(667) “私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。”

 キリスト教と、他のいわゆる『宗教』との大きな相違点の1つは、恐らく「救い」と「良い行い」との関係にあるのではないでしょうか?ほとんどの『宗教』は「救いやご利益」を受けるために何らかの「行ない」を要求します。「修業を積む」「一定金額のお布施をする」「戒律を守る」などなど。このような「条件付きの救い」は、この世の様々な習慣や人付き合いなどにも深く根付いているので、理屈として納得が行くものなのでしょうね。  では『キリスト教の救い』は、どう違うのでしょうか?英語のことわざで「Christianity is not Religion but Relationship with God」(キリスト教は宗教ではなく、神との関係)と言われているように、聖書で強調されていることは『神との関係』です。人間関係においても「OOしてくれたら、~してあげる」というような「ギブ・アンド・テイク」の関係もありますが、より親しい間柄になればなるほど「無償でしてあげる」ということが起こってきます。親子関係や夫婦関係、また親友同士などがこれに当たります。いわば「『~だから』の愛」と「『~にもかかわらず』の愛」の違いです。そして神が私たちとの間に求めておられる関係は、この後者に当たります。神は、私たちが神に対して興味も関心も示す前に、私たちを一方的に愛し、私たちとの関係を回復するために、ひとり子イエス・キリストを「和解のいけにえ」として十字架において犠牲にされました。そしてこの神の驚くべき愛に対する応答として、クリスチャンたちは誰に強制されることもなく、自ら進んで「神に喜ばれるような良い行い」に励むようになるのです。つまり、クリスチャンたちの『良い行い』は、「救いを勝ち取るため」にしているのではなく、「救いをいただいたから」しないではいられなくなっているわけです。  最近では夫婦の離婚率も上昇傾向にあり、また子育てにおける『ネグレクト』なども問題になっています。本来「無償の愛」が実践されるべき場が歪んできてしまっているのです。これらを本体の姿に回復させるためにも、私たち人間には『神との愛の関係』が何が何でも必要ではないでしょうか?