(445) “主のおしえを喜びとし、昼も夜も、そのおしえを口ずさむ。”

私が受験生だった頃(40年前?)、『シケ単』という本が流行りました。ある方は「どうして、そんな『シケたもの』が流行ったんだ?」と思うかもしれませんが、これは『シケた本』ではなく、『試験によく出る英単語』という「英単語暗記用の参考書」の通称です。まあ『暗記』というものが苦手だった当時の私には、あまり役には立ちませんでしたが… ところで、聖書は「神のことばを暗唱すること」を勧めています。私も大人になってから知りましたが、実はこの「暗記する能力」というのは『筋肉』のようなもので、使えば使うほど高められるものなのです。学生時代苦手だった「英単語暗記」でしたが、私がクリスチャンになってから覚えた『聖書のことば』は既に何百もあります。そしてこの「暗記された聖書のことば」というものは、英単語よりもはるかに人生の役に立つのです! 考えてみると、暗記が苦手な人でも、実際には多くのものを「暗記して」いるんですよね。大抵の人は家族や親しい友人の誕生日や結婚記念日、もしかしたら住所や電話番号(まあ今は携帯に記録してあるので、覚えるまでもありませんが…)、そして料理のレシピや道路標識の意味、電車の駅名や順序、もっと言うなら、驚くほど多くの人々の顔と名前が一致するほどに記憶力を使っています。どうしてそれほどに覚えられるのかと言えば、主に2つの要素があげられます。それは、①頻繁に使っている、もしくは②定期的に必要となる、ということです。 実は私が「聖書のことば」をこれほどに覚えられたのも、同じ理由です。「聖書のことば」は私たちに『悟り』を与え、恐れや不安から救い出し、落ち込んだ時の励ましとなり、正しい判断を必要とする時に助け導いてくれます。現代のような「複雑でプレッシャーに満ちた日常」、また「自己の尊厳を見い出しにくい社会」の中で、「神のことば」を心に貯えることは、「生きるために必要な筋力」を強めてくれるのです。あなたも試してみませんか?

2021年6月27日 「神のわざを見る人々」

礼拝全体の様子をYouTubeで観る 説教あらすじ 「神のわざを見る人々」(27/06/2021) [マルコ 6:30~44] ◆「神の国」に飢え渇く『群衆』 [33~34節]   ・この群衆は、何も食べ物目当てに「追っかけ」をしていたわけではない。イエスと弟子たちを通して現される「神の国のリアリティ」を追い求めて、後先考えずに「イエスのおられる所(神の臨在のある所)」に身を置こうとした。   ・イエスの「教えた内容」は書かれていないが、大自然に囲まれた『寂しいところ』で、[マタイ6章]にあるような内容を教えたのではないか。そしてまさにその内容通りのことが起ころうとしていた。 ◆神に用いられた『弟子たち』 [35~38節]   ・疲れ切った体を休めようとしていた弟子たちは、イエスの教えがいつ終わるのか待ち遠しく感じていたに違いない。そんな彼らは、「あなたたちで食べ物をあげなさい」というイエスの提案を一体どう受け取ったことだろう?   ・ヨハネの福音書の並行記事には、「イエスはご自分がしようとしていることを知っていた」とある。弟子たちが弱さを自覚していた正にこのタイミングでイエスは、「無から有を生み出すこと」ができるにもかかわらず、敢えて    「手元にあるもの」を捜させ、それを用いてみわざを行われた。「必要を抱えた人々」、「弱さの中で信仰をもって仕える神の民」、そしてそこに「イエスのあわれみ」が加われば、『神のわざがなされる条件』は揃っている。 ✰今日のキーワード:小さな『私』 + 大きな『神』 ◎更に深い学びのために  ①主な登場人物(イエス,弟子たち,群衆)の内面に注目しながら、この場面の情景を思い浮かべてみましょう。  ②もしあなたが『弟子たち』また『群衆』の1人だったら、どんな風に感じ、また行動したかを分かち合いましょう。  ③彼らは素晴らしい「神のわざ」を体験しました。あなたが同様の体験をするために、変わるべき点は何でしょう? Outline of the sermon    “Those who experience God’s power.”    (27/06/2021) [Mark 6:30~44] ◆This crowd was thirsty for “God’s presence”. [Verses 33~34]   ・This crowd was so passionate to Read more…

(444) “私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。”

どんな品物でも、それにふさわしくない使い方をしていたら、故障したり不具合が起こったりしますよね?(まあ、逆に別の使い方がかえって功を奏することもありますが…) 同様に、聖書には「神が人間を創造した」とありますから、私たち人間も「神が私たちを造られた目的」にふさわしくない生き方をしていたら、当然支障をきたすわけです。分かり易い例を挙げれば、不必要に食べ過ぎたらお腹を壊しますし、睡眠不足を続けていたら病気になりますよね? ところで、そもそも「神に造られた者としてのふさわしい生き方」とは何でしょう?その根本的な要素は「神との関係の中に生きる」ということです。神は聖書を通して、私たちに対する「ご自身の願い」を伝えてくださっています。これらは何か『神の命令』というように受け取られる傾向がありますが、実はむしろ、私たちが健康で平和に生きるための『人生の取扱説明書』のようなものだと言えます。 そしてまた神は、ご自身に信頼し従おうとする者たちに『神の霊(聖霊)』を与えて、日々の具体的な歩みを導いてくださるとも約束してくれています。実は私たち人間の『霊』の部分は、私たちの生まれつきの自分勝手な傾向性のゆえに損なわれていて、正しく神の思いを受信できません。目や耳が悪いと外界の情報を正確にキャッチできないように、この『霊』の部分が正常に機能していないと、「神からの語りかけ」を誤って理解し、『神との関係』も歪んでしまうのです。 イエス・キリストは、この損なわれてしまっている『神と人との関係』を修復するために人となってこの世に来られ、私たちの「自分勝手な傾向性(罪)」を私たちの代わりにその身に負って、十字架で帳消しにしてくださったのです。

2021年6月20日 「時が良くても悪くても」

礼拝全体の様子をYouTubeで観る 説教あらすじ 「時が良くても悪くても」(20/06/2021) [マルコ 6:14~29] ◆「良い機会」 [21節]   ・『良い機会』の見方は人によって異なる。私たち信仰者であっても、しばしば単に「自分にとって都合の良い機会」を「神が与えてくださったチャンス」とみなすことがあるが、残念ながら悪魔も私たちを「神以外のもので思いを捕らわせる」ために、敢えて『良い機会』を与えることもある。(「良い投資になる家」,「より給料の高い仕事」etc)   ・主にあって何らかの目標やビジョンを持つことは良いことだが、『神ご自身』以上に「念願を果たす良い機会」を求めることに夢中になってしまうことは危険信号。 ◆神は『状況』をも超える方   ・では、そのようなサタンの罠にはまらないためには、どうしたら良いのだろう?それは常に「神のことば」で思いを満たし、『物質』や『事が成就すること』に固執しないで、『主ご自身』そして「神の約束」に集中すること。   ・使徒パウロはテモテに書き残した。[Ⅱテモテ4:2] もちろん神は愛する者のために「状況を整えてくれる」こともある。しかしむしろ神は「状況を超えて」働かれる方。また「逆境を通して私たちを精錬する」方。「人目を恐れる」のでも「状況に左右される」のでもなく、「いつでも、どこでも」みことばを正しく聞き、それに従う者となろう! ✰今日のキーワード:「にもかかわらず」 ◎更に深い学びのために  ①今日の聖書箇所に登場する『良い機会』は、神が与えたものでしょうか? またどうしてそう言えるのですか?  ②自分に都合の良い機会を「神が与えたチャンス」と解釈した経験はありますか? 何故そう解釈したのでしょう?  ③与えられた機会を「神からのものかどうか」見極めるために、どんなことが助けになるか話し合ってみましょう? Outline of the sermon    “In season and out of season.”    (20/06/2021) [Mark 6:14~29] ◆“An opportunity”. [Verse 21]   ・We may think “every opportunity” is “a gift from God”.  Watch Out!  Read more…

(443) “私たちは見えるものにではなく、見えないものに目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くからです。”

最近『断捨離』が流行ってきているように思います。個人的には良い傾向だと感じています。世の中少々「余計な物」が多すぎるのではないでしょうか?聖書には『目の欲』ということばが出てきますが、確かにちょっと気の利いた品物が視界に入ると、初めは「別に要らない」と思っていても、何度も見ているうちに(あるいは「見せられているうちに」?)なんだか欲しくなってきて、つい買ってしまう、なぁんてことを経験したことがある方も多いのではないでしょうか? 私たち家族が『キリスト教宣教師』として1996年に日本を出発することになったとき、結婚してから8年間のうちに溜まってしまっていた品々を徹底的に処分して、スーツケース数個分にまで減らしました。これを聞くと多くの方々は「うわぁ、もったいない!何もそこまでしなくても…。さぞかし大変だったでしょう?」などのような反応をしてくださるかもしれませんが、実際その当時のことを思い出してみると、本当に「清々した」気持ちでした。物が減って行くたびに気持ちが軽くなって行ったのをよく覚えています。日本のような『物質社会』で暮らしていると、「多く持っているほど安心できる」と錯覚してしまいがちですが、実際「持ち物は少なければ少ないほど気楽」なのです。 この後私たち家族が暮らした「南太平洋の小さな島」には、電気も水道もなく、人々の暮らしは実に質素なものでした。でもそこには『真の豊かさ』がありました。島で暮らしていた300人余りの人々は、互いの不足分を補い合い、皆家族のように当たり前に助け合い支え合って暮らしていました。その時つくづく感じたものです。「物質的な豊かさと心の豊かさは反比例するものなのだなぁ」と。そしてその島で神様に祈った時、本当に神様をとても近く感じたものです。文明社会の中で『神のリアリティ』をなかなか実感できないのは、「物の豊富さ」が邪魔をしているのかもしれません。

2021年6月13日 「悪魔に立ち向かうには?」

礼拝全体の様子をYouTubeで観る 説教あらすじ 「悪魔に立ち向かうには」(13/06/2021) [マルコ 6:6b~13] ◆イエス、12弟子を遣わす   ・ここで主イエスが弟子たちに与えているものは、主に2つ。「悪霊を制する権威」と「持っている物ではなく、与えてくださる方に信頼するように、とのアドバイス」。『福音宣教』とは、単に「人がキリストを信じて天国に行けるよう導くこと」ではなく、「地上における『神と悪魔との支配権争奪戦』への参戦」である。イエスが地上に来られたのは、この戦いに決着をつけるべく、悪魔に決定的なダメージを与えるため。[Ⅰヨハネ3:8] ◆悪霊との対決   ・悪魔の究極的な狙いは、「神様に対する嫌がらせ」。そのために最も効果的なのは、神が愛してやまない私たち人間を神から遠ざけること。現代において悪魔は、文明未発達の「偶像礼拝が盛んな地域」では、聖書の時代のようにあからさまに人々を惑わすことによって、また先進国においては、人々を『物質主義』に没頭させ「神を知り、悪霊を警戒する」という霊的世界に無関心にさせることによって活発に働いている。   ・イエスは「悪霊との戦いには、しばしば『断食』が必要だ」とおっしゃった。[マタイ17:21] 肉体が弱くされることによって「神にだけ頼る者」とされることは、悪霊との対決のために重要な要素である。 ✰今日のキーワード:神への依存 ◎更に深い学びのために  ①イエスが弟子たちを遣わす際に与えた注意事項から、どんなことが分かりますか?  ②『神』『人間』『悪霊』の関係はどのようなものですか? また、イエスはそれにどのような影響を与えましたか?  ③今日、悪霊たちはどのように働いていますか? そのために私たちは、日々どのように備えたら良いでしょう? Outline of the sermon   “How do we resist the devil?”   (13/06/2021) [Mark 6:6b~13] ◆Sending 12 disciples.   ・Jesus sending them(and us) with authority over evil spirits.  We don’t just proclaim “Good News” but Read more…

(442) “だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるのです。”

日本の古いことわざに『負けるが勝ち』というものがありますが、実際様々な勝負に打ち勝って「1番」になれても、心の中には全く喜びや満足感が持てないことがあります。一体なぜなのでしょう?それは、私たちがぜひとも打ち勝つべき『敵』とは、周囲の誰かではなく『自分自身』だからです。 歴史上の「連戦連勝のヒーロー」の1人として挙げられる人物に『アレキサンダー大王』がいます。彼は血筋も知識も戦士としての能力にも大変秀でていた人物であったと言われ、本当に短期間に広大な地域を征服しましたが、どうやら大酒飲みだったらしく、若くして健康を害し、32歳の若さで死に、その死後大帝国は分割されてしまいました。彼は多くの戦いに勝利し、何人もの強敵を打ち破りましたが、『酒好き』という自分自身に屈したのでした。 「いかに他の人よりも優れているか」が大切なのではありません。優越感はしばしば『傲慢』や『自己中心性』への引き金となります。神が私たちの内に育もうとしておられるのは、キリストが持っておられたような「真の愛に基づく品性」です。そしてそれらのものは「他人に勝利することによって」よりも、むしろ「様々な困難による挫折や敗北を経験すること」を通してもたらされることが多いのです。

2021年6月6日 「神のみわざを見るために」

礼拝全体の様子をYouTubeで観る 説教あらすじ 「神のみわざを見るために」    (06/06/2021) [マルコ 6:1~6a] ◆イエス、故郷へ帰る   ・主イエスは「自分は故郷では敬われない」(4節)とご存知でありながら、敢えてナザレを訪問された。故郷の人々の反応は予想通り。(2~3節) 彼らがイエスに『つまずいた』のは、「目の前に見ているイエスの姿」よりも、「ずっと前から自分が持っているイエスに関する知識や記憶」を重視したから。私たちも同様に、自分の知識や経験をもとに「神のみわざや教え」を判別しようとすると、その真価を見失ってしまう。[ヤコブ1:21] ◆イエスの嘆き [6節]   ・ここでの『驚いた』という語がイエスに関して用いられているのは、聖書中2度だけ。もう1つは「百人隊長に現された、異邦人とは思えないほどの『信仰』に感心させられた時」。イエスの深い落胆が感じ取れる。   ・私たちは、「神様のみわざを見たいのに、神様は私の求めに応えてくれない!」と嘆く。しかし逆に神は、「もっとこの地でわたしの力を現したいのに、受け取ってくれる器がない!」と嘆いておられるのでは? [イザヤ59:16,Ⅱ歴代誌16:9]   ・神のみ力は、私たちの「幼子のように純粋で、ひたむきな信仰」に引き寄せられるのである。 ✰今日のキーワード:神は『人』を捜しておられる ◎更に深い学びのために  ①イエスは「自分は故郷では敬われない」と知っていながらも、何故わざわざ故郷へ赴いたのだと思いますか?  ②故郷の人々が「イエスにつまずいた」のと同様な経験(先入観によるつまずき)があったら分かち合いましょう。  ③神はどのような人を捜していますか? また、あなたがそのような存在となるためにどうしたら良いでしょう? Outline of the sermon   “To experience God’s power.”   (06/06/2021) [Mark 6:1~6a] ◆Jesus, visiting his hometown.   ・After many months(or years?) Jesus visited his hometown.  But people there missed this great opportunity by Read more…

(441) “真理はあなたがたを自由にします。”

「無責任な時代」と言われて久しいですが、そもそも『無責任』とはどういう態度を言うのでしょう?それはひと言で言うなら、「自分にとって都合が悪いことに、しっかりと向き合おうとしない姿勢」ということなのだと思います。しかし実のところ、このような心の態度こそ、私たちの人生において『神の祝福』を受け取ることの大きな妨げとなるのです。 ある意味「どれだけ自分自身の言動や行動にキチンと責任を持てるか」というのは、『人間の成熟度』を測るバロメーターです。本来自分の責任であるにもかかわらず、他の誰かに責任転嫁したり、必死に責任逃れの言い訳を考えたりしている間は、正しい「人格的成長」は望めません。言ってみれば「責任転嫁をすること」は、時間の無駄なのです。ある人たちは「間違いを見つける事」にだけ一生懸命で、その後はできるだけそれが「自分の責任にはならないように」自分以外の人に注意を向けさせようとします。最終的に「他の誰かのせい」にできるかもしれませんが、結局自分の心の中には何かスッキリしない気持ちが残ってしまいます。何故なのでしょう?それは神が私たち人間を「真理を喜ぶ存在」としてお造りになったからです。そして『責任転嫁』は結果的に私たちを「真理から逸脱させて」しまうのです。 イエス・キリストは、「真理はあなたがたを自由にする」とおっしゃいました。「自分の心の真実を見つめる」という行為は、もしかしたら初めのうちはあなたを「居心地の悪い気分」にさせるかもしれませんが、最終的にはあなたを解放し「晴れ晴れとした気分」にさせてくれるものです。一方、「責任逃れをすること」は一時的な解放を生むかもしれませんが、実際はその後ずっと心に重荷を負ったまま歩み続けることになるのです。あなたはどちらの人生を望みますか?