(559) “あなたがたは、食べるにも飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現すためにしなさい。”

 『信仰』と聞くと、どんなイメージを持たれるでしょうか?「強い信念のようなもの」とか「人生に対する偏った考え方」、あるいは「本当は無いものを、あるものかのように信じ込むこと」などのように考える方もおられるかもしれませんね。  私なりの理解に基づいて言わせてもらうなら、『信仰』というのは言わば「神の様々な恵みや祝福に対する、私たちの応答のかたち」です。ある人たちは、それらの祝福を「神から与えられているもの」として、神に感謝をささげ、受け取ったそれらの祝福を人々の益のために用いようとします。一方、ある人々は神の存在を認めようとせず、それらの祝福を「当たり前のもの」とみなし、誰に感謝することもなく、単に自分のために独り占めしようとします。これらはそれぞれその人の『信仰』を表現しているのだと思います。  ある意味、『信仰』は私たちの日々の『選択』に現れます。ご存知のように、人生は『選択』の連続です。「何時に起きるか」「起きて初めに何をするか」「朝食を食べてから出かけるか、朝食抜きにするか」…などなど。あるものは無意識に、あるものは意識的に『選択』しています。そしてこれらの選択のうちの多くを、私たちは独自の「価値観」に基づいて行っています。『信仰』というものは、単に「お祈りする」「敬虔な生き方をする」「何らかの宗教的行事に参加する」ということに限定されるのではなく、「何を食べるか」「誰に話しかけるか」「どんなサイトや番組を観るか」など、生活のひとコマひとコマに関わってきます。  「信仰による選択」の故に得をすることもあれば、損をすることもあります。私の知っているある人は、務めている会社からあるちょっとした「不誠実な行為」を命じられ、辞職しました。これは彼の『信仰』の1つの現れでもあります。ある人は「そんな生き方は不自由だ」と思うかもしれませんが、自分の感情に振り回されたり、常に変化する周囲の状況に左右されるような生き方の方が「不安定で不自由」なのではないでしょうか?  誰でもなんらかの独自の『信仰』によって生きています。どうせ生きるなら、「全知全能の創造主なる神」に信頼する『信仰』によって生きる人生を送ってみませんか?

2024年1月21日 「神が誇りとなさる人々」

礼拝全体の様子をYoutubeで観る 説教あらすじ   「神が誇りとなさる人々」   (21/01/2024) [へブル人への手紙 11章13~16節] ◆神が誇りに感じる人とは?  ・[16節]の言葉は、いわば神様が「わたしは『彼らの神』であることを誇りに思う」とおっしゃっている、ということ。では、神は一体どのような人々を「ご自身の誇り」とされるのか?  ・この世の常では、何らかの業績を上げた時に「誇りとされる」わけだが、神の場合はそうではないようだ。アブラハムやイサク、ヤコブは決して「完全無欠の人々」ではなかった。すなわち、この栄誉は「行ない・業績」によるのではなく、『信仰』によるのだ。では、どんな「信仰」?  ①まだ手に入れていない『約束のもの』を「見る」信仰。[13節]  ・これは、主イエスの生涯にも見られる。[へブル12:2] 彼らは「神は約束を必ず守る方だ」と信じて疑わなかった。 ◆天の故郷  ②天の故郷に憧れる信仰。[16節]  ・この『天の故郷』は「約束の地カナン」と同様、「神がご自身を信頼する者のために備えた最善の場所」。そこに憧れるのは、「神はいつも最善をなさる良いお方だ」という信仰の表明以外の何ものでもない。  ・私たちは『天の故郷』で御父と永遠を過ごす。そのことより「地上に置いてきたもの」に対する未練が大きいなら、『天の故郷』はさほど魅力的ではないかも…[Ⅰヨハネ2:15-16] 「天の故郷への憧れ」を育てるのは、日々の御父との交わりである。 ◎更に深い学びのために  ①「神が誇りとなさる人」とは、どんな人でしょうか? どうして神はそのような人を『誇り』と感じるのでしょう?  ②主イエスは、何故「信仰の創始者であり完成者」と呼ばれるのだと思いますか?  ③「天の故郷への憧れ」とは、どんなものに基づいていますか? それを強めたり弱めたりするものは何ですか? Outline of the sermon  “Those who God is proud of.”  (21/01/2024) [Hebrews 11:13~16] ◆What kind of people does God feel proud of?  ・In this world we are proud of Read more…

(558) “彼らは年老いてもなお、実を実らせ、青々と生い茂ります。”

 皆さんは「数え年」というものを聞いたことがあるでしょうか?これは年齢の数え方の1つの方法ですが、生まれた時点で『1歳』とし、その後は元旦を迎えるたびに1歳ずつ年を取ると数えるのです。日本でも100年くらい前まではこの数え方が一般的で、私の父は12月末に生まれたので、生まれて1週間後には既に2歳になっていたわけです。  2024年を迎えて2週間が過ぎました。「数え年」で計算すると私たちは皆また1歳年を取ったわけですが、『誕生日』を迎えて喜ぶのは若いうちだけのような気がしていませんか?「また1つ大人になった」とお祝いしていたのが、「また1つ老いてしまった」とうつむいて行く。それってちょっと悲しいですよね?  聖書を読むと、「年を取って行くこと」をポジティブに描いている箇所が多いことに目が留まります。「白髪は冠である」とか、「年老いても実を結ぶ」「年寄りは夢を見る」などなど。つまり、神と共に生き年を取って行くことは、更に深く神を知り、また神への信頼を深めて行くプロセスなのです。  この世界は「何かが出来ること」や「生産性・能率性」を追求させようとします。確かにそういった目で人生を見るならば、「年を取って動きが鈍くなっていくこと」はマイナスにしか思えないかもしれません。しかし『人生の価値』はそのようなことで測られるものではなく、「1日1日をどれだけ完全燃焼し、充実感を持って生きられているか」なのです。そして「地上での残り時間」が少なくなって行けば行くほど、私たちはそのような生き方に目が開かれて行くものなのです。

2024年1月14日 「アブラハムの信仰」

礼拝全体の様子をYoutubeで観る 説教あらすじ  「信仰によって生きる」  (07/01/2024) [へブル人への手紙 11章1~7節] ◆信仰とは?  ・[1~2節] 『肉眼』は「目に見えるもの」を人に確信させ、『信仰』は「目に見えない事柄(神に属するもの,将来のことなど)」を人に確信させる。『信仰』は単に「主観的・個人的確信」ではなく、『神の約束』という確かなものの保証に裏付けられている。それは、私たちの『救い』が「キリストの十字架」に保証されているのと同じ。これらのことから、『信仰』というもの分かりやすい定義は:「まだ見ていない『神の約束の成就』を確信して今を生きること」。  ・「信仰の実体」は、「信仰によって生きた人々」を通して知ることができる。ここからはその『信仰者たち』の記録。 ◆見倣うべき信仰者たち  ・[4節] カインとアベルの違いは「神へのささげ物そのものの差」というよりも、「神に対する心の態度の差」。カインの心にはアベルに対する『対抗意識』があったと思われる。「人との比較」は、私たちの『信仰』を歪める。  ・[5節] これに対しエノクは、創世記5章の記述も参考にすると、「神とともに歩んだ」。[ミカ6:8]  ・[6節] 『信仰』は、ただ神を求め、神を深く知り、その神に魅了されて心を動かされ、自然な反応として現れるもの。この『信仰』が神の心を揺さぶる。「正しく神を知り、正しく応答すること」を神は望んでおられる。  ・[7節] ノアはアベルのようにまっすぐに神を見つめ、エノクのように神と共に歩んだ。彼のように「たとえこの世の流れに逆らい、人々から嘲られたとしても、神に従う」という姿勢を、今年は見倣って生きよう![Ⅱコリント5:7-10] ◎更に深い学びのために  ①『信仰』というものの性質を分かりやすくもっと具体的な言葉で言い換えると、どのように表現できますか?  ②今日登場した3人の「信仰によって歩んだ人々」から、『信仰』についてどんなことを学ぶことができますか?  ③この2024年にあなたが自分自身の『信仰』に関して「更に成長したい」と感じる点はどのようなことですか? Outline of the sermon     “Living by faith.”     (07/01/2024) [Hebrews 11:1~7] ◆What is “Faith” all about?  ・[Verses1~2] “Eyes” assures what we can see, and “faith” assures what we cannot see.  Read more…

(557) “あなたは…知性を尽くして…あなたの神、主を愛しなさい。”

 神は私たちを「日々新しい知識を得るように」とデザインし、創造されました。それは何も「学生時代だけ」とか「定年まで」とかではなく、「死ぬまで」です。このことを軽んじることは実に愚かなことです。人間の脳の平均重量はたったの1.4キロしかありませんが、神経科医たちの研究によると、私たちは皆毎秒新しいことを学ぶことを3億年間続けられるほどの「学ぶ力」が備わっているそうです。物凄いと思いませんか?もし『学ぶこと』をやめてしまったら、それはあなたの人生における損失なだけでなく、この世界にとっても大きな損失なのです。  よく「私たちは日常、自分の脳のわずかなパーセンテージしか活用していない」と言われますが、確かなことは、私たち1人1人は私たちが想像している『最高の自分自身』よりもはるかに優れた可能性を秘めているということです。それなのに何故それを生かせないのか?それはほとんどの人間が、それらの「未知の可能性」に注目しないで、「記憶(既に学んだ事)」に頼って生きているからです。「新たな事を学ぶ意欲」を失った瞬間、私たちはある意味「死に向かい始めて」いるのです。  聖書は「神を知ることが『知識』の初めである」と述べています。私はクリスチャンとしての歩みを始めて40年以上経ちますが、神のことを知れば知るほど「自分は神のことが全然分かっていない」と痛感させられます。そして「もっともっと神のことを知りたい」と思わされるのです。ある意味「自分が無知であることを思い知らされる」というのは『痛い経験』ですが、考えようによっては、「どれだけのことを知っているか」よりも「まだどれだけ知らないことがあるのか」ということを知る方が価値があるのかもしれません。  この新しい年の初めに当たって、「まだ知らないこと(特に『神』という存在について)をもっと知って行こう」という意欲をもって更に高嶺を目指して行きましょう!

2024年1月7日 「信仰によって生きる」

礼拝全体の様子をYoutubeで観る 説教あらすじ  「信仰によって生きる」  (07/01/2024) [へブル人への手紙 11章1~7節] ◆信仰とは?  ・[1~2節] 『肉眼』は「目に見えるもの」を人に確信させ、『信仰』は「目に見えない事柄(神に属するもの,将来のことなど)」を人に確信させる。『信仰』は単に「主観的・個人的確信」ではなく、『神の約束』という確かなものの保証に裏付けられている。それは、私たちの『救い』が「キリストの十字架」に保証されているのと同じ。これらのことから、『信仰』というもの分かりやすい定義は:「まだ見ていない『神の約束の成就』を確信して今を生きること」。  ・「信仰の実体」は、「信仰によって生きた人々」を通して知ることができる。ここからはその『信仰者たち』の記録。 ◆見倣うべき信仰者たち  ・[4節] カインとアベルの違いは「神へのささげ物そのものの差」というよりも、「神に対する心の態度の差」。カインの心にはアベルに対する『対抗意識』があったと思われる。「人との比較」は、私たちの『信仰』を歪める。  ・[5節] これに対しエノクは、創世記5章の記述も参考にすると、「神とともに歩んだ」。[ミカ6:8]  ・[6節] 『信仰』は、ただ神を求め、神を深く知り、その神に魅了されて心を動かされ、自然な反応として現れるもの。この『信仰』が神の心を揺さぶる。「正しく神を知り、正しく応答すること」を神は望んでおられる。  ・[7節] ノアはアベルのようにまっすぐに神を見つめ、エノクのように神と共に歩んだ。彼のように「たとえこの世の流れに逆らい、人々から嘲られたとしても、神に従う」という姿勢を、今年は見倣って生きよう![Ⅱコリント5:7-10] ◎更に深い学びのために  ①『信仰』というものの性質を分かりやすくもっと具体的な言葉で言い換えると、どのように表現できますか?  ②今日登場した3人の「信仰によって歩んだ人々」から、『信仰』についてどんなことを学ぶことができますか?  ③この2024年にあなたが自分自身の『信仰』に関して「更に成長したい」と感じる点はどのようなことですか? Outline of the sermon     “Living by faith.”     (07/01/2024) [Hebrews 11:1~7] ◆What is “Faith” all about?  ・[Verses1~2] “Eyes” assures what we can see, and “faith” assures what we cannot see.  Read more…

(556) “どうか教えてください。自分の日を正しく数えることを。”

 貧富の差や能力の違いはあるにしても、すべての人間に等しく与えられているものがあります。それは『時間』です。私たちには皆、1日24時間(1440分,86400秒)が与えられています。これらの時間をどう使うかが、積もり積もって私たちが「どう人生を生きたか」ということにつながって行くわけです。  与えられている「限られた時間」というものを賢く使うための1つのヒントは、朝ごとに次のように自問自答することです。「もし明日私が人生の終わりを迎え、神の御前に立つとしたら、今からの24時間をどう過ごすべきだろうか?」 この質問に対する答えは、自分の『人生の優先順位』というものを反映しているのです。  ちょっと立ち止まって考えてみてください。もし今日あなたの車が盗まれてしまったとしても、また新しい車を手に入れることはできます。仮に財布を失くしてしまったとしても、銀行やカード会社などに電話をして問題を解決することは可能です。ところが、無駄に使ってしまった『時間』は、誰に頼んでも取り戻すことはできません。まさに「時間をどう使うか」は、「人生をどう生きるか」に直結しているのです!  この新しい年、次の2つのことを心掛けてみてはいかがでしょう?  ①すべての人に『Yes』と言うことをやめる   ・誰でも他の人に嫌な思いをさせることを好みません。しかしあなたの本心が『No』と叫んでいるのに、その人を喜ばせるために『Yes』と言うべきではありません。イエス・キリストの地上での歩みはまさにそのようでした。だからこそキリストは地上での生涯の終わりに、「父よ、わたしは地上であなたのみこころをすべて成し遂げました」と言うことができたのです。  ②『優先すべきこと』をはっきりさせ、それをキチンと優先させる   ・人間の「成熟度」というのは、『真に成すべきこと』を、たとえ気が進まない時でも全力で行えるかどうか、で測ることができます。今年の終わりにできるだけ「後悔すること」を減らすために、今こそ心を定めて1日1日を全力で生きて行きましょう!