(548) “神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。”

 「誰かを赦さないでいること」というのは、自分では「赦さないことによって相手を縛っている」つもりかもしれませんが、実際は、「赦さないことによって縛られている」のは『自分』です。どんなものでも栄養を与えればスクスクと成長します。かわいい赤ちゃんにキチンとミルクを与えていればちゃんと成長するように、「赦したくない相手」を日々思い出しては、「絶対に赦さない!」と繰り返し心の中で宣言することは、「相手に対する苦々しい思い」に毎日栄養を与えているようなもので、その『苦々しさ』はどんどん成長して行き、やがては自分自身を滅ぼすことになります。  「そんなこと言ったって、もし赦してしまったら、その相手は図に乗って、益々自分に対してひどいことをするかもしれないじゃないですか!」とおっしゃるかもしれません。初めに言っておきますが、『赦す』ということは「相手の行為を大目に見ること」とは違います。『赦す』という行為は、相手を縛っていた縄をほどいてあげることではなく、「自分を縛っている縄から逃れること」なのです。また、相手が自分にした意地悪を「忘れてあげなければならない」わけではなく、むしろ「相手がした意地悪を思い出しても、もはやイヤな気持が湧いてこない」という解放なのです。  『赦す』という能力は、他の様々な能力と同様、練習によって伸ばすことができます。この『赦す』というスキルを繰り返し用いることで、自分に悪意を持つ相手を減らすことも、また意地悪をかわしつつその相手を思いやることもできるようになります。キリストによって私たちを「赦して」くださった神は、私たちをも喜んで『赦す者』へと成長させてくださるのです。