聖書は、私たち人間は本来『3重構造』(肉体・精神・霊)だと教えており、またこの最も内側にある『霊』の部分が生まれつき死んでしまっていると言います。この『霊』こそが神を認識する部分であり、人間が「神に造られた存在」として本来の『いのち』にあふれて生きるようになる源です。

 同じように、私たちの神に対する『信仰』にも、「生きた信仰」と「死んでしまっている信仰」があるのだと、聖書は教えています。それでは、「死んでしまっている信仰」とは、一体どのようなものなのでしょう?

 『信仰』とは、単に知識として「神を知っている」、また「神の存在を信じている」といったものではありません。『信仰』とは、私たち人間と、生きとし生けるものすべての根源であられる『神』とを結ぶ管のようなものです。この「いのちの源であられる神」としっかりつながっているなら、おのずと『神のいのち』が私たちの内に注ぎ込まれ、満タンに充電された家電製品のように、その託された役割を存分に果たすことができます。「行いによって神につながろうとする」のではなく、「神とつながっているからこそ、行いとして現れる」のです。

 ところが、この「神との間を結ぶ管」が不純物によってつまってしまっていることがあります。その不純物とは、私たちの『高慢な心』だったり、自分勝手な『誤った思い込み』だったりします。口では「神を信じている」と言いながら、自分の人生を自分勝手な考えに基づいて築き上げようとしたり、あたかも神を「困った時だけ頼りにする『便利屋』」のように扱って、事が自分の思い通りに進まないとすべて神に責任転嫁しようとするような態度がそれです。

 『生きた信仰』とは、人生の主権を神に委ね、今日も生きて働かれる神の語りかけにワクワクしながら耳を傾け、分かったことを喜んで実践する、「神との生きた関係」の中で歩むことなのです。

Categories: 聖書

0 Comments

Leave a Reply

Your email address will not be published. Required fields are marked *