感じながら1つ1つの営みを進めていくのです。 「私は自分の心を自分の力で十分制御できる」と思うのは、傲慢に過ぎません。神はいつでも「へりくだる者に助けを与えてくださる方」なのです。

(111) “私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。”

外見で人を判断することは、しばしば大きな失敗の原因となります。しかし実際に私たちは第1印象によってその人に対する見方を大きく左右されてしまうのも事実です。ある人の調べでは、初対面の人からの悪い印象でその人に対する見方を決めるのには10秒もかからないそうです。その人の外見、声の調子、握手の仕方、物の考え方などが自分とは違うと、つい「この人のことは好きになれない」と決め付けてしまうものです。 『好み』というものは誰にでもありますから、すべての人のことを「好き」になる必要はありませんが、それらの人々を「愛する」ことは可能です。人間というものは『外見』や『能力』以上の存在です。たとえその人の顔かたちや体格、立ち振る舞いが気に入らなくても、「この人は偉大な神によって造られた傑作品である」ということに気付くなら、愛することは可能になります。もし私たちが「神様、私はどうしてもあの人のことが好きになれません。でも、あなたが彼をご覧になっているように、私も見ることができるように助けてください!」と祈りつつ、大胆にアプローチしていくなら、『愛せない』というハードルを飛び越えることができます。『悪印象』を形作るのに10秒もかからないとすれば、いったん「愛する」と決めて相手に接していくなら、同じく短時間で相手に対する全く新しい見方を体験することができるのです。要するに「気分」ではなく「決断」の問題なのです。そして素晴らしいことに、「どうしても好きになれないと感じていた相手」を愛することができる術を身に付けた人は、「神がいつも共におられる」ことを実感しながら生きる者とされ、恐れから解放され、あらゆる環境の中で『愛による影響力』を流していくことができるようになるです。