
聖書には『罪』という語が度々登場します。そして「全ての人は罪人である」と断言するので、ある方々は「だからキリスト教は嫌いなんだ」と感じるかもしれません。しかし聖書が語る『罪』と、世で言ういわゆる「犯罪」とは大きな違いがあります。
この世の常識では、『罪(犯罪)』を犯した人を「罪人(犯罪人)」と規定します。しかし聖書的概念では「人は『罪人』なので『罪』を犯してしまう」というのです。日本語で『罪』と訳してある語源の直訳的な意味は「的外れ」です。すなわち正確には『罪人』ではなく、「ズレ人」なのです。つまり「人は本来の姿(神を主権を認め、神の愛を受け取りながら生きる)からズレてしまっているために、神の望まないような『神を認めない自分本位な生き方』に陥ってしまう」というわけです。
世の様々な『宗教』は、「救いを得るためには『修行』や『徳』を積まなければならない」と教えますが、考えてみるとこれは無理な話です。何故なら、人は生まれつき『罪人』としての性質を負って「ズレて」しまっていますから、『徳(良い行い)』をしたくても限界があるのです。「救いを得るため」ではなく、まずこの『救い』が先に必要なのです。
聖書は「恵みによる救い」を強調します。言い換えるなら「『救い』のために私たちがしなければならないことは、何もない」のです。神はその大いなる恵みによって、無代価でこの『救い』を提供してくださり、私たちと神との「ズレ」をまず修正してくださることによって、私たちが徐々に「本来の(神によって造られ愛されている存在としての)姿」へと回復され、『徳(良い行い)』ができるようにしてくださるのです。
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