(28) これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、

それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。 『タイタニック号』の事件をご存じですか?1912年に「決して沈むことのない安全な船」としてイギリスからニューヨークへ向かった豪華客船が、まさにその初めての航海の途上で北極海に沈没し、およそ1500名の乗客が死亡したという、実に傷ましい事故です。当初の調べでは、沈没の原因は、巨大な氷山に衝突した衝撃でできた、たった1つの大きな穴が原因ということでしたが、その後の詳しい調べによって、「1つの大きな穴」ではなく、「無数の小さな切り込み」すなわち「一見無視されそうな、致命傷に至らないようないくつもの切り込み」が本当の原因だったことが判明したそうです。 私たちはこの『タイタニック号の事故』から、私たち自身の人生を『沈没』させないための、いくつかの教訓を学ぶことができます。 まず最初は、「そんなことは、自分には決して起こらない」という思い上がりは、危険だということです。次に、「『人生の危険』は、必ずしも何か大きな事件ではなく、日常の小さな事の中に隠れている」ということ。そして最後は、1日1日の失敗の中で学んだことや他の人からの忠告をキチンと『教訓』として生かしておかないと、やがて取り返しのつかない『沈没』に至ってしまう、ということです。 実は、タイタニック号にはもともと、すべての乗客を安全に避難させるために十分な数の『救命ボート』が装備されていたのですが、「見栄えが悪い」ということで、対面を気にする乗務員の手によって外されてしまっていました。私たちにも、人生の破船が起こったときのために、初めから『神様の助けの手』が差し伸ばされているのですが、「『神様を信じて生きる』なんて、弱い人たちのすること」などと言われることを恐れて、対面を気にするがあまり、せっかくの助けを得られないでいる人々がたくさんいます。今どうぞへりくだった心で、あなたの前に提示されている『神の助けの手』にあなたの手を伸ばしてみませんか?

(27) 正しい者は、7たび倒れても、また起き上がる。

「失敗は成功のもと」と良く言われます。しかし、すべての人が失敗の経験を生かして成長しているとは言えませんよね。いったいこの「失敗の経験を生かす秘訣」というのは、何なのでしょうか? ウィルマ・ルドルフは、22人兄弟の20番目として生まれた女の子でした。貧しい黒人家庭に生まれた彼女は、幼い頃に『ポリオ』にかかりましたが、その貧しさの故にまともな治療を受けることができず、後遺症のため、9才まで補助器具を付けなければ歩けませんでした。 12才になったとき、彼女は思い切って地元のバスケットボールチームに入るためのテストを受けましたが、落ちてしまいました。それでも彼女はへこたれず、その後も毎日練習し、翌年には合格してチームに加わることができました。高校でもバスケットを続けていた彼女は、ある日陸上競技のコーチに目を留められて、短距離走のトレーニングを受けることになりました。不屈の努力が報われて奨学金が与えられ、テネシー大学に進むことができた彼女は、1960年に何と短距離走走者としてオリンピックに出場することになりました。そこには世界記録保持者の『ジュッタ・ヘイン』がいたにも関わらず、ウィルマは100メートル、200メートル、そして400メートル・リレーすべてで優勝を遂げたのです。 今ではウィルマはすっかりお婆ちゃんになってしまいましたが、相変わらず世界中を巡りながら、次のように言って、子供たちを力づけているそうです。「あなたたちにだって、驚くべきことができるのよ。あきらめないで『いつかきっとできる!』という希望を捨てずに、日々自分のベストを出し切ってさえいれば。」  

(26) 悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。

ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい。 聖書に「姦淫の現場で捕らえられた女性」の物語が出てきます。律法の専門家たちは「こんな女は、律法が言う通りに『石打の刑』にしてしまうべきだ!」と言います。では、イエス・キリストは何とおっしゃったのでしょうか?この女を軽蔑の眼差しで眺めていた民衆に対しては「あなたがたの中で、罪のないものがまず、彼女に石を投げなさい」と言い、人々が去ってしまった後には、この女をじっと見つめて「私もあなたを罪に定めないから、もう帰りなさい。但し、これからは2度と同じ罪を繰り返してはいけないよ。」とおっしゃいました。この女性は、その後どんな人生を辿ったか、想像に難くはありません。 「互いに励まし合い、徳を高め合う」というのは、聖書全体に流れている1つの大きな思想です。それなのに、なぜ私たちはしばしば『誉めことば』を出し惜しみしてしまうのでしょうか?また「他人の成功のために手を貸すこと」を躊躇してしまうのでしょう?恐らくほとんどの場合、その理由は単に「面倒くさい」「そんなこといちいちする必要ない」などの『自己中心性』から来るモノなのでしょう。 私たちは、人々へのちょっとした『賞賛』や『協力的態度』を現すことがどんな力を持っているか、よく分かっていないようです。それとも、「そんなに誉めてばかりいたら、奴は図に乗ってしまうよ。」などと思っているのでしょうか?世の中には、「心の病で死んでしまう人」はいても、「自惚れすぎて死んでしまう人」はほとんどいません。さあ、今日からぜひ、あなたからの励ましや誉めことばを必要としている人々を見つける旅を始めましょう!そして、それらの人々の傍らに立ち、彼らが目指しているゴールに辿り着けるように、精一杯の手助けをしてみませんか?

(25) ですから、あなたがたは、今しているとおり、互いに励まし合い、互いに徳を高め合いなさい。

ある人がセールスマンとして働き始めましたが、何ヶ月働いても一向に営業成績が上がらず、ついに上司に辞表を提出しました。しかし上司は彼の目をじっと見つめて言いました。「まだこの仕事を始めたばかりじゃないか。私はキミならきっといつかその才能を生かして、大きな仕事を成し遂げてくれると信じているんだ。もう少しだけ、一緒に頑張ってみないか?」 2年後にこの青年は、何と、この営業所でかつてない成績を上げ、全社員の前で表彰されました。表彰の席で彼は次のように述べました。「私は何度もこの会社をやめようと思ったんです。自分には全く将来性がないように思えました。しかし、私の上司は、私が自分に対して失いかけていた『信頼』を、私に対して抱き続けてくれました。彼は私が自分に対して持っていた希望よりも、何倍も強い希望で、いつも私を励まし続けてくれたのです。」 日本ではここ10年以上『自殺者数』が3万人を超えています。これらの人々の周囲に、もし上記のような上司(または友人)がいたならば、その多くは未然に防げたのではないでしょうか。私たちは、人々の『あら探し』はしても、『秘められた可能性』にはなかなか目を向けないものです。どうでしょう?今日からちょっと視点を変えて、人々の中の「磨けば光る宝石捜し」を試してみませんか?そしてまた、あなた自身がその『磨き人』の1人となることができたなら、何て素敵なことでしょう!  

(24) 心の一新によって自分を変えなさい。

“何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。” ちょっと想像力を働かせてみてください。今あなたが臨終の床にいるとします。目の前に大きなDVDのスクリーンが現れ、神があなたの名前の付いた『こんな人生を生きることもできたのに…』というタイトルのDVDを上映してくれます。「もっと人々に施していたら、更に経済的に祝福されたのに…」「もっと大胆に新たな課題にチャレンジしていたら、眠っていた潜在能力を発揮できたのに…」「もっと人々に誠実に接していたなら、豊かで真実な人間関係に恵まれたのに…」「もっと悪い習慣に正面から向き合い、悔い改めてそれらを捨てていたなら、キリストのような品性を反映しながら生きられたのに…」。 ある心理学者は言います。「世に存在する言葉の中で、最も悲しみに満ちた表現は『もっと、こうしておけば良かった…』というものである。」 しかし、忘れないでください。私たちにまだ息があるのなら、この「こうしておけば良かった…」を「こうしておいて良かった!」に変えるチャンスがあるのです!そうです、ぜひ今少しの時間立ち止まって「後で後悔しないで済むために、今何ができるだろうか?」と自問自答してみてください。神様があなたに与えてくださっている才能や使命を、くだらないことに費やしてしまってはいませんか?また、自分が人生から学んだ貴重なレッスンを、自分の利益のためだけに独り占めしてしまってはいませんか? もしあなたが心からそう望むなら、あなたの人生はたった今から全く新しいものへと変わることができるのです。

(23) わたしは、人が見るようには見ないからだ。

「やはり所詮私には無理だったんだ…」そのような挫折感・敗北感にさいなまれている方はいませんか?または、そのような人々を周囲にご覧になっている方は? イエスは挫折している人々を『敗北者』としてはご覧にならず『勝利への道を見失っている者』とご覧になります。5回も結婚と離婚を繰り返していた女性をご覧になり、「神の慰めを受け、他の人々を慰めることができるようになる者」とみなします。盲人をご覧になり、「やがて見えるようになる者」とみなします。悪い習慣に捕らわれている人々をご覧になり、「脱出の道を捜している者たち」と捉えます。せっかく貯めた財産を、一見無駄な使い道に費やしている人をご覧になり、「尊い犠牲を払う者」とみなします。そして、あざけりの言葉を投げかけながら自分を十字架に釘付けにしているローマの兵士たちをご覧になりながら、「自分が何をしているのか分からない、赦されるべき罪人」とみなされたのです。 このイエスと出会うまでは、誰も自分の真価に気付くことはできません。ですから、どうぞ人々(自分のことも含めて)に対して『早まった評価』を下さないようにしましょう。そして「神はこの人をどのような目でご覧になっているのだろう?」と心に問うてみてください。私たちは皆『神の作品である』と聖書は言っています。だからこそ、神は私たち1人1人から『最高の結果』を引き出すことを願っており、またそれを実現することのできる方なのです。もし私たちがそれを期待しつつ、神に近づこうとするならば。  

(22) あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行いをしなさい。

「慌ててワイシャツのボタンを留めていたら、1つずつズレてしまって、最後の1つが合わなくなってしまった…」そんな経験はありませんか?あなたはその時どうしましたか?「もう時間がないから、そのまま出かけてしまった」などという人はあまりいないでしょう。きっと1度全部外して、もう1度慎重に良く確認しながら、キチンとボタンを留めていくはずです。 ところが、これがもう少し複雑なモノ(もっと時間がかかるモノ)だったとしたら、どうでしょうか?「やっと編み終わりそうだった『手編みのマフラー』」とか、「数年前に借りて、返すのを忘れてしまっていた『友人の本』(友だちは引っ越してしまって、引っ越し先を調べなければならないとしたら…)」、そしてまた「何年も前にできてしまった(夫婦や親子などの)『人間関係の溝』」などなど…。思わず「見なかったことにしよう」「今更何ができるって言うんだい!」そう思いたくなってしまうのも無理ないかもしれません。 しかし、マーカス・アウレリウス博士はこう言っています。「『過ち』とは、多くの場合、『してしまった』ことではない。それは、『すべきことをしていない』ことである。」 ある意味「してしまったこと」はもう取り消すことはできません。しかし「しはぐっていること」は今からでもまだチャンスがあります。あなたが臨終の床に就いたときに「ああ、あのことをやり遂げておくんだった!」と後悔するよりも、さあ、今からでも間に合います。悔い改めて(再決心して)立ち上がり、新たな前進のために、初めに戻りましょう!

(21) 人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる。

ある親子がロバを連れて旅をしていました。すると通りがかりの人が言いました。「何てもったいない!せっかくロバを連れているのに、誰も乗っていないなんて。」父親は「それもそうだ」と思い、息子を乗せて旅を続けました。すると別の通りがかりの人が言いました。「何て息子だ。自分1人ロバに乗って、父親を歩かせておくなんて。」息子は恥ずかしくなり、自分は降りて、代わりに父親をロバに乗せました。しばらくすると、また別の通りがかりの人が言いました。「何て父親だ。自分1人ロバに乗って、息子を歩かせておくなんて。」今度は父親が恥ずかしくなり、相談の結果、2人ともロバに乗ることにしました。すると今度は、別の通りがかりの人が言いました。「まあ、何てこと!あんなひ弱なロバに、人が2人も乗っているなんて!」親子は途方に暮れてしまって、とうとう終いには2人でロバをかついで旅を続けたそうです! 果たして私たちは「バカな親子だ」と笑えるでしょうか?私たちは皆、多かれ少なかれ「他人の視線や言葉を恐れる性質」をもっています。もちろん、周囲の人々に気を配ることは大切ですが、それに振り回されて自分を見失ってしまうのは愚かなことです。 真に周囲の人々に気を配り、必要な助けを与えることのできる人、それは「人の目を恐れず、日々自分のありのままを受け入れてくださっている神の愛を、心の拠り所として抱いている人」なのです。

(20) わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、私はあなたがたに模範を示したのです。

『学ぶ』という言葉は、『倣ぶ』という言葉から来たと言われています。すなわち、もともと人間は物事(特に『人生』)について、学校で『学んだ』のではなく、身近な人(主に親)がしているのを見て、それを真似ながら身に付けていったわけです。 これは何も昔の話だけではありません。現代でも同様のことが起こっています。「子は親の言うことは行わないが、やることは真似する」と言われている通りです。ですから私たち(特に子を持つ親)は、後の世代に良いものを伝えていくために『良き模範』とならなければいけませんよね。では、私たちは特にどのようなものを後の世代に残していったら良いのでしょう? 2つのことが言えます。1つは「正直さ」です。残念ながら、私たちは誰1人『完璧な模範』となることはできません。それはイエス・キリストお1人で十分です。人々が私たちに期待するのは「正直な姿勢」です。残念ながら間違いを犯してしまった時、それを隠そうとしたり、「だってOOのせいで…」などと弁解しようとするのではなく、「ごめんなさい。私が悪いんです」と過ちを素直に認める姿勢を示すならば、彼らはきっと「過ちを赦す心」「失敗を恐れずチャレンジする勇気」「間違いを認める謙遜さ」を学ぶことでしょう。 もう1つは「肯定的な姿勢」です。ある調査によると、親が子供に語る言葉の90%は『否定的な言葉』だそうです。「何度言ったら分かるんだい」「どうしてお前はいつもそうなんだい」「ちっとは頭を使ったらどうだい?」などなど、あなたも心当たりがありますか?一方「肯定的姿勢」は、人々の秘められた可能性を見出し、彼らにそれを気付かせ、励まし、それらの才能が更に開発されるよう、具体的な助けを与えるのです。これらの人は次のように言います。「大丈夫」「あきらめちゃダメ」「あなたならきっとできる!」 人生に困難はつきものです。必ず何度かは、心がくじけてしまいそうな時がやってきます。そんな時、上記の2つのような模範によって育まれ成長した人々は、何と幸いなことでしょうか。

(19) 人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。

あなたは今朝どんなことを考えながら目覚めましたか?「やった!また新しい1日が始まる。今日はどんな素晴らしいことが待っているのだろう?」と希望に満ち溢れて目覚めましたか?それとも「あ~あ、また朝が来ちゃった。起きたくないなぁ。また1日生きなくちゃならないのかぁ…」と憂鬱な気分で目覚めたのでしょうか? 実は、私は毎朝ワクワクしながら目覚めます。もちろん今クライストチャーチは冬なので、なかなか布団から出たくないのも事実ですが、それでも元気よく目覚めることができるのは、私が愛する人々に囲まれて生きているからです。最愛の妻、子供たち、そして教会の1人1人のメンバー。どの顔を思い浮かべても、私を笑顔にしてくれます。それは彼らが私に何かをしてくれるからではなく、私の内側から「今日も彼らの役に立ちたい!」という思いが溢れ、エネルギーが湧いて来るからです。 私は1日を、これらの人々の祝福のために祈ることから始めます。するとあっという間に1時間くらい経ってしまいます。でもそれは決して無駄な時間ではなく、むしろ私にとって『至福の時』だと言えます。たとえその日直接それらの人々に会える機会がなくても、少なくとも私は祈りの中で、神様を交えて、その人々に会ったのですから。 私は「この『愛』こそが、人を毎朝目覚めさせるための真の活力だ」と思うのです。私たちの日々の生活を充実したモノにしてくれるのは「活動そのもの」ではなく、「それらの活力の源」となるべき『愛』なのです。ただタスクだけをこなす「愛のない日々」は味気ないものです。そしてこの『愛』は、必ずしも「愛らしい人々が周りにいる」ことから来るのではなく、「愛に溢れたお方とつながっている」ことから始まります。私たちをこの『愛』に目覚めさせるために、イエスはこの地上に来られ、十字架の上から「私たちへの熱い愛」を注がれたのです。