(423) “自分の走るべき道のりを走りつくし…任務を全うできるなら、自分のいのちは少しも惜しいとは思いません。”

生物学的に「生きている」ことと、真の意味で「生きていること」との間には大きな違いがあります。そして「真の意味で生きる(自己最高の人生を送る)」ために不可欠なものと言えば、それは『自分の人生の目的を知ること』と、『それを成し遂げようとする断固たる決意と継続力』ではないでしょうか? 実を言うと、私は30代になるまで、これが分かりませんでした。私は19歳の時にクリスチャンになり、「神と共に歩む人生」を満喫しているつもりだったのですが、真の意味で「自分はこのことのために生まれて来た!」というものを見つけてはいなかったのです。もちろんクリスチャンとして「イエス・キリストにある永遠のいのちについて人々に伝える」という強い使命感は持っていたのですが、恐らく自分の考えや能力に頼りすぎて肩に力が入り空回りしていたのでしょう。 「かぎりなくやさしい花々」などの詩画集で有名な、首から上しか動かせないクリスチャンの詩画作家『星野富弘さん』は、こんなことを言っています。「いのちが1番大切だと思っていた頃、生きるのが苦しかった。いのちよりも大切なものがあると知った日、生きているのが嬉しかった。」 今私は人生を最高にエンジョイしています。自分の『ライフワーク』を見つけたからです。それは「他の人を生かすこと」、すなわち「他の人が『自己最高の人生』を送るための助けをすること」です。私は『人』が大好きです。そして『人』がその持ち味を生かして輝いている様子を見ると、何よりの幸福感を感じます。もし自分が関わる人々の間で少しでもそのためのサポートができたら… そんなことをいつも考えながら日々を生きています。朝ごとに「神様、今日私が出会う人々に、その人が輝くための手助けができますように。」と祈りながら1日を始めるようにしています。そしてまた、人が『自己最高の人生』を送るためには、「主イエス・キリストとの出会い」が、何が何でも必要であると固く信じてもいるのです。

(422) “ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります。”

2021年、明けましておめでとうございます。昨年は皆さんにとってどのような1年でしたでしょうか?多くの方々にとっては「コロナに翻弄された1年」といった感が強いのではないかと思います。今年中にはぜひワクチンが開発され、もう少し自由の利く暮らしができるようになると良いですね。 さて、「1年の計は元旦にあり」と言われます。確かに年の初めに何らかの計画を立てるのは良いことであると思いますが、その『計画』も、立て方によっては「希望を与えるもの」というよりは、「束縛感を与えるもの」ともなりかねません。何故なら、それらの目標が明確であればあるほど、『達成感』を与えてくれる可能性とともに、『挫折感』または『劣等感』にさいなまれる原因となることもあるからです。『元旦』と言えども、所詮は単に「12月31日の翌日」であるわけで、むしろ「1日1日を精一杯生きること」を重ねて行くうちに、結果として365日後に何かが達成できているものではないでしょうか? 先日『多発性硬化症』を患っている知り合いにお会いした時、「昨年はあなたにとってどのような年でしたか?」とお尋ねしたところ、「いやぁ、しんどい1年でしたね」との返事。そこで「その『しんどい1年』を、一体どうやって乗り越えてきたのですか?」と重ねてお訊きしたところ、次のように答えておられました。「ともかく、1日1日を神様に頼りながら、『どうか神様、今日1日を精一杯生き切ることができるだけの力をお与えください』と祈りつつ、何とか乗り越えることができました。」 私たちは誰も「明日の事さえも分からない、弱くて限りある者」です。1年後のことを考えながら生きているなんて、もしかしたら傲慢な生き方なのかもしれません。また、自分の年間目標に固執するがあまり、今目の前にいる「助けを必要としている人」を見逃してしまうかもしれません。ならばむしろ、「『今日1日を精一杯生きる』ということを積み重ねていく」というような目標をもって2021年を歩き始めてみてはいかがでしょうか?

(421) “東方の博士たちは、その星を見て家に入り、母マリアとともにいる幼子を見つけ、ひれ伏して礼拝した。”

先週は『クリスマス』でしたので、今回はクリスマスについて書きますね。 その夜、その幼子は最もみすぼらしい環境の中で生まれました。しかし天においては天使たちの間で歌声が響き渡りました。幼子が生まれたのは家畜小屋でしたが、ひと際明るく輝く星が、遠い国から賢者たちを導き、礼拝がささげられました。この幼子の出生は『普通』とはかけ離れており(処女降誕)、また彼の『死』も大変特殊でした(十字架での磔)。彼の『死』は当時の罪人の扱いとしては最悪のものでしたが、神の目から見るならそれは「全人類の罪のための贖いを達成するため」の『この上ない代価』でした。彼を十字架にかけた人々は、その恐ろしさに震えることもありませんでしたが、大地は彼らの足元で震えわななきました。 イエス・キリストは、その生涯のたった3年半の間人々を教え歩いただけで、1冊の本も書き著さず、何の組織も本部も形成することはありませんでした。しかしその生涯から2千年経った今、人類の歴史の中で「最も影響を与えた存在」として認められ、「人生教訓の尽きることのない源」とみなされ、「人々の救いのかなめ」として敬われています。 『クリスマス』と「プレゼント」とが切り離せないものと思われている現代、ぜひ覚えてください。『クリスマス』とは、神が人類に「唯一無二のプレゼント」であるひとり子イエス・キリストを『救い主』として与えてくださったことを記念する日であるということを!

(420) “あなたがたのうちだれが、心配したからといって、少しでも自分のいのちを延ばすことができるでしょうか。”

単に「心配すること」は全く状況を好転させません。『心配』したからといって、借金は返済できないし、問題は解決しないし、よく眠れるようになるわけでもありません。当然のことながら、上記の聖書のことばのように、「心配すること」は私たちの寿命を延ばしてくれるわけではなく、かえって寿命を縮めることになりかねません。 聖書には次のようなことばもあります。「主に信頼する人々は、揺るぐことなく、とこしえにながらえる。」 「神はご自身に信頼する者を全き平安のうちに守られます。」 これら2つのことばの両方に共通していることばは『神への信頼』です。『心配』とは、単に「神への信頼不足」の表れなのです。では「心配する人々」は一体誰に信頼しているのでしょう?それは『自分自身』です! 神の目から見るならば、「心配している私たち」はあたかも「親の存在をすっかり忘れて迷子になっている幼子」のようです。私たちは青年期の頃から徐々に「自分は大人だ。自分は1人でも生きて行ける!」と思い込み始め(ある意味では正しいのですが…)、すべてのことを『自分の力』で解決しようとやっきになります。しかし実際は「本当の大人」は、必要な助けを適切な時に適切な人から適切な方法で受け取ることのできる人です。 神は初めに人類を創造された時から、私たちが1人で生きるようには(特に「神なし」に生きるようには)お造りになりませんでした。人は神を見失ったとたんに「心配や不安」に襲われるのです。人生の拠り所を『自分自身』から『創造主であり、全人類の父である神』へと移す時、変わることのない「神の平安」が私たちの心を満たすようになるのです。

(419) “わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。”

聖書は、「神はご自分のかたちに人をお造りになった」と教えています。「神のかたちに」とはもちろん、神は私たちのように目や鼻や口があるという意味ではなく、「創造主なる神に似て、『創造的な思考を持つ存在』として造られた」ということを表しています。本来私たち人間は「ただ与えられたものを消費して生きるだけ」のような『受身的な存在』なのではなく、1人1人がそれぞれの創造性を用いて「自分だけのオリジナル」を生み出すことのできる『他者への影響力を持った存在』なのです。そのことをすっかり忘れて、ただ「流されるだけ」の生き方をしているなら、その人は生物学的には生きていても、その実死んでしまっているのです。 イエス・キリストは、ご自分と私たち1人1人の関係を「ぶどうの木とその枝」にたとえて、「枝が幹から離れては実を結ぶことができないように、あなたがたもわたしを離れては何も生み出すことができない」とおっしゃいました。私たちはイエス・キリストを通して『創造主なる神』からのいのちの栄養をいただいてこそ、真の意味で『生きる』ことができ、また「実を結ぶ」ことができるのです。ご存知のように、どんな木の実も『幹』からなるのではなく、1つ1つの『枝』に実るのです。もし私たちがこの『創造主なる神』にしっかりとつながって生きるなら、神は私たち1人1人を通して「自分だけのオリジナル」を生み出させ、周囲に良い影響を与え合いながら互いに向上していくことができるのです。

(418) “だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。”

 私たちには「過去を変えること」はできません。神はもちろんそのことをよぉく知っています。ですから神は決して私たちが既に犯してしまった過ちを責め立てることはしません。「お前が今人生に苦労しているのは、お前の先祖の罪の呪いだ」とか、「神は以前のお前のだらしない生き方を覚えているから、もはやお前の未来を祝福することはできない」などという言葉や考えは、『決して』神から出ているのではなく、むしろ私たちと神との関係を壊そうとする悪魔からやって来るのです。  聖書は「イエス・キリストは悪魔のわざを打ち破るためにこの世に来た」と教えています。悪魔が私たちを責め立てる、いくら後悔しても決して取り戻すことのできない過去の失敗から私たちを切り離し、「神によって新しく生まれた者」として、ただ前だけを向いて生きるように思いを新しくしてくださるのです。ですから、私たちが「希望を抱いて」日々を生きることができるかどうかは、私たちの才能や成績によるのではなく、「誰のことばに(心の)耳を傾けて生きるか」によっているのです。あなたは『悪魔のささやき』に耳を傾けますか?それとも聖書が証しする『神のことば』に耳を傾け、そのことばを頼りに人生を建て上げていきますか?

(417) “必要なことはわずかです。あるいは1つだけです。”

 『マルチタスク』って分かりますよね?外国に住んでいると、どの英語表現が日本人にも普通に通じるのかがだんだん分からなくなってくるんです… 要するに「いっぺんに多くの事をこなすこと」を指しますが、現代はまさに『マルチタスク』の時代と言えると思います。  いくつかの作業を1度にこなすことは、もしかしたら時には必要なことなのかもしれません。ただ言えることは、2つ目の作業に関わろうとするとき、私たちは1つ目の作業に対する集中力の30%を失うということです。別の言葉で言えば「より多くの『量』をこなすために、それぞれの仕事の『質』を落としている」わけです。ということは当然失敗も増えるわけで、結果的に「より多くのタスクをこなす」ことはできたかもしれませんが、1つ1つの出来は不十分で、しかも疲労感と不満足感が残ることになります。実は誰でもそんなことは分かっているはずなのですが、このようなマイナス面は見て見ぬふりをして「より多く、より早く」ということばかりを追求してしまっているのです。  この『マルチタスク』から来る最大の弊害は「大切な人間関係」の中で起こります。『夫婦関係』『親子関係』は「相手だけを見る」ことが要求されます。「~ながら」は通用しません。このことをおろそかにすることから起こる亀裂は大きな犠牲を産むことになります。ある人は「家族のための時間を作るためには『マルチタスク』をしなければならないんです!」とおっしゃるかもしれませんが、必要以上のタスクをこなし心身ともに疲れた状態で一体どのように「質の高い関心」を家族に払うことができるのでしょうか?  神様は私たち人間を、このような形の『マルチタスク』をこなすためにはお造りになりませんでした。むしろ「目の前のこと」に集中するように造られたのです。しかし同時に神様は「多くの中から最も良いものを選ぶ能力」も与えてくださいました。この『正しい選択能力』をフルに用いて、質の高い成果を上げる歩みをしましょう。

(416) “味わい、見つめよ。主がいつくしみ深い方であることを。”

 あなたが「神をどういう方だと思っているか」が、あなたの生き方を形作ります。あなたが「神は意地悪で、私の失敗を見つけて罰しようとしている」と思っているなら、あなたはできるだけ失敗しないように気を付けるでしょうが、それでも失敗してしまった時、きっと絶望感に陥ることでしょう。しかしもしあなたが「神は慈しみ深い方で、私が最善の道を歩むことができるようにと導いてくださる」と思っているなら、あなたは多少の失敗にめげることなく、希望を抱いて前へ前へと進んで行くに違いありません。  ここで言う『最善の道』とは、「あなたをこの上ない状態にまで成長させ、潜在能力を完全に発揮させる道」という意味です。神は全知全能な方ですから、あなたにとって何が最善であるのかを、あなた自身以上によくご存じなのです。人生が自分の思い通りに運んでいない時にこのような「善である神」を思い浮かべることは難しいでしょうが、そんな時こそ私たちは「ご自身のひとり子をさえ、私たちの罪のために十字架にかけられた神」を思い起こし、『信仰』を働かせるのです。「今自分に見えているところは少しも『最善』には見えないけれども、神はこのような状況からも美しい花を咲かせることができる」と信じること、これが「聖書が教えている神」であり、『信仰』なのです!  「神が善であるなら、何故世界は現在このように破滅的な状態なのか?」 そのように感じている人たちが多いのではないでしょうか?確かにそうですよね。私自身も皆さんと同様に日々痛みを感じています。しかしそれと同時にもう1つのことも言えます。それは「この世においては『痛みや裂け目』なしに、本当に価値あるものは生まれない」ということです。種が蒔かれたら、その種は張り裂けなければ新しい命は生まれません。そして『産みの苦しみ』がなければ、新しいいのちの誕生もないのです。神がこの世においてご自身の『最善』を生み出すために、私たちは今「通らなければならない痛み」を経験しているのだと、私は信じて止みません。

(415) “すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたし(キリスト)のもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。”

 白人たちがアメリカ大陸に乗り込んでくるまでは、アメリカインディアンたちにはまだ『書き言葉』がありませんでした。しかし彼らの言語にはその他の広く行き渡っている言語と同様に多くの語彙があり、しかもそのいくつかはとても豊かな意味を持っています。例えば『友人』を意味する言葉を直訳すると、「心の痛みを代わりに負ってくれる人」となるそうです。何てステキな定義なのでしょう!  誰かがあなたのところに「慰め」や「アドバイス」を求めに来たとしましょう。実はその人が最も必要としているものは、あなたの気の利いたことばなどよりも、ただあなたが隣りにいてくれること、打ち明け話にじっと耳を傾けてくれること、そして「不安や悲しみを共有してくれること」などであることがほとんどです。たとえどんなに立派なアドバイスを与えてあげられたとしても、あなたが急ぎ足でその場を去って行くならば、きっとその人には「この人は私のために十分に割けるだけの時間がないんだな」という印象だけが残ることでしょう。  イエス・キリストについて書かれている記述の中でも最も素晴らしいものの1つは、「私たちの弱さに同情してくださる方」だということです。彼は人々に接する時、決して急いではいませんでした。人々の必要のために、いつもそこにいてくださる助けでした。悲しむ者と共に涙する方でした。そして何よりも素晴らしいことに、彼は今でもそうなのです!もしあなたがその心の重荷から救われようと本気で彼に助けを求めるならば、イエス・キリストはあなたの所に来て、その重荷を負ってくださるのです。

(414) “喜んでいる心は健康を良くする。”

 ある有名なコメディアンがサイン会を開いていた時のことです。1人の若者の番になったとき、その若者はサインを求めながら彼に話しかけました。「あなたはボクの命の恩人です!」 コメディアンは反射的に「いやぁ、どうってことないよ」と答えましたが、若者は続けました。「いや、本当なんです!」 コメディアンはサインする手を止めて、この若者を見上げました。若者は彼を見つめて言いました。「実は最近父が亡くなったんです。彼はボクの最高の友であり理解者でした。あまりの喪失感にボクはしばらくの間泣き暮らし、とうとう自殺を考え始めていました。そんなある晩、ボクはあなたの出演する番組を観たんです。しばらくして、ボクは自分が大笑いしていることに気付きました。そして思ったんです。『ボクにはまだ笑う力が残っている。もしかしたら、もう少し生きてみる力も残っているのでは?』と。だからボクはあなたがボクにとって『命の恩人』だと言ったんです。本当にありがとうございます!」 コメディアンは右手を差し出して彼に握手を求めながら言いました。「いや、オレの方こそ、本当にありがとう。」  専門家の調べによると、『笑い』は人間の免疫力を高め、記憶力や学習能力を向上させ、緊張感をほぐし、脈拍や血圧を正常値に戻し、エンドルフィンを放出させて痛みを和らげ、心配やストレスを緩和し、人間関係を円滑にし協調性を生み出す効果があります。そして1回の大笑いはこれらの効果を8時間から12時間持続させるそうです。神様はどんな科学的治療よりも効果的で安価な『笑い』という処方薬を私たちに与えてくださっているのです!