(416) “味わい、見つめよ。主がいつくしみ深い方であることを。”

 あなたが「神をどういう方だと思っているか」が、あなたの生き方を形作ります。あなたが「神は意地悪で、私の失敗を見つけて罰しようとしている」と思っているなら、あなたはできるだけ失敗しないように気を付けるでしょうが、それでも失敗してしまった時、きっと絶望感に陥ることでしょう。しかしもしあなたが「神は慈しみ深い方で、私が最善の道を歩むことができるようにと導いてくださる」と思っているなら、あなたは多少の失敗にめげることなく、希望を抱いて前へ前へと進んで行くに違いありません。  ここで言う『最善の道』とは、「あなたをこの上ない状態にまで成長させ、潜在能力を完全に発揮させる道」という意味です。神は全知全能な方ですから、あなたにとって何が最善であるのかを、あなた自身以上によくご存じなのです。人生が自分の思い通りに運んでいない時にこのような「善である神」を思い浮かべることは難しいでしょうが、そんな時こそ私たちは「ご自身のひとり子をさえ、私たちの罪のために十字架にかけられた神」を思い起こし、『信仰』を働かせるのです。「今自分に見えているところは少しも『最善』には見えないけれども、神はこのような状況からも美しい花を咲かせることができる」と信じること、これが「聖書が教えている神」であり、『信仰』なのです!  「神が善であるなら、何故世界は現在このように破滅的な状態なのか?」 そのように感じている人たちが多いのではないでしょうか?確かにそうですよね。私自身も皆さんと同様に日々痛みを感じています。しかしそれと同時にもう1つのことも言えます。それは「この世においては『痛みや裂け目』なしに、本当に価値あるものは生まれない」ということです。種が蒔かれたら、その種は張り裂けなければ新しい命は生まれません。そして『産みの苦しみ』がなければ、新しいいのちの誕生もないのです。神がこの世においてご自身の『最善』を生み出すために、私たちは今「通らなければならない痛み」を経験しているのだと、私は信じて止みません。