(94) “あなたがたは、地の塩です。”

最近ではいろいろな化学調味料が開発されてきましたが、大昔から用いられている最も基本的な調味料と言えば、それは何と言っても『塩』でしょう。塩には2つの基本的な役割があります。1つは食べ物が腐る(悪くなる)のを防ぐこと。もう1つは、良い「味付け」をすることです。 現代の新聞やニュースを見聞きしていると、そこには『否定的・破壊的』なものが満ちています。戦争・飢餓・殺人・盗み・暴力・家庭崩壊などなど。このような「社会の腐敗」を、一体どのようにして止めることができるのでしょうか? イエス・キリストが「あなたがたは、地の塩です」 とおっしゃったとき、まさに彼はその話しを聞いている1人1人がこの「腐りかけた」世界の中で異彩を放って生きることを期待されたのです。疲れ果てている人々に『憩い』を、そして失望しかけている人々に『希望』を与えることができる者になるようにと。 否定的な生き方を初めから望んでいる人などいません。ほとんどの人は「忙しさ」や「不安・恐れ」また「ストレス」などの故にそのような生き方に追いやられているのです。私たちはそのような人々の言動や行動を操作することはできません。しかし、それらの人々に対する自分の態度(リアクション)は変えることができます。妥協したりあきらめかけている人々に同意する必要はないのです。私たちはそれらの中にあってなお、いつも『最高のもの』を求め、それに向かって最善を尽くすことができます。何故なら、私たちを造られ、私たちを愛し、今日も生きて働いておられる私たちの主イエス・キリストが、それを望んでおられるからです。 多くの場合、人々は「目覚まし」を必要としています。まだまだ残っているはずの「新たな希望・可能性」に向けるべき目が眠りかけてしまっているのを目覚めさせてくれる人、「キミはそんな風に感じているかもしれないけど、本当はそうではない!まだまだ希望はある!まだ試していないことはたくさん残っている!エネルギーを出し惜しみしないで!」と呼び覚ましてくれる人を。 あなたは眠ったまま干からびていく『塩』がいいですか?それとも腐りを止め、美味しく味付けする『塩』としてイエスと共に働きたいですか?

(93) “わたしを遣わした方のみこころを行い、そのみわざを成し遂げることが、わたしの食物です。”

「『人生成功のカギ』をあなたは持っていますか?」 こう尋ねられると恐らくある方々は「そんなものがあるのならぜひ手に入れたい!」と思うでしょうし、別の方々は「そんなものあるわけない。あれば誰も苦労しない。」とおっしゃるでしょう。しかし、私はそれを持っています。そして今日はそれを皆さんにお分かちします。 人生成功のカギ その1.「本当の成功とは何か」を理解する ・『成功した人生』とは、どのようなものでしょう?「周囲の人々から認められたり羨ましがられたりすること」でしょうか?それは単に『人気のある人生』なだけです。『真に成功した人生』とは、「自分の日々の歩みに対して心からの喜びと充実感を味わっている」ということです。そしてより高次元の目標を抱いて生きる人は、より高次元の喜びを体験することができます。 人生成功のカギ その2.「目標設定」のために、まず神に祈り求める ・「生きるための目標」を設定することは悪いことではありません。実際「目標なしの人生」はあたかも「帆のないヨット」のようで、環境に流されるだけです。しかし「目標となるものならどんなものでも良い」というわけでもありません。私たちを造られた神は、私たち1人1人のためにユニークでエキサイティングな計画をお持ちです。それは私たちが自分で思いつくどんな『グッドアイディア』にも優っています。 人生成功のカギ その3.「昨日の自分よりも、今日の自分」 ・種は1日で花を咲かせたり実を実らせたりはしません。しかしちゃんと面倒を看るなら確実に日々成長・発展していきます。神様はあなたに初めから花や実を与えることはしません。ただあなただけに育てられる『種』を与えます。あなたはそれが何であるかを見極め、そこから目をそらさず、日々心を込めて育てて行かなければなりません。他の人の成長を共に喜ぶことは良いことですが、自分の成長と比較して羨んだり落ち込んだりすることは愚かなことです。比較するなら、他の人ではなく、昨日の自分にしてください。 私は神様からこれらのカギを教えていただいてから、毎晩寝る前にこう思えるようになりました。「神様、もし私のたましいが今夜取り去られ、2度と目覚めることがなかったとしても満足です。今日は人生で最高の1日でしたから。でももしまた明日の朝目覚めるとしたら、心から感謝します。明日は私の人生の中で最高の1日となりますから。」

(92) “主を恐れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは悟りである。”

英語では『神』を表す単語が2つあります。1つは「God」、そしてもう1つは「god(s)」です。最初のアルファベットが大文字か小文字かだけの違いですが、実際には決定的な違いがあります。日本語で言うなら、前者は『人間を造った神』であり、後者は『人間が造り(考え)出した神』と言い分けることができるでしょう。前者は世界で唯一であり、後者はいくらでも存在します。 人間は自分の好みや必要に応じて、様々な神を考え出します。「困ったときには助けてくれるけど、普段は決して口出ししない神」「祈りをかなえてくれたり、約束を守ってはくれるけど、間違いを諌めたり、訓戒したりしない神」「どんなことでもできるけど、あくまでこちらの許可の範囲内で、こちらの都合に合わせてくれる神」などなど。 聖書が私たちに啓示している神(God)は、これらの人間的なイメージにはとても納まりきりません。真の神は完全に聖く、全能であり、かつ私たちの心の奥の奥までご存知の『恐るべきお方』です。聖書は、このことを恐れて生きることこそまことの知恵である、と教えます。 『恐れ』には私たちに必要なものと不必要なものとがあります。事故を恐れて安全運転をしたり、病気を恐れて体力づくりをしたりすることは必要です。しかし、失敗を恐れて新しいことにチャレンジすることをあきらめたり、人を恐れて自分の意見をはっきりと言えないことは、私たちの人生をダメにします。「不健康な恐れ」は、私たちを不安にさせ、生きる喜びを奪い、萎縮させます。しかし、それとは反対に「真の神を恐れて生きること」は、私たちをこれらの『不健康な恐れ』から解放し、生きる意義や喜びを満喫させ、人間に本来与えられた「神の栄光を現す人生」へと導いてくれます。 私たちは『自分で造り出した神』に希望を置いている(言い換えるなら、自分自身を神よりも上に置いている)間は、この『まことのいのち』を見出すことはできません。人生のカギを握るのは、『god』ではなく『God』なのです。

(91) “聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。”

「聖書は世界のベストセラー」と言われますが、なぜ聖書はそこまで人々に読まれているのでしょうか?最近映画の主人公にもなった、歴史上最も偉大なアメリカ大統領とも言われる『アブラハム・リンカーン』は、聖書に関して次のような言葉を遺しています。「聖書は神が人類に与えた最も偉大な贈り物である。私たち人間に必要なもののすべては聖書の中に書かれてある」 と。では、なぜ聖書が「神から与えられたもの」ということができるのでしょう? 第1番目には、「聖書の中に書かれた『預言』がことごとく成就している」という事実です。特にイエス・キリストに関する預言について言うなら、彼の誕生、生涯、そしてその十字架における死と復活に関しての数々の預言が成就しました。ある数学者の話によると、「聖書にある預言のうちの8つが1人の人物によって成し遂げられる確立は、日本の国土全体に1円玉をくまなく並べて、その中の1枚にだけしるしをつけ、1人の盲人が一発でそのしるしのついた1円玉を拾い上げるのと同じくらいの確立(すなわち、ほとんど不可能)である」ということです。ところが、イエス・キリストはたった1日で29の預言を成就しました。これは背後に「神の御手があった」としか言いようがありません。 第2番目は、その教えの崇高さです。「自分にしてもらいたいことは、他の人にもそのようにしなさい」「あなたの敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」などの道徳規準の高いその教えは、現代多くの国々の(キリスト教国に限らず)憲法の模範として用いられています。あたかも、人間をお造りになり、その幸福を願っている大いなる愛に満ちた神によってもたらされたかのようです。 第3番目には、「聖書は歴史を通して多くの人々の人生に影響をもたらした」ということです。聖書は数えきれない人々に、生きる希望・人生の目的・逆境を乗り越える力・生活の知恵、そしてしばしば歴史を造り変えるような大志を抱かせ、それを実現してきました。 通常、電化製品その他の品物を購入すると、必ず『取扱説明書』なるものがついてきます。ベーシックな使い道ならあまり説明書を読まなくても何とかなるのですが、少々複雑な使用目的や、特にトラブルに陥った時には必ずこの『取扱説明書』が必要になります。実は神様が私たち人間をお造りになり、この世に送り出された時にも、私たちのために『取扱説明書』を用意されました。それがこの『聖書』なのです。 さあ皆さん、聖書を読むことなしに人生の荒波を越えていくのがどんなに危険か、分かってもらえたでしょうか?

(90) “すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたし(イエス)のところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。”

引越しをしたことはありますか?結構大変な作業ですが、良い面もあります。それは「長いこと溜め込んでいた不用品を処理することができる」ということです。私が住むクライストチャーチでは、2年半前にあった大震災後、壊れかけた家の修復工事が進んでおり、最近も友人の家で工事が始まるというので、引越しを手伝ってきました。そうしたら、出てくるわ出てくるわ。数年前に行ったキャンプで残った食べ物や、消費期限のとっくに切れたコンタクト洗浄液。どこに行ってしまっていたか不明だった、ずっと以前に買いだめした缶詰類などなど。捨てたり、人にあげたりして、持ち物が半分くらい(ちょっと大袈裟か!)減ったようです。たまに引越しするのもいいかも。 「溜め込んだ不用品」は家の中だけではありません。私たちの心や思いの中にも、私たちの日々の向上にブレーキをかける『要らぬ重荷』がたくさん溜まっていることがあります。「誰にも分かってもらえない、という不安」「すべての人を喜ばせようとする徒労」「やってみる前にあきらめてしまう気持ち」「人との比較に疲れ果てている心」「皆から好かれていたいという欲求」。どれも何となく捨てがたい気がして、ついつい心のバッグに溜め込んで、いつの間にか人生に疲れ果ててしまうのです。 あるトラックの運転手が、重そうなリュックを背負った人が歩いているのを見かけたので、声をかけて後部座席に乗せてあげました。運転中にふと後ろを振り返ると、せっかくトラックに乗せてあげたのに、その人は車内でも相変わらずリュックを背負い続けていたそうです。さっさと降ろせばいいのに! イエス・キリストは、私たちの心の重荷を代わりに負ってくださるためにこの世に来られました。彼はありのままの私たちを愛し、受け入れ、かけがえのない尊い存在としてご覧になってくださいます。「どんな物を持っているか」「どれだけのことを成し遂げたか」は、彼にとっては問題ではないのです。ただ『神の視点から見た自分』だけが重要なのです。 あなたもこのイエスが運転するトラックに、私と一緒に乗りませんか?そして重荷を降ろして、イエスと共に歩む人生の醍醐味を満喫しましょう!

(89) “わたしは、あなたの神、主である。わたしは、あなたに益になることを教え、あなたの歩むべき道にあなたを導く。”

いつの時代にも、様々な占いがはやります。「星占い」「手相占い」「タロットカード」「水晶玉」などなど。何故このような『占い』がはやるのでしょう?それは「将来のことが分からないのが不安だから」ということではないでしょうか? 私たち人間は1秒先のことさえ分かりません。将来のための『計画』は立てますが、それが必ず実現するという保証はどこにもありません。それ故私たちは何とかして「将来の自分」を垣間見ようと占いに頼るのでしょうが、占いは将来を予測してはくれても、その「来るべき将来」のために今どう生きるべきか、を教えてくれはしません。 聖書は「将来の私」を教えてはいませんが、聖書が教える『神』は、私たちがもし彼に信頼するなら、私たちと「共に歩み」、私たちを「歩むべき道へと導く」と約束しています。言わば、聖書の神は、私たちの人生の『専属コーチ』になってくださるというのです。 ある人は「そんな、自分の人生のためにあれこれと指図されたくない。私の人生のことは私が自分で決める」とおっしゃるかもしれません。でも、そういう方でも「本を読んで学んだり」とか、「先輩にアドバイスをもらったり」とかはすることでしょう。神は何かをあなたに『無理じい』したりはしません。あくまであなたの『自由意志』を尊重します。彼はあなたの人生に祝福をもたらすための知恵は教えますが、それを選び取るかどうかの決断を下すのはあなた自身です。神はあなたを死とさばきから救い出すための『唯一の道であるイエス・キリスト』をお与えになりましたが、驚くべきことに、このイエスをあなたのための救いとして受け入れるかどうかの決断さえも、あなたにお委ねになりました。これでもあなたは「指図されたくないから、神なんて信じない」とおっしゃるでしょうか? 「デタラメな人生を送り、一生を無駄にしたい」などと心から願っている人など誰もいません。皆「有意義で豊かな人生を送りたい」と願っているはずです。そしてそれを与えるために、神はいつでも私たちの前に『スタンバイ』してくださっているのです。この神と関係を結び、そのアドバイスや導きを受けながら実り多き人生を送るかどうかは、今日のあなたの『決断』によっているのです。

(88) “何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。”

キリスト教の教えと言えば、『愛』とか『罪の赦し』などということばが思い浮かぶと思いますが、一体この2つはどのような関係があるのか、考えたことがあるでしょうか? 「愛の反対語」は、「憎しみ」と考える人が多いようですが、実際は『愛』と対極にあるものは「無関心」や「自己中心」といったものです。ある人は「愛なしに与えることはできるが、与えることなしに愛することはできない」と言いました。愛とは、相手のために自分の時間や労力、財産、そして時にはいのちまでも与えさせるものです。 それでは『罪』とはなんでしょうか?『殺人』『盗み』『強姦』などの刑事上の罪もあれば、『偽り』『欺き』『裏切り』などの道徳上の罪もありますよね。面白いことに、聖書はこれらのことに加えて次のような「罪の定義」をしています。「なすべき正しいことを知っていながら行わないなら、それはその人の罪です。」 電車やバスの中でお年寄りや妊婦さんに席をゆずってあげないこと、あるいは、道端で苦しそうにうずくまっている人に手を貸してあげないことこそ『罪』だと言うのです。これらは相手に対する『憎しみ』から出ているのではなく、私たちの中にある『自己中心性』や『無関心な態度』から出ているのです。 聖書は私たちに「罪から離れるように」と強く勧めています。そしてそれは「愛に生きること」によってこそ可能になるのです。『愛』とは、何か感傷的なものではなく、また男と女がイチャイチャすることでもありません。自分が持っているものを、それを必要としている人に与えることです。そしてそれを実践する力は「愛である神」から注がれるのです。このお方と心のベルトを掛け合って生きるとき、私たちはもはや周囲の人々に対して無関心ではいられません。そしてこの神ご自身が、罪の力に縛られていた私たちを黙って見ていることができずに、人(イエス・キリスト)の姿を取ってこの世に来られたのです。  

(87) “むちを控える者はその子を憎む者である。子を愛する者はつとめてこれを懲らしめる。”

現代ほど子どもを育てるのに知恵を必要とする時代はかつて無かったのではないでしょうか?暴力や破廉恥に満ちた漫画やゲーム。インターネットの蔓延。いじめや麻薬。そして多くの家庭は共稼ぎで、子供たちはお金だけ与えられて放置されています。「私は自分の子どもを愛しています」と言うかもしれません。しかし正しい『しつけ』抜きの愛は、単なる『甘やかし』に過ぎません。 私たちは単に「自分の子ども」を育てているのではなく、『次世代』を形造っているのです。ですから、「責任感のある、困難に負けない子供たちを育てること」は、神から私たちに委ねられている大きな責任だと言うことができます。そのために正しいルールを教え、それをしっかりと守って生きるようにしつけることはどうしても必要です。『ルール』というとどうしても「拘束される」というイメージがありますが、適度な理にかなったルールは、かえって子どもを安心させ、「自分は大切にされている」と感じさせるものです。 下記に「子どもを正しくしつけるため」のいくつかのガイドラインを述べておきます。 ①  「どうしても守らなければならない、必要最小限の『ルール』を作って、よく子どもに理解させる」 ・親として自分に都合が良いルールを作るのではなく、愛情を込めて「子どもを危険から守り、責任感のある大人となることを助ける、実行可能で具体的なルール」(多くても5つくらい)を作りましょう。それらを子どもに分かりやすく説明してあげてください。子どもがそのルールを破った時に、自分が何故叱られているのか分からないのでは、かえって子どもは混乱し、イライラするようになります。分かりやすい言葉で紙に書いて壁に貼っておくのも良いかもしれませんね。そして、叱る時には必ず一貫性を持たせるようにしてください。ルールを破ってもある時は叱られ、またある時は叱られなかったというのでは、ルールを作った意味がなくなりますから。 ②  「それらのルールを、子どもを『さばく』ためではなく、『成長を励ます』ために用いる」 ・複数のお子さんをお持ちの方によく見られることですが、決して兄弟同士、また近所の子供たちと比べた評価をしてはいけません。「アナタはどうしてOOちゃんのようにできないの!」 それは無理な話です。神様は1人1人をユニークに造られたのですから。また『レッテル貼り』をしないことです。「ホントにお前はのろまなんだから・・・」などのような言葉は、子供たちの心に「私はのろまだから、何をやってもダメなんだ」という呪いをかけます。子供たちの誤った行動を叱ることはあっても、人格を決め付けるような表現は避けましょう。 最後に、『No』ということを恐れないで下さい。子どもがいくら駄々をこねても、あるいは脅してきても「ダメなものはダメ」なのです。子どもも賢いですから、「だってお母さんだって・・・したじゃん!」などと言って、何とか自分の思い通りに親を動かそうとすることがあります。そんな時はしっかりと「親としての権威」に立ってください。但し、親だって間違いを犯すことはもちろんあります。その時は自分の過ちを素直に認めるように心がけましょう。「子どもは親の言うことは聞かないが、することは真似する」というのは本当です。親が自分の非を素直に認める態度を一貫していれば(もちろん、間違ってばかりでは困りますが・・・)、子どもも謙虚に育ちます。 「自分自身が神を畏れ敬いつつ正しい生き方を心がけ、子供たちをも神を畏れ人々を愛する子どもに育てる」、これが『次世代を育てる責任』を与えられた私たちの生き方なのではないでしょうか?

(86) “無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしりなどを、いっさいの悪意とともに、みな捨ててしまいなさい。”

毒蛇にかまれた男が、慌てて病院に駆け込みました。診察を終えてから男は医者に尋ねました。「命に関わるようなことはあるのでしょうか?」 医者は答えました。「咬まれた傷自体は大したことはありませんが、毒が体に残っていると、その危険はあります。」 私たちの人間関係にも同じようなことが言えます。誰かから嫌なことを言われたり、意地悪をされたりすることは心が痛みますが、その『キズ』自体は致命的ではありません。むしろそれをどう解釈するかが、私たちの人生や人間関係に大きな影響を与えます。私たちの人生に起こる出来事の中には、私たちには選ぶことのできないものもあります。しかし、私たちの人生を壊したり蝕んだりするのは、『出来事そのもの』ではなく、「その出来事をきっかけに私たちの心の中に起こった反応を、私たちがどう処理するか」にかかっています。心に生じた苦々しさを何度も何度も思い返していくうちに、やがてそれが相手への憎しみ(毒)となり、あなたの心を支配し、神様があなたのために備えてくださっている祝福を奪っていくのです。 しかし神様は、私たちがそのような悲劇から逃れるための道を用意してくださいました。それは『赦し』の道です。聖書は言います。「神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。」 神は、罪なきご自分のひとり子イエスを、私たちの罪の身代わりに十字架におつけになりました。私たちの『罪』とは、「いつでも自分が1番良い目をみたい、というワガママで自己中心的な心の態度」のことです。神はその罪の『責め』を私たちに負わせる代わりに、イエス・キリストに負わせたのです。それは私たちがもはや「罪の責め」を誰に負わせることもしないようになるためなのです。 憎しみや恨みからは何も良いものは生まれません。私たちがこれらのものから解放されるためには、それらの毒を吸い出してもらうことです。イエス・キリストを通して示された神の『愛と赦し』は、私たちの心に巣食おうとする毒を吸い出す力があるのです。あなたはもうこの『愛と赦し』を受け取りましたか?

(85) “そこでピラトは、群衆の目の前で水を取り寄せ、手を洗って、言った「この人の血について、私には責任がない。」”

皆さん知っていましたか、天国には悪い人ばかりいて、地獄には善い人ばかりがいるんだそうですよ。だって天国では皆が互いに 「ボクが悪かったんですよ。」 「いえいえ、私の方こそ悪かったんです!」 と言い合っていて、逆に地獄では皆が 「オレは悪くないぜ。悪いのはアイツだよ。」 「何言ってるのよ。私はちっとも悪くなんかないわ。そもそもアナタのせいじゃないの!」 と互いに自己弁護し、罪を人になすりつけているんですから… 上記はもちろん1つの寓話ですが、このように「失敗を誰かのせいにばかりしている人の周りには、決して幸福は生まれない」ということは言えるかもしれません。 私たちは現代、今までにない「責任をなすりつける」という習慣にまみれた時代に生きていると言えるかもしれません。人々は様々な理由を付けて「責任を追及されることを避けるための言い逃れ」をすることに夢中です。「自分がこうなったのは、アイツのせいだ。あの出来事のせいだ。」と。そして問題の発祥は決して自分ではないのです。 他の人に責任をなすりつけることは、一時的にはあなたの気持ちを楽にするかもしれませんが、それはあなたを中心とした人間関係を徐々に蝕んでいくのです。たとえ誰にも気づかれなかったとしても、世界に少なくとも2人は真実を知る者がいます。それは神様とあなた自身です。自分の責任を無視しようとし続ける限り、神のまなざしはあなたの『自責の念』を増長させることにしかなりません。しかし、もしあなたが神の前に自分の落ち度を認め、人々に対する責任を果たそうと努めるなら、その同じ神のまなざしが「愛のまなざし」と感じ取れるようになるのです。 もし非が他の人にあるのなら、その責任はその人自身が取らなければなりません。誰であっても「自分の非を認め、神を敬いつつ自分の責任を果たしていく」ところに、真の解決、そして解放があるのです。