(616) “わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛している人です。”

 イエス・キリストはその教えの中でしばしば『愛』について語り、また「神を愛するとは神の命令を守ることである」とおっしゃいました。きっとここである方々は考え込んでしまうのではないでしょうか。「『命令を守る』などという愛の形があるのだろうか?」と。  確かに人間同士の関係において、「どちらかがどちらかの命令を守るのが『愛』だ」などと言ったら、何だか封建的で誤解を招きそうです。しかし、「創造主なる神と私たちの関係」は決して『同等』ではありません。神の方が知恵においても力においても圧倒的に優っています。そのような間柄においての『愛』は、恋人同士のようなロマンティックなものではなく、むしろ「親子関係」のようなものかもしれません。  神は私たちに対して、「憐れみ」「一方的な恵み」「祈りに応える」というような方法でご自身の愛を表現してくださいます。では私たちはこのお方に対してどのように『愛』を表現できるでしょうか?それは『絶対的な信頼』を通してです。幼子が親に言われたことに対して、「ホントかな?」「どうしてなの?」「証明してみせて!」などという疑わしい態度ではなく、「お父さん(お母さん)がそう言ったんだから、間違いない」と従順に従う様子を目にする時、親たちはきっと「この子のためなら、どんなことでもしてあげよう!」と感じることでしょう。  神は良い方であり、私たち1人1人の最善を願い、また施してくださる方です。この方に信頼してその戒めを守り行うことによってこそ、私たちは『神に対する愛』を正しく表現できるのです。

(615) “罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。”

 上記の聖書のことばの中に2つのキーワードが出てきます。1つめは『報酬』です。これは分かりやすく言えば「当然の報い」。例えば「時給1000円で8時間働けば当然8000円もらえるはず」、これが『報酬』です。  もう1つは『賜物』、別の言葉で言えば「おもいがけないご褒美」。これは「特に受け取るにふさわしい理由がないのにも関わらず、相手のご好意によっていただけるもの」。例えば「時給1000円で8時間しか働いていないのに、気前の良い雇い主が1万円くれた」、これは『賜物』です。  聖書は「私たちはいのちの源である神に対して『罪』がある(的外れな歩みをしている)ので、当然の結果として『死』に至る」と教えています。ところがこの神はその憐れみの故に、「死に値する私たち」の『罪の代価』を、ひとり子イエス・キリストによって支払ってくださった。それ故、「この驚くべき神のみわざを自分のこととして信じる者は、『賜物』として『永遠のいのち』を神から受け取ることができる」と教えています。これがいわゆる、キリスト教の言う『福音(良き知らせ)』です。  私は大学生時代、20歳の時に初めてこの『福音』を聞き、そしてその場で信じました。それから40年以上経ちましたが、神が与えて下さったこの「永遠のいのち」は、今日も私の中に息づいて、この『福音』を他の人々にも伝えずにはいられない気持ちにさせてくれているのです!

(614) “神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、1人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。”

 聖書は2000ページ以上もある分厚い書物(新約聖書だけなら500ページくらいですが…)なので、なかなか「読んでみよう!」と思い切れない、また仮に読み始めたとしても完読できない書物ではないでしょうか?そこで今日は『聖書のエッセンス』とも言えるお話をしたいと思います。  多くのクリスチャンたちが「この聖書箇所は、聖書の全体像をうまく言い当てている」と同意する1つのことば、それが冒頭に掲げた[ヨハネの福音書3章16節]という箇所です。「神は『世(人々)』を愛しておられる。その愛の故に『ひとり子(イエス・キリスト)』をこの世に送り、その『不信仰(神に対する不従順)』の故に「死とさばき」に定められた私たちの身代わりとされ、代わりに私たちが『永遠のいのち(神との関係の中で豊かに生きるいのち)』を持つことができるようにされた。」 これが聖書の中心メッセージです。  世界の中心(主人公)は『自分』でも『人間』でもありません。世界の中心は、それを形造られた『創造主なる神』です。そしてその『神』は私たち人間を「特別な存在(神との関係の中に生きるもの)」として造られ、こよなく愛し、心にかけてくださっているのです。ところが私たち人間はそんな『神』の存在を見失い、自分勝手に、いかにも「自分こそ世界の中心」であるかのように歩み始めました。この「神に背を向けて生きること」を聖書は『罪』と呼んでいます。そして「いのちの源である神」に背を向けて生きる道は、そのまま『永遠の死』へと向かうのです。  そんな私たちの「不信仰な歩み」を、もう1度修正する機会を与えるために、『神の子イエス・キリスト』はこの世に来られ、私たちの「罪の報い」を十字架上で身代わりに背負い、信じる者に『永遠のいのち(神との関係の回復)」を与えて下さるのです。

(613) “主を恐れることは知識の初め。”

 私の住むクライストチャーチは、現在「建築ブーム」です。我が家から歩いて10分の範囲で少なくとも5件以上の家(というか集合住宅)が建築中です。恐らくこの数年間で数千世帯分の建物が建てられたのではないかと思われます。  私は毎朝犬の散歩をするので、これらの「建築現場」を毎日目撃します。そして1つ分かったことは、大工さんたちは『土台』を据えるのに大変長い期間と労力を費やすということです。この時期は現場の前を通ってもちっとも変化がなく、「本当に工事が進んでるのかな?」と疑いを持ちそうになってしまいます。  ところがこの『土台』が完成すると、建築作業は目に見えてはかどって行き、みるみるうちに立派な建物が出来上がって行くのです。この時期は現場の前を通るのが楽しみになります。日々工事が進んでいるのを確認できるからです。しかしこの「目に見えた作業の進展」は、その前の「土台を据える」という時間のかかる地道な作業があったからこそ実現するわけです。  現代に生きる私たちは、「見える形で物事がドンドン進んで行くこと」を強く求めるがあまり、「土台を据える作業」をおろそかにしてしまう傾向があるのではないでしょうか?『インスタント』という言葉は50年前には知られていなかったと思いますが、今では至る所で使われています。「より早く、より効率的に、より便利に」が求められている中で、「じっくりと時間をかけて頑丈な土台を据える」という行程はモタモタしているようで人気がありません。しかし「より丈夫で長持ちするもの」を生み出すには、時間や手間ひまがかかるものなのです。  この全世界・全宇宙を創造され、その創造物の中の「最高傑作である私たち人間」を深く愛し慈しんでおられる『神』を正しく知り、恐れること、これは正に私たちの『人生の土台』と言えるのではないでしょうか?「神様なんて目に見えないし、よく分からないから必要ない。もっと分かりやすくて手っ取り早いものが欲しい!」と、目先の便利品やSNSなどで得た情報で日々の生活をとりあえず凌いでいくこともできるでしょう。でもそんな風にして建て上げた人生は決して長続きせず、困難に遭遇した時に簡単に崩されてしまいます。そうではなく、創造主なる神を知り、このお方との関係の中で生き始める時、私たちは変わることのない平安や希望そして強い確信をもって、堅固な土台の上に人生を建て上げて行くことができるようになるのです。

(612) “私たちは、この宝を土の器の中に入れています。”

 『過労死』なる言葉が使われて久しいですね。どうしてこのような悲劇が起こってしまうのでしょうか?恐らく1つの原因は「『しなければならない』と思っていることのために、自分自身を酷使しすぎてしまう」ということなのでしょう。本当に「しなければならない」のは、『自分自身をもっと大切にすること』なのに…  私たちはしばしば『自分の身体』というものを過信しすぎたり、軽んじてしまったりしているのではないでしょうか?「自分のものを自分の好きに使って何が悪い!」というのが、これらの人々の言い分なのかもしれません。では『妊婦さん』はどうでしょうか?妊婦さんたちが自分の身体を酷使しそうな様子を見て、周囲の人が「自分の1人の身体じゃないんだから…」といたわりの言葉をかけることがあります。そう、彼らは「生まれ来るかけがえのない命」をその身に宿しているのです。  実は聖書は私たちも「かけがえのないものを宿している」と言います。それは「神が私たち1人1人に与えた『神のかたち』」です。私たちの肉体自体は「地のちりから造られ、地のちりに返る存在である」と述べられていますが、そんな「土の器」の中に『かけがえのない宝』を宿している。だからこそ、私たちはこの身体をいたわるべきなのです。  聖書の別の箇所には、「私たちの体は『神の霊』を宿した『神の神殿』である」とも書いてあります。神こそが、私たち1人1人の『真価』を知っておられます。そして私たちは「妊婦さんたち」のように、「この身体は自分だけのものではない!」という自覚をもって、決して自分の身体を粗末に扱うことなく、神の前にも人々の前にも恥じることのない人生を歩むことが求められているのです。

(611) “光は闇の中に輝いている。”

 1カ月ほど日本に一時帰国してきました。今回の一時帰国中の一大イベントは「93歳の義父を、憧れの北海道へ連れて行く」というビッグプロジェクトでした。ただこの義父は少々気難しいので、しばしば私たち夫婦の労の甲斐もなくガッカリさせるようなことばかり言うので、今回も少々思い心持ちで出発しました。  私たちの夫婦の実家は栃木県宇都宮市にあります。本来なら飛行機で飛んでいくのが安くて手っ取り早いのですが、空港まで行く手間を考えると、幸い宇都宮には新幹線が停まりますし、北海道(函館)まで新幹線が開通したので、「函館だって『北海道』に変わりはない!」ということで、3人で新幹線で函館に向かうことになりました。(ちなみに義父はシーフードには全く興味がありません!)  さて、新幹線で「新函館北斗駅」に到着すると、早速レンタカーを借り、天気も良かったのでその足で『五稜郭』へと向かいました。残念ながら桜の季節ではなかったので、そこまで息を吞むような景色ではなかったのですが、それでもタワーからの眺めは素晴らしかったです。肝心のお父さんの反応も「いやぁ、キレイだねぇ」という感じで、夫婦で胸をなでおろしました。  ところで皆さんご存知でしたか?函館の夜景は、何と『世界3大夜景』の1つとして有名なんですよ!というわけで、2日目の夜にその夜景を観に「函館山ロープウェイ」を使って展望台まで行きました(スゴイ混みようでした!)。5月中旬だというのに山頂は10度以下まで冷え込み、寒がりのお義父さんは「寒い、寒い」と言っていましたが、ともかく展望台の端まで行って眺めると、いやぁ確かに見事な眺めでした。建物のイルミネーションと、海の暗闇が良い対称をかもしだしていて、何とも言えない光景でした。そして肝心のお義父さんの感想は…、「何だか暗くて景色が良く見えないなぁ。また昼間に出直した方が良さそうだね」(泪) お義父さ~ん、今日は「景色」じゃなくて、『夜景』を観に来たんだってばぁ~!  ところで、人生にも『暗闇』のようなシーズンがありますよね?そんな時は「神様、どうしてあなたを信じて生きているのに、こんな暗闇を味わわせるんですか!」と文句を言いたくなるかもしれません。でもこの美しい『夜景』を観ながら、「神様の光は『人生の暗闇』でこそ、更にハッキリと現されるのだろうなぁ」と感じさせられたのです。

(610) “神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。”

 今日の聖書の言葉は、多くのクリスチャンの方々によって親しまれている箇所です。何故なら、この世において真摯な心でキリストに従って行こうとするなら『試練』は避けて通ることができず、そのような時にはつい「神様どうしてこのように辛いことが私の身に起こるのですか?」とつぶやかずにはいられないものなので、「すべてのことがともに働いて益となる」と聞くと、「ああ、きっといつか『このことがあって良かった』と感じられる時が来るのだ」と信じることができ、慰められるからです。  ただ、この聖書の言葉の1つの落とし穴は、「すべてのことがともに働いて益となる」と聞くと、私たちはつい「しんどい出来事の後には、神様は必ず楽しいことや嬉しいことを成し遂げてくださる」と考えてしまうということです。そのため、いつまで経ってもそのような「楽しく嬉しいこと」が起こらないと、「こんな神様を信じていても少しも得になることはない。や~めた!」と神様に背を向けてしまうことになりかねません。  この聖書の言葉は、「人間的視点」ではなく、『神の視点』で読み取るべきです。私たちの地上における歩みにおいて、真の意味での『益(英語では『Good』)』とは、単に「得をする」ということではなく、「キリストに似た者となること」です。神は私たちの人生の日々の歩みの中に、いつも必ず私たちを「キリストのように造り変える」ための要素をちりばめてくださっているのです。そして多くの場合それらは『試練』という形をとって訪れてきます。それらの『試練』は、私たちの性質や考え方から「神の国にふさわしくないもの」を取り除く役割を果たそうとします。そのような時に神の前にへりくだり、素直な心で「握りしめていた古い習性を手放す」時に、私たちの内に『キリストの心』が形造られて行くのを体験するのです。

(609) “もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。”

 キリスト教の暦では、今週は『イースター(キリストの復活を記念する祭り)』の週なので、それにちなんだお話を少し。  『死』と言えば、誰にとっても「暗く否定的な気持ち」をかもし出す言葉ではないでしょうか?日本人にとっては『4』という数字は「シ」と発音するので『死』を連想させるため敬遠されますよね?実は私がクリスチャンになったきっかけも、この『死』また「キリストの復活」が大きな意味を持っているのです。  私は小学生時代に、何と4回も「身近な人の死」の経験をしました。祖父や担任の先生、そして6年生になったばかりの4月1日には親友をバスの事故で失いました。ですから私にとって『死』とは、遠い将来にやってくるものではなく、突然いつ襲って来るかも分からないリアリティを持っていたのです。この『死』というものは、善人にも悪人にも必ずやってくる「どうしても避けられないもの」であることが本当に恐ろしく、また憎らしい存在でもありました。  ところが、大学1年生の時に、あるクリスチャンの同級生から「歴史上唯一、この『死』を打ち破りよみがえられた方がいる」と聞いて、一体誰なのか、そして何故そんなことが起こったのかをどうしても知りたくなりました。そしてそれが『イエス・キリスト』であり、彼が『神の子』として地上で「罪のない人生」を送り、しかも「私たちの罪を身代わりに負って十字架で死なれ、3日目によみがえられた」ということを知ったのです。その上になんと、この唯一『死』を打ち破られてよみがえられたイエス・キリストを「自分自身の罪をも身代わりに負ってくださった方」として受け入れるなら、私も「死の向こう側の希望」を持って生きることができると聞き、その場でこの方を『私の救い主』として受け入れました。もう40年以上も前の事になりますが、今でもこの時のことを鮮明に覚えています。この日から私の人生観は大きく変わり、また変わることのない平安に満たされて生きるようになりました。そして私は大学卒業後教会で働き始め、30年以上「牧師・宣教師」として働いています。  同じことが、あなたの人生にも起こるのです!もしあなたがこの「死を打ち破りよみがえられた『イエス・キリスト』」を、あなたに「死の向こう側の希望を与える『救い主』」として信じるなら、あなたは救われ、死を恐れることなく、決して失われることのない平安を持って生きられるようになるのです!

(608) “あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。”

 「人が生きるのに欠かせないもの」と言ったら何でしょう?私たち家族は宣教師として南国の孤島で暮らしたことがあるので、『水』が生活するためにどうしても欠かせないことは身に沁みて知っています。他にも必要な栄養を取る『食物』ももちろん必要ですし、それらを育てる「日光や雨」そして「酸素」も必要です。また、これらの「身体を養う要素」の他にも、「心を分かち合う仲間」「愛情や思いやり」「身の安全や心の平安」といった「精神を養う要素」も欠かせません。  では一方で、「人が健康に生きるのを妨げるもの」と言えば、どんなものがあるでしょうか?「毒物」「猛獣」「害虫」といった類や、「火事」「自然災害」などの物理的な脅威の他に、「暴力」「戦争」「いじめ」「病気」「思い煩い」「うつ病など精神的な病」なども挙げられます。  こうしてみると、この2つの相反するカテゴリーのうちに、1つの共通点を見出すことができます。それは「私たち人間にはどうすることもできないもの」、もしくは「何とかできそうなのに、人としての弱さのゆえにどうしても解決できないもの」という点です。「大切だと分かっているのに、継続して努力できない」「自分ひとりが抵抗しようとしたところで、焼け石に水」「差し当って今の自分の生活は何とかなっているので、あまり深く考えないようにしている」などなど。突き詰めて考えれば物凄く大切な事柄であるのにも関わらず、それらの実際的な解決のために活動を続けるには、私たちはあまりにも無力です。  『聖書』は、そんな私たちのために『創造主である神』が与えてくださった、いわば「人生の取り扱い説明書」です。私たちが新しく電化製品を買うと、必ず『取扱説明書』が付いてきますが、大抵の場合私たちは必要最小限のページ(「クィック・スタート」のような…)をチラッと見ただけで、すぐに製品を使い始めてしまいます。そしてほどなく思うように動かなくなって、初めてこの説明書をもう1度しっかりと読もう(または、サッサとあきらめて新しい物を買おう?)とするのです。  同じように、私たちは『創造主である神』を知らずに生まれて来て、何となく自分の知恵や力で生きているうちに壁にぶち当たり、「もし神様がいるなら、どうしてこんなことが起こるんだ!」と文句を言いますが、実はそのような『人生の壁』こそが、神が私たちを「人生の取扱説明書」である『聖書』、そして『創造主』であるご自身の許へと招いておられる時なのです。

(607) “人を恐れると罠にかかる。しかし、主に信頼する者は高いところにかくまわれる。”

 私たち夫婦は一緒にドラマを観るのが好きで、特に韓流ドラマをよく観ます。すると大抵ストーリーの中で主人公が自分を守ろうとしてその場しのぎのちょっとした『嘘』をつき、その時にごまかしたことを正当化するために、また別の『嘘』をついて、そうこうしているうちに『嘘』が雪だるま式に膨れ上がって行って、やがて窮地に立たされる場面が登場します。  私たちの人生にも同様なことが起こることがあります。誰かに問い詰められた時、反射的に自己防衛本能が働き、つい心にもない『嘘』をついてしまい、そのまま引っ込みがつかなくなって、その嘘を正当化するためまた別の『嘘』をついてしまう。そうやって「親子関係」「夫婦関係」「友人関係」などの大切な人間関係を壊してしまうのです。  このような傾向は実は子供の頃から身に付くものです。というのは、親なら誰でも自分の子供が「立派で正しい人間」に育って欲しいと思いますから、それなりに厳しく育てますよね?危ないことや誤ったことをしようとした時には叱り、時には体罰を与える時もあるでしょう。もちろん子供たちはそのような経験を通して「してはいけないこと」を学ぶと思いますが、人間ですから「やりたいことを我慢できない時」もあります。そうしてつい親に叱られるようなことを(親に見つからないように)してしまった時、親が「これをやったのはだぁれ?」と訊かれても、「自分じゃない」と『嘘』をつくわけです。そしてそれが徐々に習慣になってしまうことが少なくありません。  ところで、人は誰かから言われるよりも、自分で痛い目に遭った方が深く学ぶものだと思いませんか?そしてふと立ち止まって考えてみると、親が禁止していることを子供がしてしまった時にただ厳しく叱るよりも、子供たちに敢えて失敗させて自分で痛い目に遭わせる方が効果的な教育になることが結構多いことに気付きます。実は私も親にそのようにしつけられて学んだ教訓が多くあります。  神様はしばしば私たちが『人生の試練』を経験するのを許されます。それは神様が意地悪だからではなく、そのようにして私たちが日々学び、成長することを願っておられるからです。そして神様は、私たちが「人の目を恐れて引っ込み思案に生きる」のではなく、「神に信頼して大胆に行動し、また時には失敗を通して学ぶ者」となるように願っておられるのです。