(634) “私たちの大祭司(キリスト)は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。”

 『神』という方は「感情を持たずに機械的に物事を運営する存在」というように考えている方がいるかもしれません。しかしそれはとんでもない間違いです。聖書は「神は人をご自身に似た者としてお造りになった」と述べています。ということは、神様は私たちの想像以上に「情緒豊かな存在」に違いありません。但し、私たちのように「感情的になり過ぎてつい失敗を犯す」というようなお方でもありません。もしそうだとしたら、恐らく人類は今日まで生き残れなかったことでしょう。  神は私たちの『喜怒哀楽』を楽しまれます。そのような存在として私たちを創造されたのですから。神は私たちが喜び踊っている時、共に心を躍らせておられます。私たちが悲嘆に暮れている時、共に心を痛めておられるのです。時には私たちは苦しみのあまり、神をののしったり暴言を吐いたりするかもしれません。そんな時も神様は、じっと私たちを見つめて、その思いの丈を受け止めてくださっているのです。  神にとって最も辛いことは、私たちからののしられることではなく、『無視』されることです。ですから、たとえ私たちが神様を「怒りのはけ口」のように扱ったとしても、私たちを歓迎し、それらの思いを受け止めてくださるのです。そして、もし私たちが神への信頼の故に自分の「悲しみ・苦しみ・嘆きや思い煩い」を携えて御前に近づいて行くなら、神ご自身にしか与えることのできない「慰め・癒し・平安」を注いでくださり、またそれらの試練を乗り越えて生きる力を与えて下さるのです。

2025年11月30日 「イエスが招く人々」

礼拝全体の様子をYoutubeで観る 説教あらすじ    「イエスが招く人々」    (30/11/2025) [ルカの福音書 5章27~32節] ◆「取税人・罪人たち」とは?(30節)  ・当時『取税人』は決められた額よりも多めに徴収して着服していたため「罪深い」とされていた。またここでいう『罪人たち』とは、別に「前科者」というわけではなく、律法に厳格なパリサイ人たちの基準では律法を守れていない「落ちこぼれ」のような存在。恐らく現代社会においても彼らのように「どうせ自分なんて…」と自己卑下しながら生きている人は多いのではないだろうか?イエスはそのような人々に近づかれる。 ◆私たちは「誰に」遣わされているのか?(31~32節)  ・人が救われて神との交わりを持つようになるために必要なことは、①「自分には神の憐れみが必要だ」と自覚す  ること。そして、②「自分で何とかしよう」ではなく、『神の許』へ行くこと。『悔い改め』とは「自分に頼ること」から、『神』に向かって向きを変えることである。  ・また、私たちがキリストに忠実に生きようとする時、次のどちらかになる傾向がある。    ①純粋による孤立 ②妥協による埋没  しかしイエスは純粋さを保ったまま人々の中へ入って行った。  ・私たちは、このイエスの模範に従って、「神の憐れみに押し出されて」遣わされる者である。[ヨハネ20:21] 今日の要点: 純粋のままの埋没 ◎更に深い学びのために  ①イエスが今の時代にこの地上に人として来られたとしたら、どのような人々を招こうとされると思いますか?  ②ルカは何故、他の福音書と違って、この発言を「弟子たちにも向けられたもの」として書いたと思いますか?  ③私たちはどのようにして、純粋さを保ったまま『罪人たち』の中へと入って行くことができるでしょう? Outline of the sermon  “Whom is Jesus inviting?”  (30/11/2025) [Luke 5:27~32] ◆Who are “sinners”?(Verse 30)  ・This “sinners” doesn’t indicate “criminals” but those who don’t observe the laws in Pharisees standard.  Even in  modern Read more…

(633) “自由をもたらす完全な律法を一心に見つめて、それから離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならず、実際に行う人になります。”

 『ルール』というと、「大切なものだけど、何となく不自由さを感じる」というイメージがあるのではないでしょうか?確かにそういった面もあるかもしれませんが、実際は正しい『ルール』が無い方が、私たちはずっと不自由になるのです。  例えば「交通ルールなんて面倒だ。どうして赤信号でいちいち停まらなければならないんだ!」といって皆が信号無視をしていたら、たちまち混乱が起きて多くの人々が時間通りに目指していた場所へ到着できなくなります。またほとんどのスポーツは、正しいルールや決められた白線に沿ってプレーしなければ、選手も観衆も楽しむことができません。『ルール』は本来私たちを「縛る」ためではなく、「自由にする」ためのものなのです。  聖書の中には、現代社会の法律の基礎となっている多くの『原則』があります。「殺してはならない」「盗んではならない」「姦淫してはならない」「親を敬え」などなど。これらの『ルール』は、神が私たちを「不自由にしよう」という意地悪な心で定められたものではなく、むしろ深い愛をもって、私たちが「自由で豊かな人生を生きるため」に与えてくださったのです。  神の愛と誠実さに信頼し、聖書で教えられていることに忠実に従って行く時、私たちは神の祝福と守りの中で、自由で豊かな人生を生きることができるのです!

2025年11月23日 「律法学者たちの間違い」

礼拝全体の様子をYoutubeで観る 説教あらすじ    「律法学者たちの間違い」    (23/11/2025) [ルカの福音書 5章17~26節] ◆「彼らの信仰を見て」(20節)  ・この人々は癒しを求めて来たのに、なぜイエスは『罪の赦し』を宣言したのか?それはそれがイエスの最大関心  事だったから。[ルカ19:10] では彼らには「赦されるべき罪」があったのか?もちろんである。では「罪が赦されるための信仰」とは?[へブル11:6] 彼らは「神は求める者に報いてくださる方」と信じ、イエスはそれを見た。 ◆罪を赦す権威(21~22節)  ・律法学者やパリサイ人たちは何故「イエスは神を冒瀆している」と考えたのか?「神以外には罪を赦すことなん  てできない」と思っていたというが、そういう彼ら自身が、神の位置に自分を置いて「人を罪に定めて」いた。  ・私たちは「固定観念や先入観」に捕らわれると、物事の真意を見失ってします。律法学者たちは「神は善を祝福  し、悪をさばく方」と考えていたが、その『善悪』を自分勝手な価値観に立って定めてしまっていた。  ・『神の心』は、「すべての人が救われて真理を知ること」(Ⅰテモテ2:4)である。律法学者たちは人々を「さばかれるべき罪人」と見たが、イエスは「救われるべき失われた人」と見た。私たちは、この律法学者たちを反面教師とし、自分を神の立場に置くことなく、へりくだって正しく神を知り、またこの方を正しく伝えて行こう! 今日の要点: 先入観なしに、イエスを通して神を見る ◎更に深い学びのために  ①イエスは中風の人に向かって、何故「あなたの罪は赦された」とおっしゃったのでしょう?  ②律法学者やパリサイ人たちはどんな点で間違っていますか? 同様の間違いをしてしまったことがありますか?  ③私たちはどのようにして、先入観なしに正しく神のことを知り、また伝えて行くことができるでしょう? Outline of the sermon  “Scribes and Pharisees’ mistake.”  (23/11/2025) [Luke 5:17~26] ◆Jesus saw their faith. (Verse 20)  ・Why did Jesus say, “your sins are forgiven” instead of saying, “be Read more…

2025年11月16日 「イエスと『神と人々』との関係」

礼拝全体の様子をYoutubeで観る 説教あらすじ  「イエスと『神と人々』との関係」  (16/11/2025) [ルカの福音書 5章12~16節] ◆ツァラアトに冒された人(12~13節)  ・「ツァラアトの癒しの記事」は旧約聖書にも出て来るが、そこでは病人に「触れて」はいない。ルカの福音書の別  の箇所でも、イエスは患者に触れずに癒している。ところがここでは敢えて、伝染性の強いツァラアト患者に「さ  わって」癒された。必要がないのに敢えて「さわって」いるところに『イエスの心』が表現されているに違いない。 ◆イエスにとっての最優先事項(15~16節)  ・以前学んだように、イエスは「できるだけ多くの地域を巡って、できるだけ多くの人々に『神の国の福音』を伝えること」を目標としていた。しかしイエスは決して『doing』に捕らわれることはなかった。彼にとっての第1優先事項  は、いつでも「御父との交わり」だった。  ・英語に「align」という単語がある。「正しい関係に微調整する」のような意味。実は『祈り』の第1目的は「神に願いを聞いてもらうこと」ではなく、「神にalignすること」ではないだろうか。そして正にイエスはそのために、また私た  ちに対する模範として、朝に夕に御父の前に出ていたように思う。  ・日々人々と正しく接するために、まず「神の前に自分自身を正しい位置に置くこと」によって備えましょう。 今日の要点: 神にalignする ◎更に深い学びのために  ①どうしてここでイエスは、敢えてツァラアト患者に「さわった」のだと思いますか?  ②あなたにとって『祈り』とはどのようなものですか? また、1日にどれくらい祈っていますか?  ③日々1人1人と適切に接するために、自分自身をどのように備えることができるでしょう? Outline of the sermon  “How did Jesus relate to ‘God & people’?”  (16/11/2025) [Luke 5:12~16] ◆A man of leprosy. (Verses12~13)  ・“Healing of leprosy” happened even in Old Testament but no Read more…

(632) “イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」”

 この全宇宙をお造りになられた『創造主なる神』は、私たちをもお造りになられた力に満ちたお方であり、しかも私たちをありのままで深く愛し慈しんでおられます。このお方にしっかりとつながって生きる人生は愛と平安に満ち、この方と無関係に生きようとするなら、しばらくはそれなりに楽しめても、結局無秩序で平安も希望もないという窮地に陥ります。では、一体どのようにして私たちは「神との関わりの中で」生きることができるのでしょうか?  イエス・キリストは人々に多くのことを教えられましたが、「あれが道だ、あそこに真理がある」などとは言わずに、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのだ。わたしを通してでなければ誰も父(神)のもとに行くことはできない!」とおっしゃいました。私たちはイエス・キリストを通して『神との関係』に招き入れられるのです。  イエス・キリストは地上の人生において、「神へ至る道」だけでなく、「神とはどういうお方なのか」をも、ご自身の生き様を通してお示しになられました。そしてその生涯の終わりに、私たちと神とを隔てる壁となっていた「私たちの不信仰の罪」の清算として、ご自身のいのちを十字架の上で犠牲にされ、私たちのために「神に至る道」を開いてくださったのです。このイエス・キリストを「私のために神との関係に生きる道を開いてくださった救い主」として個人的に受け入れるなら、その瞬間から「神の子どもとされる特権」が与えられ、『全宇宙の創造主とつなげられた人生』を歩み始めることができるのです!

(631) “すべてのことには定まった時期があり、天の下のすべての営みに時がある。”

 ある人がこんなお祈りをしたそうです。「神様、どうか私に『忍耐』を与えてください。今すぐに!」  私は、この手のタイプの祈りはなかなか叶わないのではないかと思います。何故なら神様は私たちの内側に『忍耐』を育むための最善の方法をよくご存じだからです。それは私たちが『待つこと』を学ぶことです。  現代はスピード時代です。私が若かった頃と比較して、「待つこと」が格段に減っています。生活が便利になり、物事がスムーズに進むことになったのは良い面がたくさんありますが、かといって私たち人間が「1秒先のことも分からない」という事は少しも変わっていません。私たちは先を急ぎ過ぎることなく、与えられている『今』をもっともっと大切にするべきではないでしょうか?  神様は私たち1人1人に「ユニークで最適なご計画」(自分を最高に活かすための道)を持っておられ、私たちの誰よりも、私たち1人1人がそこに辿り着くことを望んでおられます。だから急ぎ過ぎたり焦ったりすることなく、神様が目の前に与えて下さっている課題に全力で取り組むべきです。私たちはしばしば順境の中よりも逆境の中でこそ多くを学びます。だから「どうして神様は私をこんな試練に遭わせるの?」と愚痴ることなく、「ここに神様の最善がある」と信じて、その試練を通して神様が学ばせようとしておられることをしっかり受け止めましょう。  私たちは様々なコマーシャルに踊らされて「より安くより簡単に」手に入れるようにと教育させられてしまう傾向にありますが、そうではなく『より長持ちする価値あるもの』を獲得するために、「神様は今私をどのような季節に置いてくださっているのだろう?」と問いながら、今日1日をじっくりと歩んで行きましょう。

2025年11月9日 「御国のわざへの召命」

礼拝全体の様子をYoutubeで観る 説教あらすじ  「御国のわざへの召命」  (09/11/2025) [ルカの福音書 5章1~11節](ルカだけが記している記事) ◆「おことばですので…」(4~6節)   ・ペテロは別に「もしかしたら今度は魚が獲れるかも?」と思ったわけではない。ただイエスの顔を立てて「おことばですので」と網を下ろした。しかしおびただしい数の魚が獲れたことで、イエスに対する考えは大きく変わったに違いない。たとえ『疑い』を持っていても敢えてみことばに従うなら、「更に深い神との出会い」を体験し、少し   ずつでも『神にふさわしい者』へと変えられて行けるのである。 ◆人間を捕る漁師(10節)   ・これはペテロが漁師だったから使われた表現であり、医者なら「たましいを癒す医者」、教師なら「御国の知恵   を教える教師」などと言ったかもしれない。   ・イエスは私たちを「この世のことに終始する者」ではなく、「地上で神のわざを行う者」とするために招かれる。私たちの能力や環境・人間関係は、単に「自己実現」や「自分自身や社会の益」のためだけにある訳ではなく、   私たちがそれらを通して「神の栄光や神の国の輝き」を地上で表現するために与えられている。自分自身を神の御手に委ねる時、神が私たちと共に実現したいと願っておられる「自己最高の人生」へと進んで行くのだ! 今日の要点: 神の招きに応じる ◎更に深い学びのために  ①みことばによる招きを受け、応じたこと、また応じることができなかったことがありますか? 分かち合いましょう。  ②イエスがあなたを招くなら、どんな者にしてあげると言われたいですか? どうしてそう思うのですか?  ③あなたの周囲で「神の国の訪れ」が必要とされているのは、どんな分野ですか? あなたには何ができますか? Outline of the sermon  “Called for the works of kingdom.”  (09/11/2025) [Luke 5:1~11] ◆“But at your word…”(Verses 4~6)   ・Peter never expected such a big catch!  His thoughts about Jesus must Read more…

(630) “いつまでも残るのは、信仰と希望と愛です。”

 あなたにとって「生活必需品」とは何ですか?私が生まれた昭和の時代の「生活必需品」は、「テレビ・冷蔵庫・洗濯機」でした。恐らく今の時代「日々の生活で無くてはならないもの」と言えば、真っ先に『携帯電話』が挙げられるでしょうね。時代も変わったものです。  では、あなたにとって「人生に欠かせないもの」とは、何でしょう?これもやはり『携帯電話』だというなら、少々悲しい気がします。「人生に欠かせないもの」の多くは「目に見えないもの」です。『希望』『平安』『愛』『生きがい』など、人々の心を満たし、癒し、また元気づけるもの。「自分にはそれがある!」と確信を持って言い切れる人は幸いですが、そのような人は恐らくごく少数ではないでしょうか?  これらの「人生に欠かせないもの」は、お金や努力によって手に入るものではなく、『失われることのない確かなもの』とつながることによって生まれるものです。そしてその『失われることのない確かなもの』とは、この全宇宙を創造され、私たちをこの世界へと生み出してくださった『創造主なる神』です。このお方を「私の神」として人生に迎え入れる時、私たちは人生の本来の意味や目的を見出し、またその意味・目的を実現する力や励ましを受けながら生きることができるようになるのです。