2024年3月31日 「イースター特別礼拝」

礼拝全体の様子をYoutubeで観る 説教あらすじ  「How great is our God!」  (31/03/2024) [詩篇 8章3~4節] ◆神はとんでもなく偉大である!  ・私たちが「人として来られた神の子イエス」を身近に感じることは良いことだが、それが高じると「神の大きさ・偉大さ」を見落としてしまいがち。今日は改めて「私たちの神がどれほど偉大な方なのか」に思いを馳せてみよう。  ・私たちは皆、神は「全宇宙の創造主」であることを知っているが、その『全宇宙』の壮大さをどれほど知っているだろう?例えば『太陽』は地球から見るとちっぽけだが、実はその大きさは地球の約100万倍もある。他にも宇  宙には太陽よりもはるかに大きな星がたくさんあり、現在見つかっている星々の中でも最大と言われている『ケイネス・マジョアス』という星は、地球がゴルフボールの大きさだとすると、その直径がエベレスト山の高さに匹敵し、それは日本の国土全体にゴルフボールを50メートルの深さまで埋め尽くせるほど大きいということになる。 ◆神はこのちっぽけな私たちを心にかけておられる!  ・聖書はこれらの全宇宙を「神のほんの指のわざである」と言う。一体私たちが『神』と呼んでおられる方は、どれほどに大いなる方なのだろうか?そして忘れてはならないのは、これほどに驚くほど偉大なお方が、弱くてちっ  ぽけな私たち1人1人に目を留め、憐れんで、その救いのためにひとり子を遣わし、その『十字架とよみがえり』によって今日もご自身との個人的な交わりへと招いてくださっている、ということである。  ・今年のイースターは、このように偉大な方が『私たちの味方だ』ということを深く心に刻みましょう。[ローマ8:31] ◎更に深い学びのために  ①「神を身近に感じすぎること」は、どんな危険性を含んでいますか?  ②宇宙はどれほど壮大なものですか? 今回のたとえを思い出しながら、改めて思い描いてみましょう。  ③これほど偉大な方が、あなたを顧みておられると知ることは、あなたの信仰にどんなインパクトを与えますか? Outline of the sermon    “How great is our God!”    (31/03/2024) [Psalm 8:3~4] ◆Our God is incredibly awesome!  ・Sometimes we feel “God” too close to us so we tend to forget how great Read more…

(565) “キリストも1度、罪のために苦しみを受けられました。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、あなたがたを神に導くためでした。”

 ニュージーランドでは今週末は『イースター(復活祭)・ウィークエンド』なので、イースターのお話をしますね。  日本ではあまり耳慣れないと思いますが、イースター直前の金曜日は『グッド・フライデー』と呼ばれます。この日はイエス・キリストが十字架刑に処せられた事を記念する日です。それなのに、何故『Good Friday』と呼ばれるのか、それを説明するには、イエス・キリストの生涯に関して少し説明しなければなりません。  イエス・キリストは地上での人生において主に3つのことをなさいました。1番目は「神とはどういう方なのか」を示された、ということです。ご存知の通り、「天地創造の神」は私たちの肉眼で見ることはできません。人類はこの超越的な存在(それをどう呼ぶかはさておき)を様々な形に表現しようと試みますが、この『神』は「人格(神格?)」を持っておられるので、単に『像』を造ることによってはその性質を表現することはできません。イエス・キリストはそれを「ご自身の人格」を通して人々に分かり易く表現してくださったのです。  2番目にイエスがなさったことは、「人は本来どのように崇高な存在か」を示された、ということです。神から離れてしまった人間は、本来の『神の作品』としての特徴が損なわれ、互いに憎み合ったり殺し合ったりしてしまっています。しかしイエスは「人は本来、互いに愛し合い、神の力と聖さと愛を表現すべき存在なのだ」ということを、ご自分の生き様を通して私たちに見せてくださったのです。  そして最後に、イエス・キリストは「私たちと神との『架け橋』となる」ために、十字架の上にその身を捧げてくださいました。このイエス・キリストの十字架での死を「自分と神との関係を回復するための代償」として受け入れる者に、神は新しいいのち(聖書では『永遠のいのち』と呼んでいる)を与えてくださるのです。このいのちに生かされることによって、今度は私たちを通して「キリストのような人生」が再現されて行くのです。  このような驚くべきみわざをなされた「イエス・キリストの生涯の偉大さ」を讃える意味を込めて、私たちは『グッド・フライデー』を祝うのです。

2024年3月24日 「私たちの競走」

礼拝全体の様子をYoutubeで観る 説教あらすじ    「私たちの競走」    (24/03/2024) [へブル人への手紙 12章1~3節] ◆私たちの目指すところ(1節)  ・ここでは、私たちの信仰の歩みを「レース」に例えている。そしてこのレースは、既に多くの信仰の先輩たちが走り抜いたもの。ここで『証人』と訳されていることばは、当時のクリスチャンたちの間で『殉教者』を表すのに使われた語。この『証人たち』は、この地上では得ることのできない「神の約束」を遥かに望み見ながら信仰のレースを走り抜いた。では、それを既に得ている私たちは、どこを見ながら、何を目標に走るのか?  ・私たちの目指すところは、やがて来る「キリストの再臨」である。主イエスは「わたしは必ずあなたがたを迎えに戻って来る」とおっしゃった。その時、この世の悪はすべて滅ぼされ、地上は『神の義と栄光』で満ちる。その日を待ち望みながら私たちは信仰の道を走り続け、また1人でも多くの人々に、このレースへの参加を呼び掛ける。 ◆障害物競走  ・また、このレースは『障害物競走』である。この世はいつも私たちに反抗し、「最善以下」へと誘う。しかし主イエスは「ご自分の前に置かれた喜び(2節)」すなわち「『救いの道』を完成し、御父の栄光の右の座に着く」という大目標のゆえに走り通した。そして彼は私たちにもこの「同じ喜び」を体験させたいと願っておられる。[黙示録3:21]  ・私たちをもたつかせる『罪・重荷』とは何か?「この世での成功や他の人の評価を求める思い」?「自分なんかダメだという意識」?私たちをそれらのものに打ち勝たせる唯一の武器、それが『神との親しい関係』である! ◎更に深い学びのために  ①私たちの『競走』とはどのようなものですか? 私たちは何処を目指して走っているのでしょう?  ②どうしてこの競走は『障害物競走』だと言えるのですか? 私たちはどんな『障害』に直面するのでしょう?  ③このレースを完走するために、イエスは何をしてくださいましたか? どうしてそれが助けとなるのでしょうか? Outline of the sermon  “Let’s run the race!”  (24/03/2024) [Hebrews 12:1~3] ◆What is our goal?(Verse1)  ・Our “faith walk” is like “a race”.  In chapter 11, we looked at many people who already finished the Read more…

(565) “思うべき限度を超えて思い上がってはいけません。”

 ある日の午後、あるお宅の前に1匹の疲れ切った犬がフラリとやってきました。それを見つけたその家の主婦が扉を開いてやると、庭にノソっと入ってきました。こぎれいな犬だったので、玄関の扉も開けてあげると、家の中にも入って来て、居間の居心地良さそうなスペースを見つけて、ほどなく眠りにつきました。2時間ほど経つとムックリ起き上がり、玄関のところに立ったので、ドアを開けてやると、スタスタとやって来た方向へ帰って行きました。  次の日も同じような時間に、再びこの犬がやってきたので、同じようにしてあげると、同じ場所でやはり2時間ほど昼寝をした後に帰って行きました。そして同様なことが1週間続いたので「ひょっとして飼い主が心配しているのでは?」と思ったこの主婦は、その犬が帰る時に首輪に次のようなメモを付けて送り返しました。「この1週間、午後になるとお宅の犬が我が家にやってきては、2時間ほどお昼寝をしてから帰って行きます」と。  翌日、同様に例の犬がやってくると、その首輪に次のようなメモが付いていました。「実はこの犬は10人の子供がいる家で暮らしています。きっと2時間だけその喧騒から避難するためにお宅に通っていたのだと思います。ところで、明日は私もこの犬と一緒にお宅へ伺ってもよろしいでしょうか?」  この話を聞いて、単に微笑むだけでなく、「私もそんなくつろぎの場所が欲しい!」と思わず心で叫んでしまう方はいないでしょうか?心のどこかで「自分は頑張って耐え忍んで『スーパー母ちゃん』を演じなければならない!」と気負ってはいませんか?私たちはそのように突っ張って生きていたら、いつか『ポキ』っと折れてしまうかもしれません。  人間はそれほど『強く』はできていません。「くつろぎ」や「ホッとひと息」が必要です。「『だらしない主婦だ』と言われたくない!」という力みを肩から降ろして、時には家事をほっぽり投げたり、子供の世話を親や友人に任せたりして、『だらしない主婦』になってみても良いのでは?

(564) “キリストによって、からだ全体は、あらゆる節々を支えとして組み合わされ、…愛のうちに建てられることになります。”

 日本独特の慣用句で『内助の功』という言葉があります。「家庭において、夫の外部での働きを支える妻の功績」を指して使う言葉ですが、これは『家庭での妻』だけでなく、「華々しい功績の背景にある、目立たない陰の功労」にもあてはまるのではないでしょうか?  私は学生時代『演劇』をやっていました。また今も妻と2人でよくテレビドラマ(特に韓流?)を観るのですが、華々しい有名な主演俳優たちを上手に支えている『名脇役』がしばしば目に留まります。どんなドラマも、この『名脇役』なしには、薄っぺらなつまらないものになってしまいます。  私たちの人生も同じではないでしょうか?「誰もが『自分自身の人生』というドラマの主役である」という考え方もあるかもしれませんが、人生において「華々しい功績」を遺す人はわずかです。けれども全ての人は『名脇役』となる資質を備えているのだと思います。  神様は私たちを、決して「不要な存在、無価値な存在」としてはお造りになりませんでした。それぞれに「その人にしか担えない役割」を与えておられるのです。そしてその多くは「他の人を支え、引き立たせる役割」なのだと思います。私たち1人1人が「何とかして主役になって表舞台に立とう」とばかりしないで、その『価値ある特別な役割』を捜し、見出し、そのわざに磨きをかけて生きて行くなら、この世界は今よりもう少し温かくて潤いのあるものになるような気がするのは、私だけでしょうか?

2024310 「『もっと優れたもの』を待ち望む信仰」

礼拝全体の様子をYoutubeで観る 説教あらすじ  「『もっと優れたもの』を待ち望む信仰」  (10/03/2024) [へブル人への手紙 11章32~40節] ◆この世における祝福  ・今日の前半部分では、「国々を征服する」「剣の刃を逃れる」など、『この世での祝福』が列記されている。つまり 旧約聖書の時代には「永遠のいのち」とか「天の御国」などの概念があまり無かった。そのためイエスの時代の  『メシア』の概念も、「ローマを打ち破り、『イスラエル王国』を回復してくれるヒーロー」のイメージが強かった。  ・ところが[35節]から少し雰囲気が変わる。「もっとすぐれたよみがえりを得るために、釈放されることを拒んで拷問を受けた」とあり、その後にむごい迫害の歴史が列記される。では、一体彼らは何に希望を置いてこのような  迫害を耐え忍んだのか? ◆もっとすぐれたもの(38~40節)  ・ここで『信仰』というものの本質をもう1度考えてみたい。それは、決して「その場しのぎ」な一過性のものではなく「『真実なお方である神』に対して誠実に生きる」という、私たちの継続した『神に対する心の表現』である。  ・ここに書かれている『もっとすぐれたもの』とは、主イエスにある『天の御国への希望』である。この11章に列記された信仰の先人たちは地上でこれらのものを体験することはなかった。しかし私たちは既にそれを得ている!ならば神は私たちに、彼ら以上の「信仰と勇敢さ」をもって歩むことを期待しているのではないか?最後に、激しい迫害の中で常に「福音宣教の働き」に前進した使徒パウロのことばを引用しよう。[Ⅱテモテ1:12,ピリピ3:7-8, 12] ◎更に深い学びのために  ①なぜイエスの時代の人々は、『メシア』という存在を「王国を回復してくれるヒーロー」と考えていたのでしょう?  ②「迫害を耐え忍んだ人々」の原動力は何だったと思いますか? あなたは、同じ原動力を持っていますか?  ③へブル11章の信仰者たちには無くて、私たちには既に与えられているものを確認し、感謝の時を持ちましょう。 Outline of the sermon    “Wait upon ‘something better’ by faith.”    (10/03/2024) [Hebrews 11:32~40] ◆Blessings on the earth.  ・First few verses here witness about blessings those believers experienced on the earth.  In Old Read more…