(657) “失望せずに善を行いましょう。あきらめずに続ければ、時が来て刈り取ることになります。”

 「肉体において体験した記憶」というものは、身体に記憶されるのではなく、実は脳に記憶されるそうです。つまり、何度も何度も繰り返し練習したことは「身体が覚えている」と言いますが、その「身体が…」という概念自体が脳の働きだそうです。例えば「朝起きたら顔を洗って歯を磨く」などの習慣的行動から、「ピアノやバイオリンを繰り返し練習する」などの訓練に至るまでしっかりと脳に記憶されていて、たとえ一時的な記憶喪失などになったとしても、それらの記憶は失われずに覚えられていて「自然と体が動く」ということになるそうです。  『1万時間の法則』という言葉を聞いたことがあるでしょうか?心理学者によると、どんなことでも1万時間繰り返し練習し続けるなら、そのエキスパートになれるそうです。このことは「どんな人でも、努力して練習し続ければ、その道に熟練できる」という希望を与えると同時に、「あることに熟練するために、決して『近道』は無い」ということでもあるわけですね。ですから『才能』という言葉に惑わされないようにしましょう。「努力を継続できること」こそ、真の『才能』と呼べるのかもしれません。  これらのことは、私たちの「信仰生活」にも応用できます。信仰において成長するためには『祈り』『聖書通読』といったことは不可欠ですが、そのような新しい習慣は「イエスを信じた人には自動的に備わる」といったものではありません。初めのうちは自分で意識して「祈り」、また「聖書を開いて読まなければ」なりません。しかしあきらめずにそれを継続するならば、やがて牧師や宣教師たちにも劣らない「信仰の高嶺」に辿り着くことができます。これもまた、神が私たち1人1人に等しく与えて下さった『才能(賜物)』と呼べるのかもしれませんね。

(656) “弟子たちは、アンティオキアで初めて、キリスト者(Christian)と呼ばれるようになった。”

 皆さんは『クリスチャン』と聞くと、どんな人物像が思い浮かびますか?「良い人たち」「宗教かぶれ」「非国民(って事はないか!)」などなど、様々な印象があることと思います。  『クリスチャン』を英語で書き表すと「Christian」であり、この末尾の『ian』は「Musician」「Magician」などにも使われる、いわゆる『専門家』または『それで生計を立てている』みたいな意味です。そして前半の「Christ」は『キリスト』のことであり、すなわち『クリスチャン』とは「キリストに依存して生きている人々」ということになるわけです。ある方々には「かなり変わった人たち」のように聞こえることでしょうね。  実際は『クリスチャン』の中にもいろいろなタイプがあります。例えば日本の『仏教徒』のように「元々生まれた家やお国柄がそうだから」という理由で『クリスチャン』を名乗る人もいれば、「何となく響きが良いから」という理由の『自称クリスチャン』もいます。でも『本物のクリスチャン』は、「自分にとって『イエス・キリスト』はすべてである」と自覚して日々を歩んでいます。正に『キリスト』が人生の中心となっている「Christian」なわけです。  この天地万物(私たち人間をも含めて)をお造りになられた『創造主なる神』は、愛と恵みに満ちた良いお方です。ですからこの神としっかりつながって生きるならば『良いもの』に不足することがないわけですが、残念ながら私たち人間は生まれながらこのお方をないがしろにした「自分勝手な生き方(罪)」に陥っています。数々の宗教は何とか神との関係を回復させようと様々な「修行や努力」を重ねるわけですが、私たち人間がどう逆立ちしても『神の基準』に達するはずがありません。そのギャップを埋めるために神ご自身が遣わされた「救い主」が『イエス・キリスト』なのです。この『イエス・キリスト』を通してのみ、私たちは「神からの良きもの」を日々受け取って生きることができるわけですから、必然的に『イエス・キリスト』が人生の興味や関心事の中心になるわけです。まあ結果として周囲の他の人たちにとっては少々異質な存在になっていくのもやむを得ないでしょうね。  ただ、そういうわけで『クリスチャン』は、他の人たちが体験していない「神からの良きもの」を受け取りながら生きているわけですから、自然と生き生きとして、また他の人たちにも優しくなっていくわけです。

(655) “訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が訓練しない子がいるでしょうか。”

 この天地を造られた神は、全知全能であり、私たちをこよなく愛してくださっている良いお方です。ならばどうしてこの世には『試練』というものが存在するのでしょう?私たちの人生には、つい「神様、あなたが私を愛してくださっているなら、どうしてこんな目に遭わなければならないのですか?」と言いたくなるような出来事がたくさん起こりますよね?そんな時は神様が「ちょっと席を外してしまっている」のでしょうか???  では逆に、私たちの人生が終始「ぬるま湯に浸かったような日々」だったとしたら、どうでしょう?私たちの人格はどのようになって行くでしょうか?恐らく「成長意欲の無い」「互いに助け合う精神の無い」「忍耐のかけらも無い」甘えん坊のような大人になってしまうのではないでしょうか?そして恐らく、神様を求めることもなく、当てもなくさまようような日々を送ってしまうに違いありません。  冒頭に書いたように、私たちの神は、「全知全能であり、私たちをこよなく愛してくださっている良いお方」ですから、私たちの人生に襲ってくる試練や困難は、全て「神がそうなることを許された範囲内」で起こっているのです。すなわち、私たちがそのような試練に遭遇することを通して、神は何か優れた麗しいものを私たちを通して(または「私たちの内に」)生み出そうとしておられるのです。  ですから、試練や困難が襲ってきた時には、「神様どうしてこんなことが?」と愚痴をこぼす代わりに、「神様、あなたはこの出来事を通して、私にどんなことを教えたいと願っておられるのですか?」と問うようにしてみるのが良いのです。

(654) “強くあれ。雄々しくあれ。”

 誰も好き好んでリスクを冒す人はいないかもしれません。しかし実のところ「リスクを冒すことなしに成功することもない」と言えるのではないでしょうか?ある作家がこんな記述を遺しています。 「笑う人は『愚かに見えるかもしれない』というリスクを冒している。泣く人は『泣き虫だと思われる』というリスクを冒している。他の人と関わる人は『面倒に巻き込まれるかもしれない』というリスクを冒している。夢や希望を抱いて生きる人は『非現実的だと思われる』というリスクを冒している。人を愛そうとする人は『相手に愛してもらえないかもしれない』というリスクを冒している。そして今生きている人は皆『いつかは死んでしまう』というリスクを冒している。」  これを読む限り、「リスクを冒さずに生きること」はできないし、また仮にできたとしてもそれはとてもつまらない人生でしかないと言えるのではないでしょうか?リスクは人を成長させ、その人のうちに埋もれている可能性を掘り起こす助けとなるものです。人生で偉業を成し遂げた人々の人生は、しばしば苦難とリスクに満ちていました。  神は私たち1人1人を、心を込め愛を込めてお造りになりました。『愛』というのは「相手を甘やかす」ということではなく、「常に相手の最善を願う」という意味です。ですから神は、私たち1人1人が『自己最高の人生』を生きられるようにと、時に応じて試練をお与えになります。私たちがその試練に勇敢に立ち向かい、敢えてリスクを冒すことによって、それまで私たちの内に眠っていた可能性を呼び覚ますためです。そして私たちがその試練の渦中でどうしても助けが必要となり、神を呼び求める時こそ、私たちが『神との新しい出会い』を体験する機会となるのです。

(653) “この世と調子を合わせてはいけません。”

 日本には「出る杭は打たれる」という言い回しがありますよね?調べてみるとどうやら江戸時代から存在する言葉らしく、「異質なものを排除しようとする社会の風潮」を言い表しているようです。  私は20歳の時にキリストと出会いクリスチャンになりましたが、それ以前の学生時代いつも心の中で「自分らしく生きたい。正しいことを正しいとし、間違っている事には断固として『No』と言いたい」と感じてはいたものの、大抵の場合いつのまにか周囲に流されてしまい、「本当はこうありたいのに…」というジレンマに悩まされていました。ところがクリスチャンになった頃からそれが変わり始めたのです。周囲がある方向へと向きかけた時、自分の心の中で「何かおかしい」と感じた時に、それを思い切って口に出すことができるようになってきました。また、道を歩いている時や公園を散歩している時などにゴミ屑が落ちているのを見かけると拾ってゴミ箱に捨てに行ったり、独りぼっちで寂しそうにしている人に声をかけたりするようになりました。今振り返って考えてみると、「唯一全能の神が自分と共におられて見守ってくださっている」ということが、心の中で強い確信になり、いろいろなことに自信が持てるようになったのだと思います。(その後、30年の外国生活を経て、このユニークな性格は更に助長されているようですが…)  神は私たち1人1人を「ご自身のかたちに似せて」、しかも「ユニークな存在として」創造なさいました。しかし『この世の風潮』はそのような貴重で尊い存在である私たちを『この世の型』に押し込めようとする傾向があります。この圧力から脱するには『神の助け』が必要です。「イエス・キリストを救い主として受け入れる」とは、単に「天国への切符を手に入れる」ということではなく、「この世にあって『神の子』として、父である『神』の栄光を表現しながら生きる者とされたこと」も含んでいます。神は私たち1人1人を通して成し遂げたいご計画をお持ちなのです!

(652) “母はこれらのことをみな、心に留めておいた。”

 この記事を読んでおられる皆さんは、今度の日曜日が『母の日』であるということをご存知でしょうか?『父の日』は国によって違うようで、日本では「6月第2日曜日」ですが、ここニュージーランドでは「9月第1日曜日」です。しかし『母の日』は世界共通して「5月第2日曜日」に祝われています。『母の日』の起源はあまり古くなく、20世紀初頭にアメリカで『アンナ・ジャービス』という女性が、亡き母を偲んで白いカーネーション贈ったという出来事によるもので、アメリカでは1914年に祝日として制定されました。日本では1937年頃から広まったようです。  実は今朝、教会が主催している「若いお母さんたちの集い」で聖書のお話をさせていただくにあたって、10人くらいのお母さんたちに「皆さんは今度の日曜日が何の日かご存知ですか?」とお尋ねしたら、皆お互いに顔を見合わせながら「何の日だっけ?」と全く心当たりがない様子でした。これには私も驚かされました。恐らく皆さん「感謝される」という見返りなど気にも留めずに、日々『母親業』に没頭しておられるのでしょうね。  聖書では『母親だけ』にフォーカスを当てた教えはあまりなく、大抵は『両親双方』に対して書かれています。ただ興味深いのは、イエスの母マリアに関してはいくつかの記述があり、神の不思議なみわざによって「処女であったにも関わらずイエスを身ごもり、出産した」せいかイエスが幼い頃から1つ1つのエピソードを「心に留めておいた」と書かれています。イエスの地上での人生の1番の理解者は、きっと「母マリア」だったのでしょうね。『ネグレクト』や『毒親』などという言葉で母親の「不適切な子育て」が騒がれている昨今ですが、一般的にはやはり「子供に対する母親の愛情と労苦」は、多大な評価と称賛に値するものではないでしょうか?  世の『お母さん』たち、本当にありがとう!皆さんはこの地上において「人類を創造された神のみわざの大切な一端を委ねられている存在」です。これほど価値ある使命は、他にはありません。あなたがたの日々のたゆみない労苦の1つ1つに、神様が豊かに報いてくださいますように!

(651) “わたしを呼べ。そうすれば、わたしはあなたに答え、あなたが知らない理解を超えた大いなることを、あなたに告げよう。”

 皆さんは『コバンザメ』という魚をご存知でしょうか?頭に吸盤のようなものが付いている魚で、大きなサメのあごの下(時には逆さまになって、サメの頭の上)に貼り付いて移動することができます。  コバンザメは、サメのあごの下に貼り付いてしまえば、もはや食べ物の心配をする必要がありません。サメが獲物を捕らえて食べる時に口からこぼれ落ちる食べかすをいただくことができるからです。また自分で苦労して泳いで移動する必要もありません。本来自分では行くこともできないような遠くまで、サメが連れて行って(?)くれるからです。しかも敵からの攻撃にビクビクしている必要もありません。何よりも強い味方がいつも一緒にいるからです。  もちろんコバンザメは、自分で食料を捕まえることもできなくはないし、泳ぐことだってできます。でも敢えてサメに貼り付くのです。何故ならその方が「自分の力では到底無理なご馳走にありつけるし、辿り着けないような場所へと移動もできるし、何よりも身の安全が保障されるからです。  これはまるで、神に信頼し、ひたすら神に寄り添って歩む私たちの人生のようです。私たちは「神の口から『こぼれ落ちる』生けるみことば」によって日々養われ、神の導きに従って「自分では思ってもいなかったような人生の高み」へと引き上げていただくことができ、どんな試練や敵が襲って来ても、恐れる必要がないのですから。  コバンザメと同様、私たちは自分の力でも「それなりの人生」を歩むことができます。けれども「自分の思いを超えたような豊かな人生」を、全能の神の御手に守られて生きる方が、遥かに優っていると思いませんか?

(650) “この方は恵みとまことに満ちておられた。”

 聖書の神のご性質で際立っていることの1つは『約束を必ず守る神』ということです。神は聖書の中で「個人に」「民族に」、そして「すべての人々に」対して様々な『約束』をされています。そのいくつかはすぐさま成就し、多くは何年か後に成就し、そして将来やがて成就するもの(『神の国の到来』など)もたくさんあります。  私たちもよく『約束』をしますが、結構守れないことがありますよね。都合が悪くなったり、自分の力不足が原因だったり、単に忘れてしまうこともあるわけですが、神には決してそういうことがありません。ある意味神は「自分の名誉にかけて」必ずご自分の約束を守られるのです。  ところで「必ず約束を守る」と聞くと、逆に「融通が利かない」というイメージもありますよね?いわゆる『お役所主義』という感じで、「前例がないから」とか、「そういう決まりだから」といった感じです。では『神の約束』も同様なのでしょうか?その答えは『イエス』&『ノー』です。  神は「絶対的に正しく、決して自分自身をごまかしたりしない方」ですから、人の顔色や言葉によって動揺したりうろたえたりすることはありません。ですからいわゆる「時と場合によっては変更もあり得る」というようなことはありません。ただそれと同時に神は私たちに対する「愛に満ちたお方」なので、常に私たちの最善を見越して備えをしてくださる方でもあります。すなわち『神の約束』自体がそもそも私たちの最善のためになされているのですが、神は私たちの弱さをもご存じなので、そこには『バックアップ・プラン』があるのです。その代表的な例が『十字架』です。神と人との間には「人は『罪』の代償を『死』で支払わなければならない」という『不動の契約』がありましたが、私たちが負うべきその『死』を、罪のないご自分のひとり子イエスに身代わりに負わせることによって、ご自身の『約束』を破ることなく、私たちを救うことにされたのです。  神は「必ず約束を守られるお方」だからこそ、私たちはこの神に全幅の信頼を置くことができると同時に、心からの誠実さをもってその愛に応えて行くべきなのです。

(649) “互いに親切にし、優しい心で赦し合いなさい。”

 本当に不思議なことですが、何故か私たちは「人から受けた親切」はすぐに忘れてしまい、「裏切られたり傷を受けたりしたこと」ほど、いつまでも覚えているものです。しかしそのような生き方は私たちに何の益ももたらしません。  こんな話を聞いたことがあります。ある友人同士の2人が砂漠を旅していました。途中でちょっとした口論になり、1人がもう1人の方の頬を平手打ちにしました。打たれた方は何も言わずにただその場にしゃがんで、砂の上に「今日友だちが私の頬を平手打ちにした」と書きました。2人は一緒に旅を続け、やがて水のあるオアシスに辿り着きました。2人ともとても喉が渇いていたので水辺に殺到しましたが、ついさっき頬を打たれた方が勢い余って水の中に落ちてしまい溺れかけました。驚いたもう1人は水の中に飛び込んで溺れていた友人を助け出しました。その夜助けてもらった方の人が平たい石を見つけて来て、その表面に「今日友だちが私の命を救ってくれた」と刻みました。それを見ていた友人が彼に尋ねました。「キミはどうして昼間私が頬を叩いた時には砂の上にそのことを書き、今度は石に刻んでいるんだい?」 彼は答えました。「誰かに嫌なことをされた時は、それを砂に書くのがいいんだよ。そうすればいつか『赦しの風』が吹き消してくれるだろ?でも良いことをしてもらった時はこうやって石に刻み付ければ長く覚えていられるからさ。」  憐れみ深い神は、ひとり子イエス・キリストの十字架における代償によって、私たちの『不信仰の罪』を赦してくださり、今日も憐れみの眼差しで私たちを見守ってくださっています。私たちもこのように「憐れみを受けている者」として、人々から受けたイヤな傷を忘れ、親切な行いを心に留めて生きて行きましょう。

(648) “すべての良い贈り物、またすべての完全な賜物は、上からのものであり、光を造られた父から下って来るのです。”

 私は毎週日曜日の教会の集いの時に聖書のお話をさせていただいていますが、その冒頭に必ず言うことばがあります。それは、「私たちの天の父は『良いお父さん』なので、そのご性質上、愛する子供たちのために最善以外をなさることはできません」というものです。これは聖書の言葉そのものではありませんが、聖書全体から汲み取ることのできる重要な真理です。  私たちは「人間としての性質上」意地悪もできますし、子供たちに最善を施したくても「経済的・能力的限界」のゆえに必ずしも与えてあげることはできません。しかし私たちの『天の良いお父さん』である神は、私たちの思いを超えた次元でいつも『最善』を施してくださるのです。「ホントかな?」と疑う方もおられるかもしれませんが、それは『神』という方をよく知らないからです。この方を知れば知るほど、上記の言葉が「間違いない!」と信じられるのです。  かなり無理があるのですが、1つのたとえを考えてみましょう。大抵の方には「とても大切な人」という存在が1人くらいはいると思います。そして恐らくあなたはいつもその人の『最善』を望んでいる事でしょう。ところがあなたには能力的にも経済的にも限界があり、またその人と「いつも一緒にいてあげること」もできません。時には意見の食い違いから口論になり、心に苦々しさが残って、「ちょっと意地悪してやろうかな」と思うかもしれません。けれどもなかなかその機会がなく、そうこうしているうちに仲直りし、意地悪をしないで済んだことに胸を撫でおろすことでしょう。  私たちの神は、ご自分のひとり子イエス・キリストを私たちの罪の身代わりに十字架にかけられるほどに、私たちをこよなく愛してくださっている方です。そしてご自身の望む通りのことを、何の限界もなく実現することのできる方です。そして私たちの将来を見通され、決して後悔などすることなく、1番良いタイミングで1番良いものを提供することができる方なのです。それ故「最善以外はなさらないなんて嘘だ!」などと考える方がおかしいのです!  仮に「実は神はそんな方ではない」ということだったとしても(そういうことは決してないのですが…)、「神は私にいつも最善を施してくださっている」と本気で信じることに、どんな不都合がありますか?不都合がないなら、ぜひそう信じて日々を精一杯生きて行きましょう!