(624) “すべて真実なこと、すべて尊ぶべきこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて評判の良いことに、また、何か徳とされることや称賛に値することがあれば、そのようなことに心を留めなさい。”

 「自分の性格を何とかしたい」という声を聞くことがあります。しかし実際問題「性格を変えること」は、ほぼ不可能と言えるほど難しいことですよね。でも良い知らせがあります。私たちの人生、また傾向性というものは、『性格』以上に、私たちの日常の『思考パターン』に大きく影響を受けるものであり、しかもこの『思考パターン』というものは、心がけ次第で新たに身に付けて行くことができるものなのです。  私たちの『思考パターン』に影響を与えるのは、私たちが日頃触れている情報や、周囲の人たちの態度や言葉です。そのうちには避けられないものもいくつかありますが、最近ではテレビや書籍、そして何よりインターネットから受ける情報が莫大であり、そしてこれらの情報は自分で取捨選択することができるものです。「オカルトや不倫」といった『恐れや猜疑心』を心に植えつけるようなものを避け、『積極的・肯定的』な内容のものを視聴することを強くお勧めします。  また、『聖書』には「肯定的なことば」「徳を高めることば」が満ちています。「神はあなたを愛している」「恐れるな、神が共におられる」「自分がしてもらいたいと願うことを、他の人にもしなさい」などなど、聖書を少しずつでも毎日読むことは、私たちの『思考パターン』を肯定的に保つために大いに役立ちます。  また、「イエス・キリストを人生のパートナーとして迎えること」は、何よりも私たちの生き方を「積極的で確信に満ちたもの」に変えてくれます。私自身、イエス・キリストという方を個人的に知る前は、他人の顔色を窺い、できるだけ目立たないように生きることを心掛けていました。(恐らく、クリスチャンになってからの私しか知らない人は、とても信じられないと思いますが…) しかし、イエス・キリストにある『救い』を知り、彼を人生のパートナーとして迎え入れて以来、(少しずつではありましたが)私は「確信に満ちあふれ、積極的に人々に働きかける存在」へと変えられて行きました。それは「自分がどんな失敗を犯したとしても、決して見放すこともあきれることもなく共に歩んでくださる方がいる」ということを知ったからです。  「聖書を読み、その価値観によって自分自身を建て上げて行く」、そんな生き方をぜひお試しください!

(623) “あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が与えようとしているその土地で、あなたの日々が長く続くようにするためである。”

 子供が生まれる前と生まれた後とでは、『夫婦の関係』は大きく変わるものです。子供が生まれる前は、夫婦はお互いの顔だけを見つめていれば良いわけですが、子供が生まれるとどうしても「自分では何もできない弱い存在」である子供が生活の中心となり、いつの間にか夫婦はお互いを「お父さん」「お母さん」と呼ぶようになりますよね?  さてここで気を付けなければならない事があります。それは、「父親と母親とでは、子供に対して抱く思いが異なる」ということです。まず母親に関して言うならば、「子供はいつまでも子供でいて欲しい。いつまでも自分を必要としていて欲しい」と考えます。それは女性というものがそもそも「小さくて可愛らしい存在に惹かれる」ということから来ています。  ところが父親は、これと全く違います。父親は子供が生まれた瞬間から、「コイツが大きくなったら、こんなことやあんなことを一緒にしよう」と思うのです。また、父親は子供が一人前になり、独り立ちする日を待ち望みます。すなわち「頼もしい存在」になって欲しいと望むのです。なので、しばしば子供に厳しく当たったり、重荷を負わせたりすることもあります。「可愛い子には旅をさせよ」ということわざは、恐らくそんな父親が最初に言い始めたのではないでしょうか?  それでは、私たちの『父なる神』はこれらのどちらなのでしょう?『父』というからには「父親と同じような性質」なのでしょうか?聖書を読む限りでは、確かに父親的な面が多くみられますが、母親のように「いつも自分に頼って欲しい」という部分もあります。私たち人間にはできないことが、神にはできます。当然私たちは、ある分野では神に頼るべきです。と同時に、神は私たち1人1人に「ユニークな才能」を与えておられます。神は私たちがそれぞれその「才能(聖書では『賜物』と呼んでいる)」を見出して(親がその助けをする場合もあるかもしれません)、その分野で才能を開花し、その人でしかできないような素晴らしい成果をあげる人生を送って欲しいと願っておられます。  私の妻は「子育ての中で『神様の心』について多くを学んだ」と言っていました。「神様と私たちの関係」と、「親と子供の関係」には密接な関りがあるのです。

(622) “様々な試練に遭う時はいつでも、この上もない喜びと思いなさい。”

 「『神は良いお方だ』というなら、なぜ人生には試練が襲ってくるのだろう?」と考える方がいらっしゃるのではないでしょうか?確かに「好きな女の子につい嫌がらせをする幼い男の子」でもなければ、わざわざ大切な相手を辛い目に遭わせることはしないはずですよね?  ただ、ここでちょっと考えてみたいのは、『良い出来事』を「良かった」と感じられるのは、『辛い出来事』も経験したことのある人だけではないか?ということです。毎日『良い出来事』ばかりを経験していたとしたら、それが当たり前になってしまって、それらの『良い出来事』を「良い」と感知することがなくなってしまうのではないでしょうか?ですからある意味「試練がある」ということは、「当たり前の事」になりがちな平穏な日々を改めて感謝するため、ということができるかもしれません。  また、「試練は人を成長させる」という面もあります。今も行われているかどうかは定かではありませんが、私が子供の頃、農家の方々は『麦踏み』ということを習慣的に行っていました。成長途上の麦の苗の上を踏んで歩くことによって、1度踏んづけられた麦が更に強く育つようにするためです。我々人間も同じように、試練を経験することによって更に強く成長することができます。私は鎖骨を骨折したことがありますが、聞いたところによると、1度折れた骨は、もう1度を同じ部分が折れることはほとんどないそうです。それはその骨折部分の周囲を補強するような形で新しい覆いが形成されるからです。私たちも人生の中で『痛み』を経験すると、後に同じような痛みを経験している人を慰めたり支えたりすることができるように成長するのではないでしょうか?  最後に、『試練』は私たちに、「人は1人で生きるようにはできていない」ということを思い出させてくれます。日本人はしばしば「自分の弱さや問題を他の人に打ち明けるのは『恥』」と考えてしまいがちですが、苦しい状況に陥った時は、必ず周囲の人々の助けを求めるべきです。神が私たちに最も求めておられることは「互いに愛し合い、励まし合うこと」です。私たちがそれを学ぶために、神様は時に私たちが「1人では乗り越えられない試練」に遭うことを許されます。苦しい時には、独りで我慢しようとはせずに、家族や友人に分かち合って、支え合いましょう。

(621) “私たちすべてのために、ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡された神が、どうして、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか。”

 まず質問です。皆さんは「神様はすべての人に『平等』に接する」と思いますか?  「もちろん、そのはずです!」とお答えになる方が多いのではないかと思います。実際聖書には「神は良い人にも悪い人にも同じように太陽を昇らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださる」と書いてあります。  では次に、複数のお子さんをお持ちの方々、また学校の先生や保母として働いておられる方々ににお尋ねします。皆さんには『お気に入りの子供』という存在がいらっしゃるでしょうか?「そんなことはあってはならない」と思うかもしれませんが、実際は「あの子のひと言や笑顔に励まされる」という『特別な存在』がいることが多いのではないかと思います。  聖書には、英語で『God’s favor』(日本語では「神の恵み」と訳されていることが多い)という言葉が出てきます。これは通常日本語に訳せば「神のお気に入り」という意味です。つまり神にも「お気に入りな存在」があるのです。ではそれはどんな人たちなのでしょう。聖書によるならば、それは人間の側の能力や容姿などにはよらず、「心の姿勢」、すなわち「絶えず神を求め、神に近づこうとする人」に向けられています。  日本の文化や社会においては「出しゃばる者」は嫌われ、「出る杭は打たれる」ということわざもあります。しかし神様はむしろ、「もっと積極的にわたしを求めて近づいて来なさい!」と呼びかけておられるのです。神にとっては「遠慮がちにうつむいてモジモジしている人」よりも、「図々しいくらいに大胆にご自身に近づく者」を「わたしのお気に入り」として受け入れてくださるのです。  神は、ご自身にとって最も大切な存在であった『ひとり子キリスト』をも私たちの身代わりとして十字架の上に差し出してくださいました。そんなお方に対して「私になんかもったいないから結構です」というような態度は、かえって失礼に当たるのではないでしょうか?

(620) “あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは、忍耐です。”

 この半世紀のうちに『生活ペースの速さ』がどれほど変わったかには、目を見張るものがあります。私が小学生の頃、テレビのスイッチを入れてから画面がくっきり映るようになるまでには15秒くらいかかりました。恐らく今の若い人たちは1秒以上は待てないのではないでしょうか?もちろん「電子レンジ」などというものは存在せず、食べ物を温めるにはまずやかんでお湯を沸かし、そのお湯を使って温めるので、何十分もかかりました。  もちろん「便利になること」は良いことでしょうが、そのために失われてきている『大切なもの』があるのも確かです。その1つが『忍耐(待つ力)』です。ある人は「物事を成し遂げるのに大切なのは『努力(ハードワーク)』だ!」とおっしゃいますが、それだけでは「何か」が欠けています。大切なのは『たゆまぬ努力』、すなわち「努力し続けること」です。  ここに面白い統計結果があります。一般的に日本の学生は「数学の力」に優れていると言われますが、ある調査グループがアメリカ人と日本人の小学1年生を集めて「ちょっと難しいパズル」に挑戦させたそうです。結果としてパズルを解けた子供は1人もいなかったのですが、「あきらめるまでにどれくらい粘ったか」を測ったところ、アメリカの小学生たちは平均10分以下だったのに対し、日本人の小学生たちは15分程度粘ったそうです。幼い頃から培われているこの1.5倍の粘り(忍耐力)が、日本の学生の数学の力に影響を与えていると調査グループは発表したそうです。  天地万物の創造主であられる神は、『愛の神』であるのにもかかわらず、私たちが困難に直面するのを許されます。なぜなのでしょう?それはこのお方が意地悪だからではなく、私たちがそれらの困難を通して『忍耐』を学び、より優れた人格へと向上させるためではないでしょうか?  『即席』に惑わされることなく、「待つこと」を通して『忍耐』を培って行きましょう!

(619) “私のことばに耳を傾けてください。主よ。私のうめきを聞き取ってください。”

 皆さんは『お祈り』というものをしたことがあるでしょうか?私はクリスチャンになる前にも祈ったことのある記憶があります。でもそれらは全て「お願い」でした。「神様、私にOOをください。その次は~をしてください」といった感じです。  クリスチャンになってしばらくしてから、『祈り』とは単に「お願い」だけではないことが分かってきました。「感謝」「賛美」「告白」など、「神様に対しての語りかけ」は全て『祈り』と呼べるわけです。  聖書に登場する人物、特にダビデ王などは、よく神様に愚痴をこぼし、自分の命を狙う敵に対する呪いさえも口にしました。そして神はそれらのことばを黙って聞いていてくださったのです。  私たちは「神に祈る」という時に、つい「お利口さんな態度」で振舞ってしまいます。まあ日本人は礼儀正しい民族ですから、それはそれで良いのかもしれませんが、神様は私たちの心をご覧になる方ですから、カッコつけないで、正直で素直に心の内にある思いを口に出す方が良いのではないでしょうか?  今の時代は大変便利であると同時に、ストレスもとても多い時代です。仕事や人間関係から来るストレスで心にうっぷんが溜まり過ぎて、精神的に病む人も多いのではないでしょうか?そしてそれらのうっぷんを吐き出すために、高いお金を払ってカウンセリングを受ける人もいるのかもしれません。  良い知らせがあります!この天地をお造りになり、私たちをこよなく愛していらっしゃる神様は、私たちに「お行儀のよいお祈り」だけでなく、御前に来て「心に溜まったうっぷん」を吐き出しても良いとおっしゃるのです。そして神様は「優れたカウンセラー」として、それらの愚痴に黙って耳を傾けてくださり、私たちを責めることもなく、もう1度前に進んで行けるように癒してくださるのです。ぜひそのような『祈り』をもって神に近づいてみることをお勧めします!

(618) “2人は1人よりもまさっている。2人の労苦には、良い報いがあるからだ。”

 ある時、インド人の旅人の2人連れが雪深いヒマラヤ山脈を旅していました。すると旅の途中で雪の中に1人の人が倒れているのを見つけました。生死を確認してみると、かろうじて生きていることが分かったので、1人が「この人を担いで近くの山小屋まで連れて行って解放しよう」と提案しました。しかしもう1人が言いました。「それはできない。そんなことをしたらオレたちの命まで危うくなってしまう。可哀そうだが、この人は置いて行くしかない」。結局どちらも自分の考えを譲らず、片方はもう1人を置いて先に旅を続けて行きました。残された方は、何とか倒れていた人を背中に背負って、ゆっくりと雪の中で歩みを進めて行きました。  すると、しばらくすると思いがけないことが起こりました。自分の荷物の上に大人の男性を背負うのは大仕事だったのですが、身体を密着しているためか、自分の体がだんだん暖まってくるのを感じたのです。同時に相手の身体も徐々に暖まって行き、やがて気を失って背負われていた方の人が息を吹き返し、元気を回復して行きました。そして2人で身体を寄せ合いながら一緒に歩き始めたのです。  もう少しで山小屋に着きそうなところまで来た時、何とまた1人雪の中に倒れている人を見つけました。2人で生死を確認したところ、残念ながらもう息を引き取っていました。そして何と、その倒れている人は、2人を見捨てて先を進んだ、もう1人の旅人だったのです…  神は私たちを「1人ぼっちで生きる」ようにはお造りになりませんでした。時には「誰かと生きること」は面倒くさく感じることがあるかもしれません。しかし長い目で見る時に、すべての人間は「共に生きる誰か」を確かに必要としているのです。そして「一緒に生きる」時に、思いがけない意欲や新たな力が与えられます。神は私たちがそのようにして「共に生きる祝福」を味わうことを望んでおられるのです。

(617) “正しい人は7度倒れても、また起き上がる。”

 「失敗は成功の基」ということわざがありますよね?確かにその通りだと思います。我が家の子供たちがまだ幼かった頃、私はしばしば子供たちに、「失敗を恐れるな。何度失敗してもいいんだよ。実際『失敗』という呼び方はあまり良くない。『ラーニング・エクスペリエンス』と呼びなさい」と言ったものです。お陰でウチの子たちはそれぞれ、とてもユニークで何でもチャレンジする大人に育ってくれました。  一体『失敗』とは何でしょう?「思ったとおりに事が進まないこと」でしょうか?しかし実際には「やる事成すこと全てがウマく行く」なぁんてことはほとんどありません。もしそんな人がいたとしたら、きっと「人の弱さに同情することのできない、傲慢な人間」に育ってしまうのではないでしょうか。  神様は私たち人間を「活動する存在」として造ってくださいました。そして活動するからには「失敗や挫折」は付き物です。しかし『本当の失敗』は、失敗することを恐れて新しいことに挑戦しなくなってしまうことではないでしょうか?  聖書に登場するヒーローたち(モーセ,ダビデ,ペテロなど)は皆、大きな失敗や挫折を経験した人々でした。しかしそれと同時に、「そんな自分を決して見捨てることなく、支え、励まし、再び立ち上がらせてくださる神の働き」を経験したのです。神様は決して私たちの『失敗』を責めるお方ではありません。むしろ私たちが失敗した時こそ側に寄り添って、「もう1度今度は他のやり方で試してみよう!」と次の機会を与えて下さる方なのです。

(616) “わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛している人です。”

 イエス・キリストはその教えの中でしばしば『愛』について語り、また「神を愛するとは神の命令を守ることである」とおっしゃいました。きっとここである方々は考え込んでしまうのではないでしょうか。「『命令を守る』などという愛の形があるのだろうか?」と。  確かに人間同士の関係において、「どちらかがどちらかの命令を守るのが『愛』だ」などと言ったら、何だか封建的で誤解を招きそうです。しかし、「創造主なる神と私たちの関係」は決して『同等』ではありません。神の方が知恵においても力においても圧倒的に優っています。そのような間柄においての『愛』は、恋人同士のようなロマンティックなものではなく、むしろ「親子関係」のようなものかもしれません。  神は私たちに対して、「憐れみ」「一方的な恵み」「祈りに応える」というような方法でご自身の愛を表現してくださいます。では私たちはこのお方に対してどのように『愛』を表現できるでしょうか?それは『絶対的な信頼』を通してです。幼子が親に言われたことに対して、「ホントかな?」「どうしてなの?」「証明してみせて!」などという疑わしい態度ではなく、「お父さん(お母さん)がそう言ったんだから、間違いない」と従順に従う様子を目にする時、親たちはきっと「この子のためなら、どんなことでもしてあげよう!」と感じることでしょう。  神は良い方であり、私たち1人1人の最善を願い、また施してくださる方です。この方に信頼してその戒めを守り行うことによってこそ、私たちは『神に対する愛』を正しく表現できるのです。

(615) “罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。”

 上記の聖書のことばの中に2つのキーワードが出てきます。1つめは『報酬』です。これは分かりやすく言えば「当然の報い」。例えば「時給1000円で8時間働けば当然8000円もらえるはず」、これが『報酬』です。  もう1つは『賜物』、別の言葉で言えば「おもいがけないご褒美」。これは「特に受け取るにふさわしい理由がないのにも関わらず、相手のご好意によっていただけるもの」。例えば「時給1000円で8時間しか働いていないのに、気前の良い雇い主が1万円くれた」、これは『賜物』です。  聖書は「私たちはいのちの源である神に対して『罪』がある(的外れな歩みをしている)ので、当然の結果として『死』に至る」と教えています。ところがこの神はその憐れみの故に、「死に値する私たち」の『罪の代価』を、ひとり子イエス・キリストによって支払ってくださった。それ故、「この驚くべき神のみわざを自分のこととして信じる者は、『賜物』として『永遠のいのち』を神から受け取ることができる」と教えています。これがいわゆる、キリスト教の言う『福音(良き知らせ)』です。  私は大学生時代、20歳の時に初めてこの『福音』を聞き、そしてその場で信じました。それから40年以上経ちましたが、神が与えて下さったこの「永遠のいのち」は、今日も私の中に息づいて、この『福音』を他の人々にも伝えずにはいられない気持ちにさせてくれているのです!