(100) “あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。”

皆さんは『愛』という言葉を聞くと、どんなイメージを思い浮かべますか?恐らく多くの方々は「男女間の愛」を思い浮かべるのではないでしょうか?または「親子の愛」「人間愛」、そしてまた「愛は地球を救う」などの標語まで思い浮かべる方もいるかもしれませんね。どちらにしてもそこに共通している概念は「何か崇高で温かいもの」ではないかと思います。 もしかするとある方々は「私はそんな立派な人間ではないから・・・」とか、「愛とか恋とか、そんな乙女チックなことばかり求めていたら食っていけない」などと言って『愛すること』を敬遠しようとしておられるかもしれません。しかし実際は『愛する』ということは、「夢を追うようなこと」でも「非日常的なもの」でもありません。もし『愛する』ということをもっと分かりやすい日常的な言葉に言い換えるとすれば、それは「相手のためにちょっとだけ損をすること」なのです。 現代の私たちの生活は、100年前に比べれば格段に『便利』になりました。ところが「便利になったのならさぞかし暮らしにゆとりができたはずでは?」と問うてみるなら、決してそうではないことは歴然です。『便利さ』は更なる能率性を追求させ、現代人の生活は忙しさに追われ、「自分のことで精一杯」の人間を生み出し続けています。ご存知でしたか?『忙しい』の『忙』の文字は「心が亡びる」ということを意味しているのです。 神は私たちを「互いに愛し合う」ようにデザインなさいました。自分のことばかりにかまけていると「心が亡びる」ようにお造りになられたのです。実際、道端で助けを求めている人にちょっとだけ手を貸すのに、5分もかかりません。けれどもそのたった5分を他の人のために用いるだけで、私たちの心は息を吹き返すのです。 私たちは今日までどれほどの「心を亡びから免れさせるチャンス」を逸して来たことでしょう。でもガッカリしなくても大丈夫。今日から始めれば良いのです。神様はいつでも「愛する機会」をくださっています。もし私たちが『目を覚まして』歩んでいるのなら・・・。そしてイエス・キリストはこう言われました。「あなたがこれらの人々にしたのは、わたしにしたのです。」

2013年11月10日 「自分ではなく、キリスト」

メッセージをダウンロードして聴く 説教あらすじ         「自分ではなく、キリスト」    (10/11/2013) [ガラテヤ 1:11-17]    *ここからしばらくパウロは、自分の証をしながら「何故自分ではなくキリストなのか」を語っている。 ◆私たちは主のもの [13節]    ・『神の教会』    「パウロの回心の証」[使徒9:1-9] イエスは「わたしを迫害している」と言われた。    ・私たちは2つの理由で「主のもの」。[詩100:3,イザヤ43:1]    しかし実際はそれ以上の存在! ◆恵みによって召された   ・パウロは断食していた3日間(使徒9:9)何を考えていたのか?     「人生をかけていたことが間違っていた!人を死に追いやることさえした!」(特に男性にとっては死活問題)     『生きるにふさわしくない自分』に気付いたとき、真の意味で『キリストの恵み』が分かった。   ・[14~16節]「生まれたときから選び分け、恵みをもって召してくださった方」      だからこそパウロは、「神の恵みによる招き」に対して、その『恵み』を拒み「自分の力でその資格を      主張しようとする姿勢」に陥ろうとしているガラテヤ人に対して、激しく抵抗している。 ◆「理にかなう神」ではない!   ・パウロは人一倍ユダヤ教に精通していた(14節)のだから、ユダヤ人宣教に召されてしかるべき。    神はこの世でいう『Logical』な方ではない!「理にかなったこと」ではなく、「みこころにかなったこと」をなさる。   ・「何をして生きるか」は重要ではない!何をしていても(愚かに見えても)キリストが輝き出ていることが重要。 ⊚私たちの人生は「神の恵みによる選び(召し)」に対する「信仰による応答」である!     Outline of the sermon    “It’s no longer me, but Christ.”   (10/11/2013) [Galatians 1:11-17]    *From this paragraph Paul is sharing “Why it’s no longer me, but Read more…