聖書

(287) “神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。”

多くの人々は『変化』を嫌います。できるだけ「現状を維持したい」と思うのです。確かに同じ事を繰り返していることは楽ですし、危険を回避することができますが、と同時に「目覚しい成長」を経験できないことも事実です。 聖書の中に出てくる「信仰の偉人たち」(モーセ、ギデオン、ダビデなど)は皆、初めは弱く失敗の多い人々でしたが、神に信頼して人生を歩む中で、後世まで語り継がれるヒーローとなったのです。 空中を美しく舞うあの蝶も、初めはカッコ悪い『毛虫』にすぎません。地面や葉っぱの上にネバネバした後を残しながらノロノロと這い回る、それこそ誰にも見向きもされない存在です。それがやがて成長してあの美しい蝶に変わるのですから、驚きですよね? 実はあの蝶の飛翔する力は、毛虫時代に黙々と這い回り続けた成果なのです。カッコ悪いと嘲笑されながらも与えられたいのちを精一杯生きることは、後になって想像を超えた結果をもたらすのです。今のしばらくの間の試練は、やがてあなたの人生に美しい花を咲かせるためになくてはならない格闘なのです。 悪魔はこのことをあなたに知って欲しくないので、「そんな大変な苦労はもうやめて、サッサとあきらめてしまいなさい。神様はお前なんかの人生を用いて大したことをしてくれるわけがないんだから…」とささやきかけます。しかし多くの試練を潜り抜けて偉業を成し遂げたキリストの使徒パウロは次のように結論付けました。「私が弱いときにこそ、私は強いからです」と。あなたはどちらの言葉を信じますか?

聖書

(286) “ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み…”

新年明けましておめでとうございます。新しい年を迎えましたね。ある人は「『新年』って言ったって、ただ12月31日の翌日っていうだけじゃない?」とおっしゃるかもしれませんが、人生に区切りをつける意味では「新たな気持で新年を迎える」ということにも意義があるのではないでしょうか? 毎年、年の初めに「今年の目標」なるものを掲げる人もおられると思います。皆さんは1年前に掲げた目標を覚えていらっしゃるでしょうか?またその目標をどれくらい達成できたでしょうか?もしかすると「全然ダメだった」という方もいらっしゃるかもしれませんね。そんな方々のために「年の初めの目標」を立てるための目安になるものをいくつか伝授したいと思います。  ①真に価値ある大切なことに十分な時間を費やすことを心がける。 ・具体的に言うならば「家族と過ごす時間を増やす」「毎日少しずつでも運動をする」「食べ物に気を配り、無駄食いをしない」など。そして、朝ごとに「聖書を読んで祈る時間」を持つことをお進めします。神様にしっかりと心を向けて1日をスタートすることは、時間を浪費することを防ぐ良い方法です。  ②1度にいろいろなことをしようとしないで、1つのことに集中する。 ・欲張っていっぺんにたくさんのことをしようとすると、結局どれにも満足いく結果を得られなくなってしまいます。真に大切なものがどれなのかを見極め、その一事に全力を尽くしましょう。  ③小さいステップから始める。 ・「大きな夢をみること」は大切ですが、大抵の『偉業』は、やり始めたときはそのような結果になるとは予想されていなかったものです。「夢が大きすぎて尻込みし、最初の1歩をなかなか踏み出せない」よりも、小さくても『確かな1歩』をまず踏み出してみましょう。そうすれば、次の1歩が見えてくるかもしれません。  ④変化を記録する ・どんな人にも『励まし』が必要です。「周囲から見ればその人にかなりな変化が起こっているのに、当人は全く気付いていない」ということは良くあります。自分に少しずつ起こっている「変化・成長」を記録することによって日々励ましを受け、更に前進する原動力として行きましょう。

聖書

(285) “確かに、私たちは見るところによってではなく、信仰によって歩んでいます。”

「クリスチャンの人たちは、よく『神の導き』などと言うけれど、一体神様はどうやって導くのだろう?」などとお考えになったことはないでしょうか?確かに神様は私たちをご自身のみこころに従って導かれます。でもそれらは「はっきりと見たり聞いたりできる形で導く」というよりも、ある聖書のことばや、聖霊によって内側に湧いてくる強い思いなどによるもので、実際にそれに従って行動を起こしてみないと「あれは確かに神の導きであった」と確証しきれないものが多いのです。 1秒先さえも見通せない私たちは、占いや運勢などを頼りにして、何とかして将来の安全や確証を得ようとします。もしくは人生の先輩のアドバイス、過去の調査データ、また成功マニュアルなどを参考にしようとしますが、どれも私たちに100%の保証を与えてくれはしません。結局は「私たちがその対象にどれだけの信頼をおいているか」ということにかかってくるのです。 私たち家族は今から20年以上前に「海外宣教師」として日本から出発しました。神が私たちをそのように導いておられると確信したからです。当時まだ子供たちは幼く(2歳、4歳、6歳) 周囲には強く反対してくださった方々もいました。しかし私たち夫婦は「聖書のことばによる約束」と「聖霊による強い確信」に導かれて出て行ったのです。以来20年余、数々の危険や不自由な思いも経験しましたが、あのままずっと日本で生活していたら決して味わうことのできなかった特権や祝福そして神の奇蹟を味わうことができました。私たち家族は確かにこの20数年の歩みの中に『神様の御手』を見ることができるのです。 この「神に導かれて生きる信仰の歩み」というものは、一時的なものではなく、生涯続くものです。来年の今頃自分たちがどこで暮らしているのか想像もつきませんが、1つだけ確かなことは、この神様に信頼して従って行く限り、いつも大きな喜びと満足感を心の底に抱いて生きることができるということです。

聖書

(284) “私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか?”

神が人間世界に与えられた最も尊いものの1つが「愛による関係」です。しかしこれは『尊いもの』であると同時に『壊れやすいもの』でもあります。その『愛の関係』が誤った理由に基づいている時は特にそうです。 この世における『愛』はしばしば「条件付き」です。「相手が優しいから」「欲しいものをくれるから」「可愛いから」「一緒にいると楽しいから」などなど。時には親子関係においても「ちゃんと言うことを聞いてくれたらオヤツをあげる」とか「次のテストで百点を取ったら許可する」などという条件によって「親からの褒美を勝ち取る」習慣を身に着けさせられます。 私たちが聖書によって神の愛を知り、イエス・キリストを通して『神との愛の関係』の中で歩き始めても、「何故神がそれほどまでに私たちを愛してくださっているのか?」ということを誤って理解していると、神の愛を疑ったり、神からの凝らしめを恐れたりするようになってしまいます。「こんな失敗をしてしまったから、もう神は私を見捨てるのではないだろうか?」「いくら努力しても立派になれない自分に、神は呆れてしまうのではないだろうか?」 では逆にこんな質問をしてみてはどうでしょう?「神は私を愛することを止めてしまうことがあるのだろうか?」あなたが以前の悪習慣に逆戻りしたとしたら、人助けをするチャンスを見てみぬふりをしてしまったら、そしてあまりの苦しさのため、つい神を呪ってしまったとしたら・・・ 神はもう2度と愛してくださらない方なのでしょうか? 聖書は断言します。「決してどんなものも、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません!」そうです。『神の愛』は「私たちがどんなものであるか?」に基づいているのではなく、「最愛のひとり子イエス・キリストの故」なのです。イエス・キリストが、ご自分の立場を私たちと入れ替わってくださり、私たちの身代わりに十字架にかかられたので、今や父なる神は「イエス・キリストを愛していた愛」によって私たちを『無条件』で愛してくださるのです。

聖書

(283) “彼らのしていることはみな、人に見せるためです。”

『偽善』という語(普段あまり耳にすることはありませんが…)を好きな人はあまりいないと思いますが、実際にその意味を十分に把握している人も多くはないのではないでしょうか?『偽善』を簡単に説明するならばそれは要するに「自分を人に良く見せようとすること」と言えるでしょう。ということは「誰の心にもありがちな思い」なのではないでしょうか?イエス・キリストは多くの面で「寛容と愛情深さ」を示されましたが、この『偽善』に対しては徹底的に挑戦されました。何故だと思いますか?それは「人に良く思われたい」という心は、しばしば「神を見失わせる」からです。 例えばアナタは、今からしようとしている『良い行い』が決して誰の目にもつかないと初めから分かっていても、相変わらずそれを行うでしょうか?もし「それならやっても仕方がない。や~めた!」となってしまうとしたら、アナタは『偽善者』なのです。イエス・キリストは「あなたがたの右手がなそうとしている良いわざを、左手に気付かれないようにしなさい」とさえおっしゃいました。『良い行い』は本来「こっそりと」行われるべきものなのです。でも安心してください。神は私たちのすべての行い(隠れたものも含めて)をご存知です。私たちがどんなにこっそり『小さな親切』をしたとしても、決してそれを見逃したりはしません。神は憐れみ深く、愛に富んだ方ですから、私たちの『愛と憐れみの心』に敏感に反応され、そのような心から純粋に現された『良いわざ』に報いを与えないではいられないのです。

聖書

(282) “愚か者は自分の道を正しいと思う。しかし知恵のある者は忠告を聞き入れる。”

私たちは皆「人は1人では生きていけない」ということを知っています。そしてそれは『物理的』な理由だけではなく『精神的』な理由においても言えます。私たちは「真に正しい生き方」をしていくために、お互いの助けを必要としていますし、神様はしばしば私たちと周囲との人間関係を通して『良きアドバイス』を与えてくださいます。問題は、そのような(時には耳の痛い)忠告に私たちが素直に耳を傾けることができるかどうかです。 私たちは「自分はまだ不十分である」と感じている時には積極的に周囲の忠告に耳を傾けますが、「自分はもう大丈夫」と思い始めたとたんに耳を貸さなくなります。もし神様が私たちに「そこそこの(無難な)人生を歩んで欲しい」と思っておられるならば、それで良いのかもしれません。しかし実際はそうではなく、私たち1人1人を『最高傑作』として創造なさった神様は、それにふさわしく私たちに『最高級の人生』を歩ませようとなさいます。それ故私たちの周囲に様々な人々を送り、その時その時に必要なアドバイスを与えてくださるのです。 では、私たちは「優れたアドバイザー」と「そうでないアドバイザー」とをどのようにして見分けることができるのでしょう。いくつかの要素が考えられますが、まず「客観的に物事を判断してくれる人」「話を最後まで良く聴いてくれる人」「早急に結論を出さない人」などが考えられます。私たちはつい「自分の身になって同情してくれる」「すぐにアドバイスをくれる」などの要素を期待してしまいますが、それに応えてくれる人はやや危険性を持っているのでご用心を。神の知恵に基づいて適切なアドバイスを与えてくれる人は、そのために神に祈りつつ十分な時間を掛けてくれるので、必ずしも「欲しいタイミング」で応えてはくれないかもしれません。でもそのような人はある意味「人並み以上の耳や目」を持っているのです。あなたはそのような人からのアドバイスを望みますか?もしそうなら、神様が送ってくださる『良きアドバイザー』からの忠告に耳を傾ける心をもって日々歩みましょう。

聖書

(280) “子どもを苛立たせてはいけません。かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい。”

今日は特に「小さなお子さんを持つ親御さんたち」に読んでいただきたい内容です。 最近世界(特に先進国)では、子供たちによるいたましい事件が相次いでいます。生徒が教師を殺害したり、クラスメートを殺したり、そしてついには自分のいのちを絶ってしまうような…。 12歳と13歳の2人の少年が、コンビニの前で1人の男性を殴り殺しました。動機は「あの男が死んで行く様子を眺めているのが面白かったから」だそうです。また別の少年は、駐車してある車の中に座っていた男性を射殺しました。その理由は「オレのことを見たから」…。 何故このような悲劇が多発しているのでしょう?銃が簡単に手に入るから?暴力的な番組やゲームに多くの時間を費やしているから?確かに同様の多くの要因があることは否めませんが、専門家の綿密な調査結果によると、最も根本的な原因は「幼児期に受けた暴力や放任」にあるようです。赤ん坊が3日間以上汚れたオムツのまま放っておかれたり、幼い子供がひどくぶたれたり、家庭で無視されたりし続けると、いくつかのストレスホルモンが異常なほど多量に分泌されて血液中に混入し、次第に脳の機能を冒して行くそうです。そうして彼らはやがて他の人々に対する『思いやり』の感情が失われ、苦しんでいる人々に対する『同情』というものを感じられなくなるのです。 日本語に「三つ子のたましい百まで」ということわざがありますが、まさに生まれてから3年間の間に親から受けた扱いが、その子の一生の歩みを決定付けてしまうのです。こればかりは後でどんなに後悔しても取り返しがつきません。 お子さんをお持ちの方々、神が皆さんに与えておられる責任は、他のどんな社会的責任よりもはるかに重要であることを、ぜひ深く心に刻んでください。そしてあらゆる努力をして、お子さんたちを愛し、守り、日々励まし、十分に時間を共に費やし、そして神と人とを愛する子としてしっかりと育んであげてください。

聖書

(279) “私たちはみな、多くの点で失敗をするものです。”

子供たちが幼い頃から、我が家の合言葉は「ラーニング・エクスペリエンス(失敗から学ぼう)」でした。日本語にも「失敗は成功の元」ということわざがあるように、失敗を恐れていては何も学ぶことはできません。また失敗を恐れていては、神があなたのために立てておられる『偉大な人生の計画』に到達することもできないのです。 人は誰でも失敗するものです。けれどそれらの失敗の数々をじっくり観察するなら、それらはほとんどが「その時だけの恥」であって、多くの場合、その失敗を通して様々な助言をもらえるようになったり、反省してよく準備するようになったり、後輩に良きアドバイスを与えることができるようになったりするのです。 「失敗」が人を『失敗者』にするわけではありません。むしろ「失敗から何も学ばないこと」また「その失敗の故に2度と挑戦しようとしなくなること」が私たちに『失敗者』としての人生を歩ませるようになるのです。 神は決して私たちの失敗を責めたりはなさいません。むしろ私たちが、やること成すことすべてうまく運んで高慢になり、「私には神なんか要らない」などと言い始めることをお責めになるのです。日々私たちに知恵と力とを注いでくださり、私たち1人1人に与えてくださった「ユニークで偉大な人生」を全うさせようとしてくださっているこの神を見上げつつ、失敗を糧としながら前進して行きましょう。

聖書

(278) “信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。”

この天地をお造りになり、私たち人間1人1人にいのちをお与えになった『創造主なる神』は、そのすべてをこよなく愛しておられます。それ故神は、それらすべてを祝福し、慈しみ、聖書のことばを借りるなら「良い人にも悪い人にも太陽を昇らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせて下さる」のです。 私たち人間は『自己中心的』な存在なので、自分に意地悪をしたり都合が悪い人などがいるとつい、「神様、あの人に罰を与えてください!」などと祈ったりしますが、とても幸いなことに神は「気分屋」ではないので、私たちのそんな気まぐれな祈りにいちいち答えることはありません。(さもなければ、私たち自身も相当頻繁に『ひどい目』に遭ってしまうことでしょうね!) では神には『感情』のようなものは全くないのでしょうか?ある人々が考えるように、神は何か『法則』のような存在で、ただ機械的に天体を規則正しく運行させたり、悪い習慣に悪い報いが起こるように設定しておられるだけなのでしょうか?いいえ、そうではありません。聖書をよく読むならば、あちこちに神が「怒って」おられる様子や「悲しんで」おられる様子、そして「喜んで」おられる様子が描かれています。 では、神は一体どのようなことを「喜ばれる」のでしょう?それは、私たちの『信仰』です。信仰というのは何も「ありもしないことを、あるように思い込むこと」ではありません。むしろ「何よりも確かな存在である『人格的な神』がおられること」を素直な心で認めることです。そしてこのお方が日々注いでおられる『愛と恵み』に対して目が開かれ、心を通わせながら生きようとする私たちの「信仰の姿勢」を、神は喜んでくださるのです。 『信仰』とは、いわば「心の向き」です。例えば雨の日にコップを持って外に出たとしましょう。コップの口を上に向けておくなら、雨水はやがてコップの口いっぱいにまで溜まります。しかしコップが傾いていれば十分に溜めることはできないし、逆さまに伏せてしまっていたら雨水は一滴もコップに入ってはきません。同じように、神は「神とのふれ合いを求めて、心を真っ直ぐに神に向けて生きる者」を喜ばれ、他の人たち以上にご自身の祝福を与えずにはいられない方なのです。

聖書

(277) “まず、杯の内側をきよめなさい。そうすれば、外側もきよくなります。”

4週間ほど日本へ一時帰国していました。その間「聖書のいい話」をお休みしてしまいました。ごめんなさい。 さて、ある夫婦がドライブに行こうとしてガソリンスタンドに寄りました。するとスタンドの青年がフロントグラスを拭いてくれています。料金を払い終わり出発しようとしてふと見ると、何と拭いてもらったばかりのはずのフロントグラスがずい分と汚れています。夫の方が拭いてくれた青年に叫びました。「ずい分と雑な仕事をしてくれたじゃないか。もう1度キチンと拭いてくれたまえ!」青年は怪訝そうな顔をしながら、もう1度丁寧に拭いてくれているのですが、相変わらずフロントグラスは汚れたままです。夫は少々イライラしながら言いました。「その布が汚れているんじゃないか?よく確かめてみたまえ。」するとそれまで黙って見ていた妻がチョッピリあきれた顔で夫のメガネを取ると、自分のハンカチを取り出してきれいにし、再び夫の顔に戻しました。あらためてフロントグラスを見ると、一点の汚れもなくきれいになっていました。 この世のさまざまな『宗教』は、私たちに「道徳的な教え」や「立派な行動の規範」を示してくれます。それらはもちろん大切なことではあるのですが、私たちは決して外面的な努力によっては真の意味で自分自身を向上させることはできません。私たちの行動が洗練されていくためのカギは「私たちの内面の変化」にあるのです。私たちはまず内面的に造り変えられ、その後でその刷新された内面が、目に見える行動となって現れるようになるのです。 キリストは私たちの内面に潜んでいる「創造主なる神からそれている思い」という人類の根本的な問題に光を当てるために来られ、そしてその問題を解決するために私たちの身代わりに十字架の上でその罰をお受けになりました。このキリストを内側にお迎えすることによって初めて、私たちは物事の真実を見つめることができるようになり、少しずつ「人間のあるべき姿」へと回復されて行くことができるのです。