(440) “愛をもって互いに仕え合いなさい。”

古くから親しまれている詩で、「み~んな違って、みんないい!」というものがありますよね?全くその通りだと思います。いつの間にか日本人の間で(恐らく『協調性』を求めるがあまり?)「できるだけ出しゃばらないようにしよう。周囲の人たちと同じようにしていよう。」というような空気が漂うようになってしまっています。とても残念なことです。 本来私たち1人1人は、天地創造の神様によってユニークに造られた存在です。「1人1人がユニークである」ということには次の2つの意味があります。 ①1人1人に特別な使命がある  ・私たち人間でも、何かを作る時には、必ず『目的』があります。なおさら神様が私たち1人1人をユニークに造られたのは、1人1人に別々の目的を持っておられるからです。私たちの人生は、この「神様が自分にさせたいこと」(別の言い方をすれば「自分と一緒になさりたいこと」)を捜し、見つけ、喜びと興奮をもってそれを成し遂げるためにあるのです。家庭において下の子たちに向かって「どうしてお兄ちゃんやお姉ちゃんと同じようにできないの!」とつい叱ってしまう親がいますが、これは無茶な要求です。何しろ神様が「違った存在」としてお造りになったのですから「同じようにすること」自体が無理なのです。むしろ私たちは親として「神様はこの子と一緒に、この地上で一体どんなことを成し遂げたいのだろう?」と問いながら、注意深く我が子1人1人を観察しつつ育てて行くべきなのです。 ②互いに補い合える  ・『人』という漢字は「それぞれが支え合っていることを表している」と言われますが、全くその通りで、私たち1人1人が違っているのも「それぞれが足りないところを補い合うためだ」ということが言えると思います。私たち夫婦は性格も得意分野も見事に異なっているので、結婚した当初はよく衝突しました(歯磨き粉の出し方とか…)。ところが、『牧師』という仕事柄よくいろいろな人たちにアドバイスをしたりカウンセリングをしたりするのですが、私たちが夫婦一緒にこれらの働きをする時、素晴らしい効果をもたらすのです。まず必ずといっていいほど私たちのどちらかはとても深く相手に共感することができ、またどちらかは相手の気付かなかったアイディアや示唆を与えることができるのです。これらのことが分かってから、私たちは夫婦はお互いの違いを心から神様に感謝できるようになりました。「自分と違ったタイプの人を受け入れる事」に困難を感じることもあるでしょう。でもそのような人と共に時間を過ごし続ける中で、きっと新しい発見や自分の成長に気付かされる日が来るに違いありません。

2021年5月23日 「ならぬ信仰するが『信仰』」

礼拝全体の様子をYouTubeで観る 説教あらすじ 「ならぬ信仰するが『信仰』」    (23/05/2021) [マルコ 5:35~43] ◆「ただ信じていなさい」   ・この[35節]のことばを聞いた時の会堂司の心はいかほどであっただろう。『絶望』という語が思い浮かぶ。それに対する[36節]のイエスのことばを、彼はどう受け止めたのだろうか?「目の前の現実」と「イエスのことば」のどちらを取るかは、まさに私たちの決断にかかっている。   ・「ならぬ堪忍するが堪忍」ということばがある。「これ以上我慢できない!」という状態に至った時点で、それを超えて我慢するのが、本当の我慢なのだという。「ならぬ信仰するが信仰」。もはや他に希望を置く場所がない。ただ「主イエスのことばだけが頼り」という状況の中で、あきらめることなく「主の語られたことは、必ず成る!」と信じる信仰を神は喜ばれる。[イザヤ55:11] ◆死人のよみがえり   ・イエスにとって『死』は「長い眠りにつくこと」。全ての人は終わりの日に必ずよみがえらされ(目覚め)て、神の前に立つ。その時に「やったー!」と思うか、「しまった!」と思うかは、今をどう生きるか(選択)にかかっている。だからこそ「御声を聞くこと」は重要であり、「聞いたことばを信じて従うこと」が神に対してできる最善なのである。 ✰今日のキーワード:聞いて、従う ◎更に深い学びのために  ①「神のことば」と「目の前の現実」の間で悩んだ事はありますか? その時どうしましたか? 分かち合いましょう。  ②聖書が教えている『信仰』とはどんなものだと思いますか? それぞれ「自分の言葉」に置き換えてみましょう。  ③「終わりの日のよみがえり」を信じていますか? それは今日のあなたの生き方にどう影響していますか? Outline of the sermon   “Do not fear, only believe.”   (23/05/2021) [Mark 5:35~43] ◆Believing what God has said.   ・God sometimes puts us in the situation where is no hope other than Read more…

(439) “全き愛は恐れを締め出します。”

人はしばしば「原因不明の『恐れ』」にさいなまれます。意外なことに、人はその成功のど真ん中で『言いようのない恐れ』を抱くことがあります。もしかしたらアナタもそんな経験があるかもしれませんね。 聖書は「神を恐れることは知識の初めである」と教えています。別の言い方をすれば、「神に対する『正しい恐れ』を抱いて生きるなら、要らぬ恐れを抱かずに済む」ということが言えます。ではこの『正しい恐れ』以外の恐れは、一体どこからやってくるのでしょうか? ある『恐れ』は、あなたの生い立ちの中で形成されたものかもしれません。恐ろしい経験から来るトラウマであるとか、ことさら厳しい親に育てられたとか、ホラー映画やホラー小説の観過ぎであるとか… また別の原因として、日々報道される情報の影響かもしれません。日常のテレビのニュースや新聞に報道される記事の99%は私たちの心を暗くさせるようなものばかりです。そのような情報の中に取り巻かれていると、「明日自分の身に何が起こるか分からない」と考えるようになってしまいます。 そして最後は「悪魔から来る惑わし」です。悪魔は常に私たちが『神に造られた作品』として生きることを邪魔しようとします。私たちが平安をもって伸び伸びと生きることを妨げ、恐れや不安の中に閉じ込めようとするのです。 ところが冒頭に掲げた『全き愛』は、これらの『恐れ』を追い払ってくれます。ある方は「自分はとても『完全な愛』なんて抱くことはできないから、一生恐れにさいなまれながら生きなければならない…」などと勘違いされるかもしれませんが、この『全き愛』とはもちろん私たち自身から生まれるものではなく、神様が私たちに注いでくださっている愛のことです。神の愛は「無条件」の愛です。私たちから何の見返りも要求しません。その代価はすべて十字架においてイエス・キリストが支払ってくださったのです。この「私たちが差し出すことのできるどんなものによっても決して勝ち取ることのできない『愛』」、ただ「ありがとうございます」といって受け取るしかない『愛』、人間の思いを超えた測り知れない『神の全き愛』を受け取り、日々この神との関係の中に生きて行く時、私たちはこの世が私たちに投げかけてくる『無用の恐れ』から全く自由にされて生きることができるのです。

2021年5月16日 「『信仰』に引き付けられる神」

礼拝全体の様子をYouTubeで観る 説教あらすじ 「『信仰』に引き付けられる神」    (16/05/2021) [マルコ 5:21~34] ◆人々の関心事 [21~29節]   ・湖の向こう岸から帰って来るなり、イエスはまたもや『群衆』に囲まれた。これらの『群衆』が何を求めていたのかは不明。(単なる野次馬?) ともかく彼らは、ヤイロの娘を癒しに出かけるイエスについて行った。   ・『長血(長期に渡る「血の漏出」)』は旧約聖書の記述によると「汚れた状態」。それ故この女は、肉体的にも、精神的にも、経済的にも大きな苦しみの中にあったことが分かる。きっと彼女の中には「神様、何故?」という思いが渦巻いていたことだろう。それでも彼女は、咎めを受けることを覚悟の上でイエスの衣に触った。 ◆イエスの関心事 [30~34節]   ・イエスは周囲の状況や出来事よりも「誰が衣に触ったのか」を知ろうとした。それは「神の力を引き寄せる信仰」を持っている人物を見つけたかったから。イエスはその人物を祝福したかった。   ・女は『全ての真実』を告白した。それは「弁解」というよりも、神に対する自分の誤った理解の「悔い改め」。この女に対しイエスは、慈しみを込めて「あなたの信仰があなたを救った」とおっしゃった。『救い』は私たちの『信仰』に対する神の応答であり、『悔い改め』は、その『救い』を体験した私たちの神への応答である。[へブル11:6] ✰今日のキーワード:『救い』は『悔い改め』に先立つ ◎更に深い学びのために  ①イエスに従っていた『群衆』と、その中に紛れていた「長血を患った女」との違いはどんなところでしょう?  ②この女がイエスの許に辿り着くまで、彼女の「神に対する思い」には、どんな浮き沈みがあったと思いますか?  ③この女の身に起こったこと、またイエスの反応から、神のどんなご性質が分かりますか? Outline of the sermon   “Our ‘faith’ attracts God.”   (16/05/2021) [Mark 5:21~34] ◆Our concern. [Verses 21~29]   ・Jesus was always surrounded by “crowds”.  Some of them were seeking something specific from Read more…

(438) “わたしの目には、あなたは高価で尊い。”

小学生のころ、私は図画工作というものが苦手でした。特に嫌いだったわけではないのですが、まあいわゆる『下手くそ』だったんですよね。いろいろとアイディアを考えて、自分なりに一生懸命に制作するのですが、出来上がった作品は、他の生徒たちのものと比べて何となく「見劣り」してしまって、よくガッカリしたことを覚えています。 ところが面白いことに、(当時は作品の出来不出来に関わらず、完成した後全ての作品はしばらくの間教室の後ろに並べてあったのですが…)なんて言うか自分の作品が愛おしく感じて、しょっちゅう観に行っていました。「こうして観るとまんざら悪くないじゃないか」なぁんて思ってみたりもして、ともかく作品そのものの見た目とは関係なく、『自分の作品』というだけで愛着が湧き、何となく誇らしく感じたのでした。 聖書は「あなたがたは神の作品である」と教えています。そして全知全能である神様は、いわゆる「いい加減な作品」はお造りになりません。全てが『傑作品』なのです。それはアナタも私も例外ではありません。ところがそんな『傑作品』である自分自身をそんな風に思えないことは多々ありますよね。「自分はあの人のように格好良くないし、いろんなことができるわけじゃないし、持っている物もわずかしかないし…」と、そんな風に思ってしまうのが普通だと思います。 でも、ぜひ次のことだけは決して忘れないでください。アナタをお造りになった神様は、心を込めて、ご自身の全精力を傾けて造ってくださったのだということ。だからこそ、他の誰が(自分の心も含めて)何と言おうと、アナタは神にとって「この上なく愛おしくて価値ある存在」なのです。この神との個人的な出会いを通して、私たちは自分自身の『真価』を知り、希望と誇りを持って、明日に向かって生きて行くことができるのです。

2021年5月9日 「母たちに贈ることば」

礼拝全体の様子をYouTubeで観る 説教あらすじ   「母たちに贈ることば」  (09/05/2021) ◆『母』の影響力!   ・家庭のリーダーであり最高責任者は『父親』であるが、実際的に子供たちと触れ合う時間が多いのは『母親』。そのため当然子供たちは、霊的にもパーソナリティにおいても母親の影響を強く受ける。それ故ぜひ「神を恐れる母親」として、子供たちと次のことを一緒にして欲しい。①みことばを覚える。②賛美する。③祈る。   ・「神を恐れる母親」の責任は、『ことば』においても『行い』においても「キリストを体現すること」。そのための最も強力な実例は、「夫(父親)を愛し、敬い、従う姿」。(キリストが御父を愛し、従われたように) 子供たちは『夫婦(両親)の関係』から無意識のうちに「神に信頼し、従う」とはどういうことなのかを学び取る。 ◆「良き模範」となるために   ・「それは自分には難しすぎる」とか、「ウチは父親不在である」という方々。ハナからあきらめたりしないで、まず自分自身が「神との正しく豊かな関係」をしっかりと確立することから始めよう。また「自分たちには子供はいない」とか、「もう子育ては終わった」という方々も、このJCFに与えられている『子供(若者)たち』は皆、「私たちの子ども」です!彼らが『神との豊かな関係』に生きられるように、まず私たちが日々「みことばと祈り」によって神様と深く結ばれることによって、『生きる模範』として歩んで行きましょう! ◎更に深い学びのために  ①子供たちに対する「母親の影響力」とは、どのようなものですか?  ②私たちはどのようにして、「キリストを体現する」ことができるのでしょう?  ③あなたは今日から、JCFに集う子供たちのための『生きる模範』として、どんなことを意識して行きたいですか? Outline of the sermon   “Gift of words for ‘Mums’.” (09/05/2021) ◆Huge influence of “Mums”!   ・Even though “fathers” are the leaders of home and have ultimate responsibility over their family, “mums” are the Read more…

(437) “人を恐れると罠にかかる。”

相手に嫌われたり呆れられたりするのが怖くて、相手の申し出を断ることができなかったことはありませんか?きっと誰でも1度や2度はそんな経験があるのではないかと思います。 どんな人にも「周囲の人々に好かれたい」という願いはあるはずです。ですからできる限り人々のニーズに応えたいと思うし、頼み事は引き受けたいと思うわけですが、これらの思いが高じると、自分を見失ったり偽ったりしてしまうことがあるのではないでしょうか? 『聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥』ということわざをご存知だと思います。自分の無知を知られるのが恥ずかしいからと、誰かにものを尋ねるのを躊躇するならば、結局ずっと無知のままで終わってしまいます。これと同様に「自分を守ろう」という意図で無理な要求を引き受けたり、本心を偽って相手に同意しているフリをし続けていたら、いつか『自分自身の尊厳性』を見失い、最終的に誰にも見向きもされない人間に成り下がってしまうでしょう。 神は私たちのそのような態度を決してお喜びにはなりません。ある方は、「自分は神を信じているから、できる限り人々に喜ばれることをしたい」と言って、上記のようなワナにはまってしまいました。実際は「人を愛すること」と「人を喜ばせること」は全くの別物です。「他人に嫌われたくないから、相手の喜ぶことをする」という態度は、結局「自分が可愛いから傷付きたくない」という本音の表れなのです。私たちが真に取るべき態度は、「自分を偽って相手に同意すること」でも、「自分を守るつもりで相手に気に入られることをすること」でもなく、「心の真実をご覧になる神を見上げ、自分自身に対して正直になって、喜んでできる事には『YES』、そうでないことには勇気をもって『NO』と言うこと」なのです。

202152 「イエスに対する反応」

礼拝全体の様子をYouTubeで観る 説教あらすじ 「イエスに対する反応」(02/05/2021) [マルコ 5:14~20] ◆2つの違った反応 [16~18節]   ・住民たちはイエスに「この地方から出て行って欲しい」と言った。目の前に「御国の権威に満ちたメシヤ」がいたにも関わらず、彼らはイエスと関わることを拒んだ。一方、悪霊につかれていた人は、「お供させて欲しい」と願った。非常に対照的。これは現代において「イエスについて聞いた時の人々の反応」にも共通している。ある人々は、できるだけ関わることを避けようとする。自分の今の「そこそこ平和な生活」を変えたくないから。他の人々はもっとイエスについて知ろうとする。それは、「自分の真の必要を満たすものが見出せるかも…」と思うから。 ◆それぞれの使命 [18~20節]   ・使徒たちのように、「家族を離れて、イエスと共に神の国を伝え歩く」という使命を与えられる人もいれば、この男のように「家族の許へと遣わされる人」もいる。どちらにしてもイエスは「その人を通してしか、イエスの真実を聞くチャンスのない人々」へと私たちを遣わす。[ヨハネ20:21]   ・私たちが語るのは「難しい神学的メッセージ」ではなく、「イエスが自分の人生にどのような素晴らしいことをしてくださったのか」という『証し』。私たちは全員が『伝道者』である必要はないが、『証し人』でなければならない。 ✰今日のキーワード:キリストの証人 ◎更に深い学びのために  ①この地方の住民たちと、悪霊につかれていた人との「イエスに対する反応」が違う理由は何だと思いますか?  ②イエスは何故、この男が自分たちに同行するのを許さず、生まれ故郷へと送り返したのでしょう?  ③『伝道』と『証し』はどう違いますか? 私たちはどのようにして「優れた証し人」となることができるでしょうか? Outline of the sermon   “How do you response to Jesus?”   (02/05/2021) [Mark 5:14~20] ◆2 different ways of response. [Verses 16-18]   ・Responses between people and “the man” to Jesus were completely Read more…