(565) “思うべき限度を超えて思い上がってはいけません。”

 ある日の午後、あるお宅の前に1匹の疲れ切った犬がフラリとやってきました。それを見つけたその家の主婦が扉を開いてやると、庭にノソっと入ってきました。こぎれいな犬だったので、玄関の扉も開けてあげると、家の中にも入って来て、居間の居心地良さそうなスペースを見つけて、ほどなく眠りにつきました。2時間ほど経つとムックリ起き上がり、玄関のところに立ったので、ドアを開けてやると、スタスタとやって来た方向へ帰って行きました。  次の日も同じような時間に、再びこの犬がやってきたので、同じようにしてあげると、同じ場所でやはり2時間ほど昼寝をした後に帰って行きました。そして同様なことが1週間続いたので「ひょっとして飼い主が心配しているのでは?」と思ったこの主婦は、その犬が帰る時に首輪に次のようなメモを付けて送り返しました。「この1週間、午後になるとお宅の犬が我が家にやってきては、2時間ほどお昼寝をしてから帰って行きます」と。  翌日、同様に例の犬がやってくると、その首輪に次のようなメモが付いていました。「実はこの犬は10人の子供がいる家で暮らしています。きっと2時間だけその喧騒から避難するためにお宅に通っていたのだと思います。ところで、明日は私もこの犬と一緒にお宅へ伺ってもよろしいでしょうか?」  この話を聞いて、単に微笑むだけでなく、「私もそんなくつろぎの場所が欲しい!」と思わず心で叫んでしまう方はいないでしょうか?心のどこかで「自分は頑張って耐え忍んで『スーパー母ちゃん』を演じなければならない!」と気負ってはいませんか?私たちはそのように突っ張って生きていたら、いつか『ポキ』っと折れてしまうかもしれません。  人間はそれほど『強く』はできていません。「くつろぎ」や「ホッとひと息」が必要です。「『だらしない主婦だ』と言われたくない!」という力みを肩から降ろして、時には家事をほっぽり投げたり、子供の世話を親や友人に任せたりして、『だらしない主婦』になってみても良いのでは?

(564) “キリストによって、からだ全体は、あらゆる節々を支えとして組み合わされ、…愛のうちに建てられることになります。”

 日本独特の慣用句で『内助の功』という言葉があります。「家庭において、夫の外部での働きを支える妻の功績」を指して使う言葉ですが、これは『家庭での妻』だけでなく、「華々しい功績の背景にある、目立たない陰の功労」にもあてはまるのではないでしょうか?  私は学生時代『演劇』をやっていました。また今も妻と2人でよくテレビドラマ(特に韓流?)を観るのですが、華々しい有名な主演俳優たちを上手に支えている『名脇役』がしばしば目に留まります。どんなドラマも、この『名脇役』なしには、薄っぺらなつまらないものになってしまいます。  私たちの人生も同じではないでしょうか?「誰もが『自分自身の人生』というドラマの主役である」という考え方もあるかもしれませんが、人生において「華々しい功績」を遺す人はわずかです。けれども全ての人は『名脇役』となる資質を備えているのだと思います。  神様は私たちを、決して「不要な存在、無価値な存在」としてはお造りになりませんでした。それぞれに「その人にしか担えない役割」を与えておられるのです。そしてその多くは「他の人を支え、引き立たせる役割」なのだと思います。私たち1人1人が「何とかして主役になって表舞台に立とう」とばかりしないで、その『価値ある特別な役割』を捜し、見出し、そのわざに磨きをかけて生きて行くなら、この世界は今よりもう少し温かくて潤いのあるものになるような気がするのは、私だけでしょうか?

2024310 「『もっと優れたもの』を待ち望む信仰」

礼拝全体の様子をYoutubeで観る 説教あらすじ  「『もっと優れたもの』を待ち望む信仰」  (10/03/2024) [へブル人への手紙 11章32~40節] ◆この世における祝福  ・今日の前半部分では、「国々を征服する」「剣の刃を逃れる」など、『この世での祝福』が列記されている。つまり 旧約聖書の時代には「永遠のいのち」とか「天の御国」などの概念があまり無かった。そのためイエスの時代の  『メシア』の概念も、「ローマを打ち破り、『イスラエル王国』を回復してくれるヒーロー」のイメージが強かった。  ・ところが[35節]から少し雰囲気が変わる。「もっとすぐれたよみがえりを得るために、釈放されることを拒んで拷問を受けた」とあり、その後にむごい迫害の歴史が列記される。では、一体彼らは何に希望を置いてこのような  迫害を耐え忍んだのか? ◆もっとすぐれたもの(38~40節)  ・ここで『信仰』というものの本質をもう1度考えてみたい。それは、決して「その場しのぎ」な一過性のものではなく「『真実なお方である神』に対して誠実に生きる」という、私たちの継続した『神に対する心の表現』である。  ・ここに書かれている『もっとすぐれたもの』とは、主イエスにある『天の御国への希望』である。この11章に列記された信仰の先人たちは地上でこれらのものを体験することはなかった。しかし私たちは既にそれを得ている!ならば神は私たちに、彼ら以上の「信仰と勇敢さ」をもって歩むことを期待しているのではないか?最後に、激しい迫害の中で常に「福音宣教の働き」に前進した使徒パウロのことばを引用しよう。[Ⅱテモテ1:12,ピリピ3:7-8, 12] ◎更に深い学びのために  ①なぜイエスの時代の人々は、『メシア』という存在を「王国を回復してくれるヒーロー」と考えていたのでしょう?  ②「迫害を耐え忍んだ人々」の原動力は何だったと思いますか? あなたは、同じ原動力を持っていますか?  ③へブル11章の信仰者たちには無くて、私たちには既に与えられているものを確認し、感謝の時を持ちましょう。 Outline of the sermon    “Wait upon ‘something better’ by faith.”    (10/03/2024) [Hebrews 11:32~40] ◆Blessings on the earth.  ・First few verses here witness about blessings those believers experienced on the earth.  In Old Read more…

(563) “上からの知恵は、…平和で、優しく、協調性があり、あわれみと良い実に満ち、偏見がなく、偽善もありません。”

 柔軟性に富み、臨機応変に人々や状況に対応できる人は幸いです。このような人々は、「物事はこうでなければならない」というような融通の利かない人に比べてずっとストレスが少なくて済みます。何故なら、世界はその人を中心に回っているわけではないので、その人の計画が遂行されるためには、他の人々の協力や助けを必要としているわけですから。そして周囲の人々は皆それぞれ違った性格や価値観を持っているので、結果として「融通の利かない人」は、自分の思い通りに事が運ばないことでいちいちイライラしたり、不満を抱えたりすることになるわけですから。  これは主に家庭生活や職場などでの毎日の生活の中でよく起こります。あなたの食べ物の好き嫌いのために、食卓に上るメニューが偏ってしまったり、不規則な帰宅時間のせいで家族の予定が立たなかったり。または不機嫌な上司のご機嫌を取ることにエネルギーを使い果たしてしまったり、疲れ果てている部下に注意を払わないせいで、要らぬミスをさせてしまったり…。これが「ほんの少し融通を利かせるだけ」で、食卓に笑いが満ち、家族関係が豊かにされ、部下からの信頼を勝ち取り、職場において大いなる成果を上げられる場合があるのです。  誤った「臨機応変な態度」はかえって混乱をきたしますが、適切な『臨機応変さ』は仕事や人間関係において優れた結果を生み出します。神は私たち1人1人に『五感』を与え、察知した状況に臨機応変に対応する能力を与えてくださっています。それらを「宝の持ち腐れ」させることなく、「良いチームワークによって良い実を結ぶため」に上手に用いて行きましょう!

2024年2月25日 「『にもかかわらず』の信仰」

礼拝全体の様子をYoutubeで観る 説教あらすじ  「『にもかかわらず』の信仰」  (25/02/2024) [へブル人への手紙 11章29~31節] ◆出エジプトの民の信仰(29~30節)  ・29節と30節に出てくる『人々』とはどちらも「出エジプトの民」だが、別の世代。前者は不信仰の故に荒野で滅び、後者は恵みによって「約束の地」に入った。「荒野で滅んだ民」は、エジプトでも荒野でも数多くの神のみわざを経験したにも関わらず不信仰に陥った。[民数記14:6-11] それは何故か?  ・恐らく彼らは「出来事や現象」だけを見て、「原因である方」をしっかり認識していなかった。真の『信仰』とは、「何かが起こること」を信じるのではなく、「起こる起こらないにかかわらず」、その根源である『神である主』を信じているということ。[ダニエル書3:16-18] ◆遊女ラハブの信仰(31節)  ・一方「遊女ラハブ」は、この時点では神のみわざを実際に『見た』ことはなく、『聞いたことがある』だけだった。[ヨシュア記2:8-11] それにもかかわらず彼女はリスクを冒して偵察隊をかくまった。この「捨て身の信仰」の故に、彼女は想像を超えた報酬を受けることになる。「ヨルダン川が堰き止められる奇跡」「エリコの城壁が崩れ落ちる奇跡」を目撃し、また「イエス・キリストの系図に含まれる」という光栄を受けるのである。  ・私たちもこのラハブ同様「聞いただけで、見ずに信じた者たち」である。私たちも主イエスの十字架の現場にいた訳ではないが、心から信じている。[Ⅰペテロ1:8-9] これが「見ずに信じる者」が受ける『救い』という報酬。 ◎更に深い学びのために  ①「出エジプトの民」はどうして荒野で不信仰に陥ったのでしょう? 彼らと「遊女ラハブ」は、何が違いましたか?  ②「見て信じること」と「見ないで信じること」とでは、それぞれどんな長所・短所があるか、考えてみましょう?  ③「にもかかわらずの信仰」を持って生きるために、私たちはどのような点で成長する必要があるでしょうか? Outline of the sermon    “Say, ‘even if not’ by faith.”    (25/02/2024) [Hebrews 11:29~31] ◆Faith of “Exodus people”.(Verses 29~30)  ・People who crossed the Red Sea perished in the desert for their unbelief. [Numbers14:6-11] Read more…

(562) “あなたはいろいろなことを思い煩って、心を乱しています。しかし、必要なことは1つだけです。”

 90歳以上の方々に行った調査で、「もう1度人生をやり直せるとしたら、自分の人生のどんなことを変えたいですか?」という質問に対し、ほとんどの方々の回答が次の3つのことにまとめられたそうです。  1.家族や友人たちともっとたくさん時間を一緒に過ごす。  2.たとえリスクを冒してでももっとたくさんの事にチャレンジする。  3.自分の死後、後世の人たちの益となるようなもののために時間と労力を使う。  私たちは「目先のこと」、また「その時その時の自分の利益になること」にあまりにも多くの時間を使い過ぎているのかもしれません。言い換えるなら「誤った優先順位」に従って生きている、と言えるのではないでしょうか。天地創造の神は、私たち1人1人を『特別な使命』とともにこの地上に送り出してくださいました。それを捜し、見出し、その一事に全力を尽くすことこそ『生きがい』に通じる道なはずです。  これを読んでくださっている方々のほとんどは、未だ90歳には至っていらっしゃらないと思います。まだまだ遅くはありません。たった1度きりの人生です。上記の3つのことを念頭に置き、「神が自分に与えておられる使命」を模索しながら、ぜひ残りの人生を悔いのないように過ごしていただきたいと思います。

2024年2月18日 「モーセの信仰による選択」

礼拝全体の様子をYoutubeで観る 説教あらすじ   「モーセの信仰による選択」   (18/02/2024) [へブル人への手紙 11章23~28節] ◆『モーセ』という人物  ・『モーセ』は聖書の中でも特別に選ばれた人物。[出エジプト33:11] 彼は神の不思議な御手によって「パロの娘の子」として王宮の中で育てられたが、同胞であるイスラエルの民が迫害されているのを見て耐えられなくなり、王宮を去った。(24~25節)  ・「モーセが王宮に残っていた方が同胞を救うのに有利だったのでは?」とも考えられる。今日は、この「モーセの選択」から、『信仰と選択』というテーマで学んで行こう。 ◆「信仰によって選ぶ」とは?(26~27節)  ・アブラハムが「ひとり子イサク」をささげようとしたことが「主イエスの贖い」を彷彿とさせるように、モーセがイスラエルの民を救うために王宮を去ったことが、主イエスが何不自由ない御国から「人となって地上に来られたこと」を思い起こさせる。これがモーセの『信仰による選択』。  ・モーセは「目に見えない方を見るようにして」同胞たちと苦しみを共にした。肉体的には苦しくても、彼の内側は「全地を祝福するための『神の選びの民』を危機から救い出す」という使命感に燃えていたに違いない。  ・今日の『信仰による選択』というものを踏まえて、以前の『信仰の定義』を次のように言い換えることができる。⇒ 「まだ見ていない『神の約束の成就』を確信して、日々『神の民としての選択』をすること」 ◎更に深い学びのために  ①モーセの人生と、主イエスが「人となって地上に来られたこと」との間には、どんな共通点が見出せますか?  ②26節に書かれている「与えられる報い」とは、どんなものだと思いますか?  ③この地上での歩みにおける『神の民としての選択』には、どのようなものがあると思いますか? Outline of the sermon  “Choosing by faith like Moses.”  (18/02/2024) [Hebrews 11:23~28] ◆Who “Moses” is like?  ・“Moses” is a “special chosen person” in the Bible. [Exodus 33:11]  Though He was raised in the Read more…

(561) “イエスは言われた。「あなたがたの信仰の通りになれ!」”

 「幸福な人」と「そうでない人」とは、どう違うのでしょう?「お金や財産をたくさん所有しているかどうか?」「たくさんのことを知っているかどうか?」「多くの友人や家族に恵まれているかどうか?」もしそうだとしても、『多い』と『少ない』との線引きはどうやってするのでしょうか?『幸福な人』とみなされている人々でも、すべての点で成功し、あらゆる物を豊かに持っており、何でも知っているわけではありませんよね?  『幸福感』というものは、実はその人が「物質的・環境的に恵まれているか否か」とはあまり関係がありません。むしろその人の「人生に対する態度」に大きく関係があるのです。聖書は、「人とは、その人が『自分のことをどういう人間と考えているか』によって形造られるものだ」と教えています。  もちろん「人生に対する正しい態度」を持っていたからといって、全ての事がうまく運ぶわけではありませんが、「悲観的な態度」で取り組んだ場合よりも、間違いなく良い結果を生むでしょう。「幸福感に満ちた人」は、必ずしも『全ての良いもの』を持っているわけではありませんが、少なくとも「全てのものの良い点」を見出すのに秀でているのではないでしょうか?すなわち、他の人には喜べないことを喜ぶことができる術をわきまえているのです。  医者たちに「病気に対する『態度』は、あなたの患者の回復に影響がありますか」と尋ねたら、どんな答えが返って来るでしょう?また教師たちに「勉強に臨む『態度』は、あなたの生徒の成績に影響があるでしょうか?」と尋ねたら、どのような答えが返って来るでしょうか?間違いなく、「とても大きな影響があるに決まってますよ!」と答えるでしょう?  私たちは『神の作品』です。神は私たちを「豊かな人生を生きるように」とお造りになったのです。私たちが「正しい、積極的な態度」で人生に臨むなら、私たちは神の助けを体験できるでしょう。さあ、今日も張り切って前を向いて進みましょう!