聖書

(322) “天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。”

美しい星空や夕焼け雲を見て感動を覚える方々は多いと思います。そして聖書は、これらの美しさはその背後に『偉大な創造者(デザイナー)』がいることを想起させるためだ、と述べます。かの有名な物理学者であり天文学者でもあったニュートンは「宇宙は大きな聖書である」と言いました。宇宙(大空)は聖書同様に創造者である神を分かりやすく証ししている、というわけです。 改めて考えてみると、全宇宙はこの「偉大なデザイナー」としての神を想起させるものに満ちています。例えば、私たちが生きているこの地球は太陽から約1億5千万キロメートル離れていますが、これが少しでも太陽に近ければ私たちは焼け死んでしまうし、遠ければ凍え死んでしまうのです。また誰もが知っているように地球は驚くべきスピードで自転していますが(何と時速およそ1700キロ!)、もしこれが半分のスピードだったりしたら、太陽に向いている側は焼け焦げてしまい、陰になっている側は凍ってしまうのです。 神を信じない人々は、これらすべてを「偶然」とか「進化」などと呼ぶようですが、「背後に偉大なデザイナー(神)がいる」と考えた方がはるかに妥当であると言えるのではないでしょうか?

聖書

(321) “神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。”

先日母が他界しました。『他界』ということは「別の世界へ行った」ということですよね。実際、母は「死んでしまって『無』に帰してしまった」わけではなく、私たちが生活している『この世』よりもずっと素晴らしい「悩みも苦しみもない『天国』」へ移されたわけです。実に羨ましい限りです。 神は私たち人間を「滅ぶべき者」としてではなく「永遠に存在する者」としてお造りになりました。本来私たち人間は「永遠に神との親しい交わりの中に生かされ、愛と喜びと平和に満たされて生きるべき存在」でしたが、私たちが『神』よりも『自分自身』を人生の王として生きることを選んだため、神と隔絶されて「この世の与える『一時的な満足』に慰めを見い出す存在」へと成り下がったのです。 ところが神は私たちへの深い愛の故に、私たちをもう1度本来の「永遠に神との交わりの中で生きる存在」へと回復されるために、救い主キリストをお遣わしになられたのです。従って、このキリストを自分自身の救い主として受け入れる者は『永遠のいのちの祝福』にあずかり、彼を拒む者は「永久に神から隔絶され、『永遠の死』の苦しみにあえぐ」ことになるのです。 先日あるクリスチャンの女性がこんなことを言っていました。「以前私はよく周囲の様々なできごとに煩わされていました。都合が悪いことが起こると、『このまま物事がドンドン悪い方向へ行ってしまうのではないか』と恐ろしくなって、眠れなくなってしまうこともありました。でもある時ふと『神様は永遠に私から離れることがないのだから、何も心配する必要はない』ということが示され、『あぁ、この世でどんなことが起ころうとも、所詮永遠に続くわけではないのだから、問題ではない。本当に大切なものは、神様から与えられる永遠のものだけなのだ』と、深い平安が心にやってきたのです。」 あなたはこの『永遠の神との関係』の中に、もう生かされていますか?

聖書

(320) “明日のための心配は無用です。明日のことは明日が心配します。労苦はその日その日に、十分あります。”

多くの人が「自分の将来」を知りたがります。そして様々な占いなどに頼って一喜一憂するわけですが、実際は占いの結果が良ければ良かったで「本当にそうなるのだろうか?」と心配したり、結果が悪ければ「そんなはずはない!」と言いながら、どうしても不安がぬぐい去れなかったりしてしまいます。結局不安な気持に陥るのであれば、占ったりしない方が良かったのではないでしょうか? 神様はどうして私たちに「将来を知る力」を与えなかったのでしょう?恐らくその理由は、私たちに『今』を精一杯生きて欲しかったからではないでしょうか。「将来を知りたがる人」というのは大抵「現状に満足していない人」です。きっと『今』を喜べないから『将来』に希望を見い出そうとするのでしょう。でも前述のように、確証のない未来を思い浮かべてみても、結局は「今を喜ぶ」という人生に至ることはできません。 私は「人の将来というものは、『今』の積み重ねによって造られる」と信じています。神様は私たち1人1人の人生を既に決めてしまっているのではありません。もちろん私たち1人1人のために『最高の計画』を立ててくださっていますが、それは「私たちがどんなに適当に暮らしていても成就する」という類のものではなくて、「私たちが神のみこころを捜し求めながら、日々自分が生み出し得るベストをささげて生きて行く」中で開かれて行くものに違いありません。そういう意味では、もしあなたが試練の中にあるならば、それはまさに「神から与えられたテスト」であって、神はきっとあなたがその試練の中で『逃げ腰』に生きるのか、それとも「神に助けを求めつつ『前向き』に進んで行こうとするのか」をご覧になっているのです。そしてそれら1つ1つの試練は、私たちが『更に優れた将来の自分』となれるようにと備えられた、神の愛の証なのです。

聖書

(319) “わたし(イエス・キリスト)が来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。”

英語で『ライフ(Life)』というと、日本語で言う『いのち』と『人生』という全く別の2つのものの両方を表す意味があります。私たちは『いのち』と聞くと「生物学的・医学的ないのち(生命)」を思い浮かべ、『人生』と言われたら「人間1人1人に与えられた生き様」を想起します。 聖書は、イエス・キリストを救い主と信じる者には『永遠のいのち』が与えられると教えています。これを前者の「生物学的ないのち」として理解する人の中には「この世で80年生きるのだって退屈なのに、『永遠のいのち』なんてもらっちゃったら、退屈で仕方がない!」と思う方もいらっしゃるかもしれません。しかし実際は、この『永遠のいのち』という言葉で表現されているものは「神と共に生きる人生」のことであり、それはイエス・キリストを信じた瞬間から与えられ、この世においても日々成長して行く「生き生きとしたいのち」であり、永続的にもたらされる『喜び』『平安』そして「天地創造の神に100パーセント受け入れられている」という充足感に満ちた日々を生きることなのです。 多くの人々は「お金」「家庭」「生きがい」などといったものが人生を豊かにすると思っているようですが、実際に私たちが心の奥底で激しく欲しているものは「尽きることのない喜び」「状況に左右されない心の平安」「自分は確かに必要とされている、という確信」そして「何かを失ったり、失敗したりしても、相変わらずありのままを受け入れられている、という確固たる安心感」ではないでしょうか?神がイエス・キリストを通して私たちに与えようとしておられる『永遠のいのち』には、まさにそういったものがすべて含まれているのです。

聖書

(318) “小羊(イエス・キリスト)のいのちの書に名が書いてある者だけが、そこ(天国)に入ることができる。”

1912年のある夜、至上最大の豪華蒸気客船『タイタニック号』が北極海に沈み、多くの犠牲者を出しました。「沈没することはあり得ない」とまで言われていたタイタニック号であっただけに、その反響は当時ものすごく大きなものでした。 この大惨事の後、リバプールにあった「ホワイトスター観光事務所」の入り口には、この豪華客船に乗船していた方々の家族や友人たちが殺到しました。何故ならその入り口の両脇に、片方には「死亡者リスト」、もう一方には「生存者リスト」が貼り出されたからです。そして更なる死亡者・生存者が確認されるたびに、事務所の係員が出てきては、その名前を書き足すのでした。『生存者リスト』に自分の知り合いの名前が書かれるのを見た人々は歓喜し、『死亡者リスト』に書かれるのを見た人々の顔には絶望の涙が流れたのです。 実はこの話は何も『他人事』ではありません。聖書ははっきりと「やがて来る世の終わりには、『小羊のいのちの書』にその名が書いてあるか否かで『天国行き』もしくは『地獄行き』が決まる」と書いてあります。そしてこの『小羊のいのちの書』に名前が書かれるかどうかは、私たちの学歴や業績とは全く関係がなく、ただ「あなたの罪の身代わりに十字架にかかって死なれた『イエス・キリスト』を、自分の救い主として信じているかどうか」にかかっているのです。 タイタニック号の大惨事で生き残ったかどうかは、それぞれの学歴や業績とは全く関係ありませんでした。(もっとも、そうとうのお金と暇が無ければこの船には乗れなかったでしょうが…)しかし乗船していた全員に共通していたことがあります。それは、自分たちがそんな大惨事に直面しているなどとは夢にも思っていなかったことです。あなたも「『世の終わり』なんて来る訳がない。どうせ死んでしまえば何もかも同じ。今さえ楽しければ、それで十分!」と思っているでしょうか?『その日』は思いがけない時に訪れてくるものなのです。もし今日その準備をすることができるのだとしたら、それを怠ることは賢いことと言えるでしょうか?

聖書

(317) “父がその子をあわれむように、主は、ご自分を恐れる者をあわれまれる。”

イエス・キリストが人々に『祈り』を教えられた時、まず「天におられる私たちの父よ」と呼びかけるように言われました。実はこのように神を親しく「我らの父」と呼ぶ習慣は当時のユダヤ人たちの間ではあまり一般的ではありませんでした。彼らにとって『神』という存在はむしろ「厳格で近寄りがたく、超越した存在」という意識があったようです。ところがイエスはそんな『神のイメージ』を一新させたのです。 もしかすると現代の多くの人々にとって『父親のイメージ』というものも、あまり慕わしいものではないのかもしれません。特に「放任主義の家庭」また「虐待の経験がある子供時代」に育った人たちにとっては『父親のような神』などは全く欲しくないものに感じられることでしょう。でも、この『天の父』は私たちのそんな歪んだイメージを一新させる「愛とあわれみと力に満ちたお方」なのです。 「父なる神がどれほどに良いお方か」をいつもイエスから聞かされていた弟子のうちの1人が、ある時我慢できなくなって「イエス様、ぜひ私にも『父』を見せてください!」と懇願すると、イエスはこうお答えになりました。「こんなに近くにいたのに、あなたはわたしを知らなかったのかい?わたしを見た者は『父』を見たのだよ。」 そう、父なる神は「ご自身を人々に正しく理解して欲しいがため」に、ご自分のありのままを人のかたちにして地上に来られた、それがイエス・キリストなのです。私たちが『父なる神の正しいイメージ』をもって生きるためには「聖書を通してより深く『イエス・キリスト』と出会うこと」が最善の道なのです。

聖書

(316) “私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。”

先日、教会のメンバーの方のお葬式を行いました。クライストチャーチに来てから最初の、自分が担当したお葬式でした。7年半前の『カンタベリー大震災』の時には多くの日本人の犠牲者が出て、その時はいわゆる「見ず知らずの方々」のために葬儀を担当させていただきましたが、長年こちらで一緒に信仰生活を歩み、親しい付き合いのあった方々の葬儀に携わったのは今回が初めてでした。何人かの(NZ人の)先輩の牧師たちには「10年間牧師として働いてきて、今回が初めてのお葬式とは、ずい分ラッキーだったね」などと言われてしまいました。 彼女(亡くなられた女性)はNZ人のご主人に嫁ぎ、私たち家族がクライストチャーチに来るより前からこちらに住んでおられました。ご主人もクリスチャンだったので、午前中の英語の礼拝と午後の日本語の礼拝のどちらでも顔を合わせ、時には一緒に食事をすることもありました(年齢も私たち夫婦とさほど変わりません)。実は私たちがクライストチャーチに来る少し前(2007年くらい)にガンを発病され、放射線治療などを経てそれを克服した経験があったので、私たちが来た当初は、毛が抜け落ちた頭を覆うように、いつも素敵な帽子をかぶっておられました。そのガンが2年前に再発し、教会の皆で祈り続けてきましたが、とうとう天国へと凱旋して行かれたのです。 告別式の時に、彼女の残した日記の一部が公開され、そこには下記のような文章が遺されていました。 「2018年7月27日(金)(ホスピス病棟にて)。私はクリスチャンになってからも自分の中にあるプライドや人々に対する批判的な態度から完全に自由になることができませんでした。それは自分がどこかでそれらをしっかりと握り締めていて、神様に明け渡すことができなかったからに違いありません。ところが、自分の弱さや死を目前にした絶望感にさいなまれている中、ついさっき(夜中の2時頃)イエス・キリストがすぐ近くにおられる、という感覚に覆われたのです。すると不思議なことに、すべての不安や恐れ・悲しみが一瞬のうちに消え去り、なんとも言えない安らぎに満たされました。それは『このお方と一緒にいられるなら、他には何もいらない』というほどの感覚でした。そして気が付くと、それまでいつも私の心の中に巣食っていた苦々しい思いから完全に自由にされていることが分かったのです。」 告別式には、クリスチャンではない方々も多く集われましたが、式の後に何名かの方々は「このような葬儀は見たことはない。死を目前にしながら、どうして皆あのように希望と明るさに輝いていられるのか?」と感想を述べておられました。 誰も『死』から逃れることはできません。『死』というものはすべての人間に平等にやってきます。しかし唯一この『死』を打ち破りよみがえられたイエス・キリストに希望を置いて生きる時、私たちは『天国』という永遠の国籍を抱いて生きることができるのです。

聖書

(315) “訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。”

私たちは人生の過程で様々な『変化』を経験します。その中には「自ら買って出る変化」もあれば、「自分では願っていなかったのに、避けることのできなかった変化」もあるでしょう。ところがこの「願ってもいなかった思いがけない変化」が思いもよらない良い結果を生むことがしばしばあるのも事実です。では何故私たちはそのような『変化』を歓迎したがらないのでしょうか?それは元来人間が「習慣的に生きる」ことを楽に感じるからです。 私たちは実に多くのことを『習慣的に』行っています。朝起きて顔を洗う。食事の時にまずお味噌汁を飲む。靴は右足から履く。ランチは近くのコンビニでサンドイッチを買う。お風呂で体を洗う時は首から洗う。などなど。これらをいちいち「えーと、今日はどちらの足から靴を履こうかな?」「体をどこから洗おうかな?」などと考えていたら、時間がいくらあっても足りなくなります。「習慣性」って、実に素晴らしいですよね?これが例えば「朝起きたら断水していた」とか「サンドイッチが売り切れていた」などのハプニングがあると、とたんに生活のリズムが狂うわけです。通勤電車の遅れやインターネットの接続不良などが起こるとすぐ「キレて」しまう人がいるのも現代の特徴の1つでしょう。 ところが、もし人生がすべてこのように『習慣的に』進められてしまったら、進歩がなくなってしまうというのも事実です。「生活の改善」や「私たちの人格的成長」は、ある意味『強制的な変化』に伴ってやってくるものなのです。別に『変化』を大好きになる必要はありませんが、それらを肯定的に受け止め「成長のための栄養」としていくことは大切です。 神様は私たち人間を『現状維持』のためには造りませんでした。「日々成長するように」お造りになったのです。それ故、神様は時々私たちの人生に「避けられない変化」を送られる時があります。それらに対して私たちはつい「神様どうして?!」と呟いたりしてしまいがちですが、そこにも私たちに対する『神様の愛』を見い出すことができたら、人生がより輝いて見えるようになるのではないでしょうか?

聖書

(314) “今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。”

戦後のベビーブームとは対照的に、現代の日本は様々な理由により「子供は1人」と決めている家庭が多いようです。そればかりではなく、その「たった1人の大切な子供」を可愛がろうとするがあまり「できるだけ苦労や冒険をさせないで、必要なもの(時には『必要以上のもの』)はすべて与える」という方針で、万事整った環境の中で子供を育てようとする傾向があります。しかしそれらの『理想的な環境』というものが、必ずしも子供たちの成長のために役に立つわけではありません。 とても残念なことではありますが、この世の中で生きていく上では、様々な問題や困難、そして「思った通りに事が運ばないこと」が多々あります。もし子供時代の成長過程でそのような挫折を経験することなく育つなら、一体彼らはどのようにしてそれらの試練を克服する術を身に付けるのでしょうか? 熱帯雨林に育つ木々は、その水分に恵まれた環境の故に「地中深く根を伸ばすこと」を学ぶことなくグングン成長します。それ故少しでも強い風が吹くと簡単になぎ倒されてしまうのです。ところが砂漠に生息する『メスキート樹』と呼ばれる木の根は、水分を求めてあえぎながらじっくりと時間をかけ、地中深く10メートル以上も根を伸ばします。その結果様々な厳しい自然現象の襲撃にあっても、依然として立ち続けることができるのです。 私たちの大切な子供たちも同様です。立派な次世代を育てて行くために必要なのは「できるだけ苦労をさせないこと」ではなく、むしろ敢えて彼らが困難や挫折を経験することを許し、そしてできるだけその現場に一緒にいて声援や必要な援助を送りつつ、彼らがそれらの試練を自分で克服して行くのを見届けてあげることです。そして実はこれこそ私たちの『天の父である神』がご自身の愛する息子・娘たちにしてくださっていることなのです。

聖書

(313) “ある役人が、イエスに質問して言った。「先生、私は何をしたら、永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか?」”

これは、ある金持ちの若い役人がイエス・キリストの許に来て尋ねた質問です。これに対しイエスは「聖書の戒めならあなたもよく知っているでしょう?それらをよく守りなさい。」とおっしゃいました。しかし実際この役人は忠実なユダヤ人で、幼い頃から『聖書の戒め(盗むな・殺すな・姦淫するな、など)』を注意深く守っていたにも関わらず、未だに「神からの賜物としての『永遠のいのち』」を受けていると実感できなかったのです。一体何が足りなかったのでしょう?それは『規律』に捕らわれすぎて、それをお与えになった『神ご自身』から離れてしまっていたからです。 『永遠のいのち』とは、単に「私たちを永遠に生きながらえさせて、天国に至らせてくれる命」という意味ではありません。むしろそれは「時を越えて永遠に存在される『神』と心を通わせながら生きること」に他なりません。だからこそ、そのいのちは「ルールを守ること」によっては得ることができないのです。 イエスはこの後この金持ちの役人に「あなたの持ち物を売り払って人々に施し、そして私について来なさい」とお招きになりましたが、役人は「悲しみながら帰って行った」と記されています。彼はイエスについて行くことを拒んだのです。彼は単に「多くの財産を所有していた」だけではなく、むしろそれらの財産に「所有されて」しまっていたのです。自分の持っている物を惜しむ心が『本当に大切なもの』を得ることにブレーキをかけてしまったのです。 神は今日あなたのことをも、神との『永遠のいのち』の関係へと招いておられます。あなたがこの『神からの招き』に応えることにブレーキをかけているものが何かありますか?