何週間か前に『柔和さ』の話をしましたが、今日はこの『柔和さ』について、ちょっと違った面から考えてみたいと思います。

 正義感の強い人は、「自分にも人にも厳しくする」傾向があるように思いますが、これには「良い面と悪い面」があります。『良い面』とはもちろん、自分を律し、周囲の人々に対して良き模範を示すことができる点です。ところが人にはそれぞれ違った『弱さ』があります。「分かってはいるけど、どうしてもできない人」にとって、「私もできたんだから、キミにもできないはずがない!」と強要してしまうことは、時には相手を深く傷付けることになりかねません。

 上記に示した聖書の言葉の中の「自分自身も誘惑に陥らないように」というのは、何も自分が、正してあげようとしているその相手と「同じ過ち」に陥ってしまわないように、という意味ではなく、「知らず知らずのうちに、相手を蔑んだり、さばいたりしてしまわないように」という意味です。「相手を正す」とは、「相手をその過ちから立ち直らせる」ということであって、相手を糾弾することが目的ではないからです。

 私たちは、何度も警告を与えたにも関わらずそれに従わなかった人が失敗を犯すのを見た時、「だから言ったじゃないか!」とか、「そうなることは目に見えてたよ~」などと突き放してしまいがちです。しかし聖書の神は、私たちをそのようには取り扱いませんでした。彼は、神を認めず敬いもしないで自分勝手な道を進んで過ちを犯した私たちのことをあわれみ、ご自身のひとり子イエス・キリストのいのちによって私たちの『過ち(罪)』の代価を十字架によって支払い、私たちが正しい道へ進むようにと、共に歩んでくださる方なのです。

 『柔和な心』とは、相手の弱さを理解しつつ、それでも決してあきらめることをしないで、相手の可能性が最大限に発揮されることを求めて、相手に寄り添い続ける姿勢なのです。

Categories: 聖書

1 Comment

Mariko Kita · 2022-11-02 at 11:18 am

詳しい内容に驚きました。
私は、神様を信じていますが、私の中には聖霊はいないと思います。私は、神様をもっと身近に感じたいのですが、聖書をよんでも現実の生活を通して、神様の具体的なお言葉を頂いたことが無いので、二者択一の時は、どちらを選ぶのが良いのか?迷った時に、いのるのですが、わかりません。
聖書の読み方がまだ未熟なせいでしょうか?
洗礼をうけましたが、あまり教会へは、行けていまはさはさん。
もっと、悔い改めの祈りをしなければいけないのでしょうか?教えて下さい。

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