(486) “わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。”

 『喜び』というものは、私たちの人生の「燃料」のようなものです。これが失われると、私たちはただ「生物学的に生きているだけの人生」を送るようになってしまいます。車を運転する時には、時々燃料タンクのメモリをチェックしながら「ガス欠になっていないかどうか」を随時確かめておく必要がありますよね?それと同じように、私たちの心の内に『喜び』が失われていないかどうかを日々チェックする必要があるのです。  イエス・キリストが多くのことを教えられたのは、「自分が持っている喜びが私たちの内に満ちあふれるためである」とおっしゃいました。キリストの地上での人生は決して楽しいことばかりではありませんでした。定住の地はなく、ほとんどゆっくりと休む暇もなく、敵もたくさんいました。けれども彼の内にはいつも「他の人に分け与えないではいられない喜びと愛」に満ちていたのです。一体その秘訣は何だったのでしょう?それは、いつも変わらずに彼と共におられた『父なる神との愛の関係』です。そしてイエス・キリストがいつも教えておられたことは、この「『父なる神との愛の関係に生きること』からやってくる祝福について」だったのです。  この世界が私たちに提供してくれる『喜び』もありますが、それらはいつも周囲の状況に依存した「一時的なもの」です。しかしキリストが私たちに提供してくださる『喜び』は上から注がれるものであり、周囲の状況にかかわらず私たちの心のうちに泉のように満ちて行くのです。それは永遠に私たちの内にとどまり、将来の不安や死に対する恐れさえも消し去ってくれるのです。  あなたもそのような『喜び』を心に満たして生きたくはありませんか?

(485) “見よ、わたしはすべてを新しくする。”

 この前の日曜日は、クリスチャンの大きなお祭りの1つである『イースター(復活祭)』でした。イエス・キリストが十字架において死なれ、墓に葬られた後、3日目によみがえられたことを祝う「喜びの祝祭」です。今日はこの「キリストの十字架と復活」について少し考えてみたいと思います。  聖書はまず「神が天と地を造られ、人間を(神のかたちに)造られた」と述べていますが、神が人(私たち)を造られた『第1の目的』は何だと思いますか?それは、神の最大のご性質である『愛』というものを、互いの『関係』の中で表現し合うためです。「愛の表現」が単に「セックスをすること」だけだとしたら、それは他の動物たちにだってできます。人間は「相手を思いやり、相手の最善を願って、自分自身を犠牲にしてでも相手をサポートする」という形で『愛』を表現することのできる、唯一の被造物です。  ところが、『最初の人』であるアダムとイブが神に反逆して以来、神が意図しておられたこの麗しい「愛の関係」というものが、人と神の間においても、人間同士においても歪んでしまい、人は『関係』というものを「自己中心的に」用いるようになってしまいました。これが聖書の言うところの「人の罪とその結果」なわけです。  神がご自身のひとり子『イエス・キリスト』を人間の姿でこの世にお送りになられたのは、「神の力とご性質をデモンストレーションするため」であると共に、この「壊れてしまった『関係』というもの」を修復するためでもあったのです。キリストは「人の神に対する反逆の罪」と、その結果である「歪んでしまった関係」の清算をするために、私たちの身代わりに十字架にかかって、そのいのちの代価によって全ての償いを済まされたのです。そして私たちがもう1度、最初に神が計画しておられた通りの、本来の豊かさと純粋さをもった「神との関係」そして「人間同士の関係」へと再スタート(回復)することができるようにと、死を打ち破ってよみがえってくださったのです。私たちはイエス・キリストをこのような『救い主』として信じることによって、人生をもう1度新しく出発することができるのです!

(484) “心に満ちていることを、口(舌)が話すのです。”

 病院へ行って、お医者さんに「は~い、ベロを出して~」と言われたことはありませんか?私は何度かあります。どうやら東洋医学では、舌の色や形を見て体調を知る『舌診』という診断方法があるそうです。『舌』は粘膜で覆われ多くの血管が集まっているので、血液や体液の状態が反映されやすいので、体質や内臓の様子を映し出す「鏡」とも言われているそうです。  面白いことにイエス・キリストは、身体の健康のみならず「心の健康」も『舌(人が話すことば)』に反映されるとおっしゃいました。偉そうなことばかり口にする人は、実は心に不安や劣等感を抱えており、いやらしい言葉を連発する人は不純な思いに満ちており、人の批判ばかりする人は、心がプライドや怒りに冒されてしまっています。「あの人のあの時のあの言葉に深く傷付けられて以来、私の人生はメチャメチャになってしまった…」などという告白を聞いたことはありませんか?  しかし『舌(ことば)』というものはそのような「否定的な力」だけではなく、人を励まし、勇気付け、悩みや混乱から救い出す力も持っています。正しいタイミングに正しい方法で語られた正しい言葉は、何にも代えがたい力を発揮するのです。但し、そのためには、まず私たちの「心の状態」が健康に保たれていなければなりません。そのためにも、『神のいのち』に満ちた聖書のことばを豊かに心に満たしておくように心がけましょう!

(483) “世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。”

 『勇気』という言葉を聞くと、「敢えて危険に向かって行くヒーロー」などを思い描いてしまいそうですが、実際私たちが『勇気』を必要とするのは、そのような大それた状況ばかりなわけではありません。むしろ「正しいと分かっていることを、臆せずに成し遂げること」は『勇気』の最も日常的な形であり、誰もが必要としているものです。では何故、そのような日常的な出来事に私たちは『勇気』を必要とするのでしょうか?それは残念ながら、誰もが必ずしも「正しいことだけを行おう」としているわけではない」からです。  「人目を気にする」日本人は、更にこのような『勇気』を必要とする場面が多いのではないでしょうか?「長い物には巻かれろ」といったことわざが横行する日本では、これから自分がやろうとしていることが「最善ではない」と気付いても、大勢が同意してくれないならば方向転換するのは非常に困難です。そして真の『勇気』が必要とされるのは、まさにこういう時なのです。  イエス・キリストは、ご自身が十字架において成し遂げる「罪の贖いのみわざ」を受け入れる人々が、やがて「この世の流れ」に抵抗しながら生きるようになることをご存知でした。だからこそ予めそれらの人々に冒頭のような励ましを送られたに違いありません。イエス・キリストを通して神との関係に生きるようになると、『真に正しいもの』が見えてきて、更に「正しく歩みたい!」という強い願いが起こされるようになります。そのような生き方のために無くてはならないものが、この『勇気』なのです。そしてこのように「神に向かって正しく生きるために『勇気』を奮い起こそうとすること」を『信仰』と呼ぶのです。

(482) “主の御前から回復の時が来て、あなたがたのためにあらかじめキリストとして定められていたイエスを、主は遣わしてくださいます。”

 『回復』という言葉は、正常の状態からどこか具合が悪くなってしまった後に、そこからまた元の正常な状態に戻った時に使いますよね。そして聖書は、私たちがイエス・キリストを信じることによって神から受け取る祝福を『救い』と呼ぶと同時に、『回復』とも呼んでいます。すなわち聖書は、キリストを通して神と出会うまでは、私たちは生まれつき「正常ではない状態にある」というのです。それは一体どういう意味なのでしょう?  聖書の神は『創造主なる神』です。彼が私たちの『創造主』であるならば、当然私たちの人生の「最善の使い道」はこのお方が1番よく分っています。そのことを忘れて「自分勝手に人生を浪費してしまっている状態」のことを、聖書は『罪(的外れ)』と呼んでいます。神は私たちをこのような状態から『回復』させたいと望んでおられるのです。キリスト教が教えているのは、何か私たちの人生を「様々な教えや宗教的ルールでがんじがらめにすること」ではなく、「私たち人間(聖書は「神の最高傑作品」と呼んでいる)を『宝の持ち腐れ』状態から、フル機能を発揮できるようにすること」なのです。これこそ、まさに聖書が呼ぶ『回復』なのです。  イエス・キリストがこの地上に現れたのは、「私たち人間の心を『創造主なる神』に向けさせるためである」と聖書に書かれています。この『聖書』という私たちの人生の取扱説明書を通して、『創造主なる神』という人生の「力と知恵の源」とつながることを通して、私たちは「神による回復」を体験することができるのです。

(481) “霊の父(神)は私たちの益のために、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして訓練されるのです。”

 あなたにとって『良い人』とはどんな人ですか?欲しい物を何でもくれる人?困った時にはいつでも助けてくれる人?自分に対して嫌なことは1つもしないで、楽で楽しいことだけをさせてくれる人?  聖書は、「この天地を造られた創造主なる神は『良いお方』である」と教えています。ところがある人々はこのことにつまずきます。何故なら、それらの人々の持っている『良いお方』のイメージと、実際の聖書の神のご性質とが必ずしもマッチしないからです。彼らの『良い神』は、まさに冒頭に挙げたような「自分にとって超都合の良い存在」であるからです。  聖書の神は、『父なる神』とも呼ばれています。そして「欲しい物は何でもくれて、楽で楽しいことだけをさせてくれる父親」が『良い父親』ではないことは、ちょっと考えてみればすぐ分かります。もちろん幼児の頃から厳しくしてばかりいたら、それは『幼児虐待』ですが、青年期に達してもまだ甘やかしてばかりいるような父親は『ダメな父親』ではないでしょうか?同様に聖書の神も、私たちの信仰の成長度に応じて敢えて『試練』をお与えになります。それは神が意地悪だからではなく、むしろ『良いお方』であって、私たちの更なる成長を願っておられる方だからです。私たちにとって『良い方』とは、私たちを「自己最高の人生」へと導き、またそれにふさわしく訓練してくれる存在なのです。  私が学生の頃は、どちらかというと保守的な考え方を持っていました。つまり「冒険をしない性質(たち)」だったのです。ところが大学1年の時にキリストと出会って以来、これまでの私の人生はまさに波乱万丈です。そしてこの40年の道のりは私を大きく成長させてくれました。だからこそ私は、私が関わるすべての人がこの「キリストを通しての神との関係」に生きるようになり、『自己最高の人生』へと歩み出すようになるようにと、切に願っているのです!

(480) “隠れたところで見ておられるあなたの父が報いてくださいます。”

 『縁の下の力持ち』っていう言葉がありますよね?人目に立つところで働いているわけではないけど、実は「無くてはならない働きを担っている人」のことを指しているわけです。こういう働きの事を英語では「Behind the scene」と言います。「見えているところの裏側」という意味です。  例えば、コンサートや何かのイベントに参加した時に、私たちが注目するのは「華々しくステージの上で活躍している人たち」だけですよね?見えない所で多くの人たちが関わっていることに気付くのは、せいぜい何か問題が起きた時(マイクの調子が悪いとか、照明がおかしいとか…)だけでしょう。そして「全く裏方は何やってんだ!」と文句を言うわけです。問題なくプログラムが進んでいる時には、『裏方』の存在など気にも留めていないにもかかわらず。  聖書はそんな『縁の下の力持ち(裏方)たち』のために素晴らしいエールを送ってくれています。神様はまさにそんな「人目に立たない所で私たちが払った労苦」を決して見逃すことなく、正当に評価してくださるというのです。神の目には「隠れているもの」など1つもないからです。  ここで大切なことは、私たち自身も「神様は目には見えないから、信じない」などと言わず、『見えないけれども、そこにいてじっと見守ってくださっている神』にしっかりと思いを向けることです。神様は『目には見えない方』だからこそ、「人知れず行われたあなたの心を込めた行い」に目を留めてくださっているのです。ですから「どうせ誰にも気づいてもらえないから…」などと気落ちすることなく、いつでもどんな状況においても、自分ができるベストを尽くし、精一杯の心を込めて、喜んで『縁の下の力持ち』という価値ある役割を担って行きましょう!

(479) “からだが霊を欠いては死んでいるのと同じように、信仰も行いを欠いては死んでいるのです。”

 聖書は、私たち人間は本来『3重構造』(肉体・精神・霊)だと教えており、またこの最も内側にある『霊』の部分が生まれつき死んでしまっていると言います。この『霊』こそが神を認識する部分であり、人間が「神に造られた存在」として本来の『いのち』にあふれて生きるようになる源です。  同じように、私たちの神に対する『信仰』にも、「生きた信仰」と「死んでしまっている信仰」があるのだと、聖書は教えています。それでは、「死んでしまっている信仰」とは、一体どのようなものなのでしょう?  『信仰』とは、単に知識として「神を知っている」、また「神の存在を信じている」といったものではありません。『信仰』とは、私たち人間と、生きとし生けるものすべての根源であられる『神』とを結ぶ管のようなものです。この「いのちの源であられる神」としっかりつながっているなら、おのずと『神のいのち』が私たちの内に注ぎ込まれ、満タンに充電された家電製品のように、その託された役割を存分に果たすことができます。「行いによって神につながろうとする」のではなく、「神とつながっているからこそ、行いとして現れる」のです。  ところが、この「神との間を結ぶ管」が不純物によってつまってしまっていることがあります。その不純物とは、私たちの『高慢な心』だったり、自分勝手な『誤った思い込み』だったりします。口では「神を信じている」と言いながら、自分の人生を自分勝手な考えに基づいて築き上げようとしたり、あたかも神を「困った時だけ頼りにする『便利屋』」のように扱って、事が自分の思い通りに進まないとすべて神に責任転嫁しようとするような態度がそれです。  『生きた信仰』とは、人生の主権を神に委ね、今日も生きて働かれる神の語りかけにワクワクしながら耳を傾け、分かったことを喜んで実践する、「神との生きた関係」の中で歩むことなのです。

(478) “律法学者の1人が来て、イエスに尋ねた。「どれが第1の戒めですか?」”

 前回は「聖書をひと言でいうと…」というお話をしましたが、今回はイエス・キリストがおっしゃった「聖書で最も大切な戒め」について書きますね。  この聖書の箇所が言う『律法学者』とは、イエス・キリストの時代のいわば「聖書の専門家・教師」のような存在です。ですからこの質問は「イエスに教えを乞うた」というよりも、「イエスを試そうとした」という方が妥当でしょう。しかしこの後イエスの答えを聞いた彼は、その明瞭・適切な答えに感動して沈黙した、と書かれています。では、イエスは一体どのように答えたのでしょうか?  イエスはこう答えました。「まず第1に『心から神を愛すること』だ。唯一の創造主なる神をおのれの神と認め、このお方だけを礼拝し、そのみこころを求めて従うこと。これが何よりも大切だ。そしてそれと同じくらい大切なのが『自分を愛するがごとくに周囲の人々を愛すること』だ」と。  ここに『3つの愛』が述べられています。「神への愛」「自分に対する愛」「隣人愛」です。この3つに優劣があるわけではなく、『序列』があるんです。すなわち、「まことの『創造主なる神』を知り、この方との愛の関係の中に生きることなくして、『自分自身の真の存在価値』を知ることはなく、真の意味で自分を大切にして生きることもできない。また、自分が神との関係の中で、『神からの深い愛』を体験するまでは、自分自身を注ぎ出して他の人々のことを親身に顧みることができない」ということなのです。  「キリスト教の精神は『愛』である」と言われるゆえんは、ここにあります。それは決して「自分の身を削って、無理して他の誰かのために何かをしてあげる」ということではなく、「神との愛の関係から生まれて来る、心から泉のように湧き上がってくる『神の愛』を、人々の間で注ぎ出しながら生きる」ということなのです。神が私たちを通して他の誰かにご自身の愛を表現されるのを体験する時、私たちは初めて「自分が生まれて来た本当の意味」を発見することができるのです。

(477) “幸いなことよ。主のさとしを守り、心を尽くして主を求める人々。”

 『聖書』は何千ページもある分厚い本ですが、ひと言でいうと一体どんなことが書いてあるのでしょう?今日はこの難題に限られた紙面で答えてみたいと思います。大体次の3つの内容が書かれていると言えると思います。  ①「神とはどんな方か」ということが書かれている。   ・聖書を読むことを通して、私たちはこの全宇宙を創造された『神』という方が「どのような性質で、どんな願いを持ち、どのようなことを大切にしておられるか」を知ることができます。私たちの地上の親や家族は、時には私たちに対して誤った期待を持ったり、不適切な取り扱いをしたりしますが、この『天の父である神』は「愛と知恵と力」に満ち、私たちの周囲の人々とは全く異なったレベルで私たちをご覧になり、私たちの思いを超えた喜びと満足で私たちの人生を満たすことのできる方です。  ②「私たちとはどのような存在か」が書かれている。   ・聖書を読むことによって、私たちは自分がこの『創造主なる神』にとってどれほどにかけがえのない存在なのか、を知ることができます。確かに聖書には人間というものの「弱さや抱えている問題」も書かれていますが、それ以上に「本来『人』とはどれほど尊厳に満ちた存在で、どのような可能性を秘めているのか」が描かれており、そのポテンシャルを花開かせるための秘訣もそこには述べられているのです。  ③「人と人との関わり」に関して書かれている。   ・聖書を読むうちに分かってくることは、神が私たちを「関係の中で生きる存在」と定めておられることです。あなたは多くの人々にとって「素晴らしい助けや慰め」を与える存在であり、また周囲の人々はあなたに「良き励まし、知恵、そして成長」を与えてくれます。神はある人を通して他の人を祝福しようと、日々機会を狙っておられるのです。  『聖書』は、神が人類にお与えになった、比類のない「悔いのない人生を送るためのインストラクション・ブック」です。やがて全ての人がこの『唯一まことの神』の前に立つ日がやってきます。その時に神に「あなたはわたしがあなたのために著した書物を読んだことがあるか?」と問われたら、胸を張って「はい、あります!」と答えられる者でいたいと思いませんか?