(103) “あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神が、あなたがたのことを心配してくださるからです。”

1つのなぞなぞを出します。「それをしても少しも得をしないどころか、損をする一方なのに、ついつい時間や力をたっぷり費やしてしまうもの、なぁんだ???」 何だか分かりますか?その答えは『思い煩い』です。 私たちは、いくら考えてもどうしようもないことを、ついつい思い煩ってしまいます。「受験に失敗したらどうしよう?」「このまま結婚できなかったらどうしよう?」「会社をクビになったらどうしよう?」などなど。どれも悩んだからといって事態が好転するものではなく、また実際に起こったからといって、命を失うような大事でもありません。では私たちはどうしてこのような『思い煩い』に捕まってしまうのでしょうか? 次の3つの理由が考えられます。 ①私たちは『現在』にしか生きられないから ・『思い煩い』はみな、「過去」または「未来」に関することです。「あんなことをしなければ良かった…」とか、「こんなことが起こったらどうしよう…」などなど。私たちにはどうしようもないことがらなので、ただ思い悩むことしかできないのです。 ②自分が『人生の主人公』だと思っているから ・人間は基本的に『自己中心的』であり、「自分の人生がどうなってしまうのか」が最重要事項になっています。ですから、たとえ家族や友人が幸運に恵まれていても、かえって自分の状況が心配になってしまうのです。 ③『出来事』に興味が集中しているから ・「人間は環境の動物」などと言われる通り、私たちは自分の内面を整えることより、外側の環境(外見・経済状態・持ち物など)を整えることにほとんどの時間と労力を費やしているので、それらを思い通りにできない時、対処する知恵がありません。 聖書は私たちに「思い煩うな!」と告げています。ということは、私たちが「思い煩わないでいること」が神のみこころなのです。言葉を変えて言うならば『思い煩い』とは、神を信じない(不信仰の)姿勢から発生する弊害です。神はこの全世界を創造され、今日もそれらすべてを支配しておられます。また彼は時間や空間に縛られてはいません。今ここで私たちと共におられると同時に、100年前や100年後にも存在することのできる方なのです。この神が「私こそアナタの人生の主役だ」とおっしゃるのです。私たちの人生は「私たちがどれほどの人間か」を顕示するためではなく、「私たちの神はどれほどのお方か」を表現するためのものなのです。そして聖書は「人はうわべを見るが、神は心を見る」と宣言します。出来事が問題なのではなく、その背後にある『人々の心』こそ重要なのです。敬虔な神のしもべとして有名なマザー・テレサは言いました。「『どれだけのことをしたか』は問題ではありません。大切なのは『どれだけ心を込めたか』です。」 この聖書の神をあなたの神として、このお方に全面的な信頼を置いて生きるとき、初めて人間は『思い煩い』から解放されるのです。

2013年12月1日 「神からのアプローチ」

ごめんなさい!メッセージの録音を忘れました… 説教あらすじ        「神からのアプローチ」     (01/12/2013) [ヨハネ1: 10-12] ◆「忘れられてしまうこと」の悲しさ   ・竜宮城から帰ってきた『浦島太郎』は、故郷に戻ったにも関わらず、誰も知っている人に会えなかった。   ・実話を基にした物語『The Vow(君への誓い)』では、新婚の妻が記憶を失ってしまう。昔の恋人のことは覚えているが、夫のことは忘れてしまう。夫の苦悩は大きかったが、それでも夫は『誓い』の故に踏みとどまる。 ◆神に対する拒絶 [10~11節]    ・神がこの世界のすべてをお造りになったのに、人々はそれを忘れている。仮に神の気配を感じたとしても、     自分の都合の故に、敢えて「創造主なる神」を認めようとしない。 ・『最大の親不孝』とは何か? ― 「非行」? 「先に死ぬこと」? 親を親として認めないこと ・神はなにも私たちを支配したりコントロールしたいと思っているわけではない。(親と同じ)  ただ、自分の存在を認め、神として敬って欲しい。そして日々私たちとコミュニケーションを保ちたい。    『罪』とは「神に対する拒絶」 ➝ その行く末は、「永遠にわたる神との断絶」。 ◆神からのアプローチ [12節]    ・今から約2000年前、神は究極の方法で私たちとのコミュニケーションを試みた。(『イエス』=「神は我が救い」)     そして私たちからの応答を強制せず、「私たちの選択」に委ねた。それは『愛によるアプローチ』だから。 ☆あなたはこの『神からのプロポーズ』を受け入れますか?     Outline of the sermon    “The approach from God.”     (01/12/2013) [John 1: 10-12] ◆ It is sad to be “Forgotten”.   ・In the story Read more…