他の人のためになることをすることは、多くの場合「後味の良いもの」です。ただそれが「相手から賛辞や見返りを受けるためにする」ようになると、喜びが半減したり、かえって「嫌な後味」を残すものになったりすることがあります。もちろん何か他の人のためにしたならば、相手から感謝されることを期待してしかるべきですが、必ずしも私たちの期待通りの反応が返ってくるとは限りませんよね?そんな時私たちはつい『自己憐憫』に陥ったり、周囲の人を責めてしまったりします。せっかく『喜び』を得られるはずだった「良いもの」が、『悲しみ・後悔』を生み出す「無価値なもの」に思えて、「もう誰かのために何かをするなんて意味が無いからや~めた!」というような結果になってしまったら、あまりにも悲しすぎます。

 そこで朗報があります!何と、私たちが心を込めて行った『良いわざ』を「もれなく正当に評価してくださる方」がおられるのです!それは、私たちを創造し、この世に送り出し、そしてこよなく愛してくださっている『天の父なる神』です。彼は私たちの髪の毛1本1本をも知っておられる方で(あなたは昨日あなたの髪の毛が何本抜けたか知ってましたか?)、当然のことながら、私たちが他の人のために良かれと思って行ったことを1つ残らず記録してくださっているのです。そしてそんな私たちの「小さな犠牲」を、『尊い』と評価し、私たちの心の深い部分で『喜び』を共有してくださるのです。

 ただ、この『喜びの共有』のためには、1つのコツが有ります。それは、それらの『愛の行い』を、相手に気付かれないように「そっと行う」ことです。上記の聖書のことばの続きには「あなたの隠れた行いを、隠れた所で神が見ておられる」と書いてあるのです。神様は「この世であなたの善行が認められたなら、それはそれで良かったね。でももし誰にも気付いて(評価して)もらえなかったとしても、落ち込む必要はないよ。わたしはちゃぁんと知ってるからね。」と語りかけてくださっているのです。

 さあ、もう「誰かに認めてもらえるかどうか」などということは心配せずに、ドンドン周囲の人に愛と親切を振りまいて行きましょう!

Categories: 聖書

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