(517) “すべてのことには定まった時期があり、天の下のすべての営みに時がある。”

 私たちの日々の生活の局面には『変化』が付きものです。職場や学校、家庭やその他の人間関係において「変わらないもの」は何1つありません。人によって多少の差はあるにしても、私たちには「様々な環境に『慣れる』」という能力が備わっています。と同時に、「せっかく慣れ親しんだ物や環境が失われることを嫌う」という傾向性も持っています。「不安定さ、不確実さ、予期せぬ出来事」というものに対する心備えが出来ていないのです。しかし実際には「不変な世の中」などは存在しません。生きていれば『変化』は避けられないのです。  ある意味『変化』は「突然」しかも「思わぬ時に」やってきます。仕事場での異動、肉親の死、自然災害など。そしてこれらの『変化』は私たちの人生をぺしゃんこにしてしまうこともできますし、また私たちを大きく成長させるきっかけになることもあります。そしてそのどちらになるかは「変化の種類」によるのではなく、「私たちの側の選択」にかかっているのです。  この世界で唯一『不変』なもの、そして私たちが真に「人生の不動の礎」として頼ることができるのは、天地創造の神だけです。そして、この世に変化が付きものなのは、この『不変の神』が、私たちを「誤ったものに頼ること」から守ろうとしておられるからに違いありません。神は、私たちが日頃頼ってしまっている様々なこの世のものが「実は全く頼りにならない」ということをよぉくご存じなのです。  「この世のものは全てはかないのだから、『世捨て人』のように生きなさい」と言っているわけではありません。ぜひ1日1日を大切に、目の前にある責任や人々を精一杯大切にして、全力を傾けて生きてください。ただ、1つのことだけ忘れずに。創造主なるまことの神だけが、あなたが『人生の拠り所』とすることができる唯一のお方なのだということを!

(516) “私たちの大祭司(イエス・キリスト)は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。”

 イエス・キリストは、その『教え』や『みわざ』の卓越性のゆえに「近寄りがたい存在」というような印象を与えますが、決してそんな存在ではありません。彼は『神の子』として地上に来られましたが、あくまで『人』として生きられたのです。勝手なイメージで美化しすぎることなく聖書が描く「イエス・キリスト」を観察するならば、彼がいかに「人間臭い」かが見えてきます。イエスは私たちと同じように1人の女性から生まれました。私たちと同じように疲れを感じ、のどが渇き、お腹をすかせました。腹を抱えて笑い、怒り、涙を流しました。そして時には仲間たちと酒を飲みながらどんちゃん騒ぎもしました。  そんな中で聖書が伝えるイエス・キリストの素晴らしさは、ご自身の体験を通して「私たちの痛みを分かってくださる」ということです。私たちは深い悩みや心の痛みの中にいる時、あまりの辛さのゆえに、周囲の慰めに対して、「あなたたちになんか、この私の痛みが分かるわけない!」と毒づきます。しかし実際は、「誰かにこの辛さを分かって欲しい」と心底思っているのです。ただ、うわべや口先だけの慰めに嫌気がさしてしまうだけなのです。しかし、聖書をじっくり読めば分かることですが、イエス・キリストは実に「筆舌尽くしがたい悩み・苦しみ」を経験された方でした。自分に与えられた使命を家族にさえ理解されず、人々は「イエスご自身」ではなく、「イエスから受ける利益」だけを目当てに近づいてきました。親友は無残に殺され、信頼していた弟子には裏切られ、社会的リーダーたちからは敵視され、ついには『十字架刑』という極刑に処せられて殺されたのです。あなたの知り合いに、これほど惨めで悲惨な人生を歩んだ人はいるでしょうか?  このイエスが、十字架刑から3日目によみがえられ、今日も生きて私たちとともに歩んでくださるのです。私たちの悩みや痛みを完全に理解してくださるのです。何故ならご自分が「同じように試みにあわれた」からです。このイエスこそまさに、あなたが必要としている『救い主』なのです!

(515) “たとえ、死の陰の谷を歩むとしても、私はわざわいを恐れません。あなたが、ともにおられますから。”

 ある子供が近所の森に『キノコ狩り』に行ったそうです。よくありがちなことですが、彼はキノコ探しに夢中になって、どんどん森の奥の方に入って行き、ふと気が付くと全く見覚えのない場所に迷い込んでいて、自分の家の方向がまるっきり分からなくなってしまったそうです。少年は物凄く不安になりました。幸いその森はそれほど広くはなかったので、何とかかんとかやっとのことで家に辿り着けたそうですが…  それから何日か経って、その子供はもう1度『キノコ狩り』に行ったそうです。懲りない性格ですね。そしてまた前回と同じようにキノコ探しに夢中になってどんどん森の奥に入って行きました。しかし今回は迷うこともなかったし、不安になることもなかったそうです。何故でしょう?実は、今回は少年のお父さんも一緒に来ていたのです。少年はキノコ探しに夢中になりつつも、常にお父さんが見えるところにいることをちゃんと確認していたのです。  聖書の中には多くの「神の約束」がありますが、恐らくそれらの中で最もすばらしくて力強い約束は、「共にいてくださる」ということだと思います。私たちはできることなら「何の問題もない人生」を過ごしたいと願いますが、残念ながら神を信じていても信じていなくても問題は起こります。「神様が私を愛してくれているなら、どうして問題なんて起こるの!」と文句を言いたくなるかもしれませんが、ある面『問題のない人生』は、『成長のない人生』です。神は私たちの人生に『困難』が起こることを容認することを通して、私たちを「成長させる」とともに、『私たちと神との関係』というものを、より深く豊かなものとしようとされているのです。

(514) “これは主が設けられた日。この日を楽しみ喜ぼう。”

 1日1日は神からの贈り物です。1日でも浪費してしまうことは、実にもったいないことです。皆さんは誰かから『贈り物』をもらった時どうしますか?まず贈ってくれた人に感謝し、ワクワクしながらその贈り物の包みを開けて、その中身を楽しみますよね?私たちは1日1日をそんな風に楽しむことができるのです。  忙しい日々を送っていると、つい「時間を無駄にしないように」と考えて『計画的』に時間を過ごそうとします。そのこと自体は悪いことではないのですが、それが高じると常に「先のことばかり」を考えてしまって、『今目の前にあること』を存分に楽しむ余裕を失ってしまうことが多くあります。常に「より生産的であろう」とするがあまり、自分の心の中はドンドン余裕がなくなって、その日のノルマをこなすことで精いっぱいで、次の日が来るのが恐ろしくなってくることさえあるのではないでしょうか?  この新しい年、そのような悪循環から脱出してみませんか?朝目覚めたらまずゆっくりくつろげる場所に行き、新しい1日が与えられその日を生きるためのいのちも与えられていることを神に感謝する時間を取りましょう。そして今日という1日が神からの贈り物であり、神が用意してくださっている感動や驚きがあちこちに散りばめられていることを期待しつつ、ゆっくりと心の余裕をもって『宝探し』のような気持ちで過ごしてみましょう。1年を通してそのような態度で過ごすことができたなら、年の終わりには昨年の終わりとは全く違った気持ちに変えられているに違いありません。

(513) “からだの明かりは目です。ですから、もしあなたの目が健やかなら全身が明るくなります。”

 『ビジョン』とは、神から与えられる「まだ見ていないものを見る」能力です。「単なる希望や夢」は誰でも持つことができ、ただ漠然と思いの中に抱いているだけですが、『ビジョン』はより具体的であり、いつも「心の目で見ている」必要があります。  旧約聖書の時代に神がアブラハムに「あなたは大いなる国民の父(始祖)となる」とおっしゃられた時、彼は既に75歳であり、しかもまだ子供は1人もいませんでした。普通に考えるなら「不可能」ですよね?きっとアブラハムも初めはそう考えたことでしょう。しかし神はアブラハムを宿営の外へ連れ出して星空を眺めさせ、「あなたの子孫は、今あなたが観ている空の星のように地に増え広がるであろう」とおっしゃいました。アブラハムは、ただ『聞く』だけでなく、『見る』必要があったのです。実際彼が1人目の子供を授かるまでにまだ20年以上もかかったのですが、アブラハムはきっと夜空の星を見上げるたびに、神の約束を思い起こしていたに違いありません。  いのちあるものを生み出すためには、何よりもまず、内に「身ごもらなければ」なりません。そしてそれはあたかも「心のキャンバスに描く」ようなものなのです。それを日々じっと見つめながら、今できることに全力を尽くすのです。  偉大な彫刻家ミケランジェロは、他の人には単なる石の塊にしか見えないものの中に『ビジョン』を見、「私はこの中に閉じ込められているものを解放してやらねばならないのだ」と言って次々と作品を作り出していったそうです。神様は私たちの人生の中にも『傑作』を閉じ込めています。来たる2023年、私たちは神様が見せてくださる『ビジョン』を共に見つめながら、この「自分の内に秘められた神の傑作」を解放するべく、ひたすら励んで行きましょう!

(512) “ことばに表せないほどの賜物のゆえに、神に感謝します。”

 これは実際にあった物語です。  ある日の午後、1人の少女が骨董品屋の前に立ってウインドウから覗き込んでいました。そして意を決したようにドアを開けて中へ入って行くと、きれいな青いビーズを結んだネックレスをつかんで、カウンターにいる店主のところへ持って行って言いました。「これなら絶対に気に入ってもらえること間違いなし!おじさん、これをきれいに包んでね。お姉ちゃんへのクリスマスプレゼントなの。お姉ちゃんは去年ママが死んじゃってからずぅっとアタシの面倒を看てくれていて、とっても感謝しているの。だから今年のクリスマスには絶対にステキなプレゼントをするって決めていて、ずっと探してたの。でもこれに決めた!」  「お嬢ちゃんはいくら持ってるのかな?」店主は女の子に尋ねました。彼女はポケットから何枚かのコインを取り出してカウンターに置くと言いました。「アタシが持ってるお金、ぜぇんぶ持って来ちゃった。」 店主は女の子には見えないようにネックレスの値段を確かめると、女の子を見つめて「お嬢ちゃん、お名前は?」と尋ねながら、奥の部屋へと向かいました。女の子は大きな声で、「ジーン・グレイスよ!」と答えました。店主はきれいな包装紙に包まれたネックレスを女の子に手渡しました。女の子は礼儀正しくお礼を言うと、とても嬉しそうに帰って行きました。  クリスマス・イブの晩、最後の客を見送った店主が店じまいの支度をしていると、1人の若い女性が息を切らしながらやって来て、見覚えのある包装紙に包まれた品物を彼に手渡して言いました。「この品物を売った相手を覚えていらっしゃるでしょうか?」 「ええ、覚えてますとも。ジーン・グレイスという可愛い女の子でしたよ。なんでも大切なお姉さんへのプレゼントだとか…」女性は恐る恐る「これって、本当はおいくらする品なのですか?」 店主は「いやぁ、こういった品物の値段は、売り手と買い手との間の秘密なんですよ。」と答えました。女性はもう1度尋ねました。「でも、私の幼い妹が一体どうやってこんな高価な品を購入できたと言うんです?」 店主は開きかけた包装紙をもう1度丁寧に包み直してその女性に手渡しながらこう言いました。「あなたの妹さんは、他の誰も支払えないほどのとても高価な代金を払って買ってくださったんですよ。彼女の持っていたすべてを支払ってくださったんですから。」  神は最高の代価である「ひとり子のいのち」を支払って、私たちを買い取ってくださいました。それがクリスマスの物語なのです。言葉に表せないほどのこの高価な贈り物のゆえに、神に心からの感謝をささげましょう。

(511) “あなたがたは神に選ばれた者、聖なる者、愛されている者として、深い慈愛の心、親切、謙遜、柔和、寛容を着なさい。”

 皆さんは朝目覚めた時、きっと「今日はどんな服やアクセサリーを身に付けようかなぁ」と思うことでしょう。ぜひその時に「外面的に身に付けるもの」だけでなく、『内面的な身支度』にも思いを馳せてみてはいかがでしょうか?「今日は人々に対してどのような態度を示そうか?」「ポジティブな態度でいようか、それともネガティブな姿勢で?」「協調性を心掛けようか、それとも批判的に?」「自己中心的に行こうか、それとも他の人のために役に立つ者でいようか…」などなど、いろいろ考えられますよね。  「でも、人に親切にしてばかりでは、いいように利用されてしまうのでは?」と思うかもしれません。実際そういうこともあります。しかしたとえ多少損をすることがあったとしても、他の人に親切な態度で接することは優れたことです。それには次の2つの理由があります。  ①神が私たちに対して恵み深く親切に接してくださっているから   ・ある有名な詩人は「人が親切な心で生きている時、最も『神の素晴らしさ』を反映している」と言いました。言い換えるなら「互いに親切な態度で生きるために」神は私たちをお造りになられたのです。  ②自分の心の奥底で「他の人から親切にされたい」という願いがあるから   ・イエスの最も優れた教えの1つは「他の人にしてもらいたいと思うことを、あなたもしてあげなさい」です。『黄金律』とも呼ばれています。私たちが他の人を冷たくあしらう時、その人もあなたに対して冷たい態度を取るでしょう。しかし逆に親切な態度で接するなら、親切な反応が返ってきます。日本のことわざに「情けは人の為ならず」と言われている通りです。  実際私たちが他の人に親切な態度で接することを習慣にするならば、それは単に人間関係を円滑にするだけでなく、私たち自身の心をも豊かなものへと成長させていくのです。「人をも富ませ、自分をも豊かにさせる」、これが神様が私たち1人1人に望んでおられることなのです。

(510) “だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られたものです。”

 どんな人でも『傾向性』というものを持っています。「物事を良い方向に取るか、悪い方向に取るか」「冒険を好むか、現状維持を好むか」「高いセルフイメージを持っているか、自分を低く見積もることが多いか」などなど。どちらが優れているかということに関係なく、これらの『傾向性』というものは長い年月をかけて培われたものなので、変えたいと思っても簡単に変えられるものではありません。しかし同時に「これは自分の性格なのだから、変えようがない!」とあきらめてしまう必要もありません。神はイエス・キリストを通してご自分に近づく者を、『新しく造られた者』としてご自分にふさわしい姿へと造り変えてくださるのです。  聖書は私たちが神を信じて生きて行く様子を「信仰による『歩み』」と表現しています。言うまでもなく『歩み』というのは、移動手段の中でも最も「ゆっくりな」方法ですよね。神様は私たちを飛行機に載せて運ぶようなことをしないで、「一緒に歩もう!」と言ってくださるのです。では、神と共に歩む「新しく造られた者としての歩み」とは、どのようなものなのでしょう?  私たちの『性格・傾向性』というものは、「自分に対して強い影響力を持っていた人々」、また「いつも触れていた情報」によって育まれてきました。それらの多くはきっと「自分で選択する余地がなかったもの」だったのではないでしょうか?ですからこれからは自分の『思い』を切り替えることによって、「神からの語りかけである『聖書の言葉』」、そして「同じ神を信じて『歩んでいる』人々」と触れる時間を多く持つようにするのです。衣服の頑固な汚れを落とす時に「漂白剤に浸して」おくように、私たちの『思い』を「神のことばである『聖書』に浸しておくと、おのずと神が私たちに望んでいることが身に付いて行き、肩の力を抜いて『新しい目標』を目指して歩んで行けるようになるのです。

(509) “わたしの名で呼ばれるすべての者は、わたしの栄光のために、わたしがこれを創造した。”

 『作品』と呼ばれる様々な創造物がありますよね。美術品、建造物、音楽、料理、そしてお父さんが日曜大工で作ったもの、お母さんが編んでくれたマフラー、子供たちの工作などなど。一級品もあれば、ほどほどのものもありますが、それら全ての『作品』のゆえに讃えられるべきは、それを造った「美術家」であり「作曲家」すなわち、『造り主』です。  私たち人間にも『造り主』がいます。それは、天地万物を造られた「創造主なる神」です。ですから、私たちに何か「讃えられるべきこと」があるとしたら、それらの栄光は「創造者なる神」へと帰せられるべきです。そして実際私たち人間には「讃えられるべきこと」が数多くあります。  まず体の構造。脳のしくみや、目や鼻や口の機能、頭と手足の絶妙なバランス。その複雑さや神秘を知れば知るほど、私たちはその『造り主』である神を讃えずにはいられません。またその豊かな感受性や精神構造。他のどんな動物とも比較になりません。そして先に述べた様々な芸術や科学その他を生み出す能力や才能もすべて、この「創造主なる神」が潜在的に与えたものです。神はまさにその栄光を大いに讃えられるべきお方です。  しかし聖書には更に驚くべき記述があります。それは、「神の優れた御力は、私たち人間の『弱さ』にこそ完全に現される」というものです。神の栄光は、私たちが豊かな才能を発揮することを通して以上に、私たちが自分の『弱さ』を自覚し、へりくだって神の前に進み出て憐れみを乞い、神が私たちへの深い愛の故にご自身の大いなる御手をもって私たちを危機から救い出してくださったり、一見もう無理と思えるような試練をも乗り越えさせてくださる時に「完全に現されるのだ」と言うのです。「父親の日曜大工の作品」や「母親による手編みのマフラー」は、それほど讃えられるような見栄えはないかもしれませんが、そこに込められた熱意や愛情は認められるに値します。同じように、『神の栄光』とは、何も「神がご自分を誇示するため」に現わされるのではなく、「私たちの人生を通して現される神ご自身のご性質」のうちにこそ見出せるものなのです。

(508) “わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、あなたがたに模範を示したのです。”

 『学ぶ』という言葉は『真似ぶ』から来ているそうです。きっと昔(学校制度ができる以前)は、「親」や「親方」など身近にいる「その道の先輩」が『実物教師』として模範を示し、それを見て、真似をし、新しいことを学んで行ったのでしょう。  イエス・キリストは私たちに「本来人間はどれほど高貴な存在であるのか」を示すために、自らがその模範として生きられた、と聖書は教えています。彼はその教えの中でしばしば「わたしが○○したように、あなたがたもXXしなさい」とお語りになりました。その中には「わたしが愛したように互いに愛し合いなさい」「わたしが受け入れたように、互いに受け入れなさい」などがあります。  ところが人間は持って生まれた『弱さ(限界)』のゆえに、自分の必要が満たされていない状態でそんな風に他の人を思いやるなんてとてもじゃないですよね?ですから上記のようなイエスの教えを聞くと、多くの人は「そんなの無理!それは理想かもしれないけど、全然実際的じゃない!」と感じると思います。しかしイエスは私たちのそのような弱さをもちろん承知の上で、上記の教えをされたのです。それは私たちに『無理強い』をするためではなく、むしろ私たちがそれらを実践できるような道があることをも知らせるためです。  イエスが、聖書が述べているように情け深く、憐れみに富んだ存在として歩まれたのは、彼自身がいつも「天地の創造者であられる父なる神」との深い関係に結ばれていたからでした。父なる神はいつも深くイエスを愛し、助け、力を与え、変わらない喜びと平安と力を注いでおられたので、イエスは常にその力に満たされて人々の間であのような驚くべき力を発揮されたのでした。すなわち、「イエスの模範に従う」ためには、単なる猿真似ではなく、イエスと同様に、まず「日々神との豊かな関係の中に生かされること」が必要なのです。私たちは「枯れ井戸」のような私たちの心から無理矢理に愛情を「ほじくり出す」のではなく、むしろ『管』のように、まず「愛に満ちた創造主」としっかりつながって、その大きな愛や憐れみ、平安などを注いでいただいて、その「受け取ったもの」を、必要に応じて周囲の人々に分け与えて行けば良いのです。「イエス・キリストのように歩む」とは、「イエス・キリストが持っておられたのと同じ『神との豊かな関係』」を、まず自分自身がしっかりと築いて、そこから流れてくる「すべての良きもの」をあふれさせて行く人生なのです。