(673) “主を求める者は、良いものに何1つ欠けることがない。”

 この天と地、そして全宇宙を創造された唯一まことの神様は『良いお方』です。私たちはこのお方に信頼して生きる時に『恐れ』から解放され、平安をもって生きることができます。私たちは1秒先でさえ分からないのでつい不安になりますが、神様は『永遠のお方』であり、『愛の神』であるので、たとえ目の前の物事がうまく運んでいない時でも、「必ず神の解決がある」と信じて右往左往せずに生きることが賢明です。  アフリカのある地域に伝わる興味深い民話があります。ある所に「王様とその友人」がいました。この友人は神に深く信頼していたので、事あるごとに「これは良いことだ!」と言うのが口癖になっていました。そんなある日2人は一緒に狩りに出かけました。良い獲物を見つけたので、友人は王様に火縄銃を手渡し、王様は獲物に向けて発砲したのですが、ちょっとした手違いで暴発し、王様の親指が吹き飛ばされてしまいました。友人はついいつもの調子で「これは良いことだ!」と言ってしまって王様の怒りを買い、王様によって牢屋に入れられてしまいました。  何カ月か経って王様の怪我も癒えた頃、相棒が牢屋に入っているために王様は1人で狩りに出かけました。ところが出かけた先で人食い人種と遭遇し、王様は捕らえられ、彼らの村に連れて行かれて丸焼きにされることになりました。「これは大変マズいことになった!」と王様が震えていると、彼に親指が無いことに気付いた村の人々が「コイツは傷物だから、食べてはいけない!」と叫び出し、結局王様は解放されて、無事に帰ることができました。自分の親指が失われていたために救われたことを知った王様は、以前の友人の言葉を思い出し、すぐに彼を牢屋から出してやりました。王様は友人に言いました。「お前は正しかった。私は自分が親指を失ったことを少しも『良いこと』と思わなかったが、そのお陰で私は命拾いしたのだから。正しいことを言ったお前を牢屋に入れた私は、本当に『悪いヤツ』だった。」  すると友人は、「イヤ、それは本当に良いことだったよ!」と言いました。王様は少々呆れて言いました。「何も『良い』わけがないじゃないか!私は大切な友人を牢屋に閉じ込めてしまっていたのだぞ。」 そこで友人はこう答えました。「いや、それで良かったんだよ。だってもしキミがボクを牢屋に入れてなかったら、きっと今回もボクはキミと一緒に狩りに行っていて、そしてその人食い人種に捕らえられていたはずだ。そしてボクにはちゃんと親指があるんだぜ。」  何が本当に『良いこと』なのかは、神様だけがご存じなのです。

(672) “わたしの口から出るわたしのことばは、わたしが望むことを成し遂げ、わたしが言い送ったことを成功させる。”

 イエス・キリストは多くのことを『たとえ話』を用いて民衆に教えました。その中の1つに「種蒔きのたとえ」というものがありますが、この話の中で『種』にたとえられたのは『神のことば』でした。  「インスタント時代」に生きる私たちは、神からの語りかけを受け取ると、その約束は「すぐにでも実現する」と期待しがちです。もちろんそういう場合もあるでしょうが、もし「神のことば」が『種』のようであるのなら、そのことば(約束)が実現する(実る)までに、かなりの時間がかかることも大いにあるはずですよね?  聖書を読むと、神が私たちに最も求めていることは「ご自身に対する信頼(信仰)」であることが分かります。そして『信頼』というものはしばしば「待つこと」によって現わされます。すなわち、私たちが「どれだけちゃんと待っていられるか」が、「どれだけ本気で神に信頼しているか」を表しているのです。  冒頭に掲げた聖句のように、神は「わたしが1度語ったならば、わたしは責任をもって必ずその語ったことを実現させる」と約束しておられます。私たち人間は様々な点で「限界」がありますが、神には限界はありません。そして神は真実な方であって、必ず約束を守られる方です。  聖書の別の箇所には、「神に信頼する者は慌てることがない」とあります。「慌てずに、信頼してじっと待つ」、これが神のことばを受け取ってその成就を待ち望む者に必要とされている資質なのです。

2026年10月4日 「『告げ知らせること』の緊急性」

礼拝全体の様子をYoutubeで観る 説教あらすじ   「『告げ知らせること』の緊急性」   (04/10/2026) [ルカの福音書 9章51~62節] ◆私たちの使命は「宣べ伝えること」であって、「さばくこと」ではない  ・ユダヤ人とサマリア人の間には確執があったが、イエスはサマリア人の町にも福音を伝えようとした。拒まれて  かんしゃくを起こした弟子たちの発言を、イエスはたしなめた。私たちに委ねられているのは「良き知らせを告げ  知らせること」であって、「受け入れない人々をさばくこと」ではない。『知らせること』に専念しよう! ◆主イエスとの「心の共有」  ・次に「3人の弟子候補生」と、彼らに対するイエスの応答が登場。イエスの応答は『イエスの心』を表現している。  [58節]:「キリストの弟子として歩む」とは、『孤独』を意味する。少なくとも「この世の価値観で生きる人々」には理解されない。「主イエスが分かっていてくれさえすれば良い」という、イエスとの個人的な深い関係が必須。  [60節]:「御国を宣べ伝えること」を「父を葬ること」にさえ優先させようとするイエスの態度に、自らを投げ捨てても『救いの道』を切り開こうとする差し迫った思いが感じられる。イエスは言われた。[ヨハネ15:13-14]  [62節]:『二心』について。人生は選択の連続である。そして重要なことほど1つだけしか選ぶことができない。パウロは「後ろのものを忘れ、ひたすら前のものに向かって走る」と言った。彼は「キリストにある栄冠」を見ていた。 今日の真理: 福音書は『キリストの心』を証しする ◎更に深い学びのために  ①「福音を宣べ伝える」ということに関して、主イエスの態度から学べることはどんなことでしょう?  ②これらの3人の「弟子候補生たち」にイエスが伝えようとしておられたご自身の思いはどのようなものですか?  ③聖書、また福音書を、より正しく、より深く理解するために、私たちが持つべき態度はどのようなものでしょう? Outline of the sermon   “Urgency of evangelism.”   (04/10/2026) [Luke 9:51~562] ◆Our mission is not “judging” but “preaching the gospel”.  ・Jesus wanted to proclaim the gospel among Samaritan even though they were racially Read more

(671) “心に満ちていることを口が話すのです。”

 体調が思わしくなくて医者に診てもらう時、時々「舌を出してください」と言われることがありますよね。「一体どうして?」と思ったことはありませんか?『舌』は粘膜で覆われており、また血管もたくさん通っているため、血流や体内の水分量の変化が分かりやすく、内臓疾患の有無を判別する大きな手掛かりとなるそうです。  実は聖書にも『舌(実際には「人の話す言葉」の象徴)』に関する言及が多くあり、『舌』が人の内側にあるものを証拠立てると語っています。私も幼い頃に「地獄へ行くと閻魔大王に舌を抜かれる」ということを聞いたことがありますが、これも似たような根拠に由来しているのかもしれませんね。  『舌(口が話す言葉)』が、その人の内側にあるものの表現であるという考え方は実に興味深いと思います。日本のことわざにも「口は禍の元」とか「口が滑る」などの言い回しがありますし、実際誰もが「あんな事を言わなければ良かった」と後悔している『失言』がいくつかあるのではないでしょうか?と共に『二枚舌を使う』などという表現もあり、「心では思っていても、口では甘い言葉だけ話しておけば良いのでは?」と考える人もいるかもしれません。でもいずれは周囲にバレて、徐々に大切な友人を失ってしまう恐れもあるのではないでしょうか?  医者が舌を診て異状を発見した場合、別に「舌そのもの」を治療するわけではありません。「その異状を引き起こしている原因を究明して、それを治療する」はずです。同じように、つい悪い言葉ばかりを口から出してしまう人には、「そういう言葉を話してはいけません」と禁止したところで、それを止めることはできません。どうしてそういう「否定的で乱暴な言葉」を話してしまうのか、その原因を究明して、治療する必要があります。  『舌(口)』は、「心に満ちていることを話す」とイエス・キリストはおっしゃいました。キリストは閻魔大王のように「舌を抜くこと」によって解決しようとはせず、「人々を愛し、その心を癒し、内側を新しくすること」によって、その語ることばさえも「肯定的で愛と思いやりに満ちた言葉」にしてくださるのです!

2026年9月27日 「イエスの名のゆえに」

礼拝全体の様子をYoutubeで観る 説教あらすじ   「イエスの名のゆえに」   (27/09/2026) [ルカの福音書 9章46~50節] ◆この世の価値観  ・2つのエピソードが出て来るが、フォーカスは同じ。つまり「弟子たちの考え方」と「イエスの考え方」の違い。ではどこがどう違うのか。2つの争点は「だれが偉いのか?」と「自分たちについて来ないなら、イエスの名を使ってはいけない」ということ。どちらも視点が『自分自身』そして『何をするか』に向いていることから起こる思い違い。 ◆神の国の価値観(47~48節)  ・私たちが信仰の歩みにおいて見つめるべきは「何をするか」ではなく、『なぜするのか』である。「何をするにも『イエスの名』のゆえに」ということ。朝ごとに「イエスに深く愛されていること」を思い起こし、同じようにイエスが愛してやまない周囲の人々を見回しながら、「イエスの招きの御声」に耳を傾ける。[マタイ25:40] このマタイの箇所で「小さい者たちに仕えた人々」は、自分がイエスのためにしているという意識は無かった。マザー・テレサは「大切なのは、どれだけ心を込めたか」と言った。「イエスの愛をどれだけ体験しているか」が、私たちの「人々への対応の仕方」を変えて行く。「何をするか」に捕らわれず、『イエスの愛』にフォーカスしながら、聖霊によって内側に湧き上がってくる愛に押し出されるようにして、人々の間へと日々遣わされて行こう! 今日の真理: 「何をするか」ではなく、「どれだけ愛されたか」 ◎更に深い学びのために  ①弟子たちの「物事を判断する基準」と、イエスのそれとでは、どんなところが違っていますか?  ②自分の人生の価値基準を吟味してみましょう。イエスと共に歩むうえで修正が必要なのはどの部分ですか?  ③あなたにとって、「主イエスが自分に対して注いでおられる愛」とは、どのようなものでしょうか? Outline of the sermon   “In the name of Jesus.”   (27/09/2026) [Luke 9:46~50] ◆Perspective of this world.  ・There are 2 episodes here but the point is the same which is the difference between “disciples’ thought” and “Jesus’ Read more

(671) “私たちが真実でなくても、キリストは常に真実である。ご自分を否むことができないからである。”

 あなたは親しい友人や配偶者に対して、どのような人格を求めますか?「親切・愛情深い・正直さ」などなど、いろいろあると思います。そしてきっと多くの方は「信頼し合える人」ということを求めるのではないでしょうか?  「何の疑いもなく信じ合える相手がいる」ということは、それだけで人生を楽にし、また豊かにしてくれます。私は今までに数多く「結婚式の司式」をしましたが、キリスト教式の結婚式では『誓いの言葉』というプロセスがあり、新郎新婦がお互いに「死に至るまで互いに真実を尽くし合うこと」を誓います。ところが多くの困難やそれぞれの都合その他でいつの間にかその誓いからズレて行き、残念ながら『離婚』という結果に至ることが増えています。本当に悲しいことです。  しかし、人間にはそのような弱さや限界があっても、神にはそのようなことはありません。神の1つのご性質は「必ず約束を守る」というものであり、神は聖書の中で「わたしはあなたを決して見放さず見捨てない」と約束しておられます。そして神はそのご性質上、ご自分を偽ることができません。  そういうわけで、神は私たちに対して「ご自身を信頼する」ということを強く求めておられます。神は私たちがしばしばその弱さのゆえに神の信頼を裏切ってしまうことを知っておられます。しかし神は私たちに「ご自身に対する信頼」だけは失って欲しくないのです。この神を知り、この方に全幅の信頼を寄せて日々を生きることのできる者は本当に幸いです。

2026年9月20日 「御父と御子と私たち」

礼拝全体の様子をYoutubeで観る 説教あらすじ   「御父と御子と私たち」   (20/09/2026) [ルカの福音書 9章37~45節] ◆何がイエスを苛立たせているのか?(40~41節)  ・イエスがいつにない苛立ちを見せているのは何故か?「弟子たちが悪霊を追い出せなかったこと」?「周囲の人々の不信仰」?恐らくそれ以上に、「この不信仰の時代が過ぎ去るためには、十字架への道は決して避けられない」と痛感させられたから。この直後に弟子たちに2度目の「受難予告」をしたが、その真意さえも御父は弟子たちに隠しておられた。この「御父との関係における御子の葛藤」、また「それにもかかわらず御父に従い通したイエスの歩み」は、今日私たちが体験する「信仰によって歩むゆえの試練や葛藤」に新しい光を与えてくれる。 ◆今はどんな時代なのか?  ・では、主イエスが十字架において既に贖いのみわざを成し遂げられた現代は、どこが違うのか?それは私たちクリスチャン(教会)の存在である。私たちはこの「不信仰な曲がった時代」に遣わされている、主イエスにとっての「希望の光」なのだ。使徒パウロはピリピ人への手紙の中で書いている。[ピリピ2:12-16]  ・イエスはこう言って私たちを遣わされた。[マルコ16:15-20] 私たちが福音を伝える時、主イエスは喜びと興奮をもって私たちと共に働き、力ある『しるし』をもってご自身のみことばの確かさを証明してくださるのだ! 今日の真理: 福音宣教はイエスに舞台を与える ◎更に深い学びのために  ①[41節]において、主イエスは何故こうも苛立っておられるのだと思いますか?  ②[ピリピ2:12-16]は私たちに、この「邪悪な世代」の中にあってどのように生きるべきだと教えていますか?  ③この地にあって私たちは、どのようにして「キリストとともに」神のみわざを行っていくことができるでしょう? Outline of the sermon   “The Father, the Son and us.”   (20/09/2026) [Luke 9:37~45] ◆What made Jesus so irritated?(Verses 40~41)  ・Why did Jesus get irritated here?  Is it because his disciples couldn’t cast out demons?  Maybe not.  Read more

(670) “堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。”

 私は若い頃(20代の頃)に「自分の人生における『神のみこころ』とは何だろう?」というようなことをよく考えたり祈り求めたりしていました。そして60台になった今「私は『神のみこころ』に沿って生きてきただろうか?」などと考えたりするわけですが、そのような考え方の根本には、「人生において『神のみこころ』という何か特別なイベントがある」というような固定観念があるのだと思います。  果たして『神のみこころ』とは、そのようなものなのでしょうか?もしそのようであるなら、あるクリスチャンたちは「人生において多くの『神のみこころ』を成し遂げた成功者」であり、別のクリスチャンたちは「ほとんど『神のみこころ』を成し遂げられなかった落第生」ということになります。  私は、『神のみこころ』というものはそのような「特定の行ないや出来事」ではなく、むしろ「日々の生き方」ではないかと思います。イエス・キリストは十字架にかかられる前夜、その恐ろしさにたじろぎながら「父よ、この杯(十字架にかかること)を私から取り除けてください。しかし私の願いではなく、あなたのみこころの通りにしてください」と祈りました。この「自分の願いもあるけれども、神が別のことを望んでおられるなら、敢えてそちらの道を歩もう!」という、神の前に明け渡した、神に信頼し従おうとする姿勢こそが「『神のみこころ』を生きる」ということなのだと思います。  もしそうであるなら、『神のみこころ』を行う機会は、「ある特定の時、特定の人に対して」ではなく、いつでも、どこでも、誰に対してでも表現することのできる、大変身近なことになるわけです。さあ、今日も周囲をよぉく見渡しながら、神に信頼しつつ思い切って『神のみこころ』を実践して行きましょう!