(643) “すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず… 神の恵みにより、価なしに義と認められるのです。”

 聖書には『罪』という語が度々登場します。そして「全ての人は罪人である」と断言するので、ある方々は「だからキリスト教は嫌いなんだ」と感じるかもしれません。しかし聖書が語る『罪』と、世で言ういわゆる「犯罪」とは大きな違いがあります。  この世の常識では、『罪(犯罪)』を犯した人を「罪人(犯罪人)」と規定します。しかし聖書的概念では「人は『罪人』なので『罪』を犯してしまう」というのです。日本語で『罪』と訳してある語源の直訳的な意味は「的外れ」です。すなわち正確には『罪人』ではなく、「ズレ人」なのです。つまり「人は本来の姿(神を主権を認め、神の愛を受け取りながら生きる)からズレてしまっているために、神の望まないような『神を認めない自分本位な生き方』に陥ってしまう」というわけです。  世の様々な『宗教』は、「救いを得るためには『修行』や『徳』を積まなければならない」と教えますが、考えてみるとこれは無理な話です。何故なら、人は生まれつき『罪人』としての性質を負って「ズレて」しまっていますから、『徳(良い行い)』をしたくても限界があるのです。「救いを得るため」ではなく、まずこの『救い』が先に必要なのです。  聖書は「恵みによる救い」を強調します。言い換えるなら「『救い』のために私たちがしなければならないことは、何もない」のです。神はその大いなる恵みによって、無代価でこの『救い』を提供してくださり、私たちと神との「ズレ」をまず修正してくださることによって、私たちが徐々に「本来の(神によって造られ愛されている存在としての)姿」へと回復され、『徳(良い行い)』ができるようにしてくださるのです。

2026年3月1日 「『恵みの生き方』の実例」

礼拝全体の様子をYoutubeで観る 説教あらすじ   「『恵みの生き方』の実例」   (01/03/2026) [ルカの福音書 6章37~38節] ◆さばかない(37節)  ・「さばかない・不義に定めない・赦す」は、ほぼ同義。イエスはここで「この世における人間関係の秘訣」ではなく、「地上での人間関係における私たちの態度が、神との関係の親密さに影響を与える」ということを教えている。  ・私たちは「人をさばくため」には遣わされていない。主イエスでさえさばかなかった。[ヨハネ8:15] 『先走ったさばき』は危険。[Ⅰコリント4:5] かといって「いいよ、いいよ」と何でも見逃すべきでもない。『罪』は正しく指摘すべき。[マタイ18:15] 私たちの使命は、神と共に「建て上げる」こと。[ローマ14:4] 「『恵み』に生きる時、神と出会う」のである。 ◆与える幸い(38節)  ・2週間前に「一時的な幸いは、真の祝福ではない」と学んだ。しかしここでの「与えなさい。そうすれば、与えられます」は、地上での人間関係における法則(一時的な幸い)ではなく、「神の性質の表現」であり、与えた後の喜びは「神の喜びと共鳴し合う『天の喜び』である。[箴言19:17,マタイ25:40]  ・私たちは、神から地上で一時的に委ねられた「物質・お金・時間・労力」を喜んで『分け与える』よう召されている。だからドンドン分け与え、また(相手が祝福を受けるために)喜んで受け取って行こう! 今日の真理: 「与える喜び」は、『天の喜び』 ◎更に深い学びのために  ①「先走ったさばき(早急な決め付け)」をしてしまって失敗した経験があれば、分かち合いましょう。  ①『恵みの生き方』には、どんな実例がありますか? どうしてそれらが『恵みの生き方』と言えるのでしょう?  ②なぜ『与える幸い』は、「一時的な幸いではない」と言えるのですか? Outline of the sermon   “Examples of ‘Merciful living’.”    (01/03/2026) [Luke 6:37~38] ◆Judge not!(Verse 37)  ・“Not judging, condemning but forgive” are from one spirit.  Jesus is teaching here not about “keeping human  Read more…

(642) “神は愛です。”

 前述の聖書の言葉は、最も有名のものの1つと言えるかもしれませんね。ところで「神は私たちを愛しておられます」というのと、『神は愛です』というのとでは、どう違うのでしょうか?それは「たとえ私たちがどんな存在や性格であろうと、神のご性質そのものが『愛』であるが故に、神は私たちを愛さずにはいられない」という点で違うのです。  神は、私たちの出来が良いから愛してくださるのではなく、その「完全な愛のご性質」によって私たちを創造されました。ですから、私たちが神から離れ、神を見失い、また自分自身の本質さえも見失って、互いにいがみ合い、裏切り合い、殺し合うのをご覧になり、私たちの想像を絶するほどに、そのお心を痛めておられるに違いありません。神の切なる願いは、私たち1人1人が『愛である神』と結ばれ、その『愛のご性質』を反映する者となり、その愛をもって互いに愛し合うようになることです。そしてその模範を、ひとり子イエス・キリストを人として地上に送ることを通して表現してくださったのです。  私たちは肉眼で『神』を見ることができず、それ故に神を信じることができずにいる人が多くいると思いますが、もし私たちがこのような愛で互いに愛し合い、尊重し合い、助け合って生きるなら、そのような私たちの中で『神』を見出すことができるのではないでしょうか?

2026年2月22日 「みこころの通りになるように」

礼拝全体の様子をYoutubeで観る 説教あらすじ   「みこころの通りになるように」   (22/02/2026) [ルカの福音書 6章27~36節] ◆『恵み』の生き方(32~34節)  ・ここでイエスが繰り返している「どんな恵みがあるでしょうか」は、「それらは『恵み』ではなくて、誰もがやってる『当然のリアクション』ですよ」の意味。私たちに対する神の「当然のリアクション」は『さばき』。しかし神は『恵み』  によって救ってくださった。「『恵み』による生き方」が身に付かなければ、神と心を揃えて生きることは到底できない。イエスがここで教えておられるのは、単に「敵を愛する」という行為そのものではなく、「『神の子』としてふさわしく生きて欲しい」という『神の願い』なのである。 ◆イエスのように(35~36節)  ・今日の内容は、この2節に集約されている。私たちは驚くべきことに、既にこの『いと高き方の子供』としての特権が与えられている[ヨハネ1:12]が、実質としては未完成。そしてこれは「自分のガンバリ」によって身に付くものではなく、神ご自身が私たちの内なる聖霊の働きによって成就なさる。私たちはそのために「選ばれた」。  ・神がなさるならば、私たちは『無理』と言って拒むのではなく、マリアのように「あなたの望まれる通りになりますように」と明け渡して祈るべき。神は今日もそのような『キリストの心』をもって従う者を捜しておられる。 今日の真理: 「恵み」に生きる時、『神』と出会う ◎更に深い学びのために  ①「恵みの生き方」とは、どんな生き方でしょう? あなたの知っている具体例を挙げてみましょう。  ②聖書が『預言的書物』であるとは、どういう意味ですか?  ③私たちの人生を通して神がなさろうとしておられることが実現するために、私たちに何ができますか? Outline of the sermon   “Let it be according to God’s will.”    (22/02/2026) [Luke 6:27~36] ◆“Grace based” life. (Verses 32~34)  ・Here Jesus repeats, “What benefit is that?”  In other words, “That’s something anyone can do!”  What Read more…

(642) “金銭を愛する生活をせずに、今持っているもので満足しなさい。”

 「ローンで物を買う」という習慣が始まってしばらく経ちます。当時は『クレジットカード』というものを持ち歩く人は本当に限られた裕福な人々だったのが、今では持っていない人の方が少ないくらいですよね。それほど「今はお金はないけど、やがて入るから、欲しいものは先に手に入れておこう」という考え方が一般的になっているのでしょう。  人はどうしてそれほどまでに「もっと欲しい」と思うのでしょう?本当に「どうしても必要だから」?日々の生活のために「どうしても必要なもの」なんて、本当に限られています。  私たち家族は、電気もガスも水道もない離れ小島で4年間生活しました。藁ぶき屋根の家の中には、テーブルとイス、そして粗末なベッドの他にはほとんど何もありませんでした。それでも時々島の子供たちがやってきて家の中を覗いては、「うわぁ、物がいっぱいあるなぁ」と言っていました。実際、日々の生活に必要なものは「水と食べ物とほんの少しの生活用品」くらいなのです。その代わりその島には『人々の愛』はふんだんにありました。  この島での4年間の生活で実感したことは、「『物の豊かさ』と『人の心の豊かさ』は反比例する」ということです。物が増えれば増えるほど人の心は荒んで行き、「妬み、独占欲、犯罪」などが増していくのです。島では様々なものが共有されており、少し多く持っている人たちは、足りない人たちに「当然のごとくに」分け与えていました。この島での生活のお陰で、私たち夫婦と子供たちは「人を愛して生きること」を学ぶことができました。今でも大変有難く思っています。  もし「もっと欲しい」と思うことが「他の人に劣りたくないから」という動機であるなら、そんな見栄は捨ててしまった方がずっと自由で気楽に生きられるのではないでしょうか?そして余ったエネルギーを「他の人を思いやること」に費やすことができれば、世の中はずい分良くなると思うのは、私の勘違いでしょうか?

2026年2月15日 「イエスを微笑ませる信仰」

礼拝全体の様子をYoutubeで観る 説教あらすじ   「イエスを微笑ませる信仰」   (15/02/2026) [ルカの福音書 6章20~26節] ◆神に祝福された者(20~21節)  ・『幸いです』という語がくり返し登場するが、これは本来「あぁ、何と祝福されていることよ!」というニュアンス。 言わばイエスはここで「真に神に祝福されている者は、地上でどのように生きているはずなのか」を描いている。  ・『貧しい人』とは、文字通り「貧乏人」という意味ではなく、「自分は神の前に何も持っていない。神こそが自分の  全てである」と自覚している人。『飢えている人』も同様に「お腹が空いている」のではなく、「自分の霊的貧しさを  認め、神との親密な関係を求めてやまない人」。『泣いている人』も「涙もろい」わけではなく、今の世に蔓延している「罪や不義」を嘆き、1日も早く『神の義』が地上を支配することを待ち望んで止まない人のこと。 ◆神に喜ばれる信仰(22~23節)  ・『信仰』とは、今有るものではなく、「やがて来るものを思って、今喜ぶこと」である。[へブル11:13] では何故そのように生きる『キリストの弟子』は迫害を受けるのか?それは悪魔(そして彼が支配しているこの邪悪な世)が「神の義に生きる者」を無視できないから。もしそのような迫害を経験していないとしたら、それは「社会体制のおかげ」というよりも、私たち自身の『信仰の姿勢』の故かもしれない。パウロは言った。[Ⅱテモテ3:12] 今日の真理: 一時的な幸いは、真の祝福ではない ◎更に深い学びのために  ①イエスはどのような人々を『幸いな人』と呼んでいますか? それはどうしてだと思いますか?  ②『神の国の価値観』と「この世の価値観」とは、どう違いますか? あなたの今の生き方はどちらに近いでしょう?  ③やがて必ず来る『神の永遠の祝福』にはどんなものがあるでしょう? 皆でリストアップしてみましょう! Outline of the sermon   “Faith that makes Jesus smile.”    (15/02/2026) [Luke 6:20~26] ◆ “Blessed” people. (Verses 20~21)  ・Jesus is describing how real “Blessed people” look like on the earth.  “Poor” Read more…

(641) “あなたこそ、私の内臓を造り、母の胎の内で私を組み立てられた方です。”

 私たちはつい「もっと背が高かったら良かったのに…」「どうして私の目はもっとパッチリしていないんだろう…」などなど、自分ではどうしようもない(生まれつきの)特徴にケチをつけて、わざわざ自分の価値を下げてしまうことがあります。そもそもこれらの不平・不満というものは、何を基準にして生まれてくるのでしょう?もちろんそれは生まれ育った環境や、社会の提供する情報にも影響をされるとは思いますが、根本的には『自分自身の考え』に基づいているわけです。「自分はもっとこうありたい」とか、「本来はもっとこうあるべきである」とか。実際は、社会は「人間というものは身長は170センチ以上なければならない」とか、「女性のまぶたは二重でなければならない」などとは定めていないわけですが、いつの間にかそんな風に思い込んでしまっているんですよね?  聖書は、「創造主なる神が、私たち1人1人をご自身の望まれた通りにお造りになった」と言います。そして神には私たちをそのように創造された『目的』があるのです。神は失敗作品をお造りにはなりませんから、私たちは「姿かたち」を含めて、神の目的にピッタリの存在として形造られました。ですから大切なのは「変えることができないことを不満に思うこと」ではなく、「神が自分をどのような目的のためにお造りになったのか」を知ることなのです。そしてそれは『イエス・キリストを通しての神との関係』によってのみ、知ることができます。私はそれを40年前に体験しました。それまでは前述のような「自分の身体的な特徴に対する不満」を並べ立てていましたが、今は日々「神のご計画を実現すること」に心を躍らせながら生きています。  神には「あなたとだけ一緒に実現したいご計画」があるのです。それを見つけ実現するために、イエス・キリストを通して与えられる『神とのいのちの交わり』を求め始めてみませんか?

(641) “何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から行いなさい。”

 「ベストを尽くす」という表現がありますよね。この言葉が嫌いな人はあまりいないと思いますが、実践するのはなかなか難しいですよね?今日はこの「ベストを尽くす」ということの実践として良い例を見つけたのでご紹介します。  これはオーケストラに所属する、あるバイオリニストのお話しです。彼女はコンサートに出演する前日はいつも十分な睡眠を取ることを心掛け、ベストコンディションで演奏に臨みます。自分自身だけでなく、自分の楽器も入念にチェックします。会場に到着すると、ステージ上の自分が座るイスの座り心地を調整し、楽器のチューニングをします。  演奏が始まると、指揮者の下に各グループが指揮と譜面に合わせて演奏を始め、彼女は自分の出番が来るまで瞬きもせずに譜面を追います。演奏が次々と進み、ついに彼女の演奏の番になり、指揮者の目が彼女に向いた瞬間、彼女は自分が奏でることのできる最高の音を「たった1音だけ」演奏し、そして彼女の出番は終わるのです。  オーケストラの演奏はまだまだ続いて行きます。彼女は残りの時間もじっと静かに、そしてさも満足そうな笑みを浮かべながら席に座っています。「自分のできる最高の音を、完璧なタイミングで、全力で奏でたこと」への喜びに満たされながら…

2026年2月1日 「12使徒の任命」

礼拝全体の様子をYoutubeで観る 説教あらすじ   「12使徒の任命」   (01/02/2026) [ルカの福音書 6章12~19節] ◆イエスは『12使徒』をお選びになった(12~13節)  ・ルカが「出来事のみを客観的に記述」しているのに対し、マルコは「イエスが使徒たちを選んだ2つの目的」に  ついて書いている。(マルコ3:13-17) ①みそばに置くため ②みわざを託すため この点において『使徒たち』は、  他の弟子たちや群衆との明確な区別があった。 ◆『使徒』以外の人々(17~19節)  ・ここでは「大勢の弟子たちの群れ」と、各地からやって来た「おびただしい数の人々」が登場する。彼らは、  ①教えを聞くため ②癒しを受けるため に、イエスの許にやってきた。それは「イエスから力が出ていた」のを見たからである。これらのみわざは「御父と御子の親密な交わり」の結果であり、イエスの喜びの源でもあった。  ・主イエスが私たちを「みそばに置く」のを望まれるのは、同じように「共にみわざを行い、喜びを分かち合う」  ため。[ルカ10:17-12] これは「受ける」だけではなく、『共に働く者』だけが味わうことのできる祝福である。  ・物質社会に生きる私たちは「目に見える現象」に心を奪われやすい。しかし人を真の喜びで満たすのは「物」で  はなく『人格的なつながり』。キリストはこの喜びのために、私たちを招くのである。 今日の真理: 神が招くのは、共にいて、一緒に働くため ◎更に深い学びのために  ①イエスは何故『使徒』をお選びになったのでしょう? 彼らはどのような人たちでしたか?  ②使徒に選ばれた人たちと、選ばれなかった人たちの間には、どんな違いがあったと思いますか?  ③あなたはイエスに「選ばれたい」ですか? それは何故、また「どういう意味で」ですか? Outline of the sermon     “Calling apostles.”      (01/02/2026) [Luke 6:12~19] ◆Jesus chose 12 “apostles”. (Verses12~13)  ・Jesus prayed through the night then appointed “apostles”.  Read more…