(448) “私たちの兄弟たちの告発者、昼も夜も私たちの神の御前で訴える者が、投げ落とされた。”

 「自分の勘違いで誰かに疑いを持ち、後になって相手の無実を知り後悔する」、そんな経験をしたことはありませんか?私はあります。ある意味「正義感の強さの現れ」ということもできるかもしれませんが、確かな情報を得る前に早まった判断をすることは、後悔の元ですよね? 聖書に登場する『サタン(悪魔)』の語源は「訴える者」です。サタンは私たちを「罪あり!」と神の前に訴え、私たちの内に不健康な『罪責感』を植え付けて、私たちと神との関係を壊そうとするのです。ということは、もし私たちがよく調べることをせずに誰かを「罪あり!」とみなすなら、自分をサタンと同じ位置に置いていることになるので気を付けましょう。 人の成熟度を測る1つの目安は、「早まって判断を下さない性質」です。誰かを疑わしいと感じても、客観的な目で正確な情報を集め、且つ本人の言い分にしっかり耳を傾けるまでは、決して早急な判断を下すべきではありません。1つの興味深い『模範』は、聖書の最初の部分に出てくる「エデンの園におけるアダム&エバの犯した罪に対する神の対応」です。全てをご存知であるはずの神ですから、初めから「お前たちは一体何という事をしでかしたのか!」と彼らの過ちを責め立てることもできたわけですが、神はそうなさいませんでした。神がまずなさったことは、次のような質問でした。「お前たちはどこにいるんだい?」 そしてアダムが「私たちは裸であることに気付いたので、隠れています」と答えたのに対し、神は更に「誰が、お前たちが裸であることを知らせたいんだい?」「もしかしてお前たちは、わたしが『決して食べてはならない』と教えた木の実を食べたのかい?」と尋ねます。当然神はこれらすべての質問の答えを既にご存知でした。しかし神は敢えて「彼ら自身の口から事の真相を聞こうとされた」のです。 あなたは今までに「ちゃんと事情を聴いてもらうことなく勝手に決めつけられてしまったこと」がありますか?もしあるなら、それがどれほどの痛みを伴うかをご存じのはずですね?ならば同じような痛みを決して他の人に与えることの無いように気を付けましょうね。

(447) “失望せずに善を行いましょう。あきらめずに続ければ、時が来て刈り取ることになります。”

聖書の中でとても頻繁に語られている概念の1つに『忍耐強く継続する』というものがあります。まあ日本語でも「継続は力なり」とか「石の上にも3年」などということわざがありますよね。 「我慢強さ」というのは、単に「じっとしながら災難が通り過ぎるのを待つ」というようなものではなく、もっと能動的・積極的な姿勢です。かと言って、近年起こりがちな『燃え尽き』に至るようなオーバーワークとも違います。具体的に言うならば、次の3つの要素が含まれています。 ①「自分の持てる力全てを出し切る」しかし「持っている力以上のものを出そうと無理をすることは控える」 ・神は私たち1人1人に「使うための力や財産、知恵」などを与えてくださっています。いわゆる「宝の持ち腐れ」をして欲しくないのです。と同時に「共に力を出し合うこと」を望んでおられます。神は私たちが「1人ぼっちで戦う」ようには造られなかったのです。 ②『結果』ではなく、『プロセス』によって評価する ・この世は「結果がすべて」と言います。どれだけ頑張っても立派な結果が出せなければ評価してもらえません。しかしこの世の基準でいわゆる『成功』を収めるのはほんのひと握りの人たちだけです。神が私たちを造られたのは、私たちが「結果を残すため」ではなく、「神が与えたものを惜しまず使うため」です。また神は私たちが高慢になることを喜びません。むしろ神を求め、神が私たちを通してご自身の力や愛を表現するために神に頼ることを願っておられるのです。 ③あきらめずに最後までやり遂げる ・誰もが経験していることですが、「『人生』とは思った通りに行かないことが多い」と言うことができます。「こんなはずではなかった…」と思ったことが今までに何回あったことでしょう?けれどもそのような局面で「や~めた」とあきらめてしまう人は、単に「求めていたものを得られない」だけではなく、せっかく神が私たちにほどこしてくれている『成長への訓練』をも受け損なってしまうのです。結果がどうあれ、「最後までやり遂げる」という経験を多く重ねれば重ねるほど、私たちは人生においてより多くの実を結ぶことができるようになるのです。

(446) “柔らかな答えは憤りを鎮め、激しいことばは怒りをあおる。”

2つの質問をします。①あなたは「傷付きやすいタイプの人」ですか? ②あなたは「他の人を傷付けやすいタイプの人」ですか? 恐らく多くの方々は、①②の質問に対する答えが『両方とも』、「イエス」または「ノー」だと思います。というのは、自分自身の中に「癒されていない痛み」を持っている人は、どうしても自分の態度や言動にその『痛み』の影響が出てしまって、知らず知らずのうちに人を傷付けてしまうからです。ドイツの有名な詩人「ヘルマン・ヘッセ」は次のように言っています。「もしあなたが誰かを憎まずにいられないなら、それはその人の中に『自分と共通の嫌な部分』を感じ取っているからである。もしあなた自身の内にそのような『嫌な部分』がないなら、あなたはその人に煩わされるはずはないのである。」 例えばあなたの足の指先に傷があって、その傷が膿んでいるのにも関わらず、あなたが放っておいているとしましょう。ある時他の人がほんのはずみであなたのつま先を踏んでしまったら、あなたは悲鳴を上げながら飛び上がって、「痛いじゃないか!何でそんなに強く人の足を踏むんだ!」と怒りまくるでしょう。しかしその痛みの本当の原因は、膿んでいる傷を放っておいたあなた自身にあるのです。このように「心に痛みを持っている人」は、しばしば他の人のちょっとした態度や言動に大袈裟な反応を示すのです。 ではそのような人たちとどのように関われば良いのでしょうか?『内面の傷』というものは、大抵癒されるのに時間がかかります。なので優しくじっくりと時間をかけて忍耐強く関わってあげる必要があります。時には罵声を浴びせられるようなこともあるかもしれません。ですから「関わろうとする人自身」がまず精神的に健康である必要があります。それでも大変骨の折れるプロセスです。 1つのお話があります。『清掃業』という仕事はあまり人気はありませんよね。ゴミ集めをしたり、下水管の中で汚水まみれになりながら作業をすることもあります。でも時折作業の最中に「ダイアモンドの指輪」や「高価な骨董品」などを見つけることがあるそうです。そしてそれらは特に届け出をしないで自分のものにしても良いそうです。このように「人に好まれない骨の折れる作業」を継続することは大変なことですが、そのプロセスで思いもよらない『宝物』を発見させてくださる、これが「人々を愛し、いたわろうとする人々」に神様が用意してくださっている祝福なのです。

(445) “主のおしえを喜びとし、昼も夜も、そのおしえを口ずさむ。”

私が受験生だった頃(40年前?)、『シケ単』という本が流行りました。ある方は「どうして、そんな『シケたもの』が流行ったんだ?」と思うかもしれませんが、これは『シケた本』ではなく、『試験によく出る英単語』という「英単語暗記用の参考書」の通称です。まあ『暗記』というものが苦手だった当時の私には、あまり役には立ちませんでしたが… ところで、聖書は「神のことばを暗唱すること」を勧めています。私も大人になってから知りましたが、実はこの「暗記する能力」というのは『筋肉』のようなもので、使えば使うほど高められるものなのです。学生時代苦手だった「英単語暗記」でしたが、私がクリスチャンになってから覚えた『聖書のことば』は既に何百もあります。そしてこの「暗記された聖書のことば」というものは、英単語よりもはるかに人生の役に立つのです! 考えてみると、暗記が苦手な人でも、実際には多くのものを「暗記して」いるんですよね。大抵の人は家族や親しい友人の誕生日や結婚記念日、もしかしたら住所や電話番号(まあ今は携帯に記録してあるので、覚えるまでもありませんが…)、そして料理のレシピや道路標識の意味、電車の駅名や順序、もっと言うなら、驚くほど多くの人々の顔と名前が一致するほどに記憶力を使っています。どうしてそれほどに覚えられるのかと言えば、主に2つの要素があげられます。それは、①頻繁に使っている、もしくは②定期的に必要となる、ということです。 実は私が「聖書のことば」をこれほどに覚えられたのも、同じ理由です。「聖書のことば」は私たちに『悟り』を与え、恐れや不安から救い出し、落ち込んだ時の励ましとなり、正しい判断を必要とする時に助け導いてくれます。現代のような「複雑でプレッシャーに満ちた日常」、また「自己の尊厳を見い出しにくい社会」の中で、「神のことば」を心に貯えることは、「生きるために必要な筋力」を強めてくれるのです。あなたも試してみませんか?

(444) “私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。”

どんな品物でも、それにふさわしくない使い方をしていたら、故障したり不具合が起こったりしますよね?(まあ、逆に別の使い方がかえって功を奏することもありますが…) 同様に、聖書には「神が人間を創造した」とありますから、私たち人間も「神が私たちを造られた目的」にふさわしくない生き方をしていたら、当然支障をきたすわけです。分かり易い例を挙げれば、不必要に食べ過ぎたらお腹を壊しますし、睡眠不足を続けていたら病気になりますよね? ところで、そもそも「神に造られた者としてのふさわしい生き方」とは何でしょう?その根本的な要素は「神との関係の中に生きる」ということです。神は聖書を通して、私たちに対する「ご自身の願い」を伝えてくださっています。これらは何か『神の命令』というように受け取られる傾向がありますが、実はむしろ、私たちが健康で平和に生きるための『人生の取扱説明書』のようなものだと言えます。 そしてまた神は、ご自身に信頼し従おうとする者たちに『神の霊(聖霊)』を与えて、日々の具体的な歩みを導いてくださるとも約束してくれています。実は私たち人間の『霊』の部分は、私たちの生まれつきの自分勝手な傾向性のゆえに損なわれていて、正しく神の思いを受信できません。目や耳が悪いと外界の情報を正確にキャッチできないように、この『霊』の部分が正常に機能していないと、「神からの語りかけ」を誤って理解し、『神との関係』も歪んでしまうのです。 イエス・キリストは、この損なわれてしまっている『神と人との関係』を修復するために人となってこの世に来られ、私たちの「自分勝手な傾向性(罪)」を私たちの代わりにその身に負って、十字架で帳消しにしてくださったのです。

(443) “私たちは見えるものにではなく、見えないものに目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くからです。”

最近『断捨離』が流行ってきているように思います。個人的には良い傾向だと感じています。世の中少々「余計な物」が多すぎるのではないでしょうか?聖書には『目の欲』ということばが出てきますが、確かにちょっと気の利いた品物が視界に入ると、初めは「別に要らない」と思っていても、何度も見ているうちに(あるいは「見せられているうちに」?)なんだか欲しくなってきて、つい買ってしまう、なぁんてことを経験したことがある方も多いのではないでしょうか? 私たち家族が『キリスト教宣教師』として1996年に日本を出発することになったとき、結婚してから8年間のうちに溜まってしまっていた品々を徹底的に処分して、スーツケース数個分にまで減らしました。これを聞くと多くの方々は「うわぁ、もったいない!何もそこまでしなくても…。さぞかし大変だったでしょう?」などのような反応をしてくださるかもしれませんが、実際その当時のことを思い出してみると、本当に「清々した」気持ちでした。物が減って行くたびに気持ちが軽くなって行ったのをよく覚えています。日本のような『物質社会』で暮らしていると、「多く持っているほど安心できる」と錯覚してしまいがちですが、実際「持ち物は少なければ少ないほど気楽」なのです。 この後私たち家族が暮らした「南太平洋の小さな島」には、電気も水道もなく、人々の暮らしは実に質素なものでした。でもそこには『真の豊かさ』がありました。島で暮らしていた300人余りの人々は、互いの不足分を補い合い、皆家族のように当たり前に助け合い支え合って暮らしていました。その時つくづく感じたものです。「物質的な豊かさと心の豊かさは反比例するものなのだなぁ」と。そしてその島で神様に祈った時、本当に神様をとても近く感じたものです。文明社会の中で『神のリアリティ』をなかなか実感できないのは、「物の豊富さ」が邪魔をしているのかもしれません。

(442) “だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるのです。”

日本の古いことわざに『負けるが勝ち』というものがありますが、実際様々な勝負に打ち勝って「1番」になれても、心の中には全く喜びや満足感が持てないことがあります。一体なぜなのでしょう?それは、私たちがぜひとも打ち勝つべき『敵』とは、周囲の誰かではなく『自分自身』だからです。 歴史上の「連戦連勝のヒーロー」の1人として挙げられる人物に『アレキサンダー大王』がいます。彼は血筋も知識も戦士としての能力にも大変秀でていた人物であったと言われ、本当に短期間に広大な地域を征服しましたが、どうやら大酒飲みだったらしく、若くして健康を害し、32歳の若さで死に、その死後大帝国は分割されてしまいました。彼は多くの戦いに勝利し、何人もの強敵を打ち破りましたが、『酒好き』という自分自身に屈したのでした。 「いかに他の人よりも優れているか」が大切なのではありません。優越感はしばしば『傲慢』や『自己中心性』への引き金となります。神が私たちの内に育もうとしておられるのは、キリストが持っておられたような「真の愛に基づく品性」です。そしてそれらのものは「他人に勝利することによって」よりも、むしろ「様々な困難による挫折や敗北を経験すること」を通してもたらされることが多いのです。

(441) “真理はあなたがたを自由にします。”

「無責任な時代」と言われて久しいですが、そもそも『無責任』とはどういう態度を言うのでしょう?それはひと言で言うなら、「自分にとって都合が悪いことに、しっかりと向き合おうとしない姿勢」ということなのだと思います。しかし実のところ、このような心の態度こそ、私たちの人生において『神の祝福』を受け取ることの大きな妨げとなるのです。 ある意味「どれだけ自分自身の言動や行動にキチンと責任を持てるか」というのは、『人間の成熟度』を測るバロメーターです。本来自分の責任であるにもかかわらず、他の誰かに責任転嫁したり、必死に責任逃れの言い訳を考えたりしている間は、正しい「人格的成長」は望めません。言ってみれば「責任転嫁をすること」は、時間の無駄なのです。ある人たちは「間違いを見つける事」にだけ一生懸命で、その後はできるだけそれが「自分の責任にはならないように」自分以外の人に注意を向けさせようとします。最終的に「他の誰かのせい」にできるかもしれませんが、結局自分の心の中には何かスッキリしない気持ちが残ってしまいます。何故なのでしょう?それは神が私たち人間を「真理を喜ぶ存在」としてお造りになったからです。そして『責任転嫁』は結果的に私たちを「真理から逸脱させて」しまうのです。 イエス・キリストは、「真理はあなたがたを自由にする」とおっしゃいました。「自分の心の真実を見つめる」という行為は、もしかしたら初めのうちはあなたを「居心地の悪い気分」にさせるかもしれませんが、最終的にはあなたを解放し「晴れ晴れとした気分」にさせてくれるものです。一方、「責任逃れをすること」は一時的な解放を生むかもしれませんが、実際はその後ずっと心に重荷を負ったまま歩み続けることになるのです。あなたはどちらの人生を望みますか?

(440) “愛をもって互いに仕え合いなさい。”

古くから親しまれている詩で、「み~んな違って、みんないい!」というものがありますよね?全くその通りだと思います。いつの間にか日本人の間で(恐らく『協調性』を求めるがあまり?)「できるだけ出しゃばらないようにしよう。周囲の人たちと同じようにしていよう。」というような空気が漂うようになってしまっています。とても残念なことです。 本来私たち1人1人は、天地創造の神様によってユニークに造られた存在です。「1人1人がユニークである」ということには次の2つの意味があります。 ①1人1人に特別な使命がある  ・私たち人間でも、何かを作る時には、必ず『目的』があります。なおさら神様が私たち1人1人をユニークに造られたのは、1人1人に別々の目的を持っておられるからです。私たちの人生は、この「神様が自分にさせたいこと」(別の言い方をすれば「自分と一緒になさりたいこと」)を捜し、見つけ、喜びと興奮をもってそれを成し遂げるためにあるのです。家庭において下の子たちに向かって「どうしてお兄ちゃんやお姉ちゃんと同じようにできないの!」とつい叱ってしまう親がいますが、これは無茶な要求です。何しろ神様が「違った存在」としてお造りになったのですから「同じようにすること」自体が無理なのです。むしろ私たちは親として「神様はこの子と一緒に、この地上で一体どんなことを成し遂げたいのだろう?」と問いながら、注意深く我が子1人1人を観察しつつ育てて行くべきなのです。 ②互いに補い合える  ・『人』という漢字は「それぞれが支え合っていることを表している」と言われますが、全くその通りで、私たち1人1人が違っているのも「それぞれが足りないところを補い合うためだ」ということが言えると思います。私たち夫婦は性格も得意分野も見事に異なっているので、結婚した当初はよく衝突しました(歯磨き粉の出し方とか…)。ところが、『牧師』という仕事柄よくいろいろな人たちにアドバイスをしたりカウンセリングをしたりするのですが、私たちが夫婦一緒にこれらの働きをする時、素晴らしい効果をもたらすのです。まず必ずといっていいほど私たちのどちらかはとても深く相手に共感することができ、またどちらかは相手の気付かなかったアイディアや示唆を与えることができるのです。これらのことが分かってから、私たちは夫婦はお互いの違いを心から神様に感謝できるようになりました。「自分と違ったタイプの人を受け入れる事」に困難を感じることもあるでしょう。でもそのような人と共に時間を過ごし続ける中で、きっと新しい発見や自分の成長に気付かされる日が来るに違いありません。

(439) “全き愛は恐れを締め出します。”

人はしばしば「原因不明の『恐れ』」にさいなまれます。意外なことに、人はその成功のど真ん中で『言いようのない恐れ』を抱くことがあります。もしかしたらアナタもそんな経験があるかもしれませんね。 聖書は「神を恐れることは知識の初めである」と教えています。別の言い方をすれば、「神に対する『正しい恐れ』を抱いて生きるなら、要らぬ恐れを抱かずに済む」ということが言えます。ではこの『正しい恐れ』以外の恐れは、一体どこからやってくるのでしょうか? ある『恐れ』は、あなたの生い立ちの中で形成されたものかもしれません。恐ろしい経験から来るトラウマであるとか、ことさら厳しい親に育てられたとか、ホラー映画やホラー小説の観過ぎであるとか… また別の原因として、日々報道される情報の影響かもしれません。日常のテレビのニュースや新聞に報道される記事の99%は私たちの心を暗くさせるようなものばかりです。そのような情報の中に取り巻かれていると、「明日自分の身に何が起こるか分からない」と考えるようになってしまいます。 そして最後は「悪魔から来る惑わし」です。悪魔は常に私たちが『神に造られた作品』として生きることを邪魔しようとします。私たちが平安をもって伸び伸びと生きることを妨げ、恐れや不安の中に閉じ込めようとするのです。 ところが冒頭に掲げた『全き愛』は、これらの『恐れ』を追い払ってくれます。ある方は「自分はとても『完全な愛』なんて抱くことはできないから、一生恐れにさいなまれながら生きなければならない…」などと勘違いされるかもしれませんが、この『全き愛』とはもちろん私たち自身から生まれるものではなく、神様が私たちに注いでくださっている愛のことです。神の愛は「無条件」の愛です。私たちから何の見返りも要求しません。その代価はすべて十字架においてイエス・キリストが支払ってくださったのです。この「私たちが差し出すことのできるどんなものによっても決して勝ち取ることのできない『愛』」、ただ「ありがとうございます」といって受け取るしかない『愛』、人間の思いを超えた測り知れない『神の全き愛』を受け取り、日々この神との関係の中に生きて行く時、私たちはこの世が私たちに投げかけてくる『無用の恐れ』から全く自由にされて生きることができるのです。