(466) “イエスは彼らに言われた。「わたしの時はまだ来ていません。しかし、あなたがたの時はいつでも来ているのです。」”

 『何をするか』ということと、『それをいつするか』ということは同じくらい大切です。せっかくの素晴らしいアイディアや計画も、タイミングを間違えると台無しになってしまうことがありますよね?  誰でも知っている英語で『グッドタイミング(Good Timing)』というものがありますが、私たち「神を信じる者」が使う、これに似た言葉で『ゴッズタイミング(God’s Timing)』というものがあります。これは「神が用意しておられる絶妙なタイミング」のことで、しばしば私たちが望んでいるタイミングとは異なるのです。  私たちは『善は急げ』と言って、良いアイディアが浮かぶとすぐに行動を起こそうとします。確かにそれがうまく行く場合があることは認めます。しかし「慌てる乞食は貰いが少ない」ということわざもありますよね。「自分のアイディア」「自分の都合」のことばかり考えて行動しようとすると、『最善の結果』を得られないで終わってしまいます。そして多くの場合は「神の絶妙なタイミング」というものは、私たちが考えているよりもずっと後からやってくるのです。それは何故かというと、神は「与えようとしている物」のことだけではなく、「それを受け取る私たち」をも『最善の状態』に整えようとしておられるからです。  『神の約束』というものはある意味『種』のようなものです。目に見える実を結ぶ前に、深く地中に根を張らなければなりません。またそれは親が子を産み育てることとも似ています。まず胎盤に小さな小さな「受精卵」が着床し、それからゆっくりと時間をかけて子宮の中で成長して行くのです。その間親は何をしているのでしょうか。当然、やがて生まれて来る赤ん坊のことを思い描きながら、出産・子育ての準備をするのです。単に用品を買い揃えるだけでなく、出産や子育てのための情報や知識を得、そして妊婦さんの内面も『女性』から『母親』へと変えられて行くのです。  天地を造られた全能の神は、私たち1人1人に「何が必要」で、それを「いつ与えたら良いか」をよぉくご存知です。ですから慌てることなく、『ゴッズタイミング』を信じて待ち望みながら、それを受け取るまでに神が教えようとしておられるレッスンをしっかりと学び取って行きましょう!

2021年11月28日 「キリストとの関係」

礼拝全体の様子をYouTubeで観る 説教あらすじ      「キリストとの関係」     (28/11/2021) [マルコ 10:32~34] ◆エルサレムに向かうイエス [32節]   ・この時のエルサレムに向かうイエスの雰囲気が並々ならぬ様子であることを感じ取った弟子たちは、多少の戸惑いを感じているようである。他にもイエスについて行っていた人たちが「恐れを覚えた」というのがどういうことかはっきりとは分からないが、ルカの福音書の記述(13:33)から、人々が『預言者』と認めていたイエスがエル   サレムに向かおうとしていることに胸騒ぎを感じていたのかもしれない。 ◆イエスの受難と私たち [32b~34節]   ・イエスの受難告知を聞いても、弟子たちがイエスの身を案じている様子は見られない。次週の内容を見ると、むしろ「自分たちのこと」で頭がいっぱいのようだ。対照的に(ヨハネの福音書によると)べタニアのマリアは「イエスの埋葬の準備」をする。ここに「自分のためのイエス」と「イエスのための自分」という2つの考え方が見られる。   ・私たちはどうだろう?もちろん「イエスのために何かができる」などとはおこがましいが、少なくとも「心を込めてイエスに従う者」(コロサイ3:23)でありたいのでは?イエスが私たちに求めておられるのは、たった1つ。それは『真実な関係』。彼は「信頼できる友」を欲している。あなたは、そんな『キリストの友』として生きたいですか? ✰今日のキーワード: イエスのために ◎更に深い学びのために  ①この時の「エルサレムに向かうイエスの思い」を想像してみましょう。どんな新しいことに気付かされますか?  ②「自分のためのイエス」と「イエスのための自分」とではどう違うでしょう? 自分に照らし合わせるとどうですか?  ③イエスが求めておられるような『関係』に生きていますか? そうでないならどこから変えて行けば良いでしょう? Outline of the sermon     “Relationship with Christ.”    (28/11/2021) [Mark 10:32~34] ◆Jesus, heading to Jerusalem. [Verse 32]   ・Those who were following Jesus felt [afraid].  We are not sure why but maybe Read more…

(465) “何を見張るよりも、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれから湧く。”

 ある人がリトルリーグの野球の試合を見に行った時のことです。ベンチで声援を送っている少年に声をかけ「今は何対何でどっちが勝ってるんだい?」と尋ねると、「うん、18対0でウチが負けてるんだ」との答え。ちょっと気の毒になって「それはガックリきてるだろうねぇ?」と問うと、少年は元気よく答えました。「まさか!どうしてガッカリする必要があるのさ?だってまだ試合は1回の表で、ボクたちは1度も攻撃してないんだよ?!」  どういうわけか、私たちは大人になるにつれ『夢』を見られなくなり、『希望』を抱きにくくなる傾向があるようです。情勢を見て嘆き、周囲の否定的な言葉に影響されて心を落ち込ませてしまいます。しかしある心理学者は言いました。「私たちの幸福感は、自分の心が何とつぶやいているかよりも、自分の心に何を語りかけるかによって保たれる」と。  「神を信じて生きること」と、「運命に従って生きること」とを混同してしまっている人がいますが、これは誤りです。神は「全てを決めてしまっている」のではなく、「全てを知っておられる」のです。しかし敢えてそれを人に知らせることはせず、かえって人に『自由意志』をお与えになりました。それは、私たちが「神が自分自身に与えてくださっている大いなる可能性」を信じて、大志を抱いて1日1日を前向きに生きて行って欲しいからです。  さあ、あなたは今日『自分の心』に、どんな希望のメッセージを語りかけながら進んで行きますか?

2021年11月21日 「所有するか?されるか?」

礼拝全体の様子をYouTubeで観る 説教あらすじ      「所有するか? されるか?」     (21/11/2021) [マルコ 10:23~31] ◆『神』と『富』 [25~27節]   ・これは何も「金持ちになるのが悪い」と言っているわけではない。ただ「多くの財産を持っていることは、神を信じ従う上で障害となり得る」ということ。ここで弟子たちが驚いたのは、ユダヤ人の間では「富は神からの祝福」というイメージがあったから。確かにそういう面もあるが、「富を与えること」は、悪魔にだってできる。   ・弟子たちは「だれが救われることができるでしょう?」と問うたが、その答えは「自分の力で救われる人間は誰もいない」(富んでいることも、貧しいことも『救い』には貢献しない)。ただ神だけが(どんな人でも)救うことができる!◆何が『神の祝福』なのか? [28~31節]   ・弟子たちは「報いを求めて」すべてを捨てたのではなく、「イエスに魅せられて」従った。それ故イエスは「わたしのために…捨てた者は」とおっしゃった。これはパウロの言葉を思い起こさせる。[ピリピ3:7~8]   ・ここでの「家・兄弟・親を捨てる」は、「キリストを地上の富に優先する」の意。イエスは「その百倍を『迫害ととも に』受ける」と言われた。『この世』は異質なものを除去しようとする性質がある。[ヨハネ15:19] 私たちは「この世に属して地上の富を楽しむ者」ではなく、「神の国に属して永遠の富を楽しむ者」となるように召されている。 ✰今日のキーワード: 所属をはっきりさせる ◎更に深い学びのために  ①イエスは何故「富を持つ者が神の国に入ることは難しい」と言われたのだと思いますか?  ②28節のペテロの言葉をどう理解するのが適当ですか? 神は私たちのどんな信仰の姿勢を喜ばれるでしょう?  ③31節のイエスのことばがどのようなことを教えているのか、それぞれの考えを分かち合ってみましょう。 Outline of the sermon  “Possessing? Or being possessed?” (21/11/2021) [Mark 10:23~31] ◆“God” and “Wealth”. [Verses 25~27]   ・“Wealth” itself is not evil but it can hinder us from obeying God. Read more…

(464) “神はあなたがたに、あらゆる恵みをあふれるばかりに与えることがおできになります。”

 人は誰でも「誰か、もしくは何か」を拠り所にして生きています。それは『自分自身』であったり、『他の誰か』だったり、『お金や物』だったりするわけですが、そのような「気分に左右される人間」や「時の流れと共に移り変わりやすいもの」を人生の拠り所としているならば、あなたの人生はいつも「危険にさらされている」と言えるでしょう。もしあなたの「精神的な拠り所」を『天地創造の神』以外に置いているのならば、どうあがいても「人生の不安」から逃れることはできません。  聖書が教える『神』にとっての「最大の関心事」は『人』です。神は「人の内側で」、「人と共に日々の歩みの中で」、「人々を通して世界に向けて」ご自身の愛と恵みを表現したいと望んでおられるのです。そして自分自身との関わりの中で働くこの「神のみわざ」に心を向け、またそれらを体験するようになると、私たちは『自分自身』という存在を新しい目で見ることができるようになります。言うなれば、『自分』という人間がどれほどに価値ある存在なのか、ということに気づかされるのです。  「不安を抱えたまま生きること」は、私たちの『人間らしさ』を脅かします。私たちが神様から本来与えられている「自己尊厳性」や「創造性」、そして「人々を愛して生きるという喜び」が失われて行くのです。『神』以外を拠り所にして生きる人は、常に「もっと、もっと」と追求します。それは『成長への意欲』ではなく、いつも「まだ何かが足りない」と感じる『不足感』や『自己中心性』のゆえです。しかし拠り所を絶対的な信頼を置くことのできる不動の存在である『神』の内に見出すことによって、真の充足感を味わうことができ、安心して「自分の心の深みにある人生への情熱・目標」にエネルギーを使うことができるようになるのです。

2021年11月14日 「『良い方』の前に立つ」

礼拝全体の様子をYouTubeで観る 説教あらすじ        「『良い方』の前に立つ」       (14/11/2021) [マルコ 10:17~22] ◆何が間違っているのか? [17節]   ・この人は律法を完璧に守っているつもりでいたが、『神の恵み』ではなく「自分の行い」に頼っていた。また『神』よりも『富』に信頼していた。しかしこれらは私たち現代のキリスト者も陥りやすい落とし穴。   ・多くのクリスチャンは、「救いは行いによらない」と信じているが、救いを受け取った後は「努力して『クリスチャンらしく』ふるまわなければならない」と信じているかのように歩んでいる。それでは『宗教』である。『宗教』の誤りは自分の努力次第で『神の基準』に到達できるかのように思わせていること。『神の基準』はそんなものではない!◆何が正解なのか? [21~22節]   ・私たちを「クリスチャンらしく(キリストに似た者と)」するのは、私たちの努力ではなく、『聖霊』の働き。「私たちがどれだけのものを持っているか」ではなく、むしろ「何も貢献できるものを持っていない」と気付き、「どれだけ神に委ねているか」による。この人は、ただ「こんな私を憐れんでください!」とイエスの前にひれ伏すべきだった。   ・「持ち物を分け与えること」は、「永遠のいのちの条件」ではなく、「天に宝を積むこと」。そうすればおのずと私たちの思いは『天』に向けられる。[コロサイ3:1] そしてこれが「イエスとの親しい関係を築く秘訣」でもある。 ✰今日のキーワード: 天に宝を持つ◎更に深い学びのために  ①イエスの許に来たこの人物の思い違いは何でしたか? 私たちも陥りやすい同様の思い違いとは何でしょう?  ②21節のイエスの言葉はどんなことを教えていますか? この人はどのように応答するべきだったのでしょう?  ③「神が『良い方』である」ということには、2面性があります。それらはどのようなものですか? Outline of the sermon      “Stand before ‘Real Good’.”     (14/11/2021) [Mark 10:17~22] ◆What is wrong? [Verse 17]   ・This man was trusting his own strength rather than “God’s grace”, and relying on his Read more…

(463) “正しい人は7度倒れても、また起き上がる。”

 多くの日本人が知っているであろう英語表現に『ネバ―・ギブアップ』というのがありますよね?もちろん「決してあきらめない」という意味ですが、日本のことわざには『あきらめが肝心』というものもあります。一体どちらが正しい態度なのでしょうか?  私たち人間は『正義感』や「多くの人々の益」のために大志を抱いて行動する時もありますが、ひとりよがりで自己中心的な野望のために立ち上がる時もあります。一攫千金を狙って毎年ジャンボ宝くじを買い続けても当たらない時、確かに「あきらめが肝心」かもしれません。しかし困難に直面している人々の救済のため、また愛する家族の関係が危機に陥っている時などは『不屈の精神』をもって最後まで戦い続けるべきでしょう。  私が住んでいるニュージーランド・クライストチャーチは、10年前に大震災が起こり、町の中心街が壊滅しました。(その3週間後に『東北日本大震災』も起こったので、クライストチャーチ在住日本人としては精神的にダブルショックを受け、本当に辛い日々を送りました。この経験は恐らく一生忘れないと思います。) この大震災で何も無くなった町の中心地を更地にした後、気落ちしている住民を鼓舞しようと、市では「Restart Mall(再出発商店街)」と名付けた、貨物を入れるコンテナを利用した(みすぼらしい)ショッピングセンターを始めてくれました。見た目は全然カッコよくなかったのですが、これによって私たちの心は大きく励まされました。「格好悪くてもいい。私たちは震災なんかに負けてはいない。もう1度やり直せる!」 私たちの内にそのような希望が生まれたのです。  『正義』のため、『愛』のために立ち上がろうとする人々に、神は『希望』を与えてくださいます。この『希望』が大きな力になるのです。私たちが「自分勝手な目的」のためではなく、「神の目にかなった正しい心」で全力で前に進もうとする時、人生は何度でもやり直せるのです!

(462) “信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。”

 人を2種類のカテゴリーに分ける分け方はいろいろとあります。「男性と女性」「大人と子供」「イヌ派とネコ派」「楽天的な人と悲観的な人」などなど。そして今日注目したい分け方は「『人に影響を与えながら生きる人』と『人から影響を受けながら生きる人』」です。  もちろん全ての人は多かれ少なかれお互いに影響を与えながら生きているとも言えるでしょう。その中には良い影響も悪い影響もあります。「自分はあの時のあの人のあの言葉のお陰で今日まで生きて来ることができた」ということもあれば、「私はあの時のあの人のあの言葉に深く傷つけられ、未だに苦しんでいる」ということもあります。誰でもどちらかと言えば前者のように積極的・肯定的な影響を与える生き方をしたいものですよね?  実のところ、「人から影響を受けるかどうか」は『個人の選択』にかかっており、「人に影響を与えるか否か」は無意識のうちに起こる出来事です。つまり、私たちが自ら優れた良き人物を選んで、積極的にその人からの影響を取り入れて行くなら、やがては自分自身が優れた良き影響を自然と周囲に与えて行く存在へと変えられて行くのです。ですから私たちは「誰から影響を受けるか」ということを慎重に選ばなければなりません。そして私が100%の自信をもってお勧めできる人物こそ『イエス・キリスト』というお方なのです。  聖書はこの方の言葉を記録しています。聖書にはこの方がなさったことが描かれています。また聖書は、どのようにして直接的にこの方からの影響を日々受けながら生きることができるかをも教えてくれています。私たち1人1人をこよなく愛される神は、この『イエス・キリスト』からの影響によって私たちが変えられることを通して、この世界をご自身の愛で満たそうとしておられるのです。