(634) “私たちの大祭司(キリスト)は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。”

 『神』という方は「感情を持たずに機械的に物事を運営する存在」というように考えている方がいるかもしれません。しかしそれはとんでもない間違いです。聖書は「神は人をご自身に似た者としてお造りになった」と述べています。ということは、神様は私たちの想像以上に「情緒豊かな存在」に違いありません。但し、私たちのように「感情的になり過ぎてつい失敗を犯す」というようなお方でもありません。もしそうだとしたら、恐らく人類は今日まで生き残れなかったことでしょう。  神は私たちの『喜怒哀楽』を楽しまれます。そのような存在として私たちを創造されたのですから。神は私たちが喜び踊っている時、共に心を躍らせておられます。私たちが悲嘆に暮れている時、共に心を痛めておられるのです。時には私たちは苦しみのあまり、神をののしったり暴言を吐いたりするかもしれません。そんな時も神様は、じっと私たちを見つめて、その思いの丈を受け止めてくださっているのです。  神にとって最も辛いことは、私たちからののしられることではなく、『無視』されることです。ですから、たとえ私たちが神様を「怒りのはけ口」のように扱ったとしても、私たちを歓迎し、それらの思いを受け止めてくださるのです。そして、もし私たちが神への信頼の故に自分の「悲しみ・苦しみ・嘆きや思い煩い」を携えて御前に近づいて行くなら、神ご自身にしか与えることのできない「慰め・癒し・平安」を注いでくださり、またそれらの試練を乗り越えて生きる力を与えて下さるのです。

(633) “自由をもたらす完全な律法を一心に見つめて、それから離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならず、実際に行う人になります。”

 『ルール』というと、「大切なものだけど、何となく不自由さを感じる」というイメージがあるのではないでしょうか?確かにそういった面もあるかもしれませんが、実際は正しい『ルール』が無い方が、私たちはずっと不自由になるのです。  例えば「交通ルールなんて面倒だ。どうして赤信号でいちいち停まらなければならないんだ!」といって皆が信号無視をしていたら、たちまち混乱が起きて多くの人々が時間通りに目指していた場所へ到着できなくなります。またほとんどのスポーツは、正しいルールや決められた白線に沿ってプレーしなければ、選手も観衆も楽しむことができません。『ルール』は本来私たちを「縛る」ためではなく、「自由にする」ためのものなのです。  聖書の中には、現代社会の法律の基礎となっている多くの『原則』があります。「殺してはならない」「盗んではならない」「姦淫してはならない」「親を敬え」などなど。これらの『ルール』は、神が私たちを「不自由にしよう」という意地悪な心で定められたものではなく、むしろ深い愛をもって、私たちが「自由で豊かな人生を生きるため」に与えてくださったのです。  神の愛と誠実さに信頼し、聖書で教えられていることに忠実に従って行く時、私たちは神の祝福と守りの中で、自由で豊かな人生を生きることができるのです!

(632) “イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」”

 この全宇宙をお造りになられた『創造主なる神』は、私たちをもお造りになられた力に満ちたお方であり、しかも私たちをありのままで深く愛し慈しんでおられます。このお方にしっかりとつながって生きる人生は愛と平安に満ち、この方と無関係に生きようとするなら、しばらくはそれなりに楽しめても、結局無秩序で平安も希望もないという窮地に陥ります。では、一体どのようにして私たちは「神との関わりの中で」生きることができるのでしょうか?  イエス・キリストは人々に多くのことを教えられましたが、「あれが道だ、あそこに真理がある」などとは言わずに、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのだ。わたしを通してでなければ誰も父(神)のもとに行くことはできない!」とおっしゃいました。私たちはイエス・キリストを通して『神との関係』に招き入れられるのです。  イエス・キリストは地上の人生において、「神へ至る道」だけでなく、「神とはどういうお方なのか」をも、ご自身の生き様を通してお示しになられました。そしてその生涯の終わりに、私たちと神とを隔てる壁となっていた「私たちの不信仰の罪」の清算として、ご自身のいのちを十字架の上で犠牲にされ、私たちのために「神に至る道」を開いてくださったのです。このイエス・キリストを「私のために神との関係に生きる道を開いてくださった救い主」として個人的に受け入れるなら、その瞬間から「神の子どもとされる特権」が与えられ、『全宇宙の創造主とつなげられた人生』を歩み始めることができるのです!

(631) “すべてのことには定まった時期があり、天の下のすべての営みに時がある。”

 ある人がこんなお祈りをしたそうです。「神様、どうか私に『忍耐』を与えてください。今すぐに!」  私は、この手のタイプの祈りはなかなか叶わないのではないかと思います。何故なら神様は私たちの内側に『忍耐』を育むための最善の方法をよくご存じだからです。それは私たちが『待つこと』を学ぶことです。  現代はスピード時代です。私が若かった頃と比較して、「待つこと」が格段に減っています。生活が便利になり、物事がスムーズに進むことになったのは良い面がたくさんありますが、かといって私たち人間が「1秒先のことも分からない」という事は少しも変わっていません。私たちは先を急ぎ過ぎることなく、与えられている『今』をもっともっと大切にするべきではないでしょうか?  神様は私たち1人1人に「ユニークで最適なご計画」(自分を最高に活かすための道)を持っておられ、私たちの誰よりも、私たち1人1人がそこに辿り着くことを望んでおられます。だから急ぎ過ぎたり焦ったりすることなく、神様が目の前に与えて下さっている課題に全力で取り組むべきです。私たちはしばしば順境の中よりも逆境の中でこそ多くを学びます。だから「どうして神様は私をこんな試練に遭わせるの?」と愚痴ることなく、「ここに神様の最善がある」と信じて、その試練を通して神様が学ばせようとしておられることをしっかり受け止めましょう。  私たちは様々なコマーシャルに踊らされて「より安くより簡単に」手に入れるようにと教育させられてしまう傾向にありますが、そうではなく『より長持ちする価値あるもの』を獲得するために、「神様は今私をどのような季節に置いてくださっているのだろう?」と問いながら、今日1日をじっくりと歩んで行きましょう。

(630) “いつまでも残るのは、信仰と希望と愛です。”

 あなたにとって「生活必需品」とは何ですか?私が生まれた昭和の時代の「生活必需品」は、「テレビ・冷蔵庫・洗濯機」でした。恐らく今の時代「日々の生活で無くてはならないもの」と言えば、真っ先に『携帯電話』が挙げられるでしょうね。時代も変わったものです。  では、あなたにとって「人生に欠かせないもの」とは、何でしょう?これもやはり『携帯電話』だというなら、少々悲しい気がします。「人生に欠かせないもの」の多くは「目に見えないもの」です。『希望』『平安』『愛』『生きがい』など、人々の心を満たし、癒し、また元気づけるもの。「自分にはそれがある!」と確信を持って言い切れる人は幸いですが、そのような人は恐らくごく少数ではないでしょうか?  これらの「人生に欠かせないもの」は、お金や努力によって手に入るものではなく、『失われることのない確かなもの』とつながることによって生まれるものです。そしてその『失われることのない確かなもの』とは、この全宇宙を創造され、私たちをこの世界へと生み出してくださった『創造主なる神』です。このお方を「私の神」として人生に迎え入れる時、私たちは人生の本来の意味や目的を見出し、またその意味・目的を実現する力や励ましを受けながら生きることができるようになるのです。

(629) “人がひとりでいるのは良くない。わたしは人のために、ふさわしい助け手を造ろう。”

 アメリカでの話です。ある会社の代表取締役が奥さんと車で地方を旅行していました。ガソリンが少なくなってきたので、道端にあったひなびたガソリンスタンドに立ち寄り、ガソリンを入れてもらっている間に店の中に入り用のものを買いに行きました。店から出て来ると、何やら妻がガソリンスタンドの労働者と親しげに話しているではありませんか。  車で走り出した後、夫が妻に「知り合いなの?」と尋ねると、妻は「実は学生時代にお付き合いしてた人なのよ」と答えました。そこで夫は「そうかそうか、じゃあ別れて良かったな。そうでなければ、キミは『代表取締役の妻』ではなく、ガソリンスタンドで働く男の妻になるところだったじゃないか!」と得意げに言いました。すると妻はあっさり次のように答えたのです。「あら、もちろんアナタと結婚したのは良かったけど、もし彼と結婚していたら、きっと彼が代表取締役になっていたと思うわ。」  聖書によると、神は初めにアダムという男性を造り、他の動物たちの中に彼のためにふさわしい助け手を見出さなかったので、敢えてエバという女性を造ったとあります。すなわち、女性(妻)以上に、男性(夫)にふさわしい『助け手』は存在しないのです。家庭においてしばしば「女性の最大の役割」は『母親』としてしっかり子育てすることのように言われます。確かにそれもとても大切ですが、「母親としての使命」よりも更に優れて大切なのは、『妻として夫を支え助けること』なのです。それは何も「男性の方が女性よりも優っている」というようなことではなく、「役割分担」です。男性は「神の前に、委ねられた使命を全うすること」によって最高級の喜びと満足を味わうことができ、女性は「『妻』として、夫が神から委ねられた使命を全うすることができるように、常に夫を支え励まし助けること」によって、やがて夫が神からの使命を見事に成し遂げることができた時に、夫と共に「この上もない喜びと満足」を経験することができるのです。  「神に造られた本来の目的に沿って生きる」。残念ながら、このような人生を送れている人は多くないように思いますが、これを読んでおられる方々が、(私がそうであるように)神から与えられた『自己最高の人生』に生きる喜びを体験することができるようにと、心からお祈りしています。

(628) “何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って、心配しなくてよいのです。”

 『杞憂』という言葉をご存知でしょうか?「心配しても仕方ない事を思い煩うこと」を指して使います。古代中国の「杞の国」のある人が「もし天が落ちてきたらどうしよう?」と心配して夜も眠れなかったという出来事に由来しています。  考えてみると『思い煩い』のうちのほとんどは「心配しても仕方ない事」ではないでしょうか?そもそもそれらの多くは「自分ではどうしようもないこと」です。たとえ心配したところで、自分ではどうしようもないのですから、心配するだけ無駄です。むしろ『心配事』は時には私たちの健康さえ害するのですから、まさに「思い煩いは百害あって一利なし」です。  また、もしその『思い煩い』が「自分で何とかなること」(例えば「来週のテストをどうしよう…」とか?)ならば、思い煩っている暇があれば、適切な行動を起こせば良いのです。  イエス・キリストは人々に教えて、「咲いてもたった数日で枯れてしまうような野の花さえ、神はあんなにも美しく装ってくださるのだから、ましてや愛する人間たちに良いものを備えてくださらないはずがない」と教えました。言わば、私たちが「思い煩う」のは、私たちの心が『創造主なる神様』から離れてしまっているからです。  神は、ご自身と私たちとの「不信仰の罪によるギャップ」を、ひとり子イエス・キリストの十字架における代償によって埋めてくださいました。それほどまでに私たち人間を愛しておられる方が、私たちに良くしてくださらないわけがないのです。私たちに必要なことは「思い煩うこと」ではなく、「これほどにも愛してくださっている『父なる神』に信頼し、敬うこと」なのです。

(627) “自分の日を正しく数えることを教えてください。”

 ある人がこんな夢を見たそうです。目の前に天使が立ち、「神様が毎朝あなたの銀行口座に1440ドルを振り込んでくださいます。あなたはそれを好きな事に使うことができます。但しそれは貯めておこうとしても翌日まで持ち越すことはできないので、その日のうちに使わなければなりません。そして翌朝にはまた新しく1440ドルが振り込まれます」と言われたのです。  この人は不思議に感じながらもとても喜んで、翌朝目が覚めると自分の銀行口座を確かめてみました。ところがそのような金額は全く振り込まれた形跡がなく、ガッカリして神様に祈りの中で文句を言ったそうです。すると神様からお答えがありました。「1ドルを1分に換算してごらん。わたしはあなたに毎朝24時間、すなわち1440分を与えている。あなたはこの時間を自分の好きなように使うことができるんだよ。」  私たちはそれぞれ、能力や姿かたち、財産などは1人1人異なっていますが、時間だけは全員に等しく1日1440分ずつ与えられています。私たちはこの1440分を自分の好きなように使うことができます。こんなことを言った人がいます。「『時間』というものは、神様から私たちへの素敵な贈り物である。そしてその『時間』をどう使うかによって、私たちは神様へ素敵な贈り物を捧げることができるのだ」と。

(626) “すべてのことにおいて感謝しなさい。”

 最近、原因不明で治療法の無い『運動神経麻痺』に冒されてしまった1人の牧師の手記を読み、大変感銘を受けたので、その1部をここに抜粋したいと思います。  「現在の自分の体の状況を思う時、神に感謝できないことがたくさんある。まず、自分でシャツのボタンを留めることができない。分厚くて重い上着はもう着ることができない。そもそも服を着るために右手を頭の高さまで上げることさえできない。文字を書くこともできなくなったし、右手では食べることもできなくなった。仕方なく不器用な左手で食べているのだが、最近ではそれさえもおぼつかなくなってきた。そしてそのように『段々とできなくなってきている事』がたくさんあるのだ。それでは一体現在の私に、何か『神に感謝できること』があるだろうか?そう考えてみたら、実にたくさんあることが分かった!主よ、今朝も目覚めさせてくださってありがとうございます!まだ寝返りが打てることを感謝します!寝床から起き上がれることを感謝します!そしてトイレまで歩いて行けること、また何とか自分で歯を磨けることもありがとうございます!朝食を食べることができて、何とか自分で着替えることができること、そして自分で運転もできることを感謝します!歩くこともできるし、誰かとしゃべることもできるし… もうこうして挙げていったらキリがない!このような境遇に陥ったことで、神は私に『できないこと』ではなく、『できること』に思いを向けることを教えてくださった。神が与えて下さっている『小さな喜び』をたくさん見つけることを私は日々教えられているのだ。」  あなたが、今日「神に感謝できること」は、何ですか?

(625) “天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。”

 日本ではようやく暑さの峠を越えた頃でしょうが、南半球のこちらクライストチャーチでは、桜が見頃を迎えています。  考えてみると、日本からニュージーランドに来て『創造主なる神』に気付く方々が多いようです。恐らくその大きな理由の1つは「美しく壮大な自然」に触れることが多いからではないでしょうか。ニュージーランドでの生活は、時間がゆったりとしているのに対し、レジャーがそこまで多くないので、そこらじゅうにある『遊歩道』や『自然公園』をのんびりと歩く機会が多く、そこで様々な美しい花々や小動物たちを見かけます。また、日本のように夜のネオンサインが激しくないので、星空も美しく、また車で1時間も走れば、壮大な山々や湖を眺めることもできます。それらの「神の被造物」を見る時に、『創造主なる神』を肌で感じ、またその神の美的センスや優しさを思い浮かべて、この方の御手に身をゆだねて生きて行きたい、という気持ちが芽生えるのではないでしょうか?  しかも聖書は、「神はこの天地を造り、そしてその中でも最高傑作品として、私たち人間をお造りになった」と教えています。これらすべての「美しい大自然」にも優る存在として、神は私たち1人1人を創造され、そして慈しんでおられます。自分を卑下したり、粗末に扱ったりせずに、「神に造られた傑作品」として1日1日を全力で生き、『神の栄光』を表現する人生を歩んでいきたいものです。