(66) 恐れるな。わたしはあなたとともにいる。

たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。 動物園でクサリにつながれたゾウを見たことのある方は、次のように感じたことはありませんか?「ゾウだったら、あんなクサリ簡単に引きちぎって逃げ出してしまえそうなのに…」 実際その通りです。ただ、動物の調教師たちはちゃんとわきまえていて、まだほんの小さな子ゾウの時からクサリにつないでおき「このクサリは決して引きちぎることはできない」と思い込ませることによって、ゾウが逃げ出すのを防いでいるのです。 さて、ゾウが逃げ出せないのは良いことですが、同じようなことが私たちの人生にも多々あります。すなわち「私たちの思い込みが、私たちの可能性を制限してしまう」ということです。もっと具体的に言うなら、「私たちの心の中にある『恐れ』が、私たちの夢の実現を妨げる」のです。 私たちは皆「失敗」を恐れます。ある人々は「拒絶されること」を極端に恐れます。また、人から笑われたり、バカにされたりすることを歓迎する人はいません。しばしば私たちは、やってみる前から「どうせできっこない」とあきらめてしまいます。全くその通りです。やってみる前から「できっこない!」と固く信じている人がチャレンジしたところで、成功することは恐らくないでしょう。しかし実のところ、私たちが抱いている『恐れ』というもののほとんどは、全く根拠がない、漠然としたものなのです。 ところが聖書は、「私たちは『恐れ』を乗り越えることができる」と教えます。その第1の秘訣は、「神が私たちに何かを与えようとしておられる時、それを妨げることのできるものは何もない」と信じることです。「恐れを乗り越える」とは、「もう失敗することはなくなる」ということではなく、「神が与えようとしているもの以下で甘んじてしまおうとする誘惑に、『No』と言う」ということです。 神は私たち1人1人に特別(ユニーク)なご計画を持っておられます。しかし悪魔は何とかそれを計画倒れにさせようと、必死になって私たちの心に『恐れ』を投げ込んでくるのです。ですから「神が用意された優れた人生」を歩むのは、心から神に信頼して生きる者たちだけに与えられた『特権』なのです。

(65) 私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。

私は…あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。 もし『お金』というものが幸せの条件なのだとしたら、お金持ちの人は他のどんな人々よりも幸せだということになりますよね?ところが残念ながら統計はそれを示していません。幸福に暮らしている人の多くは、お金を追求したことによってではなく、「神様から与えられる生きがい」を追求することによって、それを得ているのです。 『幸福な人々が知っていること』という本の中で、ダン・ベーカー博士は次のように言っています。「私のある友人はすべての物を持っているように見えた。お金、自由、そして友人や家族…。しかし彼は最も欲していた物を手にしていなかった。それは『幸福感』である。彼の家庭生活は惨憺たるものだった。子供たちとはほとんど会話がなく、妻は仕事に忙殺される夫に対して不満がいっぱいだったのである…」 一体この男性の関心事はどこにあったのでしょうか?それは「与えられたものを活用する」のでなく、ただ「蓄えることに一生懸命」だったのです。 この話を聞いてある人は「いやぁ、それはその人が贅沢だっただけで、私だったらそれだけの条件が揃っていたら絶対に幸せになれるさ!」というかもしれません。けれど、決してそんなことはありません。『幸福感』は決してお金では買えないのです。どれほど財産を増し加えても、心にはいつもこんなささやきが聞こえてきます。「まだまださ。もっと儲けなきゃ、まだ安心できないよ。」 一体『幸福になる秘訣』とは何でしょうか?聖書は「それは物を集めることから来るのではなく、私たちの命の源である神様から来る」と言っています。神様は私たち人間を、1人1人目的を持ってお造りになりました。私たちがその「神が私のために用意してくださっている人生の目的」を追求して生きる時、お金その他の物はすべて2次的なものに過ぎません。あなたの人生を確固たるものとするのは「神の与える救い」「内面的な(霊的な)成長」「豊かな家族との関係」「心を分かち合える友」、そして「神から与えられた使命を全うしている、という実感」なのです。神を喜ばせることを熱心に追求している人で、心に喜びと幸福感を持ち合わせていない人に、私はまだ1度も会ったことはありません。

(64) 試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです。

アメリカにある「イエロー・ストーン国立公園」に、『ロッジポール・パイン』と呼ばれる珍しい松の木が生えています。この実であるいわゆる「マツボックリ」は、実ってから地上に落ちてくるまで何年もかかり、その後もしばらく堅くその実を閉ざし続けます。この実が開くのは非常な高温に取り囲まれた時だけなのです。 例えば「山火事」などが起こり、森のすべての木々が燃え尽きてしまったような時、その炎の中でこの松の実は開かれ、死んでしまった森林をもう1度よみがえらせるための最初の種となるのです。 多くの場合、私たちの内に秘められた潜在能力というものは、大きなピンチや抑圧に出くわして初めて見出されたり発揮されたりするものです。私たちは、予期せぬ試練に見舞われた時、思わずも「どうして私がこんな目に合わなければならないの?」とか、「もし本当に神様が私を愛しておられるなら、どうしてこんなことが起こるの?」などと言いがちです。その質問にお答えしましょう。そのようなことがあなたに起こったのは… ①あなたが知らなかった神様の更に深い側面は、激しい試練の中でこそ経験できるから。 ②単なる炭素がダイヤモンドへと変化するためには、耐えられそうにないほどの熱と圧力を通されなければならないから。 そして ③すべてを失って、もはや誰もあなたのことを顧みてくれなくなったとしても、「神様だけはあなたを決して見捨てることはない」ということを、あなたが経験するためなのです。

(63) 私たちのために、ぶどう畑を荒らすキツネや子狐を捕らえておくれ。

しばらくの間商用で出かけていたある人が、久し振りに友人である『天才彫刻家ミケランジェロ』のアトリエを訪れて驚きました。ずいぶん前から手掛けているはずの作品が、全く進んでいないように見えるのです。思わず彼は言いました。「一体どうかしたのかい?その作品、以前から全然進んでいないじゃないか!」 すると天才彫刻家は答えました。「何を言ってるんだい?キミがこの前来てくれた時から、毎日せっせと作業を進めているよ?」 友人はあきれて言いました。「何だって?一体この作品のどこを進めているって言うんだい?」 ミケランジェロは説明を始めました。「いいかい、まずこのところのラインを以前より柔らかくしたし、この唇のところを前よりも真っ直ぐにしたし、筋肉の様子をもっとはっきりさせたし…」 友人は最後まで聞いていることができずに言いました。「そんなの全部、ささいな部分ばかりじゃないか!」 そこでミケランジェロは微笑んで答えました。「そりゃあ『ささいなこと』かもしれないけど、そのささいなことをすべてやり遂げなければ、作品は完成しないじゃないか!」 私たちの人生の『ぶどう畑』を荒らすのは、大きな野獣ではなく『子狐たち』です。幸せなスタートを切った結婚生活が崩れ始めるのは「夫や妻が、相手の小さな親切に『ありがとう』の言葉を忘れてしまうようになった時」であり、陸上選手が競技に敗れるのは「ほんの小さな歩幅がズレてしまったとき」なのです。私たちは人生の「大きな構図」を描くことや、神様にその夢をかなえてもらうことに夢中になりすぎて、一見大したことには思えないような日常の出来事に『愛』と『誠実さ』を込めて取り組むことをおろそかにはしていないでしょうか?神は「小さいことに忠実な人々」にこそ、「大いなることを任せてくださる」のです。 さあ、あなたが今日捕まえなければならない「子狐」は何でしょう?誰かに対して抱いている『ちょっとした苦々しさ』? 「これくらいなら…」と、いつも大目に見てしまっている『ささいな悪癖』? それとも、つい軽はずみに言ってしまう『出まかせ』? それらを注意深く見張って、捕まえて追い出してしまいましょう! きっとあなたの人生に決定的な変化が訪れるはずです。

(62) 自分たちの間で、自分を量ったり、比較したりしているのは、知恵のないことなのです。

多少の『競争心』は悪いものではありません。子供が漢字テストで良い点を取るために頑張って漢字練習をしている様子は、微笑ましくもあります。より良い点数を取ることによって励まされたり、自信を付けたりすることは、その後の人生にも役に立ちます。しかし、その『競争心』が高じて、「俺はアイツより優っている」とか、「私はあの娘に比べてダメダメだわ」などと一喜一憂するようになっては少々行き過ぎでしょう。 自分の存在価値を正しく評価するためには、まず「自分は神様によってユニークに造られた」ということを知ることが大切です。例えば、バレーボールのチームに所属してプレーをする場合、自分の持ち場によって役割が変わってきます。アタッカーとレシーバーは全く役割が違いますが、勝利するためには、どちらも欠かせません。レシーバーが相手のチームの得点を阻むことは、アタッカーが得点を決めるのと同様に価値があります。もしかするとアタッカーの方が目立つためにより賞賛を受けるかもしれませんが、勝利はチーム全員のものです。もしチームの各メンバーが互いに競い合ったり、比較し合ったりしていたら、勝利の喜びはどこかに消えてなくなってしまいます。 神様は私たち1人1人を「違った存在(互いに比較する必要のない存在)」として形造ってくださいました。私たちはおのおの特別な役割、そして特別な目的のために、偉大な神によってデザインされているのです。私たちがその「自分のために特別に備えられた人生」を謳歌するために必要なのは、他の人々と比較することではなく、創造者である神様を見上げることなのです。

(61) この世と調子を合せてはいけません。

いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。 ある男性が銀行に入ろうとした時に、すぐ後ろから女性が続いているのに気付いてドアを開けて待っていたところ、その女性はお礼の代わりにこう言いました。「私が女性だからって、何もわざわざドアを支えていて下さらなくても結構よ。」 それを聞いた男性は微笑みながら答えました。「いえいえ、私がドアを支えていたのは『あなたが女性だから』ではなく、『私が紳士だから』です。」 キリストを信じる者として、私たちが他の人たちと『ひと味違った』生き方をするとしたら、それは「私たちがキリストにあって何者であるか」によるのであり、「人々が私たちクリスチャンにそうすることを期待しているから」ではありません。私たちは「人を恐れる者」ではなく、「神を恐れる者」です。「人のご機嫌を取って点数を稼ぐ者」ではなく、既に神様から『愛する我が子』としての称号をいただいている者なのです。 昔、ある貿易会社の船が初めての日本上陸を目の前にした時、取引のリーダーが乗組員たちに次のように告げたそうです。「いいか。これから上陸する国の人々にとって、私たちは皆『外国人』だ。彼らは私たちの国のことを全く知らないし、もちろん言葉も分からない。ということは、彼らにとって『私たちの中に見る物』が、私たちの祖国に関するすべての情報となるわけである。諸君、日本の人々が『あの人たちは、一体どんなに素晴らしい国から来た人々なのだろう?』と感心してもらえるような態度で、これからの日々を過ごそうではないか!」 私たちが人々に証しするのは、単に「私たちの人柄」ではなく、「私たちのお国柄」です。この世の習慣に倣って媚を売るのではなく、キリストに倣ってこの世の人々を魅了し、彼らの「天の御国への移民願望」を駆り立てようではありませんか!

(60) 死と生は舌に支配される。どちらかを愛して、人はその実を食べる。

これは本当にあった話です。1人の先生が、受け持ちの生徒たち1人1人にリボンを渡してこう言いました。「あなたたちは、このリボンを使って世界を少しだけ変えることができます。このリボンを、ぜひ、あなたの人生に良い影響を与えてくれたと思える人に、感謝を込めてプレゼントしてください。渡す時、今私があなたたちに言ったのと同じことを伝えるのを忘れないように。」 さて、このリボンをもらった生徒たちのうちの1人が、彼の進学に良いアドバイスをくれた先輩に、このリボンをあげました。そしてその先輩は、自分の職場の上司にこう言い添えてそのリボンを渡しました。「あなたはまだ未熟な私に多くの指導を与えてくれています。あなたの創造性と実行力には、いつも感服させられっぱなしです。ところで、このリボンを、ぜひあなたの人生に大きな幸福を与えてくれた人物に差し上げて下さい。」 この上司は、自宅に戻った後、反抗期真っ最中の息子の部屋へ行き、リボンを差し出して言いました。「『このリボンを、自分の大切な人に渡すように』と言われたんだが、ぜひお前にあげたいんだ。お前にはいつも『遊んでばかりいないで、勉強しなさい!』とか、『少しは部屋をキチンとしなさい!』とか、怒鳴ってばかりいたが、実のところ、私の人生を最も豊かにしてくれているのは、お前のお母さんを除けば、それはお前に他ならない。私たちのところに生まれてきてくれて、本当にありがとう。愛しているよ。」 すると、息子はこらえきれなくなった涙をこぼしながら、次のように言ったそうです。「実は、ついさっき『遺書』を書き終えたところだったんだよ。そして今夜皆が寝ている間に自殺するつもりだったんだ。だって、お父さんがボクのことを愛してくれてるって、今まで分からなかったんだもの。でも、どうやらこの遺書はもう必要なくなったみたいだね。」 私たちの口から出ることばは、文字通り、人を生かしも殺しもする力を持っています。聖書には「時宜にかなったことばは、いかにも麗しい」という一節もあります。さあ、今日も出て行って、普段あまり気にかけていない人に対してでさえも、励ましと感謝の言葉をかけてみようではありませんか!

(59) 二心(ふたごころ)の人たち。心を清くしなさい。

前回、「時間の上手な使い方」に関連して『優先順位』のお話しをしましたが、実はこの「正しい優先順位を確立する」ということは、『人間関係』で悩まなくなるためにも、大いに役立ちます。 「『人間関係の悩み』というものは、人間生きている限り、一生つきまとうもの」とあきらめてしまってはいませんか?実はそんなことはないのです。ちゃんと解決法があるのです。それを見出せない大きな理由の1つは、私たちの中にある「『八方美人』になりたがる性質」にあります。「誰からも嫌われたくない」「あの人を敵に回すとやっかいなことになるから、おべっかを使っておこう…」などとあちこちに気を回しすぎて、肝心な人々に時間や労力を費やさずにいるために、足をすくわれたり、燃え尽きてしまったりするのです。 私事ですが、最近こんな出来事がありました。どういう成り行きだったか忘れましたが、我が愛する妻にこんなことを言われたのです。「あのねアナタ。アナタはすべての人を幸せにしようとガンバっているみたいだけど、アナタは私のことさえ『最高に幸せ』にしてくれれば、それでいいのよ?」 この言葉は、私に大きなショックを与えたと同時に、はっきりと目を覚ましてくれました。「そうだ!私は24年前に、他でもない、神様の前で『健やかな時も、病む時も、この女性を愛し慈しむこと』を誓ったのだ!」そうなのです。たとえ私が他のすべての人にさげすまれようとも、この妻を「最高に幸せ」にしてあげられたなら、私は神からの『合格印』を押してもらえるのです。なんてシンプルなのでしょう。たった1人の人に全力を尽くしさえすれば、それで良いのです。 もちろん、1人の人でさえ「最高に幸せにする」ことは、決して簡単なことではありません。また、それは「他のすべての人を不幸にしても良い」ということでもありません。しかし、「幸せにすべきたった1人の人」をさえ喜ばせることのできない人間に、他の誰を真に喜ばせることができるというのでしょう? 人生もまた同じです。私たちは皆、「自分を喜ばせるため」に生まれてきたのではなく、「唯一まことの神」をお喜ばせするために、神ご自身に似せて造られたのです。そのことを忘れて、「自分の満足」「自分の喜び」「自分の得」ばかりを追求して生きていくなら、いつのまにか『まやかしの幸福感』にすっかり騙されて、複雑怪奇で焦燥感にあふれる人生の中に埋没していきます。 人生は私たちが考えているより、ずっとずっとシンプルです。私たちが幸福にするために、神が私たちの周りに送ってくださっている人々は、ほんのひと握りです。それが誰なのかをしっかりと見極めて、限られた人生をたっぷりと注いでいこうではありませんか。

(58) 外部の人に対して賢明にふるまい、機会を十分に生かして用いなさい。

私たちの人生で「最も貴重なもの」といえば、それは『時間』でしょう。1度失われた時間は、2度と取り戻すことはできません。これだけ便利でスピードの増した時代は、過去にはなかったはずなのに、相変わらず私たちは「時間が足りない!」と言う。これは一体どうしたことでしょうか? たった1度しかない人生を有意義に過ごすには、何としてもこの『時間』というものを正しく使わなければなりません。すなわち「決して取り戻すことのできない『時間』というものを、より有意義に使う」ということです。では、どんな時間の使い方が『有意義な使い方』なのでしょう?私たちは10年後に『もっと優れた自分』になっているために、どんなことに多くの時間を費やすべきなのでしょう?それは『豊かな関係作り』と『優れた本を読むこと』です。そしてまず初めに私たちが読むべき書物、それが「人生のマニュアル」とも呼ぶべき『聖書』なのです。「あ~あ、今日も時間がないから、聖書を1ページも読む時間がない…」と言ってあきらめないで、半ページでも、3行でもよいから「少しでも目を通す」習慣をつけましょう。「塵も積もれば山となる」と言いますが、1週間全く聖書を読まなくなるところだったのが、気づいてみれば2章も3章も読めた、ということになるかもしれません。 オズワルド・サンダースという人が、『時間の有効利用』について、次の3つのポイントを指摘しています。 ①「時間の漏れをなくす」:時間の計算をするときに『何時間単位』で計るのではなく、『何分単位』で数えるようにする。10分刻みの時間を大切にするよう心がけたら、おのずと1時間ごとの時間を無駄にすることはない。 ②「優先順位をはっきりさせる」:多くの時間が『2番目以下に大切なこと』に費やされている。そのため『最も大切なこと』に使われる時間が足りなくなり、私たちの生活を破壊する。これは「目に見えるもの」にばかり振り回されて、最も大切な「目に見えない、内面的なこと」をおろそかにすることと同じである。 ③「計画的に行動する」:計画無しに行動することは、「失敗の計画」を立てているようなものである。状況にばかり流されているなら、何も成し遂げることはできない。「私が今日成し遂げるべきことは何でしょう?」と神に尋ねながら、日々を進んでいくべきである。 あなたの今日の歩みが、10年後の「より優れたあなた」へと導きますように。

(57) それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。

ある辛抱強くない男が、ある時神様にこんな祈りをしました。「神様、ボクは『待つ』ということができません。こんなことでは、立派な大人になることはできません。ですからお願いです。どうかボクに『忍耐』を与えてください。それも、今すぐに!」 …きっと神様は、たっぷり時間をかけて、このお祈りに答えてくださることでしょうね。 さて、私たちはどのようにしてこの『忍耐』というものを学ぶのでしょうか?それは、『試練』を通してです。善意が報われなかった時、重労働に見合った賃金がもらえなかった時、人に親切にしてあげたのに、お礼も言ってもらえなかった時、そしてあなたの愛の労苦が拒絶された時…。このような時にこそ、あなたのうちにある『忍耐』が真に輝くのです! このような実例は、子どもの成長のプロセスにおいて、顕著に見受けられます。親の過保護に取り巻かれ、苦労らしい苦労を知らずに育った子どもは、大志や勇気を持てず、失敗に簡単にくじけてしまいがちです。しかし逆に、幼い頃から数々の挑戦や試練を乗り越えてきた子どもは、やがて逆境の中でも新たな道を切り開いて行くことができるようになります。 実はこの法則は、イエス・キリストを信じて生きる私たちにもあてはめることができます。ある人々は、「クリスチャンになったらすべての問題が解決される」と勘違いするようですが、それはむしろ逆です。この世は悪魔の支配下にありますから、神に忠実に生きようとすればするほど、試練が増します。しかし、神はそれらの試練によって、ご自身の『子ども』とされた私たちを「滅ぼそう」としておられるのではなく、かえって『忍耐』と『練られた品性』に満ちた、「神の子ども」と呼ばれるにふさわしい大人へと整えられるのです。