(529) “全き愛は恐れを締め出します。”

 カウンセラーでもあり、著名なコラムニストでもあるアン・ランダーさんは、月に1万通もの「人生相談」的な手紙を受け取りますが、その中のほとんどが『恐れ』に関わる内容だそうです。健康上の恐れ、経済的な恐れ、「親しい人を失うのではないか」という恐れ、そして自分自身の『死』に関する恐れ… 『恐れ』というものに人生の支配権を譲渡してしまうと、その人の人生は完全に『恐れ』にコントロールされるようになってしまいます。では、この『恐れ』というものに一体どう対処したらよいのでしょう?  ある調べによると、聖書には「恐れるな!」という表現が365回出て来るそうです。あたかも神様が私たちに毎日「恐れる必要はないんだよ」と語りかけてくださっているかのようです。それもそのはず、神様はあらゆる災いに打ち勝つ力を持っておられる方であり、しかも私たちを『無条件の大きな愛』で完全に愛してくださっている方なのですから。なので、私たちが『恐れ』に打ち勝って生きられるかどうかは、神様の側にかかっているのではなく、それに信頼するかどうかの「私たちの側」にかかっているのです。  私たちは生きている限り『成長』し続けます。そして成長の過程には必ず「新たなチャレンジ」があり、新しいことにチャレンジしようとする時にはどんな人でも何らかの『恐れや不安』を経験することでしょう。そういう意味で「人生に恐れはつきもの」と言えます。そして『信仰』とは、「関係を選択すること」です。『恐れ』が私たちの心をノックして来た時に、それを迎え入れて住みつかせるのではなく、「私は全能の神との関係の中で生きることに決めた。だからお前は私の人生とは無関係だ。とっとと出て行け!」と言って門前払いを食わせるのです。そのようにして、今日も「神様、あなたの愛の中で歩みます」と宣言しましょう!

2023年5月28日 「人となられた神の御子」

礼拝全体の様子をYoutubeで観る 説教あらすじ 「人となられた神の御子」 (28/05/2023) [へブル人への手紙 5章1~10節] ◆大祭司の2つの資質   ①人々の心に寄り添いつつ神に仕える[1~2節]  ②神の選びによる[4節]   ・イエスの『祭司』としての立場も「神の選び」によっていた。[5節]   ・イエスは「神の御子」であられたのに、肉体をもって『人』となって私たちに寄り添った。 ◆苦しみによって『従順』を学ぶ(8~10節)   ・『神の御子』として元々完全に神に従順であり、全知全能でもあるイエスが、改めて「従順を学ぶ」ということがあり得るのか?今日は特に「神の子が肉体をもって『人』となられたこと」について更に考察してみよう。   ・イエスは敢えて「超自然的な力」に訴えなかった(「神の子としての力」を『逃避』のためには用いなかった)。[マタイ26:51-54] いわばイエスは「人として地上で神に従えばどのようになるか」を学ばれた。それは私たちがご自身に『従う者』となり、「永遠の救い」を受け取る者とされるため。この『従順』のゆえに御父は御子に栄光を与えられた。[ピリピ2:6-9] これは御父が私たちにも受け継がせたいこと。[ピリピ1:29]   ・『神の栄光』は試練の中で「神への従順」を貫く時に現される。「Why」ではなく「For What」と尋ねる者であろう! ✰今週のチャレンジ: 「イエスに従う」とは、どういうことでしょう? ◎更に深い学びのために  ①「大祭司の2つの資質」とは何でしょう? イエスはそれらをどのように現しておられましたか?  ②イエスは「ご自分に従う人々にとっての『永遠の救いの源』となるため」に、どのようなことをされましたか?  ③『神の栄光』はどんな状況で現されることが多いですか? またそのような体験があるなら分かち合いましょう。 Outline of the sermon   “Son of God became human.”  (28/05/2023) [Hebrews 5:1~10] ◆ 2 natures of high priest.   ①Act on behalf of men in relation to God. Read more…

(528) “良い人は、その心の良い倉から良い物を出します。”

 人間の『善良さ』というものは一体どこから生まれてくるのでしょうか?またどのように育むことができるのでしょうか?  ある人々は「多くのことを学べば良いのだ」と言います。「正しく学べば正しく生きられる」と。今日、多くの社会では『教育』こそが世の中を改善するための万能薬のように叫ばれますが、「高い水準の教育」は、同じように高い『道徳的基準』と共に養われるのでないなら、単に「頭でっかちな人々」を生み出すことしかできません。もし本当に『教育』こそが社会を良くするツールであるなら、もはや『知能犯』などは存在しないはずです。  別の人々は「良い行いをするようにしつければ良いのだ」と言います。しかし『良い行い』は決して人を『良い人』へと育てることはできません。むしろ「良い行いの勧め」は私たちを「人前では偽善をふるまうが、隠れたところで憂さを晴らす人間」へといざないます。『真の善良さ』とは、『正しい教育』や『正しい行い』によって育まれるのではなく、『正しい心』によって育まれるのです。  『善良な人』とは、その人が「何を知っているのか」とか、「どんなことをしているのか」ということにあるのではなく、「何者であるのか」という「その人の『存在』自体」が問われているのです。イエス・キリストは「天の父以外には『良い方』はいません」と断言しました。この「全宇宙を私たちの益のために最高に創造された神」との関係の中に日々生きて行こうとする時、私たちは『真の善良さ』へと近づいて行くことができるのです。