JCF25周年おめでとう!

2015年7月26日、サウスシティC3教会1階メインチャペルにて『JCF25周年記念礼拝』が行われました。当日は120人を越える人々が集まり、JCFの25年間の歩みを共に振り返りました。礼拝後はJCFスタート当初のレシピそのままに美味しいカレーライスが振舞われ、皆満足顔でした。参加してくださった方々、またお祈りくださった方々、本当にありがとうございました。そして何よりも、ここまで導いてくださった神様、本当にありがとう!!!

(177) “ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼(息子)を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。”

聖書は『ただ1人の神』について語りますが、しばしばそれは読み手である私たちが抱くイメージによっていろいろに様変わりします。ある人は『神様』と言えばすぐに「雲の上におられる白いヒゲの柔和なおじいさんで、何でもお願いを聞いてくれる」と思い描きますが、別のある人は『神様』と聞くと反射的に「怒りっぽい大王で、手にムチを持っていて、いつも私たちを見張っていて、失敗するとバチをあてる」とイメージします。 しかし聖書が私たちに伝えようとしている『神様』はそのどちらとも違います。イエス・キリストはまさに私たちのそのような誤解を解くためにこの世界に来られ、その教えと生き様とを通して『正しい神のイメージ』を私たちに伝えようとされたのです。彼が伝えた神のイメージ、それは言うなれば『愛に病む父』です。 神は私たち人間をお造りになられました。それは私たちが神との「愛の関係」を保ちつつ、この地上に増え拡がって行くためです。ところが私たち人間は「自分の益」に心を奪われ、神を見失い、他の人々への思いやりも忘れて「自分のこと」に終始するようになってしまいました。そのような私たちの様子をご覧になり、私たちの生みの親である『天の父』は日々心を痛めておられるのです。 神の求めておられるのが、単なる『従順な子供』としての私たちではなく「私たちとの愛の関係」であるため、神はそれを「無理強いする」ことができません。ただひたすら私たちがその愛に気づいてご自身の許に帰ってくるのを「待ち続ける」しかないのです。この『神の愛』に応えるためにあなたにできることは「一生懸命『良い子』を演じること」ではなく、この天の父の愛に向かって振り向いて「今までお待たせしてごめんなさい。これからはぜひ一緒に生きて行きますから、どうぞよろしく!」と言うことなのです。

2015年8月2日 「正しい神のイメージ」

メッセージをダウンロードして聴く 説教あらすじ       「正しい神のイメージ」     (02/08/2015) ◆神のイメージ ①柔和なヒゲのおじいさん(どんな願い事も叶えてくれる。いて欲しいときだけいてくれる) ②ムチを持った怒りっぽい大王(いつも私たちの行動を見張り、ちょっとでもミスをすると罰を与える) *聖書に描き出されている神のイメージは『愛に病む父』。 ・私たち1人1人をこよなく愛し、私たちからも愛されることを望んでいる。 ・『愛による関係』を望んでいるが故に、強制することができない。ひたすら待ち続ける父。[ルカ15章] ◆罪に対するイメージ ①罪を感知できない ― 何が罪だか解らないし、自分のどこがいけないのか、自覚がない。 ②自分で何とかしたい ― 罪の自覚はあるが、自分の責任なのだから、自分で解決しようとする。 ③あきらめ ― 「自分はどうせデキが悪い」とあきらめている。悩みたくないから放っておいて欲しい。 *「神の正しいイメージ」が「罪に対する正しい理解」へと導く。 「自分の今の状態が、神を苦し(悲し)ませている!」 ・そして『神の痛み』を理解するなら、その解決のために「神の側から差し出された和解」をも受け入れられる。 ◆「神の子」としてのイメージ  「良い子でいる限り大丈夫」? ・『神の子』とされているかどうかは、「私たちの立派さ」によるのではなく、「私たちの内に主イエスがおられる  かどうか」による。[ヨハネ1:12]  そしてイエスの約束は、「決して離れず見捨てない」。[へブル13:5] ・『神の子として生きる』というのは、「見放されないためにどうしたら良いか?」ではなく、「決して見放されない からこそ、どう生きたら良いか?」ということ。 ✯クリスチャン・ライフは、「いつも神を笑顔に保ち、その笑顔に笑顔で応えていくこと」   Outline of the sermon   “Have a right concept of God!”   (02/08/2015) ◆Who is God like? ①A very gentle old man Read more…

(176) “私は、いのちと死、祝福とのろいを、あなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい。”

神が人間に与えた最も『神秘的な能力』の1つは、恐らく「自由意志による選択能力」でしょう。神は人間をお造りになった時、ご自身の好みに合わせて動く「ロボットのような存在」を造ることもおできになりましたが、敢えて私たちのような『気分屋』で「その場の雰囲気に流されやすい」非常に危なっかしい存在として人間をお造りになりました。 私たちは1日の中で、様々な『思い』を持ちながら生きています。「もうそろそろ起きなきゃ…」とか、「お昼は何を食べようかな?」とか、「この仕事をどうやって定時までに終わらせられるだろう…」などなど。そのうちのほとんどの思いはたわいのないものですが、いくつかは私たちに大きな精神的プレッシャーを与えるものもあります。私たちは「自分の思いは、自分ではコントロールできない」と思いがちですが、決してそんなことはありません。実は神様はそのために私たちにこの神秘的能力である『自由意志』をお与えになったのです。私たちは日々繰り返される「自分の意志による選択」によって私たちの人生(人格)を形造って行くことが許されているのです。私たちは「その場しのぎ」の選択繰り返すことによっていわゆる『逃げの人生』を送ることもできますし、「しばらく後に得られるであろう大きな利益」を期待しつつ、敢えて忍耐を働かせて「正直で正しい選択」を繰り返していくこともできます。そしてこの『正しい選択』を助けてくれるのが、「神の言葉」である『聖書』であり、またその聖書が私たちに教えてくれる「私たちの神は善き父である」と信じる信仰なのです。 『正しい選択』は、初めのうちは多くの忍耐を必要とされるかもしれませんが、それを繰り返し行なっていくことによって習慣化し、より自然な形で正しい道を選び取っていけるようになるものです。この「繰り返し行なうことによって習慣にすることができる」というのもまた、神が人間に与えた『神秘的な能力』に違いありません。

2015年7月26日 JCF25周年記念礼拝

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2015年7月19日 「『新しく生まれた者』として」

メッセージをダウンロードして聴く 説教あらすじ       「『新しく生まれた者』として」     (19/07/2015) [ヨハネ3:1-8] ◆新しく生まれる [2~4節] ・私たちは『しるし』の中に神の働きを見出そうとするが、神の働きは「目に見える状況の変化」ではなく「新しい 創造」。まず『霊的(神の)領域』で始まったことが、やがて『目に見える(この世の)世界』に現れる。[ルカ10:20] ◆「水と御霊」によって生まれる [5~6節] [マタイ3:11] ・『水』:ヨハネが水で授けた「悔い改め」のバプテスマ。 「自分主権」から「神主権」、「見えるもの中心」から「見えない世界中心」へ ・『御霊』:イエスの御名の権威によって注がれる「聖霊による」バプテスマ。 ◆御霊の好むところ [8節] (『風』と『霊』は、原語では同じ) ①「イエス・キリストの父なる神」の主権を認めるところ [マルコ14:36] ②「神の子供たち」が真実に愛し合うところ [Ⅰヨハネ4:11-12]   スモールグループでの分かち合い ①「新しく生まれる」とは、どういうことですか? ・あなたは新しく生まれていますか? また、どうしてそう思いますか? ②御霊はどのようなところを好まれますか? ・「御霊の働きを見る者」とされるよう、互いのために祈りましょう。   Outline of the sermon   “Live your life as ‘a new creation’.”   (19/07/2015) [John 3:1-8] ◆Being born again. [Verses 2-4] ・We look for God’s Read more…

(175) “私を大いに祝福し、私の地境を広げてくださいますように。”

私たちが神に何かを祈る時、「災いを与えてください」とは祈りませんよね?普通は「私を祝福してください」と祈るはずです。そこまでは良いのですが、私たちは自分のための祝福や成功を祈りはしますが、「環境が変わること」や「新しいことに挑戦すること」は好みません。『現状維持』が好きなのです。 神は私たち人間を愛しておられます。そしていつでも私たちを祝福したいと願っておられます。神は私たち1人1人を通してご自身の『栄光』(神の優れたご性質)を表現したいと望んでおられるのです。それによって全世界が神の偉大さを知るようになるためです。ですから私たちが「大いに祝福されること」が神のみこころなのですが、それを手にする人々は多くありません。何故でしょうか?それは、神がご自身の『大きな祝福』を携えて「この祝福を受け取るために今抱えているちっぽけなものを手放す勇気のある者はいないか?」と探し回る時、その『今抱えているちっぽけなもの』を捨てて大胆に神に向かって名乗りをあげる者があまりいないからです。 聖書に「信仰がなければ神に喜ばれることはできない」と書いてあります。『信仰』とは、まだ見ていないものを深く確信して大胆に行動を起こすことです。私たちはあまりにも『目に見えるもの』に捕らわれすぎてしまって、神が与えようとしている「私たちの思いを超えた祝福」を信じられないでいるのです。ですから私たちはこう祈るべきです。「神様、あなたが私のために用意してくださっている『大いなる祝福』を受け取ることができるように、私に信仰によって新しい1歩を大胆に踏み出させてください!」

(174) “愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し…”

どんなに親しい間柄にも『意見の食い違い』はつきものです。本当の意味での『豊かな人間関係』というものは、「自分の本心を隠して相手に合わせること」ではなく、むしろ「相手を恐れずに自分の本心を正直に打ち明けること」から始まります。ここで非常に大切になるのが「『意見の不一致』や『口論』を正しく解決することのできる能力」です。 ちょっとした口論が原因で夫婦関係や親子関係、そして親しい友人関係に亀裂が入ってしまうことがよくあります。どうしてなのでしょう?それは「口論のフォーカスを『元々の原因』から『相手の人格』へと移してしまうこと」に大きな原因があります。例えばよくあるパターンは「全くアナタはいつもそうなんだから!」とか「お前のそんなところは、お前のお袋にそっくりだ!」などという捨てゼリフで口論を終わらせようとすることです。そうではなく、むしろ「夕食に遅くなる時は、ちゃんと連絡して欲しいわ。せっかく出来たてのお食事を食べさせてあげたかったのに…」、または「昨夜のパーティの時、皆の前でキミに言われたことに、ボクはとても傷ついたよ」というように、問題の焦点をはっきりさせた発言をするのです。どちらの場合も双方に『怒り』『悔しさ』『驚き』などがあることに変わりはありませんが、少なくとも言われた方は「何をどう反省し、どのように自分の行動を変えたらよいのか」が分かるので、関係を成長させるきっかけがずっとつかみやすいのです。 大切なことは「口論に勝利すること」ではありません。「不一致の原因を突き止め、それを共に克服し、お互いの関係を成長させること」です。そして相手をおもいやる『愛の心』をもって、あなたの怒りの原因を正確に伝えるならば、あなたの言葉は相手にとってずっと受け入れやすいものとなるのです。

2015年7月12日 「神の豊かさを体験する」

メッセージをダウンロードして聴く 説教あらすじ       「神の豊かさを体験する」     (12/07/2015) [エペソ3:16-21] ◆『神の満ち満ちた豊かさ』を体験するために ①「人の思い」に捕らわれない [20節] ・私たちが人生で価値あるものと思っているものは… 「自信」「財産」「技能」 etc ②この豊かさは「キリストのうち」にある [コロサイ2:9-10] ・神はイエスによってご自身を明らかにされた。御子が与えられた時に、すべてが与えられた。[ローマ8:32] ③『恵みの世界』に生きる [ヨハネ1:16] ― 恐ろしく、素晴らしい ・神の豊かさから受けるために、私たちにできることは何もない。 「信じること」と「求めること」だけ。 ・すべて「ただで」受けられる。 ➝ 「ただで」分け与えることを期待されている。[マタイ10:8] ④神の目的に従って [20~21節] ― 教会(私たち)とキリストとが並び称されている! ・私たちは『神の栄光(臨在)』を現すために造られ、選ばれ、また神の豊かさを受けている。 ・『神の栄光(臨在)』は「キリストのからだである私たち1人1人」が神の主権を認め歓迎するところに現され る。自分たちの評判や益を求めるところには、神の臨在は伴わない。[イザヤ42:8]   Outline of the sermon   “Experiencing ‘the fullness of God’.”   (12/07/2015) ◆To experience “the fullness of God”. ①It surpasses our thoughts. [Verse Read more…

(173) “私たちは見るところによってではなく、信仰によって歩んでいます。”

『信仰』というと、何だか分かるような分かんないような、あやふやなものといった印象があるかもしれませんね。1つの解りやすいたとえは、「盲導犬に信頼する盲人の感覚」でしょうか? なぜ盲人は盲導犬に信頼するのでしょう?それは盲導犬は盲人には見えないものが見えるからです。そして盲導犬は「いつ・どこで止まり、どちらへ向きを変え、どのタイミングでまた歩き出すのか」を、ハーネスを通して盲人に伝え、盲人はそれを注意深く受け取り、それに全幅の信頼を寄せて行動するのです。これが、もし「おかしいな。いつもはこの角でこんなに長く止まっていることはないのに…。これはきっと犬が何か勘違いしているか、または私に意地悪しているに違いない。こんな奴に従ってまごまごしているわけにはいかない。自分の感覚に頼って、もう行ってしまおう!」などと、盲導犬に逆らって進もうものなら、たちまち私たちの人生は危険にさらされてしまいます。 私たちが神に信頼して歩む人生もこれによく似ています。私たちには1秒先のことも解りません。そういう意味ではまさに『人生に関する盲人』のようなものです。それなのに私たちは無謀にも先を急ぎたがります。「なぜこのタイミングでこんなに長く待たなければならないのだろう?もっと早く進んでいきたいのに…」とじれったく思うこともあるでしょう。しかしそれは、今急いで先に進むと、何か危険が潜んでいるからに違いないのです。 神は時空を超えた方です。また彼は私たちを深く愛し、慈しんでおられます。誰よりも私たちの最善を望み、そして導いてくださる方なのです。ですから、盲人が盲導犬に深く信頼して、その歩みを任せているように、「神は私よりも優れた方である。また彼は私を愛し、私のために最善の道を歩まそうとしておられる」そう信じて、自分の感覚よりも『神の導き』を敢えて選んで進むこと、これが聖書の教える『信仰』なのです。