(671) “私たちが真実でなくても、キリストは常に真実である。ご自分を否むことができないからである。”

 あなたは親しい友人や配偶者に対して、どのような人格を求めますか?「親切・愛情深い・正直さ」などなど、いろいろあると思います。そしてきっと多くの方は「信頼し合える人」ということを求めるのではないでしょうか?  「何の疑いもなく信じ合える相手がいる」ということは、それだけで人生を楽にし、また豊かにしてくれます。私は今までに数多く「結婚式の司式」をしましたが、キリスト教式の結婚式では『誓いの言葉』というプロセスがあり、新郎新婦がお互いに「死に至るまで互いに真実を尽くし合うこと」を誓います。ところが多くの困難やそれぞれの都合その他でいつの間にかその誓いからズレて行き、残念ながら『離婚』という結果に至ることが増えています。本当に悲しいことです。  しかし、人間にはそのような弱さや限界があっても、神にはそのようなことはありません。神の1つのご性質は「必ず約束を守る」というものであり、神は聖書の中で「わたしはあなたを決して見放さず見捨てない」と約束しておられます。そして神はそのご性質上、ご自分を偽ることができません。  そういうわけで、神は私たちに対して「ご自身を信頼する」ということを強く求めておられます。神は私たちがしばしばその弱さのゆえに神の信頼を裏切ってしまうことを知っておられます。しかし神は私たちに「ご自身に対する信頼」だけは失って欲しくないのです。この神を知り、この方に全幅の信頼を寄せて日々を生きることのできる者は本当に幸いです。

2026年9月20日 「御父と御子と私たち」

礼拝全体の様子をYoutubeで観る 説教あらすじ   「御父と御子と私たち」   (20/09/2026) [ルカの福音書 9章37~45節] ◆何がイエスを苛立たせているのか?(40~41節)  ・イエスがいつにない苛立ちを見せているのは何故か?「弟子たちが悪霊を追い出せなかったこと」?「周囲の人々の不信仰」?恐らくそれ以上に、「この不信仰の時代が過ぎ去るためには、十字架への道は決して避けられない」と痛感させられたから。この直後に弟子たちに2度目の「受難予告」をしたが、その真意さえも御父は弟子たちに隠しておられた。この「御父との関係における御子の葛藤」、また「それにもかかわらず御父に従い通したイエスの歩み」は、今日私たちが体験する「信仰によって歩むゆえの試練や葛藤」に新しい光を与えてくれる。 ◆今はどんな時代なのか?  ・では、主イエスが十字架において既に贖いのみわざを成し遂げられた現代は、どこが違うのか?それは私たちクリスチャン(教会)の存在である。私たちはこの「不信仰な曲がった時代」に遣わされている、主イエスにとっての「希望の光」なのだ。使徒パウロはピリピ人への手紙の中で書いている。[ピリピ2:12-16]  ・イエスはこう言って私たちを遣わされた。[マルコ16:15-20] 私たちが福音を伝える時、主イエスは喜びと興奮をもって私たちと共に働き、力ある『しるし』をもってご自身のみことばの確かさを証明してくださるのだ! 今日の真理: 福音宣教はイエスに舞台を与える ◎更に深い学びのために  ①[41節]において、主イエスは何故こうも苛立っておられるのだと思いますか?  ②[ピリピ2:12-16]は私たちに、この「邪悪な世代」の中にあってどのように生きるべきだと教えていますか?  ③この地にあって私たちは、どのようにして「キリストとともに」神のみわざを行っていくことができるでしょう? Outline of the sermon   “The Father, the Son and us.”   (20/09/2026) [Luke 9:37~45] ◆What made Jesus so irritated?(Verses 40~41)  ・Why did Jesus get irritated here?  Is it because his disciples couldn’t cast out demons?  Maybe not.  Read more

(670) “堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。”

 私は若い頃(20代の頃)に「自分の人生における『神のみこころ』とは何だろう?」というようなことをよく考えたり祈り求めたりしていました。そして60台になった今「私は『神のみこころ』に沿って生きてきただろうか?」などと考えたりするわけですが、そのような考え方の根本には、「人生において『神のみこころ』という何か特別なイベントがある」というような固定観念があるのだと思います。  果たして『神のみこころ』とは、そのようなものなのでしょうか?もしそのようであるなら、あるクリスチャンたちは「人生において多くの『神のみこころ』を成し遂げた成功者」であり、別のクリスチャンたちは「ほとんど『神のみこころ』を成し遂げられなかった落第生」ということになります。  私は、『神のみこころ』というものはそのような「特定の行ないや出来事」ではなく、むしろ「日々の生き方」ではないかと思います。イエス・キリストは十字架にかかられる前夜、その恐ろしさにたじろぎながら「父よ、この杯(十字架にかかること)を私から取り除けてください。しかし私の願いではなく、あなたのみこころの通りにしてください」と祈りました。この「自分の願いもあるけれども、神が別のことを望んでおられるなら、敢えてそちらの道を歩もう!」という、神の前に明け渡した、神に信頼し従おうとする姿勢こそが「『神のみこころ』を生きる」ということなのだと思います。  もしそうであるなら、『神のみこころ』を行う機会は、「ある特定の時、特定の人に対して」ではなく、いつでも、どこでも、誰に対してでも表現することのできる、大変身近なことになるわけです。さあ、今日も周囲をよぉく見渡しながら、神に信頼しつつ思い切って『神のみこころ』を実践して行きましょう!

2026年9月13日 「律法と預言の完成者イエス」

礼拝全体の様子をYoutubeで観る 説教あらすじ    「律法と預言の完成者イエス」    (13/09/2026) [ルカの福音書 9章28~36節] ◆モーセとエリヤ(30~31節)  ・モーセとエリヤは「栄光のうちに現れた」とある。単なる『人』であるこの2人が何故そのような特別な存在として描かれているのか?いくつかの理由が考えられる。1つは、この2人は「地上での『死』がはっきりしていない」ということ。[申命記34:5-6,Ⅱ列王記2:11] もう1つは、モーセは「律法を代表する存在」であり、エリヤは「預言者を代表する存在」だということ。そしてこの『律法と預言者』というのは「聖書の中核」である。[マタイ22:40] ◆イエスの卓越性(29,32~36節)  ・またここでは「イエス本来の栄光の御姿」を垣間見せている。のちにペテロはこの時のことを回想している。[Ⅱペテロ1:16-18] またこの3人は「イエスがエルサレムにおいて成就しようとしておられることについて語り合った」とある。すなわち「律法と預言の全ての目的」は、イエスを通して完成されるためであったのである!  ・使徒の1人ピリポは友人のナタナエルにイエスをこう紹介した。[ヨハネ1:45] またイエス自身もご自身と「律法と預言者」との関係をこう描写された。[ルカ24:25-27,44] そして律法に人一倍熱心だったパウロはこう証言している。[ローマ10:4] 「聖書を通してイエスと出会う」、これこそ人類に与えられている究極の特権であり使命なのだ! 今日の真理: 聖書はイエスを中心に読み解くべき書物 ◎更に深い学びのために  ①この場面にて何故「モーセとエリヤ」が現れたのだと思いますか? またそれは何のためだったのでしょう?  ②ペテロはどうして「この3人のために幕屋を造る」と言ったのでしょう? それはどう正しくないのでしょうか?  ③私たちが聖書を正しく読み解くために、イエスについてのどのような理解が必要だと思いますか? Outline of the sermon   “Jesus completed the law & prophets.”   (13/09/2026) [Luke 9:28~36] ◆Moses & Elijah. (Verses 30~31)  ・Moses and Elijah “appeared in glory”.  They are special people in Read more

(669) “あなたがたは神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神は、ちょうど良い時に、あなたがたを高く上げてくださいます。”

 『神との正しい関係』を築こうとする時の1つのカギとなる態度は、『謙遜』です。『謙遜』と聞くと、多くの日本人の方々は「自己卑下」のようなイメージを持つようですが、それは大きな間違いです。「謙遜な態度」の1つの例は、「正直さ」です。本当は自分にできることなのに「できません」と言うことは、謙遜でもなんでもありません。「できることはできると言い、できないことはできないと正直に認める態度」、これこそが正しい『謙遜』です。  神様はすべてをご存知な方なので、この方の前に嘘をついても全く意味がありません。神はあなたの優れた点とだらしない点を全て知った上でこよなく愛してくださっているのですから、この方の前でカッコつけたり隠し事をしたりする必要はないのです。ただ「『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』と言う事」こそが『謙遜な態度』です。  また、「自分には大抵のことはできるのだから、神なんて必要ない!」というのは、神が最も嫌う高ぶった態度であり、『謙遜』とは対極にあるものです。『神』というお方は、「自分の足りない点を補ってもらう存在」ではありません。『神』は「この天地を創造され、私たち1人1人を愛をもって形造り、日々最善を施しておられる、圧倒的な力と愛に満ちた、他のすべての存在を超越した存在である」という点で『神』なのであって、このお方の前に私たちは「全く無力で極小の存在」なのです。そんなお方に対して、「アンタなんか必要ない」とか、「オレの人生はオレのものだから、関わらないでくれ」などと言ったり、また真の神以外のもの(お金や地位やスマホとか?)を神のように崇拝したり頼ったりするのは、大いに神を悲しませる態度です。  真の神だけを『神』とし、この方の「愛と誠実さ」に頼りつつ、1日1日を全力で「自分らしく」生きることこそが、神との関係を築いて行く上で大切な、『謙遜さ』なのです。

2026年9月6日 「答えるべき2つの質問」

礼拝全体の様子をYoutubeで観る 説教あらすじ    「答えるべき2つの質問」    (06/09/2026) [ルカの福音書 9章18~27節] ◆「あなたはイエスを誰だと言うか?」(20節)  ・この質問に対し弟子たちは「神のキリストです」と言った。当時の彼らの理解は不十分だったとしても、私たちは新約聖書を通してこの質問が「永遠をどこで過ごすか」を左右する『人生最大の問いかけ』であると知っている。 ◆「あなたはイエスについて行くか?」(23~26節)  ・この質問は、1番目の問いに「イエスは私の救い主です」と答えた人々に対して。これに対する答えは「死後の行き先」ではなく、「この世でどう生きるか」を左右する。使徒たちは正に「命懸けで」この問いに応答して行った。  ・この質問は私たちにどういう意味を持つか?「信仰の故に死を覚悟せよ」ということなのか?ある意味ではそう。しかし迫害の無い地ではあまり意味を成さない。ルカはパウロの活動を目の当たりにしながらこの箇所を書いただろう。パウロはこう言った。[ピリピ3:7-8] 「キリストを知っていることの素晴らしさのゆえ」。『救い主』という以上の「イエスを知るレベル」がある。そして「イエスを更に深く知ること」が、この問いに対する答えに変化を与える。  ・イエスは言われた。[ヨハネ10:10] では「イエスが与えるいのち」はどの様にして「より豊かになる」のか?それは「より深くイエスを知ることによって」に違いない。[ヨハネ17:3] あなたはこのイエスについて行きたいですか? 今日の真理: 「いのちの豊かさ」は「イエスとの関係の深さ」に比例する ◎更に深い学びのために  ①あなたはイエスを誰だと言いますか? また、それはどうしてですか?  ②あなたはイエスについて行きたいですか? また、それはどうしてですか?  ③[24節]を自分の言葉で言い換えてみましょう。どんな新しい発見がありますか? Outline of the sermon     “2 questions to answer.”     (06/09/2026) [Luke 9:18~27] ◆“Who do you say that Jesus is?” (Verse 20)  ・Apostles replied, “The Christ of God” though they might not really Read more

(668) “主が良くしてくださったことを何1つ忘れるな。”

 「病気になると、健康であることのありがたさが良く分かる」と言いますよね?確かに「苦しみを味わうこと」は、私たちに日頃当たり前に感じていることを感謝することを思い起こさせてくれます。ここにいくつかの例を挙げてみましょう。  ①あなたが今朝目を覚ました時「割りと健康だな」と感じたとしたら、あなたは余命告知を受けている何百万もの人々よりも感謝できるはずです。②もしあなたが今までに戦場や深刻な飢え、孤独な獄中生活や拷問の苦しみなどを経験したことがないなら、現在それらの真っ只中にある数億人の人々よりも感謝できるはずです。③もしあなたが何の迫害や逮捕の危険、また殉教などの危険性なしに教会の集会に集うことができるなら、世界の数十億人の信仰者よりも感謝できるはずです。④もしあなたの家の冷蔵庫に食べ物があり、タンスに着るものがあり、屋根のある場所に寝られているなら、あなたは世界の75%の人々よりも経済的に恵まれています。⑤そして、もしあなたがお財布か銀行口座にお金を持っていたり、家のどこかに小銭を貯めていたりする余裕があるなら、あなたは世界中の裕福なトップ8%の中にいるのです。  もちろん、これらのことが必ずしも「人の幸福を決める条件」ではありません。ただ少なくとも、あなたの状況には「感謝できる要素がある」ということを忘れないでいただきたいのです。

2026年8月30日 「神の最善」

礼拝全体の様子をYoutubeで観る 説教あらすじ     「神の最善」     (30/08/2026) [ルカの福音書 9章10~17節] ◆イエスの特異性(10~13節前半)   ・「ベツサイダへ退いた」のは、宣教の旅から疲れて帰って来た使徒たちを休ませるためだったと考えられるが、イエスは「ついてきた群衆(恐らく弟子たちが巡って来た村々から)」を喜んで迎え、ミニストリーを始めた。その上疲れている弟子たちに「あなたがたであの人たちに食べ物をあげなさい」と。彼らの心境は察して余りある。   ・私たちが「神は最善しかなさらない」と言う時、多くの場合「自分にとっての」という物差しで測ってしまいがち。しかし神(イエス)は「すべてをご存知の方」である。ここでもイエスは単に「弟子たちの疲れを癒す」ということではなく、「群衆にとって」「弟子たちにとって」、そして何よりも『神の栄光のため』の『最善』を行おうとしていた。 ◆神のわざに関わる特権(16~17節)   ・イエスはそこにいた全員を満腹させた。当時どれだけの村人たちが「満腹に食べる」という経験をしただろうか? またそれらのパンや魚を配ったのは、他ならぬ「疲れ切っていた使徒たち」。パンと魚がどのように増えたのかは定かではないが、この驚くべき奇跡を目の当たりにし、その媒体として用いられた経験は、彼らに「休息」以上の回復と興奮をもたらしたことだろう。イエスが私たちに味わわせたい『神の最善』は、私たちの思いを超えている。 今日の真理: 『神の最善』は、関わる全ての人のため ◎更に深い学びのために  ①「神は最善しかなさらない」と聞く時、あなたはどのようなことを思い浮かべますか?  ②10~13節までだけを読んだ時点で、人間的には、あなたはこの場ではどんなことが『最善』だと考えますか?  ③「自分が思い浮かべていた最善」と違った形で神が働かれた経験があれば、互いに分かち合いましょう。 Outline of the sermon     “God’s very best.”     (30/08/2026) [Luke 9:10~17] ◆Christ’s peculiarity. (Verses10~13a)  ・Jesus and disciples encountered the crowds when they were just about taking a rest.  Instead of refusing to help this crowds, Read more

(667) “私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。”

 キリスト教と、他のいわゆる『宗教』との大きな相違点の1つは、恐らく「救い」と「良い行い」との関係にあるのではないでしょうか?ほとんどの『宗教』は「救いやご利益」を受けるために何らかの「行ない」を要求します。「修業を積む」「一定金額のお布施をする」「戒律を守る」などなど。このような「条件付きの救い」は、この世の様々な習慣や人付き合いなどにも深く根付いているので、理屈として納得が行くものなのでしょうね。  では『キリスト教の救い』は、どう違うのでしょうか?英語のことわざで「Christianity is not Religion but Relationship with God」(キリスト教は宗教ではなく、神との関係)と言われているように、聖書で強調されていることは『神との関係』です。人間関係においても「OOしてくれたら、~してあげる」というような「ギブ・アンド・テイク」の関係もありますが、より親しい間柄になればなるほど「無償でしてあげる」ということが起こってきます。親子関係や夫婦関係、また親友同士などがこれに当たります。いわば「『~だから』の愛」と「『~にもかかわらず』の愛」の違いです。そして神が私たちとの間に求めておられる関係は、この後者に当たります。神は、私たちが神に対して興味も関心も示す前に、私たちを一方的に愛し、私たちとの関係を回復するために、ひとり子イエス・キリストを「和解のいけにえ」として十字架において犠牲にされました。そしてこの神の驚くべき愛に対する応答として、クリスチャンたちは誰に強制されることもなく、自ら進んで「神に喜ばれるような良い行い」に励むようになるのです。つまり、クリスチャンたちの『良い行い』は、「救いを勝ち取るため」にしているのではなく、「救いをいただいたから」しないではいられなくなっているわけです。  最近では夫婦の離婚率も上昇傾向にあり、また子育てにおける『ネグレクト』なども問題になっています。本来「無償の愛」が実践されるべき場が歪んできてしまっているのです。これらを本体の姿に回復させるためにも、私たち人間には『神との愛の関係』が何が何でも必要ではないでしょうか?