(379) “主よ。あなたの御顔を私は慕い求めます。”

 我が家では、犬を1匹・猫を1匹飼っています。犬はメスで名前は『マロン』、猫はオスで名前は『ミクタム』。  ミクタムは、朝私が2階から降りてくると、私が歩くのに不自由するくらいに私の足にまとわりついてきます。これは私が好きだからではなく、エサが欲しい(私が家族の中で1番早起きです)からです。エサをあげてしまうと、もう私には見向きもせず、一心不乱にエサを食べ始めます。  一方マロンの方は、私が『朝の散歩』の準備を始めると、私の前に「お座り」し、じっと私の顔を見上げながら、準備が終わるのを待ちます。これはもちろん「お散歩に連れて行ってもらえる」という期待感もあるでしょうが、と同時に「またお父さんと一緒にお散歩に行ける!」と言っている様にも感じ取れます。何故なら散歩中にも時々彼女は嬉しそうに私の顔を見上げるからです。というわけで、私はどちらかというと(というよりも、かなり)ミクタムよりもマロンの方が気に入っています。  聖書の神は、私たち人間に「わたしの顔を慕い求めなさい」と語りかけています。飼い犬が飼い主の顔を見上げているのを眺めるだけでも嬉しいのですから、なおのこと「心を込めて形造った私たち1人1人」が、神ご自身の御顔を慕わしく見上げるとき、神は殊の外喜ばれるのではないでしょうか?  神は私たちの態度いかんに拘らず私たちを愛しておられますが、私たちがそんな心に愛情をもって答えることほど、神を喜ばせることは他にないのかもしれません。『苦しいときの神頼み』的に、「何かをしてもらうこと」のためだけに神を求めるのではなく、『共にいること』を喜ぶために神を求める者になりたいですね。