2026年8月30日 「神の最善」

礼拝全体の様子をYoutubeで観る 説教あらすじ     「神の最善」     (30/08/2026) [ルカの福音書 9章10~17節] ◆イエスの特異性(10~13節前半)   ・「ベツサイダへ退いた」のは、宣教の旅から疲れて帰って来た使徒たちを休ませるためだったと考えられるが、イエスは「ついてきた群衆(恐らく弟子たちが巡って来た村々から)」を喜んで迎え、ミニストリーを始めた。その上疲れている弟子たちに「あなたがたであの人たちに食べ物をあげなさい」と。彼らの心境は察して余りある。   ・私たちが「神は最善しかなさらない」と言う時、多くの場合「自分にとっての」という物差しで測ってしまいがち。しかし神(イエス)は「すべてをご存知の方」である。ここでもイエスは単に「弟子たちの疲れを癒す」ということではなく、「群衆にとって」「弟子たちにとって」、そして何よりも『神の栄光のため』の『最善』を行おうとしていた。 ◆神のわざに関わる特権(16~17節)   ・イエスはそこにいた全員を満腹させた。当時どれだけの村人たちが「満腹に食べる」という経験をしただろうか? またそれらのパンや魚を配ったのは、他ならぬ「疲れ切っていた使徒たち」。パンと魚がどのように増えたのかは定かではないが、この驚くべき奇跡を目の当たりにし、その媒体として用いられた経験は、彼らに「休息」以上の回復と興奮をもたらしたことだろう。イエスが私たちに味わわせたい『神の最善』は、私たちの思いを超えている。 今日の真理: 『神の最善』は、関わる全ての人のため ◎更に深い学びのために  ①「神は最善しかなさらない」と聞く時、あなたはどのようなことを思い浮かべますか?  ②10~13節までだけを読んだ時点で、人間的には、あなたはこの場ではどんなことが『最善』だと考えますか?  ③「自分が思い浮かべていた最善」と違った形で神が働かれた経験があれば、互いに分かち合いましょう。 Outline of the sermon     “God’s very best.”     (30/08/2026) [Luke 9:10~17] ◆Christ’s peculiarity. (Verses10~13a)  ・Jesus and disciples encountered the crowds when they were just about taking a rest.  Instead of refusing to help this crowds, Read more

(667) “私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。”

 キリスト教と、他のいわゆる『宗教』との大きな相違点の1つは、恐らく「救い」と「良い行い」との関係にあるのではないでしょうか?ほとんどの『宗教』は「救いやご利益」を受けるために何らかの「行ない」を要求します。「修業を積む」「一定金額のお布施をする」「戒律を守る」などなど。このような「条件付きの救い」は、この世の様々な習慣や人付き合いなどにも深く根付いているので、理屈として納得が行くものなのでしょうね。  では『キリスト教の救い』は、どう違うのでしょうか?英語のことわざで「Christianity is not Religion but Relationship with God」(キリスト教は宗教ではなく、神との関係)と言われているように、聖書で強調されていることは『神との関係』です。人間関係においても「OOしてくれたら、~してあげる」というような「ギブ・アンド・テイク」の関係もありますが、より親しい間柄になればなるほど「無償でしてあげる」ということが起こってきます。親子関係や夫婦関係、また親友同士などがこれに当たります。いわば「『~だから』の愛」と「『~にもかかわらず』の愛」の違いです。そして神が私たちとの間に求めておられる関係は、この後者に当たります。神は、私たちが神に対して興味も関心も示す前に、私たちを一方的に愛し、私たちとの関係を回復するために、ひとり子イエス・キリストを「和解のいけにえ」として十字架において犠牲にされました。そしてこの神の驚くべき愛に対する応答として、クリスチャンたちは誰に強制されることもなく、自ら進んで「神に喜ばれるような良い行い」に励むようになるのです。つまり、クリスチャンたちの『良い行い』は、「救いを勝ち取るため」にしているのではなく、「救いをいただいたから」しないではいられなくなっているわけです。  最近では夫婦の離婚率も上昇傾向にあり、また子育てにおける『ネグレクト』なども問題になっています。本来「無償の愛」が実践されるべき場が歪んできてしまっているのです。これらを本体の姿に回復させるためにも、私たち人間には『神との愛の関係』が何が何でも必要ではないでしょうか?

(666) “あなたがたには、明日のことは分かりません。あなたがたのいのちとは、どのようなものでしょうか。”

 英語で「One day at a time」という表現があります。いわば「その日その日に集中して生きる」という意味です。私たちはつい先の事を心配し、目の前の事に集中できないことがあります。もちろん将来のために備えをしたり、計画を立てたりすることがいけないとは言いませんが、その事ばかりを気に掛けて、肝心の『今』をおろそかにしてしまっては元も子もありません。  神は私たち人間を「1秒先も分からない存在」としてお造りになりました。人は将来のことが不安になり、占いに頼ったり、怪しげなオカルトに手を出したりする事があるわけですが、どれ1つとして確かなものはありません。神が私たちに将来のことをあらかじめ知らせないのは、神ご自身に頼らせるためです。  神は良いお方であって、私たち1人1人を深く愛しておられます。神は常に私たちの最善を願っておられますが、それは決して「いつも物事がうまく運んで、何の苦労もない人生」という意味ではありません。神は、私たちが与えられている能力をフルに発揮できるようにと、時に試練を通して私たちを鍛えてくださるのです。けれども決して私たちを見捨てたりすることはありません。人生の試練は、「神の不在」を意味するのではなく、むしろ神は「試練の中でも共にいてくださる」のです。  神の1番の願いは、「私たちとの深い信頼関係」です。もちろん『関係』というものは決して「強制的」には構築されません。双方の「自由意志」によって形造られていくものです。「神との信頼関係」は、私たちの態度によって決まります。そして私たちが、「神様、あなたが私を愛し、常に私のために『最善』を願ってくださっているので、私は先のことを思い煩うことなく今日という日を全力で歩みます!」という思いで日々を歩んで行く時、『神との信頼関係』は少しずつ深められていくのです。

2026年8月16日 「イエスの名によって遣わされる」

礼拝全体の様子をYoutubeで観る 説教あらすじ   「イエスの名によって遣わされる」   (16/08/2026) [ルカの福音書 9章1~9節] ◆イエスは12弟子を遣わされた(1~2節)   ・ここまで弟子たちはいつもイエスと共に行動していたが、ついに「独り立ち?」する。この12人は『使徒』と名付けられていた(6:13)。この語は当時のユダヤ社会において「全権使節」を表す言葉。彼らは「イエスのすべての権威」を委ねられ、すべてを『イエスの名』によって行った。(10:17)   ・使徒たちは『神の国』を宣べ伝えるために遣わされた。「悪霊を追い出したり、病人を癒すこと」は『神の国』の到来を裏付ける「しるし」(11:20)。この地方を治めていたヘロデは、使徒たちが行っていたこれらの『しるし』の故にイエスに興味を持ったが、肝心の「イエスが誰であるか」ということを知ろうとはしなかった。(23:8) ◆私たちも遣わされている!   ・私たちが心に刻むべきことは、「私たちも使徒たちと同様に『遣わされている』」ということ。何とイエスは「ご自身が遣わした者たち」と自分を同一視しておられる(10:16)。私たちのような者にそれほどまでの信頼を置いておられる方に対して、私たちも「心からの信頼と忠実さ」をもって仕えて行こう。イエスはそのような私たちを通して喜んで「神の国のしるし」を現わしてくださるに違いない! 今日の真理: イエスとの「信頼関係」がカギ ◎更に深い学びのために  ①12弟子はどんなことのために遣わされましたか? 彼らの活動のうわさを聞いて、ヘロデはどう思いましたか?  ②なぜ「私たちも遣わされている」と言えるのでしょう? あなたは「どこに」「何のために」遣わされていますか?  ③「遣わされている者としての心構え」に関して、互いに分かち合ってみましょう。どんな新しい発見がありますか? Outline of the sermon   “Being sent in Jesus’ name”   (16/08/2026) [Luke 9:1~9] ◆Jesus sent his 12 disciples. (Verses 1~2)   ・These 12 disciples were named “apostles”(6:13) which meant “ambassador plenipotentiary” in Jews society.   So Read more

(665) “神は私たちの心よりも大きな方であり、すべてをご存知だからです。”

 ほとんどの人は「善意をもって正しく歩みたい」と思っているのではないかと思います。と同時に「本当はもっと正しく優しく生きたいのに、なかなかそれが思うように実践できない」というジレンマを感じておられるのではないでしょうか?一体なぜ私たちは自分が願っているような「正しく優しい人生」を生きられないのでしょう?恐らく2つくらいの理由があると思います。  1つ目は、私たちの『弱さ』です。「根本的な『自己中心性』」と言っても良いかもしれません。「今日から正しく生きよう!」と決心したとしても、忙しかったり、疲れてしまっていたり、「これくらいなら…」と、つい魔がさしてしまい、本来願っていた生き方からズレたことをしてしまうわけです。  もう1つは、そもそも私たちの『良心』が間違っていることがあるからです。私たちは知らず知らずのうちに「自分の良心」というものを「善悪を判断する絶対的な基準」としてしまっていますが、私たちの『良心』は決して「絶対的なもの」ではなく、自分の生い立ち、周囲の情報や価値観などによって微妙に歪められてしまっているのです。ですから「良かれ」と思ってやったことが裏目に出て、かえって他人を傷付けてしまうことがあるのです。  ある人々は(たとえクリスチャンであっても)「自分の良心の声」が『神様からの促し』であると思い込んでいますが、それは大きな勘違いです。聖書は「神は全てをご存知な方で、私たちの『良心』よりも大きい」と教えています。ですから、私たちが願っている「正しい善意に満ちた人生」を歩んで行くためには、「私たちの良心」を超えた『神の助け』が常に必要なのです!  聖書は「人生を正しく歩むための指針を教える道徳規範」ではありません。「神から離れ、本来神が願っておられる生き方ができなくなってしまっている私たち」を、もう1度ご自分との関係を回復し、本来の「神の栄光を輝かせて生きる人生」へと招き寄せるための、いわば神から私たちに向けられた『心の叫び』なのです。

2026年8月9日 「常識 vs イエスのことば」

礼拝全体の様子をYoutubeで観る 説教あらすじ     「常識vsイエスのことば」     (09/08/2026) [ルカの福音書 8章49~56節] ◆『信仰』は「常識を超えたところ」にある(49~50節)   ・家からの使いのこの言葉を聞いた時のヤイロの気持ちは?「現実に押しつぶされそう」「誰かを責めたくなる」。どちらにしても、もはや人間的にできることは何もない。今こそ『信仰』を働かせる時!   ・私たちの「常識」は「目に見える世界」に基づいているが、『イエスの言葉』は「見えない世界」に働きかける。 ◆「眠り」と『死』(52節)   ・イエスにとっての「眠りと死」の概念と、私たちにとってのそれとは、次元が違う。イエスはしばしば肉体的には目覚めている弟子たちに「目を覚ましていなさい」とおっしゃった。[マルコ13:33] またパウロはイエスと出会う前の私たちを「死んでいた者」と言っている。[エペソ2:1-2]   ・私たちにとって、『眠り』は「肉体と意識の休息」だが、『死』は「肉体や意識の営みの終息(人生の終わり)」を意味する。しかしイエスにとっては「肉体の死」は『眠り』に過ぎず、『死』とは「肉体的には生きていても霊が機能せず神との交わりが絶たれている状態」を指す。すなわち、ここで「死んでいる」のは、少女ではなく周囲の人々。   ・イエスの声は見えない世界に働きかけ、少女の霊に届いた。私たちもこの使命に召されている。[エペソ6:12] 今日の真理: イエスは「見えない現実」に働きかける ◎更に深い学びのために  ①娘の死を知らされたヤイロの心境を想像してみましょう。彼はどうしてそのように感じたと思いますか?  ②そんなヤイロにイエスは「恐れず、ただ信じなさい」と言われました。何をどう信じろということなのでしょうか?  ③「目に見える常識」に根差して生きることと、『イエスの言葉』に信頼して生きることは、どのように違いますか? Outline of the sermon   “Common sense VS Word of Jesus.”   (09/08/2026) [Luke 8:49~56] ◆“Faith” is above ‘Common sense’.(Verses 49~50)  ・Jairus must have lost his hope when he heard about his daughter’s death.  Read more

(664) “愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。”

 最近の精神医学的調査によって分かったことは、『愛』と『恐れ』という2つの精神的要素は全く別の系統から発生していて、私たちの日々の生活において、これらの2つの精神的要素が同時に影響を及ぼすことはないのだということです。  専門家たちの調べによると、『愛』という要素は私たちが生まれた時から私たちの内面に備えられているのに対し、『恐れ』というものは、生まれてからの環境や出来事などを通して「学習される」要素なのだそうです。またこのような、生まれた後から「学習された」否定的な精神的要素は、それらが私たちの内側に働くたびに「精神的に害となる毒素」をまき散らし、私たちの精神世界を破壊しようとするのですが、驚いたことに、私たちが『愛』を動機として行動している時、『恐れ』を含めたこれらの「否定的な精神的要素」が少しずつ消滅して行くのだそうです。それだけでなく、私たちがこの『愛』を活発に働かせることによって、私たちの脳内に「肯定的な変化」が起こり、健康的な思想を生み出す化学物質が活発に分泌されるようになるそうです。  これらのことは本当に最近の研究によって明らかになったことなのですが、聖書には2千年以上も前から既に「愛は恐れを締め出す」と書かれていたわけです。全く驚かされますよね!この天地万物をお造りになり、私たち1人1人を創造された神は、これほどまでに素晴らしく、深い愛を込めて私たちを形造ってくださったのです。私たちも、この神の愛を受け取って、互いに愛し合うことにより、精神的に健康な日々を過ごしましょう!

2026年8月2日 「イエスを振り向かせる信仰」

礼拝全体の様子をYoutubeで観る 説教あらすじ   「イエスを振り向かせる信仰」   (02/08/2026) [ルカの福音書 8章40~48節] ◆何が起こっているのか?  ヤイロ: 1人娘が死にかけている。イエスだけが望みの綱。一刻も早く娘の許へ!  長血を患った女: 心身両面での苦痛。「衣の房にでも触れれば癒される」という信仰。癒しを体験したが、「汚れた者」というレッテルの故に、それをイエスに申し出る勇気がない。  ペテロ(その他周囲の人々): 「主イエスは一体何をそんなにこだわってるんだ?」「今はそれどころではないのでは?」 ◆イエスは何を求めたのか?  ◎イエスは何故それほどまでに「誰がさわったのか」にこだわったのか?   ・「イエス自身が意識していなくても、『神の力』は私たちの信仰に勝手に反応する」ということではない。イエスは初めからこの女のことを知っており、その病を癒そうとしておられた。それだけではなく、この女の『信仰』の故に彼女を祝福したかった。[Ⅱ歴代誌16:9] しかしイエスは、彼女が「恥や恐れ」を乗り越えて大胆に神の前に自分の身を現すことを望まれ、敢えて気付かないふりをしてまで、女が自ら名乗り出るのを待った。(47~48節)  ・神が求めておられるのは「奥ゆかしさ」ではなく、時に「なりふり構わず神に応答しよう」とする大胆な信仰。 今日の真理: イエスは決して、慌てず急がない ◎更に深い学びのために  ①この箇所での登場人物1人1人の様子や心境を思い浮かべてみましょう。どんな発見がありますか?  ②緊迫した状況の中で、何故イエスは急ぐことなく、女が自身に起こったことを申し出るまで待ったのでしょう?  ③この物語から、神があなたの内に育みたいと思っておられる、どのような態度を見出すことができますか? Outline of the sermon   “The faith that makes Jesus turn around”   (02/08/2026) [Luke 8:40~48] ◆What’s happening here?  Jairus: His only daughter is dying.  Jesus is the only hope Read more