聖書

(279) “私たちはみな、多くの点で失敗をするものです。”

子供たちが幼い頃から、我が家の合言葉は「ラーニング・エクスペリエンス(失敗から学ぼう)」でした。日本語にも「失敗は成功の元」ということわざがあるように、失敗を恐れていては何も学ぶことはできません。また失敗を恐れていては、神があなたのために立てておられる『偉大な人生の計画』に到達することもできないのです。 人は誰でも失敗するものです。けれどそれらの失敗の数々をじっくり観察するなら、それらはほとんどが「その時だけの恥」であって、多くの場合、その失敗を通して様々な助言をもらえるようになったり、反省してよく準備するようになったり、後輩に良きアドバイスを与えることができるようになったりするのです。 「失敗」が人を『失敗者』にするわけではありません。むしろ「失敗から何も学ばないこと」また「その失敗の故に2度と挑戦しようとしなくなること」が私たちに『失敗者』としての人生を歩ませるようになるのです。 神は決して私たちの失敗を責めたりはなさいません。むしろ私たちが、やること成すことすべてうまく運んで高慢になり、「私には神なんか要らない」などと言い始めることをお責めになるのです。日々私たちに知恵と力とを注いでくださり、私たち1人1人に与えてくださった「ユニークで偉大な人生」を全うさせようとしてくださっているこの神を見上げつつ、失敗を糧としながら前進して行きましょう。

聖書

(278) “信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。”

この天地をお造りになり、私たち人間1人1人にいのちをお与えになった『創造主なる神』は、そのすべてをこよなく愛しておられます。それ故神は、それらすべてを祝福し、慈しみ、聖書のことばを借りるなら「良い人にも悪い人にも太陽を昇らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせて下さる」のです。 私たち人間は『自己中心的』な存在なので、自分に意地悪をしたり都合が悪い人などがいるとつい、「神様、あの人に罰を与えてください!」などと祈ったりしますが、とても幸いなことに神は「気分屋」ではないので、私たちのそんな気まぐれな祈りにいちいち答えることはありません。(さもなければ、私たち自身も相当頻繁に『ひどい目』に遭ってしまうことでしょうね!) では神には『感情』のようなものは全くないのでしょうか?ある人々が考えるように、神は何か『法則』のような存在で、ただ機械的に天体を規則正しく運行させたり、悪い習慣に悪い報いが起こるように設定しておられるだけなのでしょうか?いいえ、そうではありません。聖書をよく読むならば、あちこちに神が「怒って」おられる様子や「悲しんで」おられる様子、そして「喜んで」おられる様子が描かれています。 では、神は一体どのようなことを「喜ばれる」のでしょう?それは、私たちの『信仰』です。信仰というのは何も「ありもしないことを、あるように思い込むこと」ではありません。むしろ「何よりも確かな存在である『人格的な神』がおられること」を素直な心で認めることです。そしてこのお方が日々注いでおられる『愛と恵み』に対して目が開かれ、心を通わせながら生きようとする私たちの「信仰の姿勢」を、神は喜んでくださるのです。 『信仰』とは、いわば「心の向き」です。例えば雨の日にコップを持って外に出たとしましょう。コップの口を上に向けておくなら、雨水はやがてコップの口いっぱいにまで溜まります。しかしコップが傾いていれば十分に溜めることはできないし、逆さまに伏せてしまっていたら雨水は一滴もコップに入ってはきません。同じように、神は「神とのふれ合いを求めて、心を真っ直ぐに神に向けて生きる者」を喜ばれ、他の人たち以上にご自身の祝福を与えずにはいられない方なのです。

聖書

(277) “まず、杯の内側をきよめなさい。そうすれば、外側もきよくなります。”

4週間ほど日本へ一時帰国していました。その間「聖書のいい話」をお休みしてしまいました。ごめんなさい。 さて、ある夫婦がドライブに行こうとしてガソリンスタンドに寄りました。するとスタンドの青年がフロントグラスを拭いてくれています。料金を払い終わり出発しようとしてふと見ると、何と拭いてもらったばかりのはずのフロントグラスがずい分と汚れています。夫の方が拭いてくれた青年に叫びました。「ずい分と雑な仕事をしてくれたじゃないか。もう1度キチンと拭いてくれたまえ!」青年は怪訝そうな顔をしながら、もう1度丁寧に拭いてくれているのですが、相変わらずフロントグラスは汚れたままです。夫は少々イライラしながら言いました。「その布が汚れているんじゃないか?よく確かめてみたまえ。」するとそれまで黙って見ていた妻がチョッピリあきれた顔で夫のメガネを取ると、自分のハンカチを取り出してきれいにし、再び夫の顔に戻しました。あらためてフロントグラスを見ると、一点の汚れもなくきれいになっていました。 この世のさまざまな『宗教』は、私たちに「道徳的な教え」や「立派な行動の規範」を示してくれます。それらはもちろん大切なことではあるのですが、私たちは決して外面的な努力によっては真の意味で自分自身を向上させることはできません。私たちの行動が洗練されていくためのカギは「私たちの内面の変化」にあるのです。私たちはまず内面的に造り変えられ、その後でその刷新された内面が、目に見える行動となって現れるようになるのです。 キリストは私たちの内面に潜んでいる「創造主なる神からそれている思い」という人類の根本的な問題に光を当てるために来られ、そしてその問題を解決するために私たちの身代わりに十字架の上でその罰をお受けになりました。このキリストを内側にお迎えすることによって初めて、私たちは物事の真実を見つめることができるようになり、少しずつ「人間のあるべき姿」へと回復されて行くことができるのです。

聖書

(276) “見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを(神に)願って聞き届けられました。”

 「もし全知全能の神がおられ、私たち人間を愛しておられるなら、どうしてこの世には悪が存在するのか?」そのように考えたことがある方は少なくないと思います。 聖書を気をつけて読むなら、何箇所かに渡って「この世における『悪の力』の存在」について描写してあることが分かります。そしてその首領は『悪魔』とか『サタン』とか呼ばれて、ある箇所では「この世の王」とも呼ばれています。すなわち、本来神様はこの地上を人間のために造られたのに『初めの人アダム』が神のことばよりも悪魔のことばに従って以来、この地上の支配権が悪魔に奪われてしまったのです。では、神様はそんな悪魔をどうして野放しにしておくのでしょう? 聖書の中の悪魔に関する記述を注意深く読むと、悪魔は「神の許容範囲内」でしか活動できないように制限されていることが分かります。悪魔がある個人または地域に災いをもたらそうと考えたとき、いつも神に「お伺いを立てに来る」のです。では、神は何故そのような悪魔の思惑をお許しになることがあるのでしょうか?それにはいくつかの理由がありますが、その主な理由は「私たちの目を『霊的な世界』に向けさせ、ご自身の許に引き寄せ、試練を通してその信仰を成長させるため」であるということができるでしょう。日本語のことわざにも「苦しいときの神頼み」とありますが、私たちはしばしば「痛い目を見るまでは神を求めない」頑なな存在です。しかし私たちが心を神に向け、彼を呼び求めるなら、神は私たちを「暗闇から光へ」移すことのできる方なのです。 悪魔は人間よりも力がありますが、神はその悪魔よりも圧倒的に優れたお方です。神は、彼に信頼し彼と共に歩む者とされた人々と『一緒に』この世界をご自身の許へと取り戻そうとしておられるのです。神は、私たちが苦難の真っ只中にいる時に、それをただ「傍観している方」ではなく、私たちが神に向かって助けを求めて叫ぶのを今日も「心を痛めながらじっと待っておられる方」なのです。

聖書

(275) “私たちは、人を喜ばせようとしてではなく、私たちの心をお調べになる神を喜ばせようとして語るのです。”

『自分の存在価値』というものをはっきりと理解していることは非常に重要です。そうでないと私たちは常に「誰かに認められよう」とやっきになり、相手のために貢いだり、自分を偽ったりして、かえって自分をおとしめることになります。『自分の存在価値』を人からの評価に捜そうとするなら、それは中毒のように私たちを滅ぼして行きます。何故なら私たちは決してそのような方法では「満足に至る」ことはないからです。 私たちが聖書のことばを通して『創造主である神』と出会う時、私たちは初めて「自分の真の存在価値」というものを見出すことができます。何故なら『私たちの真価』は、私たちの「能力」「業績」「財産」などによって測られるのではなく、「私たちが誰の作品であるか」によって決まるからです。 私たちが他の人と語る時、もし「この人は私のことをどう思っているのだろう?」ということが気にかかるなら『心の中の真実』を語ることは難しくなり、結果として「耳障りの良いことだけ」を語るようになります。しかし実のところ大抵の人々はいつも『自分のこと』がその思いの中心にあるので、あなたのことにそこまで真剣に気を遣ったりはしていません。だから「人の目」や「人の言葉」を恐れないで下さい。むしろあなたのことをいつも心にかけてくださっている神様の「あなたは私の最高傑作なのだ。今日も自信を持って堂々と自分自身を生きなさい!」という語りかけにいつも心を留めていましょう。こういうわけで、私たちは「私たちの真価をご存知の神」にふさわしく、いつでも誰に対しても「愛をもって心の真実を語る」べきなのです。

聖書

(274) “愚か者は自分の道を正しいと思う。しかし知恵のある者は忠告を聞き入れる。”

「聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥」という日本のことわざもあるように、必要な忠告を聞かないことは大きな失敗をもたらすことがあります。どんなにたくさんの知識を持っている人でも、知るべきすべてのことを知っているわけではありません。「自分にはまだ知らないことがある。まだまだ学ぶべきことがある」と分かっている人こそ『賢い人』と言えるでしょう。 プロゴルファーたちは皆『キャディ』たちと共にコースを回っています。そしてこの『キャディ』というのは、単に「ゴルフクラブを運んでくれる人」ではありません。彼らはそれぞれのゴルフコースに関する多くの知識を持ち、ゴルファーたちに必要なアドバイスを与えてくれています。 往年のプロゴルファーに「トミー・ボルト」という選手がいました。彼は大変技術の優れたゴルファーでしたが『癇癪持ち』でもありました。ある時ボルト選手が南カリフォルニアで開かれた大会に参加した時のことです。その日彼は前日に悪いスコアを出してしまったことに相変わらずイラついていました。そこで彼は1日の初めに自分のキャディに向かって「今日はお前は、オレ様に対して『ハイまたはイイエ』以外は言うんじゃない!」と命じました。そういうわけでキャディは、アドバイスをあげたいと思ったときでも忠実にその言葉に従いました。あるホールでボルト選手はティーショットを林の中へ打ち込んでしまいました。彼はイライラしながら林の中へ行き、そこに落ちているボールを見つけるとキャディに尋ねました。「やっぱりここは5番アイアンで行くべきだろうな?」キャディは「イイエ」と答えました。しかしボルト選手は自分の判断の方が正しいと思ったので、ともかく5番アイアンで打つと、打球は見事にグリーンの上の旗のすぐ側に止まったのです!ボルト選手は得意げにキャディに言いました。「どうだ、今度ばかりはオレ様の判断の方が正しかっただろ?何とか言ってみたらどうだ?」するとキャディは答えました。「ハイ、確かに良いショットでしたが、今あなたが打ったのは他の人のボールです。」 聖書は「人の心の高慢は破滅に先立つ」とも書いてあります。取り返しのつかない失敗をするよりは、立ち止まって忠告に耳を傾けた方が良いとは思いませんか?

聖書

(273) “わたしの愛の中にとどまりなさい。”

英語で「Make yourself at home」という表現があります。日本語に訳せばさしずめ「自分の家のようにくつろいでくださいね」といったところでしょうか?要するに「何も遠慮せず、ありのまま自由に過ごしてください。あなたは心から歓迎されており、受け入れられているのですよ」というわけです。 イエス・キリストが人々に向かって「わたしの愛の中にとどまりなさい」と言われた時、まさに同じような意味で言われたのです。神は、あなたが今まで誰からもそのように愛され受け入れられたことのないような愛によって、あなたのことを愛しておられるのです。私たちがしばしば『神の愛』というものを正しくイメージできないのは、それと似たようなものがこの世に存在しないからです。恐らく「母の愛」はそれにかなり近いものかもしれませんが、悲しいことに最近は「教育熱心さ」のあまり、自分の子どもに『不必要なハードル』を与えてしまう母親が増えてきています。しかし神の愛は『無条件』であり『永遠』です。あなたの能力や態度が、あなたに対する神の愛を増やしたり減らしたりすることはありません。それは優しく、力強く、完全な愛なのです。 「神の愛を受け取るために必要なもの」は、『努力』でも『我慢』でもありません。『信仰』です。「神はそのひとり子イエス・キリストを私の罪の身代わりに十字架にかけるほどに、私を愛しておられる」と単純に、幼子のように信じる『信仰』のみが、『父なる神』が私たちに望んでおられることなのです。

聖書

(272) “あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。”

ある男性が、経験不足のため「広告代理店」を首になってしまいました。しかし彼はどうしてもこの分野でもっと熟達したかったので、特別な許可を得て、給料なしでそれまで携わっていた仕事を継続させてもらうことになり、それまで以上に熱心にミーティングに参加したり、同僚の話を聞いたり、商談に同席し続けました。 彼の上司は、初めのうちはそんな彼のふるまいを無視し続けていましたが、やがて彼にこう言いました。「給料をもらうことよりも、仕事そのものを目当てに働いてくれる人物に出会うのは、キミが初めてだよ。」 やがてこの男性は「コマーシャル業界」において革命的な発展を遂げさせる様々なアイディアを生み出す人物となったのでした。 「偉大なことを成し遂げること」を夢見る人は大勢いることでしょう。しかし実際にそのための第1歩を踏み出す人は、驚くほど少ないのです。「今にお前たちをアッと言わせてやる」と言う人のほとんどは、昨日も同じ事を言っていたのです。「神がデザインしたようなアナタになるため」には、まず「神がアナタのために用意してくださった道」を歩き始めなければならないのです。当たり前のことですが、スタートしない限り、決してゴールインすることはできません。そしてスタートしたからには「自分の道が明らかに間違っている」と気付かされるまでは、脇目をふらず進み続けるべきです。 たとえ人々があなたを「あきらめた」としても、神様は決してあなたを「あきらめません」。ですから、神が備えておられる『偉業』に向かって、あきらめることなく今日も進んで行きましょう!

聖書

(271) “私が自分の走るべき行程を走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音をあかしする任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません。”

今回の聖書のことばは、キリストの使徒であるパウロが残したことばです。彼は文字通り「命懸け」で国々を巡回し、イエス・キリストにある救いを宣べ伝えた人物で、新約聖書の半分近くを書いた人でもあります。このように断言できる『人生の目標』を持って生きることができたら素晴らしいとは思いませんか?実際パウロはその生涯が終わりに近づいた時、次のような言葉も遺しています。「私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。」 アメリカの有名なキリスト教の牧師の著作で、3200万部も売れた『人生の5つの目的』という本があります。その中で著者のリック・ウォレン牧師は「すべての人間は次の5つの目的のために神によって造られた」と書いています。その5つとは… ①「神の喜びのため」に造られた ・この世は私たちを、私たちの持っているもの(能力・財産など)によって評価します。しかしそれらはすべて私たちが生まれた後で「与えられたもの」にすぎません。神は私たちがまだ何も持っていなかった「生まれる前」から、私たちの両親同様に、私たちの誕生を待ち焦がれていたのです。 ②「神の家族となるため」に造られた ・聖書の神は「関係を好まれる神」です。聖書は「神はイエス・キリストを通してご自身に近づく者を『神の子ども』とされる」と書いてあります。また聖書の中で最も大切な戒めは「私たちが神を愛し、また互いに愛し合うこと」です。私たちは『神の家族』として互いに深く愛し愛されるために生まれてきたのです。 ③「キリストのようになるため」に造られた ・私たちは皆成長します。肉体的にだけでなく、心もです。では、どこに向かって成長するのでしょう?それは『キリストの似姿』です。キリストのように強く、キリストのように優しく、キリストのように気高く、キリストのように清く生きる者とされるために、私たちは生まれ、神と共に生き、そして成長するのです。 ④「神に仕えるため」に造られた ・これは何も「奴隷や使用人のように」という意味ではありません。聖書には「神によって造られた民に対してしたことは、神に対してしたのである」と書いてあります。人間は決して1人で生きるように造られてはいません。誰もが他の人々の助けを必要としています。神は私たちを「1人で何かを成し遂げるように」ではなく、「互いに助け合って神のみこころを成し遂げるように」と造られたのです。 ⑤「特別な使命のため」に造られた ・私たちは1人1人違います。神がそうデザインなさったのです。それは皆が他の人と同じように生きるためではなく、それぞれがユニークな使命を担うためです。神はあなたにも『特別な使命』を用意されています。人生とは、その使命を見出し、その使命のために整えられ、そしてそれを成し遂げるために1人1人に与えられているのです。あなたの人生を浪費しないためにも、まず「神を知ること」から始めてください。 「人生の5つの目的」について、より詳しく知りたい方は、実際にこの本を読むことをお勧めします。

聖書

(270) “草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。”

1445年にグーテンベルクによって「活版印刷術」が発明されて以来、『聖書』は今に至るまで毎年世界のベストセラーです。一体『聖書』の何がそうさせるのでしょうか?ある匿名の著者が残した次のような文章があります。 「聖書には『神の心・人間の性質・救いへの道・罪人の宿命・信じる者への祝福』が書かれている。聖書はあなたを導く光であり、あなたを育む食物であり、あなたの心を元気づける。聖書は人生の旅路のためのロードマップであり、人生航路の羅針盤であり、人生上の戦いのための武器であり、人生の舞台を最高に演じるための脚本である。聖書は驚くべき富を得させる鉱脈であり、ごまかしのない喜びの源である。その教えは聖く、その訓戒は不動であり、その履歴には誤りがなく、その宣告は不変である。その至高の主人公はキリストであり、その内容は私たち1人1人のためにデザインされており、それらの最終目標は神の栄光である。これを読むことによって知恵を与えられ、信じることによって安息を与えられ、実践することによって全人格的に健康になる。この聖書をゆっくりと、ひんぱんに、祈りを込めて読みなさい。そのことばをあなたの思いに書き付け、心を治めさせ、それに導かれて歩みなさい。これはあなたの生涯の中に与えられており、やがてその生涯の終わりのさばきの時に神の前で開かれ、そして死の向こう側の永遠の世界においても認められる。そこには人類にとっての最大の使命が述べられており、人生における私たちのすべての労苦に対する大いなる報いが約束されており、またそれらの神聖な内容を『取るに足らぬもの』とみなす者たちへの確かなさばきが宣告されている。」 聖書は単に「重視されるべきもの」ではなく、日々の生活の中で「読まれ」「実行に移され」て行くべきものなのです。だてに600年も「世界のベストセラー」を記録しているわけではありません。さあ、あなたも今日からこの『聖書』を読み、行動に移し始めてみてください!