(653) “この世と調子を合わせてはいけません。”

 日本には「出る杭は打たれる」という言い回しがありますよね?調べてみるとどうやら江戸時代から存在する言葉らしく、「異質なものを排除しようとする社会の風潮」を言い表しているようです。  私は20歳の時にキリストと出会いクリスチャンになりましたが、それ以前の学生時代いつも心の中で「自分らしく生きたい。正しいことを正しいとし、間違っている事には断固として『No』と言いたい」と感じてはいたものの、大抵の場合いつのまにか周囲に流されてしまい、「本当はこうありたいのに…」というジレンマに悩まされていました。ところがクリスチャンになった頃からそれが変わり始めたのです。周囲がある方向へと向きかけた時、自分の心の中で「何かおかしい」と感じた時に、それを思い切って口に出すことができるようになってきました。また、道を歩いている時や公園を散歩している時などにゴミ屑が落ちているのを見かけると拾ってゴミ箱に捨てに行ったり、独りぼっちで寂しそうにしている人に声をかけたりするようになりました。今振り返って考えてみると、「唯一全能の神が自分と共におられて見守ってくださっている」ということが、心の中で強い確信になり、いろいろなことに自信が持てるようになったのだと思います。(その後、30年の外国生活を経て、このユニークな性格は更に助長されているようですが…)  神は私たち1人1人を「ご自身のかたちに似せて」、しかも「ユニークな存在として」創造なさいました。しかし『この世の風潮』はそのような貴重で尊い存在である私たちを『この世の型』に押し込めようとする傾向があります。この圧力から脱するには『神の助け』が必要です。「イエス・キリストを救い主として受け入れる」とは、単に「天国への切符を手に入れる」ということではなく、「この世にあって『神の子』として、父である『神』の栄光を表現しながら生きる者とされたこと」も含んでいます。神は私たち1人1人を通して成し遂げたいご計画をお持ちなのです!

(652) “母はこれらのことをみな、心に留めておいた。”

 この記事を読んでおられる皆さんは、今度の日曜日が『母の日』であるということをご存知でしょうか?『父の日』は国によって違うようで、日本では「6月第2日曜日」ですが、ここニュージーランドでは「9月第1日曜日」です。しかし『母の日』は世界共通して「5月第2日曜日」に祝われています。『母の日』の起源はあまり古くなく、20世紀初頭にアメリカで『アンナ・ジャービス』という女性が、亡き母を偲んで白いカーネーション贈ったという出来事によるもので、アメリカでは1914年に祝日として制定されました。日本では1937年頃から広まったようです。  実は今朝、教会が主催している「若いお母さんたちの集い」で聖書のお話をさせていただくにあたって、10人くらいのお母さんたちに「皆さんは今度の日曜日が何の日かご存知ですか?」とお尋ねしたら、皆お互いに顔を見合わせながら「何の日だっけ?」と全く心当たりがない様子でした。これには私も驚かされました。恐らく皆さん「感謝される」という見返りなど気にも留めずに、日々『母親業』に没頭しておられるのでしょうね。  聖書では『母親だけ』にフォーカスを当てた教えはあまりなく、大抵は『両親双方』に対して書かれています。ただ興味深いのは、イエスの母マリアに関してはいくつかの記述があり、神の不思議なみわざによって「処女であったにも関わらずイエスを身ごもり、出産した」せいかイエスが幼い頃から1つ1つのエピソードを「心に留めておいた」と書かれています。イエスの地上での人生の1番の理解者は、きっと「母マリア」だったのでしょうね。『ネグレクト』や『毒親』などという言葉で母親の「不適切な子育て」が騒がれている昨今ですが、一般的にはやはり「子供に対する母親の愛情と労苦」は、多大な評価と称賛に値するものではないでしょうか?  世の『お母さん』たち、本当にありがとう!皆さんはこの地上において「人類を創造された神のみわざの大切な一端を委ねられている存在」です。これほど価値ある使命は、他にはありません。あなたがたの日々のたゆみない労苦の1つ1つに、神様が豊かに報いてくださいますように!

(651) “わたしを呼べ。そうすれば、わたしはあなたに答え、あなたが知らない理解を超えた大いなることを、あなたに告げよう。”

 皆さんは『コバンザメ』という魚をご存知でしょうか?頭に吸盤のようなものが付いている魚で、大きなサメのあごの下(時には逆さまになって、サメの頭の上)に貼り付いて移動することができます。  コバンザメは、サメのあごの下に貼り付いてしまえば、もはや食べ物の心配をする必要がありません。サメが獲物を捕らえて食べる時に口からこぼれ落ちる食べかすをいただくことができるからです。また自分で苦労して泳いで移動する必要もありません。本来自分では行くこともできないような遠くまで、サメが連れて行って(?)くれるからです。しかも敵からの攻撃にビクビクしている必要もありません。何よりも強い味方がいつも一緒にいるからです。  もちろんコバンザメは、自分で食料を捕まえることもできなくはないし、泳ぐことだってできます。でも敢えてサメに貼り付くのです。何故ならその方が「自分の力では到底無理なご馳走にありつけるし、辿り着けないような場所へと移動もできるし、何よりも身の安全が保障されるからです。  これはまるで、神に信頼し、ひたすら神に寄り添って歩む私たちの人生のようです。私たちは「神の口から『こぼれ落ちる』生けるみことば」によって日々養われ、神の導きに従って「自分では思ってもいなかったような人生の高み」へと引き上げていただくことができ、どんな試練や敵が襲って来ても、恐れる必要がないのですから。  コバンザメと同様、私たちは自分の力でも「それなりの人生」を歩むことができます。けれども「自分の思いを超えたような豊かな人生」を、全能の神の御手に守られて生きる方が、遥かに優っていると思いませんか?

(650) “この方は恵みとまことに満ちておられた。”

 聖書の神のご性質で際立っていることの1つは『約束を必ず守る神』ということです。神は聖書の中で「個人に」「民族に」、そして「すべての人々に」対して様々な『約束』をされています。そのいくつかはすぐさま成就し、多くは何年か後に成就し、そして将来やがて成就するもの(『神の国の到来』など)もたくさんあります。  私たちもよく『約束』をしますが、結構守れないことがありますよね。都合が悪くなったり、自分の力不足が原因だったり、単に忘れてしまうこともあるわけですが、神には決してそういうことがありません。ある意味神は「自分の名誉にかけて」必ずご自分の約束を守られるのです。  ところで「必ず約束を守る」と聞くと、逆に「融通が利かない」というイメージもありますよね?いわゆる『お役所主義』という感じで、「前例がないから」とか、「そういう決まりだから」といった感じです。では『神の約束』も同様なのでしょうか?その答えは『イエス』&『ノー』です。  神は「絶対的に正しく、決して自分自身をごまかしたりしない方」ですから、人の顔色や言葉によって動揺したりうろたえたりすることはありません。ですからいわゆる「時と場合によっては変更もあり得る」というようなことはありません。ただそれと同時に神は私たちに対する「愛に満ちたお方」なので、常に私たちの最善を見越して備えをしてくださる方でもあります。すなわち『神の約束』自体がそもそも私たちの最善のためになされているのですが、神は私たちの弱さをもご存じなので、そこには『バックアップ・プラン』があるのです。その代表的な例が『十字架』です。神と人との間には「人は『罪』の代償を『死』で支払わなければならない」という『不動の契約』がありましたが、私たちが負うべきその『死』を、罪のないご自分のひとり子イエスに身代わりに負わせることによって、ご自身の『約束』を破ることなく、私たちを救うことにされたのです。  神は「必ず約束を守られるお方」だからこそ、私たちはこの神に全幅の信頼を置くことができると同時に、心からの誠実さをもってその愛に応えて行くべきなのです。

(649) “互いに親切にし、優しい心で赦し合いなさい。”

 本当に不思議なことですが、何故か私たちは「人から受けた親切」はすぐに忘れてしまい、「裏切られたり傷を受けたりしたこと」ほど、いつまでも覚えているものです。しかしそのような生き方は私たちに何の益ももたらしません。  こんな話を聞いたことがあります。ある友人同士の2人が砂漠を旅していました。途中でちょっとした口論になり、1人がもう1人の方の頬を平手打ちにしました。打たれた方は何も言わずにただその場にしゃがんで、砂の上に「今日友だちが私の頬を平手打ちにした」と書きました。2人は一緒に旅を続け、やがて水のあるオアシスに辿り着きました。2人ともとても喉が渇いていたので水辺に殺到しましたが、ついさっき頬を打たれた方が勢い余って水の中に落ちてしまい溺れかけました。驚いたもう1人は水の中に飛び込んで溺れていた友人を助け出しました。その夜助けてもらった方の人が平たい石を見つけて来て、その表面に「今日友だちが私の命を救ってくれた」と刻みました。それを見ていた友人が彼に尋ねました。「キミはどうして昼間私が頬を叩いた時には砂の上にそのことを書き、今度は石に刻んでいるんだい?」 彼は答えました。「誰かに嫌なことをされた時は、それを砂に書くのがいいんだよ。そうすればいつか『赦しの風』が吹き消してくれるだろ?でも良いことをしてもらった時はこうやって石に刻み付ければ長く覚えていられるからさ。」  憐れみ深い神は、ひとり子イエス・キリストの十字架における代償によって、私たちの『不信仰の罪』を赦してくださり、今日も憐れみの眼差しで私たちを見守ってくださっています。私たちもこのように「憐れみを受けている者」として、人々から受けたイヤな傷を忘れ、親切な行いを心に留めて生きて行きましょう。

(648) “すべての良い贈り物、またすべての完全な賜物は、上からのものであり、光を造られた父から下って来るのです。”

 私は毎週日曜日の教会の集いの時に聖書のお話をさせていただいていますが、その冒頭に必ず言うことばがあります。それは、「私たちの天の父は『良いお父さん』なので、そのご性質上、愛する子供たちのために最善以外をなさることはできません」というものです。これは聖書の言葉そのものではありませんが、聖書全体から汲み取ることのできる重要な真理です。  私たちは「人間としての性質上」意地悪もできますし、子供たちに最善を施したくても「経済的・能力的限界」のゆえに必ずしも与えてあげることはできません。しかし私たちの『天の良いお父さん』である神は、私たちの思いを超えた次元でいつも『最善』を施してくださるのです。「ホントかな?」と疑う方もおられるかもしれませんが、それは『神』という方をよく知らないからです。この方を知れば知るほど、上記の言葉が「間違いない!」と信じられるのです。  かなり無理があるのですが、1つのたとえを考えてみましょう。大抵の方には「とても大切な人」という存在が1人くらいはいると思います。そして恐らくあなたはいつもその人の『最善』を望んでいる事でしょう。ところがあなたには能力的にも経済的にも限界があり、またその人と「いつも一緒にいてあげること」もできません。時には意見の食い違いから口論になり、心に苦々しさが残って、「ちょっと意地悪してやろうかな」と思うかもしれません。けれどもなかなかその機会がなく、そうこうしているうちに仲直りし、意地悪をしないで済んだことに胸を撫でおろすことでしょう。  私たちの神は、ご自分のひとり子イエス・キリストを私たちの罪の身代わりに十字架にかけられるほどに、私たちをこよなく愛してくださっている方です。そしてご自身の望む通りのことを、何の限界もなく実現することのできる方です。そして私たちの将来を見通され、決して後悔などすることなく、1番良いタイミングで1番良いものを提供することができる方なのです。それ故「最善以外はなさらないなんて嘘だ!」などと考える方がおかしいのです!  仮に「実は神はそんな方ではない」ということだったとしても(そういうことは決してないのですが…)、「神は私にいつも最善を施してくださっている」と本気で信じることに、どんな不都合がありますか?不都合がないなら、ぜひそう信じて日々を精一杯生きて行きましょう!

(647) “わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。”

 教会の暦では、今週末は「イースター・ウィークエンド(復活祭)」と呼ばれ、私の住むニュージーランドでは金曜日から翌週の月曜日まで休日です。金曜日はキリストが十字架にかけられたことを記念する日ですが、『グッド・フライデー』と呼ばれます。ある人々には「キリストが死んだのに、どうして『グッド』なの?」と不思議がられるかもしれませんね。今日はその辺を解説したいと思います。  私たちは生まれながらにして、神に対して『罪人(ズレ人)』であり、「神を神として認めず、自分の思うままに生きている存在」です。それ故私たちは「いのちの源」である神との関係が途絶え、『死と滅び』に定められていました。そんな私たちをも深く愛し憐れまれた神は、何とかそのような関係を修復しようと、罪のないご自分のひとり子であるイエスを私たちの身代わりに『罪』に定めて十字架で死なせ、代わりに「その『イエスの代償の死』を自分自身のためとして信じ受け入れた者たち」に『永遠のいのち(神との関係の回復)』を与え、その見える形の保証としてイエスをよみがえらせたのです。  この神の驚くべき憐れみのみわざの故に、私たちはこの週の金曜日を『グッド・フライデー』と呼び、また復活を記念する日曜日を『イースター・サンデー』として祝うのです。実際この『復活』は、単にキリストのよみがえりを記念するだけでなく、神の前に失われて(死んでしまって)いた私たちが、キリストを信じ受け入れることを通して、神の前に再び見出される(よみがえる)ことをも象徴しています。そして更に素晴らしいことに、この「よみがえられたイエス」は、今日も生きて、ご自身を信じ従う者たち1人1人と共に歩んでくださっているのです!

(646) “義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるからです。”

 多くの人々は「心の満ち足りなさ」を感じています。そしてそれを何とか埋めようと、多くの買い物をしたり、様々な異性とお付き合いをしてみたり、ゲームや趣味に没頭したり、お酒に溺れたりしているのではないでしょうか?そして恐らく誰もそれらの中に「本当の満足」を見出すことができず、静かに、時には激しく絶望しているのかもしれません。  イエス・キリストは「『義』に飢え渇く者は、やがて満ち足りる」とおっしゃいました。『義』とは何でしょう?すぐに思い当たるのは「正義の『義』」、すなわち「悪に立ち向かおうとする正しい心」のようなものでしょうか。聖書で『義』という時には「常に真実で正しく、愛に満ちておられる『神』のみこころがこの地上でことごとく成し遂げられることを望む心」を指します。  ある時イエスはこんなことをおっしゃいました。「わたしの戒めを守る者は、わたしを愛する者です」。ちょっと分かりにくいですよね?「愛すること」と「相手の言いなりになること」は、ちょっと違うような気がします。でもその相手が「私たちの最善を知っており、そのための道筋を教えておられる方」だとしたらどうでしょう?神が私たちに与える命令は、いわば私たちに最善を施そうとしておられる「愛の表現」なのです。それに忠実に応答しようとすることは、正に神に対する私たちの「愛の表現」となるのではないでしょうか?  愛に満ちた神とのそのような関係の中に日々歩み、そしてそんな『神の愛のみこころ』が、この地上で成し遂げられることを心から望むとき、私たちの心は「決して失われることのない充足感」に満たされるに違いありません。

(645) “わたしの名で呼ばれるすべての者は、わたしがこれを創造し、これを造った。”

 「セルフイメージ」という言葉をご存知でしょうか?簡単に言えば「自分で自分のことをどう思うか?」というようなことです。『健全なセルフイメージ』を持っていることは、人生を生きる上で大きな益をもたらします。そして「全能で愛に満ちた創造主によって形造られた存在」というセルフイメージを持っていることは、不安定なこの世界で生きる上で深い平安と確信をもたらします。  私たちが自分の持っている可能性(ポテンシャル)は、力み過ぎたり、恐れを抱いたりしていては十分に発揮することができません。リラックスした精神状態が必要です。それに加えてこの『創造主なる神』が「良いお方」であり、「私たち1人1人にユニークなご計画を持っておられる」と信じているなら、単なる『安心感』だけでなく、「喜びと興奮」を心に抱きながら、ダイナミックな人生を送ることができます。  私自身、今の自分が置かれている環境や任されている働き、そして与えられている人間関係すべてが、自分が十代の頃には夢にも描くことのできなかったほど優れて価値あるものとなっています。「創造主である唯一の神との関係の中で生きる」とは、ただ単に「偶然の産物として生きる」ことと、雲泥の差があるのです!

(644) “わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。”

 もし誰かに「クリスチャンであるのとないのとでは、どう違うか?」と問われたら、私ならまず次の2つを挙げると思います。 1.どんな状況の中にあっても、心の深いところに『変わらない平安』がある。  ・私の信じている『神』は、全知全能であり、私を深く愛しておられる良いお方です。なので、私の身に起こる全てのことは「神の知らない所で起こっている事」ではあり得ません。神はそれが起こることを許され、そしてその出来事を通して、私が思いもよらないような素晴らしい実を結んでくださると信じられるので、心の奥にはいつも変わらぬ平安と喜びがあるのです。 2.人生に『意味と希望』を持って、日々を生きることができる。  ・『創造主である神』を信じていると、「自分の人生には必ず『神』の崇高な目的がある」という確信をもって日々を生きることができます。日常の小さな出来事から、「人生の目的」と呼べるようなものまで、自分の小さな頭や限られた知識・能力に制限されることなく、「神が自分を通して成し遂げようとしていることなら、どんなことでも全力を尽くそう」という情熱が湧いてきます。そこにはもはや「無気力」に陥ってしまう余地はありません。  もしかすると、ある方々は「神を信じて生きるなんて、何だか窮屈で不自由な気がする」と勘違いしておられるかもしれませんが、実際は全くその逆なのです!