『信仰』と聞くと、どんなイメージを持たれるでしょうか?「強い信念のようなもの」とか「人生に対する偏った考え方」、あるいは「本当は無いものを、あるものかのように信じ込むこと」などのように考える方もおられるかもしれませんね。

 私なりの理解に基づいて言わせてもらうなら、『信仰』というのは言わば「神の様々な恵みや祝福に対する、私たちの応答のかたち」です。ある人たちは、それらの祝福を「神から与えられているもの」として、神に感謝をささげ、受け取ったそれらの祝福を人々の益のために用いようとします。一方、ある人々は神の存在を認めようとせず、それらの祝福を「当たり前のもの」とみなし、誰に感謝することもなく、単に自分のために独り占めしようとします。これらはそれぞれその人の『信仰』を表現しているのだと思います。

 ある意味、『信仰』は私たちの日々の『選択』に現れます。ご存知のように、人生は『選択』の連続です。「何時に起きるか」「起きて初めに何をするか」「朝食を食べてから出かけるか、朝食抜きにするか」…などなど。あるものは無意識に、あるものは意識的に『選択』しています。そしてこれらの選択のうちの多くを、私たちは独自の「価値観」に基づいて行っています。『信仰』というものは、単に「お祈りする」「敬虔な生き方をする」「何らかの宗教的行事に参加する」ということに限定されるのではなく、「何を食べるか」「誰に話しかけるか」「どんなサイトや番組を観るか」など、生活のひとコマひとコマに関わってきます。

 「信仰による選択」の故に得をすることもあれば、損をすることもあります。私の知っているある人は、務めている会社からあるちょっとした「不誠実な行為」を命じられ、辞職しました。これは彼の『信仰』の1つの現れでもあります。ある人は「そんな生き方は不自由だ」と思うかもしれませんが、自分の感情に振り回されたり、常に変化する周囲の状況に左右されるような生き方の方が「不安定で不自由」なのではないでしょうか?

 誰でもなんらかの独自の『信仰』によって生きています。どうせ生きるなら、「全知全能の創造主なる神」に信頼する『信仰』によって生きる人生を送ってみませんか?

Categories: 聖書

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