聖書

(299) “神よ。あなたが、天であがめられ、あなたの栄光が、全世界であがめられますように。”

あの偉大な作曲家バッハは256もの声楽曲を作曲し、それらの多くは300年以上経った今も名曲として歌い継がれています。しかし一体彼の作品は何故これほどまでに人々の心を震わせるのでしょうか? バッハの書いた譜面の1番初めにはいつも『JJ』という文字が刻まれています。これは「Jesu Juya」の略で「主イエスよ、助けてください」という意味です。そして1番最後には必ず『SDG』と書かれています。これは「Soli Deo Gloria」の略で、意味は「すべては神の栄光のために」。すなわち、彼が曲を作る時はいつでも「神が与えてくださる力を最大限に用いて、心から神の栄光を讃えたい」という願いが込められていたのです。 私たちの人生も同じです。私たちは1人残らず「世界の歴史始まって以来の存在」です。ですから神は私たち1人1人がそれぞれのユニークな方法で「神の栄光を讃えるように」と望んでいます。私たち1人1人の存在、そして日々の生き様が、そのまま「神の素晴らしさを表現する」ようなものとされたなら、何と幸いなことでしょう! しかしそのためには、イエス・キリストを通して『神との関係』の中に生かされ、神があなたに与えておられる「あなたにしかできない方法」を見出し、またそれを開発していく必要があるのです。そのために神は今日もイエス・キリストを通して、あなたをご自身の御許に招いておられるのです。そこに辿り着くまでは、私たちは大変な『宝の持ち腐れ』を冒してしまっているのです。

聖書

(299) “事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。”

上記にご紹介した聖書のことばは、実は私がクリスチャンになった後「受け入れるのに最も苦労した」ものの1つでした。何故なら私は幼い頃から『努力』というものの強い信奉者で、中学・高校と『卒業時の色紙』に必ず「努力は必ず報われる」と書き続けていたからです。 ところが、聖書に関してより精通していくに従って、この「努力によるのではなく…」という表現は『努力』というものを否定しているのではなく「自分の考え方に固執してしまって、神から注がれる新しいアイディアを受け取ろうとしない頑なな姿勢」を戒めているのだと分かってきました。確かに「人生に対して真剣に取り組んでいる人」ほど『強い信念』というものを持っているものだと思います。ところがその『強い信念』というものがしばしば私たちに『柔軟さ』を失わせ、周囲からの優れた助言に対して聞く耳を持たせなくさせてしまうことがあるのです。 私たちを形造り、この世に生み出してくださった『創造主なる神』からの助言ほど、私たちの人生に有益なアドバイスはありません。その『あわれんでくださる神』の慈愛に満ちたアドバイスに対して「私は私のやり方でやりますから、どうぞお構いなく!」とはねつけるのは、愚か者のすることです。私たち1人1人のために神が備えてくださっている『フルサイズの人生』を歩むためには、「私の持っているアイディアよりも、あなたが私のために用意してくださっている道の方がはるかに優っています。どうぞそれを教えてください。」という謙遜さが求められているのです。

聖書

(298) “あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。”

「ボクたちには世界を変えることはできない」という映画をご存知でしょうか?大学生がカンボジアの貧しい子どもたちのために募金活動をして学校を建てる、という実話を基にした映画です。もちろん事は簡単には運ばないわけですが、「普通の大学生」のグループのひたむきさに心を打たれます。一見の価値がありますよ。 私たちはしばしば、わずかな善意を持っていながら、現実の問題の大きさに圧倒されて、いとも簡単に目標をあきらめてしまうことがあります。それはとっても残念なことだと思いませんか? 嵐の後にある男性が海辺を散歩していると、海岸には何千何万という『ヒトデ』が打ち上げられていました。「このまま放っておくと、すべて干上がってしまうだろうな」と思いつつふと見ると、1人の少年がその1つ1つを拾い上げては海に向かって投げ戻してやっていました。男性は思わず「お~い、そんなことをしても無駄だよ。見てごらん、焼け石に水さ。」と声をかけました。すると少年はまた1つヒトデを拾い上げて海に向かって放り投げてから、ニッコリと微笑んで言いました。「でも、これで今の1匹は助かるよ?」 世界では何億という人々が飢えており、何百万もの人々がマラリヤや脱水症状で死に瀕しています。当然1人の人がどんなに努力しても、それらすべてを救うことはできません。しかし、たった1本の注射によって救うことのできるいのちがあります。コーヒー1杯のお金で100人の子供たちに食べさせてあげられることができるのです。これらの現実を「見てみぬふり」をすることもできますが、何か小さなことでも今日から始められる事がたくさんあるのではないでしょうか?ここに1つのウェブサイトリンクを紹介します。『日本国際飢餓対策機構』(http://www.jifh.org/)という団体です。様々な募金やボランティア活動を行っています。 神様は私たちに『善意』『あわれみ』などの心を与えてくださいました。それらの心から湧き上がってくる思いを封じ込め続けてしまうとしたら、やがて神の前に立つ時に、私たちはどう申し開きをすれば良いのでしょう?

聖書

(297) “悩む者には毎日が不吉の日であるが、心に楽しみのある人には毎日が宴会である。”

こんなお話があります。 ある賢い老人と孫娘が田舎のガソリンスタンドで一緒に座ってくつろいでいました。そこに1人の旅人風の男が車でやってきて、ガソリンを入れながら老人に尋ねました。「オレはじっくり腰をすえて住むのに良い場所を捜して旅をしているんだが、ここはどんな所だい?」老人は答えました。「そうだなぁ、そういうお前さんが前に暮らしていた所はどんな所だったんだい?」男は言いました。「いやぁ、嫌なところだったよ。人々は批判的で、お互いにそれぞれのあら捜しばかりしていてさ。あんな所には2度と戻りたくないね。」老人は申し訳なさそうに答えました。「そうかい、それは残念だったねぇ。実はこの町も、その町と全く同じようにひどい所なのさ。」男はガックリして車に乗り込み、去って行きました。 しばらくすると、1組の家族がそのガソリンスタンドに車を停め、運転していた父親が老人の所にやってきて尋ねました。「失礼ですが、この町は暮らすのに良い場所でしょうか?」老人は答えました。「そうだねぇ、ところでアンタたちが前に住んでいた所はどんな所だった?」父親は言いました。「いやあ、素敵なところでしたよ。町の人たちは皆親切で、仲が良くて、困った人がいるといつも助けの手を差し伸べていました。本当に去りがたかったんですが、都合でどうしても引っ越さなければならなくて…」老人はニッコリして答えました。「安心しなさい。この町もまさに同じような所だよ!」 この家族が車を出発させた後、ずっとこれらの様子を聞いていた孫娘が尋ねました。「ねぇ、おじいちゃん。どうして初めの人には『ここはひどい所だ』って言って、後の人には『ここは素敵な所だ』って言ったの?」老人は孫娘の瞳をじっと見つめて言いました。「なぁに、人間どこに引っ越して行ったって、いつも『自分』を連れて行くもんさ。そして引っ越して行った先がどんな町に見えるかは、その『自分』の態度次第なのさ。」 人生は『人任せ』にはできません。「人生に対するアナタの態度」があなたの人生を決めるのです。周りの状況に左右されることのない、神様から注がれる「内なる平安と喜び」があるならば、どこに行ってもそこは『地上の楽園』となり得るのです。

聖書

(296) “喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。”

『パーソナリティ』にはそれぞれいろいろな違いがありますが、その中でも1つの大きな違いと言えば、それは「人間重視(people oriented)」か「任務重視(task oriented)」かでしょう。『人間重視』の人は「やらなければならないこと」を多少後回しにしてでも「人との関係作り」のために時間を割きます。一方『任務重視』の人は多少人間関係を犠牲にしてでも「やるべき任務」を成し遂げようとします。あなたはどちらの傾向が強いでしょうか? 歴史を振り返るならば、恐らく日本は元来『人間重視』の文化を持っていたと思います。あまりアクセクと働くよりも『義理人情に厚い人間』として生きることが美とされていたのではないでしょうか?それがいつの間にか(高度経済成長の頃から?)『生産性・効率性』が重視されるようになり、『義理人情』などという言葉は古臭いものとして片付けられ、会社員たちは「自分たちの任務に献身」させられるようになってしまったような気がします。 話は変わりますが、私の母は現在87歳で、蕎麦を食べるのが大好きです。ですから私が一時帰国するたびに一緒に母の自宅から200メートルほどのところにある蕎麦屋へ歩いて行くのが習慣なのですが、母の歩行速度は年々遅くなってきています。今ではまるで「ウサギがカメと一緒に歩いている」かのように感じてしまいます。はっきり言ってものすごくじれったいのですが、ある時ふと「自分と共に歩んでくださっている神様」のことに思い当たりました。『全知全能の神様』にとっては、私たちのような人間と共に歩むことは「超じれったい」ことに違いありません。でも神様はきっと少しもイライラすることなく、むしろ微笑みながら共に歩んでくださっていることでしょう。そんなことを思いながら、母と共に200メートルの道のりを30分掛けて歩くのもなかなか風情があります。 クリスチャンであっても、中には「神のための働き」に熱心なあまり、身近にいる人々が目に入らなくなっている時もあるかもしれません。でも神様は私たちが「どれだけのことを成し遂げたか」よりも「人々にどれだけ心を注いだか」を評価してくださるのではないでしょうか?

聖書

(295) “自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい。”

「イエス・キリストによる救い」を得た人々は、死んだ後も『天国』に行ける約束が与えられていますが、神様から与えられた体をキチンと管理していない人は、自分が望んでいるよりも少し早めにそこに行くことになってしまうかもしれませんから、気を付けましょう。今日は「自分の体の自己管理」のお話です。次の3つの点を心がけましょう。 1.食生活の改善 ・実に多くの人が「不健康な理由」によって食生活を左右されてしまっています。ストレス、退屈さ、疲労感、怒り、憂鬱さ、劣等感などなど。また、日常に食べるものもかなりのかたよりがあります。ファストフードやインスタント食品、スナック菓子などを取り過ぎて、新鮮なフルーツや野菜、そして繊維食品をあまり食べない人が多いようです。それでは体が悲鳴を上げてしまいます。ぜひ自分の食生活の傾向性をもう1度よく検討し直してみてください。  2.運動不足解消 ・突然「毎朝1時間のジョギングを始めよう!」などとは思わないで下さい。「少しずつ着実に」が継続のコツです。例えば「エレベーターの代わりに階段を使う」とか、「車を駐車するときに、いつもよりも目的地から離れた所に停めて歩く」とか、「テレビやパソコンに向かう代わりに子供とキャッチボールをする」などなど。神はあなたの体を「1日中座って過ごす」ようには造りませんでした。「週に3日30分の運動」だけで、私たちのストレスや高血圧などはずい分解消されるはずです。  3.早めに床に就く ・人間はたとえ大人であっても『8時間の睡眠』が必要だそうです。「自分はそんなに寝なくても十分やっていける」と多くの方々は言うかもしれませんが、「やっていける」のと「健康に生きること」には大きな違いがあります。「私は床に就くのは夜中過ぎだけど、毎日昼まで寝ているから大丈夫」という方もいるでしょうが、統計によると「夜中の12時より前の『1時間の睡眠』は、12時過ぎの『2時間の睡眠』に相当する効果がある」のだそうです。昔からよく言われているように「早寝早起き」は確かに健康な生活の基本なのです。 信仰深い方々はしばしば「神のみこころにかなった人生を歩みたい」と思うようですが、それならばまず、上記の3つのことに留意しながら『自分のからだをもって神の栄光を現す人生』を、ぜひ今日から始めてください。

聖書

(294) “御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。”

我が家の長男の妻はニュージーランド人ですが、ラーメンが大好きです。私たちの住むクライストチャーチにもいくつか「それなりのラーメン」を出すお店はありますが、当然「日本にある美味しいラーメン屋」には到底及びません。2年ほど前に同じ時期に日本を訪問したことがあり、そのとき私たち夫婦が知っているとっておきのラーメン屋に連れて行ってご馳走してあげたら、彼女はこう言いました。「お父さん、お母さんの意地悪!こんなに美味しいラーメンを食べてしまったら、もうクライストチャーチのラーメン屋さんには行けなくなっちゃうじゃない!」私たちが『本物』に触れたとき、もはや私たちは「まがい品」では満足できなくなってしまうのです。 神は私たちを「この世が提供するもの」によってではなく、「神ご自身からしか受け取ることのできないもの」によって生きるようにお造りになられました。ですから私たちは本来「この世にあるもの」では真の満足を体験できないわけなのですが、神から離れて生きている私たちは「本物が与える真の満足」を知らないので、ある人々は「まがい品が与えるそれなりの満足」にごまかされ、またある人々は常に「物足りなさ」を感じているのです。 上記の聖書のことばに出てくる『御霊』とは、人が不信仰によって神から離れてしまう前に神から与えられていた(すなわち、本来人間が生まれつき持っているはずだった)「神ご自身の霊」です。『御霊』は私たちを「神の愛」「神の喜び」「神の平和」へと導き、まさに「人間が本来歩むはずであった人生」へと私たちを導いてくれるのです。「御霊によって歩む人生」が私たちに与えてくれる『満足』を味わったなら、もはや「この世が提供する満足」では物足りなくなるのです。 イエス・キリストは、地上におられる間まさにそのような人生を生き、そして私たちと神との致命的なギャップを埋めるために私たちの代わりに十字架にかかられ、そして今私たちはこのイエス・キリストの身代わりの死を『自分のこと』として受け入れる時、神からの賜物としてこの「神の霊である『御霊』」を与えられ、それまでとは全くレベルの違った平安や喜びを抱いて生きることができるようになるのです!

聖書

(292) “私たちは(神に)与えられた恵みに従って、異なった賜物(才能)を持っています。”

海外で暮らすようになって気付いた1つのことは、日本と西欧諸国の『教育方針』の違いです。日本ではどちらかというと伝統的に「不得意分野を伸ばして、極力まんべんなくできるようにする『総合力重視』」の傾向が強く、西欧諸国ではむしろ「得意分野に力を入れて、できるだけ個性を伸ばそうとする『個性重視』」の傾向が見て取れます。どちらが優れているかということはともかく、結果として日本では「どんなことでもそれなりにこなすことができる人間」は育成されますが、いわゆる「一芸に秀でている人材」が育ちにくいように感じます。 牧師でもあり「リーダーシップ哲学」に関する数多くの著作を持つ『ジョン・マクスウェル博士』は「優れた人材を育成するコツとして次のようなことを勧めています。①長所を伸ばすことに80%の時間を費やす。②新たなことを学ぶために15%の時間を費やす。③短所克服のために残り5%の時間を費やす。 それでは、私たちはどのようにして「自分の得意分野」を正確に見出し、それを伸ばして行くことができるのでしょうか?それにはいくつかの要素が必要です。 1.「ありのまま受け入れられている」という実感 ・もしあなたが「自分が変わらなければ受け入れてもらえない」という不安の中にあるなら、いつも肩に力が入り、持っている力をフルに発揮することはできません。そしてプレッシャーの下にいる間は『健全な成長』は望めないものです。「神の大いなる愛の中に憩うこと」は、優れた人生を歩む上で必要不可欠です。 2.自分自身をよく知る ・あなたがもし「自分のことは自分が1番良く分かっている」と思っているなら、あなたはずい分『オメデタイ』人です。もちろん自分でもよく自分を観察し客観的に見つめることが必要ですが、あなたのことを良く知っている家族や友人から率直な意見を聞くことは「自分を知ること」に大いに役立ちます。 3.大きな夢を描く ・「井の中の蛙大海を知らず」ということわざを聞いたことがあるでしょう。『島国日本』で育っている我々はいとも簡単に「小さな自分の中に『自己満足』を見い出してしまう」傾向があります。神はあなたを「世界の歴史始まって以来の存在」としてお造りになりました。あなたにしかできない大きなことがあるはずなのです! 4.失敗を恐れず挑戦する ・私たちが『失敗』と感じることは、実のところ『学習』に過ぎないのです。人一倍大きな『成功』を手にした人たちは、例外なく「人一倍多くの『失敗』を経験した人たち」なのです。私たちはいわゆる『初めて』を数多く体験して行きながら『経験』を積んで行きます。そしてそれらの『経験』を踏まえて、私たちは「自分の得意分野」を発見するのです。 あなたは、あなたが考えているよりも、もっとずっと優れた存在です。何故なら『天地創造の全能の神』があなたをお造りになったからです。神は「あなたを通して以外は実現不能なご計画」を用意して、あなたとの出会いを待っておられるのです。

聖書

(291) “知恵のある者の住まいには、好ましい財宝と油がある。しかし愚かな者はこれをのみ尽くす。”

『クレジットカード』なるものは便利ではありますが、使い方を誤るととんでもないことになります。「誤った使い方」とはどんなものかというと、簡単に言えば「必要ではない物を、今持っていないお金で買うこと」です。ちょっと聞いただけで『愚か』であることがすぐに分かるのですが、それを実現可能にしてしまったのがこの『クレジットカード』なのです。 ではどうしたらこのような愚かさを避けることができるのでしょうか?この答えも実に単純です。①何かを買おうと思いついた時に、まず「自分にはこれが本当に必要であろうか?」と自問自答するのです。そしてもしそれが本当に必要であるという結論に達したなら、次に②「もうしばらくの間、それ無しに生活することができないかどうか?」と尋ねてみてください。恐らくこの①②両方の質問に対する答えが『YES』となる場合はほとんどないと思います。何故ならあなたは今日までそれ無しで暮らせてきたのですから… 神は、ご自身の愛する子供たちが貧困にあえぐことを喜ばれる方ではありませんが、私たちが「物質社会にまみれてご自身を忘れてしまうこと」も決して願ってはおられません。神は私たちに「必要なものをお与えになること」を喜びとし、しかも『一時的な喜び』を与えるよりも『永続的な満足』を与えるものを私たちのために用意しておられるのです。 もしあなたの脳裏に「そんなまわりくどいことをいちいちやってはいられない。クレジットカードで今それが買えるのに、どうして待たなければならないの?」というような考えがよぎったなら、あなたは既にクレジットカードの奴隷になりかけていますよ。くれぐれもお気をつけください。そのようなワナにはめて私たちの人生を破滅に導くことが『悪魔』の常套手段なのですから。

聖書

(290) “キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。”

英語環境での生活が長くなってくると「言葉が大きく文化に影響を与える」ということに気づかされます。1つの例ですが、日本語の『愛する』という語を表す『Love』は様々文脈で使われます。例えば「I love chocolate.」「I love this TV program.」などのように。これらを「私はチョコレートを愛している」とか「このテレビ番組を愛している」と訳したとしたら、それは正しい翻訳とは言えませんよね?けれども、このように『Love』という単語を気軽に使っていると、だんだん自分の日本語の意識の中でも「『愛する』って、それほど重要なことではないんじゃない?」というような錯覚に陥ってしまうのです。 明治時代の作家であり翻訳家であった『二葉亭四迷』はこの『Love』という単語を「あなたのためなら死んでもいいわ」と訳したと言われています。実は聖書における『愛する』という語は、そのような深い意味のある言葉なのです。 聖書は夫婦関係において、夫に対し『愛しなさい』と命じています。これをより分かりやすく、また実際的な意味に言い換えるならば「夫は妻が最高に輝いて生きることができるように、あらゆる犠牲を喜んで払いなさい」ということでしょう。そこには『自分本位』に生きる余地はありません。またこれは「妻こそ自分の最大の関心事であるべき」ということを表現しています。一体この世のどれほどの夫たちが、これらの原則の逆さまを生きていることでしょう。そしてその事実がそのまま「結婚生活の破局」があちこちに起こっていることに現されているのです。何と悲しいことでしょうか。 神が人間に『結婚』という祝福をお与えになったのは、私たちがそこに「他のものからは決して味わうことのできない至高の幸福感」を見い出すためです。そしてそれは可能なのです!それを日々味わっている私自身が証人です。世の夫たちよ。あなたの妻を本当の意味で愛することを、ぜひ今日から始めてください!