(648) “すべての良い贈り物、またすべての完全な賜物は、上からのものであり、光を造られた父から下って来るのです。”

 私は毎週日曜日の教会の集いの時に聖書のお話をさせていただいていますが、その冒頭に必ず言うことばがあります。それは、「私たちの天の父は『良いお父さん』なので、そのご性質上、愛する子供たちのために最善以外をなさることはできません」というものです。これは聖書の言葉そのものではありませんが、聖書全体から汲み取ることのできる重要な真理です。  私たちは「人間としての性質上」意地悪もできますし、子供たちに最善を施したくても「経済的・能力的限界」のゆえに必ずしも与えてあげることはできません。しかし私たちの『天の良いお父さん』である神は、私たちの思いを超えた次元でいつも『最善』を施してくださるのです。「ホントかな?」と疑う方もおられるかもしれませんが、それは『神』という方をよく知らないからです。この方を知れば知るほど、上記の言葉が「間違いない!」と信じられるのです。  かなり無理があるのですが、1つのたとえを考えてみましょう。大抵の方には「とても大切な人」という存在が1人くらいはいると思います。そして恐らくあなたはいつもその人の『最善』を望んでいる事でしょう。ところがあなたには能力的にも経済的にも限界があり、またその人と「いつも一緒にいてあげること」もできません。時には意見の食い違いから口論になり、心に苦々しさが残って、「ちょっと意地悪してやろうかな」と思うかもしれません。けれどもなかなかその機会がなく、そうこうしているうちに仲直りし、意地悪をしないで済んだことに胸を撫でおろすことでしょう。  私たちの神は、ご自分のひとり子イエス・キリストを私たちの罪の身代わりに十字架にかけられるほどに、私たちをこよなく愛してくださっている方です。そしてご自身の望む通りのことを、何の限界もなく実現することのできる方です。そして私たちの将来を見通され、決して後悔などすることなく、1番良いタイミングで1番良いものを提供することができる方なのです。それ故「最善以外はなさらないなんて嘘だ!」などと考える方がおかしいのです!  仮に「実は神はそんな方ではない」ということだったとしても(そういうことは決してないのですが…)、「神は私にいつも最善を施してくださっている」と本気で信じることに、どんな不都合がありますか?不都合がないなら、ぜひそう信じて日々を精一杯生きて行きましょう!

2026年4月5日 「イエスの復活の証人」

礼拝全体の様子をYoutubeで観る 説教あらすじ    「イエスの復活の証人」    (05/04/2026) [ルカの福音書 7章11~17節] ◆死人のよみがえり  ・イエスが死者をよみがえらせた記事は福音書の中に少なくとも3つあるが、この「ナインのやもめの息子」に関しては、他の場合と比べていくつかの特徴がある。それは「全くイエスと個人的な関係がなく、しかも頼まれてもいなかった」ということ。イエスは「深くあわれんで」とある。この語の原意は「はらわたを揺り動かされる」。  ・恐らくイエスは「やもめとなった母親がたった1人の身寄りである息子を失った」ということに強く心を動かされたに違いない。女手1つで子供を育てている皆さん、イエスの心は皆さんと共にあります! ◆イエスのよみがえり  ・聖書は「イエスはよみがえられた」というよりも、「神がイエスをよみがえらせた」という表現を多く用いている。[使徒2:32] そして「私たちはその『証人』である」と。一体どういう意味で私たちは「復活の証人」なのか?  ・「私たちの罪の代価を支払うために死なれたイエスを、神がよみがえらせた」という事は、「罪の代価は完済され私たちは完全に赦された」という事を意味する。[Ⅰコリント15:17] それ故私たちが罪の責めから解放されて「神に完全に赦された者として生きる」という事が、「キリストの復活の証人として生きる」という事なのだ![ローマ8:1] 今日の真理: 私たちは「イエスの復活の証人」 ◎更に深い学びのために  ①この「ナインのやもめの息子のよみがえり」の記事は、どのような点で特徴的ですか?  ②「神がイエスを死者の中からよみがえらせた」ということは、どんなことを意味していますか?  ③私たちは何故「イエスの復活の証人」と言えるのでしょう? この自意識はあなたの生き方にどう影響しますか? Outline of the sermon   “Witnesses of Jesus’ resurrection.”   (05/04/2026) [Luke 7:11~17] ◆Jesus raised the dead to life!  ・There are at least 3 stories in the Bible about Jesus raised the Read more

(647) “わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。”

 教会の暦では、今週末は「イースター・ウィークエンド(復活祭)」と呼ばれ、私の住むニュージーランドでは金曜日から翌週の月曜日まで休日です。金曜日はキリストが十字架にかけられたことを記念する日ですが、『グッド・フライデー』と呼ばれます。ある人々には「キリストが死んだのに、どうして『グッド』なの?」と不思議がられるかもしれませんね。今日はその辺を解説したいと思います。  私たちは生まれながらにして、神に対して『罪人(ズレ人)』であり、「神を神として認めず、自分の思うままに生きている存在」です。それ故私たちは「いのちの源」である神との関係が途絶え、『死と滅び』に定められていました。そんな私たちをも深く愛し憐れまれた神は、何とかそのような関係を修復しようと、罪のないご自分のひとり子であるイエスを私たちの身代わりに『罪』に定めて十字架で死なせ、代わりに「その『イエスの代償の死』を自分自身のためとして信じ受け入れた者たち」に『永遠のいのち(神との関係の回復)』を与え、その見える形の保証としてイエスをよみがえらせたのです。  この神の驚くべき憐れみのみわざの故に、私たちはこの週の金曜日を『グッド・フライデー』と呼び、また復活を記念する日曜日を『イースター・サンデー』として祝うのです。実際この『復活』は、単にキリストのよみがえりを記念するだけでなく、神の前に失われて(死んでしまって)いた私たちが、キリストを信じ受け入れることを通して、神の前に再び見出される(よみがえる)ことをも象徴しています。そして更に素晴らしいことに、この「よみがえられたイエス」は、今日も生きて、ご自身を信じ従う者たち1人1人と共に歩んでくださっているのです!

2026年3月29日 「イエスを驚かせる信仰」

礼拝全体の様子をYoutubeで観る 説教あらすじ   「イエスを驚かせる信仰」   (29/03/2026) [ルカの福音書 7章1~10節] ◆百人隊長の優れた点(9節)  ①ユダヤ人に対する敬意 ・ユダヤ文化を尊重し、彼らのために会堂を建て、また自ら会いに行くことを控えた。  ②謙虚さ ・1人のしもべに対する思いやり。属国であるユダヤ人の文化や習慣を熟知し、それを尊重している。  ③信仰 ・イエスの権威を知り、しかもそれが創造主なる神から来ていることを信じ、「みことばの権威」を認めた。   ・ユダヤ人の長老たちは「この人には資格がある」と言ったが、百人隊長自身は「私には資格がない」と言った。『資格』は「行ない」によって与えられるのではなく「恵み」による。彼はイエスから溢れ出る恵みに期待した。 ◆百人隊長に倣う  ・私たちも、神から委ねられている「権威と責任」に忠実に歩むことによって、この「優れた信仰」に倣うことができる。私たち「信じる者」には、キリストによって驚くべき『権威』が与えられている。[マルコ16:17-18]  ・私たちは、このような「大いなる救い」や「御国の権威」に与る素質も資格もなかった。ただ「イエス・キリストにある恵み」によってのみ、それが委ねられている。この「神の愛と信頼」に応えて、神の御前に身を低くし、みことばに従いつつ、「御国の権威」を行使しながら、この世にキリストを証しして行こう! 今日の真理: 神のみわざは、神の権威の下に歩む者を通して現される ◎更に深い学びのために  ①百人隊長の信仰が優れていたのは、どのような点においてですか?  ②あなたがこの百人隊長の「優れた信仰」に倣う上で、障害になっているものがあるとすれば、それは何ですか?  ③イエスは『信じる者』にどんな約束を与えていますか? この約束の成就のために必要なものは何でしょう? Outline of the sermon    “The faith that Jesus marvels.”    (29/03/2026) [Luke 7:1~10] ◆What is “marvelous” about centurion’s faith? (Verse 9)  ①Respect towards Jews. ・He built synagogue for them and hesitated himself to come Read more

(646) “義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるからです。”

 多くの人々は「心の満ち足りなさ」を感じています。そしてそれを何とか埋めようと、多くの買い物をしたり、様々な異性とお付き合いをしてみたり、ゲームや趣味に没頭したり、お酒に溺れたりしているのではないでしょうか?そして恐らく誰もそれらの中に「本当の満足」を見出すことができず、静かに、時には激しく絶望しているのかもしれません。  イエス・キリストは「『義』に飢え渇く者は、やがて満ち足りる」とおっしゃいました。『義』とは何でしょう?すぐに思い当たるのは「正義の『義』」、すなわち「悪に立ち向かおうとする正しい心」のようなものでしょうか。聖書で『義』という時には「常に真実で正しく、愛に満ちておられる『神』のみこころがこの地上でことごとく成し遂げられることを望む心」を指します。  ある時イエスはこんなことをおっしゃいました。「わたしの戒めを守る者は、わたしを愛する者です」。ちょっと分かりにくいですよね?「愛すること」と「相手の言いなりになること」は、ちょっと違うような気がします。でもその相手が「私たちの最善を知っており、そのための道筋を教えておられる方」だとしたらどうでしょう?神が私たちに与える命令は、いわば私たちに最善を施そうとしておられる「愛の表現」なのです。それに忠実に応答しようとすることは、正に神に対する私たちの「愛の表現」となるのではないでしょうか?  愛に満ちた神とのそのような関係の中に日々歩み、そしてそんな『神の愛のみこころ』が、この地上で成し遂げられることを心から望むとき、私たちの心は「決して失われることのない充足感」に満たされるに違いありません。

2026年3月22日 「信仰の3段階」

礼拝全体の様子をYoutubeで観る 説教あらすじ    「信仰の3段階」    (22/03/2026) [ルカの福音書 6章46~49節] ◆『家』の評価  ・家はどんな基準で選ぶべきか?ロケーション?間取り?見栄え? ⇒ 大切なのは『地盤』。  ・この箇所でイエスは私たちの人生を『家』にたとえているが、ここから「3つの信仰の態度」を見ることができる。 ◆信仰の3段階  ①神に願いを叶えて欲しい(46節)   ・「主よ」と呼んではいるが、実際は神に自分の要求を押し付けている。「ご利益がなければダメ」という信仰。  ②自分の益になりそうなみことばだけ実践する(47節)   ・クリスチャンであるなしに関わらず、「キリスト教は良い教えだ」と思っている人は多い。しかし「耳障りの良い教え」には耳を傾けるが、従うためには犠牲を要するようなみことばには気付かなかったふりをするもろい信仰。  ③すべてのみことばに聞き従う(48節)   ・これは「みことばそのもの」よりも「それを語っておられる方」に対する愛と信頼。[ローマ10:11]  ・「どんな家を建てるか(人生でどんな成果を上げるか)」以上に、「家をどう建てるか(どんな原則に従うか)」が大切。 今日の真理: みことばは、行うためにある ◎更に深い学びのために  ①イエスは、どんな意図をもってこのたとえを話されたのだと思いますか?  ②「私は神を信じます」と言っている人たちの中には、どのような信仰が含まれていると考えられるでしょう?  ③「イエスのことばを聞いて行う者」となりたいですか? そのためにあなたに必要とされているのは何ですか? Outline of the sermon    “3 Levels of Faith.”    (22/03/2026) [Luke 6:46~49] ◆How do you evaluate “a house”?  ・When we buy “a house”, we tend to look at Read more

(645) “わたしの名で呼ばれるすべての者は、わたしがこれを創造し、これを造った。”

 「セルフイメージ」という言葉をご存知でしょうか?簡単に言えば「自分で自分のことをどう思うか?」というようなことです。『健全なセルフイメージ』を持っていることは、人生を生きる上で大きな益をもたらします。そして「全能で愛に満ちた創造主によって形造られた存在」というセルフイメージを持っていることは、不安定なこの世界で生きる上で深い平安と確信をもたらします。  私たちが自分の持っている可能性(ポテンシャル)は、力み過ぎたり、恐れを抱いたりしていては十分に発揮することができません。リラックスした精神状態が必要です。それに加えてこの『創造主なる神』が「良いお方」であり、「私たち1人1人にユニークなご計画を持っておられる」と信じているなら、単なる『安心感』だけでなく、「喜びと興奮」を心に抱きながら、ダイナミックな人生を送ることができます。  私自身、今の自分が置かれている環境や任されている働き、そして与えられている人間関係すべてが、自分が十代の頃には夢にも描くことのできなかったほど優れて価値あるものとなっています。「創造主である唯一の神との関係の中で生きる」とは、ただ単に「偶然の産物として生きる」ことと、雲泥の差があるのです!

2026年3月15日 「『良い実』を結ぶために」

礼拝全体の様子をYoutubeで観る 説教あらすじ    「『良い実』を結ぶために」    (15/03/2026) [ルカの福音書 6章43~45節] ◆『良い』とは?  ・今日の箇所には『良い』という語が何度も登場するが、実際には「良い方」は『神』だけであり、すべての良い物は神から来る。私たちが「クリスチャンなんだからガンバって『良い事』をしなきゃ!」と精一杯努力しても、せいぜい行き着く先は「ダメな自分に打ちのめされる」か、もしくは「高慢になって神から離れる」かのどちらかである。  ・気を付けなければいけないのは、この箇所は「良い事をすること」を教えているのではなく、「良い木になるための勧め」だということ。そして『良い木』とは主イエス・キリストのことであり、私たちはその『枝』に過ぎない。 ◆『良い実』を結ぶために(ヨハネ15:5)  ・『枝』である私たちは『実』を結ぶが、その条件は唯一「『木』にとどまっている」ということ。では私たちはどのようにして「主イエスにとどまり、実を結ぶ」のか?それは「枝に徹すること」によってである。次に2点に注目しよう。   ①「自力では実を結べない」と自覚し、ひたすら「木であるイエス」から栄養(みことば)を受け取り続ける。   ②「自分を喜ばせる」のではなく「他の人を建て上げること」を念頭に置き、自分ではなく主イエスに注目させる。  ・「実を結ぶ」のは神のわざ。神は私たちへの愛の故に、それを「私たちを通して」成就なさる。 今日の真理: 私たちは『木』ではなく「枝」である ◎更に深い学びのために  ①神の国の視点で考える時、「良い物」とは、どのようなものだと思いますか?  ②神が私たちを通して結んでくださる『良い実』には、どのようなものがあるでしょう?  ③私たちが「枝に徹するため」に変えなければならないのは、どんな点でしょう? 皆で話し合ってみましょう。 Outline of the sermon  “How to bear good fruits.”  (15/03/2026) [Luke 6:43~45] ◆What is “good”?  ・These verses are not telling us “to do good things”.  If we try doing “good” Read more

(644) “わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。”

 もし誰かに「クリスチャンであるのとないのとでは、どう違うか?」と問われたら、私ならまず次の2つを挙げると思います。 1.どんな状況の中にあっても、心の深いところに『変わらない平安』がある。  ・私の信じている『神』は、全知全能であり、私を深く愛しておられる良いお方です。なので、私の身に起こる全てのことは「神の知らない所で起こっている事」ではあり得ません。神はそれが起こることを許され、そしてその出来事を通して、私が思いもよらないような素晴らしい実を結んでくださると信じられるので、心の奥にはいつも変わらぬ平安と喜びがあるのです。 2.人生に『意味と希望』を持って、日々を生きることができる。  ・『創造主である神』を信じていると、「自分の人生には必ず『神』の崇高な目的がある」という確信をもって日々を生きることができます。日常の小さな出来事から、「人生の目的」と呼べるようなものまで、自分の小さな頭や限られた知識・能力に制限されることなく、「神が自分を通して成し遂げようとしていることなら、どんなことでも全力を尽くそう」という情熱が湧いてきます。そこにはもはや「無気力」に陥ってしまう余地はありません。  もしかすると、ある方々は「神を信じて生きるなんて、何だか窮屈で不自由な気がする」と勘違いしておられるかもしれませんが、実際は全くその逆なのです!

2026年3月8日 「目から梁を取り除く」

礼拝全体の様子をYoutubeで観る 説教あらすじ   「目から梁を取り除く」   (08/03/2026) [ルカの福音書 6章39~42節] ◆目の中にある梁  ・ここでの『盲人』と「目の中に梁がある人」は、同じタイプの人を指している。直接的には『律法学者やパリサイ人たち』であり、「自分たちこそ神のことを知っている」と自負して、他の人をさばく人たち。  ・また「師のようになる」とは、必ずしも「その『教え』や『わざ』において熟達する」という事に限らない。重要なのは『神との親密な関係』。「どれだけ『神の心』を汲み取り、またそれを実践する歩みをしているか」がカギ。目の中に「梁」があっては不可能。そのような生き方は「主イエスの歩み」の中にのみ見出せる。 ◆イエスの模範(ピリピ 2:3-8)  ・主イエスは「神の御姿を捨てる必要」も、「人間と同じようになる必要」も、「死に従われる必要」もなかった。では何故そうなさったのか?それはただ「御父がそれを望まれた」から。  ・主イエスのこの模範に従うことをひと言で述べるなら、「『どうして自分がそれをしなきゃいけないの?』と言わない」ということ。無茶な話だが、主イエスはそれをなさった。これが『神との親密な関係』に生きるということ。私たちに求められているのは「立派な人になること」ではなく、ただ『主の御足について行くこと』なのである。 今日の真理: イエスはいつも完璧な模範 ◎更に深い学びのために  ①私たちの「目の中にある梁」とは、何ですか?  ②私たちにとって「十分に訓練を受けて、『自分の師』のようになる」とは、どういうことでしょう?  ③あなたは主イエスの、特にどのような点を模範として歩んで行きたいですか? Outline of the sermon   “Take the log out of your eyes!”    (08/03/2026) [Luke 6:39~42] ◆The log in our eyes.  ・“Blind man” and “having log in own eye” indicate the same thing.  Those who are Read more