(499) “どうか、私たちの父なる神が、あなたがたの心を慰め、強めて、あらゆる良いわざとことばに進ませてくださいますように。”

 今日は、私たちが語る『ことば』というものについて考えてみたいと思います。日本のことわざにも「口は禍の元」というものがありますが、私たちの語る『ことば』はある意味「両刃の剣」であって、人を生かしも殺しもする力があります。そしてその私たちの語る『ことば』を最もたくさん聞いているのは、実のところ『私たち自身』なのは言うまでもありませんね。  私たちは時に「これは悪い言葉だから口に出さない方が良い」と考えて心の中にじっとしまっておくこともできますが、残念ながら『私たち自身』は既にその『ことば』を聞いてしまっています。そして更に悪いことにそれらの『ことば』は、「主語を省いた状態」で私たちの深層心理に積もって行くのです。すなわち、それらの「否定的なメッセージ」が誰に対して向けられていたとしても、私たちの心の奥深くには『否定的なことば』として残り、私たちの心を蝕んでいくのです。  私たちは極力自分自身に「積極的・肯定的なことば」を聞かせて行かなければなりません。そのためには『私たち自身』がそのような『ことば』を発することができる者へと変えられて行かなければならないのです。しかし非常に残念なことに、この世界にはあまりにも多くの「否定的・破壊的なことば」が横行していて、「積極的・肯定的なことば」だけを取り入れて行くことは至難の業です。では、一体どうしたら良いのでしょう?  私たちができること、それは「私たち自身の語ることば」を極力「肯定的・積極的なもの」に置き換えて行く、ということです。そのためには、「肯定的・積極的なメッセージ」に常に目を向け、それらをくり返しくり返し自分自身のうちに取り入れて行かなければなりません。そしてその「肯定的なメッセージ」というのが、聖書に書かれている「神からのメッセージ」なのです。「あなたはわたしの目には高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」 そのような「神からの愛に満ちた力強い語りかけ」を日々自分の心に取り入れ、鏡に向かって「あなたは価値がある。あなたは神に愛されている。」と語りかけて行く時、徐々に私たちが日常的に語ることばさえもが肯定的なものへと変えられていくのです。

(498) “志の堅固な者を、あなたは全き平安のうちに守られます。その人があなたに信頼しているからです。”

 「全ての人は『心の平安』を求めている」と言ってもよいでしょう。特に2年以上も続いているこの『コロナ禍』の中で疲れ果てている方々は「一体いつになったらこのコロナは終息してホッと安心できるのか?」と考えておられることと思います。  多くの人々は「平和な状況」の中に『心の平安』を見出そうとします。しかし実を言うと『心の平安』は「状況」の中ではなく、「確かなものに対する信頼」を通して得られるものです。逆の言い方をすれば、「不確かなものに信頼している限り、『心の平安』を得ることはできない」ということです。  私たちは「自分たちの生活をより豊かにしよう」として熱心に働き、様々な発明をし、その結果私たちの生活は驚くほど便利になり、物質的には「豊かに」なりました。ほとんどの人が『パソコン』『スマホ』を所有しており、ほんの30年前には考えられないような時代です。しかしその結果何が起こっているのでしょう?確かにこれらのものは私たちの生活のある面を豊かにしたかもしれません。しかし「知る必要もない情報の洪水」の中で、私たちは不確かな情報によって『不安』をあおられ、最も大切にするべき『心の平安』を奪われています。  小学生の頃、国語の授業で『杞憂』という故事成語を学びました。杞の国に住む男が「天が崩れ落ちてきたらどうしよう」と心配したことから生まれた言葉だと学んだ時、子どもながらに一笑に付したものです。しかし現代はこの『杞憂』が世界各地で起こっていると言えるのではないでしょうか?  「周囲の状況」や「物質的豊かさ」は時と共に変化します。しかしこの世界にたった1つだけ「変化しないもの」があります。それはこの全宇宙を生み出された『創造主なる神』です。そしてこの『神』を求め、深く知って行けば行くほど、この方の憐れみと愛の大きさに魅了され、深い信頼が生まれてきます。この「創造主なる神への深い信頼」の中で生きる時、私たちは『揺り動かされることのない平安』をもって日々を歩むことができるようになるのです。

(497) “私たちはみな、多くの点で過ちを犯すからです。もし、ことばで過ちを犯さない人がいたら、その人はからだ全体も制御できる完全な人です。”

 『意思疎通』というものは、簡単なようで難しいものです。「全然そんなつもりはなかったのに…」というような誤解を経験したことはありませんか?日本人同士でも起こり得るのですから、外国に住んでいる私たちは尚更です。また通常は身振り手振りや相手の表情などが正確な理解の助けになりますが、最近ではSNSが頻繁に用いられるため、『ことば』だけが独り走りして要らぬ誤解が生まれることも度々です。  『ことば』というものには、「ことばそのもの」以外に「語り手の意図」が含まれており、その『意図』を正しく解釈する(汲み取る)ことなしに「ことばそのもの」だけを理解するだけでは、正確な『意思疎通』ができません。『ことば』はあくまで媒体であり、大切なのはそれを発信する側と受信する側の『相互理解』です。どんなに親しい間柄でも「正しい意思疎通」がなければ、つまらない誤解が生じる危険性があります。  それではどのようにして、そのような「不必要な誤解」を防ぐことができるでしょう?  第1に、「自分の解釈と『受信したことばそのもの』とをはっきりと分けて考えること」です。どこまでが「相手が実際に言った(書いた)こと、または自分が聞いた(読んだ)こと」だったのかを正確に確かめ、その内容を客観的に理解し直すのです。可能であれば誰か別の人に読んでもらい、意見を聞いてみるのも良いかもしれません。  もう1つは、「直接相手に『その言葉の意図』を尋ねてみること」です。すると思った以上に「自分が考えてもみなかった意図」に出くわすことがあります。『先入観』というものは怖いもので、相手がことばを発する前に、私たちの内側に「受信を歪めるフィルター」を付けてしまうのです。受信は極力「ニュートラルな心」で行うことが重要です。  『ことば』というものは、コミュニケーションのためにとても大切なツールですが、それによって人間関係を豊かにすることも破壊することもできる、いわば「両刃の剣」です。不用意にではなく、注意深く心を込めて、正しいルールで使うようにしましょう。

(496) “わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたが喜びで満ちあふれるようになるために、わたしはこれらのことをあなたがたに話しました。”

 「喜怒哀楽」というものは『感情』なので、自分ではコントロールできないと思われがちです。もちろんそういった類のものもありますが、大抵の場合は「私たちの意志」によってコントロールできます。例えば『喜び』はある意味「筋肉」のようなもので、上手に鍛えれば徐々に強められ、どんな状況の中でも内側に「静かな喜び」を保つことができるようになります。  今日は「喜びの鍛え方」を2つお教えしますね。  ①小さなことに『感謝』をする   ・「現代のストレス研究の父」と呼ばれている『ハンス・セイル』という方は次のように言っています。「『感謝を表現すること』は他のどんな営みよりも、心にポジティブな力を与える」。ですから、日常生活の中で意識して「感謝できる要素」を探すことを心掛け、口に出したりSNSなどを用いたりして、その『感謝』を相手に伝えましょう。伝える相手が特定できないことに関しては、神様に感謝しましょう。これをクセにすることで、あなたは「自然と笑みを浮かべる人」へと変えられて行きます。  ②『与える』ことを心掛ける   ・興味深いことに、聖書には「神は分け与える人を祝福する」という約束が多く書かれています。恐らくそれは神ご自身が『与える』という性質を持っておられるので、同じように『与える』人々を見て祝福せずにはいられないのではないでしょうか?ですから私たちは「分け与えてしまったら、自分の分が足りなくなってしまうかも…」などと心配しなくて良いのです。ある人はこんなことを言いました。「私の手が誰かに分け与えると、神の手が私に報いてくださる。そしていつでも『神の手』は『私の手』よりも大きい」。  『感謝』と『与えること』を習慣にすることによって、「喜びの筋肉」を鍛えて行きましょう!

(495) “それぞれが賜物を受けているのですから、神の様々な恵みの良い管理者として、その賜物を用いて互いに仕え合いなさい。”

 聖書は、神が私たち人間をそれぞれ『神の作品』としてお造りになった、と記しています。『作品』は「製品」と違って1つ1つがユニークに造られています。それは目的や役割が違うからです。つまり神様は私たち人間を1人1人「違った目的や役割を持つ存在」としてお造りになっている、ということです。ですから、私たちが他の人を羨んで「どうして私はあの人のようにできないのだろう?」とか、親が自分の子に向かって「どうしてあなたはお兄ちゃんやお姉ちゃんのようにできないの!」などと言ったり考えたりするのは、根本的に間違っているのです。  神は無駄なことをなさる方ではありません。全ての人は、神ご自身の「ユニークな目的・使命」を帯びて造られました。ですから世界には誰1人「要らない存在」などありません。では、一体どのようにして「神が自分に与えておられる使命」なるものを見出すことができるのでしょう?  私たちがこの世の価値観に立って「自分の才能・賜物」といったものを考えるとき、大抵頭の中にあるのは『自己実現のためのツール』としてです。しかし神が私たちをお造りになられたとき、敢えて「1人では生きられないように」お造りになりました。それは私たちが互いに助け合い、支え合いながら生きるようになるためです。すなわち「神の目的に従って生きる」とは、「自分はどのように他の人の役に立てるのか?」ということを考えながら生きるということなのです。他の人が自分とは違った意見を持っていて「意見の衝突」が起こる時、それは「お互いを離れ離れにさせるため」ではなく、かえって「互いの足りない所を補い合うため」なのです。自分の不得意分野を他の人が上手にできるのを見る時、それは「妬みの種を生むため」ではなく、「相手に援助を願い出るため」なのです。  ぜひ『人真似』をしようとするのではなく、『自分らしさ』を追求してみましょう。そして「自分の得意なことや、喜んでできること」が何なのかを突き止め、それらの助けを必要としている人々に手を差し伸べましょう。その時あなたは「神に造られた喜び」を体験するようになるのです。

(494) “貧しい者に施しをするのは、主に貸すこと。主がその行いに報いてくださる。”

 「信仰と日常生活は相容れない」と考える人がいますが、聖書は日々の生活のための具体的な知恵を多く教えてくれています。今日はその中で「聖書がお金に関して語っている2つのこと」を述べたいと思います。  ①施す 聖書は基本的に「気前の良い態度」を勧めています。興味深いのは、聖書の中に『お金に対する態度』と『農夫が種を蒔く様子』を対比させていることが多々あることです。翌年の収穫のための『種』を残しておくことを惜しんで、全ての収穫物を売ったり食べたりして費やしてしまうなら、翌年の豊かな収穫は期待できません。収穫の1部を取っておくことは、翌年のための『投資』なのです。同じように「他の人に施すこと」は、あたかも種を蒔いたかのように、やがて有形無形の『神の祝福』を呼び込むことになるのです。  ②蓄える 「クレジット購入」が常識になってしまっている現代、『衝動買い』をしてしまうことが増えてしまっているのではないでしょうか?テレビのコマーシャルを観ると、どれもこれも「念のため」買っておかなければ後で困るかもしれないというような不安に襲われるかもしれません。でも実際はそれらのほとんどの物はそのまま物置に放置され、1度も使われることなく古びてしまうことが多いものです。不必要なものを買わずにいれば、おのずと少しずつ蓄えができるはずです。  神様はご自身が愛しておられる人々が乏しい思いをしていることを放ってはおかれません。でも「私腹を肥やしている人」には感心されないのではないでしょうか?親が自分の子供たちが分け合っているのを見て微笑むように、私たちが互いの不足を補い合いながら支え合うようになることを、神は望んでおられるはずです。そのためにも、「気前の良い態度」と「適度な節約」を心掛けたいものですね。

(493) “あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。”

 私は昭和中期生まれですが、私が生まれてから半世紀余りのうちに世界は大きく様変わりしました。自動販売機、コンビニ、パソコン、百円ショップ、そして携帯電話にスマートフォン!50年前には思いつきもしなかった『便利品』が次々と生まれ、あっという間に普及し、以前は「不可能」と思えていたのに、今は「実現可能」になったということがたくさんあります。  多くのことを思いのままに操作できるようになったため、つい「自分の人生をも自分の好きなように操れる」という錯覚に陥りがちですが、実際はこれほどまでに文明が発達し科学が進歩しても、未だに人は1分先のことも見通すことができません。相変わらず多くの人々は日々不安を抱え、カウンセリングに通ったり、占いに頼ったりします。しかしそれらの中には「人生の不安を根本的に解決する術」を見出すことはできません。何故なら、それは人間の手中にあるのではなく、「全能の神の大きな御手の中」にあるからです。  聖書は、「現されていることは人間のものだが、隠されていることは神のものである」と教えています。人が追求しても見出せないのは、神が「それはわたしに属しているのだから、わたしに信頼しなさい」と招いておられるのです。いつ?なぜ?どのようにして?などの疑問について内側で悶々と思い巡らすのではなく、「いくら考えても分からないことは、神に委ねるべき領域なのだ!」と心得て、神に信頼して委ね、私たちは自分の手の届く範囲の事に全力を尽くすようにすれば良いのです。

(492) “わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。”

 聖書を少し知っている方は、「『愛する』ということは、命令なんてされるべきではない」と感じたことがあるかもしれません。恐らくその大きな原因は『愛する』という言葉に対する理解の違いによるものと思われます。  元々『愛する』は、英語の『Love』の訳語として日本に入って来たと思われますが、英語を話す人々は実際「I love my wife」「I love chocolate」などのように、現代日本語の「とても大切に思っている」と「メッチャ好き!」の両方の意味に『Love』という語を用います。ですから『愛する』という語を「その対象に対する感情的な盛り上がりを表現する言葉」として用いる、もっと分かりやすく言うなら「『好き』よりももっと強い感情」のように理解していることが一般的になっているのだと思います。もしそうであるなら、確かに『愛しなさい』などと命じるなんて、何だか人間の情緒を否定しているように感じられますよね。  『愛する』という言葉が聖書に登場する時、それは「内面的な感情」ではなく、むしろ「相手の最善のために自分にできることをする」というような、とても具体的で実践的な『行為・ふるまい』を表しています。極端なことを言うならば、嫌いな相手をも『愛する』ことはできるのです。そして、この『愛すること』の素晴らしい点は、キリストの戒めに従って誰かを「愛そう」としていると、いつの間にか自分の内側に相手に対する好意も湧いて来るのを感じることができ、更に素晴らしいことは「神が自分と共に相手に働きかけようとしている」というような不思議な感覚を経験できることです。  『愛すること』、それは確かに「神が人間だけに与えた、『人として生きる上での大きな特権』」ということができるのではないでしょうか?

(491) “正しい人の祈りは、働くと大きな力があります。”

 聖書は『祈る』ということを勧めています。けれど恐らく、『祈り』とは単に「宗教的な営み」であり、「気休め」であり、「非科学的だ」と言う人もいらっしゃると思います。今日はそんな方々のためにも「祈りの効能」について少し解説したいと思います。  2014年にアメリカのフロリダ州で行われた「心の健康に関する調査」では、『祈り』を中心とした教会におけるいくつかの営みは、人の健康や長寿に貢献しているという調査結果を発表しました。また「他の人のために祈っている人々」は、自分に対して嫌なことをした人を快く赦すことができ、結果として心の健康を保つ傾向があるそうです。  マイアミ大学の調査班によると、『祈り』その他の宗教的な営みを習慣的に行っている人は、他の人に比べ長期的な目標を達成する確率が高く、また強い自制心を育んでいるということが判明しました。またウィスコンシン大学の研究班は、幼い頃に何らかの虐待やトラウマを経験している人たちが、『祈り』という行為によってそれらの心の傷を数多く克服していることを発見しました。そしてコロンビア大学の調べでは、『祈り』を習慣としている人々は、そうでない人々に比べて、うつ病に悩む確率が90%も少ないことが分かりました。  これらの他にも、『祈り』が「心臓手術後の回復に貢献する」とか、「様々な中毒症状からの回復に効果がある」などの、専門家たちによる様々な研究結果が発表されています。神様は確かに『祈り』という営みを、ご自身が愛しておられる「私たち人間」が、この世がもたらす様々な『負の力』に対抗する手段として与えてくださっているのです!

(490) “人がひとりでいるのは良くない。”

 聖書は様々な角度から「共に生きる」ことの大切さを説いています。イエス・キリストも何度も弟子たちに「互いに○○し合いなさい」と命ぜられました。よく言われることですが、『人』という漢字は「互いに支え合っている様子」を表しています。  神が私たち1人1人を創造された時、それぞれに「優れたポテンシャル」を授けられました。そしてそれらのポテンシャルは、私たちが独りよがりで生きるならば、決して発揮されないものです。人間の『真価』は本来人との関係の中で発揮されるものだからです。  文明が発達し、様々な面で生活が便利になったことは喜ばしいことではありますが、それによって徐々に「他人の助けが要らない」「自分独りで生きて行ける」と錯覚しそうになることは悲しいことです。「人付き合いは面倒くさいから、できるだけ避けたい」と思われがちですが、その「面倒くさい人付き合い」を通してこそ、私たちは『忍耐』や『親切心』、そして『愛』や『憐れみ』といった、まさに神が私たちの人間性の内に育てたい要素を学んで行けるのです。そしてまた、私たちが日々の生活の中で体験できる「本当の喜び」といったものも、人と人との関係の中でこそ体験できる、神様からの素晴らしいプレゼントなのです。