
「『神は良いお方だ』というなら、なぜ人生には試練が襲ってくるのだろう?」と考える方がいらっしゃるのではないでしょうか?確かに「好きな女の子につい嫌がらせをする幼い男の子」でもなければ、わざわざ大切な相手を辛い目に遭わせることはしないはずですよね?
ただ、ここでちょっと考えてみたいのは、『良い出来事』を「良かった」と感じられるのは、『辛い出来事』も経験したことのある人だけではないか?ということです。毎日『良い出来事』ばかりを経験していたとしたら、それが当たり前になってしまって、それらの『良い出来事』を「良い」と感知することがなくなってしまうのではないでしょうか?ですからある意味「試練がある」ということは、「当たり前の事」になりがちな平穏な日々を改めて感謝するため、ということができるかもしれません。
また、「試練は人を成長させる」という面もあります。今も行われているかどうかは定かではありませんが、私が子供の頃、農家の方々は『麦踏み』ということを習慣的に行っていました。成長途上の麦の苗の上を踏んで歩くことによって、1度踏んづけられた麦が更に強く育つようにするためです。我々人間も同じように、試練を経験することによって更に強く成長することができます。私は鎖骨を骨折したことがありますが、聞いたところによると、1度折れた骨は、もう1度を同じ部分が折れることはほとんどないそうです。それはその骨折部分の周囲を補強するような形で新しい覆いが形成されるからです。私たちも人生の中で『痛み』を経験すると、後に同じような痛みを経験している人を慰めたり支えたりすることができるように成長するのではないでしょうか?
最後に、『試練』は私たちに、「人は1人で生きるようにはできていない」ということを思い出させてくれます。日本人はしばしば「自分の弱さや問題を他の人に打ち明けるのは『恥』」と考えてしまいがちですが、苦しい状況に陥った時は、必ず周囲の人々の助けを求めるべきです。神が私たちに最も求めておられることは「互いに愛し合い、励まし合うこと」です。私たちがそれを学ぶために、神様は時に私たちが「1人では乗り越えられない試練」に遭うことを許されます。苦しい時には、独りで我慢しようとはせずに、家族や友人に分かち合って、支え合いましょう。
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