聖書

(317) “父がその子をあわれむように、主は、ご自分を恐れる者をあわれまれる。”

イエス・キリストが人々に『祈り』を教えられた時、まず「天におられる私たちの父よ」と呼びかけるように言われました。実はこのように神を親しく「我らの父」と呼ぶ習慣は当時のユダヤ人たちの間ではあまり一般的ではありませんでした。彼らにとって『神』という存在はむしろ「厳格で近寄りがたく、超越した存在」という意識があったようです。ところがイエスはそんな『神のイメージ』を一新させたのです。 もしかすると現代の多くの人々にとって『父親のイメージ』というものも、あまり慕わしいものではないのかもしれません。特に「放任主義の家庭」また「虐待の経験がある子供時代」に育った人たちにとっては『父親のような神』などは全く欲しくないものに感じられることでしょう。でも、この『天の父』は私たちのそんな歪んだイメージを一新させる「愛とあわれみと力に満ちたお方」なのです。 「父なる神がどれほどに良いお方か」をいつもイエスから聞かされていた弟子のうちの1人が、ある時我慢できなくなって「イエス様、ぜひ私にも『父』を見せてください!」と懇願すると、イエスはこうお答えになりました。「こんなに近くにいたのに、あなたはわたしを知らなかったのかい?わたしを見た者は『父』を見たのだよ。」 そう、父なる神は「ご自身を人々に正しく理解して欲しいがため」に、ご自分のありのままを人のかたちにして地上に来られた、それがイエス・キリストなのです。私たちが『父なる神の正しいイメージ』をもって生きるためには「聖書を通してより深く『イエス・キリスト』と出会うこと」が最善の道なのです。

聖書

(316) “私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。”

先日、教会のメンバーの方のお葬式を行いました。クライストチャーチに来てから最初の、自分が担当したお葬式でした。7年半前の『カンタベリー大震災』の時には多くの日本人の犠牲者が出て、その時はいわゆる「見ず知らずの方々」のために葬儀を担当させていただきましたが、長年こちらで一緒に信仰生活を歩み、親しい付き合いのあった方々の葬儀に携わったのは今回が初めてでした。何人かの(NZ人の)先輩の牧師たちには「10年間牧師として働いてきて、今回が初めてのお葬式とは、ずい分ラッキーだったね」などと言われてしまいました。 彼女(亡くなられた女性)はNZ人のご主人に嫁ぎ、私たち家族がクライストチャーチに来るより前からこちらに住んでおられました。ご主人もクリスチャンだったので、午前中の英語の礼拝と午後の日本語の礼拝のどちらでも顔を合わせ、時には一緒に食事をすることもありました(年齢も私たち夫婦とさほど変わりません)。実は私たちがクライストチャーチに来る少し前(2007年くらい)にガンを発病され、放射線治療などを経てそれを克服した経験があったので、私たちが来た当初は、毛が抜け落ちた頭を覆うように、いつも素敵な帽子をかぶっておられました。そのガンが2年前に再発し、教会の皆で祈り続けてきましたが、とうとう天国へと凱旋して行かれたのです。 告別式の時に、彼女の残した日記の一部が公開され、そこには下記のような文章が遺されていました。 「2018年7月27日(金)(ホスピス病棟にて)。私はクリスチャンになってからも自分の中にあるプライドや人々に対する批判的な態度から完全に自由になることができませんでした。それは自分がどこかでそれらをしっかりと握り締めていて、神様に明け渡すことができなかったからに違いありません。ところが、自分の弱さや死を目前にした絶望感にさいなまれている中、ついさっき(夜中の2時頃)イエス・キリストがすぐ近くにおられる、という感覚に覆われたのです。すると不思議なことに、すべての不安や恐れ・悲しみが一瞬のうちに消え去り、なんとも言えない安らぎに満たされました。それは『このお方と一緒にいられるなら、他には何もいらない』というほどの感覚でした。そして気が付くと、それまでいつも私の心の中に巣食っていた苦々しい思いから完全に自由にされていることが分かったのです。」 告別式には、クリスチャンではない方々も多く集われましたが、式の後に何名かの方々は「このような葬儀は見たことはない。死を目前にしながら、どうして皆あのように希望と明るさに輝いていられるのか?」と感想を述べておられました。 誰も『死』から逃れることはできません。『死』というものはすべての人間に平等にやってきます。しかし唯一この『死』を打ち破りよみがえられたイエス・キリストに希望を置いて生きる時、私たちは『天国』という永遠の国籍を抱いて生きることができるのです。

聖書

(315) “訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。”

私たちは人生の過程で様々な『変化』を経験します。その中には「自ら買って出る変化」もあれば、「自分では願っていなかったのに、避けることのできなかった変化」もあるでしょう。ところがこの「願ってもいなかった思いがけない変化」が思いもよらない良い結果を生むことがしばしばあるのも事実です。では何故私たちはそのような『変化』を歓迎したがらないのでしょうか?それは元来人間が「習慣的に生きる」ことを楽に感じるからです。 私たちは実に多くのことを『習慣的に』行っています。朝起きて顔を洗う。食事の時にまずお味噌汁を飲む。靴は右足から履く。ランチは近くのコンビニでサンドイッチを買う。お風呂で体を洗う時は首から洗う。などなど。これらをいちいち「えーと、今日はどちらの足から靴を履こうかな?」「体をどこから洗おうかな?」などと考えていたら、時間がいくらあっても足りなくなります。「習慣性」って、実に素晴らしいですよね?これが例えば「朝起きたら断水していた」とか「サンドイッチが売り切れていた」などのハプニングがあると、とたんに生活のリズムが狂うわけです。通勤電車の遅れやインターネットの接続不良などが起こるとすぐ「キレて」しまう人がいるのも現代の特徴の1つでしょう。 ところが、もし人生がすべてこのように『習慣的に』進められてしまったら、進歩がなくなってしまうというのも事実です。「生活の改善」や「私たちの人格的成長」は、ある意味『強制的な変化』に伴ってやってくるものなのです。別に『変化』を大好きになる必要はありませんが、それらを肯定的に受け止め「成長のための栄養」としていくことは大切です。 神様は私たち人間を『現状維持』のためには造りませんでした。「日々成長するように」お造りになったのです。それ故、神様は時々私たちの人生に「避けられない変化」を送られる時があります。それらに対して私たちはつい「神様どうして?!」と呟いたりしてしまいがちですが、そこにも私たちに対する『神様の愛』を見い出すことができたら、人生がより輝いて見えるようになるのではないでしょうか?

聖書

(314) “今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。”

戦後のベビーブームとは対照的に、現代の日本は様々な理由により「子供は1人」と決めている家庭が多いようです。そればかりではなく、その「たった1人の大切な子供」を可愛がろうとするがあまり「できるだけ苦労や冒険をさせないで、必要なもの(時には『必要以上のもの』)はすべて与える」という方針で、万事整った環境の中で子供を育てようとする傾向があります。しかしそれらの『理想的な環境』というものが、必ずしも子供たちの成長のために役に立つわけではありません。 とても残念なことではありますが、この世の中で生きていく上では、様々な問題や困難、そして「思った通りに事が運ばないこと」が多々あります。もし子供時代の成長過程でそのような挫折を経験することなく育つなら、一体彼らはどのようにしてそれらの試練を克服する術を身に付けるのでしょうか? 熱帯雨林に育つ木々は、その水分に恵まれた環境の故に「地中深く根を伸ばすこと」を学ぶことなくグングン成長します。それ故少しでも強い風が吹くと簡単になぎ倒されてしまうのです。ところが砂漠に生息する『メスキート樹』と呼ばれる木の根は、水分を求めてあえぎながらじっくりと時間をかけ、地中深く10メートル以上も根を伸ばします。その結果様々な厳しい自然現象の襲撃にあっても、依然として立ち続けることができるのです。 私たちの大切な子供たちも同様です。立派な次世代を育てて行くために必要なのは「できるだけ苦労をさせないこと」ではなく、むしろ敢えて彼らが困難や挫折を経験することを許し、そしてできるだけその現場に一緒にいて声援や必要な援助を送りつつ、彼らがそれらの試練を自分で克服して行くのを見届けてあげることです。そして実はこれこそ私たちの『天の父である神』がご自身の愛する息子・娘たちにしてくださっていることなのです。

聖書

(313) “ある役人が、イエスに質問して言った。「先生、私は何をしたら、永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか?」”

これは、ある金持ちの若い役人がイエス・キリストの許に来て尋ねた質問です。これに対しイエスは「聖書の戒めならあなたもよく知っているでしょう?それらをよく守りなさい。」とおっしゃいました。しかし実際この役人は忠実なユダヤ人で、幼い頃から『聖書の戒め(盗むな・殺すな・姦淫するな、など)』を注意深く守っていたにも関わらず、未だに「神からの賜物としての『永遠のいのち』」を受けていると実感できなかったのです。一体何が足りなかったのでしょう?それは『規律』に捕らわれすぎて、それをお与えになった『神ご自身』から離れてしまっていたからです。 『永遠のいのち』とは、単に「私たちを永遠に生きながらえさせて、天国に至らせてくれる命」という意味ではありません。むしろそれは「時を越えて永遠に存在される『神』と心を通わせながら生きること」に他なりません。だからこそ、そのいのちは「ルールを守ること」によっては得ることができないのです。 イエスはこの後この金持ちの役人に「あなたの持ち物を売り払って人々に施し、そして私について来なさい」とお招きになりましたが、役人は「悲しみながら帰って行った」と記されています。彼はイエスについて行くことを拒んだのです。彼は単に「多くの財産を所有していた」だけではなく、むしろそれらの財産に「所有されて」しまっていたのです。自分の持っている物を惜しむ心が『本当に大切なもの』を得ることにブレーキをかけてしまったのです。 神は今日あなたのことをも、神との『永遠のいのち』の関係へと招いておられます。あなたがこの『神からの招き』に応えることにブレーキをかけているものが何かありますか?

聖書

(312) “私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分勝手な道に向かって行った。”

多くの『宗教』やキリスト教の異端的な教えは「個人の努力」を強調します。これは私たち日本人のメンタリティーに受け入れられやすいため、日本には実に様々な新興宗教がはびこる傾向があるのではないでしょうか?しかし本当に大切なのは「自分の考えに合うかどうか」ではなく「真理なのかどうか」です。どんなに時間や労力(時にはお金も…)を費やしたとしても、その教えが真理から外れていたら、結局は正しいゴールに到達することはできません。後になって「こんなはずではなかった…」と嘆いても時遅しです。 私たちの人生で重要なのは「達成レベル」ではなく「正しい方向性」です。どれだけ早く階段を昇って行ったとしても、間違ったゴールへ向かっているのだとしたら、それは人生の浪費にしか過ぎません。逆にたとえ「正しいゴール」を見定めるのに多少の時間がかかったとしても、正しい方向へ1歩1歩進んで行くなら、必ず目指している目的地に辿り着くのです。 では私たちはどうやってこの「正しい道(真理)」を見分けたら良いのでしょうか?残念ながらそれは『人間の努力』では不可能です。それができるのは「私たち人類を創造し、本来の生き方へと導いてくださる全知全能の神」だけです。この神を認めようとせず「自分勝手な考えで道を切り開こうとする」私たちの態度を、聖書は『罪(元々の意味は「的外れ」)』と呼んでいます。 イエス・キリストは「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、誰も父(神)の許に来ることはありません。」とおっしゃいました。言い換えるなら、神はこのイエスを通して私たちを「正しい方向(真理)」へと招いておられるのです。私たちが自分勝手に設定する方向ではなく、すべてをご存知の神の側から示してくださっている道を辿る人生、これこそが聖書が私たちに提供してくださる『救いの道』なのです。そしてイエス・キリストは、信仰によってその『真理の道』を選び取る者1人1人と共に人生を歩んでくださるのです。

聖書

(311) “恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。”

あなたは床に置いた「50センチ幅の板の上」を5メートルの距離に渡って歩き通すことができますか?恐らく問題なくできることでしょう。ところがもしその板を上空20メートルの高さに据えたとしたら、それでも同じように歩き通すことができるでしょうか?きっと「それはできない!」と言うに違いありません。何故なのでしょう?あなたには確かにその幅の板の上を歩く能力があるのです。一体何があなたに「できない」と言わせるのでしょうか?それは『恐れ』があなたの心に入ってきたからです。『恐れ』は私たちに本来与えられている素晴らしい可能性を一瞬にして奪ってしまう力を持っているのです。 聖書には、神から私たちに向けての「恐れるな!」という言葉が365回出てくると言われています。あたかも神が私たちに毎日「恐れなくていいんだよ」と語りかけてくださっているかのようです。神はご自身が私たち人間にお与えになった豊かな人間性が『恐れ』というものによって十分に発揮されなくなってしまうことを知っておられるのでしょうね。 実際ある統計によると、私たちがつい恐れてしまうことの95パーセントは「確かな根拠のないもの」だそうです。そして残りの5パーセントは「私たちが人生をより良く生きていく上で乗り越えていくべき試練」なのだそうです。確かに人生には試練がつきものです。だからといって「自分は危険な目に遭いたくないから、一生自分の部屋の中で過ごす」などと言ったら、その人の人生は全く意味のないものになってしまいますよね? ご存知のように私たちの日常は『選択』の連続です。朝何時に起きるか?朝食に何を食べるか?どうやって学校または勤め先へと出かけるか?週末はどのように過ごすか?数え上げればキリがありません。しかし1日1日を生き抜くためのもう1つの大切な選択(二者択一)があります。それはどちらも英語の『F』で始まる「Fear(恐れ)」か「Faith(信仰)」かです。いつ自分に襲いかかって来るか分からない「不慮の災い」に不安を抱えながら生きるか、それとも、あなたを愛しあなたの最善を願い、そしてその最善へとあなたの人生を導いてくださる「神に信頼して」生きるかの選択です。 幼い子供が父親と共に夜道を歩いています。すると向こうから大きな犬を連れた人がこちらに向かって歩いてきます。幼子は思わず父親にしっかりとしがみつきます。「お父さんが一緒だから大丈夫」と思うからです。この時の父親の気持はどのようだと思いますか?「喜び」「誇らしさ」そして「仮にその犬が襲い掛かってきたとしても命懸けでこの子を守ってやる」という気持になるのです。それと同様に、神はご自身に信頼する私たちを全力で守り、祝福してくださるのです。

聖書

(310) “先の事どもを思い出すな。昔の事どもを考えるな。見よ。わたしは新しい事をする。”

「死ぬ時には前のめりに死にたい」と言ったのは確か『坂本竜馬』だったと思いますが、私たちも「失敗する時は前のめりに失敗したい」ものですよね。どんな人でも失敗は経験するものです。「私は失敗を経験したことはない!」と豪語する人は、恐らく今までに何も挑戦したことのない人ではないでしょうか? 日本でも古くから「失敗は成功の元」と言われています。人は失敗してしまったからといって『失敗者』になるわけではありません。けれどももし「失敗するのはいやだから、もう新しいことに挑戦するのは止めよう」というような消極的な姿勢で人生を生きていたら、それこそ『失敗者』になりかねません。大切なのは、失敗するたびにそこから何かを学び取り、次の挑戦に生かすことです。そして何度失敗を繰り返そうと、何度でも起き上がって新たな挑戦に向かって行くことです。 聖書には様々な人物が登場しますが、それぞれいろいろな形で『失敗』を経験しています。アブラハムは子供欲しさに奥さんの女奴隷に手をつけますし、ダビデ王は忠実な家臣の妻と不倫を犯し、その事実をもみ消すためにその家臣を死に追いやりました。預言者ヨナは「ニネベの町へ行って語れ」との神の命令を避けて別の国に逃げようとし、使徒ペテロはイエス・キリストに対し「あなたと共に死ぬことになろうとも、最後まであなたについて行きます」と豪語しながら、いざとなったら「イエスなんて知らない!」と自分の主を否みました。 では何故聖書はこのように情けない失敗を犯した人々の記録を載せているのでしょうか?それは「神は失敗した人々を決して見放したりはしない」ということを私たちに教えるためです。むしろ神はこれらの失敗を経験した人々を何度でも立ち上がらせ、やがてはご自身の輝かしいみわざのためにお用いになったのです。私たちの神は『逆転の神』なのです! 聖書の神は、ある人々が考えているような「人間の粗捜しをしてバチを与える存在」ではありません。むしろ恵みと憐れみとに満ち、私たちの失敗を何度でも赦して立ち上がらせ、ご自身の栄光のために用いられる器として日々造り変えてくださる『決してあきらめない神』なのです。

聖書

(309) “私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方”

聖書には『天地創造の神』について書かれてありますが、「創造主なる神を信じて生きる」ということは一体どういうことなのでしょう?ただ単に「神は実在すると信じている」ということとどう違うのでしょう? 私たちは『神』というと、何となく漠然と「大きな力ある存在」というイメージを抱きます。そしてそれが「恐れの対象」になったり「お願い事の対象」になったりするわけですが、あまり『個人的な関わり』を持って生きるなどということは考えません。しかしもしこの神が『創造主』であるならば、この方抜きで人生を生きることは「とてつもなく大きな損失である」ということがお分かりでしょうか? 私たち人間でさえ、何かを作る時にはそれなりにアイディアを巡らせます。意味もなく無駄になることのために時間や労を費やすことは虚しいからです。ましてや神が何かをお造りになるなら、そこには必ず「崇高で綿密な計画」があるに違いありません。そして神は人間とは違って『失敗作』を造ることもありません。ですから「創造主なる神を信じて生きる」ということは「神は私の人生に『崇高で綿密な計画』を持っておられる」と信じて、それを追求しながら生きることに他なりません。「神が自分のために備えておられる偉大な人生」を模索して生きることは、単に「神にお願い事をしてかなえてもらう人生」にはるかに優っているのです! 私は20歳の時にイエス・キリストを通して「神との個人的な関わりを持って生きる人生」へと導かれました。それまでもそれなりに恵まれた人生(家庭的にも、学生としても、友人関係においても)を送っていましたが、それ以降今に至るまでの人生は、私が学生時代に思い描いていたような「そこそこ成功を収めた人生」とはまるで違っています。分かりやすく言うならば「自分の人生がこんなにも喜びと満足と驚きに満ちたものとなるとは思ってもみなかった」という人生を送らせていただいているのです。 恐らく多くの人々は「自分は何故生まれてきたのだろうか?」「自分はどこから来てどこへ行くのだろうか?」というような疑問を1度は感じたことがあると思います。私はそのような方々に「『創造主なる神』を信じて生きることは、こんなに素晴らしいのだ!」ということを、ぜひとも体験していただきたいのです。『創造主なる神』に出会うことに「遅すぎる」ことは決してありません。私は99歳になってこの神と出会って人生を大きく変えられて、喜びをもって104歳で天国へと凱旋していった方を知っています。今この文章をお読みのアナタも、ぜひ「神との個人的な関わりを持って生きる人生」を求めて祈り始めてみませんか?

聖書

(308) “なまけ者よ。アリのところへ行き、そのやり方を見て、知恵を得よ。”

イソップ物語「アリとキリギリス」は良く知られていますが、実際的にアリたちがどれほど勤勉であり驚くべき能力を発揮しているかを知っている人は、それほど多くはないのではないでしょうか? 「女王アリ」の存在を知っている方は多いと思いますが、アリたちの労働を仕切っているのは『女王』ではなく「年上のアリたち」です。年下のアリたちはこの熟練したリーダーたちの行動に倣って文句を言わず黙々と従います。そして彼らはしばしば自分よりもはるかに大きな「パンくず」などを背負って、坂道を何メートルも登っていきます。仮に坂の途中でその『荷物』を落としてしまい、それがコロコロと坂の1番下まで転がって行ったとしても、彼らはもう1度下まで降りて行って、またその『荷物』をかついで上がって行くのです。アリたちが運んでいる『荷物』の重さと距離は、人間の標準の体に換算すると「10トンもの重さを背負って30キロの道のりを運んで行く」のに匹敵するそうです。これは何も「アリたちはスーパーマンのように楽々とこのような仕事をこなせる」というのではなく、むしろ彼らが「常に自分のベストを尽くして1つ1つの労働に誠心誠意取り組んでいる」ということを表しているのです。 最近の世代には『重労働』を避ける傾向があります。もちろん「過労死」に見られるような『働き過ぎ』も問題ですが、「面倒くさ~い」「え~、そんなのムリ~」などと言って、正面からぶつかるべき課題にチャレンジすることを避けてしまうことは、必ず彼らの人生にとって将来の大きな損失につながります。そしてそのような性質は決して一朝一夕に養われたものではなく、親が自分の子供たちに楽をさせすぎてしまったことから来ているのです。「自分が忙しくて一緒にいてあげられない分、お金や物を与えて愛情を表現しよう」などという誤った考えで子供を育てた結果(しわ寄せ?)なのです。 ぜひ子供たちに幼い頃から「労働の喜び」を体験させてあげましょう。家族の一員として家事などを分担するのも良いし、お小遣いを『報酬制』にするのも悪くありません。彼らの将来、ひいては未来の社会のために「アリに見習うこと」をお勧めします。