(581) “全き愛は恐れを締め出します。”

 精神科医たちの調べによると、世の中には約2000種の『恐れの感覚』というものが存在するそうです。ところが大変興味深いことに、彼らの調査によると、私たちが生まれる時から備わっている『恐れ』というものは、「落下に対する恐怖」と「騒音に対する恐れ」の2つだけなのだそうです。すなわち、その他のすべての『恐れの感覚』というものは、私たちが人生の中で学んで行くわけです。ということは逆に言うなら、私たちは多くの恐れを「学ばないでも済む方法」もあるはずなのです。  私たちの人格は日々の経験や習慣などによって形成されますが、その『決定的な特徴』というものは(良いものであれ悪いものであれ)多くの場合ほんの数えられるほどの体験によって決定づけられるのです。そしてそれらの『特別な体験』は私たちの心に「自信や不安」「希望や臆病さ」「信頼感や恐れ」などの種を心の深い部分に植えつけるのです。  聖書は「恐れを締め出すのは『全き愛(私たちに対する創造主なる神の愛)』である」と教えています。『神の愛』は「無条件」であり「変わることのない」無限の愛です。そしてこの『愛の神』との関係が生み出すものこそ、「『恐れ』からの解放」なのです。この神への信仰を育むことが、「不要な恐れを捨てて行くプロセス」となるのです。言葉を換えるなら、「『神を正しく恐れること』さえ学べば、他のものを恐れる必要は無くなる」わけです。  聖書にある『神の約束』の中でも最も偉大なものの1つに次のようなものがあります。「わたしは決してあなたを見放さず、あなたを見捨てない」。残念なことに「人の約束」は場合によっては破られてしまうことがあります。しかし『神の約束』は決して破られることはありません。神とはそういう方なのです。

2024年7月21日 「福音を説く(1)」

礼拝全体の様子をYoutubeで観る 説教あらすじ    「福音を説く(1)」    (21/07/2024) ◆福音を伝えるのは難しい?  ・多くのクリスチャンが福音を伝えようとする時に「難しい」と感じるであろうことは、「神様の存在は信じてもらえてもイエス・キリストの話になると分かってもらえない」ということ。では何故イエス様に結びつけるのが困難なのか?  ・恐らく1つのハードルは『罪』の概念。「どうしてキリストが私の身代わりに死ななきゃならないの?」というわけ。実はこれは「罪の概念の説明の仕方」に原因がある。『罪』というものを正しく理解してもらうためには、まずどうしても『神』というお方を正しく知ってもらう必要がある。 ◆どのようにして「正しい神のイメージ」を抱くか?  ・大抵の人の『神概念』は自己中心的。自分に都合の良いようにイメージを抱く。これは単に「人間の性質」というだけではなく、悪魔が私たちの「神のイメージ」を歪めようと働いているから。そのため私たちは神に対して「誤った態度」で接してしまう。この「神に対する誤った態度」こそ、『罪』の本質なのである!  ・『真の神』を「人間的な知恵や力」によって正しく知ることはできない。神ご自身からの『啓示』が必要である。つまり ①聖書、②被造物、③御子キリストなどを通して。これらから分かる『真の神』は、「天地万物の創造主」であり  「想像を超えた知恵と力に満ちた方」であり、「全てを支配される主権者」。これらによって神は栄光を現される。 今日の要点:『罪の本質』は、「真の神に対する誤った態度」 ◎更に深い学びのために  ①あなたが他の誰かに「福音を伝えよう」とする時、どのようなことに「難しさ」を感じますか?  ②私たちが抱きがちな「誤った神のイメージ」は、どのようなものでしょう? それはどんな理由によるのですか?  ③「正しい神のイメージ」はどのようなものでしょう? それらはどうやって知ることができますか? Outline of the sermon  “Preach the Gospel (1)”  (21/07/2024) ◆Is it very hard to preach “the Gospel”?  ・Why many Christians feel difficult to share “the Gospel”?  One of the reasons can be the Read more…

(580) “私たちの資格は神から与えられるものです。”

 「自分はそれにふさわしくない存在である」という感覚は多くの人が抱くものではないかと思います。一見『謙遜』にも聞こえるこの感覚は、言い換えるなら「自分はどんなに頑張っても、一定の基準に達することはできない!」という不健康な劣等感に根ざしています。多くの場合このような感覚は幼い頃に親や先生などの影響力を持つ立場の人々が、他の人たちとの比較によって誤った評価を下したことが尾を引いています。  私たちはどのようにしてこのような「誤った評価による不健康な自意識」から抜け出すことができるでしょう?次の2つのことを知ることが助けになると思います。  ①『創造主なる神』と出会うことなしに、自身の真価を見出すことはできない  ・この世における評価のほとんどは『相対的評価』であって、他の何かと比べることによって計られています。私たち自身も「他の誰か」と比べることによって一喜一憂するわけですが、それらは本当の自分の価値ではありません。本来私たちは神によって1人1人ユニークに造られているので、『相対的評価』ではなく、「神による『絶対的評価』」によって自分の価値を見出すことのできる存在なのです。  ②自身の真価を発揮するために、神から注がれる力によって、神のご計画と向き合う  ・神から離れた状態のままだと、私たちはいつも「自分が何か立派なことを成し遂げることによって自分の価値を見出そう」としてしまいます。それ故に失敗を重ねることが多く、劣等感にさいなまれることになるのです。神が私たち1人1人をユニークな存在として造られたのは、それぞれに「特別な何か」をさせるためにデザインされたのです。その『神のご計画』を探り、見出し、その計画を成し遂げるための「知恵や力」を神に求めつつ歩んで行くなら、誰とも比べる必要のない『自分の真価』を発揮しながら、大いなる興奮と喜びを持って生きることができるのです!

2024714 「与えるために、受けている」

礼拝全体の様子をYoutubeで観る 説教あらすじ    「与えるために、受けている」    (14/07/2024) *今日の聖書箇所の背景は、旧約聖書の預言者エリシャの時代に、イスラエル王国が強国アラムに包囲されていた上に、大飢饉に見舞われた状況で起こった出来事。 [列王記 第2.7章3~15節] ◆何が起こったのか?  ・『ツァラアト』は強い伝染性のある皮膚病で、これに冒された者たちは家族からも引き離され、社会から隔離されて生活しなければならなかった。そのためこの4人は「どうせこのまま寂しく死んで行くくらいなら…」と、やぶれかぶれな思いで敵地に乗り込んで行った。  ・そしてそこで彼らが見たものは、敵の奇襲を受けたと勘違いして、所有物すべてを置き去りにして逃げて行ったアラム軍の陣営。今まですべてを失っていたツァラアト患者たちは、取りたい放題の大フィーバー!  ・ここから私たちは『福音宣教』という視点でいくつかの大切な事を学ぶことができる。 ◆今の私たちとどう関わりがあるのか?  ①受けるに値しなかった自分が、あふれるほどに受けた祝福を、まずたっぷり味わう。[8節]  ②その『あふれる祝福』は、独り占めするためではなく、「分かち合う使命がある」ということに気付く。[9節]  ③すぐには信じない相手にめげず、「信じて損はない!」と勧め続ける。[12~13節]  ・「福音を知らずに滅びに向かっている人々」のための『主イエスの招き』(マタイ9:35-38)に、共に応えて行こう! ◎更に深い学びのために  ①4人のツァラアト患者たちは、アラムの陣営でどんなことを体験しましたか?  ②彼らはどうして、「われわれのしていることは正しくない。(9節)」と思ったのでしょう?  ③「たましいの収穫」は、どこにありますか? またあなたは、それをどのように体験できるでしょう? Outline of the sermon  “Receive to give”  (14/07/2024) *In this story, city of Samaria was closed in by the Arameans.  And also hit by severe famine. [ⅡKings 7:3~15] ◆What is happening Read more…

(579) “子よ、しっかりしなさい。あなたの罪は赦された。”

 「麻薬中毒」「アルコール依存症」など、人の肉体を害する習慣はいくつもありますが、人の「心の思い」を破壊する習慣もたくさんあります。『憎しみ』『ねたみ』『許せない心』、そして『罪責感』などです。これらのものは目に見えず、しかも少しずつ私たちの心を蝕んで行くので、なかなか気付かなかったり、軽視してしまいがちで、かえって危険だとも言えます。  聖書はこれらの『心の病』に対する解決を数多く与えています。特に『罪責感』に関して、人のすべての『罪』は根本的に『神』に対するもので、神との個人的な出会いを体験することで解放されることができる、と教えています。では、何故「神との個人的な出会い」が『罪』の解決をもたらすのでしょうか?  1人の青年が「強盗と傷害の罪」で逮捕され、裁判によって懲役判決が下されました。判決を受けガックリ肩を落として退場して行く通路の傍らで、彼の母親が涙を流し肩を震わせながら彼を見つめています。その母親の姿を見て、彼は思わず「お母さん、ごめんなさい」とつぶやきます。きっと皆さんは、こんな光景を容易に目に浮かべることができると思います。  しかし、冷静に考えてみると、おかしなものです。この青年の「強盗と傷害」による被害を受けたのはこの母親ではなく、別の第3者です。その被害者に対して「ごめんなさい」と謝るならともかく、なぜ彼は自分の母親に誤ったのでしょう?その理由はたった1つ。「自分を深く愛してくれている人に対して、その期待を大きく裏切ることをしてしまった」という思いからです。  私たちを形造り、この世界に送り出してくださった『神』は、私たち1人1人を深く愛してくださっています。そして私たちにこの世界で「互いに愛し合う者」として生きて欲しいと強く願っておられます。そんな私たちが誰かを傷付けたり、裏切ったりして『罪責感』を抱く時、それは単に直接的な被害者に対する申し訳ない思いだけでなく、心の奥底で「創造主なる神の期待を裏切ってしまった」という悲しみに深くさいなまれているのです。そしてイエス・キリストは、そんな私たちを「罪と罪責感」から解放するために、私たちの身代わりに十字架にかかってくださったのです。

2024年6月30日 「イエスに遣わされる」

礼拝全体の様子をYoutubeで観る 説教あらすじ   「イエスに遣わされる」   (30/06/2024) [ヨハネの福音書 20章21~23節] ◆イエスが私たちを遣わしておられる3つの理由  ・イエスは「父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わす」とおっしゃった。では御父は、イエスを何のために地上に遣わされたのか?次の3つの理由が考えられる。  ①神がどのような方なのかを知らせるため  ②人が本来どのように生きるべきかを示すため  ③神と人との関係を回復させるため   それ故、イエスが現在私たちをこの地上に遣わしておられるのは、下記の理由だと言える。  ①御子イエスがどのような方かを知らせるため  ②人が本来どのように生きる者として造られたかを示すため ③主イエスと共に「十字架につけられること」によって、人々を神との和解へと導くため ◆聖霊によってイエスのわざを行う  ・上記の3つはどれも『人間わざ』ではない。しかも驚くべきことにイエスは私たちに「地上において罪を赦す権威」さえもお与えになった。「そんな無茶な!」と思うかもしれないが、実際「人を救いに導くこと」を含め、『神のみわざ』を行うことは、どれ1つ取っても「人間わざではない」のである。それ故神は、これらのことを私たちの人生を通して成就するために、信じる者1人1人に『聖霊』をお与えになった。  ・イエスは地上で御父のみわざを行う時に「わたしは自分では何1つできない。これらは父がわたしを通してなさっておられるのだ」とおっしゃった。私たちも自分自身を主イエスに明け渡す時、聖霊が私たちを通して働かれる。 ◎更に深い学びのために  ①「主イエスが現在私たちを地上に遣わしておられる3つの理由」は何ですか?  ②私たちはどのようにして、これら『3つの理由』を達成して行くことができるのでしょう?  ③[ルカの福音書9章23~24節]を読みながら、『明け渡し』ということについてじっくりと思い巡らしてみましょう。 Outline of the sermon  “Sent by Jesus”  (30/06/2024) [John 20:21~23] ◆3 reasons why Jesus is sending us.  ・Jesus is sending us just as he was sent by the Father.  Here Read more…

(578) “人はうわべを見るが、主は心を見る。”

 現代ほど「目から入って来る情報」が多い時代はかつてなかったでしょう。今から100年ほど前にテレビが発明されるまでは、ニュースやコマーシャルはすべてラジオから放送され(『活動写真』なるものはありましたが…)、電話がある家庭でさえ少なかった時代でした。それが現代ではインターネットの発達により「ラジオを聴く」という習慣はめっきり減り、携帯電話でさえ、実際に音声として会話するよりも『ライン』などで文字を見ながら会話することが多いように思います。「人のことばに耳を傾ける」ということも減ってきてしまっているのではないでしょうか?  このように「目に見えるもの」によって私たちの生活が支配されてしまうと、私たちにとってとても重要な「人の心を察する」とか、「心を込めて物事を行う」などの、目には見えない『私たちの心』というものを見失ってしまう傾向へと陥ってしまう恐れがあるように思います。加えて現代の『スピード社会』は、私たちが「ゆっくり座って落ち着いて考えを思い巡らす」ということを奪い、「浅はかな考えに基づいて表面だけを取り繕う生き方」へと人間をおとしめて行っているのではないでしょうか?  神は私たちの『肉体』だけではなく、『心』をも造ってくださいました。そして神は私たちの「外側の行為」以上に「内面的な心の動き」に関心を持っておられます。マザー・テレサは、「大きなことを成し遂げるのはそれほど重要ではありません。小さなことを大きな心をもって行う方が重要なのです」とおっしゃいました。『うわべ』ではなく、もっともっと「内側の見えない世界」に注意を払いながら生きるようにしたいものですね。

2024年6月23日 「ゆっくり生きよう!」

礼拝全体の様子をYoutubeで観る 説教あらすじ   「ゆっくり生きよう!」   (23/06/2024) [マタイの福音書 25章37~40節] ◆「本当に大切なもの」とは?  ・現代は「効率性重視・情報過多」の時代。「より多くのことをいち早く知り、より良いものを、より早く、より安く手に入れること」が重要。しかし、本当にこれらのことが『重要』なのか?聖書はどう言っているのか?[伝道者12:13,Ⅰコリント13:13]  ・先週『神のみこころ』ということについて学んだが、神はご自身のみこころを、どのような態度で待っている人に分かち合いたいと思うだろうか?[詩篇37:7] ◆時間の正しい使い方  ・「愛すること」には時間がかかるし、ムダも多い。例えば『子育て』に関して言えば、お金や物を与えておく方が「早くて楽で簡単」だが、肝心の『愛』を伝えるためには「共にじっくり時間を過ごすこと」が要求される。  ・ある人たちは、「自分は『神様のため』にいろいろと活動して時間を使っている」と言う。しかし神は、あなたが考えているほどに「何かをして欲しい」とは思っていない。初めに読んだマタイの福音書に登場する「王に語りかけられた人々」には、「周囲の人たちの必要に気を配るための『時間と心の余裕』」があったのだ。  ・賜物や才能は人によって差があるかもしれないが、神は『時間』だけは全ての人に等しく与えておられる。この『時間』を「主にあって正しく使っているかどうか」に、神は大きな関心を払っておられるのではないだろうか? ◎更に深い学びのために  ①「世の人々が重要視していること」と、「聖書が重要だと教えていること」とは、どのように違うでしょう?  ②「神のみこころを行うこと」と、『時間の使い方』とには、どのような関わりがあると思いますか?  ③自分に与えられている『時間』を、「主にあって正しく使う」ために、どのような点を変えて行くべきですか? Outline of the sermon  “Slow down!”  (23/06/2024) [Matthew 25:37~40] ◆What is really important?  ・Now we live in “efficiency-seeking, information-oriented” society.  It requires, “to know as quick as, as good   as, as much as and Read more…

(577) “正しい人は7度倒れても、また起き上がる。”

 以前、「子供たちは親の言う事は行わないが、やる事は真似をする」という話をしました。ここで気を付けなければならないのは、「子供が見ているのだから、失敗してはいけない!」と肩に力を入れ過ぎないことです。失敗しない人間などはいません。むしろ「失敗しても大丈夫」という寛容な心を育てることの方が大切かもしれません。  子供たちに見倣って欲しいのは「私たちの行いそのもの」というよりも、むしろ「生きる姿勢(態度)」です。すなわち、「失敗しない事」ではなく、「失敗してもくじけない態度」こそ、私たちが示すべき模範なのです。  日本語にも「七転び八起き」ということわざがありますが、大切なのは「倒れない事」ではなく、「何度倒れても起き上がる事」です。倒れる回数よりも起き上がる回数が1度だけ多ければ、その人は『人生の勝利者』と呼べるでしょう。実際「転ぶ経験」は私たちをより強く、賢くするのです。  同時にぜひ心掛けたいことは「失敗をくよくよしない、むしろ笑い飛ばすくらいの余裕」です。子供というのは元来陽気で楽観的です。それが徐々に引っ込み思案になったり臆病になってしまうのは、もしかすると何かを失敗してしまった時に周囲の大人からひどく叱られてしまった経験を重ねたからではないでしょうか?よくよく考えてみるなら、ほとんどの『失敗』は、いのちの危険でも冒さない限り、あまり大した問題ではないものです。  家の中をキチンとしておきたい、子供たちの身なりを整えておきたい、というのが母親たちの共通の願いだとは思います。けれども、それよりももっと偉大なことは「失敗を恐れず大胆に新たな事に挑戦し、自身のフルサイズの人生を歩もうとする勇敢な人間」を育てることではないでしょうか?