
私は若い頃(20代の頃)に「自分の人生における『神のみこころ』とは何だろう?」というようなことをよく考えたり祈り求めたりしていました。そして60台になった今「私は『神のみこころ』に沿って生きてきただろうか?」などと考えたりするわけですが、そのような考え方の根本には、「人生において『神のみこころ』という何か特別なイベントがある」というような固定観念があるのだと思います。
果たして『神のみこころ』とは、そのようなものなのでしょうか?もしそのようであるなら、あるクリスチャンたちは「人生において多くの『神のみこころ』を成し遂げた成功者」であり、別のクリスチャンたちは「ほとんど『神のみこころ』を成し遂げられなかった落第生」ということになります。
私は、『神のみこころ』というものはそのような「特定の行ないや出来事」ではなく、むしろ「日々の生き方」ではないかと思います。イエス・キリストは十字架にかかられる前夜、その恐ろしさにたじろぎながら「父よ、この杯(十字架にかかること)を私から取り除けてください。しかし私の願いではなく、あなたのみこころの通りにしてください」と祈りました。この「自分の願いもあるけれども、神が別のことを望んでおられるなら、敢えてそちらの道を歩もう!」という、神の前に明け渡した、神に信頼し従おうとする姿勢こそが「『神のみこころ』を生きる」ということなのだと思います。
もしそうであるなら、『神のみこころ』を行う機会は、「ある特定の時、特定の人に対して」ではなく、いつでも、どこでも、誰に対してでも表現することのできる、大変身近なことになるわけです。さあ、今日も周囲をよぉく見渡しながら、神に信頼しつつ思い切って『神のみこころ』を実践して行きましょう!
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