(548) “神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。”

 「誰かを赦さないでいること」というのは、自分では「赦さないことによって相手を縛っている」つもりかもしれませんが、実際は、「赦さないことによって縛られている」のは『自分』です。どんなものでも栄養を与えればスクスクと成長します。かわいい赤ちゃんにキチンとミルクを与えていればちゃんと成長するように、「赦したくない相手」を日々思い出しては、「絶対に赦さない!」と繰り返し心の中で宣言することは、「相手に対する苦々しい思い」に毎日栄養を与えているようなもので、その『苦々しさ』はどんどん成長して行き、やがては自分自身を滅ぼすことになります。  「そんなこと言ったって、もし赦してしまったら、その相手は図に乗って、益々自分に対してひどいことをするかもしれないじゃないですか!」とおっしゃるかもしれません。初めに言っておきますが、『赦す』ということは「相手の行為を大目に見ること」とは違います。『赦す』という行為は、相手を縛っていた縄をほどいてあげることではなく、「自分を縛っている縄から逃れること」なのです。また、相手が自分にした意地悪を「忘れてあげなければならない」わけではなく、むしろ「相手がした意地悪を思い出しても、もはやイヤな気持が湧いてこない」という解放なのです。  『赦す』という能力は、他の様々な能力と同様、練習によって伸ばすことができます。この『赦す』というスキルを繰り返し用いることで、自分に悪意を持つ相手を減らすことも、また意地悪をかわしつつその相手を思いやることもできるようになります。キリストによって私たちを「赦して」くださった神は、私たちをも喜んで『赦す者』へと成長させてくださるのです。

2023年10月29日 「神の視点」

礼拝全体の様子をYoutubeで観る 説教あらすじ    「神の視点」    (29/10/2023) [へブル人への手紙 10章11~18節] ◆「大祭司イエス」によるみわざの完了(11~14節)  ・祭司たちは自分の務めが終わるまで決して「座る」ことはない。従ってイエスが「御父の右の座に座られた」のは彼が「ただ1つの完全ないけにえ」を献げたことにより、贖いのみわざが『完了した』ことを意味する[ヨハネ19:30]。  ・「聖なるものとされる人々(14節)」という言葉は『現在分詞形』が用いられていて、「今既にそうであり、これからも  ずっとそうである」という意味が強調されている。私たちは「自分の努力によって」ではなく、ただこの「キリストによる神の一方的な恵み」を信じる『信仰』によって、神の目から見て「罪なき者」とされた! ◆「聖なるもの」とされた私たち(14~18節)  ・神は今や「書かれた律法」によってではなく、「私たちの内に住まわせた『聖霊』」によってご自身のみこころを私たちに証しされ、日々導かれる。だからこそ私たちは「自分の心」や「周囲の言葉」ではなく、いつも「内なる聖霊の語りかけ」に最も注意を払っているべき。サタンや、時には自分自身の良心でさえ、私たちの罪を責めようとする。しかし、神はもはや『キリスト・イエスにある者』を決して罪に定めることがない[ローマ8:1]、ということを忘れて  はならない。『神の目』には、今や私たちは「キリストと同じように聖く尊い存在」なのである! ✰今週のチャレンジ: あなたは『神の目』から見て、どんな存在ですか? ◎更に深い学びのために  ①十字架上でのイエスの『完了した』という言葉は、どんなことを意味していますか?  ②私たちが受け取っている「恵みによる救い」というものの性質について、再度詳しく話し合い、確認しましょう。  ③「私たちの心に置かれた律法」とはどのようなものですか? 神はなぜそのような方法を選ばれたのでしょう? Outline of the sermon     “God’s point of view.”     (29/10/2023) [Hebrews 10:11~18] ◆Jesus “finished” his task.(Verses11~14)  ・Priests never sit until they finish everything should be done.  Jesus, now, is sitting right hand of Read more…

(547) “あなたの行く道すべてにおいて、主を知れ。主があなたの進む道を真っ直ぐにされる。”

 皆さんは「全く見知らぬ土地」を、何の手がかりもなしに歩いたことはあるでしょうか?結構簡単に道に迷いますよね?(まあ今の時代『グーグルマップ』があるのでとても便利ですが、Wi-Fiもないと仮定してください) ところがその土地にずっと住んでいる人が道案内として付いてくれたら、話は別です。迷うことなど全然心配せずにリラックスして気軽に散歩することができますよね?  私たちの人生も、よく『旅』に例えられます。1秒先も分からない私たち人間にとっては、ちょうど「見知らぬ土地を歩く」ようなものではないでしょうか?いつ何が起こるかも分からないし、しょっちゅう分かれ道に出くわして、迷いながら選択し、後悔することも度々あります。だから「占い」などに頼る人も出て来るのでしょうね。  聖書はちょうど「人生のためのロードマップ」のようなものです。目的地を示し、そこに到達するための最良の道筋を示してくれますが、どの道を通るかの選択は私たちに任されています。ただ私たちは「地図を読み間違えること」もありますよね?右に曲がるはずのところを左に曲がってしまったり、または気付かずに通り過ぎてしまったり… しかも「地図を使った旅」は私たちに緊張感を与え、『旅そのもの』を楽しめなくなってしまうことがあります。主イエスの時代のユダヤ人リーダーたちは正にそのような状態でした。  イエス・キリストと共に歩む人生はまさに、信頼できる『道案内人』と一緒にリラックスして歩く旅のようなものです。何しろ彼は「地図の作者そのもの」なのですから、道を間違うことは決してありません。時に私たちが気まぐれに正しくない道を進もうとしても、それを止めてくれたり、時にはそのまま進ませて、後でちゃんと正しい道に戻れるように導いてもくれます。また、残念ながら私たちの人生を破壊しようとする『敵』も存在します。しかしイエス・キリストはその敵をも打ち破り、私たちを守ってくださる方です。  このような『人生のパートナー』を伴わずに生きるなんて、実にもったいないと思いませんか?!

2023年10月22日 「完全ないけにえであるキリスト」

礼拝全体の様子をYoutubeで観る 説教あらすじ 「完全ないけにえであるキリスト」 (22/10/2023) [へブル人への手紙 10章1~10節] ◆律法の優れた点と足りない点(1節,10節)  ・律法によっては救いは完成されなかったが、律法には優れた点もいくつかあった。まず律法は『神のみこころ』の1つである「聖なる者」(Ⅰテサロニケ4:3)の要素が述べられている。また「すべての罪は『死』をもって償われなければならない(ローマ6:23)ということも堅く教えてくれている。そして何よりも律法は私たちに「神を畏れ従うべきだ」ということを教えてくれる。これらはすべて『良きもの』であり、決して軽んじられるべきではない。  ・では律法に足りなかったものは何か?それは「くり返し献げられるいけにえによって、年ごとに『罪』を思い起こさせる(3節)」という点。真の罪の赦しは「神が忘れてくださる」ということから来る。[へブル8:12] ◆キリストの「いけにえ」としての完全性(8~10節)  ・キリストはご自身のからだを「ただ1度献げたこと」によって完全な『罪の贖い』を成し遂げられた。このキリストの「完全ないけにえとしての価値」は、ある意味『律法』の存在なしには我々には理解し得なかったと言える。  ・「私たちを聖めること」は、『神の目的』そのものではない。神の願いは「私たちとの交わりの回復」。そのための『罪の赦し』。習慣的にではなく、日々「新鮮な心」をもって、この方の招きに応じて御前に出よう! ✰今週のチャレンジ: 朝ごとに新しい心で、神の前に進み出よう! ◎更に深い学びのために  ①『律法』の優れた点と足りない点をそれぞれ確認し、何故初めに『律法』が与えられたのかを考えてみましょう。  ②神は何故『私たちの罪』を赦そうとされたのでしょう? この理由はあなたの日々の歩みにどう影響しますか?  ③『神との交わりの時間』のマンネリ化を感じることはありますか? それを防ぐためのどんな工夫ができますか? Outline of the sermon     “Christ, perfect sacrifice.”     (22/10/2023) [Hebrews 10:1~10] ◆Pros and cons of “the law”.(Verses 1&10)  ・Even though “the law” never fulfilled “salvation”, it still achieved some things like: ①Reflecting “Will Read more…

(546) “神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。”

 この聖書の言葉は、クリスチャンたちの間で最も好まれている箇所の1つです。この世にあってキリストを信じ、聖書の教えに従って生きる時、単にこの世に順応して生きていれば味わうことのない試練や困難にしばしば直面します。そんな時にこの聖句は信仰者たちの間で大きな励ましとなっているようです。  ところで「すべてのことがともに働いて益となる」とは、どのようなことでしょうか?  「重曹」や「小麦粉」をそのまま食べて美味しく感じる人はあまりいないでしょう?しかしそれらに他のいくつかの材料を加えて混ぜ合わせ、オーブンで焼くなら、私たちの体に「益となる」美味しい食べ物が出来上がります。同じように、この箇所にある「すべてのことが」の『すべて』には、必ずしも「楽しいことや望ましいこと」だけでなく、「困難・不公平な扱い・痛い経験」など『すべて』が含まれています。それらの「一見好ましくない事」も含めた『すべて』が神の御手の働きによって絶妙に織りなされて『益』とされるのだ、というわけです。  旧約聖書に出てくる『ヨセフ』という人物は、親から特別な寵愛を受けていたことから兄弟たちに疎まれ、外国に奴隷として売り飛ばされてしまいます。その後かれは数々の苦難に直面しますが、最終的には大国の権威者に任命され、母国で苦しみにあえいでいた家族を救うことになります。何十年振りかに兄弟たちと対面したヨセフは彼らにこう言います。「あなたがたは私に悪を謀りましたが、神はそれを良きことのための計らいとしてくださいました。それは今日のように、多くの人が生かされるためだったのです。」  念を押しておきますが、これは「神を愛する人々、神のご計画にしたがって召された人々」、すなわち『神を信じ従う人々』に対して語られている言葉です。あなたもこのような『逆転』を与えてくださる神に信頼する歩みを始めてみませんか?

(546) “キリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに受け入れ合いなさい。”

 かつて『男性は火星から、女性は金星から』(原題『Men Are from Mars, Women Are from Venus』)という本がベストセラーになりましたが、この本の著者であるジョン・グレイの意図したところは、「他の人を本当の意味で理解するには、単に表面に現れている所ではなく、その人の視点で人生というものを見直す必要がある」ということです。そして当然のことながら、これは至難の業です。というわけで、どんな人間関係の中でも「誤解」や「意見の食い違い」というものが起こります。これは避けられないことです。大切なことは、そのような「意見の食い違い」が起こった時にどのように対処するか、という知恵です。  日本人としてありがちなことは、「相手に受け入れられたいあまり、自分の本心を隠して、いかにも相手の考え方に同意しているかのように振舞おうとすること」です。これは『その場しのぎ』としては使えますが、長期に続く関係(結婚関係など)のためには、後に大きな悲劇を生む原因になりがちです。そもそも創造主なる神は私たち1人1人をユニークに造られたのですから、「全てにおいて一致できる相手」などはおよそ存在しないのです。そういう意味では『性格の不一致』というものは「離婚の理由」になるべきではないのです。  私たちは互いに「同意できないことがある」ということを理解しつつ、それを恐れずに相手に伝えられる関係を築いて行く必要があります。たとえ多少の口論は生じても、最終的には「自分はこう思ってはいるけど、あなたがそう思うことも理解しようと努力します」と言えるのが、精神的な『大人』と呼べるのではないでしょうか?  真に麗しい人間関係とは、お互いがお互いの『ありのまま』を表現できて、たとえそれが自分とは違っていたとしても、それを責めたり無理に変えようとしたりせず、その『違い』を尊重しつつ、むしろその『違い』を楽しみ、また互いに生かし合うことのできる関係です。このような関係を築ける人は、自分自身も周りの人々をも成長させることのできる人なのです。

(545) “これらすべての上に、信仰の盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢をすべて消すことができます。”

 上記の聖書の言葉によると、『悪い者(悪魔)』は私たちに「火矢を放つ」と書いてあります。一体どんな「火矢」を放ってくるのでしょうか?それは必ずしも「病気・災難・呪い」といった類というわけではなく、恐らくもっと日常的に私たちを悩ませる「心配事・落胆・家族や友人とのいさかい」などかもしれません。  聖書は私たちに、そんな時には『信仰の盾』を取れ、と教えています。『盾』とは本来兵士たちが戦場で敵の攻撃を防ぐために使う道具ですが、それらはただ「持っているだけ」では役に立ちません。敵の攻撃から身を守るために「構えて」いなければならないのです。敵である悪魔が私たちの人生・生活を脅かそうと様々な「火矢」を放ってくる時、私たちはこの『信仰の盾』を構えている必要があるのです。  では「信仰」とは、どんな(何に対する)信仰なのでしょう?「自分自身の経験や能力」に頼ることでしょうか?決してそうではありません。残念ながら、私たちの敵である悪魔は私たちのこと弱点を熟知しているので、私たちが『自分自身』に頼っている間は隙だらけなのです。そうではなく、この『信仰』は、私たちをこの上なく愛してくださっている『全能の神』に対する信頼です。このお方はご自身に信頼して助けを求めてくる者を決して拒むことのできないお方なのです。ですから私たちは「主よ。このような恐れや不安の中で、私はあなたを見上げ、あなたに信頼します!」と告白し、『信仰の盾』を掲げるのです。  イエス・キリストは悪魔の攻撃を受けた時、「聖書のことば(神の約束)」を引用することによって対抗し勝利しました。私たちもキリストの模範に倣って、『聖書のことば』を引用することによって「神に対する信頼」をアピールできるなら、それ以上のことはありません。悪魔の攻撃は、「神に全き信頼を置く者たち」に対しては無力なものとなるのです。