(675) “私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。”

 ずいぶん前に「世界で1つだけの花」という歌が流行りましたよね?「ナンバー1にならなくても良い。元々特別なオンリーワン。」という歌詞で終わる歌だったと記憶しています。聞きながら「聖書のメッセージを伝えている曲だなぁ」と感じていたことを思い出します。  聖書は「私たちは神の『作品』だ」と教えています。『作品』は、画一化された『製品』とは違って、その「個性」が重要です。そして神様は私たちを「人と比較して優劣を競う存在」としてではなく、「自分らしく生きるため」に、敢えて1人1人を個性的に創造されたのです。それなのに、人と比べて優越感に浸ったり劣等感で落ち込んだり、また何とか他の人に優ろうとして無理をして生きることは、愚かなばかりではなく、神への冒瀆にもなりかねません。  そもそも神は私たちを「人間的な知恵や悟りによって自分自身に磨きをかける」ように造られたのではなく、単純に「創造主である神としっかりつながって、その愛の関係によって育まれ、神が1人1人のためにあらかじめ用意しておられた『良い行い』の成就のために自然体で歩む」ようにと、愛をもって丹精込めて造ってくださったのです。  私たちに必要なのは「たゆまぬ努力」ではなく、イエス・キリストを通して「神とつながること」です。電気製品が電源につながっていなければ使い物にならないように、私たちも『命の源』である創造主なる神につながっていなければ、本来の生き方ができないのです。

2026年11月1日 「遣わされている者の心得」

礼拝全体の様子をYoutubeで観る 説教あらすじ   「遣わされている者の心得」   (01/11/2026) [ルカの福音書 10章1~16節] ◆『神の国』へのフォーカス  ・イエスはここで12弟子とは別に72人の弟子たちを「2人ずつ」遣わされた。ペアで動くという事には多くの利点がある。孤独を避け、互いに励まし合い、時には戒め合う。人は人と研ぎ合って成長するものである。  ・イエスは「あなたがたを遣わすのは、狼の中に子羊を送り出すようなものだ」とおっしゃった。私たちは「自分は大人なんだから大丈夫」と思いがちだが、「神のことば・神のみわざ」をそのままのクウォリティで人々の許に届け  るためには、それだけ注意深く、また思いを「神とその御国の権威」に集中させていなければならない。 ◆『神の国』への応答  ・『ソドム』と言えば、創世記に出て来る「最も邪悪な町」とも言える町の1つ。また『シドン』は、悪名高き王妃イゼベルの出身地でもある偶像礼拝の町。しかしイエスはそのような町々よりも、「目の前に『神の国の現れ』を見聞きしながらも、自分のイメージ通りの『メシア』でなければ受け入れようとしないご自分の民」の『頑なな心』を厳しく責めた。「もう少し優しい言い方でも良いのでは?」と思ってしまうが、私たちが伝えるべきメッセージは「耳障りの良いもの」ではなく、「神が語られたそのままのメッセージ」であるべき。『神のことば』だけが、人を救いへと導く。 今日の真理: 「人当たりの良さ」よりも、『神への忠実さ』 ◎更に深い学びのために  ①弟子たちを「2人ずつ遣わした」ことには、どんな利点があると思いますか?  ②イエスはなぜ旧約時代の不信仰な町々より、ご自身が巡回したガリラヤ周辺の町々を責められたのでしょう?  ③「主イエスに遣わされて福音を語る」という使命を全うする上で、私たちが心に刻むべきことは、何ですか? Outline of the sermon   “Be prepared to be sent!”   (01/11/2026) [Luke 10:1~16] ◆Set your focus on “the kingdom of God”!  ・These disciples were sent in pairs.  Two is always better than one.  They can help Read more

(674) “人は種を蒔けば、刈り取りもすることになります。”

 「蒔いた種を刈り取る」という言葉をご存知だと思いますが、実はこの言葉は聖書から出ているんですよ。神様は恵み深い方ですが、私たちの『尻ぬぐい』をさせるべきではありません。例えば「自分は不摂生な生活をしていますが、どうぞ健康をお守りください」とか、「勉強をサボっていますが、試験に合格させてください」などという祈りは虫が良すぎます。神は私たちに「蒔いた種は刈り取らせる方」なのです。(これは「バチを当てる」のとは違いますよ。真の神は『バチ』なんか当てません!)  しかし、人生には自分ではどうしようもない事がたくさんあります。突然の病気や自然災害。経済的困難や事故や怪我。そのような『人生の危機』に遭遇した時、私たちは思わずも「神様、どうしてですか?」と叫びたくなります。こんな時、クリスチャンたちは「ご自分の御子をさえ私たちのために死に渡された方は、今日も私に最善をなさっているはずである」と信じ、こう自問自答します。「このような問題に直面させることを通して、神は私に何を教えようとしておられるのだろう?」  聖書の別の箇所には、「順境の日には幸いを味わい、逆境の日にはよく考えよ」という言葉があります。神は確かに物事が順調に運ぶ日々を経験させることで私たちに幸いを味わわせてくださることもありますし、逆に「何をやってもうまく行かず、頭を抱えてしまう日々」をも経験させます。多くの場合私たちは、順調な時は神を忘れ、何か問題が起こると神に文句を言ってしまうのではないでしょうか?  神は、どんな時でも『神』です。ですから、物事が順調に運んでいる時には「神に感謝」し、事がうまく運ばない時には、「神様、あなたはこの状況を通して、私に何を学ばせようとしておられるのですか?」と祈りつつ神に問いかける者でありましょう。

(673) “主を求める者は、良いものに何1つ欠けることがない。”

 この天と地、そして全宇宙を創造された唯一まことの神様は『良いお方』です。私たちはこのお方に信頼して生きる時に『恐れ』から解放され、平安をもって生きることができます。私たちは1秒先でさえ分からないのでつい不安になりますが、神様は『永遠のお方』であり、『愛の神』であるので、たとえ目の前の物事がうまく運んでいない時でも、「必ず神の解決がある」と信じて右往左往せずに生きることが賢明です。  アフリカのある地域に伝わる興味深い民話があります。ある所に「王様とその友人」がいました。この友人は神に深く信頼していたので、事あるごとに「これは良いことだ!」と言うのが口癖になっていました。そんなある日2人は一緒に狩りに出かけました。良い獲物を見つけたので、友人は王様に火縄銃を手渡し、王様は獲物に向けて発砲したのですが、ちょっとした手違いで暴発し、王様の親指が吹き飛ばされてしまいました。友人はついいつもの調子で「これは良いことだ!」と言ってしまって王様の怒りを買い、王様によって牢屋に入れられてしまいました。  何カ月か経って王様の怪我も癒えた頃、相棒が牢屋に入っているために王様は1人で狩りに出かけました。ところが出かけた先で人食い人種と遭遇し、王様は捕らえられ、彼らの村に連れて行かれて丸焼きにされることになりました。「これは大変マズいことになった!」と王様が震えていると、彼に親指が無いことに気付いた村の人々が「コイツは傷物だから、食べてはいけない!」と叫び出し、結局王様は解放されて、無事に帰ることができました。自分の親指が失われていたために救われたことを知った王様は、以前の友人の言葉を思い出し、すぐに彼を牢屋から出してやりました。王様は友人に言いました。「お前は正しかった。私は自分が親指を失ったことを少しも『良いこと』と思わなかったが、そのお陰で私は命拾いしたのだから。正しいことを言ったお前を牢屋に入れた私は、本当に『悪いヤツ』だった。」  すると友人は、「イヤ、それは本当に良いことだったよ!」と言いました。王様は少々呆れて言いました。「何も『良い』わけがないじゃないか!私は大切な友人を牢屋に閉じ込めてしまっていたのだぞ。」 そこで友人はこう答えました。「いや、それで良かったんだよ。だってもしキミがボクを牢屋に入れてなかったら、きっと今回もボクはキミと一緒に狩りに行っていて、そしてその人食い人種に捕らえられていたはずだ。そしてボクにはちゃんと親指があるんだぜ。」  何が本当に『良いこと』なのかは、神様だけがご存じなのです。

(672) “わたしの口から出るわたしのことばは、わたしが望むことを成し遂げ、わたしが言い送ったことを成功させる。”

 イエス・キリストは多くのことを『たとえ話』を用いて民衆に教えました。その中の1つに「種蒔きのたとえ」というものがありますが、この話の中で『種』にたとえられたのは『神のことば』でした。  「インスタント時代」に生きる私たちは、神からの語りかけを受け取ると、その約束は「すぐにでも実現する」と期待しがちです。もちろんそういう場合もあるでしょうが、もし「神のことば」が『種』のようであるのなら、そのことば(約束)が実現する(実る)までに、かなりの時間がかかることも大いにあるはずですよね?  聖書を読むと、神が私たちに最も求めていることは「ご自身に対する信頼(信仰)」であることが分かります。そして『信頼』というものはしばしば「待つこと」によって現わされます。すなわち、私たちが「どれだけちゃんと待っていられるか」が、「どれだけ本気で神に信頼しているか」を表しているのです。  冒頭に掲げた聖句のように、神は「わたしが1度語ったならば、わたしは責任をもって必ずその語ったことを実現させる」と約束しておられます。私たち人間は様々な点で「限界」がありますが、神には限界はありません。そして神は真実な方であって、必ず約束を守られる方です。  聖書の別の箇所には、「神に信頼する者は慌てることがない」とあります。「慌てずに、信頼してじっと待つ」、これが神のことばを受け取ってその成就を待ち望む者に必要とされている資質なのです。

2026年10月4日 「『告げ知らせること』の緊急性」

礼拝全体の様子をYoutubeで観る 説教あらすじ   「『告げ知らせること』の緊急性」   (04/10/2026) [ルカの福音書 9章51~62節] ◆私たちの使命は「宣べ伝えること」であって、「さばくこと」ではない  ・ユダヤ人とサマリア人の間には確執があったが、イエスはサマリア人の町にも福音を伝えようとした。拒まれて  かんしゃくを起こした弟子たちの発言を、イエスはたしなめた。私たちに委ねられているのは「良き知らせを告げ  知らせること」であって、「受け入れない人々をさばくこと」ではない。『知らせること』に専念しよう! ◆主イエスとの「心の共有」  ・次に「3人の弟子候補生」と、彼らに対するイエスの応答が登場。イエスの応答は『イエスの心』を表現している。  [58節]:「キリストの弟子として歩む」とは、『孤独』を意味する。少なくとも「この世の価値観で生きる人々」には理解されない。「主イエスが分かっていてくれさえすれば良い」という、イエスとの個人的な深い関係が必須。  [60節]:「御国を宣べ伝えること」を「父を葬ること」にさえ優先させようとするイエスの態度に、自らを投げ捨てても『救いの道』を切り開こうとする差し迫った思いが感じられる。イエスは言われた。[ヨハネ15:13-14]  [62節]:『二心』について。人生は選択の連続である。そして重要なことほど1つだけしか選ぶことができない。パウロは「後ろのものを忘れ、ひたすら前のものに向かって走る」と言った。彼は「キリストにある栄冠」を見ていた。 今日の真理: 福音書は『キリストの心』を証しする ◎更に深い学びのために  ①「福音を宣べ伝える」ということに関して、主イエスの態度から学べることはどんなことでしょう?  ②これらの3人の「弟子候補生たち」にイエスが伝えようとしておられたご自身の思いはどのようなものですか?  ③聖書、また福音書を、より正しく、より深く理解するために、私たちが持つべき態度はどのようなものでしょう? Outline of the sermon   “Urgency of evangelism.”   (04/10/2026) [Luke 9:51~562] ◆Our mission is not “judging” but “preaching the gospel”.  ・Jesus wanted to proclaim the gospel among Samaritan even though they were racially Read more

(671) “心に満ちていることを口が話すのです。”

 体調が思わしくなくて医者に診てもらう時、時々「舌を出してください」と言われることがありますよね。「一体どうして?」と思ったことはありませんか?『舌』は粘膜で覆われており、また血管もたくさん通っているため、血流や体内の水分量の変化が分かりやすく、内臓疾患の有無を判別する大きな手掛かりとなるそうです。  実は聖書にも『舌(実際には「人の話す言葉」の象徴)』に関する言及が多くあり、『舌』が人の内側にあるものを証拠立てると語っています。私も幼い頃に「地獄へ行くと閻魔大王に舌を抜かれる」ということを聞いたことがありますが、これも似たような根拠に由来しているのかもしれませんね。  『舌(口が話す言葉)』が、その人の内側にあるものの表現であるという考え方は実に興味深いと思います。日本のことわざにも「口は禍の元」とか「口が滑る」などの言い回しがありますし、実際誰もが「あんな事を言わなければ良かった」と後悔している『失言』がいくつかあるのではないでしょうか?と共に『二枚舌を使う』などという表現もあり、「心では思っていても、口では甘い言葉だけ話しておけば良いのでは?」と考える人もいるかもしれません。でもいずれは周囲にバレて、徐々に大切な友人を失ってしまう恐れもあるのではないでしょうか?  医者が舌を診て異状を発見した場合、別に「舌そのもの」を治療するわけではありません。「その異状を引き起こしている原因を究明して、それを治療する」はずです。同じように、つい悪い言葉ばかりを口から出してしまう人には、「そういう言葉を話してはいけません」と禁止したところで、それを止めることはできません。どうしてそういう「否定的で乱暴な言葉」を話してしまうのか、その原因を究明して、治療する必要があります。  『舌(口)』は、「心に満ちていることを話す」とイエス・キリストはおっしゃいました。キリストは閻魔大王のように「舌を抜くこと」によって解決しようとはせず、「人々を愛し、その心を癒し、内側を新しくすること」によって、その語ることばさえも「肯定的で愛と思いやりに満ちた言葉」にしてくださるのです!