(581) “全き愛は恐れを締め出します。”

 精神科医たちの調べによると、世の中には約2000種の『恐れの感覚』というものが存在するそうです。ところが大変興味深いことに、彼らの調査によると、私たちが生まれる時から備わっている『恐れ』というものは、「落下に対する恐怖」と「騒音に対する恐れ」の2つだけなのだそうです。すなわち、その他のすべての『恐れの感覚』というものは、私たちが人生の中で学んで行くわけです。ということは逆に言うなら、私たちは多くの恐れを「学ばないでも済む方法」もあるはずなのです。  私たちの人格は日々の経験や習慣などによって形成されますが、その『決定的な特徴』というものは(良いものであれ悪いものであれ)多くの場合ほんの数えられるほどの体験によって決定づけられるのです。そしてそれらの『特別な体験』は私たちの心に「自信や不安」「希望や臆病さ」「信頼感や恐れ」などの種を心の深い部分に植えつけるのです。  聖書は「恐れを締め出すのは『全き愛(私たちに対する創造主なる神の愛)』である」と教えています。『神の愛』は「無条件」であり「変わることのない」無限の愛です。そしてこの『愛の神』との関係が生み出すものこそ、「『恐れ』からの解放」なのです。この神への信仰を育むことが、「不要な恐れを捨てて行くプロセス」となるのです。言葉を換えるなら、「『神を正しく恐れること』さえ学べば、他のものを恐れる必要は無くなる」わけです。  聖書にある『神の約束』の中でも最も偉大なものの1つに次のようなものがあります。「わたしは決してあなたを見放さず、あなたを見捨てない」。残念なことに「人の約束」は場合によっては破られてしまうことがあります。しかし『神の約束』は決して破られることはありません。神とはそういう方なのです。

(580) “私たちの資格は神から与えられるものです。”

 「自分はそれにふさわしくない存在である」という感覚は多くの人が抱くものではないかと思います。一見『謙遜』にも聞こえるこの感覚は、言い換えるなら「自分はどんなに頑張っても、一定の基準に達することはできない!」という不健康な劣等感に根ざしています。多くの場合このような感覚は幼い頃に親や先生などの影響力を持つ立場の人々が、他の人たちとの比較によって誤った評価を下したことが尾を引いています。  私たちはどのようにしてこのような「誤った評価による不健康な自意識」から抜け出すことができるでしょう?次の2つのことを知ることが助けになると思います。  ①『創造主なる神』と出会うことなしに、自身の真価を見出すことはできない  ・この世における評価のほとんどは『相対的評価』であって、他の何かと比べることによって計られています。私たち自身も「他の誰か」と比べることによって一喜一憂するわけですが、それらは本当の自分の価値ではありません。本来私たちは神によって1人1人ユニークに造られているので、『相対的評価』ではなく、「神による『絶対的評価』」によって自分の価値を見出すことのできる存在なのです。  ②自身の真価を発揮するために、神から注がれる力によって、神のご計画と向き合う  ・神から離れた状態のままだと、私たちはいつも「自分が何か立派なことを成し遂げることによって自分の価値を見出そう」としてしまいます。それ故に失敗を重ねることが多く、劣等感にさいなまれることになるのです。神が私たち1人1人をユニークな存在として造られたのは、それぞれに「特別な何か」をさせるためにデザインされたのです。その『神のご計画』を探り、見出し、その計画を成し遂げるための「知恵や力」を神に求めつつ歩んで行くなら、誰とも比べる必要のない『自分の真価』を発揮しながら、大いなる興奮と喜びを持って生きることができるのです!

(579) “子よ、しっかりしなさい。あなたの罪は赦された。”

 「麻薬中毒」「アルコール依存症」など、人の肉体を害する習慣はいくつもありますが、人の「心の思い」を破壊する習慣もたくさんあります。『憎しみ』『ねたみ』『許せない心』、そして『罪責感』などです。これらのものは目に見えず、しかも少しずつ私たちの心を蝕んで行くので、なかなか気付かなかったり、軽視してしまいがちで、かえって危険だとも言えます。  聖書はこれらの『心の病』に対する解決を数多く与えています。特に『罪責感』に関して、人のすべての『罪』は根本的に『神』に対するもので、神との個人的な出会いを体験することで解放されることができる、と教えています。では、何故「神との個人的な出会い」が『罪』の解決をもたらすのでしょうか?  1人の青年が「強盗と傷害の罪」で逮捕され、裁判によって懲役判決が下されました。判決を受けガックリ肩を落として退場して行く通路の傍らで、彼の母親が涙を流し肩を震わせながら彼を見つめています。その母親の姿を見て、彼は思わず「お母さん、ごめんなさい」とつぶやきます。きっと皆さんは、こんな光景を容易に目に浮かべることができると思います。  しかし、冷静に考えてみると、おかしなものです。この青年の「強盗と傷害」による被害を受けたのはこの母親ではなく、別の第3者です。その被害者に対して「ごめんなさい」と謝るならともかく、なぜ彼は自分の母親に誤ったのでしょう?その理由はたった1つ。「自分を深く愛してくれている人に対して、その期待を大きく裏切ることをしてしまった」という思いからです。  私たちを形造り、この世界に送り出してくださった『神』は、私たち1人1人を深く愛してくださっています。そして私たちにこの世界で「互いに愛し合う者」として生きて欲しいと強く願っておられます。そんな私たちが誰かを傷付けたり、裏切ったりして『罪責感』を抱く時、それは単に直接的な被害者に対する申し訳ない思いだけでなく、心の奥底で「創造主なる神の期待を裏切ってしまった」という悲しみに深くさいなまれているのです。そしてイエス・キリストは、そんな私たちを「罪と罪責感」から解放するために、私たちの身代わりに十字架にかかってくださったのです。

(578) “人はうわべを見るが、主は心を見る。”

 現代ほど「目から入って来る情報」が多い時代はかつてなかったでしょう。今から100年ほど前にテレビが発明されるまでは、ニュースやコマーシャルはすべてラジオから放送され(『活動写真』なるものはありましたが…)、電話がある家庭でさえ少なかった時代でした。それが現代ではインターネットの発達により「ラジオを聴く」という習慣はめっきり減り、携帯電話でさえ、実際に音声として会話するよりも『ライン』などで文字を見ながら会話することが多いように思います。「人のことばに耳を傾ける」ということも減ってきてしまっているのではないでしょうか?  このように「目に見えるもの」によって私たちの生活が支配されてしまうと、私たちにとってとても重要な「人の心を察する」とか、「心を込めて物事を行う」などの、目には見えない『私たちの心』というものを見失ってしまう傾向へと陥ってしまう恐れがあるように思います。加えて現代の『スピード社会』は、私たちが「ゆっくり座って落ち着いて考えを思い巡らす」ということを奪い、「浅はかな考えに基づいて表面だけを取り繕う生き方」へと人間をおとしめて行っているのではないでしょうか?  神は私たちの『肉体』だけではなく、『心』をも造ってくださいました。そして神は私たちの「外側の行為」以上に「内面的な心の動き」に関心を持っておられます。マザー・テレサは、「大きなことを成し遂げるのはそれほど重要ではありません。小さなことを大きな心をもって行う方が重要なのです」とおっしゃいました。『うわべ』ではなく、もっともっと「内側の見えない世界」に注意を払いながら生きるようにしたいものですね。

(577) “正しい人は7度倒れても、また起き上がる。”

 以前、「子供たちは親の言う事は行わないが、やる事は真似をする」という話をしました。ここで気を付けなければならないのは、「子供が見ているのだから、失敗してはいけない!」と肩に力を入れ過ぎないことです。失敗しない人間などはいません。むしろ「失敗しても大丈夫」という寛容な心を育てることの方が大切かもしれません。  子供たちに見倣って欲しいのは「私たちの行いそのもの」というよりも、むしろ「生きる姿勢(態度)」です。すなわち、「失敗しない事」ではなく、「失敗してもくじけない態度」こそ、私たちが示すべき模範なのです。  日本語にも「七転び八起き」ということわざがありますが、大切なのは「倒れない事」ではなく、「何度倒れても起き上がる事」です。倒れる回数よりも起き上がる回数が1度だけ多ければ、その人は『人生の勝利者』と呼べるでしょう。実際「転ぶ経験」は私たちをより強く、賢くするのです。  同時にぜひ心掛けたいことは「失敗をくよくよしない、むしろ笑い飛ばすくらいの余裕」です。子供というのは元来陽気で楽観的です。それが徐々に引っ込み思案になったり臆病になってしまうのは、もしかすると何かを失敗してしまった時に周囲の大人からひどく叱られてしまった経験を重ねたからではないでしょうか?よくよく考えてみるなら、ほとんどの『失敗』は、いのちの危険でも冒さない限り、あまり大した問題ではないものです。  家の中をキチンとしておきたい、子供たちの身なりを整えておきたい、というのが母親たちの共通の願いだとは思います。けれども、それよりももっと偉大なことは「失敗を恐れず大胆に新たな事に挑戦し、自身のフルサイズの人生を歩もうとする勇敢な人間」を育てることではないでしょうか?

(576) “私たちは…、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。”

 パレスチナ地方のあいさつの言葉に『シャローム』というものがあります。朝でも昼でも夜でも使えて、出会った時でも分かれる時にも交わすことのできる便利なあいさつで、直訳の意味は『平和・平安』、そして「あなたに神の平安がありますように」という祝福の意味が込められています。  実はこの『シャローム』には、もう1つの意味があります。それは「人と人との関係に関すること」で、互いにこの『シャローム』を交わすことで、「あなたと私との間に『平和』がありますか?」と問いかけているのです。すなわち、互いの間で「わだかまり」はないか、「負い目があったり、恨みを抱いたりはしていないか」と、自分自身の心を探る意味合いもあるのです。そして万が一何らかのわだかまりや、神の前に公明正大でない思いを見出したなら、すぐにその場で和解をすることが期待されているのです。  この「関係における『平和』」の概念は、『神』と「私たち人間」の関係における平和を象徴しています。私たちは始祖アダム以来、己の『罪』のゆえに神との関係が壊れていましたが、神がその壊れた関係を修復するために『自らのひとり子イエス・キリスト』を「身代わりのいけにえ」としてささげてくださったために、今や私たちは何の「わだかまり」もなく、大胆に神の許に進み出ることができるのです。万が一我々の側で「自分は神にふさわしくない生き方をしている」と思い当たることがあるなら、この『豊かに赦してくださる神』に信頼し、その自分の負い目を告白して悔い改め、再度神の前に出て行くことができます。  神がイエス・キリストによって成し遂げてくださった、この『大いなる和解のみわざ』を覚えつつ、日々『シャローム』を交わしながら、人々との『平和』を保って生きて行きましょう。

(575) “天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。”

 神を信じている者であろうとなかろうと、自分に都合が悪いことが起こったり、理性や知性では理解できないような不条理に出くわしたりすると、私たちはつい、「神様、どうして?!」と叫んでしまうことがあります。あたかも「今自分がこんな目に合っているのは、神様のせいだ!」とでも言いたいかのように。  では、実際はどうなのでしょう?神様はそんな意地悪な方なのでしょうか?または、私たち自身が、そんな災難を身に招くような悪行をした報いなのでしょうか?そんなことは決してありません!私たちがそんな風に考えてしまうのは、『神』という方を全然理解していないからです。  神は、私たちに対するご自身の深い愛を、『ひとり子イエス・キリストの十字架における身代わりの死』という形で、誰にでも分かるようにはっきりと表現してくださいました。もはや神が私たちに「バチを当てる」とか、「意地悪をする」などと考える余地はないのです。神は私たちへの深い愛のゆえに、私たちに対して「最善以下のことはおできにならない方」なのです。  では、「思いもよらない災いやアクシデント」に見舞われた時、私たちはどう考えれば良いのでしょう?少なくとも、そのような出来事が私たちの人生に起こることを「神が許された」ということは事実です。だとすれば、私たちは神に次のように問うことができます。「神様、あなたはこのことを通して何をなさろうとしておられるのですか?」 または、「神様、この出来事によって、あなたは私に何を教えようとしておられるのですか?」と。人生に起こる『困難』は、私たちを神から引き離す要素なのではなく、かえって神に引き寄せられる機会として用いられるべきなのです。

(574) “この方(イエス・キリスト)は恵みとまことに満ちておられた。”

 皆さんは「キリスト教とは、どのようなものだと思いますか?」とか、「イエス・キリストとは、どんな人物だと思いますか?」と尋ねられたら、どのようにお答えになりますか?恐らく多種多様な回答が返って来ると思います。まあ大抵はポジティブな回答なのではないかと期待するのですが、以前私が大学構内で上記のようなアンケート調査をしていた時、1人の学生は「イエス・キリストをどんな人物だと思うか」という問いに対して、「大ぼら吹き」と答えていました。なかなか興味深い答えだと思います。  聖書は、「イエス・キリストは『恵みとまこと』に満ちていた」と描写しています。『恵みとまこと』をもっと身近な言葉で言い換えるなら、『愛と正義』みたいな感じでしょうか?ある意味、日本ドラマの主人公のような存在かもしれません。最近は医療系ドラマ、刑事ドラマ、弁護士ドラマなどが流行っていますが、大抵の主人公は、正義感に燃え、愛情深く、加えてイケメンと3拍子揃っています。しかし実際の世の中では「公平を期すために冷徹」だったり、「愛情深すぎて、チョッピリ優柔不断」だったりする人が多いのではないでしょうか?  しかしイエス・キリストは、正にその両方を、私たちが考える基準よりずっと高いレベルで兼ね備えていました。彼の『愛』は相手を甘やかし堕落させてしまうような愛ではなく、相手のポテンシャルを鋭く見抜いて、それを最大限に生かせるようにと、時には厳しく時には柔和に指導し、そのポテンシャルが花開くことをじっと待っていてくださる『愛』です。また彼の『正義』は、相手をいたずらに断罪しグゥの根も言わせないような「冷酷無比」なものでも、逆に相手に隙を見せてみすみす取り逃がしてしまうようなものでもありません。相手が自分の過ちに気が付くまで徹底的にその非を指摘し、それに気づいて悔い改め再出発しようとすることを期待しつつトコトンさとしてくださる『正義』なのです。  神の願いは、私たち1人1人がイエス・キリストを通してこの『愛と正義』(恵みとまこと)を体験し、神の助けをいただきながら、私たちも同様の『愛と正義』をこの世界で表現して行けるようになることなのです。

(573) “若者をその行く道にふさわしく教育せよ。そうすれば、年老いても、それから離れない。”

 親ならば誰しも「自分の子供に最善の道を歩んで欲しい」と願うでしょう。そしてそう願うあまり、多くの習い事をさせたり、より良い学校に進ませようと猛勉強を強要したり、相手が望む前に何でも買い与えたりしたりすることがあるかもしれません。しかし、気を付けなければならないのは、それらの行為が『自己投影』、すなわち「自分が子供の頃には何らかの理由で叶えられなかった事を、自分の子供には(相手が望んでいるかどうかにかかわらず)何とかして与えようとすること」になってはいないか、ということです。  例えば、「自分は子供の頃ピアノを習いたかったのに、親の経済的理由で習わせてもらえなかった。だから自分の子供にはそんなことは起こって欲しくない!」と思うがあまり、子供が望んでいないにもかかわらず『ピアノ教室』に通うことを強要したり、「自分は頭が悪かったので、望んでいた学校へ進学できなかった」との理由で、常に「もっと勉強しなさい!」と怒鳴る親になってしまう。これらの行為は、自分では「子供の最善のためにやっている」と思っているかもしれませんが、実際は『自己満足』にしかなっていないのです。  では、真の『子供のための最善』のために親ができる事とは何でしょうか?2つの事が考えられます。1つ目は「子供のことを日々よぉく観察し、「どんなことに関心があり、どんな点でひと際輝くものを持っているか」を見極め、それを伸ばす努力をしてあげることです。神様は私たち人間を1人1人ユニークにお造りになりました。ですから当然、同じ親から生まれた子供(兄弟)たちも1人1人違います。彼らをじっくり観察し、それぞれにふさわしい援助を与える必要があります。  もう1つは、「親自身が輝いている」ということです。「自分の身を削りながら子供のために尽くす」のは立派に聞こえるかもしれませんが、実は少しも子供のためになっていません。むしろ「自分自身のための時間をしっかりと確保し、自分の趣味や特技を活用して自分を磨き、輝かせている姿」を子供たちに見せつけるのです。よく聞く言葉ですが、「子供たちは親の言うことは聞かないが、やることは真似する」のです。自分の最も身近にいる親が輝いている姿を見たら、彼らも「自分もあんな風になりたい!」と、放っておいても自分を磨こうとするのです。

(572) “子供たちを苛立たせてはいけません。その子たちが意欲を失わないようにするためです。”

 聖書は実に多くの「子供を育てる上での知恵」を提供してくれています。ただ、聖書が優れているのは、そのような『良いアイディア』を提供してくれるという点だけではありません。「子育ての知恵」のようなことについて書かれている書物なら世にあり余るほど出版されています。では、聖書の更に優れている点とは、一体どのようなものなのでしょう?  子供がその成長段階で混乱させられるのは、日々の生活の中に『一貫性』や『絶対的な拠り所』を見出せない事です。その原因は私たち「親自身」にあります。私たちが日々忙しく多くのストレスを抱えて生きていると、どうしても「いつも精神的にベストコンディションで子供に接する」ということができなくなります。ある時は寛大に接することができても翌日にはちょっとしたことで叱ってしまったり、自分の都合や気分で『家庭のルール』を破ってしまったり。「子供に最高の教育を受けさせたい」というい理由でせっせと働いて稼いでいるわけですが、その忙しさやストレスが結局、『子供との信頼関係』を壊し、子供たちに「どうせ努力しても無駄だ」と意欲を失わせてしまっているのです。  聖書はそんな私たち(親たち)に、『真に大切なもの』を教え、また与えてくださいます。それは「神との正しい関係から来る『内面的な平和』」です。私たちを大きな愛で愛し、私たちの弱さを知って受け入れた上で知恵と力を与えて導いてくださる『創造主なる神』と共に歩み始める時、私たちは深い心の平安を得、周囲の人々、特に最も大切な隣人である自分の子供たちに対して、穏やかな心で適切に接することができるようになって行くのです。