聖書

(17) 悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。

ただ、必要なとき、人の徳を養うことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい。 「口はわざわいのもと」とは、昔から日本で言われている言葉です。聖書にも「愚か者も黙っていれば賢い者と思われる」とあります。このように、私たちが語る言葉は、しばしば人を傷つけ、ガッカリさせ、己の愚かさを露見させるきっかけとなり得ます。しかし、かと言って、全く何も語ることなく一生を過ごすことはできませんよね。では、一体どうすれば良いのでしょうか? イエス・キリストはおっしゃいました。「良い人は、その心の良い倉から良い物を出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を出します。なぜなら人の口は、心に満ちているものを話すからです。」と。私たちは何か言うべきでないことを言ってしまったとき「心にもないことを言っちゃった…」などと言ったりしますが、そんなはずはありません。心にあったからこそ話してしまったのです。ということは、私たちの『語る言葉』を変えるには、まず『心の中にあるもの』から変えなければなりません。 ところで、私たちの『心の中にあるもの』というのは、一体どこからきたのでしょうか?お腹の中から自然と湧いてきたのでしょうか?いいえ、そのほとんどは、私たちが意識的、または無意識に自分で心に取り込んだのです。家族や友だち、新聞や雑誌、そしてテレビやインターネットなどからです。そして非常に残念なことに、それらのほとんどは、否定的・破壊的な情報に満ちており、本来私たちが触れているべき「崇高で愛に満ちた情報」から隔絶しているのです。 『聖書』の中で神が私たちに語りかけることばは、『愛と尊厳』に満ちています。「わたしはあなたを崇高な目的のために造った」「わたしは永遠の愛をもってあなたを愛した」「あなたはわたしの目に高価で尊い」「わたしは決してあなたを離れず、あなたを捨てない」…。私たちがこれらの『真理のことば』に絶えず耳を傾けて生きるとき、私たちは「良い倉」から「良い物」を出す、「聞く人に恵みを与える者」とされていくのです。  

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メッセージ

2011年5月22日 イエスを見上げなさい!

説教あらすじ「イエスを見上げなさい!」(22/05/2011)   ◎[ヨハネ3:9-15]   *イエスが話した「地上(見える世界)のこと」と「霊的な(見えない世界の)こと」との関連性を、ニコデモ は理解しなかった。[9-10節] 彼も他のユダヤ人と同様「見れば信じる」という姿勢を持っていた。   ◆「見えない世界で起こる出来事」が「見える世界」に影響を与えるのであって、その逆ではない。それ故 私たちは、「見える世界で起こること」から、その背後にある「見えない世界」を推察することができる。     ◆ イエスも同様にして、目に見えない「天の御国」について証しされようとした。[11-12節] ・イエスは「天の御国」を人々に理解させるため、様々なたとえを用いられた。 ・また、イエスご自身こそ「見えない世界」に先に存在し「見える世界」に現された大いなる実例であ り、「天の御国」を表現するために御父が地上に送られた『天の御国の究極のたとえ』。 ・神は地上の歴史の中で、私たちが悟るべき『救いの概念』の原型を、様々な形で表現して来られた。 (例)①ノアの箱舟  ②ソドムとゴモラの滅亡  ③アブラハムとイサクの物語     ◆ そしてここ[14節]では、もう1つの例として「荒野で上げられた蛇の話」[民数記21:4-9] をあげている。 ・この出来事に含まれているいくつかの重要な真理 ①「かみつく蛇」:この世の災いは、私たちと神との関係が壊れた結果としてやってくる。 ②「かまれた人々」:神との関係が壊れた結果、私たちは、罪・死・さばきに定められた。 ③「青銅の蛇」:神は、私たちを罪と死から救うために、イエス・キリストを贈られた。 ④「青銅の蛇を見上げる者は生きる」:イエスを「神からの救いの道」として受け入れる者は 『永遠のいのち』を得る。[15節]   ・ここで「青銅の蛇を見上げるかどうか」は『信仰』の問題。(『知的納得』ではない。) 「回復の兆し」は、信じて見上げるまでは現れなかった。納得できるのを待っていた者たちは死んだ。 ・人々が「信じて蛇を見上げる」のを助けたのは、「先に見上げていのちを得た者たち」。すなわち 「先にいのちを得た私たちの使命」は、このいのちをまだ得ていない人たちに証しすること。   Read more…

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2011年5月15日 新しいいのちに生きる

説教あらすじ「新しいいのちに生きる」(15/05/2011)   ◎[ヨハネ3:1-8] ◆『ニコデモ』という人物について [1-2節前半] ・パリサイ人:聖書(律法)の専門家。律法に従うことによって神の祝福が得られると信じていた。 ・ユダヤ人の指導者:ユダヤ議会『サンヘドリン』のメンバー(いわば国会議員)。 [2節]・彼も「しるし」に魅かれていた1人。ただ、彼は「しるしそのもの」以上に「この方こそ、 神が共におられる方に違いない!」という点に魅力を感じていた。   ◆ イエスは、ニコデモが求めているものをいち早く察知して言われた。[3節] ・「もし生まれ変わることができたら…」と思う人は多い。しかし、生物学的には不可能。[4節] しかし、イエスが意味したのは「肉体的」なことではなく「霊的世界」のこと。[5-7節] すなわち「私たちの地上のからだ」のことではなく、神から見た「神の国(天)における立場」のこと。   ◆ 私たちは皆「新しく生まれる」までは、神の前に「失われている」➝ [ルカ19:10,15:4-7] ・それは、私たちの罪(神の権威と無関係に生きようとする心の態度)の故に「神との断絶」の状態にある から。しかし、私たちがそのような態度を捨て(悔い改め)、キリストによる和解を受け入れるなら 「神と共に生きる関係」へと回復される。これが「新しく(神の国において)生まれる」ということ。   ◆「新しく生まれた者」は『2重国籍(天と地)』を持つようになる。ただ、天においては生まれたばかりで あり、目に見える肉体が地上にあるので、初めのうちは天におけるいのちの実感があまり湧かない。 ・何故神は、この肉体をもさっさと天に引き上げないのか? ➝ 神の願いは、この地上で、私たちを通して「天のいのちの豊かさ」を証しすること。   ◆ では、どのようにして「天のいのちの豊かさ」の中に生きるのか? ① 祈り:「みこころが天において成るように、地においても、この身を通して行われるように。」 ② みことば:『霊的食物』。朝ごとに。暗唱するのは、なお良い。 Read more…

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聖書

(16) どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。

なぜなら、いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産の中にあるのではないからです。 ある新聞社で「お金とは?」という質問に対する回答を募集したところ、実にいろいろな投書が集まりましたが、その中に次のようなものがありました。「いくらあっても困ることがなく、幸福以外なら何でも買えるモノ。」 確かにお金がたくさんあれば、いろいろなものが買えて大変便利ではありますが、財産は必ずしも私たちを幸福にはしてくれないようです。実際多くのいわゆる『お金持ち』や『成功者』たちは、心に悩みを持ち、ノイローゼや自殺などに至ってしまうこともしばしばです。かえって、その日暮らしの貧しい人々の方が、心の底から笑うことができるのではないでしょうか? 真の『幸福感』『生きる喜び』は「明日のことは心配するに価しないことだ、と信じること」から来ます。幼い子供たちが、時間の経つのも忘れて、ひたすら楽しく遊ぶことができるのは、先のことを何も心配していないからです。彼らには『地位』も『財産』も何の意味も持っていません。ただ「輝く今」だけがあるのです。 私たちは、私たちを限りなく愛し、私たちの明日を守ってくださる「神の御前にあってのみ」この喜びと充足感を味わうことができます。これは単なる『楽観主義』とは全く別のことです。『楽観主義』とは、何の根拠もなく「まあ明日は今日よりもちょっとはマシになるだろう」と考えることです。しかし、私たちが聖書を通して『私たちのいのちを見守られる神』と出会うとき、「根拠のある安息」を持つことができます。しかも、この神が私たちに望んでおられるのは「頑張って活躍し、成功すること」ではなく、「ただ幼い子供のように、その力強さと深い愛に心から信頼し、この方と共に生きる『今』を満喫すること」なのです。

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聖書

(15) 私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。

多くのいわゆる『宗教』は、『善行(良い行い)』というものを「救いに至る条件」として強調します。気持ちとして分からなくはないのですが、多くの場合、救いの道を求めておられる方々というのは正しい行いを「しなくてはいけないと分かっているのに、できない」からこそ、悩んでおられるのではないでしょうか? 聖書は「私たちは『神の作品』である」と教えます。だからこそ私たちは、程度の差こそあれ「正しく生きたい !」という願いを持っているのです。しかし私たちが、この世に生を与えてくださったこの神様と無関係に生きようとしているため、どんなに正しく生きようとしても、それを実現できないのです。それはちょうど、電源から抜けてしまっている電化製品が、正しく作動しないのと同じことです。 「クリスチャンが良い行いをするのは、そうしないと救いを得られないからだ」と勘違いなさっている方々がおられます。もし「クリスチャン=良い人たち」という印象があるとすれば、それは「そうしないと救いが得られないから」ではなく、むしろ「救いを得た結果として、自由に良い行いができるようになったから」というのが正解です。 神は初めから私たちを「良い行いに歩むように」とデザインされました。「どうやら私は今、そのデザインからズレて生きてしまっている」とお感じになっているあなた、神が提供しておられる「イエス・キリストにある救い」を素直に受け取ってみませんか?  

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2011年5月8日 無条件の信仰

説教あらすじ「無条件の信仰」(08/05/2011) ◎[ヨハネ2:23-25] *〈『木』が変わって、プロポーズを承諾した話〉➝ 何が人と人との関係を「不動のもの」とするのか?   ◆[23-24節] ・イエスは何故ご自身を彼らにお任せにならなかったのか? 彼らの信仰は『しるし』によって生まれた「条件付き信仰」だったから。 このような信仰は、何がきっかけで失われてしまうか分からない。   ・「もっと神様のことが分かったら、信じる」という人がいるが、どのくらい分かったら信じるのか? 「極めたら?」:人が極めることができるような神に、人を救えるだろうか?   ・私たちが結婚を決めるのは、相手のことがどれだけ分かったら? ➝ ほんの少し。(すべてが分かったら、結婚しないかも…)   「どれだけ分かったら」が重要なのではなく、 「たとえ何が分かっても、決してあきらめない」という決断が重要。   ・私たちの『信仰』もこれに似ている。➝〈自分が信じたときの証し〉「イエスがいのちをかけてくださった 『真実の愛』に応えるための唯一の道は、同じく『真実の愛』による応答」と確信した。   ◆イエスは言われた。[ヨハネ14:21] ・「わたしの戒め」とは、「互いに愛し合え」を含めた、聖書のみことばのこと。私たちが神のことばに 対して、愛と真実をもって応えて行くなら、神と私たちとの『愛の関係』は日々成長し、不動のもの とされていく。そしてイエスは更に新しくご自身を私たちに現される。(親しさの証しとして)   ・イエスは万民を愛しておられるが、それとは次元の違った愛で、ご自分に近づいてくる者を愛し、 その心を許される。   ★ 『信じ、愛するために知ろうとする』のではなく、 「信じ、愛することによって、更に深く知る者」となろう!   Read more…

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(14) 主(神)を恐れることは知識の初めである

『常識』という言葉を辞書で調べると「普通、一般の人が知っている、また知っておくべき知識」とあります。ところが最近この『常識』に欠ける人々が増えてきていることが問題になっています。その事実は、次のような「取扱説明書」の記述を見ると分かります。 ・ヘアードライヤー:睡眠中はご使用にならないでください。 ・アイロン:衣服を身に着けたままご使用にならないでください。 ・チェーンソー:回転中のチェーンを手で止めようとしないでください。 これらのことを理解していないということは、単に「知識がない」というよりもむしろ、「人が生きる上で正しい判断を下すための基準を持っていない」とも言えるのではないでしょうか。 聖書は「人は神を認めようとしなくなって以来、その思いは虚しくなり、その無知な心は暗くなった」と書いています。生まれつきの人間は、自分自身の中に『確固たる判断基準』を持っていません。そしてこの『確固たる判断基準』なしに、ただ知識や経験を積み重ねたところで「正しい分別」を身に付けることはできません。私たちの日々の歩みに確信を与える『絶対基準』、それは、この天地の創造主、絶対者である神以外におられないのです。

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聖書

(13) わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた 大いなる事を、あなたに告げよう。

ある女性が山道を運転中に居眠りをしてしまって、ガードレールを突き破って転落しそうになりました。幸いガードレールの切れ端が車の1部にからまったため、車体は谷底に落ちずに、宙づりになりました。通りがかった人々の通報によりロードサービスがレッカー車と共に到着し、救出活動が開始されましたが、興味深いことに、救出活動中、車体が揺れるたびに、その女性ドライバーは次のように叫んでいたということです。「もういいわ!あとは自分でできるから!」 ある人々は、他人に与えるのは得意ですが、他人から受けるのを苦手としています。プライドが邪魔をするのです。「他人の助けは要らない。自分1人でできる!」と言うのです。しかし多くの場合、私たちは自分の本当の姿を理解し成長するために、私たちのことを良く知っている周囲の人々のアドバイスを必要としているのです。 「神を信じるのは、愚かで弱い人のすることだ」と言う人々がいます。しかしもし神が本当におられるとしたら、彼こそが私たち1人1人のことを最も良くご存じで、私たちの成長のための最善のアドバイスをすることができる方です。上記の言葉は、聖書の中で、神が私たちに呼びかけている言葉です。私たちがつまらないプライドを捨て、へりくだって神の前に進み出るとき、私たちの人生に有益な『理解を越えた大いなる事』を、神は私たちに知らせてくださるのです。

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