聖書

(332) “御使いはみな、仕える霊であって、救いの相続者となる人々に仕えるため遣わされたのではありませんか。”

聖書の中には『天使』というものが登場しますが、『天使』とは一体何者なのでしょう?私たちは『天使(英語では[エンジェル])』というと、何か「美しくて優しい存在」をイメージしますよね?以前はよく看護婦さんたちを「白衣の天使」などと呼んだりしました。(ちなみに、私の姉と義理の妹、そして娘は『看護師』ですが、確かに皆「美しくて憐れみに満ちた」人たちです!) これはアメリカのネバダ州で起こった実話ですが、デビーさんという若い女性がとても見晴らしの良い町外れの国道を車で走っていたところ、何とガス欠になってしまったそうです。どうして良いか分からず、神様に助けを求めて祈っていたところ、大きなトラクターが通りかかり、運転席からいかにも力の強そうな大男が出てきました。彼は困った顔をしている彼女を見て「お嬢さん、何かお困りですか?」と尋ねました。恐る恐る事情を話すと、彼は「なるほど。それじゃあオレのトラクターに乗せて近くの給油所まで連れてってやるよ」と親切に申し出てくれました。でも考えてみてください。人里離れた場所で「若い女性と大男2人きり」。あなたならどうします?彼女は戸惑いつつ心の中で神様に「この人について行って大丈夫でしょうか?」と祈ったそうです。するとかすかな声で「わたしが彼を遣わしたのだ。恐れないで彼について行きなさい」と言われた感じがしました。他になす術もなかったので、彼女は彼のトラクターに乗り込みました。道すがら彼は彼女に身の上話をしました。「オレはついこの間まで刑務所にいたんだ。でもそこで牧師さんからイエス・キリストの話を聞かされて、それまでの悪事を悔い改めてキリストに従う決心をしたら、人生が180度変わったんだよ!」 給油所でガソリンを買って彼女の車まで戻り、ガソリンを入れると、彼は別れを告げてトラクターに乗り込みました。ホッとして自分の車に乗り込んだ彼女は、もはや彼のトラクターがどこにも見当たらないのに気付いたそうです。スピードの出ない大型トラクターが、この見晴らしの良い国道のどこにも見当たらないなんて・・・ どうやら『天使』は「美しくて優しそうな外見」だけでなく、もっといろいろなバージョンで私たちの人生に関わってくれるようですね。

聖書

(331) “思いを新たにすることで、自分を変えていただきなさい。”

ある詩人が書きました。「2人の男が拘置所の中から鉄格子を通して外を眺めていた。1人は地面を眺めて絶望の溜め息を吐き、もう1人は星空を眺めてうっとりと溜め息をついた。」2人は全く同じ状況の中で、全く違った気持で過ごしていたのです。 私たちはしばしば自分の人生が思うように運ばないのを、自分が置かれた状況や生い立ちのせいにします。しかし実際に私たちの人生を大きく左右するのは、環境や持っている物ではなく、『心の態度』です。日々の生活の中で私たちが出会う出来事を私たちは選ぶことができません。しかし「その出来事をどう捉えるか」を選ぶことはできます。よく言われることですが、コップに半分くらい水が入っているのを見て、ある人は「もう半分しか残っていない…」と捉え、別の人は「まだ半分も残っている!」と捉えます。これが大きな分かれ目なのです。 では、一体どのようにしてこの『心の態度』を変えることができるのでしょう?それは、世界一ポジティブな方であり、私たちの心も体も造り出された方である『神』との交流を通してです。日本の古いことわざにも「朱に交われば赤くなる」という言葉があります。人はいつも見ているもの・触れているものに似てくるのです。神はあなたが「人生の敗者のように生きること」を望んではおられません。彼は今日も私たちに「強く雄々しくあれ」と励ましてくださるのです。ぜひ朝ごとに次のように神に祈ってみてください。 「神様、どうか私が出来事のポジティブな面にいつも目を向けることができるように、私を変えてください。」

聖書

(330) “わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。”

「天国は、ほんとうにある」(原題:Heaven is for Real.)という映画をご覧になったことがおありでしょうか?実話に基づいた映画で、たった4歳のコルトン・バーポという少年が急性虫垂炎のために生死の境をさまよった経験を通して、天国の光景を垣間見たことを証言した話が元になっています。 彼は彼自身が意識不明に陥っている間に彼の両親がどんな様子でいたのかを覚えていて、後にそれを両親に話してビックリさせました。また彼は「自分が『天国』に行っている間に出会った人々」のことをも両親に話し、更に両親を驚かせました。何故ならそれらの人々(彼の祖父母たち)はコルトン少年が生まれる前に既に亡くなっていたからです。 またある日彼はお母さんに言いました。「ママのお腹の中で死んじゃった赤ちゃんがいたでしょ?その人はボクに『私はあなたのお姉ちゃんよ』って言ってたけど、とっても優しい人だったよ。」これを聞いて母親は驚きのあまり言葉もありませんでした。彼がまだ幼かったので、上の子を流産したことなど話したことは無かったのです。母親は尋ねました。「一体誰があなたに、ママの流産のことを話したの?」コルトンは答えます。「お姉ちゃん自身だよ。お姉ちゃんが『私は地上では生まれることができなかったけど、今は天国で元気にしてるから心配しないでって、ママに伝えてね』って言ってたよ。」母親は目を輝かせながら尋ねました。「そのお姉ちゃんは名前を何て言ってた?」「名前は無いって言ってたよ。ママたちはお姉ちゃんに名前を付けなかったんだね。」その通りでした。彼らは娘を亡くした辛さのあまり、名前を付けることができなかったのです。そしてコルトン少年は最後にこう付け加えると、庭へ遊びに行ってしまいました。「そうそう、お姉ちゃんが、パパとママに会える日が待ちきれないって言ってたよ!」 これは私たちにとっても同じです。先に天国へと旅立って行った家族や友人たちは、皆揃ってあなたに再会できる日を心待ちにしているのです。昨年11月に天へと召されて行った私の母も同様です。そして誰よりも天国でのあなたとの出会いを待っておられるのは、他ならぬ私たちの主イエス・キリストなのです。

聖書

(329) “聞く耳のある者は聞きなさい。”

「神は人間に口を1つ耳を2つお与えになった。それは語るより2倍聞くためだ」などと言う人がいますが、その通りかもしれません。しかし実際は『聞き上手』な人はあまり多くありません。 「良い聞き手」は「良い習い手」でもあります。私たちはしばしば、今の状況を打開する良いアイディアや、人生に祝福をもたらす秘訣を探し回りますが、「しっかりと聞くため」に時間を割こうとはしません。これは大変もったいないことです。 では「良い聞き手となるコツ」にはどんなものがあるのでしょう?下記の3つのことが言えると思います。 ①邪魔物を取り除く ・よくスマホを見たり、他のことに気を取られながら人の話を聞く人がいます。これは最も初歩的なミスです。「話を聞く」というのは「話し手に全神経を集中する」ということです。 ②話をさえぎらない ・相手の話の途中で、たとえどんなに助言をしたくなったり、言葉を付け加えたくなったりしても、相手が話し終わるまでしっかり聞き続けましょう。多くの場合「話している内容そのもの」よりも、相手が「自分は聞いてもらえている」と感じることの方が重要なのです。 ③結論を急がない  ・相手の話に対する『自分の考え』を告げるのは、相手がすべてを伝え終わるまで待ちましょう。日本人は特に『本音』をなかなか話そうとはしません。早急にこちらの考えを発言してしまうと、相手が「本当に伝えたかったこと」を聞かせてもらえずに終わってしまうかもしれません。  「あの時もっとちゃんと聞いてあげれば良かった…」という思いがよぎったアナタ!生きている限り『遅すぎる』ということはありません。今日から『聞き上手』を目指しましょう!

聖書

(328) “主よ。あなたは代々にわたって私たちの住まいです。”

私たち家族は、これまでにかわるがわる延べ25人くらいの他人と暮らした経験があります。そんな中で共に暮らした人たちからよく言われたのは「ここにいると『素のまま』でいられる」という言葉でした。私たちにとっては大変嬉しい「ほめことば」だと私たちは解釈しています。そしてその『素のまま』で共に過ごした人々は総じて、信仰においても人格においても大きく成長してこの家から巣立って行ったのです。 『住まい』とは「ありのままを受け入れてもらえる、心からリラックスできる場所」であるべきです。そういう意味では「家ではあまりくつろげない」という人はかわいそうだと思います。『ネグレクト』や『幼児虐待』などによって子供の頃から「『我が家』においてありのままを受け入れられる経験」を持てなかった人々が人格的に障害を負ってしまうのは当然です。 イエス・キリストを通しての『救い』を体験し、聖書の約束にあるように『神の子供』とされた人々は皆、その体験を通して「帰るべき場所に戻ってきた、と感じた」といいます。たとえこの世的にどんな『成功』を味わっていたとしても、神の許に戻ってくるまでは、誰もが『迷える子羊』なのです。 イエスは「わたしは『失われた人』を捜して、救うために来た」とおっしゃいました。今日あなたが「自分は神の前に失われている」と認めキリストの許に来るならば、真に帰るべき場所『神の住まい』に憩う者となるのです。

聖書

(327) “人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。”

牧師という仕事柄、いろいろな方々とお話をする機会があります。そしてたまにこんな質問をされます。「シブケン(日本人の方々の間ではこう呼ばれています)の趣味は何ですか?」こう訊かれると少々返事に困ってしまいます。家族でボードゲームをしたり、友人たちとスポーツをしたりするのは好きですが『趣味』と呼べるほどのものでもありません。「何かをすること」よりも「誰かと一緒にいること」が好きなのです。いわば私の『趣味』は「人と一緒に時間を過ごすこと」なんです。 今までいろいろな国に住み、様々な種類・国籍の方々と知り合ってきました。その結果言えることは「人間とは実に面白くて美しい」ということです。聖書のある箇所では「人間は神の創造物の中の最高級品である」というような表現もありますが、まさにその通りであると思います。きっと神様も「人間のことが1番好き」なのだと思います。もしかすると、私が人を好きでたまらないのは、神様が私を通して人を愛したいと思っておられることの現れなのかもしれません。だとしたら、たまらなく光栄なことです。 もちろん世の中には「悪人」と呼ばれる人や「意地悪な人」もいます。私にとっても『苦手なタイプ』がないとは言えません。でも相変わらず『人』というものに魅力を感ぜずにはいられません。「この人はちょっと…」と感じていた人も、じっくり話してみると実はなかなかの好人物だった、ということもよくありました。 世間は『プログラム』『イベント』『業績』などに注目するかもしれませんが、2019年は『人』に注目しながら生きてみてはいかがでしょうか?

聖書

(326) “幸いなことよ。主のさとしを守り、心を尽くして主を尋ね求める人々。”

物に溢れている時代です。多くの情報に翻弄されやすい時代です。価値観が多様化している時代です。私たちは今や「1つのことに集中する」ということがとてもしにくい時代に住んでいるということができるのではないでしょうか? 聖書には「心を尽くして」という表現がよく見られます。「心を尽くして神を愛する」「心を尽くして主に信頼する」「心を尽くして神を捜し求める」などなど、どうやら神というお方は、私たち人間が「いろいろなことに関わりながらその片手間に求める」ことによっては見い出すことのできない存在であるかのようです。 本来人間は「真に価値ある物と向き合う時」には、脇目をふらず一心不乱に集中するようにできていると思います。妊婦が出産する時のことを思い描いてみてください(出産経験がある方には、その必要は無いでしょうが…)。出産のためにいきんでいる最中に、「そう言えば昨日の夕食に何を食べたっけ?」などと考える余裕があるでしょうか? 神はアナタの人生のために崇高なご計画をお持ちです。しかしそれを見い出すためには「心を尽くして求める」ことが必須です。ひたすら神に祈り求め、ひたむきに神のことばである『聖書』と向き合い、自分を周囲と比べたりすることなく、真っ直ぐ前を向いて、この新しい年を進んで行きましょう!

聖書

(325) “愚か者は自分の道を正しいと思う。しかし知恵のある者は忠告を聞き入れる。”

前回に続いて「実際にあった話」です。 何年も前の話ですが、ペンシルバニア州にある1つのダムに関しての調査がなされ「数年の間に決壊する恐れがある」との結果が出されました。このダムの下流には数千人の集落があったので、直ちに調査結果が町の役所に報告されましたが、役人たちは「そんなことは大昔から言われているが、実際に起こったためしがないから信じませんよ。」と聴く耳を持ちませんでした。その1年後、再度調査が行われ、やはり極度の危険が確認されたため技術者たちが、今後は役人たちだけではなく住人たちにも「あなたがたはいつ大洪水に見舞われるか分からない。直ちにこの場所を立ち退くべきである。」と警告しましたが、それを聞いた人々はあざ笑いながら「そんな風に脅かしたって、誰もこの場所から出て行きはしませんよ。」と取り合いませんでした。その数ヵ月後、技術者たちは懲りることなく警告を発し続けましたが、やはり退けられました。その2週間後に、住人の1人である少年がダムに亀裂が入っているのを発見し、馬に乗って急いで町の中を駆け回りながら「大変だよ!ダムが壊れかけてるよ!急いで避難したほうがいいよ!」と叫んで回りましたが、住人たちは「そんな嘘をついて脅かそうったって、そうは行かないぞ」と笑い飛ばしていました。するとまもなく大洪水が集落に押し寄せ、たった30分もしないうちに3700人もの住民たちが流されて亡くなってしまったそうです。 新しい年がやってきました。この年を過去最高の1年とするために、ぜひ「人々からの忠告」また「聖書のアドバイス」に耳を傾けましょう。

聖書

(324) “わたしの恵みは、あなたに十分である。”

これは本当にあった話です。 アメリカの西海岸で『ゴールドラッシュ』が騒がれていた頃、1組の若いカップルもこの勢いに遅れを取るまいと、親から受け継いだ農地を含めた全財産を売り払って西へと向かいました。ところが、掘れども掘れども金には巡り会えず、とうとうすべてを失ってしまい、やむなくヨーロッパへと渡って再び初めから人生をやり直しました。何年も経ってから、彼らが再び新天地を求めてアメリカへと戻った時、以前自分たちが住んでいた古い農地はどうなっているだろうかと訪れてみたところ、何とその一帯は鉄条網に囲まれて堅くガードされていました。一体どういうことかと尋ねてみて分かったことは、実は彼らがその地を離れた後、彼らの農地の地下に「全米2番目の規模の金鉱」が発見されたということでした。そしてその地域一帯は現在政府の管理下となっていたのです。 「自分にもっと才能があったなら…」「もっとお金があったら…」「もう少し状況が整ったなら…」多くの場合私たちはそのように思います。しかし実際には神様は既にあなたに十分なリソースを与えてくださっているのです。ところが私たちはしばしばそれらを探ろうともせず『無い物ねだり』ばかりしているので、せっかく与えられているものを見つけることも、育てることも、活用することも忘れてしまうのです。多くの場合「神様から与えられている才能や可能性」というものは『種』のような存在です。その価値を見出し、注意深く育む必要があります。ところが私たちは初めから『完全形』のものを捜してしまっているので、せっかくの神様からの「素晴らしい贈り物」に気が付かないでいるのです。 この年末年始のお休みに、来年からの新たなスタートのための備えとして、もう1度じっくりと「自分に既に与えられているもの」を探ってみてはいかがでしょうか?

聖書

(323) “だれでも、手を鋤につけてから、後ろを見る者は、神の国にふさわしくありません。”

「時は金なり」という言葉がありますよね。「時間はお金のように大切だ」という意味に用いられると思いますが、実際は『時間』の方がお金よりよほど大切です。何故ならお金なら失ってもまた何らかの方法で手に入れることもできるでしょうが『失われた時間』は2度と戻っては来ないからです。『偉大な決断』は立派ですが、それに『行動力』が伴わなければ何の価値もありません。 以前アメリカの名門エール大学において1つの実験が行われました。大学の講義で『破傷風』の予防接種の重要性が説かれ、学生たちに「校内のヘルスセンターで無料で受けられるから、自主的に受けに行くように」とアナウンスされたのです。何パーセントの学生が実際に受けに行ったと思いますか?何とたった3%だったそうです。学生たちは「確かに自分は予防接種を受けに行くべきだ」と自覚したにも関わらず、その決心を行動に移さなかったのです。ところが別の講義グループでは、予防接種の重要性を伝えると共に、キャンパスの地図が配布され、地図上のヘルスセンターの位置が赤丸で示されました。すると30%近くの学生が予防接種を受けに行ったそうです。 『後回しにする』というのは、想像以上の「悪癖」です。「完璧にこなせる保証がない限り挑戦しない」というような姿勢で人生を送るなら、もしかしたら何も成し遂げることはできないかもしれません。人生とは『失敗』から学ぶものです。『偉人』と呼ばれる人々は皆、数え切れないほどの失敗を重ねた後に、本に載るような偉業を成し遂げたのです。さあ、何もモタモタしているんですか!志が与えられたなら(それが邪悪なものでない限り)迷わずに行動を起こしてみましょう。もし初めからうまくいかなかったとしても、それは『失敗』ではなく『学習』です!