聖書

(167) “粘土が陶器師の手の中にあるように、あなたがたも、わたし(神)の手の中にある。”

やること為すことがうまく運んでいる時は、誰でも「前進している」という手応えを感じることができますが、何をやっても思い通りに行かない時は「全然前に進んでいない!」とガッカリしたり、落ち込んでしまうのが私たちの傾向ですよね?私たちはいつでも『目に見える進歩』に一喜一憂してしまうものです。しかし私たちの向上というものは、必ずしも目に見えている状況から判別できるものとは限りません。 皆さんは『粘土遊び』をしたことがあると思いますが、多くの方はもう1歩進んで『焼き物作り』にも挑戦したことがあることでしょう。どちらも初めにやることは「よく粘土をこねること」なわけですが、その目的は異なります。すなわち『粘土遊び』のために粘土をこねるのは単に「作業を簡単にするために、粘土を柔らかくするため」ですが、『焼き物作り』のために粘土をこねるのは「土の中にある空気を押し出して、後で出来上がった作品がダメになってしまうのを防ぐ」という大変重要な過程なのです。ですからプロの陶器師はことさら長い時間をかけて丹念に粘土をこねます。 聖書のある箇所で、神様は『陶器師』そして私たちはその手の中の『粘土』にたとえられています。神様は私たちを最高傑作へと形造るために、まず丹念に時間をかけて私たちを練ります。この間粘土の見た目は何も進歩がありません。もし粘土に感情があったなら「おいおい、痛いばかりで何も進歩がないじゃないか!」と思わず文句を言いたくなるかもしれません。しかしここで重要なのは『見た目の変化』ではなく『作品に対する陶器師の意気込み』です。私たち人間は生来「できるだけ楽をして成功したい」と考えますが、陶器師である神は『最高傑作を造ること』しか考えていません。逆境に立たされた時、私たちは「環境によって簡単に変化させられてしまう『自分の気持ち』」ではなく、「私たちを最高傑作へと形造ろうとしておられる『神様の愛と情熱』」に信頼して、その逆境の向こう側にあるはずの『完成へのプロセス』を遥かに望み見ながら喜ぶことができるのです。

メッセージ

2015年5月24日 「ローマ人への手紙 12章」

メッセージをダウンロードして聴く 説教あらすじ       「ローマ人への手紙 12章」     (24/05/2015) *11章までは、私たちの救いのために神がどれほどの憐れみを示されたのかが述べられている。 「そういうわけですから…」 (ギリシャ語原文では『お願いします』という語が文頭にある) ◆[1~2節] ・私たちの『からだ』をささげる。 ― 『思い』だけではなく、「日常の生き方・人生そのものをささげる」ということ。 ・『神のみこころ』を知るために「自分を変える」 = 人生の目的は『自己実現』ではない! ◆[3~8節]  *人生の目的は、「神との関係の中で、互いの益のために自分を用いていくこと」。 ・私たちは、「互いにそれぞれのための器官」であり、「共にキリストのからだを建て上げるため」に存在する。 ◆具体的な愛の行為 [9~21節] ・[9節]悪を生理的に嫌う。  ・[10節]競って尊敬し合う。  ・[12節]試練の中で祈りによって支え合う。 ・[13節]自分の必要を訴える『謙遜さ』と、それに応える『積極性』。 ・[15節]「自分がどう感じるか?」ではなく… ・[18節]相手の出方がどうであろうと、自分の側ではあらゆる努力を払う。 ・[19~21節]「この世の常識や自分の性質」に逆らってでも、みことばに従うのが、真の信仰。   Outline of the sermon        “Romans chapter 12.”     (24/05/2015) *“Therefore” : Paul has Read more…