(665) “神は私たちの心よりも大きな方であり、すべてをご存知だからです。”

 ほとんどの人は「善意をもって正しく歩みたい」と思っているのではないかと思います。と同時に「本当はもっと正しく優しく生きたいのに、なかなかそれが思うように実践できない」というジレンマを感じておられるのではないでしょうか?一体なぜ私たちは自分が願っているような「正しく優しい人生」を生きられないのでしょう?恐らく2つくらいの理由があると思います。  1つ目は、私たちの『弱さ』です。「根本的な『自己中心性』」と言っても良いかもしれません。「今日から正しく生きよう!」と決心したとしても、忙しかったり、疲れてしまっていたり、「これくらいなら…」と、つい魔がさしてしまい、本来願っていた生き方からズレたことをしてしまうわけです。  もう1つは、そもそも私たちの『良心』が間違っていることがあるからです。私たちは知らず知らずのうちに「自分の良心」というものを「善悪を判断する絶対的な基準」としてしまっていますが、私たちの『良心』は決して「絶対的なもの」ではなく、自分の生い立ち、周囲の情報や価値観などによって微妙に歪められてしまっているのです。ですから「良かれ」と思ってやったことが裏目に出て、かえって他人を傷付けてしまうことがあるのです。  ある人々は(たとえクリスチャンであっても)「自分の良心の声」が『神様からの促し』であると思い込んでいますが、それは大きな勘違いです。聖書は「神は全てをご存知な方で、私たちの『良心』よりも大きい」と教えています。ですから、私たちが願っている「正しい善意に満ちた人生」を歩んで行くためには、「私たちの良心」を超えた『神の助け』が常に必要なのです!  聖書は「人生を正しく歩むための指針を教える道徳規範」ではありません。「神から離れ、本来神が願っておられる生き方ができなくなってしまっている私たち」を、もう1度ご自分との関係を回復し、本来の「神の栄光を輝かせて生きる人生」へと招き寄せるための、いわば神から私たちに向けられた『心の叫び』なのです。

2026年8月9日 「常識 vs イエスのことば」

礼拝全体の様子をYoutubeで観る 説教あらすじ     「常識vsイエスのことば」     (09/08/2026) [ルカの福音書 8章49~56節] ◆『信仰』は「常識を超えたところ」にある(49~50節)   ・家からの使いのこの言葉を聞いた時のヤイロの気持ちは?「現実に押しつぶされそう」「誰かを責めたくなる」。どちらにしても、もはや人間的にできることは何もない。今こそ『信仰』を働かせる時!   ・私たちの「常識」は「目に見える世界」に基づいているが、『イエスの言葉』は「見えない世界」に働きかける。 ◆「眠り」と『死』(52節)   ・イエスにとっての「眠りと死」の概念と、私たちにとってのそれとは、次元が違う。イエスはしばしば肉体的には目覚めている弟子たちに「目を覚ましていなさい」とおっしゃった。[マルコ13:33] またパウロはイエスと出会う前の私たちを「死んでいた者」と言っている。[エペソ2:1-2]   ・私たちにとって、『眠り』は「肉体と意識の休息」だが、『死』は「肉体や意識の営みの終息(人生の終わり)」を意味する。しかしイエスにとっては「肉体の死」は『眠り』に過ぎず、『死』とは「肉体的には生きていても霊が機能せず神との交わりが絶たれている状態」を指す。すなわち、ここで「死んでいる」のは、少女ではなく周囲の人々。   ・イエスの声は見えない世界に働きかけ、少女の霊に届いた。私たちもこの使命に召されている。[エペソ6:12] 今日の真理: イエスは「見えない現実」に働きかける ◎更に深い学びのために  ①娘の死を知らされたヤイロの心境を想像してみましょう。彼はどうしてそのように感じたと思いますか?  ②そんなヤイロにイエスは「恐れず、ただ信じなさい」と言われました。何をどう信じろということなのでしょうか?  ③「目に見える常識」に根差して生きることと、『イエスの言葉』に信頼して生きることは、どのように違いますか? Outline of the sermon   “Common sense VS Word of Jesus.”   (09/08/2026) [Luke 8:49~56] ◆“Faith” is above ‘Common sense’.(Verses 49~50)  ・Jairus must have lost his hope when he heard about his daughter’s death.  Read more

(664) “愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。”

 最近の精神医学的調査によって分かったことは、『愛』と『恐れ』という2つの精神的要素は全く別の系統から発生していて、私たちの日々の生活において、これらの2つの精神的要素が同時に影響を及ぼすことはないのだということです。  専門家たちの調べによると、『愛』という要素は私たちが生まれた時から私たちの内面に備えられているのに対し、『恐れ』というものは、生まれてからの環境や出来事などを通して「学習される」要素なのだそうです。またこのような、生まれた後から「学習された」否定的な精神的要素は、それらが私たちの内側に働くたびに「精神的に害となる毒素」をまき散らし、私たちの精神世界を破壊しようとするのですが、驚いたことに、私たちが『愛』を動機として行動している時、『恐れ』を含めたこれらの「否定的な精神的要素」が少しずつ消滅して行くのだそうです。それだけでなく、私たちがこの『愛』を活発に働かせることによって、私たちの脳内に「肯定的な変化」が起こり、健康的な思想を生み出す化学物質が活発に分泌されるようになるそうです。  これらのことは本当に最近の研究によって明らかになったことなのですが、聖書には2千年以上も前から既に「愛は恐れを締め出す」と書かれていたわけです。全く驚かされますよね!この天地万物をお造りになり、私たち1人1人を創造された神は、これほどまでに素晴らしく、深い愛を込めて私たちを形造ってくださったのです。私たちも、この神の愛を受け取って、互いに愛し合うことにより、精神的に健康な日々を過ごしましょう!

2026年8月2日 「イエスを振り向かせる信仰」

礼拝全体の様子をYoutubeで観る 説教あらすじ   「イエスを振り向かせる信仰」   (02/08/2026) [ルカの福音書 8章40~48節] ◆何が起こっているのか?  ヤイロ: 1人娘が死にかけている。イエスだけが望みの綱。一刻も早く娘の許へ!  長血を患った女: 心身両面での苦痛。「衣の房にでも触れれば癒される」という信仰。癒しを体験したが、「汚れた者」というレッテルの故に、それをイエスに申し出る勇気がない。  ペテロ(その他周囲の人々): 「主イエスは一体何をそんなにこだわってるんだ?」「今はそれどころではないのでは?」 ◆イエスは何を求めたのか?  ◎イエスは何故それほどまでに「誰がさわったのか」にこだわったのか?   ・「イエス自身が意識していなくても、『神の力』は私たちの信仰に勝手に反応する」ということではない。イエスは初めからこの女のことを知っており、その病を癒そうとしておられた。それだけではなく、この女の『信仰』の故に彼女を祝福したかった。[Ⅱ歴代誌16:9] しかしイエスは、彼女が「恥や恐れ」を乗り越えて大胆に神の前に自分の身を現すことを望まれ、敢えて気付かないふりをしてまで、女が自ら名乗り出るのを待った。(47~48節)  ・神が求めておられるのは「奥ゆかしさ」ではなく、時に「なりふり構わず神に応答しよう」とする大胆な信仰。 今日の真理: イエスは決して、慌てず急がない ◎更に深い学びのために  ①この箇所での登場人物1人1人の様子や心境を思い浮かべてみましょう。どんな発見がありますか?  ②緊迫した状況の中で、何故イエスは急ぐことなく、女が自身に起こったことを申し出るまで待ったのでしょう?  ③この物語から、神があなたの内に育みたいと思っておられる、どのような態度を見出すことができますか? Outline of the sermon   “The faith that makes Jesus turn around”   (02/08/2026) [Luke 8:40~48] ◆What’s happening here?  Jairus: His only daughter is dying.  Jesus is the only hope Read more

(663) “あなたがたは信仰によって救われたのです。…行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。”

 聖書の中心的な教えの1つに、「救いは行いによるのではなく、信仰による」というものがあります。今日はこのことをもう少し分かりやすく説明してみようと思います。  『ライフセイバー(溺れている人を救助する仕事)』をしている方から聞いたことがありますが、溺れている人を救出するには、溺れている最中に助けに行くのではなく、もがき疲れて沈んで行きそうになるまで待ってから救出するそうです。どうしてそれまで待つのかというと、必死にもがいている最中に助けに行くと、相手が無我夢中でしがみついてきて、その人を引き連れて泳ぐことが困難だからだそうです。なるほど、確かに理に適っている気がしますよね。  聖書に述べられている『救い』にも、これと共通している部分があります。人が自分自身を救おうとあれこれ頑張っているうちは、神が「救いの手」を差し伸べても、恐らくそれを振り払ってしまうでしょう。また多くの人々はその成長の過程で「ひと様に迷惑ばかりかけてないで、自分の事はちゃんと自分で何とかしなさい」と言われながら育てられていますから、「神様に救っていただくにしても、自分でもそれなりの努力をしなければ…」と思うわけです。実際、多くの『宗教』と呼ばれるものは、『救い』に様々な条件を付け、修行やお布施その他の「人間的な貢献」を要求することが多いですし、そのような教えの方が人々にも「受け入れやすい」と言えるのかもしれません。  しかし聖書は断固として「救いは行いにはよらない」と言います。その理由は「神はご自身に対する『私たちの全面的な信頼』を望んでおられる」からです。「救いの条件」として少しでも「私たちの貢献度」が加わると、『救い』にあずかった人々は必ず高慢になります。聖書によるならば、神が最も嫌う人間の性質は、この『高慢』なのです。しかも実際聖書が教える『救い(永遠のいのち)』は、人間の努力で勝ち取ることができるほど「安っぽいもの」ではないのです。「努力すれば神からの救いがいただける」と考えることは、実は神に対する冒涜でしかないのです。

2026年7月26日 「『聖書通読』を始めるにあたって」

礼拝全体の様子をYoutubeで観る (手違いにより、画像が写っておらず、音声だけで失礼します) 説教あらすじ  「『聖書通読』を始めるにあたって」  (26/07/2026) ◆どのように通読を進めるのか?  ・聖書全体を4つのカテゴリーに分類した(①歴史書 ②詩歌 ③預言書 ④新約聖書)。4つ全て(1日4章)を毎日読めば、1年間で聖書全巻を通読できる。また「新約聖書だけ通読する」ということなら、1日1章で読み終わる。『詩篇』など、年に2回読む部分もいくつかあり、またそれぞれがちょうど読み終わるよう多少調整してある。このカレンダーに従って読む1つの利点は、JCFメンバー同士が「今日の通読箇所」をもとに分かち合いできること。 ◆聖書通読の意義  ①『イエス・キリスト』こそ、『神のことば』であることを体験する。[ヨハネ1:1-5, 9-14]    ・聖書を読んだり、学んだり、思い巡らしている時は、実は「キリストとの交わり」を経験している!  ②『みことば』を通して、『いのちの御霊』の働きを体験する。[ヨハネ6:63, へブル4:12]    ・クリスチャンの友人と「みことばの分かち合い」をしている時、あなたは「聖霊による交わり」を経験している!  ③『聖書通読』を効果的に進めるために、「主イエスよ、私と出会ってください」という祈りをもって「神を求めつつ」   読もう。またキチンと時間(神との約束の時間)を決めて、それが習慣になるまで継続しよう。この通読プランを実行することを通して、共にキリストにあって成長し、『世界の祝福の基』として整えられて行こう![Ⅱペテロ3:18] 今日の真理: 『聖書通読』は、キリストとの交わり ◎更に深い学びのために  ①同じプランに従って一緒に『聖書通読』をすることには、どんな利点がありますか?  ②私たちが「みことばをじっくりと読んだり学んだり」している時、実際にはどんなことが起こっているのでしょう?  ③あなたはこの通読プランをどのように用いて行こうと思いますか? それは、どうしてですか? Outline of the sermon    “When we read ‘Word of God”…”    (26/07/2026) ◆How are we going to carry on this “Bible reading plan”?  ・We categorized whole Bible into Read more

(662) “うしろのものを忘れ、前のものに向かって身を伸ばし…”

 「後悔先に立たず」ということわざがありますよね?「物事が終わってから悔やんでも、取り返しがつかない」ということを表すのに用いられます。ではどうすれば良いのでしょうか?「全ての事に気を付けながら生きましょう」という事なのでしょうか?もちろんその通りではあるでしょうが、それはとっても大変ですよね?  私たちの子供たちがまだ幼い頃の我が家のモットーは、「Learning Experience」でした。「失敗を恐れるな。そこから何かを学べば良いんだから」ということです。子供たちが幼い頃に日本を離れ、様々な国々で暮らしていたので、その国の文化が分からず、家族でよく『失敗』しました。そんな自分たちを励ますための発想でしたが、お陰で我が家の子供たちはとても生き生きと育ってくれました。  聖書は、「イエス・キリストは私たちの罪の身代わりに十字架にかかって、それらの罪の代償を支払ってくださった」と教えます。もちろんこの『キリストの十字架』は、「『天地創造の神』と『私たち』との間を隔てていた『罪の壁』を取り除くため」であったわけですが、それと同時に「私たちが過去の失敗や不運な出来事に捕らわれず、いつも新たな心で前向きに歩むため」でもあります。イエス・キリストの代償の故に、もはや神は私たちの過去を問いません。ですから、「自分にはあんな過去があるからもうダメだ」などということは決してありません。  神は私たちの目を『前』にだけ付けてくださいました。私たちは「後ろ向きに生きる」ようには造られていないのです。ですから、イエス・キリストを信じることによって「うしろのものを忘れ」、明日を守り導かれる神様を見つめて歩んで行きましょう!

2026年7月19日 「1人のたましいの重み」

礼拝全体の様子をYoutubeで観る 説教あらすじ   「1人のたましいの重み」   (19/07/2026) [ルカの福音書 8章26~39節] ◆何が起こっているのか?  ①嵐の中苦労してやっと「向こう岸」に辿り着いたのに、そこに滞在したのは恐らくわずか数時間!  ②誰にも制御できないでいた『問題児』を癒し、解決してくれたイエスを、ゲラサ人たちはサッサと追い出した!  ③この哀れな「悪霊から解放された男」の懇願を、イエスはあっさりと拒否された! ◆これらの出来事の意味  ①イエスはこの町で起こることを前もって知っておられただろう。それでもイエスは「たった1人の男」を救うためにこの地に来られた。それは「99匹の羊を置き去りにしても、1匹の『迷える羊』を救い出す「良き羊飼いの愛」。  ②ユダヤ人たちが忌み嫌う「豚の群れ」を飼っていたということは、このゲラサ人は異邦人または「霊的な世界に無関心な人々」。イエスに対し「畏敬の念を抱く」というよりも、「災いをもたらす存在」とみなしたのだろう。  ③通常イエスは、病を癒したり霊を追い出した相手に対し、「誰にも言うな」とおっしゃる。しかしここでは?(39節)神は『全ての人』が救われることを望んでおられる。イエスはこのゲラサ人たちさえも救われることを望まれた。そのためにこの男はこの地方に残る必要があった。「あなたを通してしか神と出会えない人」はいませんか? 今日の真理: 今のあなたの状況には、神の計画がある ◎更に深い学びのために  ①今日の箇所で、一見「えっ?」と感じるような内容には、どんなものがありますか?  ②「神の国の視点」から見ると、上記の出来事にはどんな意味がありそうですか?  ③神様が「あなたを通してしか届くことのできない人」は、誰ですか? あなたはその人に対して、どうしますか? Outline of the sermon    “Everyone is valuable in God’s eyes.”    (19/07/2026) [Luke 8:26~39] ◆What’s happening here?  ①Jesus and disciples stayed on the other side of the lake for only a few hours Read more

(661) “神の恵みを無駄に受けないようにしてください。”

 多くの「宗教」は何らかの『救い』という概念を提供していますが、そのほとんどは「~からの救い」というものです。ところが聖書が教える『救い』は「~から」というよりは、むしろ「~のための救い」といった様相が強いように思われます。もちろん聖書の救いも「罪・死・さばき」からの救いという側面もありますが、それ以上に「それは神との関係が回復されるためであり、またそれによって私たちが地上で『神の栄光』を輝かせるためである」というのが聖書の中心的なメッセージです。  神は私たちを、ご自身の『栄光(素晴らしさ・偉大さ)』を地上で表現する存在としてお造りになり、またこの地上に置かれました。ところが私たちは神から離れて自分勝手な生き方へと走り、結果「神の恵みや祝福」を味わうことができなくなってしまっていました。そんな私たちを神は憐れんで、もう1度ご自分の許に取り戻すために、私たちの「罪の代価」を「罪なきひとり子イエス・キリスト」に身代わりに負わせることによって、私たちとの関係を回復してくださいました。ここまでがいわゆる「~からの救い」の部分です。そしてこの『救い』を受け取ることで甘んじてしまっている人もいるわけですが、それは「神の心を全然理解していない」というものです。  神は人間を、私たちが考えているよりも遥かに「尊く・優れた存在」として創造されました。私たちは神との関わりの中でまさしくイエス・キリストが歩まれたような「愛と力に満ち溢れた人生」を生きることができる者としてお造りになったのです。これを知らずに「~からの救い」だけに甘んじてしまうならば、それは「せっかく与えられている大いなる可能性にフタをして生きること」になってしまうわけです。  いわゆる「宗教」は、これらの『優れて偉大な人生』を「救いの条件」にしてしまって、「これこれの修行を積んだら救われる」とか「これだけのものをささげたら救われる」などと教えますが、それらは「救われたからこそ可能になる生き方」であって、自分の力で「救いの条件」を満たすことができる人は1人もいないのです。

2026年7月12日 「あなたの『信仰』はどこに?」

礼拝全体の様子をYoutubeで観る 説教あらすじ   「あなたの『信仰』はどこに?」   (12/07/2026) [ルカの福音書 8章22~25節] ◆何が起こっているのか?  ・通常この箇所で私たちは「自然界さえも従える権威を持つイエス」にスポットを当てて考える。しかしこの箇所でそれ以上に注目すべきは、イエスの2つの言葉(「向こう岸へ渡ろう」と「あなたがたの信仰はどこにあるのか」)である。嵐に翻弄されていた弟子たちが慌てて「眠っていたイエス」を起こしたのは、イエスが嵐を治めてくれるのを期待したというよりは、「何をのんきに寝てるんですか!」という感じ。(マルコ4:37-38) しかし実際『眠っていた』のは「イエスご自身」ではなく、「弟子たちの信仰」だった。 ◆『信仰』はどこにあるのか?  ・私たちが日常生活の中で頼りにしがちなのは、①自分の考え ②周囲からの情報 ③気分 などであるが、これらはどれも移ろいやすい。絶対的な信頼を置くには、あまりにも危険すぎる。  ・では私たちは人生の拠り所をどこに置けば良いのだろう?それは「永遠不変のもの」、すなわち『神のことば』。(Ⅰペテロ1:23-25) ではこの場面で弟子たちは何を信じているべきだったのか?それはイエスの「向こう岸へ渡ろう」という言葉であった。預言者イザヤはこう預言した。(イザヤ55:8-11) あなたの信仰はどこにありますか? 今日の真理: 永遠不変の『神のことば』に信仰を置く ◎更に深い学びのために  ①主イエスはこんな嵐の中で、どうして眠っていられたのだと思いますか?  ②あなたは日常生活において大切な判断を下す時に、どんなものを判断基準として頼りにしていますか?  ③純粋に『神のことば』を自分の判断基準と定めるため、あなたが明け渡さなければならないものは何ですか? Outline of the sermon    “Where is your faith?”    (12/07/2026) [Luke 8:22~25] ◆What’s happening here?  ・In this paragraph we usually take notice of Jesus authority over nature.  Yes, it is great!  Read more