(36) もしまだ見ていないものを望んでいるなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。

何か新しい技能や資格を身に付けようと思ったら、訓練の期間が大抵は3年くらいかかります。そしてその取得した技能を生かして、きっと30年くらいは活動することができるでしょう。興味深いことに、イエス・キリストの場合はそれが全く逆でした。というのは、彼は生後30年間はその家族の許で仕えつつ公の働きのために備え、後の3年間だけ公に活動して、それから天にお帰りになったからです。 ここから私たちは何を学び取ることができるでしょう?それは、「質の高い働きをするためには、それだけ中身の濃い準備期間が必要とされる」ということです。優れたピアニストは、そのリサイタルのために何百時間もの練習時間を費やすそうです。また、ボクシングのチャンピオンは何も「リングの上の闘いの中」から生まれるのではなく、「日々の生活の中での鍛錬」から生まれるのです。 『インスタント性』が求められる現代、私たちはしばしば「立ち止まって自分の人生のことをじっくり考える」時間を惜しみ、ただ周囲のスピードに押し流されるようにして時を過ごしがちです。しかしちょっと立ち止まって見回してみるならば、そこにはあなたを成長させてくれる出来事や人々が満ちています。慌てて見過ごしてしまうにはあまりにももったいないとは思いませんか? 神様はいつでもあなたのために最良の環境を備えてくださっています。それは必ずしもあなたにとって心地よいものではないかもしれません。しかしそれはあなたを「甘やかせる」ためではなく、かえってあなたが「持っている可能性を最大限に引き出す」ための絶好の機会となるはずです。もしあなたが立ち止まって、それを受け取る準備をしてさえいるならば…

(35) 彼らが自分たちの間で自分を量ったり、比較したりしているのは、知恵のないことなのです。

「人生成功の秘訣」は、必ずしもその人の能力や学歴によるとは限りません。優れた業績を残した『ニュートン』や『アインシュタイン』は学生時代落ちこぼれでした。では「人生の成功」に欠かせない要素とは一体何でしょう?それは、次の質問にしっかりと答えることから始まります。「私はたった1度きりの私の人生を通して、一体何をやり遂げようか?」 この全地を造り、私たち1人1人を創造なさった神様は、私たち1人1人にユニークな目的をもってお造りになりました。「どうしてもあなたと一緒に実現したい!」という熱い思いと共に、あなたをこの世に生み出したのです。それなのに、私たちはあまりにも簡単に他の人の夢に引きずられたり、自分の可能性を低く見積もって安易なゴール設定に甘んじたりします。たとえどんなに偉大な可能性を秘めていても、その本人がそれを信じることなく、逆に「自分は大した人間じゃない。とてもOOさんのようにはなれっこない。」という確信のもとに生きるなら、確かにその通りになるでしょう。 今、周りを見ることをちょっと止めてみませんか?そして『上』を、すなわち偉大な計画をもってあなたを」お造りになり、今日も身を乗り出して熱いエールを送ってくださっている神様の眼差しを見つめてみましょう。「神様、あなたは私のために、どんな計画を持っていらっしゃるのですか?」そう、祈りの中で尋ねてみましょう。そうすれば、きっとあなたが今まで思い浮かべたこともなかったような『心躍らせる夢』が、あなたの思いを喜びでいっぱいにするに違いありません。

(34) さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。

信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたがは、何1つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。 『試練』は誰の人生にもやってきます。肉体的な試練、精神的な試練、経済的な試練、人間関係における試練などなど。そのパターンは様々で、決して慣れることはありません。あるものは突然襲ってくるもの(愛する者の死であるとか)であり、逆に、ある程度の年月がかかるもの(離婚の危機や不治の病など)もあります。自分が蒔いた種を刈り取る場合もあれば、誰かの失敗の尻ぬぐいをさせられることもあります。たくさんの人がまきぞいをくうこともあれば、自分1人でじっと耐えなければならない場合もあります。 これらの『試練』は決して喜ばしいものではありませんが、しばしば私たちに「本当に大切なものは何か」を思い起こさせてくれます。私の妻は学生時代、実家が全焼してしまった経験がありますが、その時つくづく「目に見えるものはいつかは無くなるんだ」と思い知らされたそうです。そして「本当に頼るべきものは『造られたモノ』ではなく、『造られたお方』なのだ」ということを深く自覚したそうです。 苦しい目に遭っているとき、私たちはしばしば「一刻も早くこの状況から脱したい」と思うものですが、決して慌てすぎて大切なレッスンを見落としてしまわないようにしましょう。神があなたにその試練を経験することを許されたのは、そこに必ず目的があるはずです。『試練の目的』は、決して私たちを打ち倒してしまうことではなく、「成長させ、完全な者とする」ことです。ですから、もし今試練の真っ只中にいる方は、ぜひ心を落ち着けて、自分自身にこう言い聞かせてください。「私のこの試練は、神の知らないところで起こっていることではない。神はいつでも私をこの試練から救い出すことができる。しかし、その前に、まずこの試練のただ中でしか学ぶことのできない大切なレッスンをしっかりと学び取って、ひと回り成長した自分になろう!」

(33) 神である主は、人(アダム)に呼びかけ、彼に仰せられた。「あなたは、どこにいるのか。」

聖書を見る限りでは、神様が初めて発した質問は、「あなたは、どこにいるのか?」というものです。これは何もアダムが隠れるのが上手で、神様が彼を見つけられなかったわけではなく、むしろ「あなたは今の自分の状態をよく分かっているのかい?自分の本当の姿を隠すのはもうやめて、ありのままの姿でわたしの前に出ておいで。」と招いている言葉なのです。 「あなたは、どこにいるのか?」 これは私たちが立ち止まって、深く考えてみる価値のある質問です。私たちは成長過程の中で、いつの間にか「ありのままの自分の姿を隠す」ことを身に付けてしまってはいないでしょうか?他人に認められるために無理な努力に励んだり、仕事や家事に忙殺されて自分自身を見失ったり、自分の中の弱さを知られるのが怖くて周囲に堅い防壁を築いたり…。何とか隠しきれている間は良いかもしれませんが、その隠し続けている間のストレスは、私たちが想像する以上に私たちを精神的にも肉体的にも蝕んでいるものです。 私たちがいくら他人の目を騙せたとしても、いつも私たちの本当のありのままを捜しておられる方がいます。しかもそれは私たちを責めるためではなく、そのありのままを丸ごと受け入れ、愛してくださるためです。それが、私たちに命を与え、この世に送り出してくださった神様なのです。私たちがこの方の『変わらぬ愛』に信頼し、そのありのままを彼にさらけ出しながら生きるとき、自分自身の本来の価値を見出し、他の人々の前にも「自分を隠さずに」生きることができるようになるのです。

(32) 強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。

あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。 こんな面白い詩があります。「あるとても用心深い男がいた。彼は決して笑ったり遊んだりしなかった。新しいことに挑戦したり、危険を冒すようなこともしなかった。歌うことも祈ることもなかった。彼が死んだ時、保険会社は彼の保険金を支払うことを拒んだ。保険会社の言い分は次のようなものだった。『この男の人生は「生きていた」とは到底言えないものだ。それゆえ、彼の死さえ決して認識されることはない。』と。」 確かに、新たなことにチャレンジしようとする時はいつでも、幾分『恐れ』を感じるものです。事実私たちは多くの点で失敗します。恐らく失敗したことのない人など、この世に存在しないことでしょう。けれど失敗を恐れるがあまりあらゆるチャレンジを避けて生きていたら、何も得ることができないのも事実です。では、どうしたら良いのでしょう? 私たちは「失敗に対する恐れ」に捕らわれないで生きることができます!この全地を支配しておられる神に信頼を置くことによって。聖書の中には「恐れるな!」という言葉が365回も出てきます。それはあたかも神様が私たちに毎日「恐れなくていいんだよ」と声を掛けてくださっているかのようです。『恐れ』とはもともと、人が神から離れたときに悪魔によって投げ込まれた「霊的な種」です。もし私たちが神と共に歩み、その種を支配していくのでなければ、逆に『恐れ』が私たちの人生を支配するようになります。今こそ神への信頼を学びましょう。

(31) だれでも、聞くには早く、語るにはおそく、怒るにはおそいようにしなさい。

大金持ちの「ロックフェラー一族」をご存じですか?彼らは『スタンダード・オイル』という会社も経営していますが、ある時、その会社の1人の重役がミスを犯して、会社に2億円もの損害を与えてしまいました。他の重役たちは当然「あいつはきっとクビになるか、少なくとも左遷させられるだろうな」と思いました。ところが、社長のジョン・ロックフェラーは、この重役と面接する前に、彼の日頃の勤務態度の記録や、彼が今までにこの会社に与えてきた数々の利益のレポートに目を通し、結局この重役のミスを赦してやったそうです。 私たちは誰かの失敗に直面し、しかもその失敗が自分に何らかの損失を与えた場合、つい、かっとなって軽はずみな言葉を口にしがちです。でもそんな時は、まず神様の前に静まって、座り心地の良いイスに腰掛け、それからその人がいるお陰で、普段自分がどれほど助かっているかを思い起こしてみましょう。するとだんだん怒りが収まってきて、当初とは全く違った判断を下すことができるようになることでしょう。 「後悔先に立たず」ということわざがあります。私たちはこのように「怒りをコントロールする」ことによって、できるだけ「あんな軽はずみな行動を取ったばかりに、大切な友人を失ってしまった…」などと後悔することのないようにしたいものです。

(30) あなたは神と和らぎ、平和を得よ。そうすればあなたに幸いが来よう。

あるお金持ちが波止場を散歩していると、1人の漁師が舟の上でのんびりとくつろいでいるの見かけました。いかにも仕事を怠けているかのように見えるその漁師に向かって、彼はこう話しかけました。「何で漁にも出かけずに、そんなところでくつろいでいるんだ?」漁師は答えました。「いや、もう今朝のうちに十分魚が捕れたんでね。」金持ちは続けました。「だったら、もう1回出かけて行って、もっとたくさん捕まえてくればいいじゃないか。」今度は漁師が逆に尋ねました。「そんなに余計に捕まえてどうするのさ?」金持ちは答えました。「そうすれば、もっとお金が稼げて、もっと大きな舟が買えて、そうしたらもっと大きな魚を捕まえられるようになって、ドンドン儲かるじゃないか!」漁師は再び尋ねました。「そんなにお金を貯めてどうするのさ?」金持ちは鼻を鳴らしながら言いました。「もちろん、そうすればのんびりとくつろいで、俺みたいに毎日楽しく暮らせるだろ?」漁師は答えました。「じゃあ、俺が今こうしてのんびりとくつろいでいて、何が悪いんだい?」 心の安らぎや満足感というものは、2つのモノを手に入れることからやって来ます。1つ目は「優れた関係」そしてもう1つは「優れた人生の目的」です。 私たちがこの地上で持ちうる『関係』の中で最も優れているのが、この天地を造られた『神』との関係です。そして次に大切なのがあなたの『家族』との関係。この2つの関係をどのように建て上げていくかが、あなたがこの地上での人生の終わりに近づいたときに、大きくモノを言います。 また、「優れた人生の目的」も、あなたを造られた『神』と出会うことからやってきます。神はあなたを、偉大な目的に従って、この地上に送り出されました。それを見出したとき、あなたは何故自分がそのことに以前から興味があり、そのための十分な能力を持っていたかに初めて納得がいくのです。 アメリカ開拓史の中で、次のようなユーモラスな話があります。ある男がアメリカ大陸へ移民を志していた頃、次のようなウワサを耳にしました。「どうやら、アメリカって所は、道がすべて黄金で舗装されているそうだ。」彼はこの「黄金の舗装道路」を見るのを楽しみにしながら、アメリカへ渡りました。ところが、道は黄金どころか、舗装さえされていなかったそうです。彼は「皆が楽しみにしてやってくるアメリカの道路がこんなのでは良くない」と言って、道路を舗装する仕事をライフワークにした、ということです。 あなたはもう自分の『ライフワーク』を見つけましたか?もしまだなら、まず「神との関係」を築き上げてください。神はあなたを最高の『ライフワーク』へと導くことのおできになる方です。

(29) 神はへりくだる者を正しい道へと導く。

こんな人に会ったことはありませんか?どこに行くにも杖を持ち歩いて、分かれ道に出くわすたびに、その杖を高く放り投げ、その杖の先が向いた方が『神様が導いている道』と信じて進んで行く。何て信心深いことでしょう! さて、ある時1人の男性が、この「杖を持った人」がある交差点で、何回も繰り返して、上方に杖を放り投げ、落ちてはまた拾い上げて放り投げているのを見て、尋ねました。「一体何をしているんだい?」 その人は答えました。「見て分からないかい?神様がこの杖の向く方向によって、私の行くべき道を示してくれるのを待ってるんだよ。」 「なるほど、それは分かったけど、じゃあどうして、そうやって何回も放り投げているのさ?」 その人は答えました。「だって、何回やっても、杖が間違った方を指すからさ。」 この話と、あなたの人生とは、どこか共通点がありませんか?「神様がいるなら導いて欲しいけど、あくまで私がやりたい通りにさせてくれるなら…」 神様に伺いを立てながら、その答えが自分の気に入るか否かで、その助言に従うかどうかを決めるなら、一体どちらが『神様』なのでしょう?水が高いところから低いところへと流れるように、神様からの祝福も、心を低くする者へと流れ込んでくるのです。「今まで自分のやりたいように生きてきて、うまく行かなかった」というアナタ!思い切って、神があなたのために備えてくださっている道を求め始めてはいかがでしょうか?

(28) これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、

それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。 『タイタニック号』の事件をご存じですか?1912年に「決して沈むことのない安全な船」としてイギリスからニューヨークへ向かった豪華客船が、まさにその初めての航海の途上で北極海に沈没し、およそ1500名の乗客が死亡したという、実に傷ましい事故です。当初の調べでは、沈没の原因は、巨大な氷山に衝突した衝撃でできた、たった1つの大きな穴が原因ということでしたが、その後の詳しい調べによって、「1つの大きな穴」ではなく、「無数の小さな切り込み」すなわち「一見無視されそうな、致命傷に至らないようないくつもの切り込み」が本当の原因だったことが判明したそうです。 私たちはこの『タイタニック号の事故』から、私たち自身の人生を『沈没』させないための、いくつかの教訓を学ぶことができます。 まず最初は、「そんなことは、自分には決して起こらない」という思い上がりは、危険だということです。次に、「『人生の危険』は、必ずしも何か大きな事件ではなく、日常の小さな事の中に隠れている」ということ。そして最後は、1日1日の失敗の中で学んだことや他の人からの忠告をキチンと『教訓』として生かしておかないと、やがて取り返しのつかない『沈没』に至ってしまう、ということです。 実は、タイタニック号にはもともと、すべての乗客を安全に避難させるために十分な数の『救命ボート』が装備されていたのですが、「見栄えが悪い」ということで、対面を気にする乗務員の手によって外されてしまっていました。私たちにも、人生の破船が起こったときのために、初めから『神様の助けの手』が差し伸ばされているのですが、「『神様を信じて生きる』なんて、弱い人たちのすること」などと言われることを恐れて、対面を気にするがあまり、せっかくの助けを得られないでいる人々がたくさんいます。今どうぞへりくだった心で、あなたの前に提示されている『神の助けの手』にあなたの手を伸ばしてみませんか?

(27) 正しい者は、7たび倒れても、また起き上がる。

「失敗は成功のもと」と良く言われます。しかし、すべての人が失敗の経験を生かして成長しているとは言えませんよね。いったいこの「失敗の経験を生かす秘訣」というのは、何なのでしょうか? ウィルマ・ルドルフは、22人兄弟の20番目として生まれた女の子でした。貧しい黒人家庭に生まれた彼女は、幼い頃に『ポリオ』にかかりましたが、その貧しさの故にまともな治療を受けることができず、後遺症のため、9才まで補助器具を付けなければ歩けませんでした。 12才になったとき、彼女は思い切って地元のバスケットボールチームに入るためのテストを受けましたが、落ちてしまいました。それでも彼女はへこたれず、その後も毎日練習し、翌年には合格してチームに加わることができました。高校でもバスケットを続けていた彼女は、ある日陸上競技のコーチに目を留められて、短距離走のトレーニングを受けることになりました。不屈の努力が報われて奨学金が与えられ、テネシー大学に進むことができた彼女は、1960年に何と短距離走走者としてオリンピックに出場することになりました。そこには世界記録保持者の『ジュッタ・ヘイン』がいたにも関わらず、ウィルマは100メートル、200メートル、そして400メートル・リレーすべてで優勝を遂げたのです。 今ではウィルマはすっかりお婆ちゃんになってしまいましたが、相変わらず世界中を巡りながら、次のように言って、子供たちを力づけているそうです。「あなたたちにだって、驚くべきことができるのよ。あきらめないで『いつかきっとできる!』という希望を捨てずに、日々自分のベストを出し切ってさえいれば。」