『聖書』ってどんな書物なの?

聖書

聖書は世界のベストセラー

・キリスト教の聖典である『聖書』は、年間6億冊以上印刷されており、印刷の技術が発明されて以来の圧倒的な『世界のベストセラー』です。

・中身は一見1冊の本ですが、実際は「旧約聖書39巻」「新約聖書27巻」という66巻の書物から構成されており、1600年かけて40人もの人々によって書かれました。「天地創造」から始まる神と人との歴史的物語、詩歌、預言、イエス・キリストの生涯とその教え、そしてイエスの弟子たちが教会へ宛てた手紙など、その内容は様々で、読み返すたびに人の心を打つ、いわば『神から人に宛てた人生マニュアル』なのです。

・聖書を初めて手にする方は、「どこから読み始めたら良いか分からない」とか「手引き書がないと分かりにくい」と感じるかもしれません。何も「初めから通して読まなければ…」などと堅く考えずに、目次を見ながら、興味をそそる書物から読み始めるのが良いと思います。初心者の方には、旧約聖書巻頭の『創世記』、または新約聖書3巻目の『ルカの福音書』などから読み始めると良いかもしれません。

聖書にちなんだ、ちょっといい話

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(279) “私たちはみな、多くの点で失敗をするものです。”

子供たちが幼い頃から、我が家の合言葉は「ラーニング・エクスペリエンス(失敗から学ぼう)」でした。日本語にも「失敗は成功の元」ということわざがあるように、失敗を恐れていては何も学ぶことはできません。また失敗を恐れていては、神があなたのために立てておられる『偉大な人生の計画』に到達することもできないのです。 人は誰でも失敗するものです。けれどそれらの失敗の数々をじっくり観察するなら、それらはほとんどが「その時だけの恥」であって、多くの場合、その失敗を通して様々な助言をもらえるようになったり、反省してよく準備するようになったり、後輩に良きアドバイスを与えることができるようになったりするのです。 「失敗」が人を『失敗者』にするわけではありません。むしろ「失敗から何も学ばないこと」また「その失敗の故に2度と挑戦しようとしなくなること」が私たちに『失敗者』としての人生を歩ませるようになるのです。 神は決して私たちの失敗を責めたりはなさいません。むしろ私たちが、やること成すことすべてうまく運んで高慢になり、「私には神なんか要らない」などと言い始めることをお責めになるのです。日々私たちに知恵と力とを注いでくださり、私たち1人1人に与えてくださった「ユニークで偉大な人生」を全うさせようとしてくださっているこの神を見上げつつ、失敗を糧としながら前進して行きましょう。

(278) “信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。”

この天地をお造りになり、私たち人間1人1人にいのちをお与えになった『創造主なる神』は、そのすべてをこよなく愛しておられます。それ故神は、それらすべてを祝福し、慈しみ、聖書のことばを借りるなら「良い人にも悪い人にも太陽を昇らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせて下さる」のです。 私たち人間は『自己中心的』な存在なので、自分に意地悪をしたり都合が悪い人などがいるとつい、「神様、あの人に罰を与えてください!」などと祈ったりしますが、とても幸いなことに神は「気分屋」ではないので、私たちのそんな気まぐれな祈りにいちいち答えることはありません。(さもなければ、私たち自身も相当頻繁に『ひどい目』に遭ってしまうことでしょうね!) では神には『感情』のようなものは全くないのでしょうか?ある人々が考えるように、神は何か『法則』のような存在で、ただ機械的に天体を規則正しく運行させたり、悪い習慣に悪い報いが起こるように設定しておられるだけなのでしょうか?いいえ、そうではありません。聖書をよく読むならば、あちこちに神が「怒って」おられる様子や「悲しんで」おられる様子、そして「喜んで」おられる様子が描かれています。 では、神は一体どのようなことを「喜ばれる」のでしょう?それは、私たちの『信仰』です。信仰というのは何も「ありもしないことを、あるように思い込むこと」ではありません。むしろ「何よりも確かな存在である『人格的な神』がおられること」を素直な心で認めることです。そしてこのお方が日々注いでおられる『愛と恵み』に対して目が開かれ、心を通わせながら生きようとする私たちの「信仰の姿勢」を、神は喜んでくださるのです。 『信仰』とは、いわば「心の向き」です。例えば雨の日にコップを持って外に出たとしましょう。コップの口を上に向けておくなら、雨水はやがてコップの口いっぱいにまで溜まります。しかしコップが傾いていれば十分に溜めることはできないし、逆さまに伏せてしまっていたら雨水は一滴もコップに入ってはきません。同じように、神は「神とのふれ合いを求めて、心を真っ直ぐに神に向けて生きる者」を喜ばれ、他の人たち以上にご自身の祝福を与えずにはいられない方なのです。

(277) “まず、杯の内側をきよめなさい。そうすれば、外側もきよくなります。”

4週間ほど日本へ一時帰国していました。その間「聖書のいい話」をお休みしてしまいました。ごめんなさい。 さて、ある夫婦がドライブに行こうとしてガソリンスタンドに寄りました。するとスタンドの青年がフロントグラスを拭いてくれています。料金を払い終わり出発しようとしてふと見ると、何と拭いてもらったばかりのはずのフロントグラスがずい分と汚れています。夫の方が拭いてくれた青年に叫びました。「ずい分と雑な仕事をしてくれたじゃないか。もう1度キチンと拭いてくれたまえ!」青年は怪訝そうな顔をしながら、もう1度丁寧に拭いてくれているのですが、相変わらずフロントグラスは汚れたままです。夫は少々イライラしながら言いました。「その布が汚れているんじゃないか?よく確かめてみたまえ。」するとそれまで黙って見ていた妻がチョッピリあきれた顔で夫のメガネを取ると、自分のハンカチを取り出してきれいにし、再び夫の顔に戻しました。あらためてフロントグラスを見ると、一点の汚れもなくきれいになっていました。 この世のさまざまな『宗教』は、私たちに「道徳的な教え」や「立派な行動の規範」を示してくれます。それらはもちろん大切なことではあるのですが、私たちは決して外面的な努力によっては真の意味で自分自身を向上させることはできません。私たちの行動が洗練されていくためのカギは「私たちの内面の変化」にあるのです。私たちはまず内面的に造り変えられ、その後でその刷新された内面が、目に見える行動となって現れるようになるのです。 キリストは私たちの内面に潜んでいる「創造主なる神からそれている思い」という人類の根本的な問題に光を当てるために来られ、そしてその問題を解決するために私たちの身代わりに十字架の上でその罰をお受けになりました。このキリストを内側にお迎えすることによって初めて、私たちは物事の真実を見つめることができるようになり、少しずつ「人間のあるべき姿」へと回復されて行くことができるのです。

(276) “見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを(神に)願って聞き届けられました。”

 「もし全知全能の神がおられ、私たち人間を愛しておられるなら、どうしてこの世には悪が存在するのか?」そのように考えたことがある方は少なくないと思います。 聖書を気をつけて読むなら、何箇所かに渡って「この世における『悪の力』の存在」について描写してあることが分かります。そしてその首領は『悪魔』とか『サタン』とか呼ばれて、ある箇所では「この世の王」とも呼ばれています。すなわち、本来神様はこの地上を人間のために造られたのに『初めの人アダム』が神のことばよりも悪魔のことばに従って以来、この地上の支配権が悪魔に奪われてしまったのです。では、神様はそんな悪魔をどうして野放しにしておくのでしょう? 聖書の中の悪魔に関する記述を注意深く読むと、悪魔は「神の許容範囲内」でしか活動できないように制限されていることが分かります。悪魔がある個人または地域に災いをもたらそうと考えたとき、いつも神に「お伺いを立てに来る」のです。では、神は何故そのような悪魔の思惑をお許しになることがあるのでしょうか?それにはいくつかの理由がありますが、その主な理由は「私たちの目を『霊的な世界』に向けさせ、ご自身の許に引き寄せ、試練を通してその信仰を成長させるため」であるということができるでしょう。日本語のことわざにも「苦しいときの神頼み」とありますが、私たちはしばしば「痛い目を見るまでは神を求めない」頑なな存在です。しかし私たちが心を神に向け、彼を呼び求めるなら、神は私たちを「暗闇から光へ」移すことのできる方なのです。 悪魔は人間よりも力がありますが、神はその悪魔よりも圧倒的に優れたお方です。神は、彼に信頼し彼と共に歩む者とされた人々と『一緒に』この世界をご自身の許へと取り戻そうとしておられるのです。神は、私たちが苦難の真っ只中にいる時に、それをただ「傍観している方」ではなく、私たちが神に向かって助けを求めて叫ぶのを今日も「心を痛めながらじっと待っておられる方」なのです。

(275) “私たちは、人を喜ばせようとしてではなく、私たちの心をお調べになる神を喜ばせようとして語るのです。”

『自分の存在価値』というものをはっきりと理解していることは非常に重要です。そうでないと私たちは常に「誰かに認められよう」とやっきになり、相手のために貢いだり、自分を偽ったりして、かえって自分をおとしめることになります。『自分の存在価値』を人からの評価に捜そうとするなら、それは中毒のように私たちを滅ぼして行きます。何故なら私たちは決してそのような方法では「満足に至る」ことはないからです。 私たちが聖書のことばを通して『創造主である神』と出会う時、私たちは初めて「自分の真の存在価値」というものを見出すことができます。何故なら『私たちの真価』は、私たちの「能力」「業績」「財産」などによって測られるのではなく、「私たちが誰の作品であるか」によって決まるからです。 私たちが他の人と語る時、もし「この人は私のことをどう思っているのだろう?」ということが気にかかるなら『心の中の真実』を語ることは難しくなり、結果として「耳障りの良いことだけ」を語るようになります。しかし実のところ大抵の人々はいつも『自分のこと』がその思いの中心にあるので、あなたのことにそこまで真剣に気を遣ったりはしていません。だから「人の目」や「人の言葉」を恐れないで下さい。むしろあなたのことをいつも心にかけてくださっている神様の「あなたは私の最高傑作なのだ。今日も自信を持って堂々と自分自身を生きなさい!」という語りかけにいつも心を留めていましょう。こういうわけで、私たちは「私たちの真価をご存知の神」にふさわしく、いつでも誰に対しても「愛をもって心の真実を語る」べきなのです。

(274) “愚か者は自分の道を正しいと思う。しかし知恵のある者は忠告を聞き入れる。”

「聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥」という日本のことわざもあるように、必要な忠告を聞かないことは大きな失敗をもたらすことがあります。どんなにたくさんの知識を持っている人でも、知るべきすべてのことを知っているわけではありません。「自分にはまだ知らないことがある。まだまだ学ぶべきことがある」と分かっている人こそ『賢い人』と言えるでしょう。 プロゴルファーたちは皆『キャディ』たちと共にコースを回っています。そしてこの『キャディ』というのは、単に「ゴルフクラブを運んでくれる人」ではありません。彼らはそれぞれのゴルフコースに関する多くの知識を持ち、ゴルファーたちに必要なアドバイスを与えてくれています。 往年のプロゴルファーに「トミー・ボルト」という選手がいました。彼は大変技術の優れたゴルファーでしたが『癇癪持ち』でもありました。ある時ボルト選手が南カリフォルニアで開かれた大会に参加した時のことです。その日彼は前日に悪いスコアを出してしまったことに相変わらずイラついていました。そこで彼は1日の初めに自分のキャディに向かって「今日はお前は、オレ様に対して『ハイまたはイイエ』以外は言うんじゃない!」と命じました。そういうわけでキャディは、アドバイスをあげたいと思ったときでも忠実にその言葉に従いました。あるホールでボルト選手はティーショットを林の中へ打ち込んでしまいました。彼はイライラしながら林の中へ行き、そこに落ちているボールを見つけるとキャディに尋ねました。「やっぱりここは5番アイアンで行くべきだろうな?」キャディは「イイエ」と答えました。しかしボルト選手は自分の判断の方が正しいと思ったので、ともかく5番アイアンで打つと、打球は見事にグリーンの上の旗のすぐ側に止まったのです!ボルト選手は得意げにキャディに言いました。「どうだ、今度ばかりはオレ様の判断の方が正しかっただろ?何とか言ってみたらどうだ?」するとキャディは答えました。「ハイ、確かに良いショットでしたが、今あなたが打ったのは他の人のボールです。」 聖書は「人の心の高慢は破滅に先立つ」とも書いてあります。取り返しのつかない失敗をするよりは、立ち止まって忠告に耳を傾けた方が良いとは思いませんか?

(273) “わたしの愛の中にとどまりなさい。”

英語で「Make yourself at home」という表現があります。日本語に訳せばさしずめ「自分の家のようにくつろいでくださいね」といったところでしょうか?要するに「何も遠慮せず、ありのまま自由に過ごしてください。あなたは心から歓迎されており、受け入れられているのですよ」というわけです。 イエス・キリストが人々に向かって「わたしの愛の中にとどまりなさい」と言われた時、まさに同じような意味で言われたのです。神は、あなたが今まで誰からもそのように愛され受け入れられたことのないような愛によって、あなたのことを愛しておられるのです。私たちがしばしば『神の愛』というものを正しくイメージできないのは、それと似たようなものがこの世に存在しないからです。恐らく「母の愛」はそれにかなり近いものかもしれませんが、悲しいことに最近は「教育熱心さ」のあまり、自分の子どもに『不必要なハードル』を与えてしまう母親が増えてきています。しかし神の愛は『無条件』であり『永遠』です。あなたの能力や態度が、あなたに対する神の愛を増やしたり減らしたりすることはありません。それは優しく、力強く、完全な愛なのです。 「神の愛を受け取るために必要なもの」は、『努力』でも『我慢』でもありません。『信仰』です。「神はそのひとり子イエス・キリストを私の罪の身代わりに十字架にかけるほどに、私を愛しておられる」と単純に、幼子のように信じる『信仰』のみが、『父なる神』が私たちに望んでおられることなのです。

(272) “あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。”

ある男性が、経験不足のため「広告代理店」を首になってしまいました。しかし彼はどうしてもこの分野でもっと熟達したかったので、特別な許可を得て、給料なしでそれまで携わっていた仕事を継続させてもらうことになり、それまで以上に熱心にミーティングに参加したり、同僚の話を聞いたり、商談に同席し続けました。 彼の上司は、初めのうちはそんな彼のふるまいを無視し続けていましたが、やがて彼にこう言いました。「給料をもらうことよりも、仕事そのものを目当てに働いてくれる人物に出会うのは、キミが初めてだよ。」 やがてこの男性は「コマーシャル業界」において革命的な発展を遂げさせる様々なアイディアを生み出す人物となったのでした。 「偉大なことを成し遂げること」を夢見る人は大勢いることでしょう。しかし実際にそのための第1歩を踏み出す人は、驚くほど少ないのです。「今にお前たちをアッと言わせてやる」と言う人のほとんどは、昨日も同じ事を言っていたのです。「神がデザインしたようなアナタになるため」には、まず「神がアナタのために用意してくださった道」を歩き始めなければならないのです。当たり前のことですが、スタートしない限り、決してゴールインすることはできません。そしてスタートしたからには「自分の道が明らかに間違っている」と気付かされるまでは、脇目をふらず進み続けるべきです。 たとえ人々があなたを「あきらめた」としても、神様は決してあなたを「あきらめません」。ですから、神が備えておられる『偉業』に向かって、あきらめることなく今日も進んで行きましょう!

(271) “私が自分の走るべき行程を走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音をあかしする任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません。”

今回の聖書のことばは、キリストの使徒であるパウロが残したことばです。彼は文字通り「命懸け」で国々を巡回し、イエス・キリストにある救いを宣べ伝えた人物で、新約聖書の半分近くを書いた人でもあります。このように断言できる『人生の目標』を持って生きることができたら素晴らしいとは思いませんか?実際パウロはその生涯が終わりに近づいた時、次のような言葉も遺しています。「私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。」 アメリカの有名なキリスト教の牧師の著作で、3200万部も売れた『人生の5つの目的』という本があります。その中で著者のリック・ウォレン牧師は「すべての人間は次の5つの目的のために神によって造られた」と書いています。その5つとは… ①「神の喜びのため」に造られた ・この世は私たちを、私たちの持っているもの(能力・財産など)によって評価します。しかしそれらはすべて私たちが生まれた後で「与えられたもの」にすぎません。神は私たちがまだ何も持っていなかった「生まれる前」から、私たちの両親同様に、私たちの誕生を待ち焦がれていたのです。 ②「神の家族となるため」に造られた ・聖書の神は「関係を好まれる神」です。聖書は「神はイエス・キリストを通してご自身に近づく者を『神の子ども』とされる」と書いてあります。また聖書の中で最も大切な戒めは「私たちが神を愛し、また互いに愛し合うこと」です。私たちは『神の家族』として互いに深く愛し愛されるために生まれてきたのです。 ③「キリストのようになるため」に造られた ・私たちは皆成長します。肉体的にだけでなく、心もです。では、どこに向かって成長するのでしょう?それは『キリストの似姿』です。キリストのように強く、キリストのように優しく、キリストのように気高く、キリストのように清く生きる者とされるために、私たちは生まれ、神と共に生き、そして成長するのです。 ④「神に仕えるため」に造られた ・これは何も「奴隷や使用人のように」という意味ではありません。聖書には「神によって造られた民に対してしたことは、神に対してしたのである」と書いてあります。人間は決して1人で生きるように造られてはいません。誰もが他の人々の助けを必要としています。神は私たちを「1人で何かを成し遂げるように」ではなく、「互いに助け合って神のみこころを成し遂げるように」と造られたのです。 ⑤「特別な使命のため」に造られた ・私たちは1人1人違います。神がそうデザインなさったのです。それは皆が他の人と同じように生きるためではなく、それぞれがユニークな使命を担うためです。神はあなたにも『特別な使命』を用意されています。人生とは、その使命を見出し、その使命のために整えられ、そしてそれを成し遂げるために1人1人に与えられているのです。あなたの人生を浪費しないためにも、まず「神を知ること」から始めてください。 「人生の5つの目的」について、より詳しく知りたい方は、実際にこの本を読むことをお勧めします。

(270) “草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。”

1445年にグーテンベルクによって「活版印刷術」が発明されて以来、『聖書』は今に至るまで毎年世界のベストセラーです。一体『聖書』の何がそうさせるのでしょうか?ある匿名の著者が残した次のような文章があります。 「聖書には『神の心・人間の性質・救いへの道・罪人の宿命・信じる者への祝福』が書かれている。聖書はあなたを導く光であり、あなたを育む食物であり、あなたの心を元気づける。聖書は人生の旅路のためのロードマップであり、人生航路の羅針盤であり、人生上の戦いのための武器であり、人生の舞台を最高に演じるための脚本である。聖書は驚くべき富を得させる鉱脈であり、ごまかしのない喜びの源である。その教えは聖く、その訓戒は不動であり、その履歴には誤りがなく、その宣告は不変である。その至高の主人公はキリストであり、その内容は私たち1人1人のためにデザインされており、それらの最終目標は神の栄光である。これを読むことによって知恵を与えられ、信じることによって安息を与えられ、実践することによって全人格的に健康になる。この聖書をゆっくりと、ひんぱんに、祈りを込めて読みなさい。そのことばをあなたの思いに書き付け、心を治めさせ、それに導かれて歩みなさい。これはあなたの生涯の中に与えられており、やがてその生涯の終わりのさばきの時に神の前で開かれ、そして死の向こう側の永遠の世界においても認められる。そこには人類にとっての最大の使命が述べられており、人生における私たちのすべての労苦に対する大いなる報いが約束されており、またそれらの神聖な内容を『取るに足らぬもの』とみなす者たちへの確かなさばきが宣告されている。」 聖書は単に「重視されるべきもの」ではなく、日々の生活の中で「読まれ」「実行に移され」て行くべきものなのです。だてに600年も「世界のベストセラー」を記録しているわけではありません。さあ、あなたも今日からこの『聖書』を読み、行動に移し始めてみてください!

(269) “初めに、神が天と地を創造した。”

どういった理由かは分かりませんが、「聖書は非科学的な書物である」と思い込んでいる人がいるようです。聖書を専門的に学んでいる者として、そのように言う人は「聖書のことをよく知らないで言っている」と判断せざるを得ません。事実、科学的な発見が進むにつれて「何千年も前から聖書に書かれていた記述は事実であった」ということが次々と証明されているのです。 大昔には、地球は巨大な動物または巨人に担がれていると信じられていました。自分たちの住む地上が空中にプカプカ浮かんでいるなどとは誰も信じられなかったのです。しかし聖書の中でも最も古く、BC1500年頃に書かれた『ヨブ記』という書物の中には「神はこの地を何もない上に掛けられた」と書かれています。この事実が科学的に発見されたのは実にそれから3000年以上も経ったAD1650年のことです。天地を造られた神は、当然の事ながら誰よりも先にそのことを知っていたのです。 また新約聖書の「ヘブル人への手紙」には、「神は目に見えないものを用いて、目に見えるこの世界を造られた」と述べられています。この世界の目にみえるすべてのものが、目に見えない微粒子である『原子』というものによって構成されていることが科学的に知られるようになったのはつい最近のことです。 そして「地球は平面ではなく球体である」ということを自らの大航海によって証明した、皆さんもよくご存知の『コロンブス』は敬虔なクリスチャンで、彼は旧約聖書のイザヤ書にある「神はこの丸い地上の遥か上空に住まわれる」という記述からヒントを得ました。この聖書の記述はBC700年頃に書かれたもので、歴史上始めて「地球は球体かもしれない」と提唱したアリストテレスよりも300年以上前のものです。コロンブスはその航海日誌の中で次のように書いています。「この思いを私の心に抱かせたのは、他ならぬ『天地の造り主である神』である。確かに彼の御手が私の上にあるのを感じる。神は聖霊によってご自身の聖なるみことばを通し、私にこの確信を与えてくださったのだから。」 もし今度どこかで「聖書は非科学的だ」などと言う人に出くわしたなら、ぜひ優しく教えてください。「でもね、多くの偉大な科学的発見は、実は聖書をヒントにして見い出されたらしいよ」と。

(268) “あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり、川を渡るときも、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。”

「神を信じたら、人生は問題がなくなる」と期待して、信仰の道に入る人がいます。しかし実際には問題はなくなりません。むしろ信仰の故に試練が増すかもしれません。それでは『神を信じること』を通して何が変わるのでしょうか?それは、私たちの視点が「私たちの周囲の状況を変えてくださる神」から「周囲の状況を通して私たち自身を造り変えてくださる神」へと移行させられるのです。 もちろん神様は私たちを愛しておられるので、しばしば私たちを不必要な危険から守ってくださいます。しかし神様が求めておられるのは、私たちが単に「安全で苦労のない人生を歩むこと」ではなく、「日々神に信頼し、そのみこころを求め、神から与えられている潜在能力を最大限に生かして生きるようになること」なのです。そのために神は、敢えて私たちが人生の試練に遭遇することを良しとされ、時間をかけてじっくりと私たちをご自身の『最高傑作』へと造り上げていかれるのです。 錬金術師は、鉱石が純金となるためにどれだけの時間火の中に置かれていなければならないかを知っていますし、陶器師も土の塊がどれだけ窯の中にいなければ美しい作品へと仕上がらないかを知っています。もし「熱くて可愛そうだ!」と言って中途半端なタイミングで取り出してしまったら、すべてが台無しになってしまいます。 神様はどんな錬金術師や陶器師よりも優れた知恵と深い愛をもって私たちを「ご自身の最高傑作」へと今日も造り変えてくださっています。神様が与えておられる『試練の火の温度』や『取り出すタイミング』は絶妙で完璧です。ですからぜひ、試練の中にあって「早く過ぎ去ること」ばかりを考えないで、「このことを通して神様が私に与えてくださっているレッスンは何だろう?」と思いを馳せてみると良いと思います。

(267) “主の良くしてくださったことを何1つ忘れるな。”

ある警察官が町内を巡回していると、1人の男が非常にガッカリした顔つきで公園のベンチに座っているのを見かけました。ちょっと心配になった警官は男に近づいて話しかけました。「何か心配事があるんですか?」男は答えました。「はい。実は数ヶ月前に祖父が亡くなり、私に500万円の遺産を遺してくれたんです。」警官は答えました。「あまり落ち込む原因には聞こえませんが?」「いや、話を最後まで聞いてください。」男は続けました。「実はそれに続いて先月にも伯父が亡くなり、私に1000万円近くの遺産を遺してくれたんです。」「なるほど、数ヶ月のうちに2人も身内の方が亡くなられたのは残念ですが、でもやはりそこまで落ち込むほどのことではないように聞こえますが…。もしかして、まだ他にもどなたか亡くなられたとか?」「そこなんです!」男は力を込めて答えました。「今月はまだ、誰も私に遺産を遺してくれていないんです!」 世の中には「物事の否定的な面」しか見ることができずに、自分で人生を暗くしてしまっている人たちがいるものです。あなたはそんなワナに捕まってはいませんか? 聖書は「神が良くしてくださったことを何1つ忘れるな!」と命じています。これは何も神様が私たちに「恩を着せよう」としているわけではなく、私たちの心が「下向き・内向き」にならないようにするためです。神様は『恵み』と『憐れみ』に満ちた方なのです。『恵み』というのは、「私たちには受ける資格がないのに、神様が敢えて与えてくださっているもの」(愛、赦し、平安、解放、喜び 等々)を指し、『憐れみ』というのは、逆に「私たちが当然受けるはずであったもの(罪に対する罰、神の怒り、さばき 等々)を神様が受けないで済むようにしてくださっていること」を指します。 古い讃美歌に「神様の恵みを1つ1つ数えてご覧なさい」という内容のものがあります。私たちが日々の神の祝福を1つ1つ見つけていく時に、私たちの心は「上向き・外向き」にされて行き、周囲に希望を振りまいていけるようになるのです。

(266) “主の御告げ ― 見よ。粘土が陶器師の手の中にあるように、あなたがたも、わたしの手の中にある。”

多くの人は「新しい自分になりたい!」と願う一方で、『変化』を嫌います。「悪いところを改善したい」と切望しますが、そのために払う犠牲は最小限に食い止めたいと思うものです。 私たちが神を信じ神に従うようになると、しばしば「安楽な人生」ではなく「試練に満ちた人生」に直面します。きっと多くの方々は「こんなはずではなかった。何かが間違っているのではないか?」と感じるのではないでしょうか?でも心配はありません。それらは起こるべくして起こっているのですから。 聖書は「神の御手の中に委ねられた私たちの人生」のことを、「陶器師の手の中にある粘土」にたとえています。陶器師が自分の目指す『最高傑作』を造り出すために行う最初のプロセスは、まず粘土を十分にこねて、中にある空気などの不純物を追い出すことです。そうしないと、作品の形が出来上がって窯で焼くときに、中の空気が膨張して、せっかくの作品が壊れてしまうからです。同様に、私たちは「こねられている時」は、やがて出来上がる形が見えていませんから、ただ居心地が悪いだけで、その手の中から逃げ出したくなるかもしれません。でも「神様は良い方だから、きっと最終的に素晴らしい結果を生み出してくださるに違いない」と最後まで信じて神の御手の中にとどまり続けるなら、私たちは自分の思いを超えた神様のみわざが自分の人生を通して成し遂げられるのを体験できるのです。 偉大なキリスト教指導者の1人が次のように言っています。「単に問題から逃れることだけを求めるのではなく、むしろその問題を解決できる者となることを求めなさい。自分の人生に有益な環境を求めるだけでなく、周囲の環境さえも変えることのできる者となることを求めなさい。同じ事を繰り返しながらより良い結果を求めるだけでなく、思いもよらない結果を得るために新たなことにチャレンジしなさい。何故なら、更に偉大な結果を得るために当然払うべき犠牲を払わないことは、何の成長もない人生のために時間を浪費していることと同じなのだから。」 変化を恐れないで、『良き神様』に信頼して、その力強い御手の中にとどまり続けましょう!

(265) “何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださる。”

  「神様に願い事をしたのに叶えてもらえなかったこと」に対して文句を言う人たちはたくさんいますが、「神が願い事を叶えてくれてしまったこと」に文句を言う人はあまりいませんよね?「そんな人いるわけないじゃん!」と思うかもしれませんが、本当にそうでしょうか? こんなことを言っていた人がいました。「神様がすべての私の祈りを叶えてくれなくて本当に良かった。でなければ、私は何度も間違った人と結婚していたに違いない」と。あなたは「あの時のあの祈りが文字通り答えられてしまっていたら、とんでもないことになっていた」と思い当たることは全くないでしょうか? 私たちはしばしば『自分の本当の必要』を理解していません。この天地万物を造り、私たちをも生み出してくださった神様は「最高に良いお方」ですから、私たちの『最善』だけを願ってくださっています。ですから、私たちが『最善以下』を祈り求めている時は、その祈りに答えないでいることをじっと耐えておられるのです。 そもそも『祈り』とは何でしょう?私たちは『祈り』と『願い事』をほとんど同じ意味で用いますが、実はこの2つは全く別のものです。『祈り』は言わば「神様とのコミュニケーション」であり、私たちが『神様』という方をより深く知るために欠かせない営みです。私たちは『祈り』によって神様に近づき、その大きな愛に触れ、私たちのありのままを受け入れていただくことによって、深い平安を体験することができるのです。その上で私たちは「この方が与えてくださるものこそ、私にとって最高に『良いもの』なのだ」と確信し、『神のみこころ』を求めるようになるのです。 神様は、求める者には喜んでご自身の『みこころ』を「聖書のことば」や「祈り」を通して私たちに教えてくださいます。その『神のみこころ』に従って私たちが「願い求める」なら、神は「待ってました!」とばかりにその『祈り』に答えてくださる、これが聖書の約束なのです。

(264) “私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。”

1899年、アメリカの『特許局』が閉鎖に追い込まれそうな時期がありました。何故なら当時の最高理事であったチャールズ・ドゥエル氏が「可能性のあるすべての発明品は、発明尽くされた」と発表したからです。もちろんこのコメントは現代の文明発展から見れば「あきれるほど愚かしい」ものですが、もしかすると私たちの思いの中にも同様な『勘違い』が蝕んでいることがあるかもしれません。 私たちはしばしば自分自身に「そんなことは無理」「自分にそんな資格はない」「時間の無駄だ」「失敗したらどうする?」などと否定的なメッセージを送り続けることがあります。それはあたかも自分がやっと入れるサイズの箱の中に自分で閉じこもっておきながら「誰が自分をこの箱の中に閉じ込めたのだろう?」と問うているようなものです。 こんな話があります。生まれつき体の不自由な男の子がいました。母親が医者に診せたところ「これは今の医学では手の施しようがない」という診断でした。やむなく母親はその子を「車輪付きの木かご」に入れて、どこに行くにもそれを引きながら連れ回していました。やがて男の子は困ったことを始めました。体を激しく揺らして木かごを倒すのです。その度に母親は倒れた木かごを起こし、徐々に重くなる息子を抱き上げて木かごに戻さなければなりませんでした。同じような出来事が何度も繰り返された後、ある日同様に倒れた木かごから転がり出た男の子は、自分の足で立って木かごを起こし、自分でその上に這い上がったのです!やがてこの男の子は普通に歩けるようになったそうです。 もしかするとしばらくの間だけなら「箱の中に住む」のは居心地が良いかもしれません。しかし神はあなたを「箱の中で生きる」ようにはお造りになりませんでした。むしろ「神が与える果てしない可能性の中に生きる」ようにデザインされたのです。「箱の中」に閉じ込めたのは誰でもありません。他ならぬあなた自身なのです。ですから恐れないでその箱から破り出て、「不可能を可能にされる神」がお定めになった『フルサイズの人生』へともう1度チャレンジしてみましょう!

(262) “恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。”

私自身は確かめたことはありませんが、聞いた所によると聖書の中には『恐れるな』という表現が365回出てくるそうです。それはあたかも神様が私たち1人1人に毎日「恐れる必要はないんだよ」と語りかけてくださっているかのようです。 聖書の神は、ただ単に「気休め」のつもりで『恐れるな』と言ってくださっているのではなく、ちゃんとした根拠をもってそう語りかけてくださっています。その根拠というのは、「あなたはわたしのものだから、必ずわたしが守る」という約束に基づいているのです。 私たちすべての人間はこの『創造主なる神』によって造られました。ですから元来私たちは全員「神のもの」です。しかし神は敢えて私たちがご自身にとってどれほどに価値有る存在であるかを示すために、私たちのために代価を支払ってくださいました。『贖う』ということばは「代価を支払って購入すること」を表す古い表現です。そして神様は私たちを『贖う』ために、ご自身のひとり子(イエス・キリスト)のいのちを支払われたのです。私たち1人1人は、この天地万物を造られた唯一まことの神の前に、それほどに価値有る存在なのです! 「私には自分がそれほどの価値がある者とは思えない。」あなたはそうおっしゃるかもしれません。実際、この世の多くの人々や社会は「能力」「財産」「経歴」などによって人間の価値を測り、しばしば自分自身の足りなさを認めたくないがために他の人をこき下ろそうとしたりします。しかし『人間の真価』を正しく評価することができる存在は、私たちをお造りになり、しかも私たちの「隠れた行いや可能性」さえをもご存知の神様以外にあり得ないのです。彼が私たちに対して下す評価の前には、他の人々の評価などは全く注目するに値しません! もし今日あなたが「自分自身の内なる声」や「周囲の人々の声」から注意をそらして、「あなたはわたしのものだ。恐れるな。」と呼びかけてくださる『創造主なる神のことば』に心を向けるなら、あなたは正しい自己評価を持って残る人生を雄々しく歩んで行くことができるのです。

(261) “先の事どもを思い出すな。昔の事どもを考えるな。見よ。わたしは新しい事をする。”

あるコメディアンがこんなジョークを言ったそうです。「私が結婚する時に、ぜひ欲しいウェディング・ギフトは『結婚式の録画ビデオ』です。というのは、結婚生活がいよいよ破局に陥った時、1人きりで部屋にこもってそのビデオを逆回しに再生し、独身だった自分に戻って再び自由を謳歌するためです!」 このジョークを聞いて思わず笑いそうになってしまいますが、実際は私たちは過去に戻って人生をやり直すことはできません。いやむしろ、そのような「後ろ向きの姿勢」で生きていたら、決して豊かな未来を迎えることはできません。私たちは「過去に憧れる」のではなく、「過去から学ぶ」べきなのです。私たちはしばしば「あぁ、こうなることが初めから分かっていたなら…」と言ってしまうことがありますが、もしそのような体験から何かを学び将来に生かして行かないなら、今後何回も同じ事を繰り返して言うことになるのです。「あぁ、もしあの時夫(または妻)に対して冷たい仕打ちをする代わりに、ただ赦すことができてさえいたら、今頃もっと豊かな結婚関係を築けていたかもしれないのに…」「もしあの時あの子を産んであげられていたら、今頃私の人生にはもっと喜びと平和がもたらされていたかもしれないのに…」 あなたの優しい良心は、そのような後悔の念にさいなまれてしまってはいませんか?「もしもあの時 …」「もしもっとこんな風に …」と。 あなたをお造りになり、今日もあなたをご自身の愛の内に招いておられる神は、聖書を通して次のように語りかけておられます。「イエス・キリストの十字架における身代わりの死によって、あなたの罪は赦された!」「わたしはあなたの罪をぬぐい去り、それらを2度と思い出さない」そして冒頭のように「過去のことを思い出すな。見よ。わたしは新しい事をする」と。 自分の手に届かない『過去』は「神様の全能の御手」にお任せし、過去の失敗から学んだ経験を生かして、神様が用意してくださっている『未来』に向かって今日も前進して行きましょう!

(260) “しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」と言われたのです。”

私たちが生きている今の時代は、一見便利で豊かに見える反面、時代について行けない人を置いてきぼりにしたり、役に立ちそうもない人を切り捨てたりするむごい側面もあります。生産性・効率性を追求するがあまり「1人の人のためにじっくり待つ」という姿勢が愚かしく思われ、「他の人に頼むから、アナタはもういい!」と切り捨てられた経験からなかなか立ち直れない人も少なくないのではないでしょうか? このような時代であるからこそ求められるのは「誰のことば(評価)に耳を傾けるか?」ということです。自分勝手な視点からしか物事を見られない『人間の評価』なのか、それとも「あなたを形造り、あなたの真価をご存知である『創造主なる神の評価』」なのか、これが私たちの生き方(価値観)を大きく左右します。 『神の恵み』は、私たちの能力や才能によっては勝ち取ることができません。むしろ自分の弱さを認め、「神は良い方であり、決して私を辱めたり見捨てたりなさらない」という信頼の許に神に近づく者に注がれるのです。イエス・キリストは「もしあなたがたが私を信じるなら、あなたがたは『真理』を知るようになる。そしてその『真理』はあなたがたを自由にする」とおっしゃいました。人々のことば(評価)はその人の主観に基づいた一過性のものであって『真理』ではないのですから、恐れるには足りません。 人のことば(相対的評価)に振り回されるのはもうやめて、神のことば(絶対的・不変的評価)に耳を傾けつつ、あなたを通して働く神の豊かなみわざを待ち望む者になりましょう!

(259) “ああ、あなたは心のうちの真実を喜ばれます。”

聖書は「人間は生まれながらの罪人である」と指摘します。そしてそれは人類の始祖『アダムとエバ』以来、私たちの人間性の中に「罪を犯す傾向性」として巣食っています。 『アダムとエバ』が最初に犯した罪は「禁断の木の実を食べたことである」と描写されていますが、そのことを神から指摘された2人は早速その罪性を「自分の落ち度を他人のせいにする」という行動によって表現します。私たち人間はこんなに昔から「自分の非を簡単には認めない」という頑なさを固辞しているのです。 私たちが神の愛を知るようになり「神に喜ばれる者になりたい」と思い始めると、神はまずこの私たちの『頑なな心』から造り変えようとなさいます。ところが神はいつでも私たちの『自由意志』を尊重される方なので、無理やり私たちの心の中に入り込んでくるようなことはなさいません。私たちが自分から心を開いて「神様、こんな私を憐れんでください」と助けを求める時、神は喜んで私たちの心を優しく修復してくださるのです。 私たち人間は、どういうわけか自分の落ち度を責められると、自動的に『自己防衛スイッチ』が入り、言い訳をしたり、他人に罪をなすりつけたりしようとします。神はその性質をよくご存知だったので、敢えて私たちの罪をまず「十字架におけるイエス・キリストの身代わりの死」によって帳消しにし、もはや責められるところのない者としてくださった上で、私たちが恐れずに「自分の欠点や弱さ」を神の前に素直に告白できるようにしてくださったのです。 実際は、神の前に隠すことの出来るものは何もないのですが、神は敢えて私たちが幼子のように素直になって抱えている問題を自分から素直に告白できるようになるのを待っていてくださるのです。ですからもはや自分を無理に飾ることなく、ありのままの姿で神の前に進み出て、心のありのままを告白し、神に喜ばれる者へと変えていただきましょう。

(258) “平和を求め、それを追い求めよ。”

すべての人が欲しているものの1つと言えば、それは『心の平安』ではないでしょうか?どんな状況の中でも変わることのない平安を保って生きる、果たしてそんなことが可能なのでしょうか? 「平安を保つ」ためにまず私たちが知らなくてはならないのは、「何が私たちから平安を奪っているのか?」ということです。悪魔が私たちを脅かすのにはいくつかの共通した方法もありますが、多くの場合、私たちは1人1人違った理由によって平安を奪われます。例えば、ある人は「やらなければならないことがいくつもある」という状況に陥ると途端にイライラしますが、別の人は「こんなにたくさんのことを委ねられている!」と逆に元気が出るかもしれません。私たちは1人1人違うのです。だからこそ「自分の弱点を知る」ことが必要です。悪魔は私たち1人1人をよぉく観察しており、どこを突けば良いのかを熟知しているのです。 ある聖書の専門家がこんなことを言っていました。「私は疲れてさえいなければ、大抵のことは順調にこなすことができる。ということはつまり、悪魔は私が疲れ切ってしまうのを待っているのだ。このことに気づいて以来、私は決して疲れ果ててしまうまで仕事をしないように気を付けている。みすみす悪魔に付け込む隙を与えないためだ。このような『自分の傾向性』に気付くまでは、「平安を保って生きる」なんて到底無理である。」 皆さんにお勧めします。イライラしたり、ガックリ落ち込んでしまった時は、その時のことをできるだけ詳しく書き留めてみてください。そして「一体何が原因で『心の平安』を失ったのか?」を探ってみましょう。自分の弱みが顕わにされることを恐れないで、正直な気持ちでこのことを行ってください。そしてその原因となるものをできる限り自分の生活から取り除くように心がけるのです。 イエス・キリストは、十字架上の死からよみがえられた後、まず弟子たちに「平安があるように」と語りかけられました。失われた平安は、必ず取り戻すことができるのです。死にさえ打ち勝つことの出来る方があなたと共にいてくださるからです。  

(257) “思いの一新によって変えられなさい。”

人生って「楽しいこと」ばかりじゃありませんよね?神を信じているか否かに関らず、困難や試練は容赦なく襲いかかってきます。ところで知っていましたか?それらの『人生の試練』に屈してしまうかどうかは、「その試練の大きさ」や「その人がどれだけ強いか」にかかっているのではなく、「その試練に立ち向かう態度」すなわち『心の持ち方』次第だということを。 ある人々は、人生の試練に直面すると「これはとても自分には乗り越えられない」とか「もしもう1度同じようなことが起こったら、あきらめるしかない」などと決めてしまって、ある意味困難が襲いかかって来る前に、既に『敗北宣言』をしているのです。私たちの『思い』のうちにある「あきらめムード」こそが、私たちを打ちのめす最も強力な敵なのです。 私たちはこのような『敗北に向かわせる傾向性』の代わりに、むしろ「この困難は私をより強くさせるための神からの訓練である!」「試練が大きいほど、それを乗り越えさせる神の助けは更に大きい!」というような『肯定的・積極的な心の態度』を培うべきです。そしてそのような心の姿勢は「神のことばに従って『自分の思い』を一新させること」からやってくるのです。

(256) “神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。”

誰でも「問題のない人生」を望みます。しかし実際は「生きている限り問題に直面する」というのが現実です。ですから私たちの問うべき質問は「自分の人生にも問題は起こるだろうか?」ではなく、「問題が起こった時に、どう対処するべきだろうか?」なのです。 あなたの人生に問題が生じた時、あなたは誰に頼るのでしょうか? 親?友だち?それとも自分自身? 聖書は私たちにもう1つの、そして他の誰よりも確かに信頼できる存在を紹介しています。それはこの天地万物を造り、今も支配しておられる『創造主なる神』です。そしてこの『神』は、「私たちがご自身の許に身を避け、信頼を寄せる時に、私たちを苦しみから救い出してくださる方である」と証言しています。 しばしば聖書は私たちに「試練を喜ぶように」と勧めています。常識的に考えれば愚かしく聞こえます。何故なら、この世の価値観は私たちに『安全』や『問題のない人生』こそ善であると教えるからです。しかし私たちをこよなく愛しておられる神様は、私たちをご自身の許に引き寄せるためであるなら、人生の問題をも用いることが出来る方なのです。 神と人々とを憎んでいる悪魔は、私たちが恐れたり悲観的になったりするのが大好きです。しかし私たちが試練の中でも神に信頼し喜んでいる姿を見ると、なす術を失うのです。すなわち私たちが、周囲の状況や己の限られた能力に頼るのではなく、「神に深く信頼することによってのみ得られる真の平安」を見い出しその中に憩うとき、悪魔が張り巡らしている「この世の奴隷とする呪縛」から完全に解放されることができるのです!

(255) “心に不安のある人は沈み、親切なことばは人を喜ばす。”

オペラ史上最も有名なテノール歌手の1人に「エンリコ・カルーゾ」というイタリア人がいます。実は彼がまだ10歳の時、彼はレッスンの担当者から「キミは全く才能のかけらも無いから、この道はあきらめた方が良い」と言われたのでした。しかし彼の母親は息子の才能を信じて疑わず、貧しさの中で大きな犠牲を払いつつ、彼のためにレッスンの費用を捻出し続けました。そしてこの母親の励ましは、まだ幼かったエンリコの心に大きな自信と勇気を与え、歴史は『専門家の評価』ではなく『息子を信頼し続けた母親の評価』の方が正しかったことを証明したのです。 この世界はしばしば私たちを『見た目』だけで評価し、こき下ろします。だからこそ私たちは「自分を信じてあきらめることなく励まし続けてくれる存在」を必要としています。そして特に子供たちにとっては、まずその親たちがそのような存在であるべきなのです。下記に「子供の視点で書かれた『親たちへのお願い』」を列記します。 1.「ボクが上手にベッドメイキングできなかったり、上手に絵を描けなかったり、上手にボールを投げられなかったとしても、あんまりガッカリしないでね。だってボクの手はまだ小さいのだから。」 2.「あんまり早く歩かせようとしないで、アタシと一緒にゆっくり歩いてね。アタシの足はまだ短いのだから」 3.「ボクに少しずつ冒険をさせて、世界がどんなに大きいのか見つけさせてね。ボクの目はまだまだ見たことのないものがたくさんあるから。」 4.「少しずつ、でももっともっとたくさんのお手伝いをさせてね。そしてゆっくりと丁寧に教えて欲しいの。だってお手伝いは逃げないし、アタシにはまだまだ時間がたっぷりあるんだから。」 5.「そんなに1日中ガミガミ言わないで、自分がしてもらいたいのと同じように優しくしてね。ボクの心だってデリケートなんだよ。」 6.「誰かが言ってたけど、アタシは神様からアナタへの贈り物なんだって。それってホント?だとしたら、アタシはアナタにとって『大切な宝物』なのね!それじゃアタシがアナタの他の宝物よりももっと素晴らしく輝けるように、立派な大人へと育ててね。」

(254) “この地上には、善を行い、罪を犯さない正しい人はひとりもいない。”

誰でも1つや2つは、日々の生活の中で陥りやすい『悪い傾向性』を持っているものです。「アルコール依存」「浮気や不倫」「すぐ怒りが爆発する」「悪いうわさ話」「憎しみや嫉み」「盗み癖」「すぐ嘘をつく」「ギャンブル」などなど。ある人々は「親から受け継いだ悪習慣だから仕方ないさ」と言うかもしれませんが、聖書に照らし合わせるならば、これは「親からの遺伝」ではなく、むしろ「初めの人『アダム』から引き継いだ『霊的遺産』」、まさに「そう生まれついた性質」なのです。 『神のかたち』に造られた私たちは、誰でも「正しい生き方をしたい!」という願いを持っています。しかし私たちの始祖アダムが神に反逆して以来、私たち人間に染み付いてしまっている『罪の性質(自分を第1優先にしようとする性質)』が「神を喜ばせようとする願い」に戦いを挑み、勝利してしまうのです。私たちは「罪を犯してしまったから『罪人』となる」のではなく、「生来の『罪人』なので罪を犯してしまう」のです。 それでは、私たちにはもう希望がないのでしょうか?一生『罪の性質』の奴隷となり「神に喜ばれる者として生きること」をあきらめなければならないのでしょうか?キリストの使徒パウロは、次のように言っています。「私には善をしたいという願いがいつもあるのに、かえってしたくない悪を行っています。私は本当にみじめな人間です。だれがこの『死のからだ』から私を救い出してくれるのでしょうか?」「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します!なぜなら、キリスト・イエスにある『いのちの御霊の原理』が、罪と死の原理から私たちを解放してくれるからです。」 『霊的戦い』は、私たちの戦いではなく「神が勝利を与えてくださる戦い」です。神は私たちを『死のからだ』から『まことのいのち』に移すために、ひとり子イエス・キリストをこの地上に送り、私たちの身代わりに十字架にかからせ、そして3日目によみがえらせてくださいました。それがこの週末に世界中の教会でお祝いされている『復活祭(イースター)』なのです!

(253) “正しい者は、自分の家畜(動物)のいのちに気を配る。”

ある人が休日に旅行に出かける計画を立て、旅行先で宿泊予定のホテルにこんな問い合わせをしました。「実は私が可愛がっている1匹の犬がいるのですが、一緒に泊まらせていただくことはできますでしょうか?しっかりしつけてあるので、決して他のお客様にはご迷惑をかけないと思うのですが…」 すると、ホテルの方から次のような返答が来ました。「当ホテルは開設以来30年が経ちましたが、未だに犬がタオルやベッドシーツ、また壁にある高価な絵などを盗んで行ったことはございません。また犬が酔っ払って暴れたり、ホテル代を払わずに帰ってしまったこともございません。ですから、もちろん犬がおいでになることは何の問題もございません。念のため付け加えさせていただきますと、その犬が、同伴される飼い主様の身元を保証してくださるのであれば、その飼い主様のご宿泊も心から歓迎いたします。」 神がこの天と地を創造された時、大地や人間だけでなく、すべての動物たちもお造りになり、「すべては非常に良い」と言われたことが、聖書には書いてあります。事実、多くの「寂しさを抱えた人々」や「傷ついた心」を動物たちは慰め、再び立ち上がる力を与えてきました。統計によると、ペットを飼っている人々の方が、そうでない人々よりも長生きし、病気も少なく、病気からの回復も早く、鬱になる割合も少ないそうです。 私は定期的に『盲導犬育成』の団体を支援していますが、盲導犬の主人に対する忠誠は、知れば知るほど感動させられます。神は私たちに、これらの動物たちに注目させることによって、「私たち自身の生き方」について何かを学ばせようとしておられるのではないでしょうか?

(252) “もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。”

前回に続いて『忍耐』についてです。現代は「インスタントの時代」です。このような時代にどのようにして子供たちに『忍耐(待つこと)』を身に付けさせることができるのでしょうか? 1.実物教育によって ・大抵の子供は植物を育てるのが好きです。ぜひ子供が好む花や野菜の種を一緒に蒔いて育ててみましょう。そして「どんな生き物も、成長するのには時間がかかる」ということを実体験させてあげましょう。 2.時間の流れを体験させる ・子供は『待つ』ために何か「見えるもの」が必要です。例えば「夕食は6時から」ということを学ばせるために、時計の針やタイマーが進んでいくのを見せたり、一緒に遊園地に行く日をカレンダーに記して、それまでの日々にチェックを入れさせたりするのです。子供たちが「待つこと」を嫌がる大きな理由の1つは、それがいつまで続くのかがはっきりしないからです。 3.ぬけがけ(ズル)を許さない ・我慢できない子供たち(大人もですが…)は、よく「横入り」をします。大切な会話をさえぎったり、おやつの時間をごまかしたり。緊急の状況以外は「時間や礼儀を守ること」を、自分でも模範を示しつつしっかりと教えましょう。 4.楽しく学ばせる ・子供は『ボードゲーム(すごろくなど)』が大好きです。そしてこれらのゲームは必ず「自分の順番を待つ」ことになります。素晴らしいことに子供たちは「自分は待たされている」などと感じることなく『待つ』ことを学びます。将棋や囲碁などに興味を持つようならしめたものです。『待つこと』を楽しく身に付けさせましょう。 5.褒美を与える ・もし幼児が、あなたが赤ちゃんにおっぱいをあげている間、自分の『空っぽのコップ』を持ちながら「お母さんがミルクを入れてくれる」のをじっと待っていられたなら、思いっきり褒めてあげましょう。子供がずっと欲しがっていた高価なもののために長い間一生懸命お金をためているなら、そのお小遣いが95%貯まった時に残りの5%を出してあげるのも良いかもしれません。 神は、私たちが「祈りの答え」を待ち望んでいるとき、私たちが「あきらめてしまうこと」を望んでいるのではなく、「最後まで待っていられるように励ましを与えてくださる方」です。私たちも同じように『待っていられる子供』を愛情をもって育てて行きましょう。

(251) “あなたがたは、忍耐によって、自分のいのちを勝ち取ることができます。”

こんなお祈りを聞いたこと(あるいは自分で祈ったこと)がありますか?「神様、どうか私に『忍耐』をお与えください。今すぐに!」 神様は恐らく、このお祈りに答えるために、敢えて「すぐには」この祈りをかなえないに違いありません。 現代は『スピード時代』です。私たちはテレビのスイッチを入れてからほとんど数秒しか待っていることができません。スーパーのレジでも、3人以上並んでいる列の最後尾につきたくはありません。でも気付いているでしょうか?この「忍耐のなさ」が私たちの心を蝕んでいることを・・・ 物事がそうなって欲しい時に、そうなって欲しいと思う通りに実現することができるお方は世の中にたった1人しかおられません。それは『天地創造の神』です。しかし驚いたことに、この神様は恐ろしいほど「忍耐強く」「寛容」であられ、私たち『人間の思い』がご自身の『みこころ』に沿ったものとなるまで、じっと待ち続けてくださるのです。そう考えると、ほんのささいなことですぐイライラする私たちって、ちょっと馬鹿げていると思いませんか? 神は私たちに「喜びと平安に満ちた人生」を送って欲しいと願っておられます。そしてこの『喜びと平安』は、私たちが「思い通りにならないことにどう対処するか」によって左右されます。私たちは神ではないので、周囲の状況を変えることはできませんが、自分の心の中に起こることをコントロールすることはできます。そのための秘訣をいくつかお教えしましょう。 ①「自分の中には変えられなければならない部分がある」とはっきり認める。自己正当化したり、言い訳を繰り返しているうちは、決して成長することはできません。  ②神に対して心を開き、心の内に「忍耐の実」を結んでくださるよう求め、神に信頼して生きる。  ③「次のことにとりかかること」よりも「現在の状況の中でベストを尽くすこと」に集中する。 聖書では『忍耐』のことを「聖霊が結ばせてくださる『実』」であると描写しています。ご存知のように『実』は一夜にしては結ばれません。でも心をこめて育てれば、素晴らしい実が結ばれます。一緒に「忍耐の実」を求めて、1日1日をじっくりと歩んで行きましょう。

(250) “光がある間に歩きなさい。”

カビは『暗闇』の中で大いに成長します。しかし光に当てたとたんに、カビはしぼみ、そして枯れます。 私たちの心の中にも『カビ』がはびこることがあります。イエス・キリストは次のように言われました。「光が世に来ているのに、人々は光よりも闇を愛した。その行いが悪かったからである。」すなわちこれは「人に知られたくない(公明正大でない)計画や行い」を抱いている状態のことです。(誰かのための『サプライズ・パーティ』を計画することは別ですが…) 『隠し事』はしばしば私たちの人生にダメージを与えます。カビのように、初めは小さくても、心の中の『暗闇』に閉じ込めておくことによってそれは徐々に大きくなり、私たちの心をさいなませ、悪い考えや習慣へといざない、最後には破滅へと追いやります。『隠し事』は私たちの心を『暗闇』へと追い込み、否定的な思いの虜へと陥れるのです。 では、どうすれば良いのでしょう?素晴らしいことに、聖書はその脱出の道をも教えてくれています。「神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」もし私たちが勇気をもって『光の中』へと1歩踏み出すならば、すべてが変わります!その隠し事、そしてあなたの心を縛っている恐れや否定的な考えを神に告白し、明るみに出すのです。(必要ならば、信頼できる友人などに告げるのも良いでしょう。)いったん光が投じられたならば、カビがしぼんでいくように、あなたの心の中の暗闇は逃げて行き、あなたは「大いなる解放」を体験することでしょう! 悪魔はいつでも私たちを『罪の暗闇』へと閉じ込めようとします。ですから、もう「隠し事を持つこと」を止め、心の目を覚まして、いつも神に対して心を開いて、光の中を生きて行きましょう!

(249) “主は、私の光、私の救い。だれを私は恐れよう。主は、私のいのちのとりで。だれを私はこわがろう。”

聖書に出てくるイエスの教えの中に「ある家の主人が3人のしもべたちにいくばくかのお金を託して旅に出る」というたとえ話があります。主人が旅から戻った時、3人のうち2人は「託されたお金を元にこれだけ儲けました。」と報告し、「良い忠実なしもべたちだ!」とほめられますが、最後の1人は託されたお金を全く活用しなかったために叱られます。そのしもべは主人にこう言い訳しました。「私はこわくなり、出て行って、あなたから託されたお金を地の中に隠しておきました」と。 『恐れ』は私たちの心の平安を失わせるだけでなく、私たちが自分の能力を活用することを邪魔します。「そんなことしている人、ほかに誰もいないじゃないか」「自分が本当にそれにふさわしいと思っているのか?」「もしそれをやって失敗したらどうするんだ?」などなど。そのようにして『新たな可能性の芽』を摘まれてしまっている人の何と多いことか! 敬虔な信仰を持っていた「イスラエルの王ダビデ」は、その生涯の長い期間を敵にいのちを狙われながら過ごしました。以下はそんなダビデの残した言葉です。「たとい、私に向かって陣営が張られても、私の心は恐れない。たとい、戦いが私に向かって起こっても、それにも、私は動じない。・・・それは、主が、悩みの日に私を隠れ場に隠し、その幕屋のひそかな所に私をかくまい、岩の上に私を上げてくださるからだ。」また彼は神に次のように祈っています。「聞いてください。主よ。私の呼ぶこの声を。私をあわれみ、私に答えてください。主よ。あなたの御顔を私は慕い求めます。」 「神になんて頼る人間は弱虫だ!」などと言う人があります。しかしこのダビデ王はイスラエル王国の歴史上最も勇敢で力強いヒーローとして知られています。「神に頼る」という行為は少しも「弱い者のすること」ではありません。むしろ「神によって与えられている能力を最大限に活用して生きるため」にどうしても必要なことなのです。逆にそれでも神を求めようとしないのは、「アイツは神になんか頼っている」と思われることを恐れる『弱虫』のすることではないでしょうか?

(248) “陽気な心は健康を良くし、陰気な心は骨を枯らす。”

今日は『喜び』と『幸せ』の違いについて述べたいと思います。ひと言で言うなら「『喜び』がなければ『幸せ』にはなれないが、『幸せ』でなくても『喜び』を味わうことができる」ということです。すなわち『幸せ』は私たちの外側(経済状態、健康状態、人間関係など)によって左右される「感情的なもの」であるのに対して、『喜び』は私たちの内側(無条件に神から愛されていることの確信)から生まれるのです。 日本語でも「笑う角には福来る」と言いますが、私たちが笑う(喜びに満たされている)ことは、多くの良い物をもたらします。それはストレスを解消し、頭痛を癒し、感染や高血圧を抑制します。また「大笑いすること」は適度な運動と同様にあなたの腹・胸・肩その他の筋肉を引き締め、血圧や脈拍をいったん上昇させてから元に戻し、体や気分を大いにほぐしてくれるのです。 この世には、私たちの気分を落ち込ませるものがたくさんあります。しかし神はそのような状況の中でさえ私たちが喜べるように私たちをデザインなさいました。すなわち、私たちが「環境の奴隷」となるのではなく、「神の愛の奴隷」となるように造られたのです。環境は常に変化します。しかし『神の愛』は私たちの外見や人間性、能力や持ち物、また出来・不出来などには決して左右されません。この『神の愛』に心を支配されながら人生を歩み時、他の人々にとって「何1つ喜べる材料が見当たらないような状況」の中でも、喜びに満たされて生きることができるのです。

(247) “心に不安のある人は沈み、親切なことばは人を喜ばす。”

私が大学生の時(ずいぶん前のことですが…)『教育学』の授業で「誉め方・叱り方」についてのリサーチをしたことがありました。いくつかの小中学校でアンケートを取ったのですが、その結果からはっきり分かった1つの意外なことは「人は叱られた経験よりも誉められた経験の方が強く心に残っている」ということでした。しかし大変残念なことに、ほとんどすべての学生たちにとって「誉められた経験」よりも「叱られた経験」の方がずっと多かったのです。 どうして私たちは、人を誉めたり励ましたりするよりも、むしろ叱ったり批判したりすることを選んでしまうのでしょう?恐らくその1つの理由は「長所よりも短所の方が見つけやすい」もしくは「自分の欠点を直すよりも、他人の欠点を指摘する方が楽だから」ではないでしょうか? 私たちは『自分自身の価値』というものを「自分が持っているもの」に求めがちです。すなわち「自分の知識」「自分の長所」「自分の能力」「自分の経験」などです。ですから、自分よりも多くを持っている人と出会うと、妬んだり落ち込んだりするし、逆に自分よりも少なく持っているように見える人と出会うと、優越感に陥ったり、何とか相手を修正してあげようと余計なお世話をするのです。 誰も、この天地を造られた『創造主なる神』以上に多くのものを持っている人はいません。しかし神は私たちに対して優越感を抱いたり、私たちを無理やり修正しようなどとは決してしません。むしろ私たちの弱さをあわれみ、いつくしみ、そしてその弱さを通してご自身の栄光を現そうとしてくださいます。ですから私たちは安心して、この神様に自分自身の弱さを明らかにし、それを受け止めていただくことによって大きく励まされ、そして今度は周囲の人々の「あるがままの価値」を認めて喜び、その弱さを受け入れ、一緒に神様の優しさを求めていくことで成長していくことができるのです。 誰もが「人生のチアリーダー」を必要としています。ところが今や自分の家族からでさえ、そのような『声援』を受けることなく大人になってしまう人々が増えています。あなたも「神との関係に生きる者」となることを通して、人を妬んだり批判したりする毎日から脱出して、周囲を奮い立たせる人生を送りませんか?

(246) “人とその妻は、ふたりとも裸であったが、互いに恥ずかしいと思わなかった。”

神がこの天地万物をお造りになった時、最初の人間アダムとエバの間には、何も隠し事はありませんでした。彼らは体も素っ裸だったし、心も素っ裸でした。「相手に知られたら困ること」は何もなかったのです。 このアダムとエバが悪魔にだまされて神様から離れたときに、彼らは多くのものを失いましたが、それらの中の最も大切なものの1つは『親密な関係』です。以来私たち人間は「神との親密な関係」を体験することができなくなり、また人間同士の間(最も親密であるはずの夫婦関係においてさえ)でも、本来味わえるはずの『親密さ』を持てなくなりました。 私たちがこの『親密な関係』を築けない大きな原因となっているのは『恐れの心』です。「もしあの人が私の本当の姿を知ったならば、きっと私から離れて行くに違いない」「私が彼の要求に十分に応えられなかったら、きっと彼は私にガッカリしてしまうに決まっている」「アイツにこの弱みを握られてしまったら、一生アイツの奴隷としてこき使われてしまうかもしれない」などなど。私たち人間は皆「真に信頼し合える関係」を切望しながらも、これらの『恐れ』によって自然と「心を許し合う関係」から遠ざけられてしまうのです。 では、一体どうすれば私たちはもう1度、神が私たちに人間に本来与えてくださっているこの『親密な関係』を回復することができるのでしょう?その方法はたった1つ。創造主である『神との関係』を回復することから始まるのです。 神は、自分の罪によって神から離れてしまっている私たちのために、『和解の使者』としてイエス・キリストを遣わし、その十字架の死によってすべての罪を清算し、ご自身との関係を回復する道を備えてくださいました。このイエス・キリストを通して神との関係を回復された者同士が、共に「すべてをお見通しの神」の前に『裸の心』で進み出ることによって初めて、お互いのことをもありのまま受け入れることができるようになるのです。これは「神に心を開いた者」だけが体験できる、驚くほど喜びに満ちた特権です!

(245) “少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取ります。”

ある日マザー・テレサは、もう1週間も何も食べずに暮らしている貧しい7人家族がいると聞き、お米がたっぷり入った袋を携えて訪問しました。あばら家では栄養失調の子供たちを抱えた母親が大喜びでマザーを迎えました。ところがその母親は興味深いことを始めたのです。もらったばかりのお米を2つに分け、その1つを持ってどこかへ出かけていきました。戻ってきた母親にどこに行っていたのかとマザーが尋ねると「近所に私たちと同じようにお腹をすかせている家族がいるので、お米を届けてあげたのです」と答えました。この一連の出来事を振り返り、マザーは次のように述べています。「この母親がせっかくもらったお米を分けてあげたことは別に驚くことではありません。何故なら貧しい人々はいつも気前が良いものだからです。ただ私が驚かされたのは、自分たちが飢えの極致にいたにも関わらず、この母親が近所の人々の抱えていた問題にも気を配っていたということです。人間は通常、自分たちが大きな問題を抱えている時は、他の人のことなど考えてはいられないものだからです。」 「蒔いたものを刈り取る」これは、神が定めた『全世界共通の法則』です。しかも普通は、1粒の種を蒔いたら、その何倍もの収穫を刈り取ることになります。もし私たちがこの『1粒』を惜しんでしまうなら、後に与えられるはずの大きな収穫を受け損なう結果になります。 イエス・キリストは「与えなさい。そうすれば与えられます」とおっしゃいました。ここで問われているのは「自分がどれだけ持っているか」ではなく、「どれだけ与えるか」だけです。この世の常識に基づくならば「有り余るほど持っている人だけが分け与えるべきであって、自分は余るほどは持っていないのだから、分け与える必要はない」と考えるかもしれませんが、自然界の法則はそのようには働きません。 この天地を造られた神は『気前の良いお方』です。彼は善人悪人に関わらず、太陽を昇らせ、雨を降らせてくださいます。そしてこの神は、ご自分と同様に「気前良く生きる人々」を祝福せずにはいられない方なのです。

(244) “よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。”

『成功者』という言葉を、もし「目に見える多くの成果をあげた人」にのみあてはめるとすれば、世の中には『成功者』と呼べる人はほんのひと握りしかいないことでしょう。しかし「人のうわべではなく『心』をご覧になる神」にとっては、『成功』とは、決して「目に見える成果をあげること」ではなく、「自分に与えられている状況下で心を込めて忠実に生きること」なのです。 以前アメリカの上院議員であったマーク・ハットフィールド氏が、マザー・テレサの運営する「死を待つ人の家」を訪問した折、次々と運び込まれてくる『半死人たち』に圧倒されたハットフィールド氏が思わず「到底回復する見込みのないこれらの人々の面倒を看るエネルギーが、一体どこから湧いてくるのですか?」とマザーに尋ねたところ、彼女は答えました。「親愛なる上院議員殿、ご心配どうもありがとう。でも私はね、「成果を上げるため」に神様に召し出されたわけではなく、「ただ『わたしに忠実であれ』と今日も招かれるお方」にお仕えしているだけなのですよ。」 神は今日もあなたに「心血注いで仕えるべき」十分な労を与えてくださっています。つぶやくことなく、決してあきらめることなく、ただただ神を見上げつつ、自分自身をささげていきましょう。

(243) “若者をその行く道にふさわしく教育せよ。そうすれば、年老いても、それから離れない。”

今日は「まもなく思春期を迎えるお子さんをお持ちの親御さん」向けのお話です。 子供が思春期に突入した後になって、あれこれと教えたり指図したりしても手遅れです。何故なら彼らはもはや親の言うことにほとんど耳を貸さないからです。ですから、自分の子供たちが正しい道へと進んで行って欲しいと望むなら、「思春期に差し掛かる前にどれだけのことを伝えておけるか」が勝負どころです。 『思春期手前の子供』を持つ親の役割は、あたかもシーズン間近を迎えたスポーツチームの監督のようなものです。これから新しい知識やテクニックを教え込もうとしても、かえって混乱を招くだけです。ですから選手たちをロッカールームに集めて、「今まで伝えてきたことを再度各自に思い起こさせ、それらを試合の中で精一杯発揮できるよう励ますこと」これが監督のできる最善策です。同様に、子供たちが思春期に突入する時、それは親たちにとって、それまでにどれだけしっかりと子供たちに「何が真に正しいことなのか?」「何を信じて生きたら良いのか?」「人生で最も大切なものは何なのか?」などの『人生における確固たる指針』を伝えていたかの成果を計るシーズンの始まりなのです。 それでは、子供たちが思春期に突入してしまった後は、親としてすべきことはもう何もないのでしょうか?いえいえ、また次の2つの責任が残っています。 ①「無条件の愛情を注ぐ」。子供たちに「どんな時でも愛していること(自分にとって都合が良い時も悪い時も)」を表現しましょう。どんなことがあっても、必ず自分だけは彼らの味方であること、そしてそれは生涯変わることがないことを伝えましょう。 ②「毎日祈りによって神に頼る」。子供がいくつになっても、「子供のために祈ること」は親としての責任であり特権です。ただ口先だけで祈るのではなく、「神は必ず私の祈りに答えてくださる」という強い確信を抱いて祈りましょう。神は「親が祈る子供のための切なる祈り」に必ず報いてくださいます。

(242) “この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。”

2017年、明けましておめでとうございます。皆さんはどんな思いをもって新年を迎えられましたか?希望に胸を膨らませていますか?それとも「今年もどうせ今までと同じで、何もワクワクすることなんてありはしない・・・」と感じていますか? 世界には(特に日本には)日々の生活を興奮させる様々な品物やイベントがありますよね?特にお正月には美味しい食事やお年玉、年賀はがきや大売出し。テレビでは連日「お正月特別番組」が目白押しです。大抵の人はこれらの風潮に踊らされて「毎日楽しい!」と錯覚してしまうのだろうと思います。 もちろん『楽しい』に越したことはありませんが、これらのほとんどのものは遅かれ早かれ「失われて」しまうものです。『最新型』の品物を手に入れても、1年後にはありふれた物になってしまう時代に私たちは生きています。「時代の進歩」とはこんなものなのでしょうか? 聖書は何千年も前に記された「ふる~い書物」ですが、現代に生きる私たちにも十分通用する「変わることのない真理のことば」に満ちています。そしてそこに著されている「イエス・キリストを通しての神との生きた関係」は、『いつでも・いつまでも』私たちを豊かに満たすいのちをもたらします。私たち「血の通った人間」に真に必要とされているのは、見た目に魅力的に映る品々ではなく、私たちの『命の源』である創造主なる神なのです。 この新しい年2017年こそ、聖書を読み始めることを通して「真の意味での人間らしい人生」を発見してみませんか?聖書をお求めの方は、<ken_shibu@xtra.co.nz>までご一報ください。

(241) “私が彼らにほほえみかけても、彼らはそれを信じることができなかった。しかし私の顔の光はかげらなかった。”

クリスマスシーズンの興奮も終わって、ホッとひと息ついておられる方も多いことでしょう。皆さんは今年のクリスマスをどのように過ごされましたか?ある方は「生涯忘れられないクリスマス」を過ごしたかもしれませんし、またある方は「何1つ楽しいことはなかった」とおっしゃるかもしれませんね。 「今の私には『微笑む』理由などどこにも見つけられない!」という方は、上記の聖書のことばが「つい最近子供たちの死を経験し、全財産を失い、自分の健康さえも失った『ヨブ』という男性によって語られたことばである」ということに心を留めていただきたいと思います。どんな状況の中にあっても私たちは『微笑み』を失わずに生きることが出来るし、またそのような『微笑み』の力は、かえって状況さえも変える力を持っているのです。 あるクリスマスシーズンに、大手ショッピングセンターが『微笑みの力』という次のような広告を出しました。 「『微笑み』それは一銭もかからないけれど、多くを生み出す力を持つ。『微笑み』それは与える側に何1つ損をさせることなく、受ける側に大きな利益をもたらす。『微笑み』それはあっという間に創り出すことができ、しかもそれはしばしば受け取る人の心に消えることのない思い出を残す。どんなに裕福な人でも『微笑み』なくして生きることはできず、どんなに貧乏な人でも『微笑み』を与えられないほど貧しくはない。『微笑み』それは家庭の中に幸福感をもたらし、職場の中に善意を育て、互いの間に友情があることを確認させる。『微笑み』それは疲れ切っている人に安らぎを与え、落胆している人に希望の光を照らし、悲しんでいる人を慰め、人生の様々な問題を最も自然な形で解決へと導く。『微笑み』それはお金で買うことはできず、請い求めるものでもなく、貸し借りすることもできず、盗まれることもない。何故ならそれは誰かから誰かへと与えられるまでは神の手の中に隠されているからである。というわけで、もし私たちのショッピングセンターにあるお店のどこかで、あなたに応対する店員が疲れていてあなたに『微笑み』かけてあげられなかった時、どうか彼らにあなたの『微笑み』をわけてあげていただけないでしょうか?何故なら、人が誰かに微笑みかけてあげられなくなっている時、その時ほど人が『微笑み』を必要としている時はないのですから。」 年末年始の忙しいこれからの1週間、『微笑み』を浮かべながら過ごすことによって、あなたの周りの世界でどんな奇跡が起こるか試してみませんか?

(240) “人の心は病苦をも忍ぶ。しかし、ひしがれた心にだれが耐えるだろうか。”

うつ病に悩む人、しばしば自殺にまで踏み切ってしまう人が激増しています。何が人をそこまで追い込むのでしょうか?もちろん外から来るプレッシャーも少なくはないでしょうが、多くの場合、その原因はその人自身の内面的な葛藤から来ているようです。 ある人々は、実際の出来事以上に『自分の感情』に重きを置き過ぎて、悪循環に陥ります。ある1つのことに失敗したことが原因で、自分のことを『失敗者・人生の落伍者』のように感じてしまうのです。しかし考えてもみてください。失敗は誰にでもあることです。大切なのは「失敗した過去の自分」に注目するのではなく、「失敗から学び、成長した将来の自分」に希望を置くことです。偉業を成し遂げた人々は皆、私たちよりもずっと多くの『失敗』を経験した人々なのです。 またある人々は「他の人と比べること」によって落ち込みます。そして面白いことにほとんどの場合は「相手の長所と自分の短所」を比べて落ち込むのです。誰にでも「得意・不得意」はあるものです。それは私たちが1人で生きるのではなく、互いに助け合うためです。何でも自分でやってしまおうと思う(実はこれは高慢な態度です!)のではなく、へりくだって相手の助けを歓迎できる者になりましょう。 もう1つの落胆の原因は「自分で負う必要のない責任まで負ってしまっているから」です。神は私たち1人1人に『自由意志』をお与えになりました。相手に助言をすることはできても、「相手のために決断してあげること」はできません。あなたの『失敗』が学習の過程であるのと同様に、周囲の人々の『失敗』もその人に必要な「成長のプロセス」なのです。神様があなたに与えている『責任』を超えてまで、他の人の動向に気を回し過ぎないようにしましょう。

(239) “何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。”

上記に掲げた言葉は、一般に『黄金律』と呼ばれ、イエス・キリストの教えの中でも最も有名であり、また重んじられているものの1つです。非常に分かりやすくて実際的ですよね?ただ唯一の問題は「言うには易し、行うには難し」という点でしょう。でも後述の3つの点に気を付けるようにすれば、誰でもこの優れた『行動の規範』を自分のものとすることができるのです。 ①信頼すること ・『信頼』なしには、決して豊かな人間関係を育むことはできません。長年アメリカ大統領の秘書を務めたある女性が次のように言っています。「私が秘書としての務めの中で学んだ最も重要なレッスンは、人は『信頼されること』によって『信頼できる人』へと成長して行く、ということです。逆にいつも疑われていたら、人はドンドン『信頼を裏切る人』へとしつけられて行くのです。」ある方々は「信頼していた人に裏切られた経験があるから、もう2度と人を信頼しないことに決めた」とおっしゃるかもしれません。でも「人を信頼することによって失うもの」は、「人を信頼しないことによって失うもの」よりもずっと少ないのです。 ②感謝すること ・相手の存在をどれほど感謝しているかをちゃんと相手に伝えることは、とても重要です。私たちの多くは「そのうちに伝えれば良い」と考え、そして結局そのチャンスを一生つかめないで終わるのです。「受けるべき正当な賛辞」を受けられなかったことによって、自信を失ったりあきらめてしまったりする人たちがどれほどいることでしょう?特に日本人の基本的な性質として「改めて言わなくても分かる」ということを美徳とする傾向があります。私たちはそれが必ずしも「相手を生かす」ことにならないことを知る必要があるのではないでしょうか? ③相手の価値を認めること ・ある調査によると、辞職する人の理由の70パーセントは「正しく評価してもらえなかった」ことにあるそうです。誰も「歓迎されていない」と感じる場所にとどまりたいと思うわけがありません。どんな人にも短所はあるでしょうが、どんな人に対しても「その人の短所よりも長所を積極的に見つけようとする人」こそが良いリーダーとして用いられて行くに違いありません。 ぜひこれら3つのことを自分の習慣として身に付けられるよう心がけてみましょう。

(238) “アリは力のない種族だが、夏のうちに食糧を確保する。”

皆さんは「アリとキリギリス」のお話をご存知のことでしょう。暑い夏のさなか、アリたちはせっせと食糧を蓄えますが、それを見ながらキリギリスはあざ笑います。しかし冬が来て何の食糧も得られなくなった時、アリたちの住まいには十分な食べ物があり、キリギリスは寒さと飢えに苦しむはめになるのです。 「苦労のない人生」はありません。私たちは皆人生のどこかで『労苦する』ことになるのです。ただそれが「先取りの労苦」なのか、または「しわ寄せの労苦」なのかの違いです。将来の成功のためにあらかじめ備えに精を出す人もいるし、目先の楽しみのために時間を浪費して後で苦労する人もいます。試験を控えた学生が、「遊びたいのを我慢して必死に勉強し、当日自信を持って試験に臨む」か、「勉強を先延ばしにして、当日慌てて時間ギリギリまで単語帳を握り締めている」のと同じです。それでは、一体どのようにして1日1日を自信をもって生きて行くことができるのでしょう? 多くの人々は日々の出来事の『リーダーシップ』を執るのではなく、それらをただ『受け入れて』生きています。しかし神様は私たちに「ただ待っているだけ」のために『人生』を与えておられるのではありません。ある意味「アリから学べ!」と言っておられるのです。「有意義な人生」は決して『一夜漬け』では形造られません。同様に「後悔に満ちた人生」も突然にはやってこないのです。1日1日が「翌日のための準備期間」なのです。 今日のあなたの歩みは、明日の『成功』のための投資となっているでしょうか?もし「明日の成功」を夢見るばかりで何もしていないなら、それはある意味『失敗』のために投資しているのです。

(237) “わたしの目には、あなたは高価で尊い。”

ある古本屋さんのバーゲン品コーナーに紛れて1冊の古い聖書が置いてありました。これまでに何人かの人々が手にしてはペラペラとページをめくりはしたものの、かなり傷んでいたので購入するには至りませんでした。そのうちにある男性がやってきて、やはりその古びた聖書を手に取りしばらく眺めていましたが、やがて驚いたように息を呑み、その聖書を手に慌ててレジへ行って料金を支払い、急ぎ足に去って行きました。 一体何があったのでしょう?実はその聖書は『活版印刷術』を発明したグーテンベルグによって印刷された貴重な聖書の1冊であり、何億円もの価値があったのです!これまでに「その価値を見い出せない多くの人々」によって見捨てられていたものが、「その真価を知る人」の手に渡った時、その価値は見事に輝いたのです! あなたは自分がどれほど価値のある存在であるか知っていますか?「私は身の程をわきまえている。自分はたいした人物ではない。誰も自分に目を留めてくれる人はいない。」と決めてかかってはいませんか?あなたの真価を正しく評価できるのは1人だけです。それはあなたを形造られた創造主なる神です。彼こそはあなたがどれほど高価であるのかを知っておられ、あなたをご自身の許に買い取られるために、そのひとり子「イエス・キリスト」のいのちを支払われたのです。

(236) “滅びに至らせる友人たちもあれば、兄弟よりも親密な者もいる。”

『友情』と言えば、人生を豊かにしてくれる重要な要素の1つということができると思います。ところで、あなたには『真の友』と呼べる人が何人くらいいますか?毎日多くの時間を費やしている仲間の多くは、『真の友』と呼ぶにふさわしい人々でしょうか?それとも「単なるその場しのぎの相手」でしょうか? そもそも『真の友』とは一体どんな人たちのことをいうのでしょう?「ピンチの時に助けてくれる人」「自分の幸運を一緒になって喜んでくれる人」「大きな悲しみに直面した時に、ただ黙って側にいてくれる人」など、いくつかの要素が考えられますね。 最近ようやく「ロード・オブ・ザ・リング(指輪物語)」の映画三部作をすべて見終えました。この物語に登場する主人公のフロドと危険な旅を共にする『サム』という青年の友情に大変感銘を受けました。サムは何度かフロドに誤解され、罵倒され、見捨てられますが、最後までフロドを支え、見守り、助け続けます。最後にはフロドもサムの真実の友情に気づき、到底達成が無理と思われていた使命を共に果たすことができるのです。 実はこの作品の原作者であるトールキンは敬虔なクリスチャンです。おそらく彼はこの作品を通して「人には誰でも『神から与えられた固有の使命』がある。そしてそれを全うするためには必ず私たちが互いに協力し合わなければならない」ということを伝えたかったのではないかと思います。そしてその「神から与えられた固有の使命」を達成するために相手を信じ、「徹底的に自分を相手にささげていくこと」こそ『真の友情』と呼ぶにふさわしいのではないでしょうか? このような『友情』は一朝一夕で生まれるものではありません。まず自分自身がそのような『友』となれるよう、「自分が望んでいるものをまず相手に与え」「自分が期待している誠実さを相手に表現し」「自分の実現したい目標が相手の人生において達成されるために」与えられている時間や能力をフル活用してみようではありませんか!

(235) “悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。”

その存在を信じているいないに関わらず、誰でも『天国』という言葉を1度は聞いたことがあるでしょう。そしてきっとそれなりのイメージも持っていることと思います。「雲の上にある」とか「三途の川の向こうにある」「死んだ後に行くところ」とか「ピカピカ光っている」などなど。 ある人が面白いことを言いました。「天国でも地獄でも、食事の時に長~いお箸が使われているんだよ。けれども天国の人たちは皆健康に太っているのに対して、地獄の人たちは全員やせ細っているんだ。どうしてかっていうと、地獄の人たちはその長いお箸を使って何とか食べようとしているけど、自分の口が箸の先に届かないので食べられないのに対し、天国の人たちは皆他の人たちとお互いに上手に食べさせ合っているからさ。」 私も個人的にはまだ『天国』というものを自分で見たことはないので確かなことは言えませんが、『天国』のこの世との大きな違いの1つは、きっと「お互いに対する深い思いやりに満ちていて、しかもそれが何も妨げられることなく実践されている」ということではないでしょうか? イエス・キリストは「天国が近づいたから、悔い改めなさい!」とおっしゃいました。『悔い改める』の原語直訳の意味は「向きを換える」です。「この世と調子を合わせる生き方」「自分中心の考え方」から向きを換えて、「神を求める生き方」「他の人を顧みる生き方」へと進んで行くなら、『天国』は単に「死んでから行き着くところ」ではなく、今まさにこの世にいながらにしてその片鱗を体験できるものとなるのではないでしょうか?

(234) “人は自分の行いがことごとく純粋だと思う。しかし、主は人のたましいの値打ちをはかられる。”

最近「高台家の人々」という、漫画を実写版映画化した作品が流行りましたよね?(実は私自身はまだ見ていないんです!)『高台ファミリー』は「人の考えていることが分かってしまう」という特別な能力を持つ家系。その長男と恋に落ちてしまう『夢見る乙女』というのが登場人物の設定なわけですが、恐らく「相手の心の中が読めたらなぁ」というようなことは、誰でも1度は夢見たことがあるのではないでしょうか?まあ「相手の心の中が読める」というのは、必ずしも良いことばかりではないかもしれないし、逆に「相手に自分の考えていることが知られてしまう」なんて、考えただけでもゾッとしてしまいますが・・・ というわけで、私たちが人の考えを理解するためには、その人の『行動(または言動)』から推し測ることが限界なわけです。ですから私たちはある程度「ふりをする」ことによって相手を欺くことができますし、もしかしたらすっかりそのような振る舞いに慣れてしまっているのかもしれません。 聖書は、私たちが「ふりをする」ことによってはだますことのできない存在があることを示唆しています。それは私たちの肉体と共に「心や思い」をも造られた創造主なる神です。たとえ友人や親兄弟をだませたとしても、この方だけは決して欺くことはできません。神は私たちの心(内面)を探られます。それは私たちを糾弾するためではなく、私たちに『誠実さ』を求めるからです。神は私たちに「神の前にも、人の前にも」誠実に生きて欲しいと願っておられるのです。 「自分を偽ること」「相手を欺くこと」に慣れすぎてしまう前に、「真の神を恐れること」そして「神と人との前に誠実に生きること」へと方向転換しませんか?

(233) “わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります。”

世の中には「すぐにはっきりした結果を見たいタイプの人」と「すぐに成果が現れなくても、自分のしていることに確信を持って継続できるタイプの人」とがいます。実際にこの世の出来事には「すぐに結果に現れること」と「なかなか成果が見られなかったり、答えが見つけられなかったりすること」の両方が存在します。そして『重要』と思われることほど、この後者であることが多いのではないでしょうか? 『科学』を崇拝する人々は、「十分な時間とデータさえあれば、この世の事象はすべて科学的に証明できる」と言いますが、本当にそうでしょうか?世の中には、私たちの理性や知性では納得できないことがあまりにも多すぎます。「なぜある家族は不幸な出来事に襲われ、別の家族にはそれが起こらないのか?」「なぜ有り余る食べ物を日々捨てている地域があり、別の地域ではその日食べる物にも事欠いているのか?」「なぜ罪もない前途有望な若者が不治の病や突然の事故などで尊い命を奪われるのか?」などなど。これらの疑問に対して自分の存在があまりにもちっぽけなので、できるだけ考えないようにしようとするのですが、時に応じて再び心に上ってきて私たちを悩ませるのです。「現実主義者」と呼ばれるうちのある人々は、この時とばかりに「ほら見ろ、神も仏もあったもんじゃない!」などと口走ったりします。 それでは、聖書はこれらの問題に関して何と言っているのでしょうか?聖書のある箇所では「隠されていることは神のもの、現されたことは私たちの物」と書いてあります。これはあたかも、神が私たちにこう語りかけておられるようです。「どんなに考えても調べてみても解決されないことは、私に信頼し、私の手にゆだねなさい。そして既に明らかにされていること、また与えられているものに目を向け、それらを喜び、また最大限に活用することによって幸福を得なさい。」と。

(232) “志の堅固な者を、あなた(神)は全き平安のうちに守られます。その人があなたに信頼しているからです。”

いのちあるものは『成長』します。そして『成長』とはワクワクするものです。多くの人は、同じような日々の繰り返しに飽き飽きしたり、生きることをむなしく感じる原因を「人生の倦怠期」と診断したり「きっと転職が必要なんだ!」などと思ったりするようですが、本当の理由は「成長意欲を失っているから」なのです。 私たちに『成長意欲』を与えるのは「職業」や「立場」ではなく、『大志』です。言い換えるなら「何をしているか」が問題なのではなく、「何故それをしているのか」が重要なのです。『大志』のない者はどんなに転職しても虚しさを拭い去ることはできませんが、逆に心に大きな志を抱いている人は、たとえ左遷されても、飛ばされた先で花を咲かせることができるのです。 「ピーナッツの栽培に生涯をささげる」と聞いたら、あまりヤル気が起こる人はいないかもしれませんが、ジョージ・カルバート氏にとってはそうではありませんでした。彼はこのプロジェクトに徹底的に取り組み、何百ものピーナッツの用途を考案し、アメリカ議会に招かれて発表するほどになりました。彼はインタビューに次のように答えています。「この天地を造られた神が『ピーナッツ』をも造られたのです。ですから私は神に『このピーナッツで何をしたら良いのでしょう?』とお尋ねしたのです。そうしたら神が私に様々なアイディアを与えてくださったのです!」 日常のありきたりのことに、日頃注いでいる時間や注意力の数倍を費やしてみたらいかかでしょうか?もしかしたら今まで見えなかった全く新しい何かを発見し、その発見があなたを『新しいレベルへの成長』へと導いてくれるかもしれませんよ。

(231) “主のあわれみは尽きないからだ。それは朝ごとに新しい。”

私たちの人生において「生きる力を失わせるもの」の1つに『後悔の念』というものがあります。「浪費してしまったお金や時間」「逃してしまった絶好の機会」「犯してしまった過ち」そして「壊れてしまった人間関係」などなど。これらの『後悔の念』は、それを「将来のプラス」へと生かしていくのでなければ、人生やエネルギーの無駄遣い以外の何ものでもありません。 私たちが生きている限り、必ず「次の機会」というものがあります。過去の失敗は、将来のための『教訓』として行けば良いのです。そのために次の3つのことを心に留めておくと良いでしょう。 ①過去の失敗を「見て見ぬ振り」をするのではなく、しっかりと認め、その原因をつきとめ、心に刻む。『言い訳』をすることは、その場での責任逃れには役に立つかもしれませんが、決して根本的な解決はもたらしません。 ②もし失敗の原因が「自分の誤った態度・考え」であるなら、「まあ仕方ないさ」というようなあやふやな態度でやり過ごすのではなく、毅然とした態度で悔い改める。「誤った態度」を放っておくことは、神を、自分自身を、そして周囲の人々を傷つける結果を繰り返させるだけです。 ③「人生はやり直しが利く」ということを自分に言い聞かせ、私たちの弱さを憐れんでくださる神に信頼して再スタートする。 この天地を造り、私たち1人1人に命を与えてくださった神様は、私たちの「あら捜し」をされる方ではなく、「不完全さを覆ってくださる」お方です。この方と共に歩む時、私たちは他の人のことだけでなく、自分自身のことをもゆるしながら生きることが出来るのです。

(230) “わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。”

人間のからだというものは、ノドが渇いたりお腹が空いたりすれば、敏感に反応を示しすものです。では私たちの『たましい』はどうでしょうか?もちろんたましいだって「渇く」のです。もし私たちがキチンと心を配っているなら「たましいの渇き」にも気づくはずなのですが、現代では「からだの渇き」をそそるものばかりがはびこり、より重大な「たましいの渇き」を紛らわしてしまっているのです。 皆さんは「~中毒」という言葉を耳にすることがあるでしょう。「自分とは無縁のもの」と思う方が多いかもしれませんが、中毒には『アルコール中毒』『ニコチン中毒』『麻薬中毒』などの他にも、『仕事中毒』『セックス中毒』『ギャンブル中毒』そして特に最近では『インターネット中毒』の症状も顕著になってきているように思えます。これらのものは初めは私たちの「からだの渇き」を満たすために近づいてくるように見えますが、やがて私たちのたましいに侵入し始め、ひいては人生を破壊してしまう危険性さえ含んでいます。 私たち人間には『食欲』のようなごく自然な生物学的な「渇き」と同様に、「より確かなもの(真理)」を求める「たましいの渇き」があります。そしてそれは私たちをお造りになられた「創造主なる神」以外には満たすことのできないものなのです。神と出会い、その心を満たしていただくまでは、私たち人間は「渇きを満たしてくれるもの」を求めて一生さまよい続けるのです。 古代イスラエルの名高きダビデ王は、誰もが望む名声・財産・権力のすべてを手にしていたにもかかわらず、次のように告白しています。「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ、私のたましいはあなたを慕いあえぎます。」誤った娯楽による中毒に陥ってしまう前に、さあ、あなたもたましいの渇きを永遠に潤してくださる方の許へ帰りましょう!

(229) “このわたし(神)が地を造り、その上に人間を創造した。”

私たち夫婦に長男(第一子)が生まれたとき、私たちは自分たちの家の最も良い部屋を彼のために用意しました。真冬だったので、1番性能の良いヒーターを備え、「空気が乾きすぎてはいけない」と加湿器を購入し、私の両親(彼らにとっても『初孫』でした)が買ってくれた新品のベビーベッドとベビーダンスを置き、準備万端整えて、彼がその母親と共に退院してくるのを待ちました。 誰も赤ん坊が生まれてくるのに「何も用意しないで」迎える親はいないと思います。私たち夫婦のように、愛情を込めて、できる限りの準備をして、その到着を待ち望むはずです。そして私たちの『天の父』である神様も同様です。彼はその愛する子どもたちである『私たち人間』をお造りになる前に、私たちが暮らすための完璧な環境を整えてくださいました。 考えてもみて下さい。もし私たちの住むこの『地球』があと数パーセント大きかったり小さかったりしたら、私たちのような精密な生物はその中に存在することができません。また太陽との距離がちょっとでも遠かったら私たちは凍え死んでしまうし、逆に近かったら焼け死んでしまうのです。 皆さんは地球の地軸が垂直から23度傾いていることをご存知でしょうか?学生たちは「そのお陰で物理の計算がややこしくなって迷惑している」と愚痴をこぼすかもしれませんが、この微妙な傾きのお陰で年間を通して太陽光線が地表面にまんべんなく当たるようになっているのです。この傾きがなければ、南極や北極はとてつもなく巨大な氷で覆われてしまうし、赤道直下は近寄ることも出来ない高温になってしまうのです。 この天地を造り、私たちをそこに生まれ出させてくださった神様が、私たち人間1人1人をこよなく愛し慈しんでくださっている事実は疑いの余地がありませんよね?

(228) “いつも主にあって喜びなさい。”

一般的に次の3種類の人がいると言われています。①自分が幸福であることを他の人に申し訳なく感じる人 ②人の幸福を見るとケチをつけたくなる人 ③落ち込んでいる人を励まし、元気付ける人  ①のようなタイプはある意味「非常に責任感が強い人(?)」であり、②のようなタイプは恐らく「深く傷つけられた経験があって、心の中に苦々しさを抱いている人」に違いありません。 キリストの使徒パウロは「いつも主(神)にあって喜びなさい」と書き送りました。ある人は「そんなことが言えるのは、人生の厳しさや試練を知らないからだ」と言いたくなるかもしれませんが、実はパウロがこの言葉を書いたのは、彼がいつ釈放されるかも分からない牢獄の中にいた時なのです。彼にとって『喜び』とは「自分の置かれている状況に対する反応」ではなく、「自分で決めて選び取る心の態度」だったのです。真の喜びは、移ろいやすい私たちの心から生まれては来ません。もっとずっと大きな、周囲の状況を超えたところにおられる『神』から来るのです。 このような喜びを心に抱いて生きるには、次の3つのことに心を留める必要があります。①『真の喜び』は出来事や状況の中にあるのではなく「喜びの源である『愛の神』」から来る。②日々意識してこの『愛の神』に心を向け、信頼と希望を育む。③神があなたをご覧になっているのと同じ目線で人々を見つめ、祝福する。 私たちの人生を左右するのは、「どんな心を持っているか」ではなく、「どこに心を向けているか」なのです。

(227) “人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる。”

日本人の持つ特徴の1つに『恥の文化』というものがあります。人前で恥をかくことを嫌いますし、誰かに人前で恥をかかせるようなことは、最も避けるべきことの1つと考えられています。そしてそれが日本人の1つの美意識にさえなっているのです。そのことを卑下するつもりは毛頭ありませんが、この「恥を恐れる」という意識が私たちの人格的な成長を抑制することがあるのも事実です。 私たち家族の昔からの合言葉に『ラーニング・イクスピアリアンス(失敗から学ぶ)』というものがあります。すなわち、「失敗を恐れる故に新たなことに挑戦するのを避けるよりも、失敗を繰り返しながら学んでいこう!」というわけです。私たち家族は、末息子が生まれてまもなく海外での生活が始まりました。フィリピン、オーストラリア、パプアニューギニア、バヌアツ、そして現在のニュージーランドと太平洋周辺を転々としました。というわけで、しばしばその地域での生活習慣に対する無知の故にとんでもない失敗を経験してきました。当然初めの頃は「恥ずかしい、もう嫌だ!」とか、「サッサと日本へ帰ってしまおう!」などと弱気になったものですが、失敗を繰り返すうちに徐々に開き直れるようになり、「全く生活習慣の違う国から来たのだから、失敗するのは当たり前。クヨクヨするのはやめて、同じ失敗を何度も繰り返さないように学んでいけば良い」と考えられるようになりました。するとそのうちに、私たちの失敗を見て笑っている人々は、決して私たちを「あざ笑っている」のではなく、全く異なった生活習慣の中で一生懸命適応しようとしている私たちに対して「好意を示している・受容してくれている」ということが分かってきました。そうして周囲の人々と共に自分たちの失敗を笑い飛ばせるようになったのです。 失敗を恐れる人は、他の人の失敗に対しても寛容になれません。しかし失敗を繰り返し、それを周囲に受け入れてもらうことを経験することによって、私たちは他の人々の失敗を責めるのではなく、かえって『一歩前進』と見ることができるようになりました。そして私たちの神様も「私たちの失敗をいちいち咎める方」ではなく、幼子が転びながら歩き方を覚えて行くのを見守るかように、「ドンマイ、ドンマイ。何度失敗してもいいよ。もう1度立ち上がって歩き出してごらん」とおっしゃるのです。

(226) “神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。”

様々な技術が発展し、知識も増し、人々の暮らしが豊かになり、欲しいものがほとんど手に入る世の中になったのに、人々は不安にあえぎ、心は満たされず、自殺者は増加の一途を辿っています。何故なのでしょう?一体何が人々の心を脅かしているのでしょう? 『歴史上最も知恵に満ちていた』といわれる人物が聖書の中に出てきます。イスラエル王国の第3代の王様『ソロモン』という人物です。神は彼に「非常に豊かな知恵と英知と、海辺の砂浜のように広い心とを与えた」とあります。このソロモン王が書き残した有名な言葉に次のようなものがあります。「神を恐れることが知識の初めである」。 この天地万物を造られた神は、すべての知恵と力とに満ちておられる方です。この方に対抗することができるものは何もありません。このお方を恐れ、このお方の御手のもとにへりくだって生きるならば、他に何も恐れる必要はないのです。キリストの使徒パウロは、「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう」と言っています。全くその通りです! 現代の1つの『カッコイイ』風潮として、「私は誰にも指図されたりなんかしないわ!」というような言い回しがありますが、そんなことを言っている人々に限って『人生の意義』というものをしっかりと見つめることもなく、ただ行き当たりばったりに生きて、やがて行き詰まり、恐れと不安の中に閉じ込められるのです。 「真に恐れるべき対象をしっかり恐れること」こそ、不必要な恐れや不安から完全に解放されて、希望を抱いて生き生きと生きるための秘訣なのです。

(225) “互いに慰め合いなさい。”

ある男性が、ちょっとした知り合いの死亡広告を目にしました。葬儀がちょうど出席可能な日時だったので、彼は身支度を整え会場へと向かったのですが、うっかりして同じ葬儀社の別のセレモニー会場に行ってしまいました。気付いた時は既に遅かったので、やむなく全く別人の葬儀に参列することになりました。参列者は少なく、悲しみを露わにしていたのは、長年連れ添った夫を亡くした未亡人のみでした。葬儀が終わると他の参列者たちは急ぎ足で帰途につきましたが、1人寂しそうに墓地へ向かって行く未亡人を気の毒に感じた彼は、彼女に墓地まで付き添って行きました。墓地からの帰り道、彼は思い切って未亡人に告げました。「誠に申し訳ないことなのですが、実は私はご主人のことを全く知らないのです。」未亡人は少し微笑んでこう答えました。「そうではないかと思いましたわ。全く見覚えのない方でしたから。でもそれはあまり問題ではありません。今日あなたがしてくださったことがどれほど私にとって大きな意味があったかは、神様しかご存じないことですから。」 旧約聖書の『ヨブ記』という書物には、ヨブという人物が悪魔の悪巧みに会い、全財産と子供たち、そして自身の健康をも失い、失意のどん底をさまようストーリーが収められています。そこに彼の3人の友人たちが慰めにやってくるのですが、その初めの部分にこう書かれています。「彼らはヨブと共に7日7晩地に座っていたが、誰もひと言も彼に話しかけなかった。彼の痛みがあまりにもひどいのを見たからである。」その後1人1人とヨブに語りかけるのですが、私の見る限りでは、それらの言葉は「ただ黙って側に座っていてあげること」以上にはヨブの慰めにはならなかったようです。 私たちは、苦難の真っ只中にいる人を見る時に「何とかしてあげたいけど、何にもしてあげられることがない」とついあきらめてしまいがちです。しかし最悪なのは、そう言って「できるだけ関わらないように」してしまうことです。何もできなくてもいい。何を言ってくれなくてもいい。ただ黙って側にいてあげることが出来る人は幸いです。

(224) “すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたし(キリスト)のところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。”

クライストチャーチに滞在しておられる日本人のうち2人の方々が、最近イエス・キリストにある救いを受け入れて『クリスチャン』となられました。どちらも50歳前後の方々です。 1人は男性で、今まで数々の挫折を経験してこられました。幼い頃のいじめ、青年時代の交通事故とその後遺症、そして離婚。人生に希望を見い出せず毎日の生活に行き詰っていた時、ニュージーランド留学を望む姪御さんの親代わりとしてクライストチャーチに付き添って来ることになりました。ホームスティ先のクリスチャンのご家族から教会へ行くことを勧められ、JCFに来られました。当初はその表情から疑心暗鬼な様子が見て取れましたが、徐々に馴染んで来られ、表情も和らいできました。毎週の礼拝での聖書の話や、姪御さんの留学・ご自身のビザ延長などに関して親身に相談に乗ってくれる人々の暖かさに触れることを通して、「慈愛に満ちた神がおられること」「イエス・キリストの十字架による罪の赦し・救い」などを信じられるようになりました。今ではすっかり表情も明るくなり、人生の目標も定まって、毎日生き生きと過ごしておられます。 もう1人は女性で、高校生のお嬢さんの留学に付き添って来られました。やはり離婚を経験しておられますが、こちらは「女手1つで娘を育ててきた」という自負があり、「自分の人生は自分で切り拓く」というファイト満々で、「せっかくニュージーランドに来たのだから、バリスタの資格を取って帰ろう」と学校に通っておられました。そんな中、同年代の娘を持つクリスチャンの方と親しくなり、教会に来られるようになりました。初めのうちは「私は神様など信じないけれど、人生の参考になるから、続けて通ってみよう」と思っていたそうです。ところが毎週聖書の教えを聞いているうちに神様からの語りかけを感じるようになり、礼拝の終わり頃にはいつも涙が流れてくるようになったそうです。「わたしはいつもあなたと一緒にいたよ。たくさん傷ついてきたね。強がって生きるより他に方法を知らなかったんだね。でもわたしに寄りかかっていいんだよ。」と。 「キリスト教は『弱者の宗教』」と言われます。でも実際誰か「弱くない人」がいるでしょうか?私は世の中には「自分の弱さを認めることができる人」と「自分の弱さを認めることを恐れている人」しかいないのではないかと思います。また、キリスト教は『宗教』ではありません。創造主なる神との『生きた関係』なのです。すべてをお見通しの神様の前に素直な心で立った時、誰でもこの方と真の意味で『出会う』ことができるのです。

(223) “人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。”

「自分はそのように生まれついてしまったのだから、仕方がない」という言い方で、自分の欠点の言い訳をしたり、人生をあきらめてしまったりしている人がいます。しかし本当にそのように決め付けてしまって良いのでしょうか? ある調査結果によると、『一卵性双生児』が何らかの理由で生まれてすぐに別々の環境に育てられた場合でも、性格や好み、また知的レベルなどの約70パーセントは、非常に酷似して成長していくそうです。DNAの伝達機能と言うのは確かにあなどれません。しかし、人間は動物とは違い、そこまで単純に造られてはいません。私たちは生まれつきそれぞれに「自由意志」「理性」が与えられており、自分の人生を自分の「決断・選択」によって切り拓いていくことができるのです。 聖書は「誰でもキリストのうちにあるならば、その人は『新しく造られた者』です」と言っています。私たちがイエス・キリストを通して『創造主である神』との関係において「新しく生まれる」ならば、私たちは真の意味での『人生の意義』を見い出し、全く新しい(正しい)人生観によって雄々しく歩み出すことができるのです。「そのように生まれついている」という言葉を、『事がうまく運ばない言い訳』としてではなく、『神と共に歩む実りある人生』の秘訣として用いることができるようになるのです!

(222) “子どもをおこらせてはいけません。かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい。”

思春期のお子さんを持っておられる方はいらっしゃるでしょうか?私たち夫婦には3人の子供たちがいますが、今は上から26歳・24歳・22歳になりました。まあ「子育ての峠は越えた」と言うべきですかね。父親の私としては「やっと手が離れてくれた」という気持ですが、妻(彼らの母親)にとっては「(特に1番下の子に対しては)いつまでも子供のままでいて欲しかった!」というのが正直な気持のようです。 逆に子供の立場に立つならば、十代のある頃に「私はもう子供じゃない!」と強く感じる時期があります。この時期を『思春期』と呼ぶのでしょう。それまでと同様に親が何でもかんでも干渉しようとすると、「ウザい!」と感じるわけです。ですから、1番上のお子さんがこの時期に差し掛かってあなたに「いちいち指図しないで!」と怒鳴ったとしても慌てないで下さい。お子さんは極めて正常な成長を遂げています。 それでは、このような『思春期の子育て』をどう乗り切れば良いのでしょう?ある方は「ウチの子はまだまだ小学生だから心配には及ばない」と考えるかもしれませんが、それは大きな間違いです。何故なら、正しい『思春期の子育て』は、そこに至るまでの子育てを土台としているからです。すなわち、子供が親の権威に素直に従っているうちに『適切な賞罰』によって正しい価値観を子供の心にしっかりと植えつけておくことによって、子供たちが思春期に差し掛かってきたときに、上手に少しずつ「たずなを緩めて」あげることができるからです。 あまり早く「たずなを緩め」すぎ『放任』すると、愚かでわがままな大人に成長することがあります。かと言って「たずなを緩める」のが遅すぎると、反抗的、またはかえって依存心の強い人間になってしまうかもしれません。この部分で非常に慎重になる必要があります。知恵が必要です。 聖書は『子育て』や『夫婦関係』などに関して、私たちに多くの優れた『知恵』を提供しています。我が家の子供たちも、彼らがまだ幼い頃から「一緒に聖書を学んできた」ことが大いに役立って、皆なかなか頼もしい成人へと成長してくれました。次世代を担う立派な大人たちを育成するために、皆さんにも「お子さんと共に聖書を学ぶこと」を強くお勧めします!

(221) “ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み・・・”

私たちはしばしば「自分の行く手を阻んでいる障害」が自分の外にあると勘違いしていますが、実際はそれらのほとんどは『自分の中』にあるものです。私たちがそれまでに経験してきたこと(それらが喜ばしいものであれ、苦々しいものであれ)が、現在の私たちを形造っています。そしてそれらが、私たちが「今後直面する状況にどう反応するか」に大きく影響を与えていくのです。壊れた家庭環境で育った人が「自分は絶対に幸せな家庭を築く」という強い意志を持ちながらも家庭崩壊の一途を辿って行ったり、離婚を経験した人が「この人と再婚すれば決して別れたりすることはない!」と確信しながらも結局再度離婚に踏み切ったりしてしまうのも、これらの『自分の中にある苦々しい思い』に影響されてしまっているからです。 では、どうしたら良いのでしょう?私たちはどのようにしてこれらの「過去の苦々しい経験からの呪い」から解放されることができるのでしょう? 冒頭の聖書のことばは、イエス・キリストの使徒パウロによるものです。彼は新約聖書の約半分を書きました。そんなパウロに「忘れるべき後ろのもの」があったのでしょうか?実はたくさんあったのです。彼は元々はクリスチャンを迫害する者でした。彼は多くの信者を捕らえては牢に入れ、またある敬虔な信者を殺すことさえしました。もしパウロがこれらの「苦々しい過去」に捕らわれていたなら、これほどに神に用いられる器となることはできなかったでしょう。しかし彼は「イエス・キリストによる罪の赦し」によって過去をすっかり清算され、キリストにある『新しいいのち』に生かされることに徹しました。それによって人間わざとは思えないほどの働きを成し、多くの教会を建て上げたのです。 あなたの『過去』が生き延びることのできる場所は「あなたの記憶の中」だけです。そしてその『過去の記憶』があなた対して働かせることのできる「影響力の大きさ」は、あなたがそれを許可した範囲内に限られています。あなたが前に向かおうとする時に、その原動力を「過去の苦々しい経験を恨むこと」に求めるなら、同じ失敗が繰り返されるだけです。私たちが力を求める場所は過去にあるのではなく、あなたを『新しいいのち』『新しい人生』に生かしてくださる「創造主なる神」そして「よみがえりの主」であるイエス・キリストに拠り頼むことからやって来るのです!

2016年8月7日 「ただひとつのこと」

メッセージをダウンロードして聴く 説教あらすじ       「ただひとつのこと」     (07/08/2016) ◆マルタとマリヤ [ルカ10:38-42] ・イエスのために? or イエスとともに? ・イエスは「どうしても必要なことは、1つだけ」と言われた。 = イエスの足元で『みことば』に聞き入ること。 ◆イエスが与える『食事』 [黙示録3:20] ・主人は『私』ではなく、『イエス』。従って、食事でもてなしてくださるのも、主イエス。 ・イエスは私たち1人1人にちょうどよい『食事』を与えてくださる。[Ⅰペテロ2:2,マタイ4:4] *「食事」をするのは、何のため? ①生きるために必要だから  ②楽しいから  ③交わりのため ・マルタはイエスのために何かをしたかったが、いつの間にか喜びが失われた。自分のガンバリだけで 「霊的にからっぽ」では、何もできない。[ヨハネ15:5] ◆なぜ『食事』をしないのか? 『忙しい』? 『時間がない』? 『やらなきゃならないことが、たくさんある』? ― それはただの言い訳。 ・本当の理由は、「自分のことが最優先で、神様のことは『二の次』だから」。 ◆きちんと食事をすることから生まれる結果 [マルコ14:3-9] ・自分の結婚の準備のためにコツコツと溜めた「1年分の給料にも相当する高価な香油」を、マリヤは惜しみなく イエスに注いだ。一見愚かで無駄なように見えることを、なぜ・・・ マリアは、1つのこと(ひとりのお方)だけ、見ていた。そしてそのことは、マリアの心を豊かに満たしていた。       ◎あなたも、この『たった1つのこと』に心を満たされて生きたいですか?   Outline of the Read more…

(220) “キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。”

すべての人は「幸せになること」を求めていると思いますが、つまるところ『幸福』とは何でしょうね?お金が十分にあって、何でも欲しいものが手に入ること?家族が仲良く暮らしていて、人間関係がうまくいっていること?仕事にやりがいを感じていて、成果を上げていること?健康で食欲もあり、日々の食事を楽しめること?どれを取っても「幸せを実感できる要素」に違いありません。ただ、これらのものがいつもすべて揃っているわけではないし、もし揃っていたとしても「いつ失われてしまうのだろうか?」という不安があるなら、結局本当の意味で『幸せ』とは言えないのかもしれません。すなわち「幸福の条件」を出来事や状況の中に見出そうとしている限り、私たちはいつまで経っても『不変の幸福感』を手にすることはできないのです。 『真の幸福感』というものを言葉に表現するとしたら、それは恐らく「永続的な平安」ではないでしょうか?人生の荒波に出会っても動じることなく、大切なものを失ってしまったとしても決して絶望させられることのない『不動の平安』。そしてそれは、真の神のみが私たちに与えることのできるものです。 私たちを取り巻く『平安』には3種類あります。①人間関係における平和 ②健全な自己愛による心の平安 ③神に完全に受容されているとの確信  これら3つのどれが欠けても、私たちは『真の平安』をもって生きて行くことができません。そしてこれらの平安は別々に起こるものではなく、互いに関連づいているもの、すなわち③→②→①の順に起こるものなのです。 私たちは、「創造主である神に完全に受容されている(神に対して後ろめたいところは何もない)」という確信を持てて初めて「私は生きていて良いのだ。私は『絶対的な価値』を持つ存在なのだ。」と実感することができ、「健全な自己愛(自分を価値ある者として受け入れ、大切にしようとする心)」を持つことを通して、「自分同様に他の人のことも受け入れ、尊重すること」ができるようになるのです。そしてこの神に完全に受容されているという確信は、「神がそのひとり子イエス・キリストを私たちの罪の身代わりに十字架におかけになった」という事実を信じることから生まれるのです。

(219) “アリは力のない種族だが、夏のうちに食糧を確保する。”

『絵に書いた餅』ということわざがあります。「たとえその計画がどんなに素晴らしくても、実現しなければ何の役にも立たない」というような意味です。良い仕事を成し遂げる人たちには、1つの共通点があります。それは「他の人たちがやりたがらないことでも積極的に取り組む姿勢」です。お金が欲しい人たちはたくさんいますが、重労働は好みません。皆健康なからだを求めていますが、規則的な食事や運動をしようとはしません。優れた人生を歩むために必要なのは「立派な計画」ではなく、それを「実行に移す行動力」と「最後までやりぬく忍耐力」です。 良い習慣を身に付けるために「新しく何かを始める」のは簡単なことではありません。私たちはせっかく優れたスタートを切っても、ついなんだかんだと理由をつけてあきらめてしまいがちです。それでは「優れた習慣を身に付けるため」にはどうしたら良いのでしょうか? ①『小さいことから始める』 「優れた習慣」に向かうために大切なのは、進む『速さ』ではなく『方向』です。たとえ時間がかかっても、まっすぐに目標に向かってさえいれば、やがて必ず到達します。慌てず、急がず、着実に前に進んで行きましょう。 ②『自分から始める』 周りの状況が整うのを待っていたら、いつまで経っても始まれないかもしれません。他の人々も「誰かが始める」のを待っているものです。それが真に「優れた習慣」ならば、あなたが始めることによって必ず『何か』が起こり始め、その『何か』が周りを動かし始めるのです。 ③『とにかく始める』 新しい習慣を始めない理由はいくらでも見つけられます。「取りあえず学校を卒業してから」「結婚してから」「仕事が忙しくなくなったら」「退職してから」「死んでから???」 一見大変そうなチャレンジでも、実際に始めてみると思ったよりも楽だったり楽しかったりするものです。後回しにし続けた後に残るものは「あ~あ、あの時に始めておけば良かった…」という後悔の念だけです。 神様があなたに与えてくださった「たった1度きりの人生」を『絵に描いた餅』にしないために、今日「優れた1歩」を踏み出しましょう!

(218) “悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。”

ある会社員が毎朝駅の売店で新聞を購入していました。売店の販売員はいつもこの会社員に礼儀正しく丁寧に応対するのですが、この会社員はいつもイライラしていて、お金を払うと新聞を奪い取るようにして急ぎ足に去って行くのです。それにも関わらずこの店員は去り行く男の背後から、毎回明るく弾んだ声で「いつもありがとうございます!」と声をかけるのでした。ある朝売店で一緒に働いていた同僚がその様子を見ていて「あのお客はいつもあんな風に無愛想なの?」と尋ねました。「ええ、そうなのよ。」同僚は更に尋ねました。「それなのにあなたはどうしていつもああやって明るく丁寧に応対できるの?」店員は答えました。「だって、私がお客さんにどんな風に応対するかを、お客さんの私に対する態度で左右されたくないもの。」 『移る病気』は「インフルエンザ」とか「エイズ」ばかりではありません。「不機嫌」「怒りっぽさ」「陰口」など、人の気分や悪習慣も大変伝染しやすいものです。ですから「どんなタイプの人といつも一緒にいるか」は選んだ方がいいですね。けれど「1日のうちにどのような人と出会うか」を選ぶことはできません。ですから私たちは朝ごとに自分の心にこう言い聞かせる必要があります。「私の気分は、他人や周囲の状況(お天気?)が決めるのではなく、私自身が決めるのだ!」 神はそのひとり子イエス・キリストをお与えになるほどに、私たち1人1人を愛してくださいました。そしてその同じ愛が今日も私たち1人1人に注がれています。私たちが周りではなく、上を見上げて、今日も変わらない愛を注いでくださっている神と心を通わせて生きる時、あなたから発信される『愛のウイルス』が周りを変えて行くかもしれません。

(217) “主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。”

野生の鹿やシマウマなどの群れは、ライオンや虎などの野獣に襲われた時、生まれたばかりの赤ん坊をその場に置き去りにして逃げるそうです。これは彼らが自分の子供を大切にしないからではなく、次の2つの理由からです。第1に、赤ん坊は足手まといになるので、赤ん坊を連れて逃げると、自分自身も赤ん坊のいのちも危険にさらされるからです。そしてもう1つの理由は、赤ん坊はまだそれらの野獣を恐れることを知らないので、置き去りにしても野獣に見つかる可能性が低いからです。何故なら、野獣は獲物たちの『恐れの波長』を嗅ぎ取って追ってくるからです。 私たち人間の世界も同じです。私たちの人生を脅かす災いは、しばしば私たちの『恐れの波長』に引き寄せられて忍び寄ってきます。「もしかしたら悪い病気にかかっているのではないか?」「事故に遭ってしまうのではないか?」「これだけの貯金では足りないのではないか?」「いつか恋人に裏切られてしまうのではないか?」などなど。これらの恐れは私たちの人生に対する態度を消極的にし、お酒やドラッグへと走らせ、少しずつ私たちの人生を蝕んでいき、やがて破滅へと至らせるのです。 これらの恐れは一体どこからやってくるのでしょう?それは「私たちのいのちの根源である『神』から離れてしまっていること」から来ているのです。ある人々は「自分の人生は自分で切り拓く。『神』なんか要らない!」と言い、また別の人々は「神様は真面目で勤勉な人たちにはご利益をくださるが、自分のように弱く失敗ばかりしている者は見捨てられてしまうに違いない」という『誤った神観』を持っています。 聖書では、しばしば私たち人間と神との関係を「羊と羊飼い」にたとえています。羊は動物の中でも最も弱く依存的であり、羊飼いの優しく力強いケアなしには生きられない存在です。そして神は私たちにも、「自分の弱さや限界を素直に認め、神に信頼して生きるように」と願っておられるのです。生きていく上で試練や挫折が起こるのは、それらの経験を通して私たちが「私たちの人生の羊飼いである神」と出会うことができるためなのです。

(216) “だれも自分の身を憎んだ者はいません。かえって、これを養い育てます。”

幼い子供がお友だちに囲まれて誕生日を祝ってもらっている状況を思い浮かべてみてください(自分がお祝いしてもらった時の思い出でもいいですよ)。きっとその子どもはその日、何だか「物語の主人公になったような気分」を味わっているに違いありません。大人になるにしたがってそのような機会は減っていくかもしれませんが、何歳になっても「自分は価値のある存在である」という気分を味わいたいという欲求は変わらないはずです。 前述の聖書のことばの「養い育てる」という語の原文は「建て上げる,敬う,祝う,宝物のように扱う」というような意味を持っています。このように扱われて悪い気分になる人はいないのではないでしょうか? 私たちは皆上記のように扱ってもらうことを望みますが、と同時に親しい間柄において(夫婦や親子、親しい友人など)互いを「養い育てる」ことができたとしたら、どんなに人生が豊かになって行くことでしょう。誕生日や試験にパスした時などに「おめでとう」のひと言をかけてあげるのはもちろんのこと、ささいなことに関しても「あなたの存在を感謝してるよ」「あなたは私にとってかけがえのない存在だよ」と照れることなく伝えてあげられたら、相手はきっと心強く感じるに違いありません。 また私たちがそのような心遣いを必要としているのは、何も『お祝い事』の時だけではありません。何かに失敗したり、新たなチャレンジに尻込みしたりしているときに、影のようにそっと側にいてあげることは、どんな言葉にもまさって相手の心を力づけることでしょう。 神様は「自分を愛するごとくに、あなたの隣人を愛せよ」とおっしゃいました。神様にとっては、私たち1人1人がかけがえのない存在です。その私たちがそのように互いを喜び合い、祝福し合い、支え合う時に、天では大きな喜びが湧き起こるのです。

(215) “人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である。”

あなたがもし、はしごを登って高いところの壊れた部分を修理しようとして、てっぺんまで登ってから、間違った方向にはしごをかけていたと気づいたらどうしますか?ガッカリしますよねぇ。登ったはしごが長ければ長いほどその落ち込みは激しいのではないでしょうか?それでも単なる『はしご』ならば、またちゃんとしたところにかけ直して登りなおせば済みます。 ところがこれが「人生のはしご」だとしたら、どうでしょう?半ばまで登った時点で「どうやらこのはしごは、間違ったゴールへ向かっている」と気づけば、また登りなおすことも可能でしょうが、終わりまで登りつめてから「しまった!はしごをかける場所を間違った!」では遅すぎます。 私たちはこの『人生のはしご』をそれぞれの「基本的価値観」に基づいて登って行きます。「食べ物の好み」や「学歴」また「職業」などはこれに含まれません。もっと基本的なもの、すなわち「どうしてそういう考え方をするのか」また「何故あえてそちらを選ぶのか」など、私たちの人生の方向性を左右する基準がこれです。 この『基本的価値観』は次のような3つの性質を持っています。 ①生涯共に過ごすパートナー ②状況や気分に左右されることのない『方位磁針』 ③時代の流れや他人の言葉などに振り回されるのを防ぐ『錨』 誤りのない「基本的価値観」に基づいて生きることは、人生において最も重要なことの1つです。そしてその「正しい価値観」を私たちに提供してくれるのが、私たちをお造りになられた『神』であり、またその神が私たちに与えてくださった「人生の取扱説明書」である『聖書』なのです。

(214) “愚かな者は怒りをぶちまける。しかし知恵のある者はそれを内におさめる。”

『怒り』という感情は、私たちに必要なものとして神から与えられているものですが、私たちはこの感情に「振り回される」のではなく、きちんとコントロールできる者でなくてはなりません。何らかのきっかけで怒りが爆発しそうになった時には、ぜひ自分自身に次の2つの問いかけをしてみてください。 ①「この出来事は、本当に自分の怒りをぶつけるにふさわしいことであろうか?」 ・多くの場合、私たちは物事や人々の「一面だけ」しか見ないで判断してしまいます。誰にでも失敗はあります。たまたまその人の悪い面を見てしまったからといって、そのことだけで相手を評価してしまわないように気を付けなければなりません。 ②「ここで自分の怒りを表すのが、最も良い時・場所・方法であろうか?」 ・頭に血が昇ってしまっている時にこのように自問自答するのは難しいことですが、感情のままに行動するのは真の人間らしさではありません。誰かに不当な扱いをされた時や、物事が思った通りに運ばない時、私たちが自問自答すべきことは「自分にはここで『怒りを表す権利』があるだろうか?」ではなく、むしろ「自分にはここで『怒りを表す権利を拒否するだけの度量』があるだろうか?」です。 私たちはしばしば「ここで黙っていては、相手から甘く見られる」と思いがちです。しかし真の強い人とは「落ち着いて判断する心」を持つ人です。そしてそのような強さは私たちを「要らぬ後悔の念」から救い出すことができるのです。

(213) “あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。”

“コンフォート・ゾーン”という言葉があります。日本語に訳すと「居心地の良い場所」となるでしょうか。例えば普通の人にとっては「自分の家」「安心できる職場」「親しい友人たちに囲まれた状態」などがこの“コンフォート・ゾーン”にあたるでしょうし、またそこから1歩踏み出すのには少し勇気が要ります。 “コンフォート・ゾーン”は通常年齢と共に少しずつ拡げられていきます。例えば、生まれてから3~4歳までは母親の許で過ごしていたのが、幼稚園へ行くようになり、また小学校へ上がり、徐々に「学外活動」へも参加するようになり、やがて親元を離れて暮らすようになります。ところがこの“コンフォート・ゾーン”から踏み出すのを恐れ、「自分は学校へ行かず、ずっと家の中で家族と過ごしたい!」となると、その人の成長は止まってしまいます。 神が私たちの人生におけるご自身のご計画を成就なさろうとする時、神はしばしば私たちをこの“コンフォート・ゾーン”の外へと踏み出すように招かれます。何故なら、私たちが『現状維持』に満足しているうちは、神が私たちのために用意しておられる「ダイナミックな人生」を真の意味で体験することができないからです。そして実際、10年後20年後に自分の人生を振り返ってみる時、私たちが感動を持って振り返ることができるのは「コンフォート・ゾーンから踏み出した経験」であり、逆に深い後悔の念を感じるのは「コンフォート・ゾーンから踏み出る機会を拒んだ経験」なのです。 今から20年前、私たち家族は『宣教師』としての人生へと踏み出しました。3人の子供たちはそれぞれ6歳,4歳,1歳半でした。何人かの知り合いは、私たちのむこうみずな決断にあきれていました。しかし私たち家族が今喜びと感動を持って振り返るのは、神の祝福に満ちた『並外れた20年間』なのです。一方ある家族は「神が自分たちを宣教師として働くよう招いておられる」と感じていたにも関わらず、周囲の強い反対に負けてその道を断念し、大きな後悔の念にさいなまれつつ晩年を過ごした、と聞いたことがあります。 初めにも書いたように、「コンフォート・ゾーンから踏み出すこと」は簡単ではありません。しかしそれは決して単なる「危険な賭け」ではなく、「共に歩んでくださる神への信頼を行動に現すこと」なのです。そして私たちの『真実な神』は、ご自身に信頼して敢えて“コンフォート・ゾーン”から踏み出す人々に、特別の祝福を注いでくださるのです。

(212) “熱心だけで知識のないのはよくない。急ぎ足の者はつまずく。”

私たちの人間関係にしばしば混乱をもたらすものに「勝手な思い込み」というものがあります。私たちは元来自己中心的な性質をもっていますから、相手を「思いやろう」としているにも関わらず、自分勝手な考え方で相手の気持を察しようとしてしまい、思いやりが裏目に出て、感謝の代わりに恨みを買ってしまうことがあるのです。結果的に、本当なら関係が更に親密なものになるはずだったのに、お互いの心に深い傷を残すことになります。 しかしこのような悲劇は、ほんのちょっとした機転で回避することができます。それは「自分勝手な推測に頼らず、思い切って本人に尋ねてみる」ということです。あなたが本当に心から相手にとっての益を求めているなら、相手が今本当に必要としているものを教えてもらう時間(手間)をかけてみたらどうでしょう? 物質社会に生きている私たちは、つい『人助け』を「物を与えること」で片付けてしまう傾向があります。でも実際は『物』よりも価値があるのは『時間』です。仮に相手が打ち明けてくれた必要が、あなたが具体的に応えてあげられないものであったとしても、相手はあなたが「聞いてくれた」ことによって励ましを受けるでしょうし、聞いたあなたもその人の必要のために祈ることができるし、またその必要に応えられる人を一緒に探してあげることだってできます。 神は私たちとの親密な関係を築くために『人(イエス・キリスト)』となられました。私たちも「私:助ける人」「あなた:助けてもらう人」ではなく、「相手と共に立つ人」となるために時間を割ける者となりましょう。

(211) “互いに励まし合い、互いに徳を高め合いなさい。”

1980年代に上映された「スタンド・アンド・デリバー」というアメリカ映画があります。主人公はある高校に赴任した数学の教師なのですが、彼のクラスに同じ『ジョニー』という名前の2人の男子学生がいました。名前は同じでしたが、出来は全く異なり、1人は明るい性格で成績も良く、クラスの人気者でした。ところがもう1人のジョニーはというと、いわゆる「クラスの問題児」で、その教師はいつも彼に手を焼くのでした。 ある日のPTAの集まりの日、1人の母親が教師のところにやってきて尋ねました。「ウチの息子のジョニーはちゃんとやっているでしょうか?」教師は「出来の良いジョニー」の方と勘違いして、「いやぁ、彼が私のクラスにいてくれることは大きな喜びですよ。彼の存在をどんなに感謝しているか、表現のしようもありません!」と答えました。翌日当の「問題児ジョニー」が教師のところにやってきて言いました。「昨日お母さんから、先生がボクのことをどんな風に思っていてくれているか聞きました。ボクのことを歓迎してくれた教師は、先生が初めてなんです!」 その後このジョニーはどうなったでしょう。彼は頑張って毎日宿題をこなすようになり、クラスの中でも指折りの熱心な学生となって、そして何よりもこの教師の1番の理解者・友人となったのです。 もしあなたが誰かの隠れた優れた点を見出し、勇気をもってそれを相手に伝えるなら、それは相手にとって「生きる希望を増し加える」ことになるのです。別の言葉で言うなら、「今の自分よりもひと回り優れた者となろう」という『ヤル気』を起こさせるわけです。そんな励ましを与える者となるのに『お金』も『特別な才能』も『立派な外見』も要りません。また、そんな励ましを必要としていない人はいません。さあ、今日から初めましょう!

(210) “争いを避けることは人の誉れ、愚か者はみな争いを引き起こす。”

一般に日本人は「議論するのが苦手」と言われます。実際「議論すること」自体は悪いことではないのですが、しっかりとしたマナーを持って議論しないと、相手との関係がギクシャクしたり、関係そのものを壊してしまうきっかけになるため、敢えて議論することを避けてしまう傾向があるのではないでしょうか?ではどのようにして上手に(建設的に)議論することができるのでしょう? 神は私たち1人1人をユニークな存在としてお造りになりましたから、1人1人が違った意見を持っていて当然です。私たち夫婦は大変仲良しですが、意見の衝突はしょっちゅう起こります。しかしそれをエスカレートさせない方法はそれほど難しいことではありません。 まず第1に、「相手の意見に深く耳を傾ける」ということです。意見の衝突をエスカレートさせる大きな原因の1つは、「自分が最も正しい」と無意識のうちに思い込んでいることにあります。ですから「相手は自分のことが分かっていない!」という不満がお互いに爆発し、もはや議論は収集がつかなくなります。ところが、もしあなたが「相手は私がまだ知らない何かを知っているのかもしれない」というへりくだった姿勢で聞く耳を立て、相手の言い分だけではなく、その背後にある気持をも汲み取ってあげるならば、議論はお互いに対する『深い理解』につながり、建設的な方向へと進みます。 上手な議論のもう1つのコツは、「焦点を『問題そのもの』ではなく、『問題の解決』に合わせる」ということです。聖書によると、人間は『禁断の木の実』を食べて以来、その罪責感の故に「責任転嫁」をするようになってしまったようです。「こんな事件が起こったのは、一体誰が原因なのだ?」と問われるや否や、私たちは自分を守ろうとするがあまり、必死で言い訳したり、他の誰かに責任をなすりつけようとしたりします。それでは何も問題の解決にはならず、人々が傷付くばかりです。神様は私たちの目を前後に付けることなく、前にだけお付けになりました。それは私たちが後ろ向きな姿勢ではなく、常に前を向いて(事態の改善に向けて)歩むためです。問題解決のために原因を探ることは大切ですが、それが「誰の失敗によるものか」は重要ではありません。 『上手な議論』とは、常に「お互いをより深く理解しようとする姿勢」と「共に事態の向上を願う心」から生まれるものなのです。

(209) “あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。”

ある人々は、「クリスチャンの人たちはよく『お祈り』をするけど、一体どんな風にお祈りしたらいいの?」 と尋ねます。実のところ、そのような人々は「どう祈ったら良いのか分からない」のではなく、「どうやったら『あの人々のように』祈れるのか分からない」のです。 イエス・キリストは『祈り』に関して教えるとき、「形式や言葉遣いなどにこだわらなくて良い」とおっしゃいました。何故なら、神は私たちの祈る『ことば』に関心があるのではなく、『心』に関心があるからです。その祈りがどれほど口先で上手に表現されていても、その人の心が深く神様につなげられていないなら、その祈りは神の前に価値のないものなのです。 『祈り』はある面『呼吸』のようなものです。私たちは通常ほとんど意識することなく、本能的に『呼吸』をしています。それは私たちのからだが「酸素」なしには一瞬たりとも生きられないからです。すなわち『呼吸』は、「わたしたちが酸素にどれほど依存しているか」をありのまま表現しているのです。 『祈り』も同様です。私たちは何も格好をつけて「自分を信仰的に見せるため」に祈るわけではありません。それは「私たちが神様にどれほど依存しているか」をありのままに表現した、いのちの営みなのです。『祈り』を通して私たちは、今日も生きて働いておられる神様と、親しい関係を保ちながら歩むことができるのです。

(208) “人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である。”

今日はまず、ちょっと想像力を働かせていただきましょう。暗くて長~い廊下を想像してみてください。その両脇にはいくつものドアがあるんです。それぞれのドアには、その部屋の中で行われている様々な「ためにならない楽しみ」が書かれています。『アルコール中毒』『ニコチン中毒』『麻薬』『ポルノ』『ギャンブル』などなど。各部屋の中からは楽しそうな笑い声や興奮に満ちた叫び声が洩れ聞こえてきます。 これは私たちの人生を現しています。私たちの人生(特に思春期)の道のりには、様々な「ためにならない活動への誘惑」が満ちています。しかもそれらの力は強大で、そこに加わらないことはあたかも「大事なものを受け損ねている愚かなこと」のように思えるのです。「いま自分が歩いている道はあまりにも不確かで、何の楽しみも感じられない。いっそのことどこかの部屋へ飛び込んでしまった方が・・・」 すべての誘惑は、大抵その『恐ろしい実体』を隠しながら、親しみのあるごくありふれた装いをして近づいてきます。「皆やっていることさ。ちょっと試してみるだけなんだから大丈夫。楽しいこと請け合いだよ!」そんな誘いについ心を許して「じゃあ、ちょっとドアを開けて中を覗いてみるだけ。」そのように始まって、そしてズルズルとアリ地獄へ落ちるように堕ち込んで行くのです。 ではどのようにしてこのような誘惑に打ち勝つことができるのでしょう?2つの方法があります。1つ目は「必要な忍耐力を養うこと」です。面白い実験を聞いたことがあります。3~4歳の子供をある部屋に1人にさせ、テーブルに美味しそうなお菓子を1つ置いておきます。子供にはこう言い聞かせておきます。「ここで15分間待っててね。このお菓子を食べてもいいけど、もし食べないで待っていられたら、戻って来た時にもう1つあげるよ。」ある子供は大人が立ち去った後直ちに食べてしまいますが、いろいろと気を紛らわせながら、最後まで待っている子供もいます。そして待つことができ、ご褒美をもらえた子供たちこそ、様々な誘惑に打ち勝つ人生を歩むことができるようになるのです。現代は「欲しいものを何でもすぐに買い与えてしまう時代」です。『恵まれた時代』ということもできますが、ある意味子供たちにとって大変不幸な時代です。『必要な忍耐力』を養いにくい時代だからです。 もう1つの良い方法は「人生の真の醍醐味を若いうちから体験しておくこと」です。我が家の3人の子供たちは、幼い頃から『宣教師の子ども』として発展途上国で暮らしながら「神を愛し、人々を愛して生きることの醍醐味」を実感しつつ育ち、日本へ帰国してから『思春期』を迎えました。当時日本はいわゆる「ファミコン」の真っ盛りの時代で、大変ご親切な知り合いがウチの子供たちにもこの魅力的な遊具を買い与えてくださり、しばらく彼らも「はまって」いました。ところがしばらくするとすぐに飽きてしまって、もっぱら親しい友人たちと外で遊び始めたのです(まあ長男は音楽にはまり、今では教会や高校などで楽器の指導に当たっていますが…)。すなわち『ファミコンの魅力』も、彼らの心に根差していた「より高次の楽しみ」には勝てなかったのです。 神は私たちを「人生の真の醍醐味を味わいながら生きるように」とお造りになりました。自分自身が、そして次世代の子供たちが『目先のお楽しみ』に振り回されることなく、しっかりと高次元の目標に向かって歩んでいけるように最善を尽くしていきたいですね。

(207) “機会を十分に生かして用いなさい。”

私がまだ20歳の頃好んで人々に尋ねていた質問があります。それは「もしあなたが『余命3ヶ月』と宣告されたらどうしますか?」 というものでした。特に深い意図は無く、単なる好奇心から出た質問でしたが、返って来る答えはいつも「今と違った生き方をする」というものでした。「持っているものをすべて処分して世界旅行をする」とか、「食べたい物を好きなだけ食べる」、また「ずっと好きだった人に告白する」などなど。しかしたった1人だけ、こう答えた方がいました。「何も変わりはしません。私は今でも1日1日を精一杯生きていますから」。 この女性は、私が通っていた教会で託児所を営んでおられる方でした。こよなく神を愛し、また子供たちを愛していた人でした。毎週日曜日には教会学校で子供たちに神様の愛について教え、そしてある祝日にやはり教会の子供たちをピクニックに連れて行く途中脳溢血で倒れ、そのまま息を引き取られました。まさに死の瞬間まで子供たちを愛し、神に仕えていた人でした。 「豊かな人生を生きる」とは、単に長生きするとか、財産を増やすとか、多くの業績を成し遂げるとかいったものではありません。言わば「次の24時間にどれだけのエネルギーを注いで生きるか」ということだと思います。今日を精一杯生きられない人に、いわゆる「豊かな人生」を生きることはできません。ついダラダラとテレビを観てしまったり、意味も無くパソコンの前に延々と座ってみたり、くだらないおしゃべりに時間を費やしたり・・・ 現代の世の流れは私たちの貴重な時間を奪って行きます。私たちは「より確かな目標」に向かって歩みを進めて行かなければなりません。 あなたをお造りになられた神は、あなたの人生に崇高な目的・計画をお持ちです。イエス・キリストを通してこの神との関係の中に生きることは、あなたが『真に豊かな人生』を歩むための必須事項です。あなたに残された貴重な時間を最大限に生きるために、「神があなたのために抱いておられるご計画」にフォーカスをおいてみませんか?

(206) “神はこのイエスをよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。”

日本ではあまり馴染みはありませんが、この週末は「イースター・ウィークエンド」と呼ばれ、世界中で『イースター』すなわち「イエス・キリストの復活」が祝われます。 ここニュージーランドでは、イースターの時期が来るたびに店頭に並ぶ食べ物が2種類あります。1つは『ホット・クロス・バンズ』と呼ばれるもので、小さな柔らかくて四角いパンの表面に十字架の模様をあしらったものです。まあこれは意味が分かりやすいのですが、もう1種類は『イースター・エッグ』と呼ばれ、もともとは本物の卵が使われていたのですが、今では「卵型のチョコレート」がお店の広いスペースを独占して売られており、さながら日本の「バレンタインデー」のようです(ちなみに、バレンタインデーに女の子が男の子にチョコレートをプレゼントするのは日本くらいです)。 では、「キリストの復活」と「卵」とはどのような関係があるのでしょうか?1つにはやはりそこに『新しいいのち』が象徴されていることでしょう。卵は外側から見ると一見いのちを感じられません(単なる食べ物?)が、実はその中にいのちが宿っていて、時が来るとそのいのちが内側から飛び出してきます。そのようにしてイエスも十字架の死から3日目によみがえられたのです。 もう1つのことは、その『3重構造』にあります。卵が「黄身・白身・殻」の3つの部分からできているように、イエスの遺体も真っ白な「亜麻布」に包まれ、そしてその墓の入り口は堅く重たい岩で閉じられていました。しかし『黄身』の部分にいのちがあって、それがやがてヒヨコになり、まとわりつく『白身』を脱ぎ捨て、堅い殻を破って出てくるように、死からよみがえられたイエスは、まとわりつく亜麻布を脱ぎ捨て、堅く閉じられていた墓を打ち破って出てこられたのです! イエス・キリストは今日も生きておられ、ご自身に信頼し従う者たちを『死に打ち勝ついのち』によって生かしてくださるのです。

(205) “イエスは言われた。「わたしはさばきのためにこの世に来ました。それは、目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。」”

1人の男性がローカル列車の中で、外の景色を凝視しながら「素晴らしい!なんて素晴らしいんだ!」を連発していました。これといって目を留めるほどの眺めがないばかりか、むしろゴミゴミした街並みの中、歩道には投げ捨てられた紙屑が散乱しているような光景しか見当たらないのを見て、隣に座っていた婦人が思わず彼に尋ねました。「一体何を見てそんなに感動しているの?」すると男は答えました。「いや、実は私は生まれてから30年間ずっと盲目だったのですが、多くの方々の資金援助と医学の発達によって『角膜移植手術』を受け、ついに見えるようになったんですよ!ですから、見えるものすべてに感動してしまうのです!」 心が不平不満に覆われてしまうと、せっかく神様が用意してくださっている『美しいもの』さえ見落としてしまいがちです。日常のささいなことの中にも『神の恵み』は満ちています。日々「神様、あなたが私の人生に用意されている祝福の一端を見逃すことの無いように、どうぞ今日も私の目を開いてください」と祈りましょう。

(204) “あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。”

『思い煩うこと』ほど「無駄な時間の過ごし方」はありません。イエス・キリストも次のように言われました。「あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか?」全くその通りです! 『思い煩い』は「心の平安」や「親密な人間関係」といった、私たちの人生を豊かにしてくれる要素を奪っていきます。また『思い煩い』はいつも背後から私たちの隙を伺って、私たちの思いの中に忍び込んで来るのです。 『思い煩い』というものは通常「私たちにはどうにもできないこと」に関してわたしたちが「あれやこれや」と思い巡らすことが原因です。1日の営みを終えて床に就いた後で「もっとああすれば良かった…」とか「あのことはどうなってしまうのだろう???」などと考え始めて、良く眠れなくなったりするのです。どちらにしても寝ている間には何もできないのだから、頭を切り替えてサッサと寝てしまえば良いのに、この『思い煩い』のためによく眠れず、結局翌日は寝不足のために、逆に仕事の能率が更に落ちてしまい、更に『思い煩う』ことになるのです。 聖書が私たちに勧めるのは、「思い煩う代わりに、あなたが眠っている間にさえあなたを顧みてくださる『全能の神』にゆだね(祈り)なさい」ということです。あなたの頭を悩ませている数々の『思い煩い』を片っ端から神様にぶちまけて、「もうあなたに打ち明けましたから、あなたに信頼して、もう悩みません!」と言って終わりにするのです。 ある方は「そんな、神様を『悩み相談所』のように使っては申し訳ない」とおっしゃるかもしれません。しかし聖書には「神は、彼に信頼する者を『神の子供』と呼んでくださる」とあります。そして『親』にとって、愛する自分の子供が1人でクヨクヨと悩んでいるのを、ただ黙って見ていることほど辛いことはありません。 『祈り』とは、何も「お願い事」ではありません。むしろ「神に信頼する者が、その真実な思いを神に打ち明ける行為」なのです。

(203) “彼(キリスト)はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない。”

『親しい者の死』を経験することは、私たちの心に「深い悲しみ」、時には「神に対する怒り」を起こさせます。何を隠そうこの私もそのような人間の1人でした。 私は小学2年生の時に、祖父の臨終の場面に遭遇しました。今では「人の死に目に会う」という機会はあまりないように思えますが、私にとってこの経験はいろいろな意味で衝撃的でした。 また私が小学4年生の時には、前の年の担任の先生が自殺をしました。電車への飛び込み自殺でした。「そんなことがあっていいのか?」と、ただただ驚くばかりでした。 極めつけは、忘れもしない、私が小学6年生になる年の4月1日(エイプリルフール)。前日にも遊んだばかりの私の1番の親友が、交通事故で亡くなったのです。それを母から聞かされたとき、まさに「頭の中が真っ白」になりました。葬儀出席のために彼の家を訪れたとき、彼のお母さんが玄関先まで走り出てきて私を強く抱きしめ、「ケンちゃんだけが私のこのどうしようもない悲しみを分かってくれるよね!」と泣き叫んだことを、昨日のことのように思い出します。 神は私の人生にこのようなことが起こることをどうして許されたのでしょうか?そもそも私たちの人生には何故この『死』という乗り越えられない壁があるのでしょう? しかし私は、イエス・キリストと出会ったことを通して答えを見出しました。何故なら彼は「死を味わう必要のない方」だったにも拘わらず、私たちの代わりに十字架で死なれ、そして3日目によみがえられたからです。彼は私たちの弱さや深い心の痛みを理解してくださる優しさと、私たちを死の向こう側の希望へと運んでくださる強さとを兼ね備えておられる方なのです。 あなたもこの「イエス・キリストによる慰め」を経験し、彼に倣って「弱さを理解することのできる真の強さ」を持って生きたいとは思いませんか?

(202) “志の堅固な者を、(神よ)あなたは全き平安のうちに守られます。その人があなたに信頼しているからです。”

海洋学者たちの調査によると、どんなに激しい嵐(例えば、高さ30メートル以上もの津波が起こるような)のときでも、海中に8メートルも潜るならば、そこは何事もないような静けさだそうです。 これは私たちの人生にも同様なことが言えます。すなわち、私たちの人生に大きな嵐が起こることは避けられないけれども、私たちの心の深い部分で『決して揺るがされることのない存在』につなげられているならば、私たちはそれらの『人生の荒波』を乗り越えていくことができるのです。 迫害下にあったクリスチャンたちの遺した次のような詩があります。「激しく打ちたたかれれば打ちたたかれるほど、私たちは釘のようにより深くめり込んでいく。そしてその深みで私たちは『真の神の平安』と出会うことができる」と。 私たちが『平安』を失うのは、自分ではどうしようもない困難に陥った時でしょう。でも神に解決できない問題は1つもありません。私たちが「人生の試練」に直面するのを神が許されるのは、それらの試練を通して私たちが「神のみが与えることのできる『真の平安』」を体験させるためではないでしょうか?

(201) “あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。”

以前クライストチャーチでお会いした方から、最近こんなお手紙をいただきました。 「ニュージーランドで1番利率の高い銀行を紹介していただけませんか?日本にある私たちの貯金の大部分をそちらの銀行に移したいと思うので…」 恐らくほとんどの人々は『お金持ち』になりたいと思っていることでしょう。もしかするとある方々は「もしもっとお金が貯まったなら、きっともっと気前よくなれて、いろいろな場面で施したり寄付したりできるようになるに違いない」と思っておられるかもしれませんが、実際は、『お金持ちであること』と『気前のよさ』とはあまり関係はないようです。数年前のイギリスの調査では、収入の少ない方から20%の方々は、その収入のうちの3.2%を寄付していて、収入の多い方から20%の方々は、収入のうちの0.9%しか寄付していないそうです。 金融関係に関する専門家のダニエル・レビン氏は次のように言っています。「『経済的繁栄』とは、どれだけ稼いだかによって測られるものではなく、むしろどれだけ与えたかによって測られるものである。」つまり、本当に気前の良い人というのは、自分がどれだけ持っているかに拘わらず、いつも『与える機会』を捜している人のことを指します。そしてもし私たちがしっかり目を開けて生きているなら、この『与える機会』というものはそこらじゅうにあるものです。 イエス・キリストは「あなたがたがこれらの小さき者たちにしたのは、わたしにしたのだよ。」とおっしゃいました。神にとっての1番の宝物は『お金』ではなく『人(私たち)』です。神は私たちに「2番目以下の宝を、1番の宝のために用いること」を願っておられるのです。

(200) “わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。”

皆さんは『台風直撃』の経験をしたことがあるでしょうか?私たち家族はバヌアツ共和国にて宣教師として働いていたとき、電気も水道もない小島にある粗末な小屋でそれを経験しました(ですから『停電』や『断水』の被害の恐れはありませんでしたが…)。いやぁ、なかなかの迫力でしたよ。その辺のジェットコースターその他のアトラクションとは格段の差がありますね。 ところで『台風』には面白い構造上の特徴があります。あれほどの破壊力を持つ自然現象であるにも拘らず、その中心部にある『台風の目』と呼ばれる部分は比較的穏やかで、その部分にいるときは一瞬「あれ、もう台風は去ったのかな?」と勘違いしてしまうほどです。ところがその中心から少しでもズレているいわゆる『中心付近』では物凄い暴風と大雨にさらされます。もし私たちが台風の様子を遥か上空から眺めることができたなら、恐らく「荒れ狂う風雨のど真ん中に存在する不思議な静けさ」を見てビックリすることでしょう。 私たちの人生にも「台風の真っ只中」のような時期がありますよね?「泣きっ面に蜂」ではありませんが、ただでさえ苦しい状況にあるのに、更にまた試練が増し加わるようなことがあります。思わずも「神も仏もない!」と叫びたくなるような…。 こんなとき、神様がそれらの試練を直ちに解決してくだされば良いのに、滅多にそういうことはありません。何故なのでしょう?神様は私たちをもてあそんでおられるのでしょうか?そうではありません。神は私たちに「困難なしの人生」を約束してはおられませんが、「どんな困難の中でもわたしは必ずあなたと共にいて、あなたを守る」と約束してくださっています。神は私たちに「何の困難もないお気楽人生」を与えることによってご自身の愛を現されるのではなく、かえって「神様の助けなしには耐えられそうもない試練」の中にあって『不思議な平安(静けさ)』を体験させることを通して、ご自身の私たちに対する深い愛を伝えようとしておられるのです。

(199) “私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。”

何年か前に、カナダのエドモントンで行われた陸上競技大会の4百メートルリレーにジャマイカのチームが出場しました。ちょうどそのリレー競技が始まる頃、そのチームの第3走者の親しい友人が、同じ競技場の別の競技に出場していました。まだ自分の走る順番が回ってこないと油断していたその第3走者は、ついつい友人の活躍ぶりに熱中してしまい、何と第2走者がバトンを持って自分に向かって突進してくるのに気づかず、2人は衝突してしまったそうです。言うまでもなく、ジャマイカチームは大切なレースに惨めな敗北を喫してしまいました。どうしてこんな悲劇(喜劇?)が起こってしまったのでしょう?それはもちろんこの第3走者が『自分のレース』に集中する代わりに「他の人のレース」に注目しすぎてしまったからです。 神様は私たち1人1人に「全力で走るべきレース(人生)」を与えてくださっています。そして見つめるべき場所(人)も。それは「周りにいる目を引く人々」ではなく『イエス・キリスト』です。 『人生』はある意味「リハビリテーション・ルーム」のようなものです。そこに集まる人々のニーズは1人1人違っており、それぞれの現在のレベルも異なっています。お互いを眺めながら一喜一憂していても始まりません。ただしそこに集まっているすべての人に共通する『1つの目標』があります。それは「本来あるべきコンディションに回復する」というものです。そして私たちすべてが目標とすべき『人間として本来あるべき姿』それがイエス・キリストなのです。 オリンピックの「ボート漕ぎレース」をご覧になったことがあるでしょうか?複数の漕ぎ手がペースを合わせてボートを漕ぎながらゴールを目指すのですが、肝心のゴールは自分たちの背後にあるので見えないのです。それでは彼らはどこを見つめて進むのでしょう?それは選手のために号令をかけ、また軌道修正を命じる『キャプテン』です。このキャプテンは自分では少しもボート漕ぎに参加しません。しかし彼はメンバーを力強く励まし、正しい方向へと導き、全員がゴールの栄冠を勝ち取ることができるように最善を尽くします。そして漕ぎ手たちはそれを微塵も疑うことなく、ただキャプテンを見つめながら力を出し切るのです。 私たちもこの『人生最高のキャプテン』であるイエス・キリストを見つめながら、力いっぱいそれぞれの人生を進んで行きましょう!

(198) “私はいつも、神の前にも人の前にも責められることのない良心を保つように、と最善を尽くしています。”

皆さんは飛行機に乗ったことがありますか?搭乗手続きの最初にはいつも『手荷物検査』という場所を通ることになります。そしてそこには「金属探知機」があって、そこを通るためにポケットなどに入れている金属類やアクセサリーなどをいったん全部外さなければなりません。さもなければ金属探知機が反応して危険を知らせるからです。もしナイフや銃などを隠し持ってでもいたなら、拘置所に連れて行かれることでしょう。 私たちの心の中にもそのような「危険を知らせる探知機」があります。それは『良心』です。そして私たちがイエス・キリストに人生を明け渡して生きるようになると、聖霊なるお方がその良心を清め、より敏感に私たちの人生を破壊しようとする悪に反応し、私たちを「悔い改め」と「聖い歩み」へと導いてくださいます。 残念ながら今の世の中には、この大切なセンサーである『良心』が鈍らされてしまっている人々もいます。何度も警告を受けたにもかかわらず、それらを無視して自分の欲を優先し続けた結果です。 皆さんの多くは「タイタニック号の悲劇」をご存知だと思います。「決して沈むことのない豪華客船」といううたい文句で出港したタイタニック号は、迫りくる危険のために周囲の船から多くの警告を受けながら、それらを無視し続けて、結局大きな氷山に衝突して沈没し、多くの命が失われました。 ニュージーランドの多くの住居では「不法侵入者防止のためのアラームシステム」が用いられています。家が留守になる時に、最後に家を出る人がアラームをセットするのです。帰宅した時には、通常ドアを開けてから30秒以内にアラームを解除しないと、けたたましいベルが鳴り響き、近所中から「何事が起ったのか?」と注目を浴びる羽目になります。 神が私たち1人1人に与えて下さっているアラームシステムである「心の中の良心」も同じように働きます。そして私たちはこの『良心の声』に対して3通りの反応から選ぶことができます。①スイッチを切っておく。②聞こえないふりをする。③その声に素直に従い、正しい対応をする。 さて、あなたはどれを選んで生きて行きますか?

(197) “若者をその行く道にふさわしく教育せよ。そうすれば、年老いても、それから離れない。”

現代ほど子供たちを正しい道に育んで行くのが難しい時代はないかもしれません。テレビ、雑誌、インターネット、ユーチューブ… ありとあらゆるところから強烈で不純な情報が入り込み、子供たちはそれらを適切に取捨選択する術を知りません。「一体どのようにして愛する我が子をこのような『世の悪影響』から守ったら良いのだろうか」と頭を痛めている親御さんもきっと多いことと思います。 でも決して希望を捨てないでください。何故なら様々な調査や研究の結果は「『その子の親』以上に子供たちに影響力を持つ存在はない」ということを証明しているからです。友人や学校、そしてメディアさえも、子供たちの人格形成に対して、決して親たち以上の影響力は持っていないのです。 ちょっとリレー競走のことをイメージしてみてください。リレーの勝敗を決定するのは多くの場合「どれだけ速く走れるか」ではありません。むしろ「どれだけ上手にバトンを渡せるか」にかかっています。ですから、決してバトンを落としてはなりません。すなわち「自分たちの信念(信仰)を次の世代に受け継がせること」を怠ってはならないのです。私たちはあらゆる努力をして、自分が築き上げてきた優れた人生観を自分の子供たちに受け継がせ、子供たちがそのしっかりとした土台の上に更に積み上げていけるようしてあげるべきです。もし親である私たちが本気でこのことに身をささげて生きるなら、神は必ず私たちの『愛ある努力』に報いてくださいます。

(196) “神は正しい方であって、あなたがたの行いを忘れず、あなたがたがこれまで聖徒たちに仕え、また今も仕えて神の御名のために示したあの愛をお忘れにならないのです。”

ジェームズ・シーズーという牧師は次のように書いています。「外見的な魅力が真の偉大さというわけではない。人々からの賞賛が人の真価を決めるわけではない。目立っているからといってそれが特筆すべきものなわけではない。最近はやりの人物が必ずしも何年も注目されるとは限らない。石が太陽を反射して輝いたからといってダイヤモンドになるわけではない。たくさんお金を儲けたからといってそれが人を幸せにするとは限らない。歴史を作ってきた人々はしばしば名前さえ知られていなかった。宇宙体系の中で重要な働きを担っている力はしばしば視覚では捉えられない。夏にしとしと降る小雨は台風がもたらす大雨よりも益をもたらすが誰にも注目されない。多くの場合、本当に価値のあるものは、この世において好評を博したり注目を浴びたりしないものの中にあるのである。」 この世の風習というものは、あっと言わせたり、目を見張らせたりするパフォーマンスこそが価値あるものであるかのように錯覚させます。しかしそのようなことができるのはほんの一握りの人々であり、またそれらの出来事は必ずしも世界に有益で恒久的な変化をもたらすとは限りません。むしろ、誰もができるような些細なことを『大きな心を込めて』行っていくことこそ、神が私たち1人1人に望んでおられることであり、また世界に良い変化をもたらす力を持っているのです。その行いが誰の目にも留まらなくても、誰からの賞賛を受けなくとも、そこでささげられたあなたの愛と思いやりは、それを受けた人の心にいつまでも残り、また天にある神の書物に永遠に刻まれているのです。

(195) “私は、自分はすでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、後ろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み…”

明けましておめでとうございます。皆さんはこの新しい年を迎えて、どのような目標を立てていらっしゃいますか?前進するための目標を持っていないことは、後退への目標を立てているのと同じです。また確固たる目標を持つことが、その人の時間やエネルギーの使い方をはっきりとさせます。ぜひ「成長のための目標を立てること」をおススメします。 良い目標を立てるための1つのコツは、単に「何かを成し遂げること」にこだわらず、むしろ「向かうべき方向」を正しくはっきりと定めることです。私たちの人生の満足度は「どれだけのことを成し遂げたか?」よりもむしろ「自分がどれだけの向上を遂げたか」にかかっています。あまりにも多くの人々が「ただ存在すること」に甘んじ、神が私たち1人1人に立てておられる崇高なご計画をはるかに下回っている場所で落ち着いてしまっています。それはまるで「川の流れがよどんでいる部分に魚が生息しなくなってしまった状態」のようです。過去の栄光にしがみついていても成長はありません。 さあ、今年はまだ始まったばかり。ぜひゆっくりとした時間を取り、「今年の終わりまでにどのような自分になっていたいのか」をいくつかリストアップしてみましょう。そして具体的な方策を立て、実行に移しましょう。多くの場合、「順調に感じる時」もあれば、「2歩進んで3歩下がっているように感じる時」もあります。でも心配要りません。どんな偉業だって、インスタントに出来上がったものはないのですから。何らかの目標のために死ぬほうが、目標なしにただ生きているよりはずっとマシではありませんか!

(194) “イエスは彼に「あなたは何という名か?」とお尋ねになった。”

「自分で自分のことをどんな人間だと思っているか」ということは、私たちの日々の歩みに大きな影響を与えます。たまに「実際以上に自分のことを偉大な人物」と思っている『誇大妄想』的な人もいますが、多くの場合私たちは実際よりも自分のことを低く見積もってしまいがちです。 イエス・キリストの代表的な弟子の1人で『ペテロ』という人物がいますが、彼は初め『シモン』と名乗っていました。それが親の付けた名前なのか、それとも人々から呼ばれていたあだ名なのかは定かではありませんが、はっきりしていることは『シモン』という名は「風に揺れ動く『葦』の葉」のことであり、このシモンに向かってある日イエスは、「あなたの名はもはや『シモン』ではない。今日から私はあなたを『ペテロ(岩)』と呼ぶことにする。」とおっしゃったのです。これはすなわち「あなたは今まで人生の目標の定まらない『葦の葉(シモン)』のように生きてきたかもしれないが、これからは私と共に生きることによって『岩(ペテロ)』のように、多少の試練や逆境には動じない者と変えられていくのだ」という、イエスのペテロに対するメッセージだったのでしょう。 私たちが「自分のことをどんな人間だと思っているか」は、生まれてから思春期に至るまでの成長過程で「周囲の人々からどのような評価を受けてきたか」に大きな影響を受けています。もちろん良い家庭環境に育った方であればそれなりの良い評価を受け、ある程度健康な『セルフイメージ』を抱いておられることでしょうが、私たち1人1人の真に正しい評価を下すことのできるお方は、私たちを絶対的な愛をもって形造ってくださった『創造主なる神』だけです。だからこそ聖書を読むことによって、この神様があなたに対して抱いておられる『正しい自己像』を知り、それをあなたの人生の土台として生きることが重要なのです。

(193) “キリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。”

多くの方々がご存知のように、『クリスマスの由来』は、今から2000年前にイエス・キリストが処女マリアからお生まれになったことから始まりました。でもちょっと考えてみてください。ある日天使が突然マリアの前に現れ、「あなたはまもなく男の子を生む。その名を『イエス』と名付けなさい」と告げたのです。もしあなたがマリアだとしたらどうしますか?全く心当たりがないのに、突然身ごもるのです。いくら天使のお告げだからと言って、簡単に受け入れられるはずがありません。しかしマリアは答えました。「どうぞ神様のみこころの通りにこの身になりますように。」 恐らく私たちはマリアのような経験をすることはないでしょうが、今日でもイエス・キリストは私たちの心の中に生まれ、そして私たちを通してご自身の豊かな命を現すことがおできになります。この記事を読んでくださっている方々の中で、心に苦々しさを抱えている人、悩みを負っている人、悪い習慣から逃れられないでいる人、心の平安を求めている人がおられるなら、イエス・キリストは今日あなたの心のドアをノックしておられます。もしあなたが彼に対して心を開いて、「イエス様、私はあなたの助けを必要としています。どうぞ私の人生に入って来てください。」と迎え入れるなら、その瞬間イエスはあなたの心の中に生まれてくださり、あなたと共に人生を歩み始めてくださるのです。 この2015年のクリスマス・シーズン、あなたが単なる「この世の余興としてのクリスマス」ではなく、「真の意味でのクリスマス」を迎えることができますように。

(192) “信者となったものたちはみないっしょにいて、いっさいのものを共有にしていた。”

『幸福の条件』とは何でしょう?ある人々は「もう少しお金があったらもっと幸せになれるのに…」と言います。本当にそうでしょうか? 『幸福感』に関する研究を重ねたある調査結果によると、より幸福感を経験しているグループと経験していないグループを分ける決定的な要因は「経済力」でもなく「健康」でもなく「安定した生活」でもなく「魅力的な容姿」でもなく「知能指数」や「経歴」でもないそうです。 では一体何なのでしょうか?それは、豊かで親密な『人間関係』です。自分が何らかのコミュニティに属しているという意識、「存在を認められている・必要とされている」と実感できることは何よりも私たちに充足感と幸福感を与えてくれます。 イエス・キリストが天に帰られた後、地上に残された弟子たちによって「キリスト教会の営み」がスタートしました。迫害下にあった彼らが周囲に押しつぶされてしまうことなく、かえって次々と信者を獲得し大きく成長して行った大きな要因として、彼らを通して行われた「奇跡的なみわざ」が挙げられますが、それとともに忘れてはならないのは、彼らの間にあった『親密な交わり』です。それぞれが持てる時間・財産・労力を分かち合い、互いを支え合う中で生まれる一体感、これこそ神によって造られた私たちが真の『幸福感』を味わうための秘訣なのでしょう。 高度経済成長を遂げ「万民中流意識」にすっかり甘んじてしまっている日本人。誰もが自分の必要(以上?)を満たすことに夢中になり、もはや他の人の助けをほとんど必要なく感じている今日。そのようなよどんだ空気の中に一石を投じるのは、きっと「親密な関係の中に幸福感を見出そう」として行動を起こす人々ではないでしょうか?

(191) “隣人をさばくあなたは、いったい何者ですか?”

ある小学校の運動会で、子供たちが元気よく入場行進をしています。ふと1人の母親が自分のカワイイ1人息子の行進する姿を見て、彼だけが他の子たちと手足が逆になっているのを見つけて思わず叫びました。「ちょっと見てください。ウチの子以外は全員、手足を逆に動かしちゃってますよ!」 私たちは自分の事は棚に置いて、ついつい他の人の過ちや失敗を批判してしまいがちです。自分では「相手の間違いを正してあげようという善意のつもり」でも、実は相手のことを深く傷つけてしまっていたり、ひいては周囲の人々を自分から遠ざけてしまうきっかけにもなりかねません。 では、どうしたら良いのでしょうか?まず第1に、他の人を批判しやすいタイプの人は「自分のやり方・考え方が1番正しい」と思い上がっているのだということを自覚しなければなりません。その上で「あなたの立派さの故ではなく、ただご自身の恵み深さの故にあなたを受け入れてくださる神」を知ることです。そしてその神様に次のように祈りましょう。 「神様。私の高慢の罪をお赦し下さい。そして、あなたが私に対して恵み深いように、私も他の人々のことを『さばきの目』ではなく、『恵みの目』によって見つめ、また受け入れることができるように助けてください。」

(190) “すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。”

聖書の巻頭にある『創世記』という書物に、神が6日間で全世界をお造りになったくだりが出ていますが、神はその6日目の最後に人間をお造りになり、そして「7日目に休まれた」と書いてあります。すなわち人間にとっては第1日目は『休日』だったわけです。 日本人は一般的に『勤勉』です。それは良いことですが、しばしばそれが高じて「働きすぎ」になる傾向があります。毎日夜中まで残業したり、土日も休まず働いたり…、あたかも「休むことは無駄である」とか、休息をとることに後ろめたさを感じているかのようにも見えます。こちらニュージーランドに来たワーキングホリデーの若者の中にも、時々「日本の忙しさから逃れて精気を回復するために来た」はずなのに、仕事場の事情で『12連勤(12日間連続して休みなく働くこと)』などを余儀なくされている人がいたりします。本当に残念なことです。 こんな話があります。ある日2人の木こりが「1日のうちにどちらがよりたくさん木を切り倒せるか」を競うことにしました。1人は少し年をとっているが熟練した木こりで、もう1人はまだ若くて未熟ではありましたが体力にはめっぽう自信がありました。若い木こりは夜明けから日が暮れるまで休まずに斧をふるい続け、1日の終わりまでに25本もの木を切り倒しました。「これだけ切り倒せば、アイツに負けるはずがない。きっと今頃スタミナを使い尽くしてぶっ倒れているに違いない。」 一方熟練した木こりは「1時間ごとに10分間の休憩時間」を取りながら働きました。当然斧を使うのに費やした時間は若者よりもずっと少なかったわけですが、何と彼は1日の終わりまでに40本もの木を切り倒していたのです。若者は愕然として言いました。「こんな馬鹿な!アンタは俺よりも力がないばかりか、1時間ごとに10分もの休みを取りながら働いていたのに、俺の倍近くもの木を切り倒してしまうなんて?!」そこで熟練した木こりは答えました。「私は10分間の休憩時間に2つのことをしていたのさ。1つはゆっくり休んで体力を回復させること。もう1つは歯が鈍くなりつつある私の斧を十分に研ぎ直すことだよ。」 神は私たちを「休みなく働くように」とはお造りになりませんでした。私たちが与えられた才能や潜在能力を十分に発揮するためには「心身共に休養が必要」なのです。今日もイエス・キリストは私たち1人1人を招いて言われます。「わたしの許に来て十分に休息を取り、また『真の自分自身』を取り戻して、もう1度出て行きなさい」と。

(189) “すべてのことについて感謝しなさい。”

あなたは素直に物事を喜べる方ですか?それとも疑り深くてすぐに喜べないタイプでしょうか? 『感謝の心』というものは、単に「喜べることが起こった時に用いるもの」というだけではなく、それ以上のものです。すなわち『感謝の心』はあなたの中に「更に優れた喜びをもたらすための門」を開くのです。 『感謝の心』はあなたの心を良いリズムに保ち、あなたの中にあるストレスを軽減し、肉体的な健康を促進し、思考回路をクリアにします。また医学的にも『感謝の心』は脳や体内にエンドルフィンを放出させ、人体に活力を与えると言われています。肉体のどのような働きにおいても同様ですが、この『感謝の心』も使えば使うほど発達します。何も『筋トレ』のような大変さはありません。ただ単純に「思いの焦点」を変えればよいだけです。老人施設で暮らすある老婦人は神にこう感謝したそうです。「ああ神様、私に丈夫な『2本の歯』を与えてくださって本当にありがとう。そのうち1本を上にそしてもう1本を下に与えてくださってとても感謝です。しかも何とその2本はちょうどピッタリ噛み合うのです!」 あなたにもし家族がおられるなら、ぜひ毎日の食卓で1人1つずつ「今日出会った感謝なこと」を分かち合うようにしてみてください。このように『感謝の心』を育てることにより、家族皆が生き生きと人生を送れるようになり、そしてそれは周囲の世界にも影響を与えていくのです。ある作家はこのように書きました。「あなたがもし孤独を感じている人や落胆している人に『ほんの小さな感謝の気持』を伝えることができたら、この世界の幸福度はグンと上がるに違いありません。だってあなたがつい忘れてしまいがちなその『小さな感謝』が、それを受け取った人には『一生の宝物』になるかもしれないのですから。」

(188) “お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。”

『家庭内暴力』というものが問題視され始めて久しいですが、様々な対応がなされているにも関らず、発生件数やその激しさは日に日にエスカレートしています。一体何が原因なのでしょうか? 私が子どもの頃に比べて、現在の日本社会(に限らず世界全体でも…)が遂げた大きな変化は次の2つでしょう。それは「物質的豊かさ」と「人間関係の希薄さ」です。そしてこの2つは関連性があります。最も典型的な例が、『少子化』に伴って子供たちが家庭において兄弟関係の醍醐味を体験する機会が減った上に、「物を与えられて放っておかれること」を通して親からさえも『人間味のこもった愛情』を体験しにくくなっている現状です。そのような子供たちが大人になって結婚しても「豊かな夫婦関係を築くこと」は非常に困難であり、また生まれてくる子供を「人間らしく愛情深く育てていくこと」は更に無理があるのです。 人は誰でも豊かに生きる上で『生きた模範』また『正しく愛された経験』が不可欠です。家庭内暴力がエスカレートしてしまうのは、人生にとって必要不可欠なそれらのものを味わう場(本来なら『家庭』)が失われているからです。 イエス・キリストは十字架の上で虫の息になりながら「父(神のこと)よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか、自分で分からないのですから。」と祈られました。イエスが祈られたように、まさに私たちは自分で自分の人生をダメにしてしまっていることが分かっていないのです。そしてその根本的な原因は、私たち人間が「私たちを創造し、今日も私たちを愛しておられる神」を見失ってしまっていることなのです。 神は私たちがもう1度「神との壊れた関係」を修復することができるようにと、ご自身の側から『和解の使者』であるイエス・キリストを遣わされました。このイエスの十字架によって現された『自らをささげて赦す愛』を受け入れる(自分で体験する)ことによってのみ私たちは、人間が本来与えられている「愛に基づいた豊かな関係」を築いていくことができるのです。

(187) “何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心(思い)の一新によって自分を変えなさい。”

私たちは「自分のためにならない欲(誘惑)」からどうすれば解放されるのでしょう?例えばある人が体重を減らすために大好きな甘い物を我慢するとします。その人が一生懸命「甘い物を食べちゃダメ。甘い物を食べちゃダメ。甘い物を食べちゃ…」と繰り返せば解放されるのでしょうか? いいえ、むしろそれは逆効果でしょう。なぜなら私たちが何かに対して頻繁に思いを向けるほど、それからの誘惑が強くなるからです。誘惑から解放されるためには、むしろ「他のより優れたもの」に思いの『向きを変える』必要があります。私たちの敵は「甘味処」にあるのではなく「私たちの思いの中」に住んでいるからです。たとえ甘い物を買いに行かないために1日中家の中に閉じこもっていたとしても、私たちは相変わらず1日中「大好きな甘いもの」のことを考え続けることができてしまうのです。 イエス・キリストは、私たちの「罪を赦すため」だけでなく、私たちを「罪の誘惑から解放するため」にもこの世に来てくださいました。彼は地上での生涯を通して私たちに「何よりも魅力的で崇高なもの」すなわち『神との関係の中で生きること』を身をもって示してくださいました。病んでいる者には癒しを、悩む者には平安を、憎しみの中には赦しと和解をもたらされました。それは彼を通して『神の愛』を体験した私たちが、その愛に魅了され、その同じ愛を人々の間で流していく者とされるためです。 あなたはもうこの愛に出会いましたか?もしまだなら、世のハイペースで疲れきったあなたの思いを、このイエスに向けてみませんか?

(186) “それゆえ男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。”

上記のことばは『人間関係』に関して聖書に登場する最初のことばです。ここから次の2つのことが分かります。 第1番目は「『夫婦関係』というものがこの世の人間関係の中で最も基本であり、重視されるべきものであり、また最大限の努力をして守るべきものである」ということです。日本では夫婦の間で子どもが生まれると夫と妻がお互いを「お父さん」「お母さん」と呼び合うことが通例になっています。これは日本の家庭社会が『子供中心』に回っているということを如実に表しています。しかし聖書に照らし合わせてみるならば、この考え方は誤りです。「豊かな夫婦関係」あっての「子育て」であり、夫と妻は常にお互いが『最優先の存在である』ことを心に深く刻んでおくべきでしょう。 第2番目は「『豊かな夫婦関係』は夫と妻双方のたゆまぬ努力なしには育たない」ということです。夫婦関係はある意味『草花』のようです。心を込め手をかけて育てないと枯れてしまいます。しかもそれは「相手を変えようとする努力」ではなく「相手のために自分が変わろうとする努力」です。何度か離婚の悲しみを味わったある有名俳優は次のように言いました。「もう『自分にふさわしい相手』を探す努力はやめにします。その代わり『相手にふさわしい自分』になる努力を始めることにします。」 多くの夫婦が結婚生活を保つのに苦労している最大要因は「夫婦間の意見の衝突を上手に解決できない」ことです。どんなに気の合う夫婦でも、毎日顔を合わせるのですからどうしても『意見の衝突』が起こります。そして多くの場合「何とか自分を正当化しよう」としたり「言い争うのが嫌だから、心の奥にしまっておこう」としたりします。これは夫婦関係だけではなく、あらゆる人間関係をも壊すもとになります。 現代のような競争社会では「勝利すること」が善とされます。ですから意見が衝突した時にも「最終的な勝ち負け」を意識してしまうのです。しかし「誰かが勝利すること」は逆に「敗者を生み出すこと」にもつながることを忘れてはいけません。特に『夫婦関係』においては「一方が勝利すること」は「関係としての敗北」を表しています。夫婦間の衝突が起こった時は、「どちらかの勝利」を目指すのではなく、「たとえどちらか(自分?)が負けた」としても「夫婦としての向上(更に強い結び付き)」を目指すことが本当の勝利なのです。

(185) “キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。”

イエス・キリストは、十字架にかかる前の晩のいわゆる『最後の晩餐』の席で、目前に迫っている恐ろしい出来事に備えさせるためか、12弟子たちに次のようにおっしゃいました。「わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」 誰もが『変わることのない平安』を求めています。何故でしょう?それはこの世界があまりにも「変わりやすく」「移ろいやすい」からに違いありません。昨日まで新しいと思っていたことが、今日はもう古いと言われてしまう。昨日までは味方だと思っていた人が、手のひらを返したように敵に回ってしまう。そのような世界に生きている私たちは『変わることのない本物』を欲しているのでしょう。 多くの人々は「お金」「地位」「安定した生活」などに『平安』を見出そうとします。「これさえ手に入れれば、きっと幸せになれる。安心できる。」と思うわけです。しかしひとたびそれらのものを手に入れると、やがて襲ってくるのは『物足りなさ(「もっと欲しい」と思う気持)』でしかありません。私たちの外側にあるものは、決して私たちに恒久的な平安をもたらしません。 ある時『平安』というテーマの絵画展が開かれ、その中の1つの作品に注目が集まりました。その作品には画面いっぱいに荒れ狂う嵐の光景が描かれていました。しかしよぉく見ると、その中央付近に描かれている一本の木の枝に鳥の巣があって、その巣の中で一匹の親鳥が大きな翼を拡げてひな鳥たちを囲んで嵐から守っているのです。ひな鳥たちは外の嵐がうそのように安心しきって憩っています。 『真の平安』とはそのようなものです。たとえ周囲の状況がどうであれ、「わたしは大きくて力強い守りの中にいる」と確信して日々を生きることができるということ。これがイエス・キリストが言われた「この世が与えるのとは違う、わたしの平安」というものなのです。

(184) “風を警戒している人は種を蒔かない。雲を見ている者は刈り入れをしない。”

冒頭の聖書のことばは、何も『農民の心得』について語っているわけではなく、平たく言えば「理想的な状況が整うのを待っていたら、いつまで経っても仕事は進まない」というわけです。神を信じる者の歩みも同じことが言えます。 最近ある牧師が面白いことを言っていました。「『信仰』の反対語は、『不信仰』ではなく、『恐れ』である」と。すなわち、「心から神に信頼しているなら、逆境においても恐れず大胆に進んでいける」というのです。なるほどな、と思いました。『大胆であること』と『浅はかであること』が似てて非なるものであると同様に、『忍耐強いこと』と『臆病であること』も一見見分けるのが難しいですが、根は全然違います。真の『信仰』は、待つことが難しい時にも忍耐を可能にし、また前進が難しい時でも大胆な1歩を踏み出させてくれます。 三重苦を克服した人物として有名な『ヘレン・ケラー』はこんな言葉を遺しています。「どれほど万全を尽くしたところで『完全な環境』などというものはあり得ない。もしあなたが人生を『素敵な大冒険』として味わっていないとしたら、あなたは真の意味で『人生』を味わっていないのである。」 私たちの人生に『試練』や『挫折』が存在するのは、神が私たちを打ちのめそうとしておられるのではなく、かえって私たちが神ご自身を更に深く求め、その信仰を成長させるようにしておられるのです。恐れに対して『No』と言い、神の招きに対して『Yes』と答えながら、この『素敵な大冒険』進んでいきましょう。

(183) “隠されていることは、私たちの神、主のものである。”

神を信じようとする者にとって最大の試練と言えるものの1つは、「神がおられるなら、どうしてこんなことが起こるのだろう?」と言いたくなるような出来事に直面した時です。あるクリスチャンの作家は「神様、あなたはご自分が何をなさっておられるのか分かっていらっしゃるのですか?」というタイトルの本を出版しました。思わずそんな風に言いたくなる出来事が世の中には確かにあります。ではそんな時に私たちはどうしたら良いのでしょう? 聖書は「あなたがたに隠されていることは、神の領域であって、今はまだあなたがたが知らなくても良い。しかし既に現わされていることは、あなたがたのためであるのだから、それらをしっかりと握っていなさい。」と教えています。もっと分かりやすく言うならば、「理解不能なことから神を推し測るようなことをしないで、既に与えられている確かな情報(例えば『聖書』)を基に神について知り、またその神に信頼しなさい」ということです。 聖書は私たちに「神は私たち人間を愛しておられ、私たち1人1人の人生のために最高の計画を用意しておられる」と教えています。ですからこのことを大前提として、人生に起こる様々な出来事を理解しようと努めるのです。すなわち、私たちが神に尋ねるべき質問は「神様何故ですか?」ではなく、「あなたはこの出来事を通して、私にどんなことを学んで欲しいと願っておられるのですか?」なのです。 もしかするとある人は「そんな理屈は『この世に試練が存在する理由』を説明していない!」と憤慨なさるかもしれません。しかし驚いたことに、実際は「試練に出会ったことを通して、私は神を求め、また神を知るようになった」という人々がとても多いのです。神は、人をご自身の許に引き寄せるためであるなら、試練さえもお用いになるのです。

(182) “あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。”

あなたが誰かから手厳しい批判を受けた時には、大きく分けて2通りの適切な対応の仕方があります。 まず、もしその批判の中に「耳が痛いけど、確かに真理をついている」という部分があるなら、あなた自身がへりくだって反省し、成長の糧としてください。 またもし、それが全くいわれのない、デタラメな嫌がらせだったのなら、その時こそイエス・キリストの教えを実践する絶好の機会です。どういうことかと言うと・・・ 世の中には、特に正当な理由がないのに他の人に辛く当たったり、わざわざ人を困らせることをして楽しんだりする種類の人々がいます。そのような人々は大抵、過去に不当な取り扱いを受けて深く傷ついた経験があったり、他の人が自分よりいい目を見ているのが妬ましくて、ついそれらの人を自分のレベルまで引き下げようと躍起になっているのです。このような時には、反射的に復讐したくなったり、「こういう奴らをつけあがらせておくと世のためにならない」などと理屈を付けて、相手を徹底的にやりこめようとしてしまいがちですよね?しかしこれらの反応はイエスが私たちに示された方法ではないし、実際「復讐が復讐を呼ぶ」だけで、根本的な解決にはなりません。 イエスが「右の頬を打つ者には、左の頬を向けよ」とおっしゃった時、一体何を意味されたのでしょうか?それは「敵の外側からの攻撃で、内側までダメージを受けてはならない」ということです。私たちが傷つけられ人生の道を踏み外すきっかけとなるのは、「外側の痛み」ではなく、その原因を自分で勝手に解釈することによって生み出す「内側の苦々しさ」です。受けた攻撃が不当であればあるほど、それを自分の内側で何度も反芻することは無意味です。そのような攻撃はむしろ軽く受け流し、あなたの心はもっと他のことがら(あなたを正当に評価してくれる人の言葉や、あなたの成長のために適切な批評をしてくれる人のアドバイス)に向けるべきです。これらのものにあなたの心がしっかりと向けられているなら、誤ったくだらない評価にいちいち捕らわれていることが時間の無駄に思えてきます。 聖書は、あなたを「愛をもって正しく評価してくださる」神からの励ましの言葉に満ちています。今日もこの聖書のことばに深く耳を傾け、不当な攻撃を受け流す知恵と力を身に着けていきましょう!

(181) “からだのあかりは目です。”

神は人体を実に精密に造られました。今日は『目』の機能のいくつかを例にとって見てみましょう。 目が適度に湿り気を保ち、またいつも清潔さを保っているために、定期的な分泌物が供給される必要があります。これが『涙』です。涙はどんな目薬よりも複雑な構造であり、完璧に目を守ることができます。涙は「ムチン層・涙液層・油層」という3重構造からなり、目のための豊かな栄養がしっかりと目の表面に定着し、また簡単に蒸発してしまわないようになっています。実際涙は目を乾きから守るだけでなく、目の表面を常に平らに保ち、物がキチンと見えるようにも助けています。また眼球の透明な部分『角膜』には血管が通っていないので、代わりにこの涙が目に必要な酸素などの栄養素をも届けているのです。 また、この涙の分泌を促しているのが『まばたき』です。目の表面には「目の状態を感知するセンサー」があって、このセンサーが常に働いて自然にまばたきをするようになっています。通常は3秒に1度くらいまばたきをするものですが、これがパソコンの使いすぎや暗い部屋での作業などで目を酷使したときには、更に頻繁に起こるようになり、目の健康を保ってくれるのです。 ところで皆さんは「突然暗い部屋に入ったときに、目がだんだん慣れてくる」という現象を体験したことがあるでしょう。実はそのような状況で、皆さんの目は普段の10万倍もの能力を発揮しているのです。どんな高性能のカメラでも、その足元にも及びません。また私たちの2つの目は驚くべき共同作業で、私たちが見ようとするものに対して完璧にピントを合わせてくれているのです。 更に驚いたことに、私たちの目を守る『涙』には2種類あって、前述のような「日常生活の中で目を健康に保つもの」のほかに、「目にゴミが入ったり、玉ねぎが目にしみたりした時に出る涙」があります。こちらは上記の涙と違って「洗い流す」という使命があるため、「定着させる成分」が含まれていないのです。まるで何か意志を持った力が背後で指令を出しているかのようです。まさに『神秘』です! 全く神様のなさるわざには驚かされますよね。これらの人体の特徴が「単なる偶然の進化によって起こった」と信じている「進化論」提唱者たちの『妄信』にあきれませんか?

(180) “人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。”

ある男性が、何年もの結婚生活の末、妻との離婚を決意し、結婚カウンセラーの許に相談に訪れました。彼は離婚の意志を固めた理由を次のように述べました。「とにかくひどいもんです。妻は身だしなみもしようとしないし、冗談も通じないし、体形のことも省みません。家事もろくにできないし、はっきり言って魅力のかけらもないんです!」黙って聞いていたカウンセラーはここで大変有用な1つのアドバイスをしました。「分かりました。それでは離婚の準備に当たって、少しでも離婚調停を有利に進めるために、今日からしばらくの間、できるだけ『良い夫』としてふるまってください。まずできるだけ毎日仕事から早く帰宅するように心がけ、家に足を踏み入れたら、奥様に対してまるで『女神』に対するかのように優しく接するのです。何か魂胆があるかのように悟られてはいけません。ともかくすべての努力をして奥様を喜ばせようと努め、彼女のくだらない話にも熱心に耳を傾け、できるだけ家事を手伝い、そうそう、週末にはぜひディナーに連れ出すといいでしょう。何しろ相手は『女神』なのですから、時に応じて彼女の美しさや振る舞いに特別な言葉で賛辞を送るべきことは言うまでもありません。これだけしておけば、離婚調停において事があなたの側に有利に運ぶこと請け合いです。ではまた2ヵ月後にご連絡いたします。」 男は非常に満足し、一大決心をし、その日はバラの花束を抱えて帰宅しました。週末には妻をロマンチックなレストランへと連れ出し、毎晩寝るときには素敵な詩を読んで聞かせました。家事には積極的に協力し、妻の愚痴にも熱心に耳を傾け続けました。そのように過ごしていたある日、カウンセラーから電話が入りました。「さて、お約束の2ヶ月が過ぎましたが、離婚調停を進める用意はいいですか?」男は答えました。「離婚?一体何のことをおっしゃっているんですか?私は『女神』のような妻と生活しているんですよ!このような女性を妻にしているのに離婚を考えるなんて愚か者のすることですよ。悪い冗談はやめてください!」 この男は、以前は誤った種を蒔き続けていたために質の悪い実を得ていましたが、良い種(愛の種)を蒔き始めたら良質の実(麗しい結婚生活)を刈り取れるようになったのです。あなたは何か悪い種を蒔いてきたことによって大切なものを失いかけてはいませんか?今からでも、このカウンセラーのアドバイスに従って、良い種を蒔き始めてみてはいかがでしょう?

(179) “たとい法令にそむいても私は王のところへ参ります。私は、死ななければならないのでしたら、死にます。”

2006年に映画化された「One Night with the King」(日本語タイトル:『プリンセス・オブ・ペルシャ』)のもとになっている聖書の中の書物『エステル記』の主人公エステルは、彼女の同胞であるユダヤ民族のいのちを救うため、自分のいのちの危険を顧みず、法令にそむいて王の前に立ちました。(結果は、自分のいのちもユダヤ民族も助かるのですが…) あなたは何か「いのちを燃やす」ことがらに取り組んでいますか?それとも『無難』に日々を費やしていますか?もしかしたら「どうせ自分になんかたいしたことは成し遂げられやしない」と最初からあきらめムードですか?だとしたら、エドワード牧師が遺した次の言葉に耳を傾けてください。「私はちっぽけな1人の人間に過ぎない。しかし少なくとも1人の人間である。私には多くのことはできないかもしれない。しかし何かはできるに違いない。だからこそ、多くのことができないからといって、できることをもあきらめてしまうようなことは決してしない!」 この天地万物をお造りになった神様が、あなたをもお造りになられました。神はそのお造りになられた人間1人1人に「夢を持つ心」をお与えになりました。1人1人違った(ユニークな)夢です。もしあなたがその夢を追うことなしに人生を終えてしまうなら、その夢は永遠に実現される機会を失うのです。ある詩人は次のように書きました。「世界で最も悲しい言葉は、『もしかしたら、こうなれたかもしれないのに…』である。」 あなたの人生はまだ終わってはいません。いかがでしょう?今からでもそのいのちを燃やしてみませんか?あなたの人生の本当の終わりが来たときに「何だか自分の人生は、他の人の目ばかり気にしたものだったなぁ」などと振り返るのではなく、「私は神が私にだけ与えてくれた『夢』を追って、精一杯走りきることができた」と告白できたら何と幸いでしょう。その夢を追い始めるのに、まだ遅すぎることはありません!

(178) “あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。”

社会に大きなインパクトを与えるような活動も、大抵の場合『ほんの小さな1歩』から始まるものです。マザー・テレサは「貧しい人々の役に立ちたい」という願いを神様から与えられ、たった1人でインドのカルカッタへ出かけ、誰も関心を払わないような道端で倒れて死にかかっている人々に手を差し伸べました。彼女は社会から忘れ去られた取るに足りない人に、ひたすら自分の心と思いの限りを注ぎ尽くしたのです。彼女は自分のちっぽけな働きがやがて世界中の注目を浴びるなどと思いも寄りませんでした。彼女の心の中には「神の愛に応えたい」という純粋な気持ちだけがあったのです。 もし大きな夢や目標を抱いて毎日を過ごしているのでなければ、私たちが行なっている1日1日の営みはあまりにちっぽけで虚しく感じられるに違いありません。しかしその「小さな営み」がやがてもたらそうとしている『大きな完成』を見つめていることができるなら、たとえ今していることがどんなに小さくても、私たちの心はワクワクしてくるのです。 3人の人々がそれぞれレンガを積み上げていました。1人目の人に尋ねました。「何をしているのですか?」 するとその人は不機嫌そうに答えました。「見りゃあ分かるだろ。レンガを積んでるんだよ!」 2人目の人に尋ねました。「何をしているのですか?」 彼はニヤリとして答えました。「1時間千円さ。結構いい稼ぎだろ?」 3人目の人に尋ねました。「何をしているのですか?」 するとこの人は興奮しながら目をキラキラ輝かせて答えました。「立派な城を建ててるんだよ。これはその大切な土台の1部分なのさ!」 私たちの日々の営みはあたかもこのレンガを1つずつ積み上げているようなものです。大切なのは、その行為そのものではなく、「どこへ向かって(何を見つめて)それを行なっているのか」ということです。あなたは3人目の人のような心を躍らせる「人生の偉大な目標(ゴール)」を持っていますか?それを与えることができるのは、あなたをこの世界に送り出された『天地創造の神』 ただ1人なのです。

(177) “ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼(息子)を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。”

聖書は『ただ1人の神』について語りますが、しばしばそれは読み手である私たちが抱くイメージによっていろいろに様変わりします。ある人は『神様』と言えばすぐに「雲の上におられる白いヒゲの柔和なおじいさんで、何でもお願いを聞いてくれる」と思い描きますが、別のある人は『神様』と聞くと反射的に「怒りっぽい大王で、手にムチを持っていて、いつも私たちを見張っていて、失敗するとバチをあてる」とイメージします。 しかし聖書が私たちに伝えようとしている『神様』はそのどちらとも違います。イエス・キリストはまさに私たちのそのような誤解を解くためにこの世界に来られ、その教えと生き様とを通して『正しい神のイメージ』を私たちに伝えようとされたのです。彼が伝えた神のイメージ、それは言うなれば『愛に病む父』です。 神は私たち人間をお造りになられました。それは私たちが神との「愛の関係」を保ちつつ、この地上に増え拡がって行くためです。ところが私たち人間は「自分の益」に心を奪われ、神を見失い、他の人々への思いやりも忘れて「自分のこと」に終始するようになってしまいました。そのような私たちの様子をご覧になり、私たちの生みの親である『天の父』は日々心を痛めておられるのです。 神の求めておられるのが、単なる『従順な子供』としての私たちではなく「私たちとの愛の関係」であるため、神はそれを「無理強いする」ことができません。ただひたすら私たちがその愛に気づいてご自身の許に帰ってくるのを「待ち続ける」しかないのです。この『神の愛』に応えるためにあなたにできることは「一生懸命『良い子』を演じること」ではなく、この天の父の愛に向かって振り向いて「今までお待たせしてごめんなさい。これからはぜひ一緒に生きて行きますから、どうぞよろしく!」と言うことなのです。

(176) “私は、いのちと死、祝福とのろいを、あなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい。”

神が人間に与えた最も『神秘的な能力』の1つは、恐らく「自由意志による選択能力」でしょう。神は人間をお造りになった時、ご自身の好みに合わせて動く「ロボットのような存在」を造ることもおできになりましたが、敢えて私たちのような『気分屋』で「その場の雰囲気に流されやすい」非常に危なっかしい存在として人間をお造りになりました。 私たちは1日の中で、様々な『思い』を持ちながら生きています。「もうそろそろ起きなきゃ…」とか、「お昼は何を食べようかな?」とか、「この仕事をどうやって定時までに終わらせられるだろう…」などなど。そのうちのほとんどの思いはたわいのないものですが、いくつかは私たちに大きな精神的プレッシャーを与えるものもあります。私たちは「自分の思いは、自分ではコントロールできない」と思いがちですが、決してそんなことはありません。実は神様はそのために私たちにこの神秘的能力である『自由意志』をお与えになったのです。私たちは日々繰り返される「自分の意志による選択」によって私たちの人生(人格)を形造って行くことが許されているのです。私たちは「その場しのぎ」の選択繰り返すことによっていわゆる『逃げの人生』を送ることもできますし、「しばらく後に得られるであろう大きな利益」を期待しつつ、敢えて忍耐を働かせて「正直で正しい選択」を繰り返していくこともできます。そしてこの『正しい選択』を助けてくれるのが、「神の言葉」である『聖書』であり、またその聖書が私たちに教えてくれる「私たちの神は善き父である」と信じる信仰なのです。 『正しい選択』は、初めのうちは多くの忍耐を必要とされるかもしれませんが、それを繰り返し行なっていくことによって習慣化し、より自然な形で正しい道を選び取っていけるようになるものです。この「繰り返し行なうことによって習慣にすることができる」というのもまた、神が人間に与えた『神秘的な能力』に違いありません。

(175) “私を大いに祝福し、私の地境を広げてくださいますように。”

私たちが神に何かを祈る時、「災いを与えてください」とは祈りませんよね?普通は「私を祝福してください」と祈るはずです。そこまでは良いのですが、私たちは自分のための祝福や成功を祈りはしますが、「環境が変わること」や「新しいことに挑戦すること」は好みません。『現状維持』が好きなのです。 神は私たち人間を愛しておられます。そしていつでも私たちを祝福したいと願っておられます。神は私たち1人1人を通してご自身の『栄光』(神の優れたご性質)を表現したいと望んでおられるのです。それによって全世界が神の偉大さを知るようになるためです。ですから私たちが「大いに祝福されること」が神のみこころなのですが、それを手にする人々は多くありません。何故でしょうか?それは、神がご自身の『大きな祝福』を携えて「この祝福を受け取るために今抱えているちっぽけなものを手放す勇気のある者はいないか?」と探し回る時、その『今抱えているちっぽけなもの』を捨てて大胆に神に向かって名乗りをあげる者があまりいないからです。 聖書に「信仰がなければ神に喜ばれることはできない」と書いてあります。『信仰』とは、まだ見ていないものを深く確信して大胆に行動を起こすことです。私たちはあまりにも『目に見えるもの』に捕らわれすぎてしまって、神が与えようとしている「私たちの思いを超えた祝福」を信じられないでいるのです。ですから私たちはこう祈るべきです。「神様、あなたが私のために用意してくださっている『大いなる祝福』を受け取ることができるように、私に信仰によって新しい1歩を大胆に踏み出させてください!」

(174) “愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し…”

どんなに親しい間柄にも『意見の食い違い』はつきものです。本当の意味での『豊かな人間関係』というものは、「自分の本心を隠して相手に合わせること」ではなく、むしろ「相手を恐れずに自分の本心を正直に打ち明けること」から始まります。ここで非常に大切になるのが「『意見の不一致』や『口論』を正しく解決することのできる能力」です。 ちょっとした口論が原因で夫婦関係や親子関係、そして親しい友人関係に亀裂が入ってしまうことがよくあります。どうしてなのでしょう?それは「口論のフォーカスを『元々の原因』から『相手の人格』へと移してしまうこと」に大きな原因があります。例えばよくあるパターンは「全くアナタはいつもそうなんだから!」とか「お前のそんなところは、お前のお袋にそっくりだ!」などという捨てゼリフで口論を終わらせようとすることです。そうではなく、むしろ「夕食に遅くなる時は、ちゃんと連絡して欲しいわ。せっかく出来たてのお食事を食べさせてあげたかったのに…」、または「昨夜のパーティの時、皆の前でキミに言われたことに、ボクはとても傷ついたよ」というように、問題の焦点をはっきりさせた発言をするのです。どちらの場合も双方に『怒り』『悔しさ』『驚き』などがあることに変わりはありませんが、少なくとも言われた方は「何をどう反省し、どのように自分の行動を変えたらよいのか」が分かるので、関係を成長させるきっかけがずっとつかみやすいのです。 大切なことは「口論に勝利すること」ではありません。「不一致の原因を突き止め、それを共に克服し、お互いの関係を成長させること」です。そして相手をおもいやる『愛の心』をもって、あなたの怒りの原因を正確に伝えるならば、あなたの言葉は相手にとってずっと受け入れやすいものとなるのです。

(173) “私たちは見るところによってではなく、信仰によって歩んでいます。”

『信仰』というと、何だか分かるような分かんないような、あやふやなものといった印象があるかもしれませんね。1つの解りやすいたとえは、「盲導犬に信頼する盲人の感覚」でしょうか? なぜ盲人は盲導犬に信頼するのでしょう?それは盲導犬は盲人には見えないものが見えるからです。そして盲導犬は「いつ・どこで止まり、どちらへ向きを変え、どのタイミングでまた歩き出すのか」を、ハーネスを通して盲人に伝え、盲人はそれを注意深く受け取り、それに全幅の信頼を寄せて行動するのです。これが、もし「おかしいな。いつもはこの角でこんなに長く止まっていることはないのに…。これはきっと犬が何か勘違いしているか、または私に意地悪しているに違いない。こんな奴に従ってまごまごしているわけにはいかない。自分の感覚に頼って、もう行ってしまおう!」などと、盲導犬に逆らって進もうものなら、たちまち私たちの人生は危険にさらされてしまいます。 私たちが神に信頼して歩む人生もこれによく似ています。私たちには1秒先のことも解りません。そういう意味ではまさに『人生に関する盲人』のようなものです。それなのに私たちは無謀にも先を急ぎたがります。「なぜこのタイミングでこんなに長く待たなければならないのだろう?もっと早く進んでいきたいのに…」とじれったく思うこともあるでしょう。しかしそれは、今急いで先に進むと、何か危険が潜んでいるからに違いないのです。 神は時空を超えた方です。また彼は私たちを深く愛し、慈しんでおられます。誰よりも私たちの最善を望み、そして導いてくださる方なのです。ですから、盲人が盲導犬に深く信頼して、その歩みを任せているように、「神は私よりも優れた方である。また彼は私を愛し、私のために最善の道を歩まそうとしておられる」そう信じて、自分の感覚よりも『神の導き』を敢えて選んで進むこと、これが聖書の教える『信仰』なのです。

(172) “神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。”

日本の昔物語に『彦一ばなし』というものがありますが、その1つに彦一が『隠れ蓑』を着ていわゆる「透明人間」になっていたずら三昧をするくだりがあります。いくらいたずらをしても何しろ姿が見えないわけですから、被害者たちは「目に見える周囲の誰か」を疑って互いに疑心暗鬼になってしまうわけです。 実は私たちの周囲にも同様に「私たちの目には見えないところで悪さをしている存在」がいます。それが聖書の教えるところの『悪魔』です。悪魔は何も「角がはえている黒装束の魔物」というわけでも「驚異的な力をもって私たちに襲い掛かってくる怪物」でもありません。むしろもっと巧妙に「思いの中に働いて私たちをだまし、私たちの自尊心や人間関係を破壊」しながら、私たちの心が『真の神』から離れていくようにと仕組んでいるのです。 では、そのような悪魔の巧妙な働きに対抗する術があるのでしょうか?もちろん、あります!そしてそのためには下記の2つのプロセスが必要です。 1.悪魔の存在を認める。 あなたが「『悪魔』なんてそんな馬鹿げたものはいやしない!」と言っている間はあなたは見事に悪魔の術中にはまってしまっています。透明人間に対して私たちがなす術を持たないように、悪魔の存在を認めない限り、あなたは悪魔のしわざに対して勝ち目はありません。 2.「キリストを通して現された神の愛」を受け入れる。 私たちがキリストを自分の救い主として受け入れるならば、キリストは私たち1人1人の内に住んでくださいます。そして聖書は次のように断言しています。「私たちのうちにおられる方は、この世のあの物(悪魔のこと)よりも力がある!」 この世ではいわば「神様と悪魔の勢力争い」が繰り広げられています。神は悪魔よりも優っている方ですが、私たち人間を「思い通りに操ろう」とはなさいません。あなたが『神の勢力』に入れられ、悪魔に対する勝利の人生を送るためには、あなた自身の決断が必要なのです。

(171) “苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。”

『発明王エジソン』は、単に「発明の天才」であっただけではなく、「失敗に対処する天才」でもありました。ある日彼の実験室で大きな爆発音が起こり、エジソンが慌てて駆けつけると、彼の弟子たちが申し訳なさそうに言いました。「先生、これでもうこの実験に何度失敗したか分かりません。」するとエジソンはこう応えたそうです。「諸君、それらを『失敗』と呼んではいけない。『学習』と呼びなさい。何故なら諸君は既に『こうしてはダメだ』といういくつもの方法を経験によって学んだのだから。」 何かに失敗してしまった時に私たちが問うべき質問は「何でこんなことをしてしまったんだろう…」ではなく「この状況にどう対処することが最善なのだろう?」という問いです。失敗を責めることはかえって新たな失敗を生むきっかけになります。しかしその失敗を前向きに捉え、解決の糸口を捜そうとする態度は、私たちを成長へと導きます。 『成長』とは「目標地点」ではなく「そこに至るまでの道のり」のことです。神はもちろん私たちが「目標地点に達すること」を私たちと共に喜んでくださいますが、それ以上に、つまずいたり途中で転んでしまいながらも「目標地点を目指して1歩1歩進んでいく私たち」を大いに喜び、共に歩んでくださるのです。聖書が教える神は「怒りっぽくてあきれ果てる神」ではなく、「忍耐と赦し、そして励ましに満ちた神」なのです。

(170) “この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。”

ある家庭や個人に立て続けに不運が襲ったりした時、それらの人々のことを評して「あの家庭(家系)は呪われているに違いない」などと言う人たちがいます。とても悲しいことですが、実際ある精神科医のグループの研究によると、暴力癖のある人々の90%は自分が以前に誰かの暴力にさいなまれていた経験があるそうです。すなわち「誰かから受けた心の傷が、その人の性質に同様の習性を養ってしまう」ということなのでしょう。ですから親が何らかの中毒症状(アルコール・タバコ・麻薬、その他)を持っていた人たちは、他の人たちよりもずっと同様の中毒症状に陥りやすい危険性を持っていると言えます。 恐ろしいことにある種の宗教活動グループは、このような人間の弱さや傾向性を逆手に取り、「あなたの家系は呪われているからOOをしなければならない」とか、「その呪いを断ち切るためにはOOを購入しなければならない」などと人々を脅して入信させようとしたり資金稼ぎをしたりしているようです。これらは許しがたい行為です。 これらの私たちの弱さに関して、イエスは全く違った見解を示されました。彼は「それらのあなたがたの弱さは、単に神の偉大な力が現されるための機会の1つに過ぎない」とおっしゃったのです。言葉を換えれば「その問題がたとえあなたにとって大きすぎて乗り越えられないとしても、神にとってはあなたのために解決できないほど大きすぎる問題など存在しないのだ」ということです。 使徒パウロは「誰でもキリストのうちにあるなら、その人は『新しく造られた者』である」と言いました。イエスにとってあなたの『過去』がどのようであったかは問題ではありません。イエスはあなたに『全く新しい未来』を用意して、あなたが彼のところにやって来るのを待っておられるのです。

2015年6月14日 「心に書かれた『御霊のことば』」

メッセージをダウンロードして聴く 説教あらすじ       「心に書かれた『御霊のことば』」     (14/06/2015) *教会(私たち)が与えられた使命を全うするために必要不可欠なもの = 『聖霊』 ・イエスは言われた。[ヨハネ6:63]  では、「イエスの語られたことばが『霊』であり『いのち』である」とは? ◆『御霊のことば』[Ⅰコリント2:11-13] ・聖霊は、私たちが彼の働きに心を開くなら、イエスのことばを私たちに個人的に取り次ぐ。[ヨハネ14:26] ・この『御霊のことば』は、私たちの心に刻まれ、いのちをもって働きかける。[Ⅱコリント3:3, エレミヤ31:31-34] ◆この『御霊のことば』がどのようにして教会の中で働くのか?[Ⅰコリント12:7, 13, 27] ・「みなの益となるために」 ― 「個人の益」ではなく「互いの益」。すなわち「キリストのからだの益」のため。 ✯私たちの使命は、それぞれの心に書かれた『御霊のことば』をキリストとの親密な関係の中で読み取り、 「御霊が与える愛と自由」を通して大胆に表現して行くこと。   Outline of the sermon  “‘Spirit-taught words’ written in our hearts.”  (14/06/2015) *What is essential Read more…

(169) “あなたがたは世のものではなく、かえってわたし(イエス・キリスト)が世からあなたがたを選び出したのです。それで世はあなたがたを憎むのです。”

クリスチャンになったばかりのある方はこんな風におっしゃることがあるかもしれません。「せっかくキリスト教を信じたのに、少しも問題がなくならない。こんなことならば信じなければよかった」と。 聖書は私たちに「主イエスを信じたならば問題はなくなる」とは約束していません。いや、かえって問題は増えることが多いのです。何故なら私たちが聖書の原則に生きようとする時、それはしばしばこの世の流れに逆らうことを意味するからです。 『この世の流れ』は私たちに「できるだけ楽をして儲ける」ようにといざないます。しかし聖書は「たとえ自分が損をすることになっても、正義と公正を求めて生きるように」と勧めます。そこにはしばしば衝突が起こり、私たちは「何の疑いも感じずにこの世の流れに流されている人々」とうまく人間関係を保てなくなるのです。 では、イエス・キリストと共に生きることにどんな益があるのでしょうか?それは、そのような試練の真っ只中に「神が共にいてくださる」ということです。この世の流れに流されるというのは、すなわち「おのれを神とする」もしくは「この世を支配している悪魔の権威の下に生きる」ということを意味します。そしてそのような生き方には神は関与なさらないのです。神はご自身を歓迎し、喜んで彼に従って生きようとする者と共に、その人生を歩んでくださるのです。

(168) “夫は自分の妻を自分と同様に愛しなさい。妻もまた自分の夫を敬いなさい。”

インドに『タージマハル廟』という大変優れた歴史的建築物があります。これはインドのある王様が、愛する妻のために建てた『お墓』なのですが、その建設にまつわるこんなお話しがあります。 インドの王『シャー・ジャハン』は、その最愛の妻を失った時、彼女への思いを何とか形にして遺しておきたいと思い、彼女のために壮大なお墓を建てようと決意しました。王は妻の遺体をお棺に納め、広大な土地の真ん中に置き、そのお棺を中心にして大工事が始まりました。ところがこの大工事が進むにつれて、王の心は「妻を偲ぶ思い」から徐々に「この大プロジェクトを完成させること」へと夢中になっていきました。そして何年かが過ぎたある日のこと、王はこの工事現場を視察している最中に、1つの木箱につまずいて転んでしまいました。王は怒りに燃えて「誰だ!こんなところに邪魔な木箱を置いた奴は!さっさとどこか邪魔にならないところへどかして来い!」と怒鳴りました。この木箱が『最愛の妻の納められているお棺』だったことに王が気が付いたのは、何ヶ月間も後になってからだった、ということです。 どんな夫婦でも、最初は深く愛し合って結婚したことでしょう。しかし長い結婚生活の間に、それぞれの『大プロジェクト』(それは「子育て」だったり、「仕事」だったり、「マイホームプラン」だったりするかもしれませんが…)に熱中するがあまり、本来の目的 『結婚相手のことを最高に幸せにすること』 を見失ってしまっているかもしれません。 ぜひ今日もう1度あなたの妻または夫にこう尋ねてみてください。「あなたを最高に幸福にするために、私にして欲しいことは何ですか?」

(167) “粘土が陶器師の手の中にあるように、あなたがたも、わたし(神)の手の中にある。”

やること為すことがうまく運んでいる時は、誰でも「前進している」という手応えを感じることができますが、何をやっても思い通りに行かない時は「全然前に進んでいない!」とガッカリしたり、落ち込んでしまうのが私たちの傾向ですよね?私たちはいつでも『目に見える進歩』に一喜一憂してしまうものです。しかし私たちの向上というものは、必ずしも目に見えている状況から判別できるものとは限りません。 皆さんは『粘土遊び』をしたことがあると思いますが、多くの方はもう1歩進んで『焼き物作り』にも挑戦したことがあることでしょう。どちらも初めにやることは「よく粘土をこねること」なわけですが、その目的は異なります。すなわち『粘土遊び』のために粘土をこねるのは単に「作業を簡単にするために、粘土を柔らかくするため」ですが、『焼き物作り』のために粘土をこねるのは「土の中にある空気を押し出して、後で出来上がった作品がダメになってしまうのを防ぐ」という大変重要な過程なのです。ですからプロの陶器師はことさら長い時間をかけて丹念に粘土をこねます。 聖書のある箇所で、神様は『陶器師』そして私たちはその手の中の『粘土』にたとえられています。神様は私たちを最高傑作へと形造るために、まず丹念に時間をかけて私たちを練ります。この間粘土の見た目は何も進歩がありません。もし粘土に感情があったなら「おいおい、痛いばかりで何も進歩がないじゃないか!」と思わず文句を言いたくなるかもしれません。しかしここで重要なのは『見た目の変化』ではなく『作品に対する陶器師の意気込み』です。私たち人間は生来「できるだけ楽をして成功したい」と考えますが、陶器師である神は『最高傑作を造ること』しか考えていません。逆境に立たされた時、私たちは「環境によって簡単に変化させられてしまう『自分の気持ち』」ではなく、「私たちを最高傑作へと形造ろうとしておられる『神様の愛と情熱』」に信頼して、その逆境の向こう側にあるはずの『完成へのプロセス』を遥かに望み見ながら喜ぶことができるのです。

(166) “聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。”

私の大学時代の専攻は『教育学部の国語科』でした。ですから、日本語のいわゆる文法構造とか文章の読解などが専門だったわけですが、文学作品や論説文などを読み解くのに大変役に立ったスキルの1つは「作者の視点に立つ」ということでした。その作品の著者が「読者に一体何を伝えたかったのか」を考えながら、ひたすら筆者の思いを追求していく時、徐々にその作品の深みを味わえるようになっていくのです。 「聖書の内容はどうも分かりにくい」という声をしばしば耳にします。実はその理由の多くは、聖書を『単なる書物・学術書』と考えていることが原因です。聖書は、この全宇宙を造り、そして私たち人類をお造りになった『創造主である神』が、私たち人間の益のために与えた書物です。いうなれば、その著者は『神ご自身』なのです(もちろん、それらを実際に文字として書き表すためには、人間を用いたわけですが…)。従って、その内容を正しく理解し、私たちの人生に有益なものとして生かしていくためには「著者である神の視点」「神の私たちに対する深い思い」を心に留めることが必要です。しかし一体そんなことがどうしたら可能になるのでしょう? 神は「ご自身に信頼し従う者に『聖霊』を注がれる」と聖書に書いてあります。そしてまたこの『聖霊』という方に関して、別の箇所では『キリストの心』であると表現されています。すなわち、聖書の著者である神は、神に信頼しその心を己れの心として生きようとする者が、聖書の内容をおのずと理解できるようにしてくださっている、ということができるでしょう。別の言い方をするならば、聖書を理解する度合いは、読者の学歴の高さや読書量の豊富さに比例するのではなく、むしろ「自分の足りなさを自覚し、神に頼りつつ人生を正しく生き抜こうとするへりくだった信仰」の度合いによるのです。

(165) “神の命令とは、私たちが御子イエス・キリストの御名を信じ、キリストが命じられたとおりに、私たちが互いに愛し合うことです。”

「聖書の教えの中で最も大切なものは何ですか?」もしかしたら多くの方々がそんな疑問を持っておられるかもしれませんね。いろいろな答え方ができると思いますが、私ならきっと次のように答えるでしょう。「イエス・キリストを信じ、互いに愛し合うことです」と。 「キリスト教は『愛すること』を強調する」と多くの方々が理解しているようですが、実はそれだけでは的を得ていません。何故なら聖書が説く『愛』は「ヒューマニズムの愛」ではなく「神から来る『無償の愛』」だからです。この愛は「にもかかわらず」の愛であり、いつまでも続く「尽きることのない」愛です。すなわちこの愛は、人から出て来るのではなく、私たちの内に住まわれる『キリスト』がご自身の愛を私たちを通して表現されるものなのです。 聖書は、キリストの十字架上での死を「自分の罪のための身代わりの死」として受け入れた者の内には、キリストご自身が『神の霊』として住まわれる、と教えています。そして『神の愛』はその神の霊を通してまずその人の心に注ぎ込まれ、またその人を通してその周囲の人々へとあふれ出て行くのです。ですから「キリストの十字架を通して現された神の愛をまだ受け取っていない人」は、真の意味で『愛すること』ができないのです。 あなたは『愛する人』になりたいですか? 神からの『無償の愛』を受け取りたいですか? もしあなたが本気で求めるなら、それはあなたの手の届くところにあるのです。

(164) “知恵のある者はこれを聞いて理解を深め、悟りのある者は指導を得る。”

今日は、ある愛犬家の遺した詩をご紹介します。 「もしあなたが『カフェイン』を摂取することなしに1日をスタートすることができ、かつ『強壮剤』なしに日々を乗り切ることができたとしたら、またもしあなたが体や心の痛みをものともせずに、いつも機嫌よく過ごすことができたとしたら、またもしあなたが嫌なことに出くわしてもブツブツ文句を言わず、周囲の人までも嫌な気分にさせることを避けることができたとしたら、またもしあなたが毎日同じ食事ばかり食べているにも関わらず感謝の心に満ちていられたとしたら、またもしあなたが愛して止まない人が忙しさのあまりあなたのために少しも時間を割いてくれなくても、そのことを理解してあげられたとしたら、またもしあなたの友人があなたへの配慮をすっかり忘れてしまっていても、それを気持ち良く赦してあげられたとしたら、またもしあなたではない誰かの落ち度のために物事が悪い方向へ進んで行くのを見て、あなたの友人があなたに向かって当たり散らすのを大目に見てあげられたとしたら、またもしあなたが人々からの批判や責めを少しも気を悪くすることなく受け止めてあげられたとしたら、またもしあなたが友の無学さを見てもあきれることなく、またそれを修正しようともしないでいられたとしたら、またもしあなたが金持ちの知り合いと貧乏な知り合いとに対して全く何の差別もなく接することができたとしたら、またもしあなたがこの世にあってほんの少しのウソもごまかしもなく生きていられたとしたら、またもしあなたが精神的緊張や疲労を何の医学的助けもなしに乗り越えて行けたとしたら、またもしあなたがお酒を一滴も飲むことなしにいつもリラックスしていられたとしたら、またもしあなたがお酒や薬の助けを借りなくても毎晩ぐっすり眠れているとしたら、またもしあなたが心の底から正直な気持ちで『自分はどんな宗教の信者も、人種も、またどんな主義主張を奉ずる人でも、決して偏見をもって扱うようなことはしない』と言い切れるとしたら、もし本当にそうなら、友よ、あなたはきっと、あなたの犬に優るとも劣らない立派な人間に違いない。」 お互い『犬にも負けない人生』を送りたいものですね。神様の憐みと祝福がありますように。

(163) “あなたがたは、世にあっては患難があります。”

皆さんは、小舟で大海を旅したことはありますか?まあそのような体験をするチャンスは滅多にあることではないと思いますが、実は私と私の長男はそんな経験があるんです。私たちがバヌアツ共和国において宣教師として働いていたある日、7~8人乗りの貨物船(『小舟』ではありませんが…)に乗せてもらって、1日の道のりを旅するはずが、途中で大嵐に遭ってしまって、丸3日大海を漂いました。いやあ、実に忘れられない体験でした。 聖書に登場するエピソードで、イエス・キリストが12弟子たちと小舟でガリラヤ湖を渡る場面が出てきます。途中で嵐に遭ってしまい、弟子たちは非常に怯えてイエスに助けを求めます。するとイエスが風や波を鎮めてくださって事なきを得る、というストーリーです。 ここで私たちが学ぶことのできるレッスンは、「たとえ神が私たちと共におられても、相変わらず私たちは『人生の荒波』と出会う」ということです。イエスを信じていても私たちは病気になるし、経済的に困窮するし、様々な形で人生を脅かされることがあります。しかしそこにある『決定的な違い』は、それらの脅威に「キリストなしに立ち向かわなければならない」のか?それとも「キリストが必ずこの状況から私たちを救い出してくださるという確信を持ちつつ挑んでいける」のかという違いです。 私たちの人生を破壊するのは、実は出来事や状況そのものではなく、それらの出来事や状況を「どう受け止めるか」という私たちの心の態度です。もし私たちの心が『恐怖』に支配されてしまうなら、私たちは正しい判断力やすぐ側にある助けを見失ってしまい、荒海の中に飲み込まれてしまうでしょう。しかし「神は私と共におられる。神は必ず私をこの状況から救い出し、ご自身の栄光を現される」と固く信じてその状況に挑んでいくなら、必ず神が備えてくださっている『脱出の道』へと導いてくださいます。 あなたは1人で『人生の小舟』に乗りたいですか?それともキリストに同船していただきたいですか?

(162) “自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。”

多くの人々は『人生の成功者』となるために「自分は何が得意か?」「自分にはどんなことが向いているか?」「自分の興味はどこにあるか?」など、ひたすら『自分』の中にあるものを追求します。 ある時、世界のトップ企業のリーダーたちが集まって会議をした時、1人のアメリカ人ビジネスマンがある日本の企業の代表に次のような質問をしました。「現代の商取引のために最も重要視されている言語はどれだと思いますか?」このアメリカ人ビジネスマンは、当然『英語』という答えが返ってくると期待していましたが、これに対して日本企業の代表は次のように応えたそうです。「それはやっぱり『お客様の話す言葉』でしょう。」 「立派な製品を造る」「優れたプロモーションをする」「その道に精通する」どれも大切なことです。しかし私たちの興味が『自分』に集中してしまっているとしたら、いわば「与えるものはあっても、受け取ってくれる人がいない」ということになってしまいます。人々が本当に求めているものは、私たちが「どんな物を提供できるか」ではなく「どれだけその人を心にかけているか」なのです。 イエス・キリストは「人がいかに生きるべきか」の模範を示すためにこの世に来られました。そして彼の人生をひと言で表現するなら、それはまさしく「他の人々のために生きた」ということです。聖書は「神の御姿であられた方が、ご自分のあり方を捨てることができないとは考えず、ご自分を無にして、人となられた」と描写しています。イエスがこの地上に人として来られたことそのものが既に「人々のため」だったのです。 「そんなことは無理だ!」とおっしゃるかもしれません。しかし実はこのような生き方は全然難しくないのです。全く簡単なことです。たった1つの『不動の決断』をするだけ、すなわち「私はもはや自分のために生きるのではなく、他の人々のために生きる」と固く決心するのです。この決断をする人が少ないのは「できない」からではなく、単に「したくない」からです。もしあなたが今日この決断をするならば、その瞬間から驚くほどに『人々のために生きるチャンス』に直面するようになることでしょう。

(161) “私たちの推薦状はあなたがたです。それは私たちの心に記されていて、すべての人に知られ、また読まれているのです。”

少し前になりますが、アメリカ大リーグに『ジョー・ディマジオ』という優れたプロ野球選手がいました。ある時記者が彼にこう尋ねたそうです。「ディマジオさん、あなたはどんな時も全力でプレーをなさっていますよね?平凡なゴロをさばくときも、どんなフライを追いかける時も、しかも自分のチームが大量リードをしている時でさえ、1つでも先の塁に進もうとされますが、そのエネルギーの源はどこから来るのですか?」 ディマジオ選手はこう答えたそうです。「私はいつも自分自身にこう言い聞かせるんです。『おいジョー、もしかしたら今日この球場に、今日初めてお前のプレーを観に来てくれている人がいるかもしれないぞ!』ってね。」 人生に対するこのような態度は、間違いなく周囲の人々に有益なインパクトを与えます。しかしこのような態度は自然発生的には私たちの心に芽生えては来ません。それには日々の強い動機付けを生み出す『不変のエネルギー源』が必要です。そしてそれは私たちを「ご自身のかたちに似るように」とお造りになった神からやってきます。 私たちが試されるのは、自分が絶好調であったり、準備万端な時ではありません。むしろ「問題が起こった時にどう対処するか」「日常生活の中で家族や同僚をどんな態度で扱っているか」「先生や上司がいないところでどう勤勉さを保っているか」、そして「周囲からの心ない批判や試練に出会った時にどう応対するか」などを『見られて』いるのです。私たちの心にスキができそうなこのような時にこそ、「たとえ他の誰もが敵に回っても決して私たちを見捨てることのないお方」との関係を固く保っていることが物を言うのです。

(160) “わたしが生きるので、あなたがたも生きるからです。”

先週末は世界中である1つのことが盛大に祝われました。何のお祭りだかご存知ですか?それは『イエス・キリストの復活祭』です。一般に『イースター』と呼ばれています。 イエス・キリストが十字架刑で殺されたことは有名です。この史実を疑う人はあまりいないでしょう。聖書によると「彼は私たちの背きの罪のために刺し通された」と描写されています。すなわち、本来私たちが自分の罪(神に対する不遜な心)のために神の罰を受けるはずであったのを、キリストが身代わりに受けてくださったのです。しかしこの『十字架上での死』以上に重要なのが、「イエスがよみがえられた」という事実です。聖書によるならば、彼は十字架刑(金曜日)から3日目(日曜日)によみがえって墓から出て来られ、数百人の人々の前に姿を現したそうです。 私たちの多くは「『死』とは人間の人生の最後の最後である」と考えています。すなわち「死の向こうは『無』なのだ」と。と同時に私たちは、親しい人が死んでしまった後、しばしばこんなことを言ったりします。「彼(彼女)は我々の心の中にいつまでも生きているんだよ。」しかしイエスは「心の中」ではなく、現実的に見える形でよみがえられ、私たちに『死の向こう側にある希望』を与えてくださったのです。 次は聖書の1節です。「罪から来る報酬は死です。しかし神のくださる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」私たちは皆「真の神を神と認めない罪」のために『死』に定められていますが、「イエスがその罪を自分の代わりに負って死なれ、またよみがえって下さった」と認め、今までの不信仰な生き方から方向転換して「神に信頼して生きる新たな生き方」を始めるならば、もはや『死』は人生の終わりではなく、単なる『永遠のいのちへの通過点』に過ぎなくなるです。

(159) “訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。”

「間違いを指摘されるのが好き!」という人はあまりいませんよね?誰でも耳が痛い忠告を聞くのは楽しい経験ではありません。しかし敢えてそのような忠告をしてくれる人がいなければ成長できないのも事実です。 何故私たちは『率直な意見』を聞きたがらないのでしょう?それは私たちがエゴの固まりだからです。それ故善意に満ちた助言に対し「拒絶された」と感じたり、「アイツは自分のことは棚に上げている」などと思ってしまうのです。私たちのこの『屈折した自己防衛』が砕かれない限り、私たちは人格的に成長することはできません。 「親ライオンが愛する我が子を谷底に突き落とす」のと同様に、神は時に応じて私たちの許に「聞きたくない助言を携えたアドバイザー」を送ってくださいます。それは神様が私たちをこき下ろしたいからではなく、かえって私たちが成長し『自己最高の人生』を送ることができるようにするためです。私たちがしばしば「耳が痛い助言」を聞かされるのは、神が私たち1人1人に心を配ってくださっている証拠なのです。 では、どのような心でそれらの助言に耳を傾けたら良いのでしょう?ぜひ次の4つのポイントに留意してみてください。①自分の未熟さを素直に認める。②成長への意欲を持つ(『現状維持』の心は助言を受け付けません)。③助言してくれる人の『善意』を信じる。④「私たちのありのままを喜びつつも、更なる成長を期待してくださっている神」に信頼して前進する。 私たちはつい「より優れた者となる」ことよりも、安易に「見栄えだけが優れている者になる」方を選んでしまいがちです。私たちの『屈折したエゴ』が後者を選んでしまいそうになる誘惑に負けないで、敢えて「耳の痛い善意の助言」に耳を傾けていきましょう!

(158) “わたし(イエス)が来たのは、羊(人々)がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。”

最近心理学の専門家たちの間で急激に問題視されつつある「現代病」があります。専門用語では『FTT』と呼ばれるのですが、まあ平たく言えば「大人になることへの恐れ」とでも言いましょうか。要するに「人生に意味を見い出せず、大人として成長していくことに希望や喜びを失って」しまっているのです。あなたにも心当たりがありませんか? 聖書は「すべての人は天地の創造主である神によって、独自の目的を持って造られた」と主張します。ですから当然この神から離れていては『人生の目的・希望・喜び』といった、私たちが生きていく上での不可欠要素を見い出すことができないのです。また更に悪いことに、人の心の内に、神を敬わず「自分の人生の主人公は自分である。神の存在なんて、かえって迷惑である」などという『神に反逆する態度(聖書は『罪』と読んでいる)』がある故に、人は生まれつき神を認知することができず、生涯『迷える子羊』のように、目的もなくただ人生を浪費するしかなくなってしまっているのです。 イエス・キリストは「わたしが来たのは、羊がいのちを得、それを豊かに持つためである」とおっしゃいました。私たちはイエス・キリストの十字架における身代わりの死によって罪の赦しを得、へりくだった心で神に近づくことによって『真に生きる意味・力』を見い出すことができます。キリストを通して『天地の創造主である神』とのいのちあふれる関係の中に生かされて初めて、私たちは『いのちの躍動感』を体験し、「大人へと成長していくことへの希望と喜び」にあふれて、『FTT』を克服することができるのです。

(157) “神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのか、”

『神のみこころ』などと言うと何だか堅苦しく聞こえますが、どんな人でも「自分は何のために生まれてきたのか」ということを人生に1度は考えることがあるのではないでしょうか?それが証拠に、これだけ文明的に発達しても、相変わらず「手相」「タロット」「星占い」などに多額のお金をつぎ込む人々が後を絶えません。 聖書は『天地万物の創造主である神』の存在をはっきりと主張しています。そしてもし本当に唯一の神がこの全宇宙そして私たち人間を造られたなら、そこには必ず『崇高な目的』があるはずです。そう、そこには私たち1人1人に対する「神のみこころ」というものが存在し、神は私たちにそれを知らせたいと思っておられるのです。では私たち人間に対する『神のみこころ』とは一体どのようなものなのでしょう? 私たちは自分の人生のことを考える時、どうしても「何をして生きるか」ということを真っ先に考えがちです。しかし実際は「何をして生きるか」ということはそれほど重要ではなく、むしろ「どんな思いでそれをしているか」の方が重要なのです。すなわち、もしあなたが勉強や仕事、また人助けなどを「誰かに気に入られるため」「誰かに認められるため」にしているとしたら、たとえその行為自体は立派なことだとしても『神のみこころ』を行っているとは言えないかもしれません。採用試験の面接の時、また誰かとの初デートの時、私たちはついつい無理して「自分以上の何者か」になりすまそうとしますが、後にはドッと疲れが出るだけです。けれども、誰に強いられなくても、誰に認められなくても、またたとえ失敗したり、損をしたとしても、そのことをやっていると深い喜びと充実感がある、そんな何かをあなたが持っているとしたら、それは限りなく、あなたにとっての『神のみこころ』に近いものなのかもしれません。 素晴らしいことに、この『創造主なる神』は私たち1人1人のことを私たち自身よりもよくご存知です。それ故私たちはこの神の前で「無理な背伸び」をする必要がありません。気に入られるために「媚びる」必要もないのです。神は私たちの正直さ、ありのままを喜んでくださいます。そしてありのままの私たちが「無理せず喜んでできる何か」を見つけて、それに全力を尽くすこと、それが『神のみこころ』を行うということではないでしょうか?

(156) “わたしの家は、祈りの家でなければならない。”

『祈り』というと、きっと多くの方々は「神様にお願い事をすること」と考えることでしょう。しかし実際は、祈りとははるかにそれ以上のものです。言ってみれば『祈り』とは、「神様に求めること」ではなく、「神様を求めること」なのです。静かな場所で、目を閉じ、この世のことから思いを離し、心を静めて、「神様の心と波長を合わせること」です。すると神様は私たちの心を癒し、平安を与え、天賦の知恵を与え、私たちを通してご自身のみわざを成し遂げてくださいます。 悪魔は私たちがこの「祈りの力」というものに目覚めることを極度に恐れています。それ故悪魔はいつも私たちを忙しくさせ、日常生活の営みの中に埋没させ、「祈りなんて気休めに過ぎない」と思い込ませることによって、私たちを祈ることから遠ざけることに成功しています。クリスチャンと言えども「食前の祈り」「出がけにドアを閉めながらの祈り」「日曜礼拝の開会の祈り」程度で「自分はちゃんと祈っている」などと錯覚させられています。 使徒パウロは、弟子のテモテへの手紙の中で「何かを手掛ける前に、まず祈りなさい。人々に何かを教える時は、まず祈ることを教えなさい。」と諭しました。 主イエス・キリストは、しばしば朝暗いうちから、時には夜を徹して祈りました。もしあのイエス・キリストにさえ祈りが必要であったのなら、なおのこと私たちが祈りを必要としないことがあり得るでしょうか? 『天路歴程』の著者ジョン・バンヤンは次のように言いました。「人がもし祈りを生活の一部とするならば、やがて祈ること以上の優れたこともできるようになる。しかしもし祈ることを軽視するなら、いつまで経ってもロクなことができるようにはならない。」と。 あなたも「祈る者」とされたいですか?

(155) “夕、朝、真昼、私は嘆き、うめく。すると、主は私の声を聞いてくださる。”

「ブルータス、お前もか!」とは、ジュリアス・シーザーが腹心の部下ブルータスの裏切りにあった時にもらした言葉としてあまりにも有名です。「信頼していた人からの裏切り」という経験は、その人の人生に実に長く深い傷をもたらすものです。 聖書の中ほどに『詩篇』という書物がありますが、その第55篇に、イスラエルの王ダビデが親しい友に裏切られたときの心の叫びが詠われています。そこには彼の落胆、怒り、うめき、そして憎悪さえも描かれています。 以前1人の青年が私たちのところに尋ねてきました。その顔は憂いに沈み、何に対しても無気力でした。彼は最も信頼していた友人に、大切な恋人を奪われたのでした。 詩篇の第55篇は『神への賛美』で締めくくられています。一体ダビデはどのようにしてこのような苦しみから立ち直ることができたのでしょうか?それは彼が神への信仰の故に次の2つのことをしたからです。 ①この苦しみを自分の心の中に閉じ込めてしまうことをしないで、勇気を持って神に打ち明けた。 ②「神は自分の代わりにこの重荷を負ってくださり、また自分を立ち直らせることができる」と信じた。 この詩篇の終わりの部分でダビデは次のように言っています。「あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。主は決して、正しいものがゆるがされるようにはなさらない。」 私たちのところに来た上記の青年は、半年ほど私たちと生活を共にし、その中で自分の人生を神に全面的にゆだねる決心をしました。彼は今ではもうすっかり立ち直って、幸せな結婚をし、現在はキリスト教の牧師となって人々(特に若者たち)に希望のメッセージを伝え歩いています。

(154) “あなたの手に善を行う力があるとき、求める者に、それを拒むな。”

私たちは「なすべきことが分かっているのに、しようとしないこと」は、神の前に正しくないと容易に理解できますが、「なすべきことが分かっていて、いつかしようとはしているけど、もたもたしていること」も神の前に正しくない態度であるとはなかなか気付きません。私たちは恐らくこう言うでしょう。「いや、やろうとは思っているんですよ。ただもうちょっと暇になったら、もうちょっとお金が溜まったら、もうちょっと子供が大きくなったら…」 神の祝福は、ただボ~っと待っているだけの人に注がれるのではなく、既に与えられているものを精一杯用いて人々の必要のために仕えている人に注がれるものです。例えば、今の時点で既に持っているものを用いて人々に施しをしているわけでもないのに「神様、困っている人々を助けてあげたいので、どうぞもっとお金を与えてください」と祈るのは、神の祝福を受けるために正しい順序ではありません。「でもお金が無けりゃ、何も与えてあげられないじゃないですか!」とおっしゃる人もいるでしょう。しかし実際はお金が問題なのではありません。そのような人は今までにそれらの困っている人々に『励ましの言葉』や『あなたの時間』、また「今まで試したことのないような自己犠牲」を与えたことがありますか? 神が私たちに望んでおられる愛し方は、私たちの都合やタイミングに合わせたものではなく、神の憐れみの心に合わせたタイミングや方法なのです。自分の都合や理屈を言い訳にモタモタしてしまう人が得ることのできるものは「せっかくのチャンスを取り逃がしてしまう」という苦い経験なのです。

(153) “貧しさも富も私に与えず、ただ、私に定められた分の食物で私を養ってください。私が食べ飽きて、あなたを否み、「主とはだれだ」と言わないために。”

3年ぶりに日本へ一時帰国しました。初めのうちはなかなか頭も体も日本の生活に慣れませんでした(季節も逆転しますから…)が、そのうちに生活のリズムを徐々に取り戻しました。故郷での生活を楽しみ始めた頃、1つのことに気付きました。それは「神様が見えにくい」ということです。 日本はニュージーランドと比べて、欲しい物(思い付く以上の物)が何でも手に入ります。言葉にも不自由しないし、とにかくいろいろと便利でスムーズです。そんな何不自由無い生活(?)を続けていると、知らず知らずのうちに「目で見えるもの」のペースにすっかりはまり込んでしまって、「あれも欲しい、これも欲しい」「あれはどうなった?これはどうしよう?」と『目に見えること』に始終気を取られて、それらのすべてを与えてくださっている『神様』のことをすっかり忘れてしまいそうになるのです。 日本にキリスト教が伝わったのはもう500年も前のことです。それなのに全人口に対するクリスチャンの割合は未だに1%にも満ちません。実を言うと第2次世界大戦後、クリスチャンの数は急成長したのです。ところがその後の高度経済成長の波が押し寄せたとき、その数は減少の一途を辿り、今に至っています。聖書によると、この地上は現在悪魔が支配しており、あらゆる物質的な豊かさをもって私たちの目を神様からそらしているということです。 今回の帰国中に初めて「東北大震災の被災地」を訪問してきました。同時期に震災に見舞われたクライストチャーチに比べて、東北の被災地はずっと「震災後の後片付け」が進んでいましたが、人々の心の中にはまだまだ震災の爪跡が大きく残っているのを感じさせられました。ところがそんな中、嬉しいこともありました。大きな自然災害を通して「神様を恨む人々」が増えているかと思いきや、実際はその逆に「新たに神様を見い出す人々」が続々と増し加えられていることを目の当たりにしたのです。震災からの復興に苦闘する中で、彼らは「目に見えるものに頼って生きること」がいかに虚しいかを学んだのだそうです。ついつい『物質的な豊かさや便利さ』に安住してしまいがちな私たちに対する大きな警告ではないでしょうか?

(152) “力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。”

近頃はよく『マネジメント(平たく訳せば「上手に管理する」ということ)』という言葉を耳にします。「タイム・マネジメント(時間の管理)」「ファイナンス・マネジメント(家計の管理)」「ウエイト・マネジメント(体重の管理)」などなど。どれもまあ大切なことには違いありませんが、『心のマネジメント』はこれらのどれにも増して大切なのではないでしょうか?ところがそのような言葉はあまり叫ばれていないような気がします。 神の子イエス・キリストがこの地上を歩まれた時、彼はまさにこの『心のマネジメント』を何よりも重視された方でした。人々が彼の持つ知恵と力とに気付き、彼を自分たちの利益のために王として祭り上げようとした時、イエスはひとり退いて山へ登り、静かな祈りの時を持たれました。また1人の少女が亡くなり、イエスが彼女の両親を憐れんでその娘をよみがえらせようとされた時、イエスの「この娘は眠っているだけです」との言葉に周囲の人々はあざ笑いましたが、イエスはそのような冷たく不信仰な人々を外に追い出し、両親の前でその娘をよみがえらされました。そして私たちの罪を身代わりに負って十字架にかかられる前夜、あまりの恐ろしさにひるみそうになった時も、「私の願うようにではなく、あなたのみこころの通りにしてください」と神に祈られ、私たちの救いのために、十字架への道を辿られました。 私たちは『周囲からのプレッシャー』や『いっときの感情』に簡単に屈してしまいがちです。ですから時には敢えてそのような誤った基準を鋭く発見して、勇気を持って私たちの心から「追い出して」しまうことが必要になってきます。この「うつろいやすい世の中」にあって、はっきりとした確信に立って雄々しく生きていくために、「力の限り自分の心を見張ること」に全力を尽くしていきましょう!

(151) “イエスは答えて言われた。「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります。”

神を信じて生きる者にとっての最もつらい試練は「反対者による迫害」ではなく、思わず「神様なぜですか?」と叫ばずにはいられないような状況に陥った時ではないでしょうか? 旧約聖書の時代の最も偉大な人物の1人である『モーセ』が、当時エジプトで奴隷として苦役を強いられていたイスラエルの民を、神の命令に従って脱出させようとした時、エジプトの王(ファラオ)は民を行かせるどころか、更なる苦役を民に課すようになりました。当然イスラエルの民はこぞってモーセに対し不平不満を並べ立てたのです。きっとモーセの心中は「神様、私はあなたの命令に従ってこの民を脱出させようとしたのに、どうして更なる試練をお与えになるのですか?」という混乱と嘆きに落ち込んだことでしょう。 私たちの信仰生活の中でも同様なことが起こります。「神様の導き(聖書のことば)に従ってここまで来たのに、どうしてこんな目に遭わなければならないのか?」そんな時私たちが思い起こさなければならないのは「神の大いなるご計画は、私たちの小さな頭で想像する規模をはるかに超えている」ということです。神はこの後モーセとイスラエルの民のために、数々の恐るべき奇跡を行ない、最終的には「海を2つに分ける」という考えられないようなみわざによって、イスラエルの民をエジプトから脱出させたのでした。 私たちは喜ばしくない状況に直面すると、つい「神様、一体何やってるんですか!」と文句を言ってしまいがちですが、私たちがイラついている原因は、実際は『好ましくない状況そのもの』ではなく、「『今置かれている状況』と『自分が予想していたもの』とのギャップ」によるのです。私たちは「自分はこうしてちゃんと神様に従っているんだから、神様は私に何か(こんな風な)いい目を見させてくれるはずだ」と自分勝手に神様がしてくださるであろうみわざを決めてしまうのです。そして結果が願った通りじゃないと「神様のウソつき!」と言ってプイと背を向けてしまいがちです。 神はあなたより遥かに『気長』な方です。そして彼が望んでおられるのは、私たちが神を「自分が予想したとおりの結果を与えてくださる方」としてではなく、「私たちの思いを遥かに超えてみわざを行われる方」として知ることを求めておられるのです。

(150) “機会を十分に生かして用いなさい。”

私たちはついつい「過去の失敗を思い返すこと」を繰り返しがちです。「もっとああすれば良かった…」「あんなこと言わなければ良かった…」などなど。あたかも、何度も思い返せば取り消せるかのように。 日本のことわざに「後悔先に立たず」と言われるように、過去の失敗を修正することは決してできません。しかし、神は私たち1人1人に『現在』というものを与えてくださっています。面白いことに『現在』という言葉は英語で『プレゼント』と言います。まるで神様が私たちにこの『現在』を新たなスタートのために贈り物として与えてくださっているかのようではありませんか!取り返しようのない過去にいつまでもこだわりすぎて、せっかく神様が与えてくださっている『現在』の絶好の機会を見逃してしまわないようにしましょう。 「新たなチャンス」というものは、しばしばそれが去ってしまった後にその価値が認められるものです。だからこそ私たちは毎日しっかりと目を開いて、それが手に届くうちにしっかりと捕まえなければなりません。チャンスはあらゆる方向から、いろいろな形をとってやってきます。決してワンパターンではありません。それを見つけてしっかりと掴むための1つの秘訣は「後ろのことに捕らわれない」ということです。神はご自身に信頼する者に『第2のチャンス』『第3のチャンス』を与え続けてくださる方なのです。

(149) “何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい。”

ある社会学者の話によると、『仕事』に対する人間の見方は3通りあるそうです。 第1番目は、「『仕事』は『仕事』と割り切るタイプ」。すなわち「単なる生きるための糧を得る手段にすぎない」と考えるわけです。この場合働く側はその職場において「受けること」にフォーカスをおいているので、しばしば不満に陥ることがあります。 第2番目は、「自分のキャリアに重点を置くタイプ」。すなわち『自己向上』と重ね合わせて努力していくわけです。この場合それなりに熱心に仕事に取り組むわけですが、順境の時はともかく、逆境に(すなわち仕事が思うように進まなく)なると落ち込み、自分自身の存在価値さえ危ぶまれてしまいます。 第3番目は、「『召命観』をもって仕事に取り組むタイプ」。すなわち「私はこの仕事をするために生まれてきたのだ」という強い確信をもって働く人々です。「召命観をもって働く」ということは、別な言い方をすれば「あなたにその仕事をさせるために『誰か』があなたを呼んだ」ということです。その『誰か』とは、あなたをお造りになられ、あなたの人生に至高の計画を持っておられる神様のことです。そしてもし神様がその仕事をさせるためにあなたを呼んだのなら、その仕事には「他の人々を祝福するための大いなる目的」があるはずなのです。 医者には「病人が回復するのを助ける」という重大な使命があるのと同様に、清掃業者には「世の中をきれいにする」という尊い使命があります。この『召命観』というものは、どんな職業についている人をも重要視させる力があります。1週間のうちの40時間をもかけて取り組んでいるあなたの大切な営みに、あなたはどのような意義を見出していますか?

(148) “私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。”

私がまだ日本に住んでいた頃、人々に「教会にいらっしゃいませんか?」とお尋ねすると、「いえ、私は『宗教』には興味がありませんから…」というお返事をよくいただきました。 人々は『宗教』という言葉から主にどのような印象を受けるのでしょうか?「洗脳」「修行」「多額の寄付」などなど、思うにあまり良い印象がないように見受けられます。 英語で「Christianity is not “religion” but “relationship” with God.」ということわざがあります。日本語に訳すなら「『キリスト教』は『宗教』ではなく、『神との関係』である」というふうになるでしょうか?事実私たちクリスチャンは「聖書の教えを一生懸命に実践して、少しでも立派な人になろう!」という意識で日々を暮らしているわけではなく、「私たちをお造りになり、私たちを深く愛し慈しんでくださる『父なる神』との、言葉に言い尽くすことのできない『心と心の交流』」の中で日々生かされているのです。そしてまた、クリスチャンたちがその家族や友人を教会に招いたり、聖書に関して伝えたいと思ったりするのは、「熱心な布教活動によって信者を増やそう」としているわけではなく(いわゆる『宗教』はそのようにしているのかもしれませんが…)、この祝福に満ちた『神とのいのちの関係』を、愛する人々にも体験して欲しいと思うがあまり、つい誘ってしまうのです。それはあたかも「美味しいラーメン屋さんを見つけたから、今度一緒に行ってみようよ!」と誘っているようなものです。 ここニュージーランドでは、日本国内と違い、日本人の知り合いを教会にお誘いすると、半分以上の方々は何の先入観もなしに教会においでになります。そしてそのうちの多くの方々が、イエス・キリストを通しての『神との祝福に満ちたいのちの関係』へと導かれます。日本にいてこのコラムを読んでくださっている皆さんも、ぜひお近くのキリスト教会へ足を踏み入れてみてはいかがでしょうか?

(147) “いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。”

1隻の大きな貨物船が長い航海から帰ってきました。今回の航海は散々でした。どうしたわけか本来のスピードが出せずに、船荷を待つ取引先からは厳しい苦情を受け、船の持ち主からも「お前のお陰で大損だよ!」と怒鳴られるありさまです。船長は思い切ってこの船を大掛かりな整備に出すことにしました。するとどうでしょう。航海中には見ることのできなかった海面下に触れていた部分には、多くの不要物がビッシリとこびりついており、船の重量は本来の1.5倍にもなっていたのです!これらを完全に取り除くにはもちろん多くの時間と手間がかかりますが、背に腹は換えられません。数ヶ月の整備期間の後、この大きな貨物船は再び意気揚々と次の航海へと旅立って行くことができるようになりました。 さて、これは何も「船のお話し」ではありません。私たちも「身体の定期健診」だけでなく、『心の定期健診』が必要です。見えるところに問題がなくても、見えない部分に「不要物」がこびりついていることがあるのです。私たちは周囲の人々のアラ捜しは得意ですが、自分の事となると気付かないものです。もしあなたが『以前の業績』にばかりすがりつき、「神がこれからあなたと共に成し遂げようとしておられること」を見つめられなくなってきたら、それは危険信号です。 今少し立ち止まって、自分自身を吟味してみましょう。以前のような『心の切れ味』が失われてきていませんか?神様に対する愛や情熱が薄らいではいませんか?この世の流れに妥協してしまってはいませんか?つい批判的になったり不注意になったりしていませんか? もしこれらのことが思い当たるなら、きっと「普段目に付かない部分に『不要物』がこびりついている」に違いありません。それらを見つけるためにはもしかしたら「心を沈めて神様からのアドバイスに耳を傾ける」必要があるのかもしれません。神から委ねられていた使命を『自分の力・知恵』に頼りつつ成し遂げようとしていたのかもしれません。神はそんなあなたの心に溜まってしまった『不要物』をきれいさっぱり取り除き、再び新たな人生の航海へと送り出すことのできるお方なのです。

(146) “賢くない人のようにではなく、賢い人のように歩んでいるかどうか、よくよく注意し、機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だからです。”

『カーナビ』を使ったことはありますか?よく知らない地域を運転するときは本当に便利ですよね。たった2つの情報(①現在地 ②目的地)をインプットするだけで、私たちの辿るべき道を示してくれます。 私たちが人生において確かな歩みをするために必要なものもこれと似ています。それは次の3つです。   1.自分は今どこに立っているのか?   2.自分が向かおうとしているのはどこなのか?   3.その目標に辿り着くために、どのような道を辿って行けば良いのか? マーク・トウェインは次のように言いました。「前進していくためにまず必要なのは、とにかくスタートすることだ。そしてスタートするために必要なのは、面前に立ちふさがる圧倒されるほどの数々の障害を細かいピースに分けて分類し、その中のまず可能なものから手を付けていくことだ。」 「夢を持てない時代」と言われています。情報過多の故に、夢を持つ前に現実を突きつけられて「大それた考えは止めにして、やっぱりほどほどにしておこう…」とあきらめてしまうのです。しかし聖書は「あなたがたは神の大いなるご計画を担うために生まれてきた」と私たちを励まします。ですから「夢を持つ前からあきらめてしまう」のは止めましょう!まずあなたの現状を十分に把握し、そして神があなたの心に与えてくれている『大いなる目標』をしっかり見つめましょう。紙に書いて自室の壁に貼っておくのも良いかもしれません。そしてその目標を達成するために必要なことを1つ1つ書き出して、まず今できることから始め、また協力者を求め、そしてどうしても無理に思えることは神に祈りましょう。神はあなたを通して、ご自身がどのように偉大な存在であるのかをこの世に示したいと願っておられるのですから。

(145) “私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。”

江戸幕府初代将軍『徳川家康』の遺した有名な言葉に、「人生は重き荷を負うて遠き道を行くがごとし」というものがあります。確かに人生にはそういった面がありますが、しばしば我々は『不必要な荷物』をも負って人生の道のりを歩いていることがあるのではないでしょうか? ローマ帝国時代、オリンピックに出場する走者たちは、毎日多くのおもりを身体に巻きつけてランニングをすることによってトレーニングをし、レースの当日にはすべてのおもりを外して伸び伸びと走ることによって優れた記録を残したそうです。この時もし走者が相変わらず『おもり』のいくつかをつけたまま本番のレースに臨んだとしたら、それは愚かなことだと思います。 イエスは「金持ちが天の御国に入るよりは、ラクダが『針の穴』を通るほうが易しい」とおっしゃいました。『針の穴』というのは文字通り「糸を通す穴」のことではなく、旅の途中でしばしば出くわす「狭い通り道」のことで、そこではいちいちラクダに背負わせているたくさんの荷物をいったん外さなければ通ることができなかったのです。 私たち家族が今から20年前に神様から「海外宣教師になりなさい」とお声をかけていただいたとき、私たちは所持品をすべて整理しなければなりませんでした。私たちは決してお金持ちではありませんでしたが、自分たちが所有していた物の多さに愕然とさせられたものです。しかし面白いことに、所持品が減っていけばいくほど、身も心もドンドン軽くなっていくのを感じました。最終的にはいくつかのスーツケースと段ボール箱だけになり、「人生で本当に必要なものは、実はわずかなのだ」ということを痛感させられたのを覚えています。(現在はニュージーランドに来て再び物が増えつつありますが…) 私たちが人生のレースを走る上で「栄冠を勝ち取るために邪魔になるもの」は、しばしば「レース場に置かれている数々の障害物」ではなく、「レース中に私たち自身が負い続けている余分な重荷」が原因になっているのではないでしょうか?

(144) “私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。”

2014年10月5日早朝、クライストチャーチ日本人キリスト教会の創始者の1人であられるベティ・ラウンドヒルさんが天に召されました。94歳でした。彼女はご主人のケン・ラウンドヒル先生と共に、日本での40年間の宣教師としての働きを終えてから24年前にニュージーランドに来られ、このクライストチャーチJCFを始められたのです。彼女が70歳の時です。70歳と言えば『隠居』の年であり、わざわざ何か新しいことを始めることは至難のわざであったに違いありません。しかし彼女は、クライストチャーチで不自由な英語を駆使しながら苦闘している日本人妻たちや留学生たちを見て、じっとしてはいられなかったのでした。 聖ルカ国際病院の名誉院長であられる日野原重明教授は次のように言っています。「新しいことを創められる人は、いくつになっても老いることがない。」 ベティ先生はまさにその94年間の生涯を「神と人に対する情熱を持って走り続けた女性」だったのです。 実を言うと彼女が亡くなられた前日(10月4日)は私の長男の結婚式でした。ある方々にとっては「息子さんの結婚式の直後に大切な方が亡くなるなんて、とんだ災難でしたね」ということになるのかもしれません。しかし私にとっては『とんだ災難』ではなく、むしろ「お祝い事が2つ重なった」と言えると思います。何故なら、私はベティ先生が今どこにおられるのかよく分かっているからです。彼女は今、老いて不自由になった肉体を脱ぎ捨てて、天国の神のみもとで「古びることのない、新しいからだ」をいただいて、喜びに満たされているのです。 もちろん「地上での別れ」という寂しさがあることは否定できませんが、私たちには『再会の希望』があります。そしてこの地上での残された人生を、ベティ先生に倣って「最後まで力強く走りぬく」という使命を全うする責任も与えられています。あなたもこの『死の向こう側にある希望』を抱きながら、地上の人生を精一杯走りぬく力を、神様からいただきませんか?

(143) “あなたがたがこれらのことを知っているのなら、それを行うときに、あなたがたは祝福されるのです。”

あるお母さんが息子をお友だちの誕生会に送って行った時、別れ際に息子にこう言いました。「ちゃんと良い子にして、楽しく過ごすのよ。」 すると息子が不満そうな顔をして答えました。「そんなの両方は無理だよ。ねぇ、どっちか1つにしてくんない?」 何故か私たちは「正しく生きること」と「楽しく生きること」は共存しない、と思ってしまいがちです。しかし本当にそうでしょうか?例えばある人が「交通ルールなんてイチイチ守って運転していたら不自由で仕方がない!」と言って、制限速度や信号を無視して走っていたらどうなるでしょう?事故で怪我をしたり、警察に捕まったり、あるいは人身事故を起こして一生を後悔と自責の念で過ごさなくてはならなくなるかもしれません。交通ルールを守って正しく運転してこそ、私たちは快適にドライブを楽しむことができるのです。 聖書は「神は私たちを『神ご自身に似せて』造られた」と告げています。それは必ずしも「神にも2本ずつの手足や、目や鼻や口がある」ということではなく、私たち人間を「『聖さ』を求めて生きる存在として造られた」という意味に違いありません。だからこそ私たちが『みだらなお楽しみ』(深酒や麻薬、不倫など)に没頭している時、心のどこかで『うしろめたさ』を感じたり、「これではいけない!」という叫びにハッとしたりするのです。 『幸福感』というものは、私たちが自分の力で生み出すものではなく、私たちが神の望まれる通りに生きている時に、神の許から注がれてくる『祝福』なのです。私たちが『聖さ』を求めて生きる時、実は私たちはこの神からの祝福を受け取るための風呂敷を広げているのです。「正しく生きること」は決して私たちの楽しみを奪うものではなく、かえって私たちを「変わることのない喜びの道」へと導いてくれる道先案内人なのです。

(142) “あなたの手に善を行う力があるとき、求める者に、それを拒むな。”

ある人が懐中電灯に新品の乾電池を入れたまますっかり忘れて引き出しの中に1年以上放っておいたそうです。ある時引き出しを整理しているときにその懐中電灯を見つけたのでスイッチを入れてみたら、電気がつきませんでした。念のため中身を確かめたところ、乾電池は中身の液体が染み出してしまっていて使い物にならなくなっていました。引き出しは暖かな部屋の中にあり、周りには害になるようなものは何もなかったにも関らずにです。 乾電池は「暖かくて安全な場所に放置されるため」に設計されてはいません。イザという時に『用いられるため・使われるため』にデザインされ、作られたのです。私たちの人生に関しても同じことが言えます。聖書は私たちのことを「神と人とに仕えるために生まれた」と表現しています。私たちは居心地の良い場所で安穏と過ごすようにはデザインされていません。互いに愛し合い仕え合うようにと『愛の神』の御手によって心を込めて造られたのです。ところが私たちはしばしば自分自身のことに夢中になりすぎてそのことをすっかり忘れ、周囲に私たちの助けを必要としている人がいても「私は今自分のことで忙しいから、誰か他の人に頼んで!」とすげなくあしらってしまいがちではないでしょうか? 神様から与えられている貴重な1日1日を「ごめん、今ちょっと手が放せない!」というようなことでいっぱいにしてしまわないようにしましょう。神様が助けを必要としている人をあなたの側に送られたとき、喜んで助けの手を差し出すことのできる人は幸いです。

(141) “ことばが多いと愚かな者の声となる。”

2匹のガチョウが南へ下る旅の準備をしていると、1匹のカエルが近づいてきて、自分も一緒に連れて行ってくれるように頼みました。ガチョウたちが「一体どうやってそんなことができるのか?」と尋ねると、カエルは答えました。「簡単だよ。キミたち2匹が1本の枝の両端をくちばしにくわえながら並んで飛んで、ボクがその真ん中を加えていればいいのさ!」 2匹のガチョウはその言うとおりにし、3匹が見事なチームワークで大空を渡っていると、下から見上げていた人々が感動のあまり言いました。「これはスゴイ!一体誰があんな名案を考え付いたんだろう?」 これを聞いたカエルは、つい調子に乗って大口を開けて叫んでしまったのです。「ボクだよ、ボク!」(この後カエルがどうなったかは、お分かりになりますよね?) ほとんどの場合『聞くこと』は『語ること』に優っています。聞く耳を持たずに話してばかりいる人からは最終的に人々が離れていきます。神は私たちに「耳を2つ」そして「口は1つだけ」お与えになりました。あたかも「語るより2倍聞くように」と命じておられるかのようではありませんか! 私たちの人生は日々が新たな学習です。しかしもし私たちがいつも「自分が何を話すか」ということにばかり思いを巡らせていたら、多くのことを学ぶことはできません。ほとんどのレッスンは『聞くこと』からやって来るのです。事実、その人の成熟度は「どれほどのことを教えることができるか」ではなく、「どれだけ人々に対して聞く耳を持っているか」で表されます。 神様はいつでも私たちの祈りを聞き、私たちの心の叫びに耳を傾けてくださっています。そしてまた、私たちが人々のつぶやき、そして神からの語りかけに耳をすますことを期待しておられるのです。

(140) “すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は上から来るのであって、光を造られた父(神)から下るのです。父には移り変わりや移り行く影はありません。”

私が子供の頃読んで面白かった本に『タイムマシン』というものがありました。ある少年・少女がタイムマシンで昔の世界や未来の世界へ旅をして様々なワクワクする体験をするというものです。子供心に「ボクが生きている間に『タイムマシン』が発明されるだろうか?」と夢見たものです。恐らく、誰もが1度は考えてみたことがあるのではないでしょうか? ところが神様は私たちを『時間』というものの中に閉じ込めておられます。私たちは昨日に戻ることもできないし、明日に飛んで行くこともできません。私たちに与えられているのは『今』だけです。面白いことに『今・現在』という概念を表す英語は『プレゼント』といって、『贈り物』を表すことばと同じです。あたかも神様は『今』という時をかけがえのない『贈り物』として私たちに与えてくださっているかのようです。 私はほぼ毎朝飼い犬の散歩に出かけますが、今のような初春の時期はあちこちの庭に新しい花が咲いたり芽が出てきたりして、日々私の目を楽しませてくれます。しかしこれらの景色は、走っていたり車を運転していたりしては見出せません。同様に、過去のことについていつまでもクヨクヨしたり、将来のことばかり気にしていては、『今』を満喫することはできません。神様は私たちに『今』を大切な贈り物として与えてくださっています。ぜひじっくり辺りを見回してみてください。朝ごとに昇る朝日、鳥のさえずり、頬をなでる風、母親の腕の中でスヤスヤ眠る赤ん坊、そしてあなたのことを大切に思ってくれている人々… これらのささいなことを見出し感謝することができたなら、あなたの心の中に「生かされている喜び」が湧き上がってくるはずです。 「そんなことをいっても、すべてのものは過ぎ去り、変わって行ってしまう!」とあなたはおっしゃるかもしれません。そうですね。私たちの出会うものはある意味すべて一時的で、愛する人の心さえも変わってしまうかもしれません。しかし、神様と神様の私たちに対する愛は永遠です。そしてこの神様とつながっている限り、私たちはいつでも人生に新しい輝きを取り戻すことができます。私たちに『今』を与えてくださっている神様は、この『今』の中で私たちと出会ってくださるのです。

(139) “互いに励まし合い、互いに徳を高め合いなさい。”

レスリーは生まれつき思い肉体的・精神的ハンディを負って生まれてきました。養育能力のない母親の元に生まれた彼は、そのまま病院で保護されていましたが、6ヶ月になった時、ずっと彼を可愛そうに思っていた看護婦のメイは、5人の子育ての真っ最中であったにも関らずレスリーを引き取り、彼女の子供として育てました。 メイは「神様はきっとこのレスリーにも特別な才能を与えているはずだわ」と信じ、神に助けを求めつつレスリーに様々なことをチャレンジさせてみましたが、何1つうまくいきませんでした。 レスリーが13歳になったとき、メイは何とかやりくりして中古のピアノを購入しました。レスリーの前でいくつかの曲を奏でてみましたが、何の反応もみられませんでした。それでもメイは忍耐強くレスリーに関り続け、毎日ピアノを弾きながら大きな声で歌を歌ったり、美しいピアノ曲を聞かせたりしていました。 レスリーが16歳になったある日、彼はおもむろにピアノの前に座り、何といきなりチャイコフスキーのピアノコンチェルトを奏で始めたのです。しかも完璧に!まもなくメイは、レスリーが1度耳にした曲であればどんな曲でも譜面なしに弾くことができることを発見しました。やがてレスリーは世界じゅうを回ってコンサートを開くようになったのです。 英語のことわざに「夢を大きく持ちなさい。やがてあなたはその夢にピッタリ合う大きさに成長することができるでしょう」というものがあります。現代はあまりにも『現実主義的』であり、大きな夢を持つことは「愚かなこと」のように批判されがちです。そんな時代だからこそ、あきらめずに夢を追って生きる人々を育てる「大いなる励まし手」が必要とされているのです。「ここであきらめないで、あと1歩進んでみてごらん」と励ますことのできる者になりませんか?

(137) “彼は死にましたが、その信仰によって、今もなお語っています。”

親しい友人を失ったジェーンさんの手記からの抜粋です。 「ある冬の夜、凍える寒さの中、私は残された友人の家族の許へ食事を届けるために車を走らせていた。忙しい仕事と家事の合間だというのに、通りはひどい渋滞。そしてやっとの思いで辿り着いた友人宅は留守であった。自己憐憫に陥りつつ、忙しさの中わざわざ食事を届けに来たことを伝えるため、携帯電話で留守番電話にメッセージを残そうとした時、私は驚きのあまり声も出なくなった。 そこには、生前の友人が録音したままの留守電メッセージが鳴り響いていた。『コートを羽織って、お気に入りの帽子をかぶって、さあ出かけましょう。すべての思い煩いは玄関口に置き去りにして。外に出て、日の光の中を歩くなら、気分はついつい浮き浮きしてしまうものよ!』 とても懐かしい声だった。乳癌を患っていた彼女は、予想を超えた痛みと長期治療の中でも常に笑顔を絶やさず、愛する夫と幼い3人の子供たちを遺していく悲しみをも不屈の精神力で乗り越えていた。彼女は知っていたのだ。今しばらくの苦しみは、神の恵みによって益と変えられ、やがてその永遠の光の中に招き入れられることを。 生前の明るさそのままの彼女の声を聞きながら、私は神が死んでしまった彼女を通してさえ私を励ましてくださったことを知った。私は自分の情けない我儘さの赦しを乞い、もう1度神の光の中を歩ませてくださるように願った。」 神はこの地上にあっても私たちを助け導いてくださいます。しかし、私たちの希望はこの地上にはとどまりません。それは死を超えて常に明日の光を待ち望ませることのできる希望なのです。

(138) “すべての点で自分自身が良いわざの模範となりなさい。”

「子供は親の教えたことには従わないが、親のすることはすぐ真似をする」と言われていますが、それは本当です。真の『しつけ』また『教育』とは、「正しいことを教える」ことではなく「生き様を通して模範を示す」ということです。『学ぶ』という言葉は本来「まねぶ」すなわち誰かのしていることを「真似る」ことから来ているのです。 あなたがオンラインでどのようなサイトを観ているのか、仕事や勉強にどのような態度で臨んでいるのか、家族や友人とどのように接しているのか、それらはあなたの周囲の人々に『真似』されて誇れるものとなっているでしょうか?また、あなたがあなたの配偶者を扱っている態度は、あなたの子どもたちが彼らの配偶者から受けてもらいたいような処遇となっているでしょうか? イエス・キリストはその生涯の中で数々の素晴らしい教えを残されましたが、その中の多くは「わたしがOOしたように、あなたがたも同じようにしなさい」というものでした。「わたしが愛したように・・・」「わたしが仕えたように・・・」「わたしが赦したように・・・」 イエスは、私たちが『ことば』からよりも『生きた模範』から多くを学ぶことをご存知だったのです。 現代の『インスタント時代』は私たちから多くの大切な習性を奪っています。「忍耐」「献身」「責任感」などなど。私たちは次世代に『便利さ』は残してやれるかもしれませんが、このままでは「卓越した人間性」を残してあげることはできません。今こそ私たちは、次世代に「真に豊かな人生」を受け継いでもらうために、「周囲の人々(少なくともあなたの子どもたち)のために『良き模範』になる」ということのために残りの人生をささげるべきではないでしょうか?

(137) “神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。”

『恐れ』という言葉を聞いてどんなことを思い浮かべますか?「お化け」「暗い道」「テロリスト」「高所恐怖症」…いろいろありそうですね。ある人は「失敗を恐れる」とか「何かを失うことを恐れる」などと言うかもしれませんね。 多くの場合、私たちは「今目の前に見ていること」よりも、「今は直面していないけど、もしかしたらやがて起こるかもしれないこと」を恐れるのかもしれません。「不治の病にかかったらどうしよう」「仕事を首になったらどうしよう」「破産してしまったらどうしよう」「愛する人に先立たれたら・・・」 可能性をあげていたらキリがありません。 聖書が私たち人間に教えている最も基本的な『恐れ』とは、「神を恐れること」です。もっともこれは「神様は怖~い方だから、怒らせないように気をつけなさいよ。」ということではありません。かえって『神を恐れること』は私たちを「その他の恐れ」から解放してくれます。 私たちは小さい時から、何かいたずらをすると「そんなことをしているとバチが当たるよ!」などと脅されてきましたから、「神様はバチを当てる方」という概念が刷り込まれてしまっているのではないでしょうか?しかし、悪いことをして悪い報いを受けるのは「神様がバチを当てたから」ではなく、「自分で蒔いた種を刈り取っている」だけです。これはある意味『宇宙の法則』なのです。そしてこの、自分ではどうしようもない『宇宙の法則』の故に、私たちの人生は休むことなく『恐れ』に付きまとわれているのです。 神の子イエス・キリストが十字架にかかられたのは、この「私たちが自分で蒔いた種」の刈り取りを、イエスが身代わりに刈り取ってくださったことを現しています。このイエスの身代わりの故に、神は今やイエスを通してご自身に近づく者を完全に赦し受け入れてくださるのです。「神を恐れる」とは、私たちのために神が差し出してくださっているこの『救いの道』を素直に受け入れて、神と和解することなのです。「神に受け入れられた者」として生きることができるなら、一体何を恐れることがありましょう。 私たちの力ではどうしようもない「起こるかどうか分からない将来への不安」に脅かされるのではなく、「真に恐れるべき唯一のお方」を見上げつつ、いつも顔を上げて歩んで行きましょう!

(136) “いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産の中にあるのではない。”

1923年のある日、シカゴにある高級ホテルに、当時世界で最も成功を収めていた7人の人々が滞在していました。鉄鋼業界最大の収益を上げていた会社社長、最大の公益事業を営んでいたグループの代表、小麦相場を総括していた資産家、ニューヨーク証券取引所の所長、大統領顧問、国際社会福祉銀行の頭取、そして世界最大の専売公社代表の7人です。まさに当時の世界を動かしていた人々と言っても過言ではありません。 さて時間を少し早送りして、25年後を見てみましょう。これらの人々はどのような幸せな生涯を辿ったのでしょうか?何と驚いたことに、この7人のうち3人は自殺をし、2人は刑務所に入り、残りの2人のうち1人は多くの借金を抱えて死んだそうです。どうやら富や財産は必ずしも私たちに幸福や平安を約束しないようです。 では「経済的に豊かになること」は『悪』なのでしょうか?決してそんなことはありません。私たちの神は私たちを経済的に祝福することがおできになります。但し、神はあくまで私たちが「経済的祝福そのもの」に心を奪われることなく、『祝福してくださるお方』に注目すること、そしてそれらの富を「自分自身の利益のために使う」のではなく、神の愛に基づいて「それらを真に必要としている人々やプロジェクトのために使うこと」を求めておられるのです。 「お金に振り回される人」ではなく、『お金を正しく使うことのできる人』になりましょう!

(135) “大ぜいいる私たちも、キリストにあって1つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。”

ちょっとした寓話をご紹介しましょう。いつもメガネをかけている人の顔の部分同士の間で言い争いが起こりました。鼻が目に対して文句を言ったのです。「このメガネは目のために必要なのであって、ボクには全然関係ないのに、どうしていつもボクに負担をかけるんだい?こっちは毎日重たくて仕方ないよ!」 これを聞いて目は心から申し訳なく思って言いました。「分かったよ。今まで迷惑をかけてごめんね。今日からはもうメガネは外すことにするから、どうか許してね。」 さて、メガネを外したこの人は、前方がよく見えないため、しょっちゅう壁にぶつかるようになりました。そしていつも初めにぶつけるのは、顔の中で1番突き出ている『鼻』でした。鼻はたまらなくなって言いました。「分かった、分かった。頼むからもう1度メガネをかけてくれ。もう文句は言わないから。メガネがボクのためにも役に立っていることがよぉく分かったよ。」 『十人十色』という言葉があります。「人はそれぞれ皆違っている」という意味ですよね。互いが違っているために、相手を受け入れたり理解したりするのが大変な時が多々あります。「どうして私と同じように考えてくれないんだろう?」「どうしてあんなやり方しかできないんだろう?」などなど。でもちょっと立ち止まってよく考えてみましょう。互いが違っているからこそ、役に立つことがたくさんあるはずです。違っているからこそ、私たちは時には互いに補い合い、また時には思いもよらなかった新しいことを学ぶことができるのではないでしょうか? 聖書は「私たちは1つのからだのようなもの、そして互いが1つ1つの器官のようなものである」と教えています。そして1人1人がそれぞれの持ち味を生かし、愛と思いやりによって結ばれて、私たちをお造りになられた神のご計画に従って生きるとき、この地上において大いなる神のわざが現されるのです。 あなたは、からだのどんな部分を担うように招かれているのでしょうね?

(134) “人の心の高慢は破滅に先立ち、謙遜は栄誉に先立つ。”

 「『聞く』は一時の恥、『聞かぬ』は一生の恥」と昔の人は言いました。「知っている振りをして後で大恥をかくよりも、ちょっと恥ずかしくても『知らないことを勇気をもって尋ねること』が大切だ」というような意味でしょう。人は生きている間にすべてのことを習得することはできません。ですからいつでも「新しいことを学ぶ姿勢」が必要です。 世界の歴史上最も偉大な喜劇俳優と言えば、必ずその1人として「チャーリー・チャップリン」の名前が挙がるでしょう。彼は大変貧しい家庭に生まれましたが、幼い頃からその頭角を現し、17歳の時には既にベテラン喜劇俳優でした。そして何と29歳にして世界初の『百万ドル俳優』としての地位を得たのです。しかしそのようなお金や名声も彼の『向上心』を留めることはありませんでした。彼は自分が出演したフィルムを繰り返し観察しては、「どうしてこの場面で観客は笑ってくれなかったのだろう?」また、「どうして観客はこんな意外なところであんなに笑ったのだろう?」と追求し続け、自分の演技に更に磨きをかけていったのです。 神はあなたが自分の持ち味を生かして社会に貢献することを喜ばれますが、あなたが自分の成功に満足してしまい『現状維持』の守りの姿勢に陥ってしまうことを決して望まれはしないのです。「謙遜で、教えられやすい者であること」を心がけましょう。

(133) “彼らは年老いてもなお、実を実らせ、みずみずしく、生い茂っていましょう。”

日本の古い言い回しに、『大器晩成』というものがあります。世のいろいろな場面で「スピード」や「若々しさ」がもてはやされる風潮がありますが、じっくりと時間をかけて熟成されるものには、インスタントに出来上がるものよりも深い味わいがあるものです。 メキシコ原産の『リュウゼツラン』という蘭の一種は、芽生えてからの20~30年間は1輪の花も咲かせませんが、やがてある年何の前触れもなく突然つぼみができたかと思うと、大空に向かって毎日20センチくらいずつグングン伸びていき、10メートルほど伸びた後、その先端に黄色くて美しい大輪の花を咲かせるのです。しかもその花は約1ヶ月も咲き続けるそうです。 人間が生きる姿勢に2通りあります。「守りの態勢」と「追及し続ける姿勢」です。『守りの態勢』で生きる人は言います:「家の中の暖炉に火をともし、その周りに集まって共に憩いましょう!」 しかし『追求し続ける(信仰に生きる)姿勢』は言います:「心の内に火をともし、どんなことにでも情熱を燃やして挑んでいきましょう!」 90歳を過ぎたある老人が、聖書を更に深く読みたいがためにギリシャ語を勉強し始めたそうです。「何故今頃になってそんなことを始めたのか?」と尋ねられて、老人は答えました。「だって、今始めなかったら、いつになってもギリシャ語をマスターできないじゃないか!」 「今までに何年生きたか」が問題なのではありません。「何年経っても『生き生きと生きている』こと」が大切なのです。

(132) “落胆している者には、その友から友情を。”

 1989年夏、下半身麻痺の障害をもつ「マーク・ウェルマンさん」は、アメリカのヨセミテ国立公園内にある世界最大の花崗岩の一枚岩『エル・キャピタン』を登ることに成功しました。新聞報道には、友人「マイク・コルベットさん」に担ぎ上げられながら歓声を上げるマークさんの写真と、「たとえ麻痺した身体でも、堅い友情に支えられているなら、登れない岩はない」という記事が載っていました。新聞には載っていませんでしたが、実は友人のマイクさんは、このマークさんのプロジェクトを成功させるために、事前に3度この大岩を登りながら綿密な計画を立てていたのでした。  誰かに「共感すること」「思いやる心」は、苦闘している人々を力づけることができます。『共感』とは、単に「分かる分かるその気持ち」と口先だけで言うことではなく、「私はあなたと一緒にいます。あなたが再び立ち上がれるまで、私はあなたの力になり続けます。」という覚悟です。このようにして私たちは2つの面で困難の中にある人々の力になることができます。すなわち「今の苦しさを分かって欲しい!」という訴えに応じ、「こんな自分でも生きていてよいのだ」と確信させることによってです。このようなことを可能にするのが、『真の友情』です。  私たちは誰でも(どんなに強いように見える人でも)「共感してくれる人」「助け支えてくれる人」が必要です。だからこそイエスは私たちの身代わりに十字架にかかり、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」とおっしゃったのです。このような『愛』、そしてそれを受け取る『謙遜さ』を神に求めましょう。

(131) “神は、ひとりひとりに、その人の行いに従って報いをお与えになります。”

 聖書によると、死後も含めて私たちが永遠の時をどんな場所で過ごすかは「私たちが何を信じているか」によって決まり、私たちがどのような豊かさの中で過ごすかは「私たちが今をどのように生きているか」にかかっているようです。どちらにしてもはっきりしていることは「私たち自身の態度」が重要であって、決して私たちの人生の成り行きを「誰かのせい」にすることはできない、ということですね。  今日という日にあなたが下す決断や選択は、そのままあなたの将来(死後も含めて)に決定的な影響を及ぼすことになります。あなたの退職後や死後の人生を左右するものは、年金や生命保険ではなく、今日のあなたの生き様なのです。よく言われるように「過ぎ去ったことは今更悩んでも仕方ないけれでも、今後のことは自分の態度次第で変えていける」わけです。  神様が私たち1人1人に望んでおられることは、私たちがまずイエス・キリストによる救いを信じることによって「神からの永遠の祝福」を受け取り、もはや将来に関して何の心配もせずに『今』という時を神と共に精一杯生きるようになることです。私たちがそのように一瞬一瞬を全力を尽くして歩んでいく時、神は私たちが思いもかけないような有形無形の祝福をこの地上の人生においても後の世においても『報い』として与えてくださるのです。

(130) “私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。”

イエス・キリストの使徒パウロは、結婚もせず家庭も持ちませんでしたから、死んだ後にいわゆる『資産』と呼べるものを何1つ残しませんでした。しかし実際には、彼が残してくれた偉大な財産によって、私たちは今日に至るまで大いに助けられています。その財産とは、聖書の中に残された彼の手紙であり、彼が宣べ伝え、多くの人々をキリストにある救いへと導いた『福音の力』です。  実を言うと、今これを読んでいるあなたの今日の生き様も、目に見えない形で周囲の人々に何らかの影響を残しているのです。例えば誰もいない部屋に踏み込んだ時、そこに何とも言えない芳しい残り香が感じ取れるように、人生にもたらされる祝福も、知らず知らずのうちにあなたから発せられ、また受け継がれているものなのです。  「自分には大した貯金もないし、立派な土地や家屋もない。子供たちには何も大したものを残してやれない!」と思うでしょうか?その通りです。私たちが『遺言書』にリストアップすることができるようなもので、後の世に『大した影響』を与えるようなものはほとんどありません。しかし「夫や妻、そして子供たちをどのように愛したか」「仕事仲間や近所の人々にどのような誠実さをもって接したか」そのようなあなたの日々の人生に対する態度は、あなたがこの世を去ったはるか後にも、暗闇に光る松明のように輝き続けるのです。そしてこれらのあなたの財産には、それらを獲得するためにあなたが日々支払い続けた尊い金額がきっと刻まれているに違いありません。

(129) “その聞いたみことば(聖書のことば)も、彼らには益になりませんでした。みことばがそれを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられなかったからです。”

どんなに良い材料が揃っていても、その『媒体者』がいなければ、正しい結果は期待できません。例えば、どんなに立派な小麦粉を用いても「イースト菌」がなければ美味しいパンは作れないし、どんな立派な火種があっても「空気」が周りになければ火は燃えません。同じように、どんなに素晴らしい聖書の言葉を聞いたとしても、それらのことばが『信仰』によって私たちの心に結び付けられないなら、それは人生に益をもたらすことはできないのです。  どんなに美味しい食べ物でも、それを机の上に放っておくなら、ただ腐っていくだけです。良質の食べ物は健康な肉体の中に取り入れられてこそ、大きなエネルギーとなって実を結ぶのです。聖書の言葉も同じです。「ただ聞くだけ」ではなく、「そこに働く神の知恵と力とに信頼して、その教え通りに従って」ぜひ実生活の中に生かして行ってください。『信仰』とは、単に聖書のことばに知的に同意したり、口先だけで「神様、信じます」と言うことではありません。「私にご自身のひとり子さえも与えてくださった方は、今日も私に真実を尽くしてくださっている。だから、私も彼の言葉に誠実に従って生きよう!」 という具合に、あなたの日々の生き様に影響をもたらすものなのです。そのようなあなたの真摯な態度に応えて、神様はきっとご自身の大いなるみわざを現してくださることでしょう。イエス・キリストはおっしゃいました。「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る」と。

(128) “怒っても罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。悪魔に機会を与えないようにしなさい。”

喜び・憂い・怒りなど、私たちの持っている感情はすべて神から与えられたものであり、基本的には良いものです。私たちは正しいものが損をしたり、弱いものが虐げられたりしているのを見るとき、怒りがこみ上げてくるのを感じます。これは、この地上に正義がもたらされるためにどうしても必要なものです。  ところがこの『怒り』を自分で制御できなくなってしまうようになったら、それは危険信号です。自制されない怒りは人間関係を破壊し、事の真実を見失わせ、神を悲しませる結果を生みます。『家庭崩壊』『幼児虐待』『殺人』『戦争』などなど。では、どのようにして私たちはこれらの「行き過ぎた怒り」から自分を守ることができるでしょうか?  第1に「怒りを表現する前に、少し間をおく」ことです。ほとんどの場合『怒り』の原因は「出来事そのもの」というよりもむしろ「それに対する認識や感情」です。私たちはよく「あの人があんなことを言ったから」とか「こんなことをされたから」などと言いますが、実際はあなたが「自分でその言動をどう理解したか」に原因があるのです。もしあなたの感情が他の人から言われたりされたりしたことにいちいち影響されていたら、まるであなたは周囲の人の奴隷のようです。そうではなくて、むしろ「ちょっと待って。今のはどういう意味?」とか、「私が誤解しているかもしれないから、もう1度良く説明してくれる?」と尋ね返す余裕を持ってください。  2番目は「怒りを溜め込まない」ことです。私たち夫婦は結婚してまもなく1つの約束事をしました。それは「もし喧嘩をしたとしても、寝る前までに必ず和解する」という約束です。『怒り』や『相手に対するわだかまり』をそのままにしておくと、ぐっする眠ることもできないし、2人の間の溝はドンドン深まっていきます。「どちらが悪かったかをはっきりさせること」よりも、「ともかく和解すること」のほうがずっと重要なのです。  怒りからは決して『平安』は生まれません。かえって『怒りの香り』は悪魔を引き寄せるのです。私たちの生活から『過ぎた怒り』を締め出して、悪魔を失業させてしまいましょう!

(127) “キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。”

ある牧師がこんなことを言いました。「地上のあらゆる場所に『万有引力の法則』が働いていて、他の力が働きかけない限り物質は必ず上から下に向かって落ちていくように、すべての人間の心の中には『自己中心性の法則』が働いていて、意識して他の人のために生きようとしない限り、私たちは自分が楽をしたり得をしたりするように行動するものである。」 確かにその通りですよね。私たちは知らず知らずのうちに「何かいいことないかなぁ。誰かうまい話持って来てくれないかなぁ。」と周りが自分のために動いてくれることを期待してしまう傾向があります。  イエス・キリストの生涯は、これとはまるで違いました。彼は病人や貧しい者をあわれみ、世間からつまはじきされていた人々と多くの時を共に過ごし、そして罪と死に縛られていた私たちを解放するために、身代わりに十字架で死なれました。彼の生涯はまさに「自分自身のため」ではなく、「他の人々に仕えるため」だったのです。そしておっしゃいました。「私があなたがたに仕えたように、互いに仕え合いなさい」。  多くの人々(クリスチャンの方々でさえ)は、「イエス・キリストは『特別な人(神の子)』だったのだから、そんなことができて当たり前だ!」とおっしゃいます。でもちょっと想像してみてください。イエスが十字架にかかる前の晩、有名な『最後の晩餐』の席で、イエスは弟子たちの足をお洗いになりました。天と地の創造者、私たちの神である方が、私たちの汚くて臭い足(弟子たちの中には漁師たちもいました!)を素手で洗ったのです。何という『謙遜』、何という『無私』なのでしょう!恐らく私たちは、私たちのクラスの先生、また上司などがそんなことをしてくれたとしても驚きあきれ、恐れ入ってしまうのではないでしょうか?(まあ、そんなことをしてくれる『先生』や『上司』など聞いたこともありませんが…)しかし仮にも『神の子』と呼ばれた方が私たちにそのような模範を示されたのだとしたら、私たちは今日から人生に対する態度を改めなければならないのではないでしょうか?

(126) “神の国とその義とをまず第1に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。”

  すべての人間にとって『関係』というものは大きな祝福であり、また課題です。「豊かな関係」を通して私たちは励ましを受け、勇気付けられ、生きる意欲が湧いてきます。一方で「壊れた関係」によって私たちは傷つき、落ち込み、時には自殺に追い込まれることさえあります。もし「関係の達人」がいるとしたら、その人こそまさしく「人生の達人」と呼ばれるにふさわしい人でしょう。  人は誰でも「3つの関係」の中に生きています。 ①『神との関係』 ②『自分との関係』 そして③『周囲の人々との関係』です。ほとんどの人々はこの③の関係を築くことに多大な労力を費やしますが、実際は①の関係が正しく築かれて初めて健全な②の関係が築かれ、①②の関係を豊かに築いている人だけが、真に円滑な③の関係を築いて行くことができるのです。  人はこの天地万物の神、すなわち自分自身の創造主を知ることなしに、自分自身の真価を理解することはできません。「自分の親」と呼べる存在を知らずに育った孤児が「自分自身の健康な家庭」を築くことに戸惑うように、「自分のありのままを喜び、愛し、完全に受け入れてくださっている方」との豊かな関係の中に生きることなしに、健康なセルフイメージは育てようがないのです。  しかし、この真実な愛を基礎にして自分自身を建て上げている人は、その愛を動機として周囲との関係を築こうとします。このような人は拒絶を恐れません。それが自分の価値を落とすことがないことを知っているからです。むしろそのように拒絶する人々さえも愛し受け入れることができます。何故なら『本物の愛』は、それを必要としている人々のところへと流れていこうとする性質を持っているからです。  私たちを造られた神は、真の意味で私たちに必要なものが何であるかをご存じです。私たちがそれを受け取ることができるのは神からだけであり、そのため神は私たちがそれを求めてご自身の許にやってくるのを心待ちにしておられるのです。

(125) “神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められる…のです。”

1961年、初のロシア人宇宙飛行士として飛び立った無神論者『ユーリ・ガガーリン』は、地球に戻って後次のように述べました。「私はロケットからあちらこちらをじっくりと見回したが、どこにも神など見当たらなかった。」  確かに彼は人類のほとんどが眺めたことのない世界をほんのちょっとだけ見回してきたかもしれませんが、それで「神はいない」と結論付けるとしたら、それはあまりにも浅はかです。もしあなたが1秒に2つのペースで星を数え上げていったとしても、『天の川』の中にある星だけを数えるのにさえ2000年以上かかるのです。そしてまた、標準の大きさの星でさえ、その直径は100億人以上の人間が手をつないでならんだよりも長いのです。それほどに広大な宇宙の一体どこを眺めてきて「神はいなかった」と結論付けられるというのでしょう!?  聖書には「この広大な宇宙でさえ、神の『ほんの指先のわざ』にしかすぎない」と書かれています。そしてその「『ことばでは到底言い尽くせないほどの偉大な神』が、私たち人間を心に留めておられる」というのです。このお方を、私たちのほんのわずかな知識や経験によって結論付けようとするのは、人間の傲慢以外の何物でもありません。神は「人間の探求によって見出される」存在ではなく、唯一「神ご自身がみずからを啓示される」ことによってのみ私たちが感知可能なお方です。  優れた物理学者であり天文学者でもあったニュートンは「宇宙は大きな聖書である」と言いました。そうです。神はその認知不能なご自身の偉大さを私たちに啓示されるために、この広大な宇宙を私たちの面前に広げ、またその愛の深さを知らせるために、私たちに『聖書』を与え、更にまた人の形をとって現れてくださったのです。

(124) “なすべき正しいことを知っていながら行わないなら、それはその人の罪です。”

 聖書は人の『罪』ということを問題にしますが、私たちは『罪』と聞くと、「してしまった悪いこと」というものを思い浮かべます。「他の人の物を盗んだ」とか「不倫をした」とか「人を殺した」などなど。確かにこれらは神の前に『罪』に違いありませんが、実は聖書はむしろこれらのこと以上に、私たちが「しなかった良いわざ」の方を問題にしています。  イエス・キリストはこの地上を歩まれた際、多くのことを「たとえ話」によって教えられましたが、それらの中には「灯火のために十分な油を用意していなかった娘たち」や「せっかく主人に預けられた予算を活用しなかったしもべ」や「自宅の門の前に横たわっていた乞食に施してやらなかった大金持ち」などの話があります。そして極めつけは、イエスが『最後の審判』に関してなさったたとえ話です。イエスは「天国へ迎え入れられる人々」に対しての祝福のことばを述べられた後、「地獄へと投げ込まれる人々」に向かって次のように言います。「あなたがたは、わたしが飢えていた時に食物を与えず、わたしが渇いていた時に飲ませず、旅人であったときに宿を与えず、裸だった時に着る物をくれず、病気や牢にいたときに訪ねてくれなかった。」 人々は驚いてイエスに尋ねます。「一体いつ私たちはあなたに対してそのようにして差し上げなかったでしょうか?」と。するとイエスはこう答えるのです。「あなたがこの世の最も取るに足りない人々にしてあげなかったことは、実はわたしにしてくれなかったのです。」  神は日々あなたに「なすべき良いこと」の機会を与えておられます。それを見過ごさないように!

(123) “彼女は力と気品を身に付け、ほほえみながら後の日を待つ。彼女は口を開いて知恵深く語り、その舌には恵みの教えがある。彼女は家族の様子をよく見張り、怠惰のパンを食べない。”

ある日の新聞のコラムに、次のような記事が載りました。  「神が『母親』を創造された時、その様子を隣りでじっと観察していた天使が言いました。『今回はずいぶんと手をかけていますね。』すると神は答えました。『その通りだとも。何しろこれは他の生き物にはないいくつもの微妙な部品を必要としているのだから。「ひざ小僧の小さなすり傷に始まって、恋に破れて痛んだ心をまでも癒すことのできる優しいキスをする唇」「台所の片づけをしながら、子供の着替えをさせ、夫のゴミ出しの準備をし、飼い犬にエサをやり、そのついでに洗濯物を干すことのできる腕」、う~む、やはり腕は5組は必要だな。』 天使は叫んだ。『腕が5組ですって!』 いやいやそんなことより、やはり難しいのはこの「それぞれ違った機能を持つ3組の眼だよ。ドアの向こう側を見透かすことができるために1組、また頭の後ろには子供が母親に見つからないように悪さをしているのを見抜くためにもう1組、そして最後は誰かがへまをやらかしてしまった時に「大丈夫、大した失敗じゃないわよ。それでもアナタを心から愛してるわ」と語ることのできる眼差しだ。』 『神様、そんなの無茶じゃないですか?』 『そんなことを言ってはいけない。私は何としてもこの「わたし自身に最も似た存在」を完成させたいのだから。何しろ彼女は病気になっても誰の看病も受けずに回復することができ、冷蔵庫の残り物だけを使った料理で家族を喜ばせることもでき、5歳以下の3人の幼児をいっぺんにお風呂に入れるほどの芸当をやってのけるのだから。』 『それはまさしく「奇跡」ですね!』天使は驚きつつこの生き物の身体に触れてみて言った。『何て柔らかいんでしょう!』 神は答えた。『そうだろう?しかしその実質は恐ろしく強靭に造られているのだ。彼女が一体どれほどの逆境に耐え抜くことができるか、お前には想像もできないだろうな。』 今度は天使は彼女の頬に手をやり思わず叫んだ。『こんな所から水が漏れていますよ!』 『いやいや、それは水漏れではない。「涙」と呼ぶのだ。』 『へぇー、一体何のために使うんですか?』 『「喜びを表すため」「悲しみを表すため」「痛みを表すため」「失望を表すため」「寂しさを表すため」「誇りを表すため」…、まあいろいろだな。』 最後に天使は言いました。『神様、あなたこそまさしく「天才」です!』  もちろんこの物語はフィクションですが、じっくり読む価値があるでしょ? お母さんたち、本当にありがとう!!!

(122) “立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。”

現代の『スピード社会』は、とにかく私たちに「仕事を手早くやりこなす能力」を要求します。「多くの仕事を任される人」が『有能な人』とみなされるため、ついつい「他人から頼まれた仕事」をできるだけ優先させ、「自分が本来なすべき事」を後回しにしてしまいがちです。しかし、ちょっと立ち止まって考えてみてください。あなたは「人を喜ばせることの『中毒』」に陥ってはいませんか? 真面目で親切な人ほど「人のためになることは良いこと」と考えるあまり、自分の本分を犠牲にして『人からの頼まれ事』に没頭する傾向があります。もちろんそれが「相手に対する純粋な思いやりや愛情」から出ているものなら、それほど害悪はないかもしれませんが、もしそれらの行為が「相手に良く思われたい」とか「人の役に立つことで自分自身の存在価値を保てるから」などの誤った動機から来ているのだとしたら、それは危険信号です。 神は私たち1人1人を『ユニークな存在』としてお造りになりました。それは「誰か他の人の仕事に携わらせるため」ではなく、「ぜひともあなたと一緒に成し遂げたい『ユニークなわざ』をお持ちだから」です。神は決してあなたを『何でも屋』としてはお造りになりませんでした。「みんなを喜ばせること」よりも、「神を喜ばせる働き」をして欲しいと願っておられるのです。 「でも神様は、私が他の人々を助けることをお喜びになるんじゃないですか?」とおっしゃるかもしれません。確かにそうです。しかし神は同時に、あなたが終始「誰かのためにしなければならないこと」に振り回されること、をお望みにはなりません。ですから、もしあなたが「神から委ねられた働き」に携わっている時に、誰かから何かを頼まれたときは、まず神の前に静まり、神からの知恵と導きをうかがうべきです。 最後に、私の尊敬する『マザー・テレサ』の遺した言葉で締めくくりたいと思います。 “「どれだけのことを成し遂げたか」は問題ではありません。大切なのは『どれだけ心を込めたか』です。”

(121) “イエスは彼らに答えて言われた。「そんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからです。」”

小型飛行機の事故が起こる原因のほとんどは、飛行機の整備の不十分さにあるのではなく、操縦士のミスによるものだそうです。そしてまたその『操縦士のミス』というのも、操作そのものをミスするのではなく、「計器盤をキチンと見ていない」ことによるのだそうです。何故そんな初歩的なミスが起こるのでしょうか?それは操縦士が、イザという時に『計器盤』に信頼しないで『自分の感覚』に信頼しようとしてしまうためなのです。 回転イスに目隠しをして座り、イスをいろいろな方向に回転してもらいます。初めのうちは自分がどちらの方向に回転しているかを簡単に言い当てることができますが、そのうちに自分が一体どちらの方向に回転しているのか、また回転しているのかいないのかさえ分からなくなってしまいます。小型飛行機の操縦もこれと似ています。操縦席からの視界というのは、簡単に雲やその他のものでさえぎられてしまいます。嵐などの風雨が強い日はなおさらです。周囲の環境によって、飛行機の方向や高度は簡単に左右されてしまうのです。そんな時操縦士が『自分の感覚』に頼っていたならば、飛行機は簡単に進路から外れてしまい、最悪の場合、障害物にぶつかったり、墜落してしまったりするのです。ベテラン操縦士というのは「計器盤に頼らなくても飛行機を自由に操られる人」ではなく、「どんな時にも自分の感覚に頼らず、計器盤に絶対的な信頼をおいて、そこから眼を離さずに操縦を続ける人」なのです。 どんな飛行機でもその計器盤には莫大なお金を賭けて、大変精巧な機能を完備しています。なぜならこの計器盤こそ操縦士にとっての『命綱』であり、全面的な信頼を寄せるべきものだからです。そして私たちすべての人間にとっての計器盤とは、私たちをお造りになり、私たちを真理といのちへと導こうと願って止まない神ご自身のことばである『聖書』なのです。私たちが自分の『道徳観』や『経験』などの「肝心な時にあてにならないもの」ではなく、いつ・どんな状況においても冷静で正確な絶対的アドバイスを与えてくれるこの「人生の計器盤」に、あなたの人生の基盤をおいてはいかがでしょうか?

(120) “わたし(キリスト)は、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。”

ある青年が、人生の師と仰ぐ方のところに行って、こういう相談をしました。「先生、ボクは新しい宗教の教祖になって、その宗教を世界的なものにし、これから何百年の後も自分が教祖としてあがめられるような宗教を造りたいのですが、何か良いアイディアはないでしょうか?」 するとその人生の師は答えました。「ああ、それなら簡単だ。まず今日から清く正しい生活を始めなさい。そしてできるだけ多くの人々に『愛と赦し』について語りなさい。そしてまた『自分はもうまもなく、全世界の人々の罪の身代わりとなって死ぬ』ということも予告しておきなさい。そして数年経ったら、できるだけ悲惨な死に方をしなさい。その時に泣き言を言ってはいけません。その時のセリフは『父よ。彼らを赦したまえ』がいいな。そして死んだ後、ここが1番肝心だけど、3日くらい経ったら復活してきなさい。そうすればお前は間違いなく世界的な宗教の教祖になれる。」 この青年がこれを実行したかどうかは知りませんが、もし実行していたら、間違いなく今も墓の中にいるはずです。しかし、このような人生を文字通り歩んだ方が歴史上ただ1人だけおられます。それがイエス・キリストです。 今度の日曜日は『イースター』というキリスト教のお祭りです。日本人には『クリスマス』ほどは馴染みがありませんが、実際は『イースター』の方がクリスマスよりも重要な記念日であり、まさにこの『イースター』こそが「イエス・キリストが死を打ち破りよみがえられたこと」を記念する日なのです。 私たち人間は『死』を恐れます。何故なら未だかつてこの『死』を免れた人間は1人もいませんし、またこの『死』の向こう側に何があるのかはっきりと知っている人間も1人もいないからです。しかし『イースター』は、この「人類の最後の敵」とも言うべき『死』を、神は打ち破ることができる、ということを証明したのです。 あなたは『死』を恐れていますか?『死』の向こう側にある確かな希望を求めていますか?イエス・キリストはそのあなたが求めているものを与えることができる唯一の方なのです。

(119) “恐れのある日に、私は、あなた(神)に信頼します。”

子どもに人気のある伝統的な遊びの1つに「かくれんぼ」がありますよね。ジャンケンで『鬼』を決め、残りのメンバーは鬼に見つからないところに隠れる。隠れるのが上手な人も苦手な人もいます。隠れている間は「いつ見つかってしまうだろう…」とハラハラ・ドキドキ。そしてとうとう見つかってしまったとき、鬼は大喜びしますが、見つかってしまった自分はガッカリ。(いつまでも見つからないままでいるのも困りものですが…) 私たちの人生の中でも「かくれんぼ」があります。会社で上司から隠れようとしたり、反抗期の息子から隠れようとしたり、意地悪なクラスメートから隠れようとしたり…。物理的に姿を隠すことはできなくても、うわべだけの返事や作り笑いの陰に本心を隠したり、他の人にどう思われるかを恐れてつい自分の信念を隠してしまったりすることはありませんか? 考えてみると、「隠れること」は人間の歴史の当初から始まっていました。神から「決して食べてはならない」と言われていた『禁断の木の実』を食べてしまったアダムとエバは「神を恐れて木の陰に隠れた」と聖書の初めに書いてあります。「木の陰に隠れたところで神から身を隠せるはずがないだろう」と思うかもしれませんが、これは単に『隠れている』ことを意味するだけでなく、「関係が壊れてしまっていること」を表現しているのです。 この原則は現代に至るまで同じです。私たちは皆心の底では『隠れること』が問題の根本解決にはならないことを知っています。それは一時的な回避を可能にするかもしれませんが、多くの場合、解決を遅らせた分、問題はさらに増幅されて私たちに襲いかかってきます。ささいな言い争いを恐れたがために、人間関係に大きな溝を生み出してしまうことも度々です。すなわち『隠れること』は『恐れ』に由来し、そして「大切な関係の破壊」に至らせるのです。 ある聖書の記者は書きました。「恐れのある日に、私はあなた(神)に信頼します」と。私たちが「最も力のある方」そして「私たち1人1人に対する慈愛に満ちておられる方」に全き信頼を寄せるとき、もはや私たちは「隠れる」必要はないのです。

(118) “この方(イエス)はご自分の国に来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。”

『人生あきらめが肝心』とは言いますが、「何でもすぐにあきらめてしまう態度」も問題です。優秀なセールスマンでも、顧客15人中14人には断れてしまうそうです。しかし彼らはそこであきらめません。『15人目』と出会うために、次々と前進していくのです。 『No』という返事はしばしば「今はダメだけど、また来てね」ということを意味します。ですから、たった1度断られたからと言って簡単にあきらめてしまうことは正しいとは言えません。あなたは今日までの人生で恐らく何度も『小さな拒絶』を受けてきたことと思いますが、そこであきらめなかったから今のアナタがあるのではありませんか? 言ってみれば、イエス・キリストほど厳しい拒絶を経験した存在はないかもしれません。彼は神のもとから遣わされた『メシア(救い主)』として、神に選ばれた民である『ユダヤ民族』のもとに遣わされましたが、ユダヤ人たちは彼を拒絶したばかりか、「神を冒涜する者」としてのレッテルを貼り、十字架刑に処しました。しかしこの「ユダヤ民族による拒絶」がかえってその『神の救いの計画』を全人類へと広げる結果となったのです。 イエスが人々に『救いの知らせ』を次げ知らせるためにその弟子たちを遣わされた時、彼らにこう忠告しました。「もしその町で誰もあなたがたのことばに耳を傾けないなら、その町を出て行くときに、あなたがたの足のちりを払い落としなさい。」 もしあなたが誰かから拒絶を経験したとしても、心に浮かんだ苦々しい思いを「払い落として」前進しましょう。あきらめずに前進し続けるなら、必ず理解者と出会うことができます。 また、忘れてはならないことは、仮にあなたがすべての人から拒絶されたとしても、「あなたを決してあきらめず、ありのままを受け入れてくださる方がおられる」ということです。それはイエス・キリストです。彼は人々からの厳しい拒絶を経験されたので、拒絶を受けたあなたの苦しさを深く理解し、また癒すことがおできになるのです。

(117) “もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。”

「罪を憎んで人を憎まず」とは、古くから日本に語り継がれている言い回しですが、実に聖書の教えに通じるところがあります。神は私たち人間を深く愛していらっしゃいますが、私たちの罪とは決して妥協しようとはなさいません。それ故、ご自分のひとり子である『イエス・キリスト』を私たちの代わりに犠牲にしてまで、私たちの「罪の問題」を解決しようとされました。 「そんなに私たちを愛してくださっているなら、『罪あるままで』私たちを受け入れてくれたらいいじゃない。」と思われる方もいるかもしれません。しかし、それは本当の愛ではありません。 「大切なキミ」「そのままのキミが好き」などの絵本の著者としてしられる『マックス・ルケード』は、ある日の愛娘との体験を次のように描写しています。「やっとヨチヨチ歩きが始まったばかりの娘のジェナを連れて近くの公園へ行った。ジェナを砂場で遊ばせていると、アイスクリーム売りが通りかかったので、娘の大好きなアイスクリームを買ってやることにした。ところが、ちょっと眼を離した隙に、ジェナはせっせと口の中に砂を運び入れ始めていた。果たして私は、口の中に砂を一杯にしているような娘でも愛しているだろうか?もちろんだ!口の中に砂をたっぷり含んだこの子は、私の娘としての価値を落としているだろうか?そんなわけはありゃしない!では私は、娘が砂をむしゃむしゃと食べているのをいつまでも放っておくだろうか?そんなバカな!私はすぐさまジェナを抱きかかえて水道のところに連れて行き、抵抗する娘を制しつつ、次のように語りかけながら、口の中と周りとをきれいにしてやった。『私の愛する娘。ホラ、ちゃんと砂を吐き出しなさい。お父さんがもっとずっといいものをあげるからね。』」 私たちの神様も同じです。神が私たちから『罪(よくないもの)』を取り上げるのは、神様が意地悪だからなのではなく、私たちを深く愛しており、私たちに「もっと良いもの」を与えたいからなのです。

(116) “あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。”

聖書は私たちに『個人の尊厳性』を教えると共に、「自己中心性」というものを強く戒めてもいます。イエスは人々から「最も大切な戒めは何ですか?」と問われたとき、迷うことなく「心を尽くしてあなたの神を愛し、またあなたの隣人を愛することだ」とおっしゃいました。私たちが「自分のことで精一杯」になってしまっている時、私たちは人間本来の生きる意味を見失っています。それは「神と人々とを愛し、またそのために生きること」です。 2003年に33種類の様々な調査団が、その調査の共通した結果として「人間はその人生の最大の意義を『関係』の中に見出している」と発表しました。すなわち、人間は1人で生きるようには造られていないのです。 その人生の長い期間を『戦闘部隊』で過ごしたチャック・コルソンは、その晩年に次のように述べています。「80年の人生を振り返って私が確信をもって言うことができるのは、『私の人生の最大の喜びは、自分自身の時間や労力を他の人々のために使って、そして彼らがそれを肥やしとして成長していくのを見ることだった』ということである。私はいつも部隊のリーダーとして45名の部下を引き連れて戦場へ行ったが、そのときに生きて帰ってくるためにどうしても必要だったのは『互いのための献身』であった。自分の隣りにいるメンバーが自分のバックアップとして命懸けで支えてくれないとすれば、それは自分の死を意味するのである。『隣人への献身』これがなければ、1人1人の人生はまさに無に等しい。『他の人のために自分をささげること』この中に私たちは人生の意味と目的を見出すのである。」 もし私たちに「このためになら死ねる!」というものがないなら、「私はこのために生きている!」と言えるものがないのと同じことです。聖書はそれが「神と人とのために生きることである」と教えているのです。

(115) “愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。”

聖書の中で、使徒パウロは次のように言っています。「たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。」 多くの人々(恐らく全ての人)は『愛』を追い求めています。そしてこの『愛』とは決して「1人きり」でいるところでは学んだり用いたりすることはできません。『愛』を知るために、また体験するために、私たちは「人々の間に入って行く」必要があります。「面倒くさい人間関係」「決して思い通りにならない相手」「時には嫌になるほど様々な要求をしてくる人々」の中に入って行かなければならないのです。それ故私たちはしばしばこの『人間関係』というものをできるだけ後回しにしようとしたり、または無意識のうちに自分1人でさっさと作業を終わらせ、その場を後にしたりしてしまいます。「あぁ、あの人と会う時間を作らなきゃ」とか「今度はいつ家族と過ごす時間を取れるだろう?」などと考えることもありますが、実際そのこと自体が『人との関係』というものが生活パターンの中で優先順位の低い場所に位置してしまっていることを現わしているのです。 「『愛すること』『人との関係』というものが大切」ということが分かっているのに、何故こうなってしまうのでしょう?それは、良い関係を築くのには時間と労力が必要だからです。現代の私たちは、経済的な基盤を築いたり、自分の目標を成し遂げたりするのに忙しすぎて「人と過ごす時間を優先する」余裕を失ってしまっているのです。しかし、実はこれらのことは人生における2次的なものであって『最も大切なもの』ではありません! 「人生で最も意義のあること」それは、『人と神とを愛すること』です。神のご性質をひと言で言い表わすならば、それは『愛』です。それ故私たちが「愛する」時、私たちの間に『神の香り』が放たれるのです。マザー・テレサは次のように言いました。「大切なのは『どれだけのことをしたか』ではなく、『どれだけ愛を込めたか』です」。この『愛』こそが私たちが受け取りうる、また与えうる最高の財産です。「『人生』-『愛』=0」なのです!私たちの生涯の終わりに至る時、皆が「人生とは『人との関係』がすべてであった」と気付くのです。『人生の知恵』とは、いかにそのことに早く気付くか、ということです。どうぞあなたがこのことに気付くのが遅すぎることのないように。

(114) “さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。”

ローリィ・シュナイダ―さんは、エベレスト山の登頂に成功した数少ない女性の1人ですが、彼女はその栄光に甘んじることはしませんでした。「多発性硬化症」と診断された彼女は、次の夢をあきらめるどころか、かえって仕事をやめて世界6大陸の最高峰の登頂に挑戦する方を選んだのです。そして10年後にその夢を見事に実現しました。 この偉業を見届けた後、ローリィさんのお父様は次のようにコメントしました。「娘にとって『多発性硬化症』との診断を受けたことは、彼女の『障害』となるよりもむしろ『踏み台』となりました。彼女はそれを『妨害』としてではなく『挑戦』と受け取ったのです。」 ローリィさんの今の夢は、彼女同様「大きな挑戦」に直面している人々に、「慌てずに1歩1歩前進していけば、世界一高い山でさえ、乗り越えることができる」というメッセージを伝えることだそうです。 イエス・キリストに従う人生も同じです。私たちが目指しているのは「完全になること」ではなく、「成長すること」です。「完成まであとどれくらいか」を測るのではなく、むしろ「昨日よりもどれくらい進んだか」を測るべきなのです。それがたとえたった1センチメートルの前進であったとしても、それは大いに喜ぶべきことなのです。

(113) “小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です。”

心理学者たちの調査によると、私たちの行動の90%は『習慣的に』行われているそうです。90%ですよ! しかし考えてみるならば、私たちは皆この『習慣の力』というものの恩恵に多大にあずかっています。私たちは「習慣的に」生きているからこそ、多くのことをより迅速に能率良く行えるわけですし、1つ1つの小さなことにイチイチ煩わされることなく、大切なことに十分な注意と力とを注ぐことができるわけです。 しかし、ということは「良い習慣を育むことは人生の成功につながり、悪い習慣に支配されることは破滅を招く」ということも言えるかもしれません。「ついつい食べ過ぎてしまう」「万年の運動不足」「どうしてもタバコがやめられない」「自分は5時間睡眠で十分やっていける」などなど。日常のつい見逃してしまいがちな些細な『悪習慣』、その時は「まあ、いつか修正すればいいさ」で済ましてしまいがちですが、それらは確実に私たちの人生を蝕んでいるのです。そしてこの『習慣の力』の恐ろしいところは、「その習慣による悪影響がはっきり認識されるようになった頃には、既に手遅れになりかけている」ということです。 ある有名な企業の創始者は次のように言っています。「自分の夢を成し遂げようとする者が最も力を注ぐべきことは、自分を誘惑してくる『悪習慣』を徹底的に破壊し、夢の実現に役立つ『良い習慣』を何度も繰り返すことだ。」 では、そのような『良い習慣』をどのように見出していけば良いのでしょう? 1つの驚くべき事実は、世界人口の1%にも満たない『ユダヤ人』が、ノーベル賞受賞者の50%以上を占めているということです。彼らは幼い頃から聖書を学び、あるいは暗唱し、神を中心とした自意識、世界観、人生観を持って生きています。「自分の心のおもむくまま」ではなく、「神を恐れ、聖さを求め、常に自分自身を神の前に見張る姿勢」こそ、良い習慣を育む原動力なのです。

(112) “私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。”

皆さんは「もっと人のためになりたいと思っているのに、なかなか実践できない」とか、「そんなことを言うつもりはなかったのに、つい相手を傷つけるようなことを言ってしまった」などという経験はありませんか?もちろん私もあります。どうしてそんなことが起こるのでしょう?聖書は「それは私たちの心の中に『悪の原理』が宿っているからだ」と言っています。常に「正直に生きよう」と意識していない限り、私たちはついついこの『悪の原理』に振り回されます。あたかも私たちの心の中にある「自動操縦装置」かのようです。 アメリカ南部に生育するある「つる性の植物」は、いったん庭木や塀にからまり始めると、それをすぐに抹殺してしまわない限り、あっという間に庭全体を覆い尽くしてしまうそうです。 私たちの心の『悪の種』も、小さなうちに摘み取ってしまわないと、雪だるま式に大きくなって、収集がつかなくなってしまいます。軽い気持ちでついた「悪気のない嘘」が、前述のつる性植物のようにあなたの心の中にからまり始め、ついつい「出まかせの言い訳」がクセになり、気がついた時には誰からも信用されない『嘘つき』のレッテルを貼られてしまうのです。 では、私たちは一体どのようにしてこの『悪の原理』に侵されることなく、正しい歩みをすることができるのでしょうか? まず朝ごとに(他の何事も始める前に)、すべてのことをご存知で正しくさばかれる神の前に出て(祈りや聖書のことばを通して)、心の中が暗闇で覆われてしまう前に、神の『真理の光』で照らしていただくのです。そして、心のベルトをしっかりと『真理の霊(神の霊)』につながれて、この神の霊が私たちを導いてくださるのを感じながら1つ1つの営みを進めていくのです。 「私は自分の心を自分の力で十分制御できる」と思うのは、傲慢に過ぎません。神はいつでも「へりくだる者に助けを与えてくださる方」なのです。

(111) “私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。”

外見で人を判断することは、しばしば大きな失敗の原因となります。しかし実際に私たちは第1印象によってその人に対する見方を大きく左右されてしまうのも事実です。ある人の調べでは、初対面の人からの悪い印象でその人に対する見方を決めるのには10秒もかからないそうです。その人の外見、声の調子、握手の仕方、物の考え方などが自分とは違うと、つい「この人のことは好きになれない」と決め付けてしまうものです。 『好み』というものは誰にでもありますから、すべての人のことを「好き」になる必要はありませんが、それらの人々を「愛する」ことは可能です。人間というものは『外見』や『能力』以上の存在です。たとえその人の顔かたちや体格、立ち振る舞いが気に入らなくても、「この人は偉大な神によって造られた傑作品である」ということに気付くなら、愛することは可能になります。もし私たちが「神様、私はどうしてもあの人のことが好きになれません。でも、あなたが彼をご覧になっているように、私も見ることができるように助けてください!」と祈りつつ、大胆にアプローチしていくなら、『愛せない』というハードルを飛び越えることができます。『悪印象』を形作るのに10秒もかからないとすれば、いったん「愛する」と決めて相手に接していくなら、同じく短時間で相手に対する全く新しい見方を体験することができるのです。要するに「気分」ではなく「決断」の問題なのです。そして素晴らしいことに、「どうしても好きになれないと感じていた相手」を愛することができる術を身に付けた人は、「神がいつも共におられる」ことを実感しながら生きる者とされ、恐れから解放され、あらゆる環境の中で『愛による影響力』を流していくことができるようになるです。

(110) “互いに励まし合い、互いに徳を高め合いなさい。”

「隣りの芝生は青く見える」ということわざがあります。最近の日本ではあまり『芝生の庭』が見られなくなったので、いまいち馴染みの薄い言い回しですが、要するに「同じものであるはずなのに、何故か人のものは自分のものよりも良さそうに見える」という意味です。隣りの家とか、友人の車とか、知り合いの旦那とか、近所の子供とか…、挙げていればキリがありませんが、「何でウチのは、あの家のようではないのだろう…」とグチをこぼしたくなることがよくありますよね? そこでよぉく聞いてください。実際は「隣りの家の芝生が青く見える」のは、目の錯覚です。そのように見えるのは、「自分のものは良く知っているけど、他人のもののことは良く知らないから」、または「自分のものをキチンと面倒看ていないから」のどちらかです。 こんな話があります。あるハンサムな大金持ちが、大した魅力もない女性と結婚しました。周囲の人々は次のようにウワサしました。「あの結婚は絶対長続きしやしないわ。」 さて、数ヵ月後この新婚夫婦がハネムーンから帰ってきたとき周囲の人が見たのは、この大金持ちが全く見栄えの違った女性を連れていることでした。「ほら、前の女より、今度の女性の方がずっとこの人にふさわしいじゃない!」と周囲の人々は思ったのですが、驚いたことにこの女性はあの『冴えない女』と同一人物だったのです。この金持ちの男性はその妻を心から愛し、折にふれて励ましと賞賛の言葉をかけ、彼女の存在がどんなに自分の喜びであり、支えになっているかを日々告げていたため、この新妻は日々自分の価値を再発見しては、その上に自分自身を築き上げていったのでした。 もうお分かりですね。他の人のものを羨ましがってばかりで、自分のものの真価を見出せない人は、決して『青い芝生』を手に入れることはできません。それよりも、自分の芝生にかかさず栄養を与え、しっかりと面倒を看ることが大切なのです。あなたの妻や夫、子供たちに日々励ましの言葉をかけ、その努力を評価し、彼らの存在があなたにとってどれほどかけがえのないものなのかを伝えてください。言わば彼らの『チアリーダー』になってあげるのです。そうすれば、やがてあなたの家の芝生が、他のどの芝生よりも青々と輝いているのをあなたは発見することでしょう!

(109) “すべての営みには時がある。… 神のなさることは、すべて時にかなって美しい。”

神を信じ、神を求めつつ歩む人生は、しばしば「受けること」以上に「待つこと」が多い、と言えるかもしれません。そして待ちに待っていたものが与えられる頃には、もう『何か次のもの』を求め始まっているのではないでしょうか?ということは、もし「喜びをもって待つ」ということを知らなければ、相当イライラする人生になりかねませんね。 神様にとっての『ベストタイミング』と、私たちに都合の良い『ベストタイミング』は異なっている場合がほとんどです。神様は私たちにとっての「本当に必要なもの」をご存知で、またそれを「いつ・どうやって」私たちに与えるべきかも知っておられます。ですから、私たちはひたすら「神様は良い方で、私にとっての最善をなさる」と信じて待つべきです。 では、私たちは神様からの応答を待っている間、一体どうしていれば良いのでしょう?答えは「神様に対する『信頼』をひたすら育てる」ということです。私たちは何か新しいものが欲しくなると『今すでに与えられているもの』の価値を見落としがちです。「無いものねだりの心」は喜びを奪います。反対に「今あるものに対する感謝の心」は私たちに失われることのない喜びを与えてくれます。 神様と歩調を合わせ、その時その時神様が与えてくださっているものをじっと見つめて、その真価を見出しながら、「待つことの喜び」を味わう者となりたいものです。

(108) “どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。なぜなら、いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです。”

あなたにとって「満足いく人生」とはどんなものでしょう?高級車に乗ること?豪邸に住むこと?流行の最先端の服を着て街を闊歩すること、また一流の職場で働くことでしょうか? 「物質的に満足する」ためには、次の2つの方法があります。1つ目は、とにかく得られる物は限りなくトコトン手に入れること。もう1つは、ほんのちょっとだけしか欲しがらないことです。共産主義ソビエト時代に、その信仰の故何年も刑務所で過ごしたある牧師は、家族からも友人からも、唯一の趣味であった読書からも引き離された時、「本当の自由を体験した」と告白しています。またある探検家は、南極での何カ月もの孤独な生活を通して「人間が本当に必要にしているものは、真にわずかなものにすぎない」ということを発見したそうです。 現代人ほど「所有物に侵されてしまっている世代」は今までに無かったのではないでしょうか?「これさえ手に入れば、きっと満足する」と考えていた物も、実際に手に入れてしまうと、すぐにまた他の物を欲しくなってしまう。あたかも、物を追求すればするほど、満足感は遠ざかって行くかのようです。では、一体どれだけの物を得られれば『満足感』を得ることができるのでしょうか? ある大金持ちの青年がイエス・キリストのもとを訪れて、こう尋ねたことがあります。「先生、永遠のいのちを自分のものとして得るためには、どうすれば良いのでしょうか?」 その時イエスはこう答えました。「あなたの持ち物をすべて売り払って貧しい人々に施しなさい。そうすればあなたは天に宝を積むことになります。その上でわたしについてきなさい。」 これを聞いた青年はさぞかしショックを受けたことでしょう。 それでは、神様は私たちが物質的に豊かになることを好まれないのでしょうか?いや、そうではなく、それらの物が私たちの『心の王座』を神から奪い取ることを好まれないのです。イエスはこうも言われました。「あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるのです。」 あなたが「神様よりも大切にしてしまっているもの」は、何ですか?

(107) “主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。”

日本からニュージーランドにいらっしゃる方々の中には「日本での生活に疲れた。もう1度自分自身を見つめ直したい」というような『自分発見』を求めてくる方が多くいらっしゃいます。どうしてそのような方々が多いのでしょう?それはきっと、日本の社会の流れのスピードがあまりにも目まぐるしく、「自分自身を見つめる間」を見つけられないのではないかと思います。 私たちが日本から離れて生活するようになって20年近くの歳月が流れました。時々一時帰国をするたびに感じるのは、やはり「日本は複雑でめまぐるしい」という印象です。こちらが考え付く以上の品物の山、放っておいて欲しいと思っても、後から後から人や物に追いかけられているようなプレッシャーがあります。 私は、本来人間はあまり多くの物を必要としていないと思います。「衣・食・住」があって、「心を分かち合える仲間(家族?)」がいる。それで十分なはずなのに、「もっと豊かに、もっと便利に」と追求した結果が、この慌ただしい社会と、それに振り回されることに疲れ切った人々なのではないでしょうか? 日本の慌ただしさを逃れてニュージーランドにやって来た方々の多くが、こちらの雄大な自然やゆったりとした生活ペースの中で『創造主なる神』、そしてその神に形造られ、また愛されている存在としての『自分自身』を見出して帰国されます。「人は『何かができるから』、また『何かを持っているから』価値がある」のではなく、「偉大な神に形造られ、愛されているからこそ、そのありのままで価値がある」 たったこれだけのことが、私たちに本当に必要な『心の糧』なのです。実は多くの人々が心の奥深くで何となくそのことに気が付いているのに、『忙しさ』や『宗教的なことに対する嫌悪感』か何かで、それを認めることを拒んでいるのではないでしょうか? 年が改まり、気分一新して新しい年のスタートを切るにあたり、「唯一まことの神に造られ、愛されている自分」を見出すことから、歩みを始めてみてはいかがでしょうか?

(106) “信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。”

ワシの母鳥は、小鳥たちが成長してきたとき、自分たちで巣立つまでのんびり待っていたりは決してしません。もしそんなことをしていたら、いつまで経っても巣立っていかないことを知っているからです。母鳥は時が来ると彼らを巣から蹴落とします。「そんな冷たい!」と思ってしまいそうですが、それが小鳥たちに自分自身の人生を全うさせるための最も良い方法なのです。 私たちは、自分の力の限界を超えた挑戦をすべきではないかもしれませんが、いつでも「コンフォート・ゾーン(居心地の良い場所)」からは出て行くべきではないでしょうか?何故なら『コンフォート・ゾーン』に安住し続けた人で、大いなることを成し遂げた人は1人もいないからです。 正直なところ、誰も『コンフォート・ゾーン』から出て行くことを好みません。私たちは安全で落ち着いた場所が好きなのです。敢えてリスクを犯すよりは「現状維持」にとどまりたいのです。そんな私たちのことを評して、劇作家のバーナード・ショーは次のように言っています。「オレは『分別のある人々』にはもう飽き飽きした。アイツラはいつだって『しなくたっていい理由』ばかり捜してやがる!」 『信仰』はいつでも私たちに「コンフォート・ゾーンから飛び出す」ように促します。そして『疑いのドア』を押し開け、神が私たちのためにデザインしてくださった人生の航海へ出発させてくれるのです。真にエキサイティングな人生へのドアは、ノックをして「開けてくれるのを待つ」ものではなく、いつでも「押し開けて」いくものなのです。

(105) “私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。”

「家庭崩壊」という言葉が使われるようになって久しいですが、一体『最大の親不孝』とはどんなものだと思いますか?「非行に走ること」?「親より先に死んでしまうこと」?確かにこれらは大きな『親不孝』と言えるかもしれませんが、やはり何よりも親を悲しませるのは、「親を親と認めないこと」すなわち、親に向かって「アンタなんか知らねぇよ。アンタなんか親でもないでもねぇ!」と言うことではないでしょうか? 昨年全世界で話題となった『The Vow』という映画をご存知ですか?(日本ではバレンタインデーの頃に『君への誓い』というタイトルで上映されました。)これは「新婚の奥さんが事故で記憶を失ってしまい、夫のことさえ分からなくなってしまう」という、実話を基にして作られた映画です。「新婚の妻にそっけない態度を取られ続ける夫の苦悩と、それでも結婚式の時に神の前で誓った『誓い』の故に示し続ける、真実の愛」を描いた、なかなか胸を打つ作品です。 この映画はやや「他人事」に思えてしまいますが、実は私たちも「同じような態度」を神様に対して取り続けているのです。神はこの天地全宇宙を造られ、そして私たち1人1人をもお造りになられました。ところが私たちはそんなことをすっかり忘れ、あたかも自分1人の力で大人になったかのような態度で、「神様?そんなもの要らねぇよ!」と自分勝手に人生を浪費しているのです。そんな私たちに「わたしがあなたを造ったのだよ。わたしはあなたを愛しているのだ。わたしはあなたのために大いなる計画を持っている。わたしの許に来なさい!」そう私たちに知らせるために、今から約2000年前、神は人の姿をとられてこの地上に姿を現わされました。これが『クリスマス』のストーリーなのです。 話は変わりますが、今年の9月に、我が家の24歳になる長男が婚約いたしました。『婚約』といっても、「婚約指輪」を渡したわけでもなく、「結納」を交わしたわけでもありません。こちらニュージーランドの習慣では、男性が女性にプロポーズをし、それが受け入れられたら『婚約成立』ということになるのです。日本人の方々からは「それではずい分簡単すぎる!」と反論が出そうですが、実はこの男性が女性にプロポーズをする前に、必ず「女性のご両親からの承諾を得ていなければならない」という大前提があるのです。息子はプロポーズをする前夜に(彼女のご両親は遠方に住んでいるので)相手のご両親に電話であらかじめ了解を得ておいたそうです。そして一世一代のプロポーズに踏み切り、見事受け入れてもらえたわけです。 ある意味、クリスマスというのは、「神様から私たちへのプロポーズ」ということができると思います。神はご自身のひとり子であるイエス・キリストをこの世に人として遣わすことにより、私たち1人1人に対する深い愛と関心を表現なさいました。そして本来なら私たちの側からへりくだって『和解』をお願いすべきところ、神ご自身から『和解の申し出』を差し出して下さったのです。私たちはこの「神からの和解の申し出」を受け入れることもできますし、断ることもできます。あなたはどちらを選びますか?

(104) “あなたの名は何というのか?”

もうすぐクリスマス。クリスマスと言えば「プレゼント(?)」私たち日本人は誰かに何かを差し上げるとき、よく「つまらない物ですが…」と言いながら渡す習慣がありますが、謙遜な表現にしてもちょっと変だとは思いませんか? 物ならばまだいいのですが、これが『自己紹介』だとしたらどうでしょう?「あなたはどなたですか?」と尋ねられて「いえ、つまらない者ですよ…」などというのは謙遜でも何でもなく、単なる大きな誤りです。 「自分で自分のことをどんな人間だと思っているか?」ということは、ある意味「現在の自分の実際の姿」以上に重要と言えるかもしれません。ビジネスマンは初対面の人に名刺を渡すのが常ですが、私たちは「名刺に書かれている自分」以上の存在です。名刺に書かれているのは単にその人の職業や地位だけであり、実際のその人は父親や母親であったり、妻や夫であったり、弟や妹またはたったひとりの息子・娘であるかもしれません。 聖書に『ヤコブ』という人が出てきます。その名前の意味は「だます者」という意味でした。しかし神は彼に新たな名前を与えました。それは『イスラエル(神の王子)』という意味です。それ以来彼は以前の名を捨てて、自らを「神の王子」と呼んだのです。 聖書の中で神は私たちにこう語りかけます。「わたしの栄光のために、わたしがこれを創造し、これを形造り、これを造った」と。言わば私たちも『神の王子であり、王女』なのです。 フランス革命の時に、国王であったルイ16世と王妃マリー・アントワネットがギロチン死刑になったことは有名ですが、その息子に関してはこんな逸話が残っています。革命家たちは年端もいかない王子を殺すにはしのびなく、かといって将来親の敵討ちをたくまれても困るということで、街のならず者の一味に預けたそうです。このならず者たちは彼らの習慣に従ってこの少年を盗みや暴力などの様々な悪行のためにしつけようとしましたが、そのたびにこの少年は「ボクは王の子供なのだから、そんなことはできません!」と拒んだそうです。 どうぞ次のことを忘れないでください。私たちも、この天地をお造りになられた『王の王』の子供たちなのです。誰一人「つまらない、不必要な人間」などいません。もちろん、傲慢な態度をとる必要はありませんが、「自分は高価で尊い存在である。くだらないことに身を染めるべきものではない。世界は私を必要としている!」 神様はアナタがそのような自覚を持って生きることを今日も期待しておられるのです。

(103) “あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神が、あなたがたのことを心配してくださるからです。”

1つのなぞなぞを出します。「それをしても少しも得をしないどころか、損をする一方なのに、ついつい時間や力をたっぷり費やしてしまうもの、なぁんだ???」 何だか分かりますか?その答えは『思い煩い』です。 私たちは、いくら考えてもどうしようもないことを、ついつい思い煩ってしまいます。「受験に失敗したらどうしよう?」「このまま結婚できなかったらどうしよう?」「会社をクビになったらどうしよう?」などなど。どれも悩んだからといって事態が好転するものではなく、また実際に起こったからといって、命を失うような大事でもありません。では私たちはどうしてこのような『思い煩い』に捕まってしまうのでしょうか? 次の3つの理由が考えられます。 ①私たちは『現在』にしか生きられないから ・『思い煩い』はみな、「過去」または「未来」に関することです。「あんなことをしなければ良かった…」とか、「こんなことが起こったらどうしよう…」などなど。私たちにはどうしようもないことがらなので、ただ思い悩むことしかできないのです。 ②自分が『人生の主人公』だと思っているから ・人間は基本的に『自己中心的』であり、「自分の人生がどうなってしまうのか」が最重要事項になっています。ですから、たとえ家族や友人が幸運に恵まれていても、かえって自分の状況が心配になってしまうのです。 ③『出来事』に興味が集中しているから ・「人間は環境の動物」などと言われる通り、私たちは自分の内面を整えることより、外側の環境(外見・経済状態・持ち物など)を整えることにほとんどの時間と労力を費やしているので、それらを思い通りにできない時、対処する知恵がありません。 聖書は私たちに「思い煩うな!」と告げています。ということは、私たちが「思い煩わないでいること」が神のみこころなのです。言葉を変えて言うならば『思い煩い』とは、神を信じない(不信仰の)姿勢から発生する弊害です。神はこの全世界を創造され、今日もそれらすべてを支配しておられます。また彼は時間や空間に縛られてはいません。今ここで私たちと共におられると同時に、100年前や100年後にも存在することのできる方なのです。この神が「私こそアナタの人生の主役だ」とおっしゃるのです。私たちの人生は「私たちがどれほどの人間か」を顕示するためではなく、「私たちの神はどれほどのお方か」を表現するためのものなのです。そして聖書は「人はうわべを見るが、神は心を見る」と宣言します。出来事が問題なのではなく、その背後にある『人々の心』こそ重要なのです。敬虔な神のしもべとして有名なマザー・テレサは言いました。「『どれだけのことをしたか』は問題ではありません。大切なのは『どれだけ心を込めたか』です。」 この聖書の神をあなたの神として、このお方に全面的な信頼を置いて生きるとき、初めて人間は『思い煩い』から解放されるのです。

(102) “草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。”

超大型台風がフィリピンを襲い、多くの尊いいのちが奪われました。本当に心が痛みます。私たちが住むこのクライストチャーチでも多くのフィリピンからの移民の方々が暮らしており、家族の消息を案じています。私たちもできる限りの支援を行っています。 私たちの人生にもしばしば『台風の襲来』のような出来事があります。残念ながら「生涯に1度も試練がなかった」という人には会ったことがありません。ある意味「試練に直面する」という経験は、「生きているからこそ」と言えるのかもしれません。ですから大切なことは「いかにして試練を避けて通るか」ではなく、「どのように人生の嵐に備えるか」ということになります。 ある人々の人生、またクリスチャンとしての信仰生活は『自分の気分」に基づいているかのようです。気分の良い日は「何もかもうまくいく」ような気がしたり、「神様は私を愛しておられる」と感じたり。しかし毎日雨ばかり続いたり、何となく気分の乗らない日は、心がふさいでしまったり、「神様なんていやしない!」などと思ってしまう。 イエス・キリストはある時たとえ話を用いて次のように話されました。「わたしのこれらのことばを聞いてそれを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ています。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れません。ところが、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行わない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人のようです。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、ひどい倒れ方をしてしまいます。」 神が与えてくださる人生は、「毎日お天気の楽々人生」ではなく、「台風が押し寄せても倒されることのない、確固たる確信に基づく人生」です。そしてそのような人生は「ただ神様について知っている」ことから来るのではなく、「神のことばを聞いて、それに従って生きる」ことから来るのです。

(101) “思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。”

有名な作家であり評論家であるジョージ・バーナード・ショーの遺した言葉に次のようなものがあります。「人々はしばしば自分の置かれている環境に文句を言うが、私は環境などに支配されはしない。人生の成功者たちは皆、逆境の中で奮起し、そこに新たな環境を造り出す人なのだから。」 あなたがもし農場で働くとしたら、重要なのは「どのような土地であるか」以上に、「何の種を蒔くか」に違いありません。どんなに立派な土地でも、誤った種を蒔くならば、望んだ収穫は得られないのです。ましてやあなたの人生のフィールドにどんな種を蒔くかは、あなたの志し次第です。「不安や恐れの種」、「不純な志や自己中心の種」を蒔くなら、必ずその結果を刈り取ります。しかし、「平安や喜びの種」、「愛と思いやりに満ちた優しさの種」を蒔くなら、やはりそれに見合った収穫を刈り取るのです。 祝福された人生のカギは、何か特別な場所やイベントの中にころがっているのではありません。むしろあなたの平凡な日常生活の中に隠されているのです。祈り深く聖書を読み、その日に出会う1人1人に仕える心を保ちながら生きるとき、あなたはそれらのカギを見出すことができます。ある時はそれは「落ち込んでいる人を励ますこと」かもしれないし、またある時は「一見自分には大きすぎるような課題に挑戦すること」かもしれません。お返しできないような人に敢えて施すとき、神はあなたのその手のわざを見ておられます。そしてそれは神が私たちのために用意しておられる『祝福の大倉庫』のカギを開くのです。

(100) “あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。”

皆さんは『愛』という言葉を聞くと、どんなイメージを思い浮かべますか?恐らく多くの方々は「男女間の愛」を思い浮かべるのではないでしょうか?または「親子の愛」「人間愛」、そしてまた「愛は地球を救う」などの標語まで思い浮かべる方もいるかもしれませんね。どちらにしてもそこに共通している概念は「何か崇高で温かいもの」ではないかと思います。 もしかするとある方々は「私はそんな立派な人間ではないから・・・」とか、「愛とか恋とか、そんな乙女チックなことばかり求めていたら食っていけない」などと言って『愛すること』を敬遠しようとしておられるかもしれません。しかし実際は『愛する』ということは、「夢を追うようなこと」でも「非日常的なもの」でもありません。もし『愛する』ということをもっと分かりやすい日常的な言葉に言い換えるとすれば、それは「相手のためにちょっとだけ損をすること」なのです。 現代の私たちの生活は、100年前に比べれば格段に『便利』になりました。ところが「便利になったのならさぞかし暮らしにゆとりができたはずでは?」と問うてみるなら、決してそうではないことは歴然です。『便利さ』は更なる能率性を追求させ、現代人の生活は忙しさに追われ、「自分のことで精一杯」の人間を生み出し続けています。ご存知でしたか?『忙しい』の『忙』の文字は「心が亡びる」ということを意味しているのです。 神は私たちを「互いに愛し合う」ようにデザインなさいました。自分のことばかりにかまけていると「心が亡びる」ようにお造りになられたのです。実際、道端で助けを求めている人にちょっとだけ手を貸すのに、5分もかかりません。けれどもそのたった5分を他の人のために用いるだけで、私たちの心は息を吹き返すのです。 私たちは今日までどれほどの「心を亡びから免れさせるチャンス」を逸して来たことでしょう。でもガッカリしなくても大丈夫。今日から始めれば良いのです。神様はいつでも「愛する機会」をくださっています。もし私たちが『目を覚まして』歩んでいるのなら・・・。そしてイエス・キリストはこう言われました。「あなたがこれらの人々にしたのは、わたしにしたのです。」

(99) “行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。”

私の知り合いの牧師が、「ぜひキリスト教のお話しをしてください」と幼稚園に招かれました。彼は幼い子供たちにも分かりやすく、単純明快に『キリスト教における救い』を伝えようと、子どもたちの前で次のように言いました。「イエス・キリストを救い主と信じるだけで、天国へ行けるんですよ~。」 すると、後ろのほうに座っていた年長の男の子が大声で応えました。「そんなウマい話があるもんか!」 笑い話のように聞こえますが、実際「『救い』というものは、そうやすやすと手に入るものではない。 厳しい修行が必要なはずだ。」というのが、大方の人々の考えのようです。しかしこの考えは2つの点で問題があります。 1つ目は、「どんなに頑張っても、誰もカンペキにはなれない」ということです。これは誰もが認めるところでしょう。立派な人になりたい、と頑張れば頑張るほど、自分がイメージする「立派な人」には到底手が届かないことを思い知らされ、多くの人はうつ病になったり、罪責感にさいなまれたり、悪くすれば自殺に至ったりもします。 2つ目は、誰かが仮によく頑張った末、自分が目指していたゴールにかなり近いレベルまで達することができたとします。そのような人はつい『高慢』に陥ります。そしてそれができない多くの人に対し優越感を感じたり、見下したりするのです。 面白いことに、聖書は「悪魔が私たち人間を神から引き離す常套手段は、『罪責感』と『高慢』である」と教えています。『罪責感』は私たちに「自分はこんなにダメな人間だから、神様が愛してくださるはずはない」と思わせますし、『高慢』は私たちに「お前にはどんなことだってできるのだから、神様なんか必要ない。そんなのは弱い人間だけがすることだ」とささやきます。悪魔にマンマと騙されている人はいませんか? 「信じるだけで救われる」というのは、『ウマい話』に聞こえるかもしれませんが、これは「救いはタダである」という意味ではありません。私たちの側で払う犠牲はありませんが、神様の側では大きな大きな犠牲が払われたのです。それは、ひとり子イエス・キリストのいのちです。私たちの側で努力をして「救いを勝ち取ろう」とすることは、この『神が払われた犠牲』の価値を認めまいとする行為なのです。救われるために必要なのは、「神様、あなたがそれほどの犠牲まで払って私を救おうとしてくださったことを、心から感謝します」と言う、素直でへりくだった信仰だけなのです。

(98) “キリストが神の栄光のために、私たちを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに受け入れなさい。”

我が家(渋沢ファミリー)には2つの『家訓』があります。1つは「Learning Experience」すなわち「『失敗』は悪ではなく、そこから多くを学ぶチャンスである」ということ。もう1つは「昨日の自分より今日の自分」すなわち「自分と他の人とを比べて優越感を感じたり劣等感に落ち込んだりするのは愚かである。それよりも、今日の自分が昨日の自分より何か新しいをことを学んだり、成長することを目指そう」ということです。この家訓のおかげで、我が家の子供たちは実にユニークにのびのびと育ってくれています。 このような『家訓』を思いついたのは、もちろん聖書からヒントを得てのことでもありますが、もともとは私たち夫婦の関係からです。私たち夫婦は『正反対』と言えるほど、考え方や性格が違うのです。 私がまだ学生の頃、何かにつけて几帳面で細かいことにこだわりたくなる性格を見て、私の母はよく言ったものです。「お前みたいに細かいことが気になるタイプは、よっぽど『ズボラ』な奥さんをもらわないとダメだよ。」 これを聞いて私はいつも「オレは絶対そんな嫁さんと一緒には暮らしていけない!」と言い返していました。ところが、私がゾッコン惚れ込んでしまった女性が、(もちろん結婚してから分かったことですが…)何とまさしくその『ズボラ人間』だったのです。 彼女のそのような性格に気付き始めたのは、結婚式の翌朝からでした。前の晩に使った歯磨き粉のチューブが、確かに私はすその方から丁寧に押し出していたはずなのに、何故か中央の部分がギュッと押しつぶされていたのです。その時は「まあ、気のせいか」で済ませたのですが、そのようなことが毎朝毎晩続くので、2~3日後のある日私が新妻に「ねぇ、もしかしてキミは歯磨き粉のチューブを使うとき、真ん中へんを握るの?」と尋ねると、彼女はポカンとして「たぶんそうだと思うけど、他にどんな方法があるの?」と聞き返してきました。私は「イヤ、別に。」と言ってその場をやりすごしましたが、これは1つの例であって、このような食い違いは生活のあらゆる場面で現れ始めたのです。何度かのバトルの後私が下した決断は、「彼女は間違いなく、神様が私に与えてくださった『最高の妻』だ。このような妻がいるおかげでは、自分と違ったタイプの人間を愛し受け入れること、また新たなものの見方を学ぶことができる。」というものでした。 自分と違った考えを持つ人や、ちょっとした間違いや失敗に直面すると、私たちはつい相手や自分を裁いてしまいがちです。でも、はっきり言って世界は「自分と違ったタイプの人々」で満ちており、また「失敗しない人」など1人もいません。そのようなことにいちいちイラついていてはキリがありませんよね。むしろ私たちは、神様が造られた『ユニークな人々』を受け入れ、また神が私たちに対して寛容であられるように、自分や他の人の失敗に寛容に対処できる者でありたいものです。

(98) “貧しさも富も私に与えず、ただ、私に定められた分の食物で私を養ってください。私が食べ飽きて、あなたを否み、「主とはだれだ」と言わないために。また、私が貧しくて、盗みをし、私の神の御名を汚すことのないために。”

こんな質問をする人がいます。「もし神様を信じたなら、人生はすべてうまく行くのでしょうか?」 答えは残念ながら『ノー』です。ただこれだけは言えます。「神を信じても試練は減らない。しかし、もはや1人で立ち向かわなくてもよい。」 神は『問題のない人生』を約束してはいません。しかし『勝利ある人生』は約束しています。神が望んでいるのは、私たちが「幸せになること」ではなく、「神と共に生きるようになること」です。 もし神を知らない人に「あなたにとって、幸福な人生とは?」と尋ねるなら、きっと「すべてに満ち足りて、心配のないこと」などと答えるでしょう。ではそのような人生を生きている人は『神との関係』を求めるでしょうか?いいえ!恐らく「私はすべてにおいて満ち足りている。私には神など必要ない」と言うでしょう。だからこそ神は私たちにこの地上での「すべてにおける成功」を与えないのです。もしそのような人生を歩んでいる人がいるとしたら、もしかしたらその人は『悪魔の術中』にまんまとはまっているのかもしれません。 私たちが切に神を求めるのは、多くの場合「試練のただ中にいる時」です。順風満帆な人生を歩んでいても変わらず心から神を求めて生きる人がいるなら、あるいは問題の無い人生を歩ませてもらえるかもしれません。ところが私たちの多くはしばしば『人生の壁』『乗り越えなければならない山』に遭遇します。そのようなとき「神様、どうぞあなたと一緒にこの困難を乗り越えさせてください」と、私たちが神の許に近づくことを、神はいつも待っておられるのです。

(97) “いまだかつて、だれも神を見た者はありません。もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。”

結婚25周年を記念して、妻と2人で「バヌアツ共和国ウリピブ島」へ行ってきました。ウリピブ島は1999~2003年に私たちが『宣教師』として家族で暮らしていた島で、電気もガスも水道もない熱帯のさんご礁に囲まれた美しい島です。 日本人としてこの島で暮らすと、いわゆる「無いもの」がたくさんあります。先にあげた「電気・ガス・水道」に加え、ショッピングセンター、自動車(自転車さえありません)、公園、頑丈な家、ごちそう、コンピューターゲーム、食堂、コンビニなどなど、挙げていたらキリがありません。 しかし、ちょっと視点を変えてみれば、ここには日本には無い多くのものが満ちています。豊富な大自然、エメラルド色の海、美味しい空気、子供たちが自由に走り回れる空き地、数々のトロピカルフルーツ(パパイヤ・マンゴー・パイナップル・ココナツ・グアバ・パッションフルーツ…)、そして「人々のあふれる愛」です。 10年前に私たちがこの島で暮らしていたとき、日本から若い人たちが10人ほどやってきて、3~4日島に滞在したことがありました。私たちの小さな家にはとても入りきれなかったので、言葉の不自由さを懸念しながらも2人1組にして島の家族の中にそれぞれホームステイさせました。さて、どうなったと思いますか?コミュニケーションに四苦八苦して、ちっとも島の生活を楽しめなかったでしょうか? 出発の朝、それぞれの家族に見送られながら船着場にやってきた彼らの目は『別れを悲しむ涙』であふれていました。それぞれの家族と抱き合い、「帰りたくな~い!」と叫ぶ1人1人。彼らは「ことばを超えた愛」を体験したのです。物が豊富で『便利さ』という点では随一の日本には失われてしまった「互いが必要」「人間こそ最も大切」「共に生きる」というような、『人間の原点』と言えるものを、彼らはこの数日間体験し続けたのです。 10年ぶりに訪れたウリピブ島は「ソーラーパネル」や「携帯電話」などが普及し始め、チョッピリ驚かされましたが、肝心の『人々の心』は変わっていませんでした。「オレたちの家族が帰ってきた!」と、島のどこへ行っても(小さな島なので、徒歩1時間で1周できます)人だかりになり、1時間に20メートルも進めませんでした。今回の2週間の滞在を通して「私たち人間に必要なのは、やりがいのある仕事や便利さなどよりも、何より『愛(共に寄り添って生きること)』なのだ」と改めて思い知らされました。

(96) “彼らが自分たちの間で自分を量ったり、比較したりしているのは、知恵のないことなのです。”

「井の中の蛙大海を知らず」という日本の古いことわざがあります。「井戸の中に住んでいるカエルは、大海の存在も知らずに、自分の存在に得意になっている」というような否定的な意味で使われます。確かに「もっと広い世界があることも知らないで、ちっぽけな(自分だけの)世界だけを知って王様気取りしている」のは良くありませんが、広い世界を知ったために自分の小ささにガッカリし、萎縮してしまって大胆になれないのもどうかと思います。 ひと昔前に「世界に1つだけの花」という歌が流行りました。「ナンバー1になれなくてもいい…、もともと特別なオンリー1」というような歌詞だったと思います。いろいろな分野で「1番になること」を追求することは悪いことではありません。向上心を持ち、日々努力を重ね、更に高いレベルを目指す。すべての人はそうあるべきだと思います。ただこの「1番になること」または「何かができるようになること」が自分自身の価値を決めることのように錯覚してしまうのは危険です。「失敗すること」が『失敗者になること』とは違うように、「より多くのことができること」や「より多くの物を持っていること」と、「より優れた人物であること」とは全く別のことです。『持ち物』や『能力』に自分の価値を置いているなら、火事などですべてを失った時、また病気や事故で体の自由を失った時に、生きる希望まで失ってしまうことでしょう。 私たちの『自信』をいうものは、「何かが人よりも優れている」ということに根拠を置くのではなく、「自分はいったい何者なのか」ということに根差すべきです。聖書は「あなたは天地万物の創造者である神によって造られた最高傑作である」と述べています。この造り主は不動・不変であり、それによって与えられたこの価値観も永遠に揺らぐことはありません。まさにあなたは「もともと特別なオンリー1」であり、「『神のかたち』を宿した、神に愛されている者」なのです。 さあ、もう周囲を見回して自分と他の人とを比べるのは止めにして、上を見上げながら「神様に造られたユニークな作品としての自分」 に磨きをかけていきましょう!

(95) “落ち着いた生活をすることを志し、自分の仕事に身を入れなさい。”

『三角関係』というと、つい「恋愛関係のいざこざ」を思い描きがちですが、そればかりとは限りません。2人の人がもめているところに、その解決を助けようともう1人が加わるとき、要らぬ『三角関係』を巻き起こすこともよくあります。「自分は善意で関わろうとしたのに、どうしてこんな目に会わなきゃならないの?!」そう言いたくなるのも分かりますが、たとえそれが善意であっても、正しい理解と知恵に基づいていなければ、必ずしも結果が良くなるとは限りません。今日は「もめている2人を助けるための、2つのルール」を下記に述べたいと思います。  ①「神の導きを確信しているのでない限り、口を出さない」 ・英語のことわざに「自分の名前がついているのでない限り、わざわざ拾い上げるな!」というものがあります。日本語にも「小さな親切・大きなお世話」というのがありますよね。たとえそれが善意から出ていたとしても、あなたが必要とされていない問題に首をつっこむことは正しくありません。そういう時はむしろ、「自分に与えられている分をしっかりとこなす」ことに専念しているべきです。もめている当人たちが第3者に求めることは『解決』ではなく、「自分の味方になってくれること」なのですから。  ②「もめている双方それぞれと、良い関係を保つ」 ・あなたに求められているのは『問題の解決』ではなく、それぞれの人を「祈り、支えてあげる存在」となることです。もめごとを解決する責任は、当人たちにあります。しかし、そのことで疲れ果てたり傷ついたりした時、彼らには「支え、慰めてくれる人」が必要です。大切なことは、やがてもめごとに決着がついた時、あなたが2人の友のどちらかを失うのではなく、双方どちらとの関係も更に深まるようになっていることです。

(94) “あなたがたは、地の塩です。”

最近ではいろいろな化学調味料が開発されてきましたが、大昔から用いられている最も基本的な調味料と言えば、それは何と言っても『塩』でしょう。塩には2つの基本的な役割があります。1つは食べ物が腐る(悪くなる)のを防ぐこと。もう1つは、良い「味付け」をすることです。 現代の新聞やニュースを見聞きしていると、そこには『否定的・破壊的』なものが満ちています。戦争・飢餓・殺人・盗み・暴力・家庭崩壊などなど。このような「社会の腐敗」を、一体どのようにして止めることができるのでしょうか? イエス・キリストが「あなたがたは、地の塩です」 とおっしゃったとき、まさに彼はその話しを聞いている1人1人がこの「腐りかけた」世界の中で異彩を放って生きることを期待されたのです。疲れ果てている人々に『憩い』を、そして失望しかけている人々に『希望』を与えることができる者になるようにと。 否定的な生き方を初めから望んでいる人などいません。ほとんどの人は「忙しさ」や「不安・恐れ」また「ストレス」などの故にそのような生き方に追いやられているのです。私たちはそのような人々の言動や行動を操作することはできません。しかし、それらの人々に対する自分の態度(リアクション)は変えることができます。妥協したりあきらめかけている人々に同意する必要はないのです。私たちはそれらの中にあってなお、いつも『最高のもの』を求め、それに向かって最善を尽くすことができます。何故なら、私たちを造られ、私たちを愛し、今日も生きて働いておられる私たちの主イエス・キリストが、それを望んでおられるからです。 多くの場合、人々は「目覚まし」を必要としています。まだまだ残っているはずの「新たな希望・可能性」に向けるべき目が眠りかけてしまっているのを目覚めさせてくれる人、「キミはそんな風に感じているかもしれないけど、本当はそうではない!まだまだ希望はある!まだ試していないことはたくさん残っている!エネルギーを出し惜しみしないで!」と呼び覚ましてくれる人を。 あなたは眠ったまま干からびていく『塩』がいいですか?それとも腐りを止め、美味しく味付けする『塩』としてイエスと共に働きたいですか?

(93) “わたしを遣わした方のみこころを行い、そのみわざを成し遂げることが、わたしの食物です。”

「『人生成功のカギ』をあなたは持っていますか?」 こう尋ねられると恐らくある方々は「そんなものがあるのならぜひ手に入れたい!」と思うでしょうし、別の方々は「そんなものあるわけない。あれば誰も苦労しない。」とおっしゃるでしょう。しかし、私はそれを持っています。そして今日はそれを皆さんにお分かちします。 人生成功のカギ その1.「本当の成功とは何か」を理解する ・『成功した人生』とは、どのようなものでしょう?「周囲の人々から認められたり羨ましがられたりすること」でしょうか?それは単に『人気のある人生』なだけです。『真に成功した人生』とは、「自分の日々の歩みに対して心からの喜びと充実感を味わっている」ということです。そしてより高次元の目標を抱いて生きる人は、より高次元の喜びを体験することができます。 人生成功のカギ その2.「目標設定」のために、まず神に祈り求める ・「生きるための目標」を設定することは悪いことではありません。実際「目標なしの人生」はあたかも「帆のないヨット」のようで、環境に流されるだけです。しかし「目標となるものならどんなものでも良い」というわけでもありません。私たちを造られた神は、私たち1人1人のためにユニークでエキサイティングな計画をお持ちです。それは私たちが自分で思いつくどんな『グッドアイディア』にも優っています。 人生成功のカギ その3.「昨日の自分よりも、今日の自分」 ・種は1日で花を咲かせたり実を実らせたりはしません。しかしちゃんと面倒を看るなら確実に日々成長・発展していきます。神様はあなたに初めから花や実を与えることはしません。ただあなただけに育てられる『種』を与えます。あなたはそれが何であるかを見極め、そこから目をそらさず、日々心を込めて育てて行かなければなりません。他の人の成長を共に喜ぶことは良いことですが、自分の成長と比較して羨んだり落ち込んだりすることは愚かなことです。比較するなら、他の人ではなく、昨日の自分にしてください。 私は神様からこれらのカギを教えていただいてから、毎晩寝る前にこう思えるようになりました。「神様、もし私のたましいが今夜取り去られ、2度と目覚めることがなかったとしても満足です。今日は人生で最高の1日でしたから。でももしまた明日の朝目覚めるとしたら、心から感謝します。明日は私の人生の中で最高の1日となりますから。」

(92) “主を恐れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは悟りである。”

英語では『神』を表す単語が2つあります。1つは「God」、そしてもう1つは「god(s)」です。最初のアルファベットが大文字か小文字かだけの違いですが、実際には決定的な違いがあります。日本語で言うなら、前者は『人間を造った神』であり、後者は『人間が造り(考え)出した神』と言い分けることができるでしょう。前者は世界で唯一であり、後者はいくらでも存在します。 人間は自分の好みや必要に応じて、様々な神を考え出します。「困ったときには助けてくれるけど、普段は決して口出ししない神」「祈りをかなえてくれたり、約束を守ってはくれるけど、間違いを諌めたり、訓戒したりしない神」「どんなことでもできるけど、あくまでこちらの許可の範囲内で、こちらの都合に合わせてくれる神」などなど。 聖書が私たちに啓示している神(God)は、これらの人間的なイメージにはとても納まりきりません。真の神は完全に聖く、全能であり、かつ私たちの心の奥の奥までご存知の『恐るべきお方』です。聖書は、このことを恐れて生きることこそまことの知恵である、と教えます。 『恐れ』には私たちに必要なものと不必要なものとがあります。事故を恐れて安全運転をしたり、病気を恐れて体力づくりをしたりすることは必要です。しかし、失敗を恐れて新しいことにチャレンジすることをあきらめたり、人を恐れて自分の意見をはっきりと言えないことは、私たちの人生をダメにします。「不健康な恐れ」は、私たちを不安にさせ、生きる喜びを奪い、萎縮させます。しかし、それとは反対に「真の神を恐れて生きること」は、私たちをこれらの『不健康な恐れ』から解放し、生きる意義や喜びを満喫させ、人間に本来与えられた「神の栄光を現す人生」へと導いてくれます。 私たちは『自分で造り出した神』に希望を置いている(言い換えるなら、自分自身を神よりも上に置いている)間は、この『まことのいのち』を見出すことはできません。人生のカギを握るのは、『god』ではなく『God』なのです。

(91) “聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。”

「聖書は世界のベストセラー」と言われますが、なぜ聖書はそこまで人々に読まれているのでしょうか?最近映画の主人公にもなった、歴史上最も偉大なアメリカ大統領とも言われる『アブラハム・リンカーン』は、聖書に関して次のような言葉を遺しています。「聖書は神が人類に与えた最も偉大な贈り物である。私たち人間に必要なもののすべては聖書の中に書かれてある」 と。では、なぜ聖書が「神から与えられたもの」ということができるのでしょう? 第1番目には、「聖書の中に書かれた『預言』がことごとく成就している」という事実です。特にイエス・キリストに関する預言について言うなら、彼の誕生、生涯、そしてその十字架における死と復活に関しての数々の預言が成就しました。ある数学者の話によると、「聖書にある預言のうちの8つが1人の人物によって成し遂げられる確立は、日本の国土全体に1円玉をくまなく並べて、その中の1枚にだけしるしをつけ、1人の盲人が一発でそのしるしのついた1円玉を拾い上げるのと同じくらいの確立(すなわち、ほとんど不可能)である」ということです。ところが、イエス・キリストはたった1日で29の預言を成就しました。これは背後に「神の御手があった」としか言いようがありません。 第2番目は、その教えの崇高さです。「自分にしてもらいたいことは、他の人にもそのようにしなさい」「あなたの敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」などの道徳規準の高いその教えは、現代多くの国々の(キリスト教国に限らず)憲法の模範として用いられています。あたかも、人間をお造りになり、その幸福を願っている大いなる愛に満ちた神によってもたらされたかのようです。 第3番目には、「聖書は歴史を通して多くの人々の人生に影響をもたらした」ということです。聖書は数えきれない人々に、生きる希望・人生の目的・逆境を乗り越える力・生活の知恵、そしてしばしば歴史を造り変えるような大志を抱かせ、それを実現してきました。 通常、電化製品その他の品物を購入すると、必ず『取扱説明書』なるものがついてきます。ベーシックな使い道ならあまり説明書を読まなくても何とかなるのですが、少々複雑な使用目的や、特にトラブルに陥った時には必ずこの『取扱説明書』が必要になります。実は神様が私たち人間をお造りになり、この世に送り出された時にも、私たちのために『取扱説明書』を用意されました。それがこの『聖書』なのです。 さあ皆さん、聖書を読むことなしに人生の荒波を越えていくのがどんなに危険か、分かってもらえたでしょうか?

(90) “すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたし(イエス)のところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。”

引越しをしたことはありますか?結構大変な作業ですが、良い面もあります。それは「長いこと溜め込んでいた不用品を処理することができる」ということです。私が住むクライストチャーチでは、2年半前にあった大震災後、壊れかけた家の修復工事が進んでおり、最近も友人の家で工事が始まるというので、引越しを手伝ってきました。そうしたら、出てくるわ出てくるわ。数年前に行ったキャンプで残った食べ物や、消費期限のとっくに切れたコンタクト洗浄液。どこに行ってしまっていたか不明だった、ずっと以前に買いだめした缶詰類などなど。捨てたり、人にあげたりして、持ち物が半分くらい(ちょっと大袈裟か!)減ったようです。たまに引越しするのもいいかも。 「溜め込んだ不用品」は家の中だけではありません。私たちの心や思いの中にも、私たちの日々の向上にブレーキをかける『要らぬ重荷』がたくさん溜まっていることがあります。「誰にも分かってもらえない、という不安」「すべての人を喜ばせようとする徒労」「やってみる前にあきらめてしまう気持ち」「人との比較に疲れ果てている心」「皆から好かれていたいという欲求」。どれも何となく捨てがたい気がして、ついつい心のバッグに溜め込んで、いつの間にか人生に疲れ果ててしまうのです。 あるトラックの運転手が、重そうなリュックを背負った人が歩いているのを見かけたので、声をかけて後部座席に乗せてあげました。運転中にふと後ろを振り返ると、せっかくトラックに乗せてあげたのに、その人は車内でも相変わらずリュックを背負い続けていたそうです。さっさと降ろせばいいのに! イエス・キリストは、私たちの心の重荷を代わりに負ってくださるためにこの世に来られました。彼はありのままの私たちを愛し、受け入れ、かけがえのない尊い存在としてご覧になってくださいます。「どんな物を持っているか」「どれだけのことを成し遂げたか」は、彼にとっては問題ではないのです。ただ『神の視点から見た自分』だけが重要なのです。 あなたもこのイエスが運転するトラックに、私と一緒に乗りませんか?そして重荷を降ろして、イエスと共に歩む人生の醍醐味を満喫しましょう!

(89) “わたしは、あなたの神、主である。わたしは、あなたに益になることを教え、あなたの歩むべき道にあなたを導く。”

いつの時代にも、様々な占いがはやります。「星占い」「手相占い」「タロットカード」「水晶玉」などなど。何故このような『占い』がはやるのでしょう?それは「将来のことが分からないのが不安だから」ということではないでしょうか? 私たち人間は1秒先のことさえ分かりません。将来のための『計画』は立てますが、それが必ず実現するという保証はどこにもありません。それ故私たちは何とかして「将来の自分」を垣間見ようと占いに頼るのでしょうが、占いは将来を予測してはくれても、その「来るべき将来」のために今どう生きるべきか、を教えてくれはしません。 聖書は「将来の私」を教えてはいませんが、聖書が教える『神』は、私たちがもし彼に信頼するなら、私たちと「共に歩み」、私たちを「歩むべき道へと導く」と約束しています。言わば、聖書の神は、私たちの人生の『専属コーチ』になってくださるというのです。 ある人は「そんな、自分の人生のためにあれこれと指図されたくない。私の人生のことは私が自分で決める」とおっしゃるかもしれません。でも、そういう方でも「本を読んで学んだり」とか、「先輩にアドバイスをもらったり」とかはすることでしょう。神は何かをあなたに『無理じい』したりはしません。あくまであなたの『自由意志』を尊重します。彼はあなたの人生に祝福をもたらすための知恵は教えますが、それを選び取るかどうかの決断を下すのはあなた自身です。神はあなたを死とさばきから救い出すための『唯一の道であるイエス・キリスト』をお与えになりましたが、驚くべきことに、このイエスをあなたのための救いとして受け入れるかどうかの決断さえも、あなたにお委ねになりました。これでもあなたは「指図されたくないから、神なんて信じない」とおっしゃるでしょうか? 「デタラメな人生を送り、一生を無駄にしたい」などと心から願っている人など誰もいません。皆「有意義で豊かな人生を送りたい」と願っているはずです。そしてそれを与えるために、神はいつでも私たちの前に『スタンバイ』してくださっているのです。この神と関係を結び、そのアドバイスや導きを受けながら実り多き人生を送るかどうかは、今日のあなたの『決断』によっているのです。

(88) “何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。”

キリスト教の教えと言えば、『愛』とか『罪の赦し』などということばが思い浮かぶと思いますが、一体この2つはどのような関係があるのか、考えたことがあるでしょうか? 「愛の反対語」は、「憎しみ」と考える人が多いようですが、実際は『愛』と対極にあるものは「無関心」や「自己中心」といったものです。ある人は「愛なしに与えることはできるが、与えることなしに愛することはできない」と言いました。愛とは、相手のために自分の時間や労力、財産、そして時にはいのちまでも与えさせるものです。 それでは『罪』とはなんでしょうか?『殺人』『盗み』『強姦』などの刑事上の罪もあれば、『偽り』『欺き』『裏切り』などの道徳上の罪もありますよね。面白いことに、聖書はこれらのことに加えて次のような「罪の定義」をしています。「なすべき正しいことを知っていながら行わないなら、それはその人の罪です。」 電車やバスの中でお年寄りや妊婦さんに席をゆずってあげないこと、あるいは、道端で苦しそうにうずくまっている人に手を貸してあげないことこそ『罪』だと言うのです。これらは相手に対する『憎しみ』から出ているのではなく、私たちの中にある『自己中心性』や『無関心な態度』から出ているのです。 聖書は私たちに「罪から離れるように」と強く勧めています。そしてそれは「愛に生きること」によってこそ可能になるのです。『愛』とは、何か感傷的なものではなく、また男と女がイチャイチャすることでもありません。自分が持っているものを、それを必要としている人に与えることです。そしてそれを実践する力は「愛である神」から注がれるのです。このお方と心のベルトを掛け合って生きるとき、私たちはもはや周囲の人々に対して無関心ではいられません。そしてこの神ご自身が、罪の力に縛られていた私たちを黙って見ていることができずに、人(イエス・キリスト)の姿を取ってこの世に来られたのです。  

(87) “むちを控える者はその子を憎む者である。子を愛する者はつとめてこれを懲らしめる。”

現代ほど子どもを育てるのに知恵を必要とする時代はかつて無かったのではないでしょうか?暴力や破廉恥に満ちた漫画やゲーム。インターネットの蔓延。いじめや麻薬。そして多くの家庭は共稼ぎで、子供たちはお金だけ与えられて放置されています。「私は自分の子どもを愛しています」と言うかもしれません。しかし正しい『しつけ』抜きの愛は、単なる『甘やかし』に過ぎません。 私たちは単に「自分の子ども」を育てているのではなく、『次世代』を形造っているのです。ですから、「責任感のある、困難に負けない子供たちを育てること」は、神から私たちに委ねられている大きな責任だと言うことができます。そのために正しいルールを教え、それをしっかりと守って生きるようにしつけることはどうしても必要です。『ルール』というとどうしても「拘束される」というイメージがありますが、適度な理にかなったルールは、かえって子どもを安心させ、「自分は大切にされている」と感じさせるものです。 下記に「子どもを正しくしつけるため」のいくつかのガイドラインを述べておきます。 ①  「どうしても守らなければならない、必要最小限の『ルール』を作って、よく子どもに理解させる」 ・親として自分に都合が良いルールを作るのではなく、愛情を込めて「子どもを危険から守り、責任感のある大人となることを助ける、実行可能で具体的なルール」(多くても5つくらい)を作りましょう。それらを子どもに分かりやすく説明してあげてください。子どもがそのルールを破った時に、自分が何故叱られているのか分からないのでは、かえって子どもは混乱し、イライラするようになります。分かりやすい言葉で紙に書いて壁に貼っておくのも良いかもしれませんね。そして、叱る時には必ず一貫性を持たせるようにしてください。ルールを破ってもある時は叱られ、またある時は叱られなかったというのでは、ルールを作った意味がなくなりますから。 ②  「それらのルールを、子どもを『さばく』ためではなく、『成長を励ます』ために用いる」 ・複数のお子さんをお持ちの方によく見られることですが、決して兄弟同士、また近所の子供たちと比べた評価をしてはいけません。「アナタはどうしてOOちゃんのようにできないの!」 それは無理な話です。神様は1人1人をユニークに造られたのですから。また『レッテル貼り』をしないことです。「ホントにお前はのろまなんだから・・・」などのような言葉は、子供たちの心に「私はのろまだから、何をやってもダメなんだ」という呪いをかけます。子供たちの誤った行動を叱ることはあっても、人格を決め付けるような表現は避けましょう。 最後に、『No』ということを恐れないで下さい。子どもがいくら駄々をこねても、あるいは脅してきても「ダメなものはダメ」なのです。子どもも賢いですから、「だってお母さんだって・・・したじゃん!」などと言って、何とか自分の思い通りに親を動かそうとすることがあります。そんな時はしっかりと「親としての権威」に立ってください。但し、親だって間違いを犯すことはもちろんあります。その時は自分の過ちを素直に認めるように心がけましょう。「子どもは親の言うことは聞かないが、することは真似する」というのは本当です。親が自分の非を素直に認める態度を一貫していれば(もちろん、間違ってばかりでは困りますが・・・)、子どもも謙虚に育ちます。 「自分自身が神を畏れ敬いつつ正しい生き方を心がけ、子供たちをも神を畏れ人々を愛する子どもに育てる」、これが『次世代を育てる責任』を与えられた私たちの生き方なのではないでしょうか?

(86) “無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしりなどを、いっさいの悪意とともに、みな捨ててしまいなさい。”

毒蛇にかまれた男が、慌てて病院に駆け込みました。診察を終えてから男は医者に尋ねました。「命に関わるようなことはあるのでしょうか?」 医者は答えました。「咬まれた傷自体は大したことはありませんが、毒が体に残っていると、その危険はあります。」 私たちの人間関係にも同じようなことが言えます。誰かから嫌なことを言われたり、意地悪をされたりすることは心が痛みますが、その『キズ』自体は致命的ではありません。むしろそれをどう解釈するかが、私たちの人生や人間関係に大きな影響を与えます。私たちの人生に起こる出来事の中には、私たちには選ぶことのできないものもあります。しかし、私たちの人生を壊したり蝕んだりするのは、『出来事そのもの』ではなく、「その出来事をきっかけに私たちの心の中に起こった反応を、私たちがどう処理するか」にかかっています。心に生じた苦々しさを何度も何度も思い返していくうちに、やがてそれが相手への憎しみ(毒)となり、あなたの心を支配し、神様があなたのために備えてくださっている祝福を奪っていくのです。 しかし神様は、私たちがそのような悲劇から逃れるための道を用意してくださいました。それは『赦し』の道です。聖書は言います。「神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。」 神は、罪なきご自分のひとり子イエスを、私たちの罪の身代わりに十字架におつけになりました。私たちの『罪』とは、「いつでも自分が1番良い目をみたい、というワガママで自己中心的な心の態度」のことです。神はその罪の『責め』を私たちに負わせる代わりに、イエス・キリストに負わせたのです。それは私たちがもはや「罪の責め」を誰に負わせることもしないようになるためなのです。 憎しみや恨みからは何も良いものは生まれません。私たちがこれらのものから解放されるためには、それらの毒を吸い出してもらうことです。イエス・キリストを通して示された神の『愛と赦し』は、私たちの心に巣食おうとする毒を吸い出す力があるのです。あなたはもうこの『愛と赦し』を受け取りましたか?

(85) “そこでピラトは、群衆の目の前で水を取り寄せ、手を洗って、言った「この人の血について、私には責任がない。」”

皆さん知っていましたか、天国には悪い人ばかりいて、地獄には善い人ばかりがいるんだそうですよ。だって天国では皆が互いに 「ボクが悪かったんですよ。」 「いえいえ、私の方こそ悪かったんです!」 と言い合っていて、逆に地獄では皆が 「オレは悪くないぜ。悪いのはアイツだよ。」 「何言ってるのよ。私はちっとも悪くなんかないわ。そもそもアナタのせいじゃないの!」 と互いに自己弁護し、罪を人になすりつけているんですから… 上記はもちろん1つの寓話ですが、このように「失敗を誰かのせいにばかりしている人の周りには、決して幸福は生まれない」ということは言えるかもしれません。 私たちは現代、今までにない「責任をなすりつける」という習慣にまみれた時代に生きていると言えるかもしれません。人々は様々な理由を付けて「責任を追及されることを避けるための言い逃れ」をすることに夢中です。「自分がこうなったのは、アイツのせいだ。あの出来事のせいだ。」と。そして問題の発祥は決して自分ではないのです。 他の人に責任をなすりつけることは、一時的にはあなたの気持ちを楽にするかもしれませんが、それはあなたを中心とした人間関係を徐々に蝕んでいくのです。たとえ誰にも気づかれなかったとしても、世界に少なくとも2人は真実を知る者がいます。それは神様とあなた自身です。自分の責任を無視しようとし続ける限り、神のまなざしはあなたの『自責の念』を増長させることにしかなりません。しかし、もしあなたが神の前に自分の落ち度を認め、人々に対する責任を果たそうと努めるなら、その同じ神のまなざしが「愛のまなざし」と感じ取れるようになるのです。 もし非が他の人にあるのなら、その責任はその人自身が取らなければなりません。誰であっても「自分の非を認め、神を敬いつつ自分の責任を果たしていく」ところに、真の解決、そして解放があるのです。

(84) “神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。”

「後悔先に立たず」ということわざがありますが、実際には『後悔』には2種類あって、そのうちの1つは私たちに『死』をもたらし、もう1つは逆に『いのち』をもたらします。 「死をもたらす後悔」というのは、次のようなものです。「ああ、こんな不況になると分かっていたら、新しい家なんて買うんじゃなかった。せめてもう少し安い家を買っておけば…。それとも、貸家住まいにしておけば…。前の家で我慢していれば良かったのに…。」 このような「もしOOしておけば…」的な後悔は、私たちを単に落ち込みと失望へと追いやるだけでなく、新たな挑戦へ踏み出すことを押しとどめる『恐れ』となって私たちの人生に大きく立ちはだかるようになります。 では、「いのちをもたらす後悔」とはどのようなものでしょう?それは「この天と地をお造りになった私たちの神は、私たちの失敗よりも大きく、その失敗から私たちの人生を取り返させてくださるほど恵み深いお方である」と信じる信仰から生まれます。事実、私たちの神は「時空を超えて存在しておられるお方」であり、私たちが失敗してしまう前から、私たちのために『バックアッププラン』を備えて下さっているのです。ですから、もし私たちが自分の過去の失敗にいつまでもクヨクヨして下ばかり向いているのではなく、その失敗を取り返させてくださる『恵みに満ちた神』を見上げるなら、神はご自分の力と愛とを私たちに知らせようと、私たちの人生に働きかけて下さるのです。 「自己憐憫しながらの後ろ向きの人生」と「神に信頼して失敗をものともしない人生」、あなたはどちらを選びますか?

(83) “悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい。”

長い髪が似合う女性が、いよいよ出産が近づいた時、ずっとお気に入りだったロングヘアを、泣く泣く思い切ってバッサリと切り落とした帰り道、友人にバッタリ出くわしました。久しぶりに会ったその友人は、彼女の新しい髪形に驚いて思わずこう言いました。「えー、どうして切っちゃったの!全然似合わないわよ。あなたも知ってると思うけど、私は絶対ウソは言わないんだから!」 その友人に別れを告げて、彼女はトボトボと歩きながらつぶやきました。「今日だけでも、ウソでいいから『その髪型も似合うんじゃない?』って言ってくれれば良かったのに・・・」 私たちの人生は様々な『選択』の連続ですが、そのうちの1つは、「今感じていることを、相手に伝えるべきだろうか?それとも口を閉ざしているべきだろうか?」ではないでしょうか? もちろん正直であることは大切ですが、日本の古いことわざにもあるように、「口は災いの元」でもあるのです。もしあなたがいつでもどこでも自分の感じていることを正直そのままに口にしていたら、あなたの周りは『心傷ついた人たちだらけ』になってしまうことでしょう。実際、あなたがそう感じているからと言って、必ずしもそれが「真実で、正しい」とは限らないのです。 何かを相手に伝えようと思った時は、その言葉を発する前にこう自問自答すると良いでしょう。「このことは、この人にとって、また私と彼の関係にとって、本当に有益だろうか?それとも、かえって害をもたらすだろうか?」 「仮に正しいことだとしても、今がこれを伝える時だろうか?また自分がこれを伝えるにふさわしい存在だろうか?」 「語るべき正しいことを知っていること」は、「口を閉ざすべきタイミングを知っていること」ほどは大切ではないのです。

(82) “恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。”

皆さんの中で、床に置いてある30センチ幅で長さ5メートルの板の上を、端から端まで落ちないで歩き通すことができる人はいますか?恐らくほとんどの方が問題なく歩くことができると思います。では、その板を今度は隣り合った10階建ての2つのビルの屋上の間に渡したとしたら、渡ることができますか?きっと皆さん「お断りします」とおっしゃるでしょうね。どうしてでしょう?能力的には問題なく歩き渡れるはずです。なのに誰も渡ろうとはしない。それは『恐れ』が原因です。 このように、私たちは『恐れ』の故に、本来の能力を発揮できなくなることが多々あります。勉強が得意で、テストではいつも百点をとっているのに、授業中の質問には全く答えられない。「皆に見られている」と思うだけで、緊張して答えられなくなってしまうからです。 聖書は、「天地の創造者であり、私たちをこよなく愛しておられる神を知ることを通して、このような『恐れ』を克服できる」と教えています。何故なら聖書が語る神は、「良い方であり、すべてに勝って力ある方であり、そしてそのひとり子を身代わりに死なせるほどに私たちを愛しておられる方」だからです。 不思議なことに、私たちはこの『恐れ』によって「望ましくない出来事」を誘引してしまうことがあります。驚いたことに、ウサギや鹿などの弱小動物は、ライオンやトラが襲ってきたとき、生まれたばかりの赤ん坊を置き去りにして逃げるそうです。これは赤ん坊を見捨てるのではなく、かえって救うためです。何故なら猛獣たちは弱小動物たちの『恐れ』の波長をかぎつけて追いかけてくるからです。生まれたばかりの赤ん坊は『恐れ』を知らないので、襲われる危険性が少ないのです。 私たちはこの『恐れ』の波長を「恵みと力に満ちた『全能の神』に対する信頼」に置き換えることができます。私たちが『恐れ』を抱えている心の中のスペースは、本来はこの「創造者なる神」に対する信頼を据えるスペースなのです。このスペースを『空席』のままにしておくと、悪魔がやってきて、「シメシメ、こいつの『神様用』のスペースは空席のままだぞ」と言って、代わりに『恐れ』を放り込んでいくのです。 幼い子どもは暗い夜道を歩くことを恐れます。でもお父さんが一緒ならこわがることはありません。「お父さんはどんな敵よりも強くて、必ず自分を守ってくれる」と固く信じているからです。私たちの『父なる神』も、私たちがこのように彼に深く信頼し、『恐れ』から解放されて生きることを心から望んでおられるのです。

(81) “あなたがたはどこまで道理がわからないのですか。御霊で始まったあなたがたが、いま肉によって完成されるというのですか。”

ここクライストチャーチでは、2年半前の大震災以来、そこらじゅうで『道路工事』が絶えません。ところで『工事中』というと、日本の工事現場でしばしば見かける、黄色いヘルメットをかぶったおじさんがペコリとおじぎをしている「ただ今工事中。各方面にご迷惑をおかけしています」という看板を思い出します。 私たちがイエス・キリストを信じて「クリスチャン」として歩み始めると、神の霊が心に働きかけ、私たちは少しずつキリストのごとくに変えられて行きます。いわば『修復工事』が始まるわけです。上記のように、工事中は各方面にご迷惑をおかけして当然です。しかし生真面目な人は時々自力で何とかして工事を終了し、早々と看板を取り払い「完成したふり」をしてしまうことがあります。 あるクリスチャンの夫婦に、待望の始めての赤ん坊が与えられました。結婚前にキャリアウーマンだった奥さんは、何とか『子育て業』をテキパキとこなそうと努力し、完璧なスケジュール表を作りました。「いつも決められた時間に寝かせ、決められた時間に買い物へ出かけ、決められた時間にミルクをやり、昼寝をさせ、そしてご主人の帰宅までに素敵な夕食を準備しておく。」 この見事な計画は、完璧なまでにこなされていくかに見えました。彼女がストレスいっぱいになって爆発するまでは…。やがてその日はやってきました。ある日ご主人が帰宅すると、家の中は散らかり放題。髪の毛を振り乱し、シャワーも浴びることなく、買い物にも行けずに、泣きじゃくる赤ん坊を抱きながら、奥さんは叫びました。「もう、夕食なんか作らないわ!ジャンクフードでも何でも食べてきて頂戴!」 これを見たご主人は、ひざまずいて神をほめたたえ、愛しい妻を優しく抱きしめながら言いました。「やっと『本来のキミ』を取り戻してくれたんだね!」 向上心を持つことは素晴らしいことです。ただ、それが高じて神様の恵みを見失い、「自分の力で成し遂げてやる!」とひとり走りすると、多くの場合燃え尽きてしまうものです。私たちは自分の力で完成するようには造られていません。私たちの造り主なる神の恵みの御手に工事をゆだね、「各方面にご迷惑」をかけ合いながら、1歩1歩成長していけば良いのです。

(80) “力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。”

英語に『インテグリティ』という語があります。日本語なら「誠実」とか「高潔」などと訳せるでしょうか?分かりやすく言うなら「まあこれくらいならごまかしてしまってもいいかな。」などと思わない心です。つまり「10円を盗むこと」も「1億円を盗むこと」もどちらも「『盗んだこと』に違いはない」という、大変高い道徳規準です。 オックスフォード辞典によると、このインテグリティはすなわち『正直さ』のことである、と説明されています。歴代のアメリカ大統領の中でも特に尊敬を集めているリンカーン大統領は、20代の頃ある雑貨店で働いていました。ある晩店じまいをしようとしてお金の計算をしていたところ、どうしても6セント余ります。その日店に来たお客さんの顔を1人1人思い浮かべながら、受け渡しした金額を確かめてみると、あるおばあさんにお釣りを渡し足りなかったことが思い出されました。するとリンカーンはその晩暗くて遠い道のりを、わざわざそのおばあさんのところまで、6セントを返しに行ったそうです。これが『インテグリティ』です。 恐らく誰もがこのように誠実に生きることを願うことでしょう。では、何故そのような人をなかなか見つけられないのでしょうか?1つの理由は、『インテグリティ』は、ひとたび軽視して横道に外れてしまうと、もう1度もとの『インテグリティ』に戻るのが至難のわざだからです。ですから『インテグリティ』を保つためには、いつも自分の心を見張っていなければなりません。どんな人も、その人生の真価は、その人の人格によって最も明らかにされるのです。 では、このような『インテグリティ』を育てるために、具体的にどんなことができるでしょうか?実はカギは本当に単純な次の2つのことです。 ①約束を守る: あなたが誰かに約束をする時、あなたはその人に『希望』をもたらします。そしてあなたが実際にその約束を守るなら、あなたはその人の内に「あなたに対する信頼」を建て上げるのです。 ②自分の非を認める: どんな人にも約束を守れないことはあります。そんな時は素直に自分の非を認め、信頼を裏切ってしまった相手に謝罪することです。これは辛い経験ですが、これを軽んじると『インテグリティ』への道は更に遠のいてしまいます。  リンカーンは貧しい農家の出身で、小学校すらまともに通えなかった人物でしたが、その「心の態度」の故に神の祝福を受け、社会のために大いに用いられました。神様はあなたの『インテグリティ』の故に、世界を変えることがおできになるのです。

(79) “人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる。”

「赤信号 みんなで渡れば 怖くない」なぁんていう川柳を聞いたことがありますか?なかなか日本人の心理をついてますよね。『和』を重視するあまり、たとえそれが「悪いこと」だと分かっていても、つい周りに流されてしまう。でも実際は、「皆がやっているとしても、いけないことは『いけない』」わけだし、「誰もしていないとしても、正しいことは『正しい』」のです。何故そんな分かりきっていることを、私たちは実践できないことがあるのでしょう? 「ピア・プレッシャー」ということばがあります。この言葉は「人の目を恐れて、本来自分がなすべきことと違ったことをしてしまう様子」を表すときに使います。私たちが「人の目を恐れる」のは、単に『臆病』だからではなく、むしろ「それらの人々を喜ばせたいから」です。例えば、友だちを喜ばせたい人は、自分がしたくないことを頼まれたとき『No』と言えません。職場の上司を喜ばせたい人は、頼まれなくても、敢えて残業をして『勤勉さ』をアピールします。夫を喜ばせたい妻は、自分を押し殺して『従順さ』を装い、作り笑顔で耐えます。子供を喜ばせたい親は、子供に嫌われたり反抗されたりすることを恐れて、厳しくしつけることを軽んじます。しかし、これらの「誤った動機によるサービス」は短期間しか続かず、結果的として「担いきれない不満」を積み重ねることとなり、相手を喜ばせるどころか、取り返しのつかない『破局』を生み出しかねません。では、一体何が間違っているのでしょう?それは「喜ばせる対象」を間違えているのです。 ある信仰者は次のように祈りました。「神よ。私の口の言葉と、私の心の思いとが、御前に受け入れられますように。」 彼は自分が「人々に喜ばれること」よりも、まず「神に喜ばれること」を切に求めたのです。聖書が教える『神』は「正義と平和の神」です。私たちがこの方の前に「正しいことを正しい」とし、「誤っていることは誤り」とはっきり認めて、人の目を恐れず、その信じる道を大胆に歩むなら、神は私たちと人々との関係にも『真の平和』をもたらしてくださるのです。

(78) “神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。”

幼い少年がお母さんに言いました。「ねぇねぇお母さん、ボク今日幼稚園で『神様の絵』を描いたんだよ。」 するとお母さんは答えました。「あらスゴイわねぇ。だけど、誰も神様のことを見たことはないんだから、神様がどんな方か分からないんじゃないかしら?」 子供はしばらく考えてからこう言いました。「じゃあ、ボクの描いた絵を見ればいいんじゃない?」 確かに『神』という存在は肉眼では見ることができません。しかし聖書は「神は私たち人間を『神のかたち』として造られた」と言います。すなわち「人間の中に『神のかたち』とも言える性質が備わっているのだ」というのです。では、一体私たちのどこが神と似ているのでしょう?目鼻立ちでしょうか?それとも体格?きっとそういう意味ではないでしょうね。しかし次の2つの点で、私たちは神の性質を受け継いでいるのではないでしょうか? ①  夢を持つ力 ・私たち人間を、他の動物たちと決定的に区別する特性は「夢を持ち、それを追い求めて生きる性質」です。この力が人間を宇宙旅行へと導き、インターネットを可能にし、また神を見出し礼拝する者としているのです。 ②  自由意志によって行動する力 ・単に本能に任せて生きるのではなく、「どちらが正しいか」「どちらがより優れているか」を考慮しながら、日々選択を重ねて生きるのは、人間だけです。能力的・経済的限界があるにしても、私たちには皆『自由に決定するための意志』が与えられています。 私たち人間は上記の2つの性質を用いて、多くの優れたものを築いてきました。しかしそれらすべてが私たちの生活に「益をもたらしているかどうか」は疑問です。神が私たちにこれらの性質を与えてくださったのは、決してそれらを「自分の欲望を満足させるのに用いるため」ではなく、「神の栄光ある豊かさを地上に反映させるため」に違いありません。すなわち、神は私たちがこれらの崇高な性質を、神のみこころに則した方法で用いることを望んでおられるのです。神は私たちが人生を歩む上で、様々なチャンスや出会いを与えてくださいます。その度ごとに「しめしめ。これを機会にガッポリ儲けてやろう!」と言うのではなく、「神は私に、この機会を用いてどのようにご自身の豊かさを表現して欲しいと思っておられるのだろう?」と問いながら生きる、これが『神のかたちとして造られた者』にふさわしい生き方ではないでしょうか?

(77) “何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。”

上記の聖書の言葉は、『黄金律』とも呼ばれる、イエス・キリストが残された教えの中でも最も有名なものの1つです。「言うのは簡単そうだけど、実際にこのように生きるのはとても難しい!」と感じてしまいそうですが、何も大それたことをする必要はありません。「自分にしてもらいたいことを、他の人にもしてあげるチャンス」は、日常生活の中でいくらでもあるものです。 私が働いている教会は、街の大通り沿いにあり、隣りには大きなスーパーマーケットもあるので、1日にたくさんの人々とすれ違います。ちょっと観察してみると、それぞれ「忙しそうな顔」「思案げな顔」「幸せそうな顔」「落ち込んでいる顔」など表情は様々ですが、ある時ふと、「幸せそうな顔の人」を見かけると自分も何だか幸せな気分になり、「落ち込んでいる顔の人」を見かけると暗いことを考えてしまう傾向があることに気付いたのです。そして「では自分はいつもどんな顔をして歩いているのだろう?」と思わされました。 教会で歌われている賛美歌の1つに『スマイル』というタイトルの賛美歌があり、その歌詞は次のようなものです。「『スマイル』、それは誰もが持っている宝物。『スマイル』、それは買うことも借りることもできない。『スマイル』、それがなくても生きていけるほどの、強い人も豊かな人もこの世にはいない。神様がくれた素晴らしい贈り物。幸せを運び、減ることがない。」 そう、『笑顔』は人に微笑みかけても少しも減ることがなく、かえって相手の心に微笑みをもたらすことができます。「そうだ!私はこれから外を歩く時、1人1人に微笑みかけながら歩こう!」 そう決めました。すると、外を歩くのが楽しくなりました。実際、微笑みかけながら歩くと、多くの方々は微笑み返して下さるのです。 ところが時には、微笑みかけるとかえって迷惑そうな表情をする人もいます。その顔はいかにも「アンタは幸せそうでいいねぇ。こっちは踏んだりけったりで、アンタのその笑顔を見ると、逆に落ち込んでくるよ」とでも言っているかのようです。そんな時は「あまりむやみに微笑みかけるのも良くないかな?」などと思ってしまいます。 『ほほえみ』という詩があります。その詩の終わりは次のように結んであります。「もしあなたが誰かに期待したほほえみが得られなかったら 不愉快になる代わりに あなたの方からほほえみかけてごらんなさい ほほえみを忘れた人ほど それを必要とする人はいないのだから」 カトリック系の大学学長を40年も勤めていらっしゃる渡辺和子さんは次のようにおっしゃっています。「時々わたしからのほほえみを無視する人たちがいました。そんな時にはこう考えることにしたのです。『今のわたしのほほえみは、“神様のポケット”に入ったのだ』と。」 あなたはいつもどんな顔をして歩いていますか?

(76) “陰口をたたく者は、親しい友を離れさせる。”

哲人ソクラテスとある男の会話が記録に残っています。その男がある人のウワサ話をしようとしたところ、ソクラテスが彼に尋ねました。「キミはその話が本当かどうか確かめたかね?また、それは人を感動させるような、ためになる話しかね?」 男は答えました。「いや、そうでもないけど…」 ソクラテスは言いました。「そうか。本当かどうかも分からず、人を感動もさせず、ためにもならぬ話しなら、あまり聞く価値はないな。」 「うわさ話や陰口を交わす間柄」というのは、いかにも親密なように思えますが、実際は第3者をこき下ろすことによって互いに優越感を共有しようとする、とっても不健康な関係です。あなたと陰口を共有することを楽しんでくれるような人は、どこかで必ず他の人と「あなたに関する陰口を共有すること」を楽しんでいるに違いありません。 誰かの情報を他の人に伝えようとするときに、「陰口を楽しむワナ」に陥らないために、次のような点をチェックしてみて下さい。 ①なぜその人に伝えようとしているのか? その人なら問題解決の助けになってくれそうだからか?それとも単に「誰かに伝えたい」という欲求からなのか。 ②その情報は「他の人にも伝えて良い」という許可を得たものなのか?それとも「秘密を漏らす」ことになるのか?そのことを伝えないと「誰かのいのちが危険にさらされる」ことにでもなるのだろうか?もし本当にそうなら「その情報はあなたから漏れたのだ」と知られても、何も問題はないはずですよね? そして最後に、③もしあなたがその人と同じ境遇にいたとしたら、あなたは自分のその情報を他の人にも知らせて欲しいと思うか?それとも打ち明けた相手の心の中に、そっとしまっておいて欲しいのか? 良い人間関係を築く秘訣の1つは、人のうわさ話を「しない・聞かない」と心に決めておくことです。

(75) “なまけ者は欲を起こしても心に何もない。しかし勤勉な者の心は満たされる。”

並外れている人物のことを、英語で「エクストラ・オーディナリー」と言います。この『オーディナリー』とは「ありふれている、どこにでもいる」という意味であり、『エクストラ』というのは「ちょっとした付け足し」のことです。すなわち『並外れた人物』と『ありふれた人』との違いは、「ちょっとだけ余分な努力をするかしないか」の違いだという訳です。 上記の聖書の言葉にある「勤勉さ」とは、「熱心さ」「正直さ」「しつこさ」そして「より優れたものを目指す努力」を指します。ある専門家は次のように言いました。「何かに成功するためには、他の人より100%勝っている必要はない。むしろ、あらゆる部門で他の人より1%勝ってさえいればよいのである。」 つまり、いつも次のように自問自答することが大切です。「あと1ついつもより余分にできるとしたら、それは何だろう?」 ウィリアム・アーサーは次のように書きました。 「『所属するだけ』よりも、むしろ『参加する者』でいよう。『気を配るだけ』よりも、むしろ『手を差し伸べる者』でいよう。『信じるだけ』よりも、むしろ『実践する者』でいよう。『公平を図るだけ』よりも、むしろ『親切な者』でいよう。『赦すだけ』よりも、むしろ『忘れてあげる者』でいよう。『夢見るだけ』よりも、むしろ『行動を起こす者』でいよう。『教えるだけ』よりも、むしろ『奮い立たせる者』でいよう。『教わるだけ』よりも、むしろ『心豊かな者』でいよう。『与えるだけ』よりも、むしろ『仕える者』でいよう。『生きるだけ』よりも、むしろ『成長する者』でいよう。『苦しむだけ』よりも、むしろ『克服する者』でいよう。」 「できるだけ楽をして、しかも成功を収めること」はできません。ちょっとの犠牲、もう1歩の努力が違いを生むのです。  

(74) “私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。”

  人生が自分の願ったとおりに進んでいるときに「幸福な気分」を味わうことは誰にでもできます。しかし、実際人生がそのように進む瞬間はどれほどあるでしょうか?自分が置かれている状況に関わらず幸福感を味わうことができる秘訣はないものなのでしょうか? あるプロ野球の2軍のコーチがこんなことを言っていました。「若手選手の中で、やがて1軍で活躍する選手と、ずっと2軍のままで終わる選手の違いは、『技術の差』ではなく『意識の差』である。」 ある選手は、1軍から2軍に行くように言われた時、「2軍に落とされた」と言います。つまり自分が2軍行きを命じられたのは、自分のせいではなく、1軍のコーチに見る目がなかったからだ、と責任転嫁をするのです。こういう選手に限ってエラーをすると、道具のせいにしたり、グラウンドの整備が悪いからだと文句を言うのです。しかし別の選手は、「もう1度自分を鍛えなおす絶好の機会が与えられた」と、先輩やコーチの助言によく耳を傾け、熱心にトレーニングを重ねます。こういう選手ほど、やがて活躍するようになるものです。 すなわち、『幸福感』は状況に左右されるべきものではなく、自分で管理すべきものだということです。 私たちから『幸福感』を奪う3つのものがあります。 ①   欲張る心 : ないものねだりばかりしている人は、神が既に与えてくださっているものを楽しむことができません。もちろん『向上心』を持つことは良いことです。しかしゴールばかりに気を取られて、「成長の過程」を喜ぶことを忘れてしまうと、幸福感は失われてしまいます。 ②   恐れる心 : 悪魔はいつも、私たちが神様のことを忘れて「目先のものを追求すること」に熱中させ、結果として「根拠のない恐れ」(もしOOを失ってしまったらどうしよう。もし~が起こったらどうしよう。など)の中に捕らえることを狙っています。恐れは私たちから「平安」や「人生のしっかりした土台」を奪い取ります。 ③   『幸福感』を誤った場所に見出そうとすること : 「人は人生の初めの50年を『安定した生活を得るため』に使い、残りの日々を『人生の意義を見出すため』に用いる」と言われています。本当にそれが人生の正しい用い方でしょうか? 人生の本当の満足(幸福感)は、私たちをお造りになり、私たちに人生そのものを与えてくださった神との関係から来るのです。私たちはイエス・キリストを通して神との関係の中に生きるとき、恐れから解放され、現状を喜ぶ心が与えられ、正しいフォーカスを持って生きることができるようになります。

(73) 私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。

私が通っていた幼稚園は『恵み幼稚園』という名前でした。それはキリスト教会の付属幼稚園だったわけではなく、「お寺の付属幼稚園」そして園長先生はお坊さんでした。毎朝お寺で「ありがたいお話し」を聞いてから1日がスタートするのですが、その中で、私が卒園してからもずっと覚えていたお話は「お釈迦様はいつでもあなたのことをご覧になっています」というものでした。私は当時「鼻くそをほじるクセ」があったので、この「お釈迦さまがいつも自分のことを見ている」ということは、『見守られている』というより、むしろ『監視されている』という気分がして、とても辛かったのを覚えています。 ところで「恵み」とは一体何でしょう?少なくとも次の3つのことを含んでいると思います。 ①一方的に与えられる物。 ②自分の努力によってではなく、神の憐みによって与えられる物。 ③自分の力で奮闘している間は手が届かず、「もうダメだ」と思った時、いつの間にか手にしている物。 聖書には次のような言葉があります。「神は高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。」 ここで言う『へりくだる者』とは、自分の弱さ・足りなさを認め、「神なしには決して成し遂げることはできない」と考える者です。それと反対に『高ぶる者』とは、自分の力で成し遂げることによって「名誉を我がものにしたい」と望む者であり、このような人たちにとっては「神からの恵みを受け取る」ことはおろか、プライドの故それを求めることさえできないのです。 使徒ペテロは「恵みにおいて成長しなさい」と言っています。私たちが「恵みにおいて成長する」には、それを『受け取る』経験を重ねる以外にありません。そしてそれを受け取るには、神の愛と約束を信じ、日常生活の中で神が与えて下さっている物を見出し、それを感謝し、またあなたが助けを必要とする場面でそこに神が介入してくださることを期待し待ち望む姿勢が必要です。実際、「神の恵みなしに私たちが生きることのできる日」なんて、1日だってありはしません。そしてまた、私たちの必要を満たすために、神に「足りない」などということも、決してないのです。

(72) ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、

おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。 「努力はいつか報われる」という価値観を握りしめて今日までの人生を送ってこられた方は少なくないと思います。何を隠そう、私自身も『中学校卒業記念文集』の寄せ書きに、「努力はSome Day報われる」と力強く書き込みました。「人間たるもの、努力を怠ったら、もはや生きる資格はない!」などと確信していたと思います。ですから「何の苦労もなく手に入れる」とか、「タダでもらえる」などと聞くと、時には軽蔑したり、「タダほど高いものはない!」などと言って敬遠してきた気がします。 ところが、一見この「人生の美学」とも思える『努力至上主義』が、「神の恵みを受け取る」という状況になると、大きな障害になりかねない、ということも事実です。神は私たちを最高の愛で愛しておられ、ご自身の許にある祝福を私たちに注ぎたい、といつも願っておられます。そして私たちがその祝福をいただくための正しい姿勢は、「何とかして手に入れる」というのではなく、「ただ感謝して受け取る」というものなのです。 イエス・キリストは、私たちを「人生における悩み・束縛・プレッシャーなど」から解放するためにこの地上に来てくださいました。何も『クリスチャン』という名のもとに私たちを新たな「悩み・束縛・プレッシャー」の中に閉じ込めるためではありません。私たちは、すべての神の祝福は「恵みによって無代価で与えられるもの」であって、それを受け取るために必要なたった1つのものは「神はそれをくださる、という信仰」だけだということをはっきりと心に刻まなければなりません。神の目にあなたは一体どれほどに尊い、価値ある存在なのか、あなたはまだよく分かっていないのです。このお方こそ「世界で最もあてになるお方」であり、その祝福をいただくことを妨げている物こそ、今まで「これこそ1番大切で、どうしても手放せない」とこだわってきた『古い価値観(習慣)』なのです。 私たちの『古い価値観』は言います。「1人前になったら、いつまでも他の人に頼ってちゃいけないよ!」 しかし「私は古い価値観で頑張ってきて、ダメでした。もう自分に頼ることはやめて、全面的にあなたに頼って行きます!」と言う者こそ、神が最も祝福を注ぎやすい人々なのです。

(71) 私たちは真実でなくても、神は常に真実である。神にはご自身を否むことができないからである。

使徒パウロは聖書の中で、次のような人々は神の国に入ることはできない、と書いています。「性的な罪を犯す者、偶像を拝む者、酒に酔う者、強奪する者、…そして『すべて偽る者』」。 「それじゃあ、ちょっとした『でまかせ』を言うことや「見え透いたお世辞」を言うことが、不倫や強盗と一緒だって言うのかい?」と問われるかもしれません。でも、そういうことになります。神の前には「税金の支払いをごまかすこと」も、「他の神々に対して膝をかがめること」と同様にその心を痛ませるのです。 どうしてそんなことになるのでしょうか?何故神はそこまで私たちの『不真実』を嘆かれるのでしょう?それは『不真実』は、神のご性質に真っ向から反するからです。神は「ウソをつかない方」でも「ウソをつかないようにしている方」でもなく、「その性質上、ウソをつくことのできない方」なのです。神が私たちに何かを約束されるなら、それを守らずにはいられない方であり、神が何かを語られたなら、それは必ず文字通り理解されるべきです。そして彼が聖書の中で私たちに語られている数々の言葉は、すべてそのまま信じるに値するものなのです!神の辞書には『あやふや』という文字はありません。彼の言葉はいつも白黒はっきりしています。 今日、もし私たちが「本気で神と共に人生を歩もう」と言うなら、私たちはまず「常に心からの真実を神にささげて生きる」ということをしっかりと心に刻まなければなりません。

(70) 人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。

人生は『選択・判断』の連続です。たった1つの誤った判断が、私たちの人生を台無しにしてしまうこともあります。ですから、私たちが祝福に満ちた人生を送るために『正しい判断力』は欠かせません。ところがこの『正しい判断力』というものが「生まれつき身に着いている」という人は誰もいません。また「普通に生活していれば、いずれ身に着く」といったものでもありません。『勇敢さ』『高い教育』『年を取ること』がそれを得るのに役立つとも限りません。「日々正しい判断を行なっている人」と一緒に時間を過ごすことは、助けになることもあるかもしれませんが、かと言って「一緒に居さえすれば、やがて移ってくる」というわけでもありません。 「正しい判断力」を身に付けるために、私たちにできることが2つあります。 ①「1つ1つの選択には、必ずその結果がついてくる」ということを肝に銘じる。 ・自分の苦労や失敗を『環境』のせいにする人はたくさんいます。しかし実際は「環境そのもの」がその人を追い込むのではなく、「それらの環境に対する対処の仕方や態度」があなたの人生に影響を及ぼすのです。自分の周囲の環境を呪っても何も事態は好転しません。その環境の中で「あなたができる最善を見出そうとする姿勢」が、あなたの内に『正しい判断力』を育てるのです。 ②「他に方法はない」と決めつける考え方を捨てる。 ・私たちはしばしば「これは必ず正しくて、これは必ず間違っている」という考え方に偏りがちです。「この方法は以前やってみてダメだった。だからもう1度挑戦する価値はない!」 本当でしょうか?もしかしてもう1度チャレンジしてみたら、うまくいくことはあり得ないでしょうか?みすみす可能性を狭めてしまうのではなく、『ダメ元』で、以前失敗した方法であっても、多少愚かに見える方法であっても、はたまた1度も試みたことのない道であっても、わずかな可能性を探ってみてはどうでしょう?「必ず何か他にも方法があるはずだ」という姿勢を育てること、これが私たちに「更に豊かな判断材料」を与えてくれます。

(69) それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。

行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。 私たちの暮らしている社会は、いつも私たちが「何をしているか」を問います。私たちはいつもその成長過程の中で、他の人と比べられてきました。「何故お兄ちゃんやお姉ちゃんみたいにできないの?」「どうしてオレが言った通りにやらないんだ!」などなど。私たちは何とか周囲の期待に応えようと『ガンバル』のですが、その期待を満足させられることは滅多になく、悩んだり、落ち込んだり、燃え尽きてしまったりするのです。 この混乱に唯一終止符を打つことができるのは、「私たちの行為に関わりなく、ありのままの私たちを愛して下さっている神」と出会うことです。そしてそのことは『イエス・キリストの十字架の意味』を知ることから来ます。私たちの人生の土台は、次の2つのパターンしかありません。「イエス・キリストを通した神の恵みの目線で自分を見るか」または「自分の行ないを磨いて、自分に自信をつけていくか」です。実を言うと、神の私たちに対する評価も、ある『行為』に基づいています。但しそれは「私たちが何をしたか」ではなく、「イエス・キリストが何をされたか」 なのです。イエス・キリストが十字架にかかられたのは、彼の私たちに対する「真実の献身的な愛」を示すためでした。彼はどんなに失敗ばかりで役立たずな私たちでも決して見放すことなく、あきれてしまうことなく、一緒に人生を歩んで下さるのです。 イエス・キリストと共に人生を歩き始めると、それまで心に溜めこんできた心の痛みや誤った価値観から徐々に解放され、それまで自分でも気付かなかったような新たな可能性への道が開けて行くのを体験します。キリストは、私たちが「この世の王であるサタン」から奪われてきたものを、1つ1つ取り戻させて下さるのです。私たちは本来、「出来不出来」で評価されるために生まれてきたのではなく、全能の神の尊い御手によって「ありのままを喜ばれ、愛されるため」 に生まれてきたのです。

(68) そこで、彼らは言った。「あなたはだれですか?」

今から2千年前、ヨルダン川で人々に洗礼を授けていたヨハネに対して、人々が「あなたはだれですか?」と尋ねた時、ヨハネは迷うことなく次のように答えました。「私は預言者の書の中に書かれている『荒野で叫ぶ者の声』であり、『主の道をまっすぐに整えている者』です。」 当時ヨハネには多くの弟子たちが付き従っていましたが、やがて『来たるべき方』であるイエス・キリストが現れた後、彼の弟子たちの多くはイエス・キリストの許へと移って行きました。ヨハネはガッカリしたでしょうか?いいえ!なぜなら、彼は自分が一体何のために生まれてきたかをよく知っており、その役割を忠実に果たすことができたことに満足していたからです。 あなたは、「自分が何のために生まれてきたか」を知っていますか?もちろん生まれつきそのことを知っている人はいません。しかし、人生半ばに差し掛かってもそれが何であるか皆目見当がつかないなら、それはチョッピリ悲しいことではないでしょうか? 聖書の記述を見る限りでは、使徒パウロはあまり雄弁な説教家ではなかったようです。しかし彼はそれを埋め合わせて余りある『著述家』でした。彼は神の霊に導かれて、多くの説教者を生み出すに至った多くの『著作』を残しました。彼はその生涯の中でたびたび牢獄に入れられましたが、そんな中で彼は、弁護士や美味しい食事を欲しがりはしませんでした。ただ彼が欲したのは「紙とペン」だったのです。彼はそのいのち尽きるまで、書いて書いて書き続けました。その結果、今に至るまで、人生の意味を見出し、神に献身して生きる人々を輩出し続けているのです。 あなたはどうでしょう?あなたは「何のために生まれてきたのか」をもう見出しましたか?「私は生涯かけて、この一事を成し遂げたい!」と心を燃やすものを持っていますか?次のバーナード・ショウの言葉に耳を傾けてみて下さい。 「人生とは、ロウソクの火ではない。それは燃え盛るたいまつに似ている。私はそれをほんのしばらくの間預かり、私がそれを手にしている間に、できる限りそれを赤々と燃やして、やがてそれを次の人へとバトンタッチするのだ!」

(67) 目を高く上げて、だれがこれらを創造したかを見よ。

『アメリカ宇宙プログラムの父』と呼ばれる、NASA宇宙局の初代所長であるウェーンハ―・ブラウン氏は、その著述の中で次のように述べています。「もしあなたが宇宙の遠大さとそれを支える綿密な法則を知ったなら、これが偶然な爆発によって形造られたなどという寓話を信じる余地はない。そこには間違いなく、人知を超えた恐るべきデザイナーが背後におられると信じざるを得ないのである。一体どんな偶然が人間の脳や視神経を形成すると言うのか。進化論者たちは『神はいない』ということを何とかして科学的に証明しようとするが、それはあたかも『太陽を見るためにはろうそくの灯が必要だ』と言っているようなものである。彼らは『目に見えないものは信じられない』と言う。しかし一体どこの物理学者が『電子は目に見えないから、存在していない』と言うだろう。」 この世に存在しているものは皆、それを生み出した『デザイナー』がいるのです。すべての書物が存在するのは、それを出版した人がいるからです。建物が存在するのは、設計者や建築家がいたからです。芸術作品の背後には芸術家が、素晴らしい曲には作曲家がいるのです。ならば、この壮大な大宇宙と美しい大自然、そして私たち人間1人1人の存在は、それらすべてを崇高なご計画の下に生み出された、『創造主なる神』がおられることを示しているとは言えないでしょうか?

(66) 恐れるな。わたしはあなたとともにいる。

たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。 動物園でクサリにつながれたゾウを見たことのある方は、次のように感じたことはありませんか?「ゾウだったら、あんなクサリ簡単に引きちぎって逃げ出してしまえそうなのに…」 実際その通りです。ただ、動物の調教師たちはちゃんとわきまえていて、まだほんの小さな子ゾウの時からクサリにつないでおき「このクサリは決して引きちぎることはできない」と思い込ませることによって、ゾウが逃げ出すのを防いでいるのです。 さて、ゾウが逃げ出せないのは良いことですが、同じようなことが私たちの人生にも多々あります。すなわち「私たちの思い込みが、私たちの可能性を制限してしまう」ということです。もっと具体的に言うなら、「私たちの心の中にある『恐れ』が、私たちの夢の実現を妨げる」のです。 私たちは皆「失敗」を恐れます。ある人々は「拒絶されること」を極端に恐れます。また、人から笑われたり、バカにされたりすることを歓迎する人はいません。しばしば私たちは、やってみる前から「どうせできっこない」とあきらめてしまいます。全くその通りです。やってみる前から「できっこない!」と固く信じている人がチャレンジしたところで、成功することは恐らくないでしょう。しかし実のところ、私たちが抱いている『恐れ』というもののほとんどは、全く根拠がない、漠然としたものなのです。 ところが聖書は、「私たちは『恐れ』を乗り越えることができる」と教えます。その第1の秘訣は、「神が私たちに何かを与えようとしておられる時、それを妨げることのできるものは何もない」と信じることです。「恐れを乗り越える」とは、「もう失敗することはなくなる」ということではなく、「神が与えようとしているもの以下で甘んじてしまおうとする誘惑に、『No』と言う」ということです。 神は私たち1人1人に特別(ユニーク)なご計画を持っておられます。しかし悪魔は何とかそれを計画倒れにさせようと、必死になって私たちの心に『恐れ』を投げ込んでくるのです。ですから「神が用意された優れた人生」を歩むのは、心から神に信頼して生きる者たちだけに与えられた『特権』なのです。

(65) 私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。

私は…あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。 もし『お金』というものが幸せの条件なのだとしたら、お金持ちの人は他のどんな人々よりも幸せだということになりますよね?ところが残念ながら統計はそれを示していません。幸福に暮らしている人の多くは、お金を追求したことによってではなく、「神様から与えられる生きがい」を追求することによって、それを得ているのです。 『幸福な人々が知っていること』という本の中で、ダン・ベーカー博士は次のように言っています。「私のある友人はすべての物を持っているように見えた。お金、自由、そして友人や家族…。しかし彼は最も欲していた物を手にしていなかった。それは『幸福感』である。彼の家庭生活は惨憺たるものだった。子供たちとはほとんど会話がなく、妻は仕事に忙殺される夫に対して不満がいっぱいだったのである…」 一体この男性の関心事はどこにあったのでしょうか?それは「与えられたものを活用する」のでなく、ただ「蓄えることに一生懸命」だったのです。 この話を聞いてある人は「いやぁ、それはその人が贅沢だっただけで、私だったらそれだけの条件が揃っていたら絶対に幸せになれるさ!」というかもしれません。けれど、決してそんなことはありません。『幸福感』は決してお金では買えないのです。どれほど財産を増し加えても、心にはいつもこんなささやきが聞こえてきます。「まだまださ。もっと儲けなきゃ、まだ安心できないよ。」 一体『幸福になる秘訣』とは何でしょうか?聖書は「それは物を集めることから来るのではなく、私たちの命の源である神様から来る」と言っています。神様は私たち人間を、1人1人目的を持ってお造りになりました。私たちがその「神が私のために用意してくださっている人生の目的」を追求して生きる時、お金その他の物はすべて2次的なものに過ぎません。あなたの人生を確固たるものとするのは「神の与える救い」「内面的な(霊的な)成長」「豊かな家族との関係」「心を分かち合える友」、そして「神から与えられた使命を全うしている、という実感」なのです。神を喜ばせることを熱心に追求している人で、心に喜びと幸福感を持ち合わせていない人に、私はまだ1度も会ったことはありません。

(64) 試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです。

アメリカにある「イエロー・ストーン国立公園」に、『ロッジポール・パイン』と呼ばれる珍しい松の木が生えています。この実であるいわゆる「マツボックリ」は、実ってから地上に落ちてくるまで何年もかかり、その後もしばらく堅くその実を閉ざし続けます。この実が開くのは非常な高温に取り囲まれた時だけなのです。 例えば「山火事」などが起こり、森のすべての木々が燃え尽きてしまったような時、その炎の中でこの松の実は開かれ、死んでしまった森林をもう1度よみがえらせるための最初の種となるのです。 多くの場合、私たちの内に秘められた潜在能力というものは、大きなピンチや抑圧に出くわして初めて見出されたり発揮されたりするものです。私たちは、予期せぬ試練に見舞われた時、思わずも「どうして私がこんな目に合わなければならないの?」とか、「もし本当に神様が私を愛しておられるなら、どうしてこんなことが起こるの?」などと言いがちです。その質問にお答えしましょう。そのようなことがあなたに起こったのは… ①あなたが知らなかった神様の更に深い側面は、激しい試練の中でこそ経験できるから。 ②単なる炭素がダイヤモンドへと変化するためには、耐えられそうにないほどの熱と圧力を通されなければならないから。 そして ③すべてを失って、もはや誰もあなたのことを顧みてくれなくなったとしても、「神様だけはあなたを決して見捨てることはない」ということを、あなたが経験するためなのです。

(63) 私たちのために、ぶどう畑を荒らすキツネや子狐を捕らえておくれ。

しばらくの間商用で出かけていたある人が、久し振りに友人である『天才彫刻家ミケランジェロ』のアトリエを訪れて驚きました。ずいぶん前から手掛けているはずの作品が、全く進んでいないように見えるのです。思わず彼は言いました。「一体どうかしたのかい?その作品、以前から全然進んでいないじゃないか!」 すると天才彫刻家は答えました。「何を言ってるんだい?キミがこの前来てくれた時から、毎日せっせと作業を進めているよ?」 友人はあきれて言いました。「何だって?一体この作品のどこを進めているって言うんだい?」 ミケランジェロは説明を始めました。「いいかい、まずこのところのラインを以前より柔らかくしたし、この唇のところを前よりも真っ直ぐにしたし、筋肉の様子をもっとはっきりさせたし…」 友人は最後まで聞いていることができずに言いました。「そんなの全部、ささいな部分ばかりじゃないか!」 そこでミケランジェロは微笑んで答えました。「そりゃあ『ささいなこと』かもしれないけど、そのささいなことをすべてやり遂げなければ、作品は完成しないじゃないか!」 私たちの人生の『ぶどう畑』を荒らすのは、大きな野獣ではなく『子狐たち』です。幸せなスタートを切った結婚生活が崩れ始めるのは「夫や妻が、相手の小さな親切に『ありがとう』の言葉を忘れてしまうようになった時」であり、陸上選手が競技に敗れるのは「ほんの小さな歩幅がズレてしまったとき」なのです。私たちは人生の「大きな構図」を描くことや、神様にその夢をかなえてもらうことに夢中になりすぎて、一見大したことには思えないような日常の出来事に『愛』と『誠実さ』を込めて取り組むことをおろそかにはしていないでしょうか?神は「小さいことに忠実な人々」にこそ、「大いなることを任せてくださる」のです。 さあ、あなたが今日捕まえなければならない「子狐」は何でしょう?誰かに対して抱いている『ちょっとした苦々しさ』? 「これくらいなら…」と、いつも大目に見てしまっている『ささいな悪癖』? それとも、つい軽はずみに言ってしまう『出まかせ』? それらを注意深く見張って、捕まえて追い出してしまいましょう! きっとあなたの人生に決定的な変化が訪れるはずです。

(62) 自分たちの間で、自分を量ったり、比較したりしているのは、知恵のないことなのです。

多少の『競争心』は悪いものではありません。子供が漢字テストで良い点を取るために頑張って漢字練習をしている様子は、微笑ましくもあります。より良い点数を取ることによって励まされたり、自信を付けたりすることは、その後の人生にも役に立ちます。しかし、その『競争心』が高じて、「俺はアイツより優っている」とか、「私はあの娘に比べてダメダメだわ」などと一喜一憂するようになっては少々行き過ぎでしょう。 自分の存在価値を正しく評価するためには、まず「自分は神様によってユニークに造られた」ということを知ることが大切です。例えば、バレーボールのチームに所属してプレーをする場合、自分の持ち場によって役割が変わってきます。アタッカーとレシーバーは全く役割が違いますが、勝利するためには、どちらも欠かせません。レシーバーが相手のチームの得点を阻むことは、アタッカーが得点を決めるのと同様に価値があります。もしかするとアタッカーの方が目立つためにより賞賛を受けるかもしれませんが、勝利はチーム全員のものです。もしチームの各メンバーが互いに競い合ったり、比較し合ったりしていたら、勝利の喜びはどこかに消えてなくなってしまいます。 神様は私たち1人1人を「違った存在(互いに比較する必要のない存在)」として形造ってくださいました。私たちはおのおの特別な役割、そして特別な目的のために、偉大な神によってデザインされているのです。私たちがその「自分のために特別に備えられた人生」を謳歌するために必要なのは、他の人々と比較することではなく、創造者である神様を見上げることなのです。

(61) この世と調子を合せてはいけません。

いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。 ある男性が銀行に入ろうとした時に、すぐ後ろから女性が続いているのに気付いてドアを開けて待っていたところ、その女性はお礼の代わりにこう言いました。「私が女性だからって、何もわざわざドアを支えていて下さらなくても結構よ。」 それを聞いた男性は微笑みながら答えました。「いえいえ、私がドアを支えていたのは『あなたが女性だから』ではなく、『私が紳士だから』です。」 キリストを信じる者として、私たちが他の人たちと『ひと味違った』生き方をするとしたら、それは「私たちがキリストにあって何者であるか」によるのであり、「人々が私たちクリスチャンにそうすることを期待しているから」ではありません。私たちは「人を恐れる者」ではなく、「神を恐れる者」です。「人のご機嫌を取って点数を稼ぐ者」ではなく、既に神様から『愛する我が子』としての称号をいただいている者なのです。 昔、ある貿易会社の船が初めての日本上陸を目の前にした時、取引のリーダーが乗組員たちに次のように告げたそうです。「いいか。これから上陸する国の人々にとって、私たちは皆『外国人』だ。彼らは私たちの国のことを全く知らないし、もちろん言葉も分からない。ということは、彼らにとって『私たちの中に見る物』が、私たちの祖国に関するすべての情報となるわけである。諸君、日本の人々が『あの人たちは、一体どんなに素晴らしい国から来た人々なのだろう?』と感心してもらえるような態度で、これからの日々を過ごそうではないか!」 私たちが人々に証しするのは、単に「私たちの人柄」ではなく、「私たちのお国柄」です。この世の習慣に倣って媚を売るのではなく、キリストに倣ってこの世の人々を魅了し、彼らの「天の御国への移民願望」を駆り立てようではありませんか!

(60) 死と生は舌に支配される。どちらかを愛して、人はその実を食べる。

これは本当にあった話です。1人の先生が、受け持ちの生徒たち1人1人にリボンを渡してこう言いました。「あなたたちは、このリボンを使って世界を少しだけ変えることができます。このリボンを、ぜひ、あなたの人生に良い影響を与えてくれたと思える人に、感謝を込めてプレゼントしてください。渡す時、今私があなたたちに言ったのと同じことを伝えるのを忘れないように。」 さて、このリボンをもらった生徒たちのうちの1人が、彼の進学に良いアドバイスをくれた先輩に、このリボンをあげました。そしてその先輩は、自分の職場の上司にこう言い添えてそのリボンを渡しました。「あなたはまだ未熟な私に多くの指導を与えてくれています。あなたの創造性と実行力には、いつも感服させられっぱなしです。ところで、このリボンを、ぜひあなたの人生に大きな幸福を与えてくれた人物に差し上げて下さい。」 この上司は、自宅に戻った後、反抗期真っ最中の息子の部屋へ行き、リボンを差し出して言いました。「『このリボンを、自分の大切な人に渡すように』と言われたんだが、ぜひお前にあげたいんだ。お前にはいつも『遊んでばかりいないで、勉強しなさい!』とか、『少しは部屋をキチンとしなさい!』とか、怒鳴ってばかりいたが、実のところ、私の人生を最も豊かにしてくれているのは、お前のお母さんを除けば、それはお前に他ならない。私たちのところに生まれてきてくれて、本当にありがとう。愛しているよ。」 すると、息子はこらえきれなくなった涙をこぼしながら、次のように言ったそうです。「実は、ついさっき『遺書』を書き終えたところだったんだよ。そして今夜皆が寝ている間に自殺するつもりだったんだ。だって、お父さんがボクのことを愛してくれてるって、今まで分からなかったんだもの。でも、どうやらこの遺書はもう必要なくなったみたいだね。」 私たちの口から出ることばは、文字通り、人を生かしも殺しもする力を持っています。聖書には「時宜にかなったことばは、いかにも麗しい」という一節もあります。さあ、今日も出て行って、普段あまり気にかけていない人に対してでさえも、励ましと感謝の言葉をかけてみようではありませんか!

(59) 二心(ふたごころ)の人たち。心を清くしなさい。

前回、「時間の上手な使い方」に関連して『優先順位』のお話しをしましたが、実はこの「正しい優先順位を確立する」ということは、『人間関係』で悩まなくなるためにも、大いに役立ちます。 「『人間関係の悩み』というものは、人間生きている限り、一生つきまとうもの」とあきらめてしまってはいませんか?実はそんなことはないのです。ちゃんと解決法があるのです。それを見出せない大きな理由の1つは、私たちの中にある「『八方美人』になりたがる性質」にあります。「誰からも嫌われたくない」「あの人を敵に回すとやっかいなことになるから、おべっかを使っておこう…」などとあちこちに気を回しすぎて、肝心な人々に時間や労力を費やさずにいるために、足をすくわれたり、燃え尽きてしまったりするのです。 私事ですが、最近こんな出来事がありました。どういう成り行きだったか忘れましたが、我が愛する妻にこんなことを言われたのです。「あのねアナタ。アナタはすべての人を幸せにしようとガンバっているみたいだけど、アナタは私のことさえ『最高に幸せ』にしてくれれば、それでいいのよ?」 この言葉は、私に大きなショックを与えたと同時に、はっきりと目を覚ましてくれました。「そうだ!私は24年前に、他でもない、神様の前で『健やかな時も、病む時も、この女性を愛し慈しむこと』を誓ったのだ!」そうなのです。たとえ私が他のすべての人にさげすまれようとも、この妻を「最高に幸せ」にしてあげられたなら、私は神からの『合格印』を押してもらえるのです。なんてシンプルなのでしょう。たった1人の人に全力を尽くしさえすれば、それで良いのです。 もちろん、1人の人でさえ「最高に幸せにする」ことは、決して簡単なことではありません。また、それは「他のすべての人を不幸にしても良い」ということでもありません。しかし、「幸せにすべきたった1人の人」をさえ喜ばせることのできない人間に、他の誰を真に喜ばせることができるというのでしょう? 人生もまた同じです。私たちは皆、「自分を喜ばせるため」に生まれてきたのではなく、「唯一まことの神」をお喜ばせするために、神ご自身に似せて造られたのです。そのことを忘れて、「自分の満足」「自分の喜び」「自分の得」ばかりを追求して生きていくなら、いつのまにか『まやかしの幸福感』にすっかり騙されて、複雑怪奇で焦燥感にあふれる人生の中に埋没していきます。 人生は私たちが考えているより、ずっとずっとシンプルです。私たちが幸福にするために、神が私たちの周りに送ってくださっている人々は、ほんのひと握りです。それが誰なのかをしっかりと見極めて、限られた人生をたっぷりと注いでいこうではありませんか。

(58) 外部の人に対して賢明にふるまい、機会を十分に生かして用いなさい。

私たちの人生で「最も貴重なもの」といえば、それは『時間』でしょう。1度失われた時間は、2度と取り戻すことはできません。これだけ便利でスピードの増した時代は、過去にはなかったはずなのに、相変わらず私たちは「時間が足りない!」と言う。これは一体どうしたことでしょうか? たった1度しかない人生を有意義に過ごすには、何としてもこの『時間』というものを正しく使わなければなりません。すなわち「決して取り戻すことのできない『時間』というものを、より有意義に使う」ということです。では、どんな時間の使い方が『有意義な使い方』なのでしょう?私たちは10年後に『もっと優れた自分』になっているために、どんなことに多くの時間を費やすべきなのでしょう?それは『豊かな関係作り』と『優れた本を読むこと』です。そしてまず初めに私たちが読むべき書物、それが「人生のマニュアル」とも呼ぶべき『聖書』なのです。「あ~あ、今日も時間がないから、聖書を1ページも読む時間がない…」と言ってあきらめないで、半ページでも、3行でもよいから「少しでも目を通す」習慣をつけましょう。「塵も積もれば山となる」と言いますが、1週間全く聖書を読まなくなるところだったのが、気づいてみれば2章も3章も読めた、ということになるかもしれません。 オズワルド・サンダースという人が、『時間の有効利用』について、次の3つのポイントを指摘しています。 ①「時間の漏れをなくす」:時間の計算をするときに『何時間単位』で計るのではなく、『何分単位』で数えるようにする。10分刻みの時間を大切にするよう心がけたら、おのずと1時間ごとの時間を無駄にすることはない。 ②「優先順位をはっきりさせる」:多くの時間が『2番目以下に大切なこと』に費やされている。そのため『最も大切なこと』に使われる時間が足りなくなり、私たちの生活を破壊する。これは「目に見えるもの」にばかり振り回されて、最も大切な「目に見えない、内面的なこと」をおろそかにすることと同じである。 ③「計画的に行動する」:計画無しに行動することは、「失敗の計画」を立てているようなものである。状況にばかり流されているなら、何も成し遂げることはできない。「私が今日成し遂げるべきことは何でしょう?」と神に尋ねながら、日々を進んでいくべきである。 あなたの今日の歩みが、10年後の「より優れたあなた」へと導きますように。

(57) それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。

ある辛抱強くない男が、ある時神様にこんな祈りをしました。「神様、ボクは『待つ』ということができません。こんなことでは、立派な大人になることはできません。ですからお願いです。どうかボクに『忍耐』を与えてください。それも、今すぐに!」 …きっと神様は、たっぷり時間をかけて、このお祈りに答えてくださることでしょうね。 さて、私たちはどのようにしてこの『忍耐』というものを学ぶのでしょうか?それは、『試練』を通してです。善意が報われなかった時、重労働に見合った賃金がもらえなかった時、人に親切にしてあげたのに、お礼も言ってもらえなかった時、そしてあなたの愛の労苦が拒絶された時…。このような時にこそ、あなたのうちにある『忍耐』が真に輝くのです! このような実例は、子どもの成長のプロセスにおいて、顕著に見受けられます。親の過保護に取り巻かれ、苦労らしい苦労を知らずに育った子どもは、大志や勇気を持てず、失敗に簡単にくじけてしまいがちです。しかし逆に、幼い頃から数々の挑戦や試練を乗り越えてきた子どもは、やがて逆境の中でも新たな道を切り開いて行くことができるようになります。 実はこの法則は、イエス・キリストを信じて生きる私たちにもあてはめることができます。ある人々は、「クリスチャンになったらすべての問題が解決される」と勘違いするようですが、それはむしろ逆です。この世は悪魔の支配下にありますから、神に忠実に生きようとすればするほど、試練が増します。しかし、神はそれらの試練によって、ご自身の『子ども』とされた私たちを「滅ぼそう」としておられるのではなく、かえって『忍耐』と『練られた品性』に満ちた、「神の子ども」と呼ばれるにふさわしい大人へと整えられるのです。

(56) 闘技をする者は、あらゆることについて自制します。

彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。 ある人が次のような言葉を残しました。「疑う人々の中で、信じる者となりなさい。時間を浪費している人々の中で、計画を立てる者になりなさい。ノロノロしている人々の中にあって、決断を下す者になりなさい。夢見てばかりいる人々の中にあって、備えをする者になりなさい。先延ばしにしている人々の中にあって、動き始める者になりなさい。願望にすがっている人々の中にあって、行動を起こす者になりなさい。無駄遣いをしている人々の中にあって、蓄える者になりなさい。おしゃべりをしている人々の中にあって、耳を傾ける者になりなさい。しかめつらをしている人々の中にあって、微笑む者になりなさい。途中であきらめている人々の中にあって、最後までやり遂げる者になりなさい。」 『人生の勝利者』として生きるために、次の3つのことを心に留めておくと良いでしょう。 1.思い切って始めること。 ・当たり前に聞こえますが、何と多くの人々が、スタートラインでモタモタしていることでしょう!「だって、まだ状況が整っていないから…」 しかし神は「信仰によって歩みなさい」とおっしゃったのです。もし神があなたと共におられるなら、それは既にすべてを持っていることと同じです。神の招きを感じたならば、ためらうことなく初めの1歩を踏み出しましょう。 2.目の前のことに全力を尽くすこと。 ・オリンピックの『高飛び込み』の選手をご覧になりましたか?彼らは、次の飛び込みの余力を残すために、今これからの飛び込みを手加減したりはしません。1回1回の演技に全力を尽くすことで、1歩1歩金メダルに近づいていくのです。決して「そこそこ」の程度に満足しないようにしましょう。 3.途中であきらめないこと。 ・1992年のバルセロナオリンピックでの出来事です。陸上の400m走に出場したイギリス代表の「レッドモンド選手」は、レースの途中でアキレス腱を断裂してしまいました。他の走者たちが通り抜けていく脇でのたうち回っている彼を見かねた彼の父親は、涙ながらに応援席を飛び出して彼に駆け寄り、痛みに顔を引きつらせる彼に肩を貸して、一緒にゴールまで完走したのです。その時、スタンドの群衆は、先頭でゴールインした選手に対してよりもはるかにまさった歓喜の拍手喝采を、レッドモンド選手に送ったのです。彼は金メダルよりもずっと価値あるものをこの時手に入れたのでした。 あなたも、神が用意してくださっている栄冠を手に入れたいですか?さあ、何をグズグズしているのですか!

(55) 目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に浮かんだことのないもの。

神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。 物事が順調に進んでいるときは、そうでもないのですが、壁にぶち当たって八方ふさがりに感じるとき、私たちはどうしても「神様に大きなことを期待する」ということがなかなかできないものです。結果として私たちは「妥協点」を見出すのに忙しくなり、その試練から神様が生み出そうとしている『大いなる産物』を受け取りはぐってしまいます。 聖書は私たちに問いかけます。「神に不可能なことが何かあろうか?」答えは当然『No』なわけですが、私たちの日々の人生に対する態度は、しばしばその逆を行っているのではないでしょうか? イエス・キリストは、十字架にかけられる前の晩、弟子たちに次のようにおっしゃいました。「もしあなたがたが、たった今私が言ったとおりに行うなら、その行いによって祝福されるのです。」 そうです、神の祝福の中を歩むには、彼のことばを信じて行うことが必要なのです。そしてしばしば、神は私たちの常識とは異なったことをおっしゃられるのです!なぜでしょう?それは、私たちがいつも自分が慣れていることばかりを行っているなら、私たちはいとも簡単に神様に信頼することをおろそかにしてしまうからです。 神は、人間が考え出したどのような法則よりも優れた方です。彼のなされることは、私たちの思いをはるかに越えています。あなたが今までどれほど多くの経験を積んできたとしても、神はそれにはるかに勝って偉大なことを、あなたを通して行うことのおできになる方です。ですから、ぜひ神に大いなることを期待しつつ、そのみことばに従っていきましょう。

(54) これは、主が設けられた日である。この日を楽しみ喜ぼう。

手相占い、星占い、タロットカードなどなど、将来を占うために人間が考え出した方法は限りがありません。何故人はこうまでして未来を知りたがるのでしょうか?恐らくその最も大きな理由は、「人間は誰も1秒先のことも分からないから」ということに違いありません。一体これだけ科学が進んだ現代にも関わらず、どうして人間には未来を確実に知る術が解明できないのでしょう?それは、私たちを造られた神が、私たちがそれを知ることを許さないからです。神は、「未来を知ること」が、私たちに益をもたらさないことを知っておられるのです。 ちょっと別の角度から考えてみましょう。私たちはしばしば、自分の友人たちや周囲の人々を見回して、「どうしてあの人は持っているのに、自分は持っていないんだろう?」「どうしてあの人にはできるのに、自分にはできないのだろう?」などと考えるものです。確かにいくつかのものは私たち1人1人に「全く平等には与えられていない」と思えるものもあります。しかし、少なくともたった1つのものは、万人に平等に与えられています。それは『時間』です。どんなに忙しくしている人にも、どんなにサボっている人にも、1日には24時間しか与えられていません。そして神は私たち1人1人がこの与えられた24時間を「愛と知恵とをもって使う」ことを期待しておられるのです。過ぎ去ったことにいつまでもクヨクヨしたり、まだ起こってもいないことを当てにして先走りしたりせず、今目の前に与えられている『今日』という日を最大限に生かして、精一杯生きること、これが私たちが人生に向き合う本来の姿なのです。あなたが今与えられている『時間』や「今日という日」をどう使うか、それがそのまま「人生をどう使うか」に反映するのです。 『昨日』という日は、私たちにいくつかの教訓を与えてくれました。そして『明日』という日は、私たちがそれらの教訓を『今日』という日にどう生かすか、ということによって形造られるのです。ですから、こう祈りましょう。「神様、どうか『今日』という日を最大限に生き抜くことができるように、助けてください!」

(53) 主よ。私を調べ、私を試みてください。私の思いと私の心をためしてください。

あなたの恵みが私の目の前にあり、私はあなたの真理のうちを歩み続けました。 ある日ビルは自分の上司に匿名でこんな電話をかけました。「もしもし、聞いたところによると、あなたは『十分な経験のある、勤勉で有能な秘書』を捜しておられるそうですが、もし私でよければ、ぜひその部署に志願したいのですが…」 すると、その上司は応えました。「いや、それは何かの間違いではないだろうか。申し訳ないが、私のためには既に大変有能で勤勉な秘書が働いてくれているのだよ。ところで、キミの声にはどうも聞き覚えがある気がするのだが、どなたかね?」 ビルは嬉しそうに応えました。「私です。あなたの秘書、ビルですよ。ちょっと私の働きぶりがその部署にふさわしいかどうか、試してみたかったんです。」 私たちはしばしば「自分自身の生き方」を吟味する必要があるのではないでしょうか?私たちは、知らず知らずの間に大きく道を外れてしまっていることがあります。そしてそれは一晩のうちに起こるわけではなく、自分では気づかないくらい「少しずつ」起こるズレであり、いつの間にか「2度と元の位置に回復できない」ところにまでズレてしまっていることだってあり得るのです。もし飛行機の飛んでいる向きがたった1°ズレていただけでも、到着場所は何百キロも離れてしまうじゃありませんか。 初めは心を込めて1つ1つの役割を果たしていたとしても、いつの間にか「もっと簡単に素早くできないだろうか?」などと、能率性や楽をすることを追求し始め、「誰に仕えているのか」を忘れて、「給料をもらえれば、それでいい」とか「取り敢えず退社時間まで会社にいればよい」ということが、あなたの基準になってしまっているとしたら、それは危険信号です。私たちは『報酬』のために働いているのではなく、私たちに素晴らしい「思考力」や「運動機能」を与えてくださった『創造主なる神』のご性質を繁栄するために生きているのです。 マザー・テレサは言いました。「大切なのは、『どれだけのことをしたか』ではありません。『どれだけ心を込めたか』なのです。」と。もう1度自分の1日の歩みを振り返り、「人生に対する姿勢」を吟味してみませんか?

(52) 正しい者は7たび倒れても、また起き上がるからだ。悪者はつまずいて滅びる。

だれでも失敗するのはイヤなものです。特に「物事を成し遂げるのを生きがいとするタイプの人」にとってはなおさらのことでしょう。では「失敗を克服するためのコツ」のようなものはあるのでしょうか? 昔、イギリスのチャーチル首相は次のように言いました。「『成功』というものは、何度失敗を重ねてもくじけずに、新たに挑戦する情熱を持ち続けた人が手にすることのできるものだ」と。すなわち、失敗は『成功の父』となり得るのです。 「でも、やっぱり失敗するのは怖いなぁ。」と言う人たちもいるでしょう。どうして私たちは、『失敗』を恐れるのでしょうか?主に次の2つの理由が考えられます。 ①『失敗』というものが持つ「真の意味」をよく理解していない。 ②『失敗』が自分の『人格』に影響を与えることを許してしまう。 『失敗』の原因は大きく分けて、「無知」から来るものと、「分かっちゃいるけど、止められない」場合とがあります。聖書には「あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。」と書いてあります。また、イエス・キリストは「分かっちゃいるけど、止められない」という私たちの『罪の性質』を解決されるために、私たちの身代わりに十字架にかかってくださった方なのです。『失敗』は、私たちを神様から引き離すどころか、かえって私たちを神の御許に近づけるきっかけとなり得るのです。 また「失敗した人」を『失敗者』と呼ぶのではありません。「失敗そのもの」は、私たちの人格に対して何の力も持っていないのです。ただ、私たちがその失敗のあまり、再度挑戦することをあきらめてしまった場合のみ、『失敗』は力を発揮します。しかし、もし私たちがその『失敗』が教えてくれる『教訓』を正しく学び、それをキチンと生かしていくならば、私たちは決して『失敗者』になることはなく、かえって『成功』へとやがて導かれていくのです。 あなたがこのような態度で人生に向かっていくならば、あなたの人生が変えられていくだけでなく、周囲の人々の人生にも、きっと良い影響を与えていけるようになることでしょう。

(51) よくやった。良い忠実なしもべだ。… 主人の喜びをともに喜んでくれ。

ある人の日記から。 「買い物から帰ってきて、数時間前にピカピカにきれいにしたばかりのキッチンに入ってみて、ビックリ!そこらじゅうにネバネバになった小麦粉が飛び散って、チーズやチョコレートのかけらが散らばって、おまけに流しは鍋やボールや泡立て器などでいっぱい。どうやら幼い娘が留守中に『クッキー作り』に奮闘した模様。もう疲れと落胆でしゃがみ込みそうになった私の目に留まったのは、つたない文字が書かれた紙の切れはし。『ママのために一生懸命作ったの。きっと美味しいよ!あなたの天使より』 ですって。とたんに私の脳裏には、喜々としてクッキー作りに励んでいる幼い愛娘の様子が思い浮かび、ついさっきまでとはまるで正反対の幸福感に満たされたわけです。」 私たちをお造りになられた神様は、私たちの『出来の悪さ』を嘆くような方ではありません。むしろ、私たちが自分自身を低く見積もりすぎて萎縮してしまい、思い切ったチャレンジの機会にいつも尻込みしてしまうことを嘆かれるのです。 聖書の『タラントのたとえ話』の中で、イエス・キリストは、3人のしもべの中の2人が、主人から預けられたものを一生懸命に生かして倍に増やしたことにより、最高級のほめ言葉(上記)をいただいたことを語り、一方で、残りのもう1人のしもべは、預けられたものを地に埋めてしまい、後に主人から「怠け者のしもべだ!」と叱咤されてしまったことを教えられました。主人は「失敗を恐れないで、チャレンジ」して欲しかったのです。 神様は私たちに、「ちゃんとできないのなら、やらないでいい!」などとは決しておっしゃらない方です。むしろ、私たちがとにかくやってみて、そして失敗してもそこから学び、成長していくことをこの上なく喜ばれるのです。

(50) 神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。

この地上には、人の力では変えようのない法則のようなものがいくつかあります。例えば『万有引力の法則』がその1つですよね。世界のどんな場所へ行っても、モノを高いところから落とせば、必ず下へ落下していきます。 もう1つの代表的な法則は『種蒔きの法則』です。これも世界中のどこででも利用されていて、農民たちはその恩恵を受けて生活しています。でも実はこの『種蒔きの法則』は何も「農業の世界」だけにあてはまるわけではありません。私たちの日常生活の1コマ1コマの中に深く根付いているのです。そしてこの法則は、私たちの人生に良くも悪くも働くのです。 日本語の古いことわざにも、「自分の蒔いた種を刈り取る」という言葉があるように、自分で悪いと分かっているにも関わらず、人からの忠告や自分の良心の呵責に敢えて反抗して、誤った方向へと歩みを続けるならば、その結果を刈り取ることになります。ある時若いカップルが「この先キケン」と書いてある立て看板を軽んじて、猛スピードでカードレールを突き破って車を走らせていたら、橋を修理中の谷底へと車ごと転落して死んでしまったそうです。彼らは悪い種を蒔き、そして悪い実を刈り取ったのです。 しかし、私たちが『良い種』、すなわち人々への親切や愛の行為を蒔いていくならば、私たちはやがて『良い実』を刈り取ります。これは天地をお造りになられた、愛なる神様がお定めになった法則なのです。なぜなら私たちの天の父なる神様は、ご自分の愛する子供たちが他の人々に優しくしているのを見て、ご褒美を与えずにはいられないお方だからです。

(49) へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。

自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。 離婚の理由の中で、最も多いのが『性格の不一致』だと言われます。しかし、実際問題として「性格がピッタリ一致している夫婦」なんてほとんどいないのが現状です。もし2人が初めから「自分たちの性格は大きく違っているから、お互いを時間をかけてじっくりと理解していこうね。」という努力目標を掲げて結婚生活をスタートするなら、どんなに幸せな結婚生活を築けることでしょうか。 お互いを理解しようとするとき、次の3つのことを乗り越えなければなりません。 ①自分勝手な心 ・どんな状況や出来事にも、大概2つの側面があります。しかし、私たちが自分本位な考え方しかしようとしないなら、物事のたった1面しか見えてきません。解決の糸口はいつでも「仮に自分が一歩譲ってみたらばどうなるだろうか?」という謙遜な態度から見えてくるものなのです。 ②恐れ ・『先入観』や『偏見』と言われるものは、大抵新しいことにチャレンジすることに対する『恐れ』から生まれてくるものです。コロンブスが「地球は丸いのだ!」と信じて西に向かって航路を進めようとした時、人々は恐れの故に必死になって彼の挑戦を思いとどまらせようとしました。人間関係を改善・発展させようと思うなら、私たちはいつでも、今までに試したことのない新しいアプローチに挑戦する勇気が必要なのです。 ③意見の食い違い ・虹の美しさは、いくつもの『違った色』が集まっているからであり、オーケストラの音色が優れているのも何種類もの『異なった楽器』が一緒に演奏するからです。もしあなたが他の人々と自分との違いを「受け入れがたいもの」と捉えず、かえって「自分を成長させてくれるもの」として尊重するなら、実は互いに多くのものを共有できる存在だということをも発見できるのです。 トルーマン大統領は「もし我々が他の人々と『視点』を共有しようと試みるなら、少なくとも10人中9人の人々とは一緒に良い仕事ができるだろう。」と言いました。あなたも今日から「互いを理解する素敵な旅」に出発してみませんか?

(48) 愚か者は自分の道を正しいと思う。しかし知恵のある者は忠告を聞き入れる。

私たちの人生は『選択』に満ちています。それらの内には「どのメニューを注文しようかな?」などのささいな選択から、「誰と結婚するか?」「成功率の低い手術を敢えて受けるか否か?」などの重大な選択まで、限りがありません。そのような様々な選択の現場で、一体どうすれば、私たちはより正しい決断を下すことができるのでしょうか?次の4つの方法は、何かの参考になるかもしれません。 ①選ぶ前に、よく調べる。 ・慌てて選んでから、後で後悔しないため、あらかじめできるだけの情報を集め、よく吟味することは助けになります。現代ほど多くの情報を入手できる時代はありません。ドンドン活用しましょう。 ②神様の前に、状況を明らかにする。 ・私たちは1秒先のことも分かりませんが、神様は永遠の時を支配なさっておられます。彼は私たちにとって何が最善かをよくご存じです。もしあなたが選択しようとしていることが、神の前に良心を責められるようなことならば、それはあなたを破滅へと導く恐れがあります。神の前に祈り、聖書のことばに耳を傾けつつ、神があなたを深い確信と平安へ導かれるのを待ちましょう。 ③古い習慣に捕らわれない。 ・「今までやってきた通りのことを繰り返す」のは、誰にでもできる楽な方法です。しかし神様は時々私たちを更に飛躍させるために、新たな道へと導かれることがあります。もしあなたの現在の状況がそれに当てはまるのならば、まずその新たな道のりをじっと見つめ、そして深く深呼吸をしてから、神様に信頼しつつ、思い切ってチャレンジしてみましょう。 ④信頼できる人々からのアドバイス。 ・「誰が何と言おうと、私は私のやりたいようにやる!」 これではまるで幼児がワガママを言っているようなものです。私たちは自分で思っているほど賢い存在ではありません。信頼できる友人や先輩たちのアドバイスは、いつでも聞き耳を立てる価値があります。他の人が既に経験した失敗を、無駄に繰り返さないようにしましょう。  神様が、あなたの冷静かつ勇気ある決断を、祝福されますように!

(47) 善を行うのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります。

日本のことわざに「継続は力なり」というものがありますよね。 発明家のジェームズ・ワットは、蒸気機関の発明のために、12年間の歳月を費やしました。血液循環の謎を解明したウィリアム・ハービィは、そのシステムを見出すのに8年かかり、それを実践医療の中で活用してもらうまでに更に25年間待たなければなりませんでした。 私たちの多くは、大志を抱いて何かを成し遂げようとするとき、ことを早くあきらめすぎてしまう傾向があるのではないでしょうか?しかし実際は、それが価値の高いものであればあるほど、それだけの十分な時間がかかるのも事実です。「成功への近道」を探ろうとする態度は、しばしば私たちの『辛抱強さ』の乏しさを証明しています。 大志を成し遂げるために必要なのは、十分なお金やテクニックではなく、「気分に流されずにコツコツとやり続ける習慣」を身に付けることです。事を成し遂げるためにぶつかる困難は、志半ばであきらめてしまったことを後になって後悔し続ける苦しみに比べれば、ずっと軽いものです。私たちが何かをあきらめずに継続させるためには、次の2つのことが必要です。  ①自分が成し遂げようとしていることは、誰の目にも(神の前にも)正しい、善いことである、という強い確信。  ②このプロジェクトの完成を見るまでは、私は決してあきらめない、という確固たる決意。 私たちは現在、思いつくものが即座に手に入るという大変便利な『インスタント時代』に生きています。しかし、そのために私たちが支払った代償は「無責任・無気力・無関心な人生の中に生きる」という非常に悲しい風潮です。今や心を躍らせるような夢を見ることのできない多くの若者がうめいています。そんな時代であるからこそ、私たちは「わたしはあなたにしかできない、あなただけのための大いなる計画を持っている」と言われる神のことばに耳を傾けるべきではないでしょうか?

(46) 愚か者は心の中で「神はいない。」と言っている。

こんな言い回しがあるのをご存じですか?「無神論者の人たちが神を見出すことができない理由は、逃走中の真犯人が警察官を見つけることができない理由と同じである。」 すなわち「見つけてしまったら、大変な(自分の立場がなくなる?)ことになるから」というわけです。確かに、神様を見出せずにいる間は、自分が自分の人生の『神』でいられるわけですから、「神様なんか、いない!」というより、「神様なんか、いて欲しくない!」というのが本音なのかもしれません。 しかし実際には、神様は様々な方法でご自身の存在を私たちにアピールしておられます。 1.ご自身がお造りになったものを通して。 ・警察が犯人を見極める方法に、しばしば『指紋』が使われますが、この世の美しい大自然や、超精密に造られた私たちの人体などは、いわば「神様の指紋」のようなものだと言えるでしょう。これらはまさに『創造者』がおられることの「動かぬ証拠」と言えるのではないでしょうか。 2.私たちの内なる『良心』。 ・私たちは、誰に教えられたわけでもなく、悪を行ったり人の心を傷つけたりしたときに「胸の痛み」を感じます。また、特に信仰深い人でなくとも、聖書に書かれたキリストの教えを読むならば「自分もこのように生きることができたら、どんなに素晴らしいだろう」と言います。聖書は「人は神のかたちに似せて造られた」とあります。私たちの『内なる良心』こそ、私たちが神によってデザインされた存在であることを示しています。 3.キリストの十字架。 ・神がお造りになったものを通して、私たちが「神の力・神の御手」を見るとしたら、キリストの十字架は私たちに「神の心・神の愛」を示しています。神は決して私たちから遠く離れておられる方ではなく、いつも私たちを見つめ、またみもとに招いておられる方なのです。 フランスのヴォルテールという人は、無神論者として有名で、その存命中次のように言い放ちました。「もしたった12人の無学な漁師その他の人々がキリスト教を広めたのならば、この偉大な1人のフランス人の手でそれを撲滅してみせる!」 さて、歴史は何を証明したでしょう。ヴォルテール亡き後、彼が住んでいた豪華な家は、何と現在ヨーロッパ最大の「聖書配布センター」として用いられているのです! これでもあなたは「神はいない!」と言い続ける勇気がありますか?

(45) あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。

神があなたがたのことを心配してくださるからです。 『杞憂』という言葉をご存じでしょうか?昔中国の『杞』という国の人が「もし天が落ちてきたらどうしよう…」と思い悩んでいた、という出来事を元に、「心配してもどうしようもないことを気に病むこと」を指して言います。「そんなバカげたことを心配していた奴がいるのか?」と笑っているアナタ!「自分にはそのような心配事は1つもない」と本当に言い切れますか? ちょっとした心配事なら、誰にでもあります。それらの心配事の中には、「最近太ってきたから、ダイエットしよう。」とか「貯金が減ってきたから、もっと節約しよう。」など、自分で手軽に対応策を講じることができるものもありますし、「今度また大地震が起こったら、どうしよう?」「自分が預金している銀行が倒産したら、どうしよう?」など、今考えたところで、すぐには対応しようのないものもありますよね。自分で何とかできるものならば、できるだけのことをすれば良いわけですが、先に述べた『杞憂』のように、特に打つ手がないものに関していつまでもクヨクヨと思い悩ませる『思い煩い』は、まるで盗賊のように、私たちの『時間』や『精神力』を奪っていきます。 『思い煩い』というのは、大抵の場合「必要な物が手に入らないのではないか?」または「今持っている物をいつかは失ってしまうのでないか?」という不安のどちらかに基づいています。そしてこれらは2つとも「自分の人生に関わることは、すべて自分で何とかしなければならない」という人生観、すなわち「この世には神も仏もない」という人生観から生まれてきます。確かにもし神がおられないなら、あなたの人生で頼りになるのは、究極的にはあなただけですよね。 しかし、ここに良い知らせがあります。「神はおられる」のです!しかもこの神は、私たちの人生をただ黙って眺めておられる方ではなく、私たち1人1人を心に留め、「私たちのことを心配してくださる方」だと聖書ははっきり語っています。私たちには単なる『杞憂』でも、神にとっては「不可能なことは何もない」のです。神は、落ちてくる天さえも、支え、元通りにすることができるのです。この神に信頼することを学ぶとき、『思い煩い』ということばは、もはや私たちとは無縁の言葉となるのです。

(44) 主よ。あなたは代々にわたって、私たちの住まいです。

多忙を極めた1日を終えて、自宅にたどり着いたときの気分ほど、ホッとする瞬間はありませんよね。クツを脱ぎ捨て、普段着に着替えて、お風呂で汗を流して、夕食の食卓に就く。誰に気兼ねすることもなく、どんなにだらしない格好をしていたって大丈夫。大きな音で鼻をかんでも、うっかりオナラをしてしまっても、誰も白い目で睨んだりしません。ホントに身も心もリラックスできますよね。 実は「神様のご臨在の中に生きる」というのも、これと似たような安心感を与えてくれるものなのです。ある人々は、「神様というのは、何か堅苦しく、いつも不機嫌で、こちらの落ち度がないかどうかを見張っている存在」と思っているようですが、それは大きな勘違いというものです。聖書が私たちに知らせている神様は、ざっくばらんで、包容力があり、私たちのありのままを受け入れて喜んでくださり、私たちの思いもかけない豊かな愛で、私たちの必要を満たしてくださる方です。私たちが自分のふがいなさに落ち込んだり、誰にも理解してもらえなくていらだったりしているとき、「大丈夫。あなたは誰よりも私にとってかけがえのない存在だよ。たとえ他の誰もがあなたを見捨てても、私は決してあなたを見捨てたりしない。たとえ誰もキミのことを理解できなくても、わたしにはちゃぁんと分かっているよ。」と言ってくださるのです。 神様は一体、私たちからどのくらい離れたところにいらっしゃるのでしょう?聖書には次のように書いてあります。「確かに神は、私たち1人1人から遠く離れてはおられません。私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。」 まさに神様は、私たちが最も気に入っている『マイホーム』のように、私たちがどこにあっても私たちを心地よい安息で包んでくださるのです。あなたもそんな『移動式マイホーム』に拠り頼んでみませんか?

(43) いのちに至る叱責を聞く耳のある者は、知恵のある者の間に宿る。

訓戒を無視する者は、自分のいのちをないがしろにする。 『忠告』というものは、たとえそれが有益なものであっても、素直に聞き入れるのが難しく感じられるものです。しかし、せっかくの善意に満ちた忠告を無視してしまったことによって、避けることのできた破滅を招いてしまうことがあるのも事実です。 これはアメリカで実際にあった話ですが、ある大地震の後、『コリンガ』という小さな町を走る高速道路の橋が落ちてしまいました。それを発見した町の人が警察に連絡し、その橋に続く道路はしばらくの間封鎖されたのです。ところがミニバンを運転していたある若いカップルが、警察の警告を無視して、バリケードを突破して行ってしまいました。途中何度も「この先危険!」という看板があったにも関わらず、彼らはスピードを落とすことなく走り続け、とうとう谷底に落ちて死んでしまったのだそうです。 自分の人生にこんな悲劇を招かないために、私たちはどうしたら良いのでしょう?次の3つのポイントに気を付けると良いと思います。 ①「その忠告に従うか否かに関わらず、まずとにかく耳を傾ける」  大人と子どもの大きな違いは、その年齢や体の大きさではなく、「自分と違う考えを持つ人の意見に耳を傾けることができるかどうか」です。あなたがもし「自分はもう1人前の大人だ」と思うなら、まずとにかく相手の忠告に耳を傾けましょう。 ②「その忠告の中に、自分を成長させる要素がないかどうか、注意深く聞く」  神様は私たち1人1人に異なった背景や性格をお与えになりました。それは、私たちがいがみ合うためではなく、互いに益を受けるためです。もしあなたが「自分は誰かのために役に立ちたい」と思うなら、まずあなたが、自分と違ったタイプの人から学ぶ姿勢を持ちましょう。 ③「自分の心を探り、謙遜な姿勢を持つ」  もし相手の忠告を聞く中で、「この忠告には従いたくない」と感じるなら、その気持ちがどこからやってくるのかを冷静に探ってみましょう。それがもしかして「この人は自分の気に入らないから」とか「その忠告に従うことは、自分のプライドが許さないから」などという好みや感情的な理由なら、神様に助けを求めましょう。「神様、どうぞ世界の益のために、私がこの忠告に正しく応じることができるよう、謙遜な者としてください。」 そうです!あなたの人格的な成長は『世界のために有益』なのです!

(42) 主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。

「天災は忘れた頃にやってくる」と言いますが、突然悪い知らせを聞かされたとしても、決して動揺して早まった行動に走らないようにしましょう。神はそのような時のためにこそ、私たちに理性と考える力を与えてくださっているのです。仮に直面している問題が、自分では到底抱えきれないものだとしても、パニックに陥ってはいけません。私たちの神はどんな問題にも間に合う方なのです。神は私たちにもできることに敢えて手を出そうとはなさいませんが、私たちもまた、神が解決すべき問題に敢えて手や口を出すべきではないのです。私たちは祈りの中で神にこう尋ねることができます。「主よ。あなたはこの問題を通して、私に何を知らせようとしておられるのですか?」 「神様は、私たちのお願い事を聞いてくださる存在である」と思っている人たちがあまりにも多くいます。神様は『気前の良いおじいちゃん』ではありません。神様が惹き付けられるのは、私たちの『お願い事』ではなく、私たちの彼に対する『信頼(信仰)』です。旧約聖書に登場する『ヒゼキヤ』という王様は、海辺の砂の数のような敵の大軍が攻め寄せてくるのを見て、ただちに神殿に走って行ってひれ伏し、「神よ。あなただけがこの大軍に相対することができます。」と、ただ神の力に頼り、そしてこの絶体絶命の危機から救い出されました。 もし私たちが心からこの神に信頼して生きるのなら、私たちに襲いかかってくる災いは、もはや「神のみわざが現れる機会」でしかないのです。「もはや神しか頼れるものはない!」とは、すなわち「最も頼りがいのある存在に対して目が開かれた!」ということなのです。聖書は、神が私たち信じる者に語られた約束に満ちています。それらを知り、またしっかりと握ってください。そして「神に信頼して生きる」ことの祝福を一緒に味わいましょう。

(41) あなたがたは、キリストに従うように、恐れおののいて真心(まごころ)から地上の主人に従いなさい。

人のごきげんとりのような、うわべだけの仕え方でなく、キリストのしもべとして、心から神のみこころを行い、人にではなく、主に仕えるように、善意をもって仕えなさい。 「リーダー不在の国家」「取締役不在の企業」「将軍不在の軍隊」、どれを取っても恐ろしそうですね。どんな暴走を始めるか分かりません。キチンとした組織が秩序を生み出し、そして優れたリーダーとそれに忠実に従う部下たちがいてこそ、その組織は成長するものです。私たちはこの「自分のリーダーに忠実に従う」という点においてしっかりと訓練されなければなりません。 私たちには誰にでも「従うべきリーダー(権威者)」という者が存在します。学校では『先生』が、会社では『上司』が、家庭では『父親』が、また社会ではそれぞれの地域のリーダーや、知恵と経験にあふれた『お年寄り』たちがいます。最近はこれらのお年寄りを軽んじる傾向がありますが、私たちは次の世代を担う子供たちのために、「お年寄りを敬う」という良い模範を残したいものです。 さて聖書は、あの人並み外れた知恵と品性に満ちたイエス・キリストでさえも、「与えられた権威に従う」という点で模範を示されたことを記録しています。当時ローマ帝国の支配下にあったユダヤ人たちが「ローマに税金を払うことは正当なことでしょうか?」と質問したとき、イエスは「すべてのものは神から与えられているのだから、そんな必要はない」とは言わず、「カイザル(皇帝)のものはカイザルに、そして神のものは神に差し出すべき」と答えられました。たとえ不当な形での武力的な支配者に対してであっても、私たちは敬意を払うべきなのです。 あなたは、あなたが従うべき相手に対し、疑いの言葉をぶつけたり、軽んじたりしてはいませんか?それはたった今から止めるべきです。もちろん彼らは完璧ではありません。間違いを犯すこともあります。(だからこそ、あなたのような人にも我慢してくれるのです。)あなたが相手のことばに耳を傾けないのなら、やがて誰もあなたのことばに耳を傾けてくれなくなるでしょう。ですから、たとえそれがあなたの「聞きたくないこと」や「納得できないこと」であっても、まず耳を傾けるべきです。あなたの周りにいるすべての『権威者』たちは、たとえあなたに即座に益を与えてくれない存在であったとしても、やがてあなたが人々に益を与えるリーダーへと成長できるように、あなたを訓練してくれている存在に違いないのですから。

(40) 彼(イエス・キリスト)はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない。

皆さんは『葦の葉』がどんなものかご存じですか?そう、沼地などに生えていて、子供でも簡単に折ることのできるとても頼りない草です。また、ろうそくの火が消えそうになっているのを見たことがありますか?あれほど危なっかしくてヒヤヒヤさせられるものもないですよね。この「半分折れかかっている葦の葉」や「消えそうになっているろうそくの炎」ほどはかないものは、他にはあまりないのではないでしょうか?ほとんどの人々は、そのようなものは「もう必要ない!」と言って、きっと投げ捨ててしまうことでしょう。 イエス・キリストは、この「折れかかった葦」や「消えかけたろうそくの火」のように今にも尽き果ててしまいそうな私たちの弱った心を、優しくその手に拾い上げ、介抱し、再び力づけてくださる方です。人々の心ない言葉に傷つけられ、裏切りに遭い、ささいな失敗を決して赦してもらえず、人々の批判にさらされるとき、私たちは「自分はもはや必要とされていない。もう立ち上がることはできない。」そう思わずにいられなくなることでしょう。 実は聖書の中にもそのような人々がしばしば登場します。「姦淫の現場で捕らえられ、人々からまさに『石打ちの刑』に処せられようとしていた女性。」「最後の回復の望みをイエスに託し、彼に触れていただこうと友人たちに背負われてやって来たにも関わらず、大群衆の故にイエスに近づくこともできなかった病人。」「生まれつき目が見えないために、物乞いをして生きていくしかなかった男が、『イエスが近くをお通りになる』と聞いて、あらん限りの大声で『私を憐れんでください!』と叫び続けたにも関わらず、『うるさい!めくらめ、静かにしていろ!』と怒鳴られて…。」 しかし、イエス・キリストは彼らをあきらめませんでした。彼の目は決してこれらの「傷んだ葦」を見逃さず、彼の耳はこれらの「くすぶる燈心」の音を聞き逃さなかったのです。姦淫の女は赦され、重病の男は癒され、盲人は見えるようになって帰って行ったのです。 今日(こんにち)も同じです。イエス・キリストの御手は、今日もあなたに届くのです。彼の恵みは、どんなに深い泥沼よりも深く、その手は、届き得ないと思われたあなたの心の痛みに触れ、もう1度あなたを立ち上がらせてくださるのです。

(39) 人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。

それは、ただ公義を行い、誠実を愛し、へりくだって、あなたの神とともに歩むことではないか。 「人を外見だけで判断してはいけない!」と分かってはいても、ついつい『高学歴』『高収入』『高身長』などと、見た目や肩書きに目が向いてしまうのが現実ではないかと思います。幼稚園や小学校でも、やっぱり「成績優秀」だったり、「スポーツ万能」な子がモテモテになるわけですよね。逆に「俺は外見じゃなくて、中身で勝負だ!」などと息張ってはみても、「じゃあ、あなたの中身って、どんなもの?」と聞かれて、とっさに答えられる人は少ないのではないでしょうか? 一体「中身を重視する」とは、どんなことなのでしょうか?人の『中身』すなわち『人格』と呼ばれるものは「たとえそれを選ぶことで自分が損をすると分かっていても、敢えて『正しい方』を選ぶ」という性質のことです。人生経験を重ねていけばいくほど「自分の信念を妥協させなければならない」ようなチャレンジに多々遭遇します。「人生の大きなチャレンジに1度打ち勝ってしまえば、もうあとは平坦な道が用意されている」などと考えるのは、とんでもない錯覚です。「チャンピオンになること」は、「チャンピオンで居続けること」よりもずっと簡単なのです。人に誉められるような成功を収めたり、羨まれるような地位を築いたなら、それまで以上の更にしっかりとした『正義への信念』が要求されます。立派な地位を築いた人々が、信じられないような落とし穴に落ちて、その人生を台無しにしてしまうことなど日常茶飯事です。 では一体どのようにして私たちは、そのような『不動の人格』を築くことができるのでしょうか?それは「私たちの肉体しか滅ぼすことのできない『人間』を恐れることなく、私たちのたましいをも滅ぼすことのおできになる『神』を恐れ敬って生きる」ことです。神は「悪を憎み、ひたすら善を求めて生きる者」と共に歩み、たとえそれらの人々が試練の泥沼に落ち込んでも、そこから引き上げてくださる方なのです。

(38) ダニエルは、いつものように、日に3度、ひざまずき、彼の神の前に祈り、感謝していた。

「なくて七クセ」という言葉があります。すなわち「どんな人でも最低7つくらいは『クセ(習慣的に行っているモノ)』があるものだ」という意味ですね。実際、私たちの日常生活の中で、意識的に行っている活動はほんの『氷山の一角』であり、ほとんどのことは無意識(習慣)的に行っています。「朝起きたら顔を洗う」「歯を磨くときは、上の前歯から」「靴を履くときは右足から」…などなど。これらのことをいちいち考えながら行っていたら、1日が何時間あっても足りませんよね。 何冊ものベストセラーの小説を世に出したある著作家は言いました。「私は毎朝同じ時間に起き、午前8時から机に向かって原稿を書き始め、午後4時には終わりにする。もうそれは習慣になっている」と。つまりこういうことが言えるでしょう。「偉業を成し遂げる人々の日常生活には、偉大な習慣あり。」 但し気をつけなければならないことは、「習慣(クセ)というものは、私たちを成長させることもあれば、堕落させることもある」ということです。暗い中で本を読むことを習慣にしていれば目が悪くなるし、習慣的に人のうわさ話ばかりしていれば友人は減っていきます。一般に、21日間同じことを同じように続けていれば、それを21年間続けることが可能である、と言われています。私たちも「悪い習慣」から離れ、「良い習慣」を増やしたいものですね。 イエス・キリストも、少なくとも1つの『習慣』を持っていました。それは「毎朝暗いうちに起きて、父なる神に祈る」ことでした。1日の営みが始まる前、朝ごとに私たちの造り主なる神の前に出て祈り、「今日も神は私に新しい1日を与え、精一杯生きるようにと願っておられる」と確認することは、私たちの生き様に少なからず影響を与えるはずです。私たちがぜひ身に付けたい習慣の1つではないでしょうか?

(37) 年老いて、しらがになっていても、神よ、私を捨てないでください。

私はなおも、あなたの力を次の世代に、あなたの大能のわざを、後に来るすべての者に告げ知らせます。 ある女性が素敵な帽子をかぶっているのを見て、彼女の友人が言いました。「あら素敵!その帽子をかぶっていると10才は若く見えるわよ。」 するとその女性はガッカリしたようにその帽子を脱いで言いました。「それじゃあ、もうこの帽子をかぶるのはやめるわ。だって、この帽子を脱ぐ度に10才老けて見られるのはイヤだもの。」 私たちは何故「年をとること」を恐れるのでしょうか?力がなくなっていくから?必要とされなくなっていくから?それとも「死に近づくこと」を恐れるから? 西洋文化(主にキリスト教に根ざした文化ですが…)では、引退後の世代を「ゴールデン・エージ」と呼びます。何故ならそれまで忙しさの故に十分に時間を取れなかった「趣味」「旅行」「友人との語らい」そして「神を求める」ためにもっともっと時間を費やすことができるからです。(お孫さんががいるなら、彼らと遊ぶのもいいですね!) 一体私たちが何歳になったら「年寄り」と呼ばれるのでしょう?私たちは何歳になっても眠ります。ということは、相変わらず「夢を見る」ことができます。相変わらずあれこれと考えます。ということは、将来の計画を立てることができます。歩いたり話したりできるのなら、新しい友人を作ることもできます。私たちは人生のクライマックスの時間をみすみす無駄にする必要はありません。神様の前には『ジェネレーション・ギャップ』などというものは存在しないのです。私たちには、次の世代に伝えておくべき多くの知的・精神的・霊的な財産があります。彼らはこの難しい時代を生き抜くために、それらのモノを必要としているのです。 すべて生きている者で、神が必要としておられない者はありません。あなたが朝目覚めたなら、それは「今日も神があなたをこの世界に必要としておられる」というしるしです。ぜひ日々それが何であるのかを見つけてください。そしてあなたのあるったけのエネルギーをそこに注いでみてください。あなたがその力と愛を注ぐ対象を見つけていられる間は、あなたは決して「老いて」はいないのです。

(36) もしまだ見ていないものを望んでいるなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。

何か新しい技能や資格を身に付けようと思ったら、訓練の期間が大抵は3年くらいかかります。そしてその取得した技能を生かして、きっと30年くらいは活動することができるでしょう。興味深いことに、イエス・キリストの場合はそれが全く逆でした。というのは、彼は生後30年間はその家族の許で仕えつつ公の働きのために備え、後の3年間だけ公に活動して、それから天にお帰りになったからです。 ここから私たちは何を学び取ることができるでしょう?それは、「質の高い働きをするためには、それだけ中身の濃い準備期間が必要とされる」ということです。優れたピアニストは、そのリサイタルのために何百時間もの練習時間を費やすそうです。また、ボクシングのチャンピオンは何も「リングの上の闘いの中」から生まれるのではなく、「日々の生活の中での鍛錬」から生まれるのです。 『インスタント性』が求められる現代、私たちはしばしば「立ち止まって自分の人生のことをじっくり考える」時間を惜しみ、ただ周囲のスピードに押し流されるようにして時を過ごしがちです。しかしちょっと立ち止まって見回してみるならば、そこにはあなたを成長させてくれる出来事や人々が満ちています。慌てて見過ごしてしまうにはあまりにももったいないとは思いませんか? 神様はいつでもあなたのために最良の環境を備えてくださっています。それは必ずしもあなたにとって心地よいものではないかもしれません。しかしそれはあなたを「甘やかせる」ためではなく、かえってあなたが「持っている可能性を最大限に引き出す」ための絶好の機会となるはずです。もしあなたが立ち止まって、それを受け取る準備をしてさえいるならば…

(35) 彼らが自分たちの間で自分を量ったり、比較したりしているのは、知恵のないことなのです。

「人生成功の秘訣」は、必ずしもその人の能力や学歴によるとは限りません。優れた業績を残した『ニュートン』や『アインシュタイン』は学生時代落ちこぼれでした。では「人生の成功」に欠かせない要素とは一体何でしょう?それは、次の質問にしっかりと答えることから始まります。「私はたった1度きりの私の人生を通して、一体何をやり遂げようか?」 この全地を造り、私たち1人1人を創造なさった神様は、私たち1人1人にユニークな目的をもってお造りになりました。「どうしてもあなたと一緒に実現したい!」という熱い思いと共に、あなたをこの世に生み出したのです。それなのに、私たちはあまりにも簡単に他の人の夢に引きずられたり、自分の可能性を低く見積もって安易なゴール設定に甘んじたりします。たとえどんなに偉大な可能性を秘めていても、その本人がそれを信じることなく、逆に「自分は大した人間じゃない。とてもOOさんのようにはなれっこない。」という確信のもとに生きるなら、確かにその通りになるでしょう。 今、周りを見ることをちょっと止めてみませんか?そして『上』を、すなわち偉大な計画をもってあなたを」お造りになり、今日も身を乗り出して熱いエールを送ってくださっている神様の眼差しを見つめてみましょう。「神様、あなたは私のために、どんな計画を持っていらっしゃるのですか?」そう、祈りの中で尋ねてみましょう。そうすれば、きっとあなたが今まで思い浮かべたこともなかったような『心躍らせる夢』が、あなたの思いを喜びでいっぱいにするに違いありません。

(34) さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。

信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたがは、何1つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。 『試練』は誰の人生にもやってきます。肉体的な試練、精神的な試練、経済的な試練、人間関係における試練などなど。そのパターンは様々で、決して慣れることはありません。あるものは突然襲ってくるもの(愛する者の死であるとか)であり、逆に、ある程度の年月がかかるもの(離婚の危機や不治の病など)もあります。自分が蒔いた種を刈り取る場合もあれば、誰かの失敗の尻ぬぐいをさせられることもあります。たくさんの人がまきぞいをくうこともあれば、自分1人でじっと耐えなければならない場合もあります。 これらの『試練』は決して喜ばしいものではありませんが、しばしば私たちに「本当に大切なものは何か」を思い起こさせてくれます。私の妻は学生時代、実家が全焼してしまった経験がありますが、その時つくづく「目に見えるものはいつかは無くなるんだ」と思い知らされたそうです。そして「本当に頼るべきものは『造られたモノ』ではなく、『造られたお方』なのだ」ということを深く自覚したそうです。 苦しい目に遭っているとき、私たちはしばしば「一刻も早くこの状況から脱したい」と思うものですが、決して慌てすぎて大切なレッスンを見落としてしまわないようにしましょう。神があなたにその試練を経験することを許されたのは、そこに必ず目的があるはずです。『試練の目的』は、決して私たちを打ち倒してしまうことではなく、「成長させ、完全な者とする」ことです。ですから、もし今試練の真っ只中にいる方は、ぜひ心を落ち着けて、自分自身にこう言い聞かせてください。「私のこの試練は、神の知らないところで起こっていることではない。神はいつでも私をこの試練から救い出すことができる。しかし、その前に、まずこの試練のただ中でしか学ぶことのできない大切なレッスンをしっかりと学び取って、ひと回り成長した自分になろう!」

(33) 神である主は、人(アダム)に呼びかけ、彼に仰せられた。「あなたは、どこにいるのか。」

聖書を見る限りでは、神様が初めて発した質問は、「あなたは、どこにいるのか?」というものです。これは何もアダムが隠れるのが上手で、神様が彼を見つけられなかったわけではなく、むしろ「あなたは今の自分の状態をよく分かっているのかい?自分の本当の姿を隠すのはもうやめて、ありのままの姿でわたしの前に出ておいで。」と招いている言葉なのです。 「あなたは、どこにいるのか?」 これは私たちが立ち止まって、深く考えてみる価値のある質問です。私たちは成長過程の中で、いつの間にか「ありのままの自分の姿を隠す」ことを身に付けてしまってはいないでしょうか?他人に認められるために無理な努力に励んだり、仕事や家事に忙殺されて自分自身を見失ったり、自分の中の弱さを知られるのが怖くて周囲に堅い防壁を築いたり…。何とか隠しきれている間は良いかもしれませんが、その隠し続けている間のストレスは、私たちが想像する以上に私たちを精神的にも肉体的にも蝕んでいるものです。 私たちがいくら他人の目を騙せたとしても、いつも私たちの本当のありのままを捜しておられる方がいます。しかもそれは私たちを責めるためではなく、そのありのままを丸ごと受け入れ、愛してくださるためです。それが、私たちに命を与え、この世に送り出してくださった神様なのです。私たちがこの方の『変わらぬ愛』に信頼し、そのありのままを彼にさらけ出しながら生きるとき、自分自身の本来の価値を見出し、他の人々の前にも「自分を隠さずに」生きることができるようになるのです。

(32) 強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。

あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。 こんな面白い詩があります。「あるとても用心深い男がいた。彼は決して笑ったり遊んだりしなかった。新しいことに挑戦したり、危険を冒すようなこともしなかった。歌うことも祈ることもなかった。彼が死んだ時、保険会社は彼の保険金を支払うことを拒んだ。保険会社の言い分は次のようなものだった。『この男の人生は「生きていた」とは到底言えないものだ。それゆえ、彼の死さえ決して認識されることはない。』と。」 確かに、新たなことにチャレンジしようとする時はいつでも、幾分『恐れ』を感じるものです。事実私たちは多くの点で失敗します。恐らく失敗したことのない人など、この世に存在しないことでしょう。けれど失敗を恐れるがあまりあらゆるチャレンジを避けて生きていたら、何も得ることができないのも事実です。では、どうしたら良いのでしょう? 私たちは「失敗に対する恐れ」に捕らわれないで生きることができます!この全地を支配しておられる神に信頼を置くことによって。聖書の中には「恐れるな!」という言葉が365回も出てきます。それはあたかも神様が私たちに毎日「恐れなくていいんだよ」と声を掛けてくださっているかのようです。『恐れ』とはもともと、人が神から離れたときに悪魔によって投げ込まれた「霊的な種」です。もし私たちが神と共に歩み、その種を支配していくのでなければ、逆に『恐れ』が私たちの人生を支配するようになります。今こそ神への信頼を学びましょう。

(31) だれでも、聞くには早く、語るにはおそく、怒るにはおそいようにしなさい。

大金持ちの「ロックフェラー一族」をご存じですか?彼らは『スタンダード・オイル』という会社も経営していますが、ある時、その会社の1人の重役がミスを犯して、会社に2億円もの損害を与えてしまいました。他の重役たちは当然「あいつはきっとクビになるか、少なくとも左遷させられるだろうな」と思いました。ところが、社長のジョン・ロックフェラーは、この重役と面接する前に、彼の日頃の勤務態度の記録や、彼が今までにこの会社に与えてきた数々の利益のレポートに目を通し、結局この重役のミスを赦してやったそうです。 私たちは誰かの失敗に直面し、しかもその失敗が自分に何らかの損失を与えた場合、つい、かっとなって軽はずみな言葉を口にしがちです。でもそんな時は、まず神様の前に静まって、座り心地の良いイスに腰掛け、それからその人がいるお陰で、普段自分がどれほど助かっているかを思い起こしてみましょう。するとだんだん怒りが収まってきて、当初とは全く違った判断を下すことができるようになることでしょう。 「後悔先に立たず」ということわざがあります。私たちはこのように「怒りをコントロールする」ことによって、できるだけ「あんな軽はずみな行動を取ったばかりに、大切な友人を失ってしまった…」などと後悔することのないようにしたいものです。

(30) あなたは神と和らぎ、平和を得よ。そうすればあなたに幸いが来よう。

あるお金持ちが波止場を散歩していると、1人の漁師が舟の上でのんびりとくつろいでいるの見かけました。いかにも仕事を怠けているかのように見えるその漁師に向かって、彼はこう話しかけました。「何で漁にも出かけずに、そんなところでくつろいでいるんだ?」漁師は答えました。「いや、もう今朝のうちに十分魚が捕れたんでね。」金持ちは続けました。「だったら、もう1回出かけて行って、もっとたくさん捕まえてくればいいじゃないか。」今度は漁師が逆に尋ねました。「そんなに余計に捕まえてどうするのさ?」金持ちは答えました。「そうすれば、もっとお金が稼げて、もっと大きな舟が買えて、そうしたらもっと大きな魚を捕まえられるようになって、ドンドン儲かるじゃないか!」漁師は再び尋ねました。「そんなにお金を貯めてどうするのさ?」金持ちは鼻を鳴らしながら言いました。「もちろん、そうすればのんびりとくつろいで、俺みたいに毎日楽しく暮らせるだろ?」漁師は答えました。「じゃあ、俺が今こうしてのんびりとくつろいでいて、何が悪いんだい?」 心の安らぎや満足感というものは、2つのモノを手に入れることからやって来ます。1つ目は「優れた関係」そしてもう1つは「優れた人生の目的」です。 私たちがこの地上で持ちうる『関係』の中で最も優れているのが、この天地を造られた『神』との関係です。そして次に大切なのがあなたの『家族』との関係。この2つの関係をどのように建て上げていくかが、あなたがこの地上での人生の終わりに近づいたときに、大きくモノを言います。 また、「優れた人生の目的」も、あなたを造られた『神』と出会うことからやってきます。神はあなたを、偉大な目的に従って、この地上に送り出されました。それを見出したとき、あなたは何故自分がそのことに以前から興味があり、そのための十分な能力を持っていたかに初めて納得がいくのです。 アメリカ開拓史の中で、次のようなユーモラスな話があります。ある男がアメリカ大陸へ移民を志していた頃、次のようなウワサを耳にしました。「どうやら、アメリカって所は、道がすべて黄金で舗装されているそうだ。」彼はこの「黄金の舗装道路」を見るのを楽しみにしながら、アメリカへ渡りました。ところが、道は黄金どころか、舗装さえされていなかったそうです。彼は「皆が楽しみにしてやってくるアメリカの道路がこんなのでは良くない」と言って、道路を舗装する仕事をライフワークにした、ということです。 あなたはもう自分の『ライフワーク』を見つけましたか?もしまだなら、まず「神との関係」を築き上げてください。神はあなたを最高の『ライフワーク』へと導くことのおできになる方です。

(29) 神はへりくだる者を正しい道へと導く。

こんな人に会ったことはありませんか?どこに行くにも杖を持ち歩いて、分かれ道に出くわすたびに、その杖を高く放り投げ、その杖の先が向いた方が『神様が導いている道』と信じて進んで行く。何て信心深いことでしょう! さて、ある時1人の男性が、この「杖を持った人」がある交差点で、何回も繰り返して、上方に杖を放り投げ、落ちてはまた拾い上げて放り投げているのを見て、尋ねました。「一体何をしているんだい?」 その人は答えました。「見て分からないかい?神様がこの杖の向く方向によって、私の行くべき道を示してくれるのを待ってるんだよ。」 「なるほど、それは分かったけど、じゃあどうして、そうやって何回も放り投げているのさ?」 その人は答えました。「だって、何回やっても、杖が間違った方を指すからさ。」 この話と、あなたの人生とは、どこか共通点がありませんか?「神様がいるなら導いて欲しいけど、あくまで私がやりたい通りにさせてくれるなら…」 神様に伺いを立てながら、その答えが自分の気に入るか否かで、その助言に従うかどうかを決めるなら、一体どちらが『神様』なのでしょう?水が高いところから低いところへと流れるように、神様からの祝福も、心を低くする者へと流れ込んでくるのです。「今まで自分のやりたいように生きてきて、うまく行かなかった」というアナタ!思い切って、神があなたのために備えてくださっている道を求め始めてはいかがでしょうか?

(28) これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、

それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。 『タイタニック号』の事件をご存じですか?1912年に「決して沈むことのない安全な船」としてイギリスからニューヨークへ向かった豪華客船が、まさにその初めての航海の途上で北極海に沈没し、およそ1500名の乗客が死亡したという、実に傷ましい事故です。当初の調べでは、沈没の原因は、巨大な氷山に衝突した衝撃でできた、たった1つの大きな穴が原因ということでしたが、その後の詳しい調べによって、「1つの大きな穴」ではなく、「無数の小さな切り込み」すなわち「一見無視されそうな、致命傷に至らないようないくつもの切り込み」が本当の原因だったことが判明したそうです。 私たちはこの『タイタニック号の事故』から、私たち自身の人生を『沈没』させないための、いくつかの教訓を学ぶことができます。 まず最初は、「そんなことは、自分には決して起こらない」という思い上がりは、危険だということです。次に、「『人生の危険』は、必ずしも何か大きな事件ではなく、日常の小さな事の中に隠れている」ということ。そして最後は、1日1日の失敗の中で学んだことや他の人からの忠告をキチンと『教訓』として生かしておかないと、やがて取り返しのつかない『沈没』に至ってしまう、ということです。 実は、タイタニック号にはもともと、すべての乗客を安全に避難させるために十分な数の『救命ボート』が装備されていたのですが、「見栄えが悪い」ということで、対面を気にする乗務員の手によって外されてしまっていました。私たちにも、人生の破船が起こったときのために、初めから『神様の助けの手』が差し伸ばされているのですが、「『神様を信じて生きる』なんて、弱い人たちのすること」などと言われることを恐れて、対面を気にするがあまり、せっかくの助けを得られないでいる人々がたくさんいます。今どうぞへりくだった心で、あなたの前に提示されている『神の助けの手』にあなたの手を伸ばしてみませんか?

(27) 正しい者は、7たび倒れても、また起き上がる。

「失敗は成功のもと」と良く言われます。しかし、すべての人が失敗の経験を生かして成長しているとは言えませんよね。いったいこの「失敗の経験を生かす秘訣」というのは、何なのでしょうか? ウィルマ・ルドルフは、22人兄弟の20番目として生まれた女の子でした。貧しい黒人家庭に生まれた彼女は、幼い頃に『ポリオ』にかかりましたが、その貧しさの故にまともな治療を受けることができず、後遺症のため、9才まで補助器具を付けなければ歩けませんでした。 12才になったとき、彼女は思い切って地元のバスケットボールチームに入るためのテストを受けましたが、落ちてしまいました。それでも彼女はへこたれず、その後も毎日練習し、翌年には合格してチームに加わることができました。高校でもバスケットを続けていた彼女は、ある日陸上競技のコーチに目を留められて、短距離走のトレーニングを受けることになりました。不屈の努力が報われて奨学金が与えられ、テネシー大学に進むことができた彼女は、1960年に何と短距離走走者としてオリンピックに出場することになりました。そこには世界記録保持者の『ジュッタ・ヘイン』がいたにも関わらず、ウィルマは100メートル、200メートル、そして400メートル・リレーすべてで優勝を遂げたのです。 今ではウィルマはすっかりお婆ちゃんになってしまいましたが、相変わらず世界中を巡りながら、次のように言って、子供たちを力づけているそうです。「あなたたちにだって、驚くべきことができるのよ。あきらめないで『いつかきっとできる!』という希望を捨てずに、日々自分のベストを出し切ってさえいれば。」  

(26) 悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。

ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい。 聖書に「姦淫の現場で捕らえられた女性」の物語が出てきます。律法の専門家たちは「こんな女は、律法が言う通りに『石打の刑』にしてしまうべきだ!」と言います。では、イエス・キリストは何とおっしゃったのでしょうか?この女を軽蔑の眼差しで眺めていた民衆に対しては「あなたがたの中で、罪のないものがまず、彼女に石を投げなさい」と言い、人々が去ってしまった後には、この女をじっと見つめて「私もあなたを罪に定めないから、もう帰りなさい。但し、これからは2度と同じ罪を繰り返してはいけないよ。」とおっしゃいました。この女性は、その後どんな人生を辿ったか、想像に難くはありません。 「互いに励まし合い、徳を高め合う」というのは、聖書全体に流れている1つの大きな思想です。それなのに、なぜ私たちはしばしば『誉めことば』を出し惜しみしてしまうのでしょうか?また「他人の成功のために手を貸すこと」を躊躇してしまうのでしょう?恐らくほとんどの場合、その理由は単に「面倒くさい」「そんなこといちいちする必要ない」などの『自己中心性』から来るモノなのでしょう。 私たちは、人々へのちょっとした『賞賛』や『協力的態度』を現すことがどんな力を持っているか、よく分かっていないようです。それとも、「そんなに誉めてばかりいたら、奴は図に乗ってしまうよ。」などと思っているのでしょうか?世の中には、「心の病で死んでしまう人」はいても、「自惚れすぎて死んでしまう人」はほとんどいません。さあ、今日からぜひ、あなたからの励ましや誉めことばを必要としている人々を見つける旅を始めましょう!そして、それらの人々の傍らに立ち、彼らが目指しているゴールに辿り着けるように、精一杯の手助けをしてみませんか?

(25) ですから、あなたがたは、今しているとおり、互いに励まし合い、互いに徳を高め合いなさい。

ある人がセールスマンとして働き始めましたが、何ヶ月働いても一向に営業成績が上がらず、ついに上司に辞表を提出しました。しかし上司は彼の目をじっと見つめて言いました。「まだこの仕事を始めたばかりじゃないか。私はキミならきっといつかその才能を生かして、大きな仕事を成し遂げてくれると信じているんだ。もう少しだけ、一緒に頑張ってみないか?」 2年後にこの青年は、何と、この営業所でかつてない成績を上げ、全社員の前で表彰されました。表彰の席で彼は次のように述べました。「私は何度もこの会社をやめようと思ったんです。自分には全く将来性がないように思えました。しかし、私の上司は、私が自分に対して失いかけていた『信頼』を、私に対して抱き続けてくれました。彼は私が自分に対して持っていた希望よりも、何倍も強い希望で、いつも私を励まし続けてくれたのです。」 日本ではここ10年以上『自殺者数』が3万人を超えています。これらの人々の周囲に、もし上記のような上司(または友人)がいたならば、その多くは未然に防げたのではないでしょうか。私たちは、人々の『あら探し』はしても、『秘められた可能性』にはなかなか目を向けないものです。どうでしょう?今日からちょっと視点を変えて、人々の中の「磨けば光る宝石捜し」を試してみませんか?そしてまた、あなた自身がその『磨き人』の1人となることができたなら、何て素敵なことでしょう!  

(24) 心の一新によって自分を変えなさい。

“何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。” ちょっと想像力を働かせてみてください。今あなたが臨終の床にいるとします。目の前に大きなDVDのスクリーンが現れ、神があなたの名前の付いた『こんな人生を生きることもできたのに…』というタイトルのDVDを上映してくれます。「もっと人々に施していたら、更に経済的に祝福されたのに…」「もっと大胆に新たな課題にチャレンジしていたら、眠っていた潜在能力を発揮できたのに…」「もっと人々に誠実に接していたなら、豊かで真実な人間関係に恵まれたのに…」「もっと悪い習慣に正面から向き合い、悔い改めてそれらを捨てていたなら、キリストのような品性を反映しながら生きられたのに…」。 ある心理学者は言います。「世に存在する言葉の中で、最も悲しみに満ちた表現は『もっと、こうしておけば良かった…』というものである。」 しかし、忘れないでください。私たちにまだ息があるのなら、この「こうしておけば良かった…」を「こうしておいて良かった!」に変えるチャンスがあるのです!そうです、ぜひ今少しの時間立ち止まって「後で後悔しないで済むために、今何ができるだろうか?」と自問自答してみてください。神様があなたに与えてくださっている才能や使命を、くだらないことに費やしてしまってはいませんか?また、自分が人生から学んだ貴重なレッスンを、自分の利益のためだけに独り占めしてしまってはいませんか? もしあなたが心からそう望むなら、あなたの人生はたった今から全く新しいものへと変わることができるのです。

(23) わたしは、人が見るようには見ないからだ。

「やはり所詮私には無理だったんだ…」そのような挫折感・敗北感にさいなまれている方はいませんか?または、そのような人々を周囲にご覧になっている方は? イエスは挫折している人々を『敗北者』としてはご覧にならず『勝利への道を見失っている者』とご覧になります。5回も結婚と離婚を繰り返していた女性をご覧になり、「神の慰めを受け、他の人々を慰めることができるようになる者」とみなします。盲人をご覧になり、「やがて見えるようになる者」とみなします。悪い習慣に捕らわれている人々をご覧になり、「脱出の道を捜している者たち」と捉えます。せっかく貯めた財産を、一見無駄な使い道に費やしている人をご覧になり、「尊い犠牲を払う者」とみなします。そして、あざけりの言葉を投げかけながら自分を十字架に釘付けにしているローマの兵士たちをご覧になりながら、「自分が何をしているのか分からない、赦されるべき罪人」とみなされたのです。 このイエスと出会うまでは、誰も自分の真価に気付くことはできません。ですから、どうぞ人々(自分のことも含めて)に対して『早まった評価』を下さないようにしましょう。そして「神はこの人をどのような目でご覧になっているのだろう?」と心に問うてみてください。私たちは皆『神の作品である』と聖書は言っています。だからこそ、神は私たち1人1人から『最高の結果』を引き出すことを願っており、またそれを実現することのできる方なのです。もし私たちがそれを期待しつつ、神に近づこうとするならば。  

(22) あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行いをしなさい。

「慌ててワイシャツのボタンを留めていたら、1つずつズレてしまって、最後の1つが合わなくなってしまった…」そんな経験はありませんか?あなたはその時どうしましたか?「もう時間がないから、そのまま出かけてしまった」などという人はあまりいないでしょう。きっと1度全部外して、もう1度慎重に良く確認しながら、キチンとボタンを留めていくはずです。 ところが、これがもう少し複雑なモノ(もっと時間がかかるモノ)だったとしたら、どうでしょうか?「やっと編み終わりそうだった『手編みのマフラー』」とか、「数年前に借りて、返すのを忘れてしまっていた『友人の本』(友だちは引っ越してしまって、引っ越し先を調べなければならないとしたら…)」、そしてまた「何年も前にできてしまった(夫婦や親子などの)『人間関係の溝』」などなど…。思わず「見なかったことにしよう」「今更何ができるって言うんだい!」そう思いたくなってしまうのも無理ないかもしれません。 しかし、マーカス・アウレリウス博士はこう言っています。「『過ち』とは、多くの場合、『してしまった』ことではない。それは、『すべきことをしていない』ことである。」 ある意味「してしまったこと」はもう取り消すことはできません。しかし「しはぐっていること」は今からでもまだチャンスがあります。あなたが臨終の床に就いたときに「ああ、あのことをやり遂げておくんだった!」と後悔するよりも、さあ、今からでも間に合います。悔い改めて(再決心して)立ち上がり、新たな前進のために、初めに戻りましょう!

(21) 人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる。

ある親子がロバを連れて旅をしていました。すると通りがかりの人が言いました。「何てもったいない!せっかくロバを連れているのに、誰も乗っていないなんて。」父親は「それもそうだ」と思い、息子を乗せて旅を続けました。すると別の通りがかりの人が言いました。「何て息子だ。自分1人ロバに乗って、父親を歩かせておくなんて。」息子は恥ずかしくなり、自分は降りて、代わりに父親をロバに乗せました。しばらくすると、また別の通りがかりの人が言いました。「何て父親だ。自分1人ロバに乗って、息子を歩かせておくなんて。」今度は父親が恥ずかしくなり、相談の結果、2人ともロバに乗ることにしました。すると今度は、別の通りがかりの人が言いました。「まあ、何てこと!あんなひ弱なロバに、人が2人も乗っているなんて!」親子は途方に暮れてしまって、とうとう終いには2人でロバをかついで旅を続けたそうです! 果たして私たちは「バカな親子だ」と笑えるでしょうか?私たちは皆、多かれ少なかれ「他人の視線や言葉を恐れる性質」をもっています。もちろん、周囲の人々に気を配ることは大切ですが、それに振り回されて自分を見失ってしまうのは愚かなことです。 真に周囲の人々に気を配り、必要な助けを与えることのできる人、それは「人の目を恐れず、日々自分のありのままを受け入れてくださっている神の愛を、心の拠り所として抱いている人」なのです。

(20) わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、私はあなたがたに模範を示したのです。

『学ぶ』という言葉は、『倣ぶ』という言葉から来たと言われています。すなわち、もともと人間は物事(特に『人生』)について、学校で『学んだ』のではなく、身近な人(主に親)がしているのを見て、それを真似ながら身に付けていったわけです。 これは何も昔の話だけではありません。現代でも同様のことが起こっています。「子は親の言うことは行わないが、やることは真似する」と言われている通りです。ですから私たち(特に子を持つ親)は、後の世代に良いものを伝えていくために『良き模範』とならなければいけませんよね。では、私たちは特にどのようなものを後の世代に残していったら良いのでしょう? 2つのことが言えます。1つは「正直さ」です。残念ながら、私たちは誰1人『完璧な模範』となることはできません。それはイエス・キリストお1人で十分です。人々が私たちに期待するのは「正直な姿勢」です。残念ながら間違いを犯してしまった時、それを隠そうとしたり、「だってOOのせいで…」などと弁解しようとするのではなく、「ごめんなさい。私が悪いんです」と過ちを素直に認める姿勢を示すならば、彼らはきっと「過ちを赦す心」「失敗を恐れずチャレンジする勇気」「間違いを認める謙遜さ」を学ぶことでしょう。 もう1つは「肯定的な姿勢」です。ある調査によると、親が子供に語る言葉の90%は『否定的な言葉』だそうです。「何度言ったら分かるんだい」「どうしてお前はいつもそうなんだい」「ちっとは頭を使ったらどうだい?」などなど、あなたも心当たりがありますか?一方「肯定的姿勢」は、人々の秘められた可能性を見出し、彼らにそれを気付かせ、励まし、それらの才能が更に開発されるよう、具体的な助けを与えるのです。これらの人は次のように言います。「大丈夫」「あきらめちゃダメ」「あなたならきっとできる!」 人生に困難はつきものです。必ず何度かは、心がくじけてしまいそうな時がやってきます。そんな時、上記の2つのような模範によって育まれ成長した人々は、何と幸いなことでしょうか。

(19) 人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。

あなたは今朝どんなことを考えながら目覚めましたか?「やった!また新しい1日が始まる。今日はどんな素晴らしいことが待っているのだろう?」と希望に満ち溢れて目覚めましたか?それとも「あ~あ、また朝が来ちゃった。起きたくないなぁ。また1日生きなくちゃならないのかぁ…」と憂鬱な気分で目覚めたのでしょうか? 実は、私は毎朝ワクワクしながら目覚めます。もちろん今クライストチャーチは冬なので、なかなか布団から出たくないのも事実ですが、それでも元気よく目覚めることができるのは、私が愛する人々に囲まれて生きているからです。最愛の妻、子供たち、そして教会の1人1人のメンバー。どの顔を思い浮かべても、私を笑顔にしてくれます。それは彼らが私に何かをしてくれるからではなく、私の内側から「今日も彼らの役に立ちたい!」という思いが溢れ、エネルギーが湧いて来るからです。 私は1日を、これらの人々の祝福のために祈ることから始めます。するとあっという間に1時間くらい経ってしまいます。でもそれは決して無駄な時間ではなく、むしろ私にとって『至福の時』だと言えます。たとえその日直接それらの人々に会える機会がなくても、少なくとも私は祈りの中で、神様を交えて、その人々に会ったのですから。 私は「この『愛』こそが、人を毎朝目覚めさせるための真の活力だ」と思うのです。私たちの日々の生活を充実したモノにしてくれるのは「活動そのもの」ではなく、「それらの活力の源」となるべき『愛』なのです。ただタスクだけをこなす「愛のない日々」は味気ないものです。そしてこの『愛』は、必ずしも「愛らしい人々が周りにいる」ことから来るのではなく、「愛に溢れたお方とつながっている」ことから始まります。私たちをこの『愛』に目覚めさせるために、イエスはこの地上に来られ、十字架の上から「私たちへの熱い愛」を注がれたのです。

(18) 私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。

あなたにとって『神様のイメージ』はどんなものですか?「白いヒゲをはやした柔和そうなおじいさん」「さぼってるとバチを当てる見張り人のような存在」「何でもお願いを聞いてくれるサンタさんみたいな人」などなど、いろいろありそうですね。 聖書全体からつかみ取れる『神様のイメージ』は、言ってみれば「関係を取り持つキューピット」のような方です。神様が私たちに最も望んでおられることは「正しい行いに生きること」ではなく「正しい関係に生きること」なのです。イエス・キリストは『最も大切な戒め』として「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと」とおっしゃいました。そしてそのような愛は、私たち1人1人が「神様との正しい関係」の中に招き入れられない限り、決して持つことができないのです。 神様が私たち人間をお造りになったとき、「ご自分との関係の中に生きるように」、そして「神様との関係の中で育まれた『愛』をもって、人々が互いに愛し合うように」と意図されたのです。ところが、この「神様との関係」というのを無視して、己を神のごとくみなし、自分勝手な価値観で生きるようになった私たちは、もはや『真実の愛』を見出すことができず、「心から信頼し、愛し合える関係」を求めて、日々さまようようになってしまいました。 神様は今日もあなたを招いておられます。あなたと神様との間を隔てていた壁は、イエス・キリストの十字架での『身代わりの死』によって取りのけられました。私たちは、このキリストを通して神様との関係の中に生かされるとき、神様が1番初めに意図されていたとおり、ウソもごまかしもない、決して失望させられることのない、『真実の愛に根ざした関係』を築きながら生きることができるようになるのです。

(17) 悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。

ただ、必要なとき、人の徳を養うことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい。 「口はわざわいのもと」とは、昔から日本で言われている言葉です。聖書にも「愚か者も黙っていれば賢い者と思われる」とあります。このように、私たちが語る言葉は、しばしば人を傷つけ、ガッカリさせ、己の愚かさを露見させるきっかけとなり得ます。しかし、かと言って、全く何も語ることなく一生を過ごすことはできませんよね。では、一体どうすれば良いのでしょうか? イエス・キリストはおっしゃいました。「良い人は、その心の良い倉から良い物を出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を出します。なぜなら人の口は、心に満ちているものを話すからです。」と。私たちは何か言うべきでないことを言ってしまったとき「心にもないことを言っちゃった…」などと言ったりしますが、そんなはずはありません。心にあったからこそ話してしまったのです。ということは、私たちの『語る言葉』を変えるには、まず『心の中にあるもの』から変えなければなりません。 ところで、私たちの『心の中にあるもの』というのは、一体どこからきたのでしょうか?お腹の中から自然と湧いてきたのでしょうか?いいえ、そのほとんどは、私たちが意識的、または無意識に自分で心に取り込んだのです。家族や友だち、新聞や雑誌、そしてテレビやインターネットなどからです。そして非常に残念なことに、それらのほとんどは、否定的・破壊的な情報に満ちており、本来私たちが触れているべき「崇高で愛に満ちた情報」から隔絶しているのです。 『聖書』の中で神が私たちに語りかけることばは、『愛と尊厳』に満ちています。「わたしはあなたを崇高な目的のために造った」「わたしは永遠の愛をもってあなたを愛した」「あなたはわたしの目に高価で尊い」「わたしは決してあなたを離れず、あなたを捨てない」…。私たちがこれらの『真理のことば』に絶えず耳を傾けて生きるとき、私たちは「良い倉」から「良い物」を出す、「聞く人に恵みを与える者」とされていくのです。  

(16) どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。

なぜなら、いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産の中にあるのではないからです。 ある新聞社で「お金とは?」という質問に対する回答を募集したところ、実にいろいろな投書が集まりましたが、その中に次のようなものがありました。「いくらあっても困ることがなく、幸福以外なら何でも買えるモノ。」 確かにお金がたくさんあれば、いろいろなものが買えて大変便利ではありますが、財産は必ずしも私たちを幸福にはしてくれないようです。実際多くのいわゆる『お金持ち』や『成功者』たちは、心に悩みを持ち、ノイローゼや自殺などに至ってしまうこともしばしばです。かえって、その日暮らしの貧しい人々の方が、心の底から笑うことができるのではないでしょうか? 真の『幸福感』『生きる喜び』は「明日のことは心配するに価しないことだ、と信じること」から来ます。幼い子供たちが、時間の経つのも忘れて、ひたすら楽しく遊ぶことができるのは、先のことを何も心配していないからです。彼らには『地位』も『財産』も何の意味も持っていません。ただ「輝く今」だけがあるのです。 私たちは、私たちを限りなく愛し、私たちの明日を守ってくださる「神の御前にあってのみ」この喜びと充足感を味わうことができます。これは単なる『楽観主義』とは全く別のことです。『楽観主義』とは、何の根拠もなく「まあ明日は今日よりもちょっとはマシになるだろう」と考えることです。しかし、私たちが聖書を通して『私たちのいのちを見守られる神』と出会うとき、「根拠のある安息」を持つことができます。しかも、この神が私たちに望んでおられるのは「頑張って活躍し、成功すること」ではなく、「ただ幼い子供のように、その力強さと深い愛に心から信頼し、この方と共に生きる『今』を満喫すること」なのです。

(15) 私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。

多くのいわゆる『宗教』は、『善行(良い行い)』というものを「救いに至る条件」として強調します。気持ちとして分からなくはないのですが、多くの場合、救いの道を求めておられる方々というのは正しい行いを「しなくてはいけないと分かっているのに、できない」からこそ、悩んでおられるのではないでしょうか? 聖書は「私たちは『神の作品』である」と教えます。だからこそ私たちは、程度の差こそあれ「正しく生きたい !」という願いを持っているのです。しかし私たちが、この世に生を与えてくださったこの神様と無関係に生きようとしているため、どんなに正しく生きようとしても、それを実現できないのです。それはちょうど、電源から抜けてしまっている電化製品が、正しく作動しないのと同じことです。 「クリスチャンが良い行いをするのは、そうしないと救いを得られないからだ」と勘違いなさっている方々がおられます。もし「クリスチャン=良い人たち」という印象があるとすれば、それは「そうしないと救いが得られないから」ではなく、むしろ「救いを得た結果として、自由に良い行いができるようになったから」というのが正解です。 神は初めから私たちを「良い行いに歩むように」とデザインされました。「どうやら私は今、そのデザインからズレて生きてしまっている」とお感じになっているあなた、神が提供しておられる「イエス・キリストにある救い」を素直に受け取ってみませんか?  

(14) 主(神)を恐れることは知識の初めである

『常識』という言葉を辞書で調べると「普通、一般の人が知っている、また知っておくべき知識」とあります。ところが最近この『常識』に欠ける人々が増えてきていることが問題になっています。その事実は、次のような「取扱説明書」の記述を見ると分かります。 ・ヘアードライヤー:睡眠中はご使用にならないでください。 ・アイロン:衣服を身に着けたままご使用にならないでください。 ・チェーンソー:回転中のチェーンを手で止めようとしないでください。 これらのことを理解していないということは、単に「知識がない」というよりもむしろ、「人が生きる上で正しい判断を下すための基準を持っていない」とも言えるのではないでしょうか。 聖書は「人は神を認めようとしなくなって以来、その思いは虚しくなり、その無知な心は暗くなった」と書いています。生まれつきの人間は、自分自身の中に『確固たる判断基準』を持っていません。そしてこの『確固たる判断基準』なしに、ただ知識や経験を積み重ねたところで「正しい分別」を身に付けることはできません。私たちの日々の歩みに確信を与える『絶対基準』、それは、この天地の創造主、絶対者である神以外におられないのです。

(13) わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた 大いなる事を、あなたに告げよう。

ある女性が山道を運転中に居眠りをしてしまって、ガードレールを突き破って転落しそうになりました。幸いガードレールの切れ端が車の1部にからまったため、車体は谷底に落ちずに、宙づりになりました。通りがかった人々の通報によりロードサービスがレッカー車と共に到着し、救出活動が開始されましたが、興味深いことに、救出活動中、車体が揺れるたびに、その女性ドライバーは次のように叫んでいたということです。「もういいわ!あとは自分でできるから!」 ある人々は、他人に与えるのは得意ですが、他人から受けるのを苦手としています。プライドが邪魔をするのです。「他人の助けは要らない。自分1人でできる!」と言うのです。しかし多くの場合、私たちは自分の本当の姿を理解し成長するために、私たちのことを良く知っている周囲の人々のアドバイスを必要としているのです。 「神を信じるのは、愚かで弱い人のすることだ」と言う人々がいます。しかしもし神が本当におられるとしたら、彼こそが私たち1人1人のことを最も良くご存じで、私たちの成長のための最善のアドバイスをすることができる方です。上記の言葉は、聖書の中で、神が私たちに呼びかけている言葉です。私たちがつまらないプライドを捨て、へりくだって神の前に進み出るとき、私たちの人生に有益な『理解を越えた大いなる事』を、神は私たちに知らせてくださるのです。

(12) しもべが立つのも倒れるのも、その主人の心次第です。このしもべは立つのです。なぜなら、 主には、彼を立たせることができるからです。

おできを治すにはメスを入れなければならないように、心の傷をいやすには、まず自分で『傷口そのもの』としっかり向き合うことが必要です。ショッキングな出来事と遭遇したとき、それによって打ちのめされてしまうか、それともその出来事を栄養源として成長できるかは、「その出来事がどれほど悲惨か」ではなく「どのような態度でそれに対処するか」にかかっています。 このような局面を踏み台にして前進する人々は、まず「この出来事によって、自分の中のどんな『計画』『希望』『夢』が脅かされているか」をしっかりと把握します。そして「どこがすっかり破壊されていて、どこが未だ修復可能か」を明らかにし、そこから「回復・成長」のための青写真を描いて行きます。 「そんなこと言っても、このことが起こってしまったからには、もう決して元通りには生きられない…」そのように考えてしまうのは、極自然なことです。『人生の危機』が突然訪れると、人は誰でも少なからず不安定になるものです。でもそれは同時に「自分の中に潜んでいた、今まで気づかなかった新たな可能性の扉を開かせるチャンス」にもなり得るのです。「今はまだそんな風に考えられない」としても大丈夫。無理をせず、ただ「私は決して倒されることはない」と信じて下さい。何故なら、私たちの神は、ご自身の名を呼ぶ者が倒されることのないように支えることができる方だからです。

(11) 愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。

中学入学を目前に控えたある少年が自殺しました。彼はちょっぴり『太りすぎ』だったので、学校で他の子たちから嘲笑されるのが恐ろしかったのです。 人前で恥をかかされたり、人格を傷つけられたりする経験ほど、心の痛むことはありません。逆を言えば「ありのままを受け入れ、愛してもらうこと」ほど、力づけられる経験もない、ということです。 私たちはしばしば、よく知りもしない人のことを、『見かけ』だけで判断したり、拒絶したりします。『同性愛者』に対し、「友になろう」ともせず、「あなたは間違っている!」と批判します。『離別された者』の事情を聞く前に、「どうして離婚なんかしたの!」と怒鳴ります。「孤児を助ける」という覚悟もなしに、「堕胎は不法だ!」と決めつけます。 イエスの弟子たちが「生まれつき目の見えない男」と出会ったとき、彼らはイエスにこう尋ねました。「この人が盲人に生まれついたのは、彼自身の罪のせいですか?それとも彼の親の罪のせいですか?」これに対し、イエスは次のように答えます。「そのどちらでもない。神のみわざが彼の上に現されるためだ。」と。 一見「標準から外れてしまっている」ように見える人々や事柄、それは『批判の対象』ではなく「『神の愛のわざ』が行われるための機会」にすぎません。そして神はそのみわざを現すために、その愛を『運ぶための器(私たちの心)』を必要としているのです。あなたはその準備ができていますか?

(10) あなたがたの信仰のとおりになれ!

鉄道で働くある男が、誤って『冷凍車両』の中に閉じこめられてしまった。いくら叫んでも助けは来ず、『凍死』の恐怖に彼はおびえ、こんな悲惨な状況に陥った自分の運命を呪った。凍える手で彼は「自分がどんなに哀れな死に方をしなければならなくなったか」の顛末を克明に記した遺書を書いた。 翌朝彼は『凍死体』で発見されたが、ここで驚くべき事実が判明したのである。というのは、この『冷凍車両』はずいぶん前から故障中で、既に電源からは外されていた。その内部の温度は、外気より少々低い16℃であった。 私たちは自分の不幸を「他人のせい」や「環境のせい」にしようとする。しかし実際は「私たち自身がその事実をどう受け止め、解釈しているか」の方が、私たちの人生により大きな影響を与える。「人があなたをどう思うか」よりも「あなた自身がどう思っているのか」の方がはるかに重要である。神は「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る」とおっしゃった。神に信頼し『思いの一新』によって新たな人生を歩もう!

(9) どうしても必要なことはわずかです。いや、1つだけです。

私たちの住むこのクライストチャーチで、そして我が愛する祖国日本で、相次いで大震災が起こった。正直言って今でも、ぬぐいきれない不安と、大きな心の負担を背負いながら日々を送っている。ただ、そんな中で、神様から大切なレッスンをいただいた気がする。 水道・電気・電話が使えず、多くの店が閉じている中、非常にシンプルな生活を余儀なくされた。目に見えるものがことごとくくずれさった後、そこに残されているのは、ただ途方に暮れている人々であった。同じ災害に遭った者同士、提供できるものはほとんどないが、ただ一緒にいてあげることだけはできた。話を聞いてあげることはできた。昨日まで『私事』にかかりきりであった時間を、今は他の人々とたっぷり共有することができる。そして改めて悟った。「大切なのは、イベントや能率性ではなく『人』なのだ」と。 震災後4週間が経ったが、我が家の水道と電話は未だに復旧していない。けれども多くの友人・知人たちが「シャワーしにおいで」「洗濯してあげるよ」「今夜の夕食はぜひ我が家で」と声をかけてくださる。その度に「私たちは本当に『愛し合うため』に生まれてきたんだなぁ」と思い知らされる。「自分1人で生きていける」と思いがちな私たちにとって何と大切な教訓であろう。 起こってしまったことはどうしようもない。失われてしまったものをいつまでも悔やんでいたら、今目の前に与えられている大切なものをも見失ってしまう。「何よりも『人』が大切」このことをしっかりと胸に刻んで、1日1日を生き抜いていこう。

(8) 指導がないことによって民は倒れ、多くの助言者によって救いを得る。

あなたが野球の試合に参加していて、今 2塁ランナーだとします。次のバッターがヒットを打ちました。3塁に進めることは間違いありませんが、ホームへ突っ込むべきかどうかは判断に迷います。打球の行方を目で追っていたら、走るスピードが落ちてしまいます。一体どうすれば良いのでしょう? 心配するには及びません。あなたが向かっている 3塁ベースには『サードコーチ』が立っています。彼は打球の飛んだ方向や位置、あなたの走力や外野手の肩の強さなど、すべてを把握して的確に判断し、あなたのために最善のアドバイスを送ってくれるのです。 私たちの人生にも、同様なことがしばしば起こります。「右に行くべきか、いや、左に行こうか」「進むべきか、それとも止まるべきか」…。こんな時に「サードコーチ」のような存在がいたら、どんなに心強いことでしょう。 実は、そんな方がいるんです !すべての状況をいつも正しく把握し、私たち 1人 1人の性格や好みをも知り尽くし、しかも私たちの幸せをいつも願っておられる方…それが、聖書が示している「この天地万物をお造りになられた神」なのです。彼は、ご自身に信頼する者に、時には「聖書のことば」を通して、時には「祈り」の中で、その心に語りかけ、道を示してくださいます。

(7) 生きている人間は、なぜつぶやくのか。自分自身の罪のためにか。

幼子でも老人でも、だれでも年をとって行きます。しかし必ずしも「賢くなっている」とは限りません。ある家庭で兄弟ゲンカがありました。妹が言います。「お兄ちゃんがいじめるの。ママ、お兄ちゃんを叱って !」ところがお兄ちゃんにだって言い分があります。「だって、妹が先にボクを叩いたんだよ !」 「それは私が悪いんじゃない !」これは子供たちだけの台詞ではありません。私たちは何歳になっても、身の回りの不幸を、人のせいにしたり、環境のせいにしたりします。しかし何の解決にもなりません。では、一体どうしたら良いのでしょう? 大切なことは「他の人はともかく、自分の過ちは何なのか」を明らかにして、どこをどう正せば良いのかを考え、実行することです。他の人の落ち度に関しては、神様に委ねましょう。もし私たちが神の前にへりくだり、自分の非を素直に認めるなら、神は私たちの側にいてくださり、他の人々との関係を執り成してくださいます。しかし、もし私たちが頑なに周囲を責めてばかりいるなら、そこには神様が関与してくださる余地はありません。もう苦々しい思いを溜め込むのは止めて、スッキリした開放感に包まれた日々を始めませんか?

(6)だれでも、聞くには早く、語るにはおそく、怒るにはおそいようにしなさい。

「口は災いのもと」などと言います。確かに「あんなこと言わなきゃ良かった !」というような苦い経験が誰にも 1つくらいありますよね。かといって一生何も語らずに過ごすのが賢いとも思えません。どうしたら良いのでしょう? 神様は人のために口を 1つ耳を2つ造られました。それはあたかも「語る量の2倍聞きなさい」と教えているかのようです。私たちの周囲には、心の病を抱え「誰でも良いから話を聞いて欲しい」と『聞き手』を捜し求めている方々がたくさんいます。そのような中でもしあなたが「よぉし、今日は徹底的に話を聞いてあげる日にしよう !」と決心して 1日を過ごすなら、きっとあなたの周囲で多くの方々が心を癒されていくことでしょう。 ただ、ここに 1つの問題点があります。というのは、そのような方々の話す内容というものは、多くの場合『否定的』で、耳を傾けている者の心にも重くのしかかってくるからです。 ここで「2倍聞く」のことばの意味を考えてみましょう。これはただ「2倍の時間、聞くことに費やしなさい」ということでなく、「人のことばに耳を傾けると共に、神があなたに語りかけておられる言葉にも聞き耳を立てなさい」ということなのです。神は聖書を通して、私たち 1人 1人に常に『積極的・肯定的』なことばを語りかけます。この神のことばに心を開きつつ、人々の語ることに耳を傾けていくなら、決して『自己防衛的』になることなく、相手に対する思いやりと感謝に満ちたことばを語りかけることができるようになることでしょう。

(5)愛は人のした悪を思わず…決して絶えることがない。

ある7才になる女の子が「どうしてもヴァイオリンを習いたい」と言いました。母親は彼女の決心が堅そうなのを見て、お試しレッスンに通わせることにしました。教室に向かう道で母親は娘にこう言い聞かせました。「あのね、ヴァイオリンを習うにはとてもお金がかかるの。でもそのお金は何とかするわ。但し、1度始めたら、どんなに辛いことがあっても、決して途中であきらめてはいけないわよ。いいわね。」少女はコクリと頷いてから、これ以上真剣な表情はない、というくらいの面持ちで厳かに言いました。「分かったわ、お母さん。要するに『結婚生活』と同じっていうことね。」 聖書は「神様は私たちを『決してあきらめない愛』で愛してくださっている」と教えています。そしてその愛を反映させる場として、私たちに『結婚生活』という舞台を備えてくださったのです。この愛は「もし ◯◯ してくれたら…」というような条件付きの愛ではありません。相手の反応に関わらず、ひたすら愛し続ける愛なのです。神様のこの愛に対して心を開いてこそ、私たちは『家庭』『職場』『学校』などの生活の現場で「ひと味違った愛の香り」を放ちながら生きる者とされていくのです。

(4)なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気が付かないのですか。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。

ある奥さんが毎朝、お隣の家に干されている洗濯物の汚さを窓越しに見ながら「もうちょっとキレイに洗えないものなのかしら !」と呆れていました。ところがある朝いつものように窓越しにお隣の洗濯物を見ると、驚いたことに、輝くようにキレイに洗われているのです。思わず側にいたご主人に「ねぇ、お隣は洗濯機を買い換えたのかしら?」と尋ねると、ご主人が言いました。「何言ってんだい。俺が今朝この窓をキレイに拭いたんだよ !」 「他人の振り見て、我が振り直せ」ということわざがあります。他人の落ち度ばかり指摘している人ほど、自分の姿が見えていないものです。他人のあら探しをする前に、まず自分が神の前に正しい良心を持って歩んでいるかどうかを吟味してみましょう。そうすれば、あなたの弱さや心の痛みをすべて理解してくださっている神様の優しさに触れて、他の人々の失敗にも寛容に対処してあげられるようになることでしょう。

(3)神は…試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。

「神がおられるなら、何故こんな問題が起こるのか?!」とおっしゃる方がいます。『問題』ってイヤですよね。 私たちの人生に問題が起こるのは、大きく分けて2つの理由があるように思います。 ①「自分の蒔いた種を刈り取っている」 ・神様は極めて公平な方です。私たちが掃除を怠れば部屋は散らかるし、暴飲暴食していれば体をこわします。私たちが正しい習慣を身に付けるようにと、神様はレッスンを与えてくださっているのです。 ②「問題のない人生は成長をもたらさない」 ・自分の子どもの正しい成長を願う親は、子どもにそれなりの課題を提供します。最近「自分の子どもには苦労をさせたくない」と甘やかす親が増えているのは残念なことです。神は私たちの堕落を願っているのではなく、成長を求めておられるので、敢えて私たちが試練に会うのをお許しになるのです。 神は決して私たちが試練に押しつぶされてしまうことを望みません。そこには必ず脱出の道があります。たとえ事態が『八方ふさがり』に見えても、『上(神様への道)』は開いているのです。

(2) 私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして、追求しているのです。

「失敗すること大好き!」という人はあまりいないと思います。誰でも、できるだけ失敗や挫折を経験しないで人生を送りたいですよね。でもよぉく考えてみると、どんな偉業を成し遂げた人でも、その偉業に到達するまでには、数々の失敗を乗り越えてきたはずです。日本語のことわざにも「失敗は成功のもと」って言いますよね。 上記のことばは、キリスト教界で大いに敬われている『パウロ』という人が言った言葉ですが、このパウロは初めクリスチャンたちを迫害し、投獄したり殺したりしていました。しかしイエス・キリストこそ真の救い主・神の子であると悟った後、まさに人生を180度転換し、キリストによる救いを世界中に伝える人となりました。「偉業のかげに、失敗あり。」もしかしたら『致命的な失敗』とは「失敗を恐れて何もしないこと」かもしれませんね。

(1) ”わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。”

誰でも人から誉められたら悪い気はしませんよね。でも、あまり人の評価を気にしすぎると、とてつもなく落ち込まされることがないとも限りません。誰が自分を何と評価しようと、「私の価値は、他人の評価に関わらず尊いものである」ということを知っておくことは大きな助けになります。 上記のことばは、聖書の中で、神様が私たち1人1人に語りかけておられることばです。私たちは皆、この神様によっていのちを与えられて生まれてきました。何かができるかできないか、何を持っているかいないか、は私たちの価値を左右しません。私たちは「神様の御手で造られた尊い存在」であるからこそ、価値があるのです。

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