(110) “互いに励まし合い、互いに徳を高め合いなさい。”

「隣りの芝生は青く見える」ということわざがあります。最近の日本ではあまり『芝生の庭』が見られなくなったので、いまいち馴染みの薄い言い回しですが、要するに「同じものであるはずなのに、何故か人のものは自分のものよりも良さそうに見える」という意味です。隣りの家とか、友人の車とか、知り合いの旦那とか、近所の子供とか…、挙げていればキリがありませんが、「何でウチのは、あの家のようではないのだろう…」とグチをこぼしたくなることがよくありますよね? そこでよぉく聞いてください。実際は「隣りの家の芝生が青く見える」のは、目の錯覚です。そのように見えるのは、「自分のものは良く知っているけど、他人のもののことは良く知らないから」、または「自分のものをキチンと面倒看ていないから」のどちらかです。 こんな話があります。あるハンサムな大金持ちが、大した魅力もない女性と結婚しました。周囲の人々は次のようにウワサしました。「あの結婚は絶対長続きしやしないわ。」 さて、数ヵ月後この新婚夫婦がハネムーンから帰ってきたとき周囲の人が見たのは、この大金持ちが全く見栄えの違った女性を連れていることでした。「ほら、前の女より、今度の女性の方がずっとこの人にふさわしいじゃない!」と周囲の人々は思ったのですが、驚いたことにこの女性はあの『冴えない女』と同一人物だったのです。この金持ちの男性はその妻を心から愛し、折にふれて励ましと賞賛の言葉をかけ、彼女の存在がどんなに自分の喜びであり、支えになっているかを日々告げていたため、この新妻は日々自分の価値を再発見しては、その上に自分自身を築き上げていったのでした。 もうお分かりですね。他の人のものを羨ましがってばかりで、自分のものの真価を見出せない人は、決して『青い芝生』を手に入れることはできません。それよりも、自分の芝生にかかさず栄養を与え、しっかりと面倒を看ることが大切なのです。あなたの妻や夫、子供たちに日々励ましの言葉をかけ、その努力を評価し、彼らの存在があなたにとってどれほどかけがえのないものなのかを伝えてください。言わば彼らの『チアリーダー』になってあげるのです。そうすれば、やがてあなたの家の芝生が、他のどの芝生よりも青々と輝いているのをあなたは発見することでしょう!

(109) “すべての営みには時がある。… 神のなさることは、すべて時にかなって美しい。”

神を信じ、神を求めつつ歩む人生は、しばしば「受けること」以上に「待つこと」が多い、と言えるかもしれません。そして待ちに待っていたものが与えられる頃には、もう『何か次のもの』を求め始まっているのではないでしょうか?ということは、もし「喜びをもって待つ」ということを知らなければ、相当イライラする人生になりかねませんね。 神様にとっての『ベストタイミング』と、私たちに都合の良い『ベストタイミング』は異なっている場合がほとんどです。神様は私たちにとっての「本当に必要なもの」をご存知で、またそれを「いつ・どうやって」私たちに与えるべきかも知っておられます。ですから、私たちはひたすら「神様は良い方で、私にとっての最善をなさる」と信じて待つべきです。 では、私たちは神様からの応答を待っている間、一体どうしていれば良いのでしょう?答えは「神様に対する『信頼』をひたすら育てる」ということです。私たちは何か新しいものが欲しくなると『今すでに与えられているもの』の価値を見落としがちです。「無いものねだりの心」は喜びを奪います。反対に「今あるものに対する感謝の心」は私たちに失われることのない喜びを与えてくれます。 神様と歩調を合わせ、その時その時神様が与えてくださっているものをじっと見つめて、その真価を見出しながら、「待つことの喜び」を味わう者となりたいものです。

(108) “どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。なぜなら、いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです。”

あなたにとって「満足いく人生」とはどんなものでしょう?高級車に乗ること?豪邸に住むこと?流行の最先端の服を着て街を闊歩すること、また一流の職場で働くことでしょうか? 「物質的に満足する」ためには、次の2つの方法があります。1つ目は、とにかく得られる物は限りなくトコトン手に入れること。もう1つは、ほんのちょっとだけしか欲しがらないことです。共産主義ソビエト時代に、その信仰の故何年も刑務所で過ごしたある牧師は、家族からも友人からも、唯一の趣味であった読書からも引き離された時、「本当の自由を体験した」と告白しています。またある探検家は、南極での何カ月もの孤独な生活を通して「人間が本当に必要にしているものは、真にわずかなものにすぎない」ということを発見したそうです。 現代人ほど「所有物に侵されてしまっている世代」は今までに無かったのではないでしょうか?「これさえ手に入れば、きっと満足する」と考えていた物も、実際に手に入れてしまうと、すぐにまた他の物を欲しくなってしまう。あたかも、物を追求すればするほど、満足感は遠ざかって行くかのようです。では、一体どれだけの物を得られれば『満足感』を得ることができるのでしょうか? ある大金持ちの青年がイエス・キリストのもとを訪れて、こう尋ねたことがあります。「先生、永遠のいのちを自分のものとして得るためには、どうすれば良いのでしょうか?」 その時イエスはこう答えました。「あなたの持ち物をすべて売り払って貧しい人々に施しなさい。そうすればあなたは天に宝を積むことになります。その上でわたしについてきなさい。」 これを聞いた青年はさぞかしショックを受けたことでしょう。 それでは、神様は私たちが物質的に豊かになることを好まれないのでしょうか?いや、そうではなく、それらの物が私たちの『心の王座』を神から奪い取ることを好まれないのです。イエスはこうも言われました。「あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるのです。」 あなたが「神様よりも大切にしてしまっているもの」は、何ですか?

(107) “主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。”

日本からニュージーランドにいらっしゃる方々の中には「日本での生活に疲れた。もう1度自分自身を見つめ直したい」というような『自分発見』を求めてくる方が多くいらっしゃいます。どうしてそのような方々が多いのでしょう?それはきっと、日本の社会の流れのスピードがあまりにも目まぐるしく、「自分自身を見つめる間」を見つけられないのではないかと思います。 私たちが日本から離れて生活するようになって20年近くの歳月が流れました。時々一時帰国をするたびに感じるのは、やはり「日本は複雑でめまぐるしい」という印象です。こちらが考え付く以上の品物の山、放っておいて欲しいと思っても、後から後から人や物に追いかけられているようなプレッシャーがあります。 私は、本来人間はあまり多くの物を必要としていないと思います。「衣・食・住」があって、「心を分かち合える仲間(家族?)」がいる。それで十分なはずなのに、「もっと豊かに、もっと便利に」と追求した結果が、この慌ただしい社会と、それに振り回されることに疲れ切った人々なのではないでしょうか? 日本の慌ただしさを逃れてニュージーランドにやって来た方々の多くが、こちらの雄大な自然やゆったりとした生活ペースの中で『創造主なる神』、そしてその神に形造られ、また愛されている存在としての『自分自身』を見出して帰国されます。「人は『何かができるから』、また『何かを持っているから』価値がある」のではなく、「偉大な神に形造られ、愛されているからこそ、そのありのままで価値がある」 たったこれだけのことが、私たちに本当に必要な『心の糧』なのです。実は多くの人々が心の奥深くで何となくそのことに気が付いているのに、『忙しさ』や『宗教的なことに対する嫌悪感』か何かで、それを認めることを拒んでいるのではないでしょうか? 年が改まり、気分一新して新しい年のスタートを切るにあたり、「唯一まことの神に造られ、愛されている自分」を見出すことから、歩みを始めてみてはいかがでしょうか?

(106) “信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。”

ワシの母鳥は、小鳥たちが成長してきたとき、自分たちで巣立つまでのんびり待っていたりは決してしません。もしそんなことをしていたら、いつまで経っても巣立っていかないことを知っているからです。母鳥は時が来ると彼らを巣から蹴落とします。「そんな冷たい!」と思ってしまいそうですが、それが小鳥たちに自分自身の人生を全うさせるための最も良い方法なのです。 私たちは、自分の力の限界を超えた挑戦をすべきではないかもしれませんが、いつでも「コンフォート・ゾーン(居心地の良い場所)」からは出て行くべきではないでしょうか?何故なら『コンフォート・ゾーン』に安住し続けた人で、大いなることを成し遂げた人は1人もいないからです。 正直なところ、誰も『コンフォート・ゾーン』から出て行くことを好みません。私たちは安全で落ち着いた場所が好きなのです。敢えてリスクを犯すよりは「現状維持」にとどまりたいのです。そんな私たちのことを評して、劇作家のバーナード・ショーは次のように言っています。「オレは『分別のある人々』にはもう飽き飽きした。アイツラはいつだって『しなくたっていい理由』ばかり捜してやがる!」 『信仰』はいつでも私たちに「コンフォート・ゾーンから飛び出す」ように促します。そして『疑いのドア』を押し開け、神が私たちのためにデザインしてくださった人生の航海へ出発させてくれるのです。真にエキサイティングな人生へのドアは、ノックをして「開けてくれるのを待つ」ものではなく、いつでも「押し開けて」いくものなのです。

(105) “私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。”

「家庭崩壊」という言葉が使われるようになって久しいですが、一体『最大の親不孝』とはどんなものだと思いますか?「非行に走ること」?「親より先に死んでしまうこと」?確かにこれらは大きな『親不孝』と言えるかもしれませんが、やはり何よりも親を悲しませるのは、「親を親と認めないこと」すなわち、親に向かって「アンタなんか知らねぇよ。アンタなんか親でもないでもねぇ!」と言うことではないでしょうか? 昨年全世界で話題となった『The Vow』という映画をご存知ですか?(日本ではバレンタインデーの頃に『君への誓い』というタイトルで上映されました。)これは「新婚の奥さんが事故で記憶を失ってしまい、夫のことさえ分からなくなってしまう」という、実話を基にして作られた映画です。「新婚の妻にそっけない態度を取られ続ける夫の苦悩と、それでも結婚式の時に神の前で誓った『誓い』の故に示し続ける、真実の愛」を描いた、なかなか胸を打つ作品です。 この映画はやや「他人事」に思えてしまいますが、実は私たちも「同じような態度」を神様に対して取り続けているのです。神はこの天地全宇宙を造られ、そして私たち1人1人をもお造りになられました。ところが私たちはそんなことをすっかり忘れ、あたかも自分1人の力で大人になったかのような態度で、「神様?そんなもの要らねぇよ!」と自分勝手に人生を浪費しているのです。そんな私たちに「わたしがあなたを造ったのだよ。わたしはあなたを愛しているのだ。わたしはあなたのために大いなる計画を持っている。わたしの許に来なさい!」そう私たちに知らせるために、今から約2000年前、神は人の姿をとられてこの地上に姿を現わされました。これが『クリスマス』のストーリーなのです。 話は変わりますが、今年の9月に、我が家の24歳になる長男が婚約いたしました。『婚約』といっても、「婚約指輪」を渡したわけでもなく、「結納」を交わしたわけでもありません。こちらニュージーランドの習慣では、男性が女性にプロポーズをし、それが受け入れられたら『婚約成立』ということになるのです。日本人の方々からは「それではずい分簡単すぎる!」と反論が出そうですが、実はこの男性が女性にプロポーズをする前に、必ず「女性のご両親からの承諾を得ていなければならない」という大前提があるのです。息子はプロポーズをする前夜に(彼女のご両親は遠方に住んでいるので)相手のご両親に電話であらかじめ了解を得ておいたそうです。そして一世一代のプロポーズに踏み切り、見事受け入れてもらえたわけです。 ある意味、クリスマスというのは、「神様から私たちへのプロポーズ」ということができると思います。神はご自身のひとり子であるイエス・キリストをこの世に人として遣わすことにより、私たち1人1人に対する深い愛と関心を表現なさいました。そして本来なら私たちの側からへりくだって『和解』をお願いすべきところ、神ご自身から『和解の申し出』を差し出して下さったのです。私たちはこの「神からの和解の申し出」を受け入れることもできますし、断ることもできます。あなたはどちらを選びますか?

(104) “あなたの名は何というのか?”

もうすぐクリスマス。クリスマスと言えば「プレゼント(?)」私たち日本人は誰かに何かを差し上げるとき、よく「つまらない物ですが…」と言いながら渡す習慣がありますが、謙遜な表現にしてもちょっと変だとは思いませんか? 物ならばまだいいのですが、これが『自己紹介』だとしたらどうでしょう?「あなたはどなたですか?」と尋ねられて「いえ、つまらない者ですよ…」などというのは謙遜でも何でもなく、単なる大きな誤りです。 「自分で自分のことをどんな人間だと思っているか?」ということは、ある意味「現在の自分の実際の姿」以上に重要と言えるかもしれません。ビジネスマンは初対面の人に名刺を渡すのが常ですが、私たちは「名刺に書かれている自分」以上の存在です。名刺に書かれているのは単にその人の職業や地位だけであり、実際のその人は父親や母親であったり、妻や夫であったり、弟や妹またはたったひとりの息子・娘であるかもしれません。 聖書に『ヤコブ』という人が出てきます。その名前の意味は「だます者」という意味でした。しかし神は彼に新たな名前を与えました。それは『イスラエル(神の王子)』という意味です。それ以来彼は以前の名を捨てて、自らを「神の王子」と呼んだのです。 聖書の中で神は私たちにこう語りかけます。「わたしの栄光のために、わたしがこれを創造し、これを形造り、これを造った」と。言わば私たちも『神の王子であり、王女』なのです。 フランス革命の時に、国王であったルイ16世と王妃マリー・アントワネットがギロチン死刑になったことは有名ですが、その息子に関してはこんな逸話が残っています。革命家たちは年端もいかない王子を殺すにはしのびなく、かといって将来親の敵討ちをたくまれても困るということで、街のならず者の一味に預けたそうです。このならず者たちは彼らの習慣に従ってこの少年を盗みや暴力などの様々な悪行のためにしつけようとしましたが、そのたびにこの少年は「ボクは王の子供なのだから、そんなことはできません!」と拒んだそうです。 どうぞ次のことを忘れないでください。私たちも、この天地をお造りになられた『王の王』の子供たちなのです。誰一人「つまらない、不必要な人間」などいません。もちろん、傲慢な態度をとる必要はありませんが、「自分は高価で尊い存在である。くだらないことに身を染めるべきものではない。世界は私を必要としている!」 神様はアナタがそのような自覚を持って生きることを今日も期待しておられるのです。

(103) “あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神が、あなたがたのことを心配してくださるからです。”

1つのなぞなぞを出します。「それをしても少しも得をしないどころか、損をする一方なのに、ついつい時間や力をたっぷり費やしてしまうもの、なぁんだ???」 何だか分かりますか?その答えは『思い煩い』です。 私たちは、いくら考えてもどうしようもないことを、ついつい思い煩ってしまいます。「受験に失敗したらどうしよう?」「このまま結婚できなかったらどうしよう?」「会社をクビになったらどうしよう?」などなど。どれも悩んだからといって事態が好転するものではなく、また実際に起こったからといって、命を失うような大事でもありません。では私たちはどうしてこのような『思い煩い』に捕まってしまうのでしょうか? 次の3つの理由が考えられます。 ①私たちは『現在』にしか生きられないから ・『思い煩い』はみな、「過去」または「未来」に関することです。「あんなことをしなければ良かった…」とか、「こんなことが起こったらどうしよう…」などなど。私たちにはどうしようもないことがらなので、ただ思い悩むことしかできないのです。 ②自分が『人生の主人公』だと思っているから ・人間は基本的に『自己中心的』であり、「自分の人生がどうなってしまうのか」が最重要事項になっています。ですから、たとえ家族や友人が幸運に恵まれていても、かえって自分の状況が心配になってしまうのです。 ③『出来事』に興味が集中しているから ・「人間は環境の動物」などと言われる通り、私たちは自分の内面を整えることより、外側の環境(外見・経済状態・持ち物など)を整えることにほとんどの時間と労力を費やしているので、それらを思い通りにできない時、対処する知恵がありません。 聖書は私たちに「思い煩うな!」と告げています。ということは、私たちが「思い煩わないでいること」が神のみこころなのです。言葉を変えて言うならば『思い煩い』とは、神を信じない(不信仰の)姿勢から発生する弊害です。神はこの全世界を創造され、今日もそれらすべてを支配しておられます。また彼は時間や空間に縛られてはいません。今ここで私たちと共におられると同時に、100年前や100年後にも存在することのできる方なのです。この神が「私こそアナタの人生の主役だ」とおっしゃるのです。私たちの人生は「私たちがどれほどの人間か」を顕示するためではなく、「私たちの神はどれほどのお方か」を表現するためのものなのです。そして聖書は「人はうわべを見るが、神は心を見る」と宣言します。出来事が問題なのではなく、その背後にある『人々の心』こそ重要なのです。敬虔な神のしもべとして有名なマザー・テレサは言いました。「『どれだけのことをしたか』は問題ではありません。大切なのは『どれだけ心を込めたか』です。」 この聖書の神をあなたの神として、このお方に全面的な信頼を置いて生きるとき、初めて人間は『思い煩い』から解放されるのです。

(102) “草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。”

超大型台風がフィリピンを襲い、多くの尊いいのちが奪われました。本当に心が痛みます。私たちが住むこのクライストチャーチでも多くのフィリピンからの移民の方々が暮らしており、家族の消息を案じています。私たちもできる限りの支援を行っています。 私たちの人生にもしばしば『台風の襲来』のような出来事があります。残念ながら「生涯に1度も試練がなかった」という人には会ったことがありません。ある意味「試練に直面する」という経験は、「生きているからこそ」と言えるのかもしれません。ですから大切なことは「いかにして試練を避けて通るか」ではなく、「どのように人生の嵐に備えるか」ということになります。 ある人々の人生、またクリスチャンとしての信仰生活は『自分の気分」に基づいているかのようです。気分の良い日は「何もかもうまくいく」ような気がしたり、「神様は私を愛しておられる」と感じたり。しかし毎日雨ばかり続いたり、何となく気分の乗らない日は、心がふさいでしまったり、「神様なんていやしない!」などと思ってしまう。 イエス・キリストはある時たとえ話を用いて次のように話されました。「わたしのこれらのことばを聞いてそれを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ています。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れません。ところが、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行わない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人のようです。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、ひどい倒れ方をしてしまいます。」 神が与えてくださる人生は、「毎日お天気の楽々人生」ではなく、「台風が押し寄せても倒されることのない、確固たる確信に基づく人生」です。そしてそのような人生は「ただ神様について知っている」ことから来るのではなく、「神のことばを聞いて、それに従って生きる」ことから来るのです。

(101) “思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。”

有名な作家であり評論家であるジョージ・バーナード・ショーの遺した言葉に次のようなものがあります。「人々はしばしば自分の置かれている環境に文句を言うが、私は環境などに支配されはしない。人生の成功者たちは皆、逆境の中で奮起し、そこに新たな環境を造り出す人なのだから。」 あなたがもし農場で働くとしたら、重要なのは「どのような土地であるか」以上に、「何の種を蒔くか」に違いありません。どんなに立派な土地でも、誤った種を蒔くならば、望んだ収穫は得られないのです。ましてやあなたの人生のフィールドにどんな種を蒔くかは、あなたの志し次第です。「不安や恐れの種」、「不純な志や自己中心の種」を蒔くなら、必ずその結果を刈り取ります。しかし、「平安や喜びの種」、「愛と思いやりに満ちた優しさの種」を蒔くなら、やはりそれに見合った収穫を刈り取るのです。 祝福された人生のカギは、何か特別な場所やイベントの中にころがっているのではありません。むしろあなたの平凡な日常生活の中に隠されているのです。祈り深く聖書を読み、その日に出会う1人1人に仕える心を保ちながら生きるとき、あなたはそれらのカギを見出すことができます。ある時はそれは「落ち込んでいる人を励ますこと」かもしれないし、またある時は「一見自分には大きすぎるような課題に挑戦すること」かもしれません。お返しできないような人に敢えて施すとき、神はあなたのその手のわざを見ておられます。そしてそれは神が私たちのために用意しておられる『祝福の大倉庫』のカギを開くのです。