(412) “あなたがたは、自分が量るその秤で量り与えられるのです。”

 『正直さ』というものを重視して生きる人々がいます。もちろん『正直さ』は大切です。但しその『正直さ』という看板をかざして他の人の弱点や落ち度を不必要に指摘するのはいかがなものでしょうか?「私はただ感じたままを言ってるだけです。だって事実でしょう?本当のことを言って何が悪いんですか?聖書にだって『偽りを言ってはならない』って書いてありますよね?」 確かにその通りかもしれません。しかし聖書は次のようにも言っています。「人はうわべを見るが、神は心を見る。」「憐れみ深い者は幸いです。その人は憐れみを受けるからです。」  アナタが言う『正直さ』は、『愛の心』に基づいたものでしょうか?相手のその欠点を指摘するのは、純粋にその人の成長を願ってのことでしょうか?真の『愛』は神から流れてきます。神は私たちを建て上げるために、時には厳しく、そして時には優しく私たちに自分の非を認めさせ、更なるステップアップのための『悔い改め』へと導きます。神が私たちの落ち度を指摘するとしたら、それはいつでも「私たちの罪を赦し、つまずきから回復させ、新しい1歩を踏み出させるため」なのです。  神は「私たちが他の人に対して下す評価が、必ず自分の身に帰ってくること」を知っておられます。そして神は私たちが『神に愛されている者』として、「互いにさばき合う者」ではなく「互いに建て上げ合う者」であって欲しいのです。ぜひ神が私たちの弱さを憐れんでご自身のひとり子の十字架によって私たちを赦してくださったように、「真の愛に裏打ちされた『正直さ』」をもって、共に更なる向上を目指して進みましょう。

2020年10月25日 「真の悔い改め」

礼拝全体の様子をYouTubeで観る 説教あらすじ 「真の悔い改め」  (25/10/2020) ◆先駆者ヨハネ [1~4節]   ・『福音(良い知らせ)』の中心は、「神の子、イエス・キリスト」。そして彼が地上に遣わされることはずっと以前から神ご自身によって計画(預言)されていた。「バプテスマのヨハネ」もそこに含まれている。   ・ヨハネは「主の道を用意する者」としてキリストの前に遣わされ、「罪の赦しに導く、悔い改め」のバプテスマを説いた。「主の通られる道」とは、『悔い改め(方向転換)』によって主の前に用意する道。 ◆『バプテスマ』を受ける [7~8節]   ・「バプテスマ」は、「きよめの洗い」として以前から存在していた。   ・『水』は人の「外側」をきよめる。隠れた部分も洗うため、各部分をよく開かなければならない。そして『聖霊』は人の「内側」をきよめる。「水の洗い」と同様に、内側の隠れた部分(あらゆる領域)をも明け渡さなければならない。これが「主の通られる道をまっすぐにする」ということ。 ◎キリストとの親密さを増すために、「自分自身の全て」を聖霊に明け渡そう! ✰今日のキーワード: 明け渡し ◎学びを深めるための質問  ①神は何故、主イエスを遣わされる前に、まずバプテスマのヨハネを遣わしたのだと思いますか?  ②人々はどんな心でヨハネの許に来たと思いますか? あなたが主イエスの許に来た時の気持ちと共通点はありますか?  ③「主の通られる道を真直ぐにする」ということを、自分の信仰生活にあてはめて具体的に言い換えてみましょう。 Outline of the sermon        “True repentance.”       (25/10/2020) ◆A messenger ahead of Jesus. [Verses 1~4]   ・Essence of “Gospel(Good News)” is “Jesus Christ, the Son of God”.  His coming had been planned(prophesied) by God Read more…

(411) “この方に信頼する者は慌てふためくことがない。”

 ある女性がリビングルームのソファに座ってくつろいでいました。するとどこから入ってきたのか1匹の小さなヘビが迷い込んできてリビングを横切り、彼女の座っていたソファの下に潜り込みました。恐れのあまり叫び声を上げながら彼女は入浴中の夫を呼びに行き、夫はバスタオルを腰に巻いた姿で箒の柄の先でソファの下を突っつき始めました。この騒ぎに気付いた彼らの飼い犬は、何事が起ったのか確かめようとリビングルームに入ってきて、恐る恐る夫の背後から近寄ると、たまたまその冷たい鼻先が、夢中でソファの下を突いている夫の足の裏に触れ、夫は「自分はヘビに咬まれた!」と勘違いして失神してしまいました。それを見た妻は、夫が心臓麻痺に襲われたと錯覚し、急いで救急車を呼びました。駆け付けた救命士たちが、その夫をストレッチャーに乗せようとしたその時、例のヘビがスッとソファの下から現れました。驚いた救命士の1人が思わず手を滑らせて夫は落下し、片足の骨が折れました。ねじれて折れ曲がっている夫の足を見た妻は、その場に卒倒してしまいました。そんなドタバタ劇をよそに、ヘビは何事も無かったのように再びリビングルームを横切り、外へ出て行ったそうです。  日本語にも「慌てる乞食は貰いが少ない」とか、「急いては事を仕損じる」などと言われていますが、慌てて事を行ってうまくいくことはとても稀です。むしろ状況はもっと悪くなるのが普通です。「私たちを愛し、全てを働かせて良き方向へと導いてくださる『全能の神』」に信頼し、何が起こっても慌てることなく、平常心で冷静な判断を下していきましょう。

2020年10月18日 「マルコの福音書・導入」

礼拝全体の様子をYouTubeで観る 説教あらすじ 「マルコの福音書・導入」 (18/10/2020) ◆マルコの『福音書』 ― 今日から「マルコの福音書」をじっくりと読んでいく。今日はその導入。   ・「キリストの1番弟子」とも呼べる『ペテロ』は、福音書を書かなかったのだろうか? 実は「マルコの福音書」は「ペテロの福音書」とも呼べる性質を持つ。[Ⅰペテロ5:13]   ・「マルコの福音書」は4福音書の中で最初に書かれたものと思われており、最も短く簡潔で、他の福音書のような「イエス・キリストの伝記的」というよりは、まさに『福音』が中心。 ◆『マルコ』という人物   ・マルコは「十字架の出来事」以前から主イエスを知っていたと思われる。[使徒12:11~13]   ・当初はパウロには評価されなかったが、バルナバによって見出された。[使徒13:4~5, 13, 15:36~39] しかし後にはパウロにも認められるようになった。[Ⅱテモテ4:9~11,ピレモン24] 人は成長するもの。「待つこと」が大切。 ◎この「マルコの福音書」のシリーズを通して掴んで欲しいこと: ①主イエス・キリストをより深く知ること。  ②お互いの『使命』を発見すること。 ✰今日のキーワード: キリストにある『自分』 ◎学びを深めるための質問  ①あなたは年に何回くらい『福音書』を通読しますか? 4つの福音書の性質の違いを話し合ってみましょう。  ②今日の話から『マルコ』という人物に関してどんなことを知りましたか? 共感できるのは、どんな部分ですか?  ③これから『マルコの福音書』を毎週学んで行く上で、あなたが主に期待することはどんなことですか? Outline of the sermon     “Introduction of Mark’s gospel.”    (18/10/2020) ◆Gospel of Mark. ― From today on we are going to read “Gospel of Mark” every Sunday.   ・Even Read more…

(410) “あなたのうちにある神からの賜物を軽んじてはいけません。”

 19世紀の初めに『ルイジ・タリシオ』という人がいました。彼は楽器の販売人であり、また収集家でもありました。彼はしばしば人々に、自分がどれほどの素晴らしい楽器を所有しているかを自慢することはありましたが、決してそれらを人々の目に触れさせることはありませんでした。そしてとうとう彼が亡くなった後に、彼の財産を鑑定しなければならなくなった時、綿密な調査によって彼の自宅の屋根裏部屋に隠してあった246台もの高価なバイオリンが発見されたのです。その中には「世界的な名器」と評判の『ストラディバリウス』もありました。この名高い名器は何と、屋根裏部屋にあったタンスの引き出しの中にしまわれていたのでした。  このルイジ・タリシオの物語にも驚かされますが、実はこの時発見された『ストラディバリウス』、その後も収集家たちの手を転々とし、ようやく天才バイオリニストの手によって演奏に使われたのは、それから更に147年後だったということです。何ともったいないことでしょう!  神は私たち1人1人を、ご自身の『傑作品』としてお造りになり、それぞれに「特別な才能(賜物)」を与えてくださっています。私たちの使命は、神を知り、神の助けをいただきながらこの『賜物』が何であるかを見出し、それをフルに用いて人々に仕えることです。「人様の前に出せるくらい立派になってから…」などと言っていたら、その日その時はいつまで経ってもやって来ないかもしれません。あなたが持っている「人と違った興味や才能」は何ですか?それを『自分のためだけのもの』などと言って隠し持ち続けることをしないで、さあ、思い切って人々のために使い始めてみませんか?

(409) “神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。”

 人が「天国と地獄」というものを意識し始めるのは、一体いつ頃からでしょうか?私自身「いつ誰から教わった」という記憶はありません(一応仏教系の幼稚園に行っていたので、そこで何かしら教えられたかもしれません)が、ずいぶん幼い頃から『天国』や『地獄』ということについて考えていたような気がします。そして普通に「自分は絶対地獄には行きたくない。自分はまあまあ良い子だから、きっと天国に行けるに違いない」と思っていました。もっとも「天国とはこういう所」といったはっきりとしたイメージを持ってはいませんでしたが…  聖書は私たちにかなりクリアな「天国のイメージ」を与えてくれています。そして聖書が教える「天国と地獄の違い」というものは実に単純で、それは「神がいつも共にいてくれる場所」と「神が全く不在の場所」といった違いです。現在私たちが暮らしているこの地上は、言わばその中間的状態で、「神はそこにおられ、神の恵みや祝福は誰もがある程度は経験できるけれど、あふれるばかりの神の愛やその限りない慈しみをフルに体験することはできず、痛みや苦しみも混在する場所」と言えるでしょう。そしてこの地上にいる間に私たちが下す『ある決断』が、「肉体の死の向こう側にある永遠の住まい」を決定するのです。では、その『ある決断』とは、一体どんな決断なのでしょう?  イエス・キリストは、「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」とおっしゃいました。私たちを『死』へと導く「いのちの源である神を認めようとしない心」(聖書はこれを『罪』と呼んでいる)を悔い改めて、この私たちの『罪』のすべてを十字架の上に神の前に清算してくださった『イエス・キリスト』を自分の救い主と信じる者は、だれでも無条件で神に受け入れられ、「肉体の死の向こう側にあるいのち」へと迎え入れられるのです。これが私たちがこの地上で下す数多くの『決断』の中で最も重要で究極的な『決断』なのです。  『肉体の死』は、決して「すべての終わり」ではありません。むしろ「私たちの人生の本編の始まり」と呼ぶことができます。この『人生の本編』を味わうことなしに、永遠に神から引き離されてしまうのは、あまりにも悲惨であるというよりほかはありませんよね?

2020年10月4日 「死が終わりではない」

礼拝全体の様子をYouTubeで観る 説教あらすじ  「死が終わりではない」   (04/10/2020) ◆死が終わりではない   ・ある哲学者は「すべての人生は『死』に向かっている」と言った。確かに『死』は「人類最大の敵」と言える。   ・「ヨハネの福音書11章」と言えば、『ラザロのよみがえりのストーリー』が印象的だが、この場面には珍しく主イエスの感情表現が多く描かれている。[32~38節] そしてイエスは言われた。[25節]   ・私たち『天国人』にとって「肉体の死」は、「永遠のいのち」によって完全に支配される瞬間である。[Ⅰコリント15:54,黙示録21:3~4] これが私たちに与えられている希望であり、神からの約束! ◆『天国人』の生き方   ・この「死を越えた希望」が与えられている私たちは、一体どう生きるべきだろうか?[Ⅰコリント15:58]   ・私たちはやがて全員が例外なく神の前に出る。私たちの全ての罪は既に主イエスの十字架のみわざによって覆われている(神の目には「罪なき者」)が、「私たちがキリストにあって行った信仰のわざ」は全て神の御前に覚えられている。恥ずかしがらず、大胆に行動しよう。地上では旅人、そして旅先の恥はかき捨て! ✰今日のキーワード: 地上では旅人 ◎学びを深めるための質問  ①あなたは「死を越えた希望」を持っていますか? それはどれほど確かで、あなたを興奮させるものですか?  ②『永遠のいのち』とは何ですか?自分の言葉で表現してみましょう。あなたは既にそれを持っていますか?  ③「全ての良きわざだけが神の前に覚えられている」という事実は、あなたの生き方にどんな変化を与えますか? Outline of the sermon     “Death is not the end.”    (04/10/2020) ◆Death is not the end.   ・Destination of all the lives on the earth is “death”.  “Death” is the greatest enemy of all human Read more…